あなたの人生は渇いた人生ではありませんか?職場にて、学校にて、家庭にて、あなたには満足と潤いと喜びがあるでしょうか? 聖書は『祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(ヨハネ7:37-38)』と述べています。あなたの喜びの時である「祭り」の時は時間の経過と共に必ず終わりが来ます。しかし、永遠の神であるイエスを受け入れる者の喜びは、生ける水の川々として内側から湧き上がり続けます。あなたも共にこの様な湧き上がる喜びの時を楽しんでみませんか?調布に在る教会はあなたを喜びに満ちた集会にご招待します。ご連絡はこちらのフォームからどうぞ。ご参加をお待ちしております。

渇いている人の必要

ヨハネ7:37-39 祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」。イエスはこれを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである.まだイエスの栄光が現されていなかったので、その霊はまだなかったからである。

人生の快楽には終わりがあります

 主イエスが彼らにこれらのことを語られたのは、祭りの終わりの大事な日でした。この祭りは彼らにとって一年中で一番終わりの大事な日であり、最大の一日であり、また最も楽しい一日でもあったのです。単に祭りの終わりの日であるばかりでなく、一年中のすべての祭りの最後み日でもありました。言い換えますと、この日が過ぎると一年中のすべての祭りもみな過ぎてしまい、この一日の楽しみが過ぎてしまう時には一年中のすべての楽しみも過ぎてしまうということにもなるのです。

 祭りは楽しい日であり、人生の楽しい時を象徴しています。ですから祭りの終わりの日とは、人生の快楽の終結を象徴しているのです。ちょうど祭りに終わりがあるように、人生の楽しみにも終点があります。人生の快楽が何であろうとまたどれほど多くあろうとも、それには一つの終点があり、やがて終わりの一日が来るのです。中国でよく言う言葉があります、「いいことは常にあるものではない」。人が最高峰に到達した時、それは人間の幸福が尽きる時です。

 どんなことにも終わりの日があります。ある人は大学に入って四年あるいは七年、八年いろいろと苦労したあげくようやく卒業ということになると、当然それが一番楽しい時であるはずです。しかし卒業式を経過した人はみなその卒業式の楽しみはたちまち消えてしまうものだということを知っています。麗しく円満な結婚も始めのうちは実に楽しいものですが、この楽しみにもやはり終わりの日があるものです。円満な家庭にも死から来る終わりの日があるのです。最も盛んな事業にも没落する日があります。最も長生きの人にもこの世を離れる日があるのです。一枚の美しい着物、一つの装飾品にも終わりの日があります。

 終わりの日と渇きとはつながりがあります。終わりの日に人々は順境から逆境に移されます。終わりの日には人生は渇いてしまいます。人生の喜びが終わりに達するとき、人はたちまち渇きを覚えます 愛するみなさん、人生の喜び、人生の楽しみ、人生の幸福にーつとして終わりのないものはありません。多くのことは、人の喜びが大きければ大きいほど、高ければ高いほど、深ければ深いほど、濃厚であれば濃厚であるほど、その終わりの日の渇きの感覚が一層重いものであることをわたしたちに証明して見せています。その日、主イエスが祭りの終わりの日まで待たれてから、はじめてこの祭りで楽しんでいる人たちに渇きの問題を持ち掛けられたのはこのためでした。彼らはそこでハ日間の祭りを過ごしました。始めの二、三日は、始まったばかりでみんな大いに興奮してだれも渇きを覚える者などありません。三日目、四日目、その楽しさが最も濃厚な時には渇きを覚える者はありません。ところが五日目、六日目にはいくらか味が違ってきます。そして、ああ、八日目になると、それが最も楽しい日であるはずなのに、それはまた一番過ごし難い日でもあったのです。祭りの終わりの日がついにやってきました。喜びがおしまいになり、興奮もなくなってしまう日、より深い、より強烈な渇きが内側から自然に起こってきます。このような時、主イエスは立って叫んでー言われたのです、「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい」。

 わたしは子供の時、非常に芝居が好きでしたし、またバスケットボールの試合を見るのもとても好きでした。毎回、芝居を見に行く時には、いつもうれしくて興奮したものでした。もし夜の芝居に行くとなると、もう夕食はどうでもよくなり、全身の神経がすっかり緊張してくるのです。劇場に入り芝居が始まるのを待つ間、心はうれしくてまるで雲がわき上がり霧が立ち上る有り様でした。幕が上がったとたん、心はすっかり劇の中に飛び込んで、それこそ有頂天になってしまうのでした。ところがだんだん劇が半ばまで進むと、心の中の味が違ってきて芝居が終わるのが心配でたまらなくなるのです。そして最後の一場面が終わった時には、そこに座っているわたしの心の味わいは実に嫌なものでした。

バスケットボールの試合を見るのも同じでした。例えばバスケットボールの試合は一試合ごとに四プレーあって、やはり始まったころは興奮しますが、第四プレーになってくるともう気持ちが悪くなるのでした。それは祭りが終わりの日になったその時こそ、だれでも一番容易に渇きを覚えるからなのです。

 主イエスはこれを知っておられたので、はじめの数日は何も言われず、祭りの終わりの日になってから、はじめて立って叫んで言われたのでした、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。わたしたちが今日、福音を伝えるのもこれと同じです。人が結婚式を行なっている最中に行って、二人に福音を宣べ伝えても彼らは決して聞き入れないでしょう。なぜなら彼らにとって結婚の楽しさはまさに絶頂で、最高点に達しているからです。ところがいつかは彼らの結婚にも終わりの日が来るのです。その時にこそ彼らは渇くのであって、もしその時に福音を伝えたならば、彼らは喜んで受け入れることでしょう。

 ちょうどハ、九年前、南京に一人の年若い婦人がいて彼女とその夫とは大学卒業後、間もなく結婚しました。彼らの新婚家庭のすばらしさは言うまでもありませんでした。確か結婚後五日目か六日目でしたが、二人は南京城外の玄武湖へ遊びに行きました。ところがその夫のほうはあまりにも浮かれていたのでしょうか、湖のほとりの城壁に駆け上り城壁の上から下の方を見下ろした時、ちょつと心を緩めたとたん、湖の中に落ちて死んでしまったのです。その婦人が家に帰ってからはどんな日々であったと思いますか。これは実に彼らの結婚の喜びが終わりの日に至ったのだと言えます。ですからその時になって、わたしたち主を信じている者が主イエスの御言葉を彼女に伝えました、「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい」と。

 わたしはまた二十年ほど前、河南へ伝道に行った時、あるクリスチャンの家に泊まったことがあります。この家の夫婦は非常に有能で、二人ともアメリカから帰った留学生でした。彼らはアメリカから帰って来たばかりで結婚し、その当時は、いちずにこの世の幸福を追求し、物質の享楽に泥酔して全然イエスなど必要がありませんでした。やがて子供が生まれました。それはそれは大事にし全く心をその子に奮われていました。ところがある日、その子が外へ遊びに出かけ、一つの橋を渡ろうとした時に、不注意から川の中に落ち、おぼれ死んでしまつたのです。その時の彼らの心の痛み悲しみはどんなであったでしょう。この突然の出来事に二人は無言のまま向かい合って、ただ涙に暮れて、食べることも寝ることもできませんでした。彼らは何をする気持ちにもなれず、遠くへ旅行に出かけ、そこでクリスチャンに出会ったのです。そのクリスチャンは彼らと同じように子供を溺死させてしまい、その後、主を信じた人でした。彼らはこのクリスチャンの証しを聞き、やはり悔い改めて主イエスを受け入れました。

 多くの人たちが主を信じるのは、みなこのような終わりの日です。人がまさに喜び楽しんでいる時は、なかなか福音を受け入れることができません。福音の言葉が心の中に落ちても、なかなか作用を起こしにくいのです。そして彼の喜びが尽きた時、彼らの楽しみが終わりになった時、やっと渇きを覚えて、かつて聞いた福音を思い出し受け入れるのです。

 愛するみなさん、わたしは大声で叫びたいと思います、「人生の快楽とさまざまな享楽にはやがて終点があるのです」と。いつかは必ずあなたの喜びあなたの楽しみにも終わりの日が来るのです。その時こそあなたか渇きを覚える時なのです。それはまたあなたが主イエスを受け入れる時なのです。多くの偉い人たちは高い地位に就いていて順調に楽しんでいる時には、福音を聞いても少しも必要を感じません。ところが病床に横たわるようになる時、死の門口に近づいた時、はじめて人生の快楽が終わりの日に到達したのを感じて、ようやくキリストを求めるようになるのです。

 ところが愛するみなさん、わたしたちはこのように申しましても、決してあなたが人生の楽しみが終点に至ってようやく主イエスを信じることを望まないものです。主イエスを信じている者の中で、信じるのがあまりにも遅すぎたと思わない者はー人もいません。事すべてが終わりになってから信じた者ほど一層遅すぎたと感じるものです。ですから信じるならば、それは今日であるべきです。あなたの人生は渇くものであるということを覚えなければなりません。あなたは聡明であるべきです。そして現在、やがて来たるべき終わりの日を見通すべきです。その終わりの日が来てからようやく主を尋ねるのではあまりにも遅いのです。もちろんその時になってからでも、信じないよりはよいのですが、その終わりの日が来る前に主を求めること、このほうがさらによいのです。

抜粋:ウオッチマン・ニー、ウイットネス・リー「福音メッセージ集 第二集」、JGW日本福音書房