神は人にとって水であり、空気であり、食物である

かつて主イエスが地上にいたとき、祭りの終わりの日に、群衆の間に立って、叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」(ヨハネ七・三七)。なぜ彼は祭りの終わりの日まで待ってから、立ち上がり、この言葉を語ったのでしょうか? なぜなら、むなしい感覚が来たのは、祭りの終わりの日、すなわち人々が数日間楽しんで、まさにその場を立ち去ろうとしている時であったからです。その時、イエスは立ち上がり、叫んで言われました、「わたしの中へと信じる者は……その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(三八節)。ここで述べられている「生ける水」も「最も内なる所」も、いずれも比喩であって、この命の霊としての救い主が、わたしたちの渇きをいやす生ける水としてわたしたちの中に入りたいということを指しています。

それだけでなく、今日わたしたちの主は「息」でもあります。死と復活を経過した後、彼は弟子たちの間に戻って来て、彼らの中に息を吹き込んで言われました、「聖霊を受けよ」(二〇・二二)。「霊」のギリシャ語と「息」のギリシャ語は同じです。ですから、ここの個所は「聖なる息を受けよ」と訳してもよいのです。わたしたちの主、わたしたちの神は、わたしたちにとって空気のようです。今日、万物は、この命の息に依存することによって存在しています。もし空気がなければ、あらゆる生物は生きていることができません。空気はしるしにすぎませんが、主イエスはその実際です。彼は真の空気です。主はわたしたちの中に入りたいのです。真の命として彼はわたしたちの中に入って、わたしたちの内側のむなしさの問題を解決します。わたしたちが内側でキリストに満たされるとき、はじめてわたしたちの人生に望みがあるようになります。

主イエスはわたしたちの渇きをいやす命の水であるだけではありません。彼はまた真の命の息としてわたしたちの中に入って、わたしたちのむなしさを取り去るだけではありません。彼はわたしたちの命のパンでもあります。それは、彼を食べるわたしたちがもはや決して飢えることがないためです。主イエスが地上におられたとき、彼は人々に言われました、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(六・三五)。人類歴史上、どのような本の著者も、あえてそのような言葉を言った人はいませんでした。だれが次のような言葉を語ることができるでしょう、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」、「わたしの中へと信じる者は……その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」。そのような言葉を語ることができるのは、宇宙を創造した神だけです。

抜粋:ウイットネス・リー「宇宙の奥義と人生の意義」、JGW日本福音書房

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