神の命が人の中に入り、人を通して表現される

ある時、福音を宣べ伝えていると、一人の裁判官がやって来て、わたしに言いました、「わたしはあなたが宣べ伝えている救い主を受け入れたいのですが、どうしてよいのかわかりません」。わたしは彼にも同じことを言いました。わたしは彼に静かな場所を見つけて、主イエスの御名を呼ぶように言うと、彼はわたしが言ったとおりにしました。翌朝彼が裁判所に向かって歩いていたとき、大空も大地も突然その色が変わったと感じました。彼は笑わずにいられませんでした。彼が職場に着くと、同僚たちは彼が以前と違ってほほ笑んでいるのに気づき、彼に尋ねました、「どうかしたのですか? 宝くじでも当たったのですか?」。彼は自分にも何が起こったのか分からなくて、ただ笑うしかありませんでした。家に帰ると、妻も彼を見て尋ねました、「どうかしたのですか?」。彼は自分が別人にでもなってしまったかのように感じました。彼は本当に内側で言い知れぬ喜びを感じていたのです。それから間もなくして、彼は裁判官の職を捨てて伝道者となり、自分が得た命を他の人たちに分け与えました。

わたしはこれら二つの例を挙げて、わたしたちの人生が神のためであることを示しました。わたしたちが生きる目的は、命として神をわたしたちの中に受け入れることです。このようにして、はじめてわたしたちはもはや人生のむなしさを感じなくなるでしょう。新約聖書に、パウロと呼ばれる使徒がいます。彼はコロサイ人への手紙第三章四節で、キリストは命であると言いました。彼はまたガラテヤ人への手紙第二章二〇節で言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。それだけでなく、彼はまたピリピ人への手紙第一章二〇節後半と二一節前半で言いました、「かえっていつものように……生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり」。これらの言葉は訳が分からず理解しにくいように思えます。わたしたちにとって生きることはキリストであるということが、どうして可能なのでしょうか? ところが神は、性質上これを例証するために、あるものを用意されました。それは接ぎ木です。

植物学で接ぎ木とは、二本の木を結び付けることを意味します。農夫は、甘い実をならせる枝を酸っぱい実をならせる枝に接ぎ木して、甘い実をならせる木の命が酸っぱい実をならせる木の中に入り、酸っぱい実をならせる木の命が甘い実をならせる木の中に入るようにさせます。最終的に、これら二本の木は共に結び合わされて一つの命となります。そのようにして生じた実は、酸っぱい実をならせる木を通して現される甘い木の表現です。酸っぱい実をならせる木にとって、甘い実をならせる木がその命であって、生きているのはもはや酸っぱい実をならせる木ではありません。甘い実をならせる木がその中に生きているのです。もし酸っぱい実をならせる木に語る口があるとすれば、こう言うことでしょう、「風が吹き、霜が降り、雨が降り、雪が降っても、今なお、いつものように甘い実をならせる木がわたしの体において大きく表現されるでしょう」。これがクリスチャン生活です。

これは浅い福音ではありません。これは奥義ですが、聖書の単純な真理です。わたしたちはただ心を開いて、彼の御名を呼び、「主イエスよ、わたしはあなたを信じます。わたしはあなたを受け入れたいです」と言いさえすれば良いのです。このようにして、あなたはこの宇宙の不滅の救い主を得ることができます。そして彼はあなたの中であなたの命となられるでしょう。

抜粋:ウイットネス・リー「宇宙の奥義と人生の意義」、JGW日本福音書房

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