【聖書通読】イザヤ書第8回:7章全部(1-25)

通読範囲

イザヤ書7章(1-25)

アウトライン(『旧約ライフスタディ:イザヤ書(1)』より)

第7章で、ユダの王、アハズはアラムの王レヂンとイスラエルの王ペカに対する恐れの下にありました。エホバはイザヤをアハズに遣わし、次のような言葉を言わせ、アハズを力づけます。「気をつけて、静かにしていなさい、恐れてはならない. . . .」(4節)そして、最後に神はイザヤに「もし、あなたが信じないなら、確かに立ち続けることはない」(9節)と言わせます。この言葉は、立つためには、信仰が必要であることを示しています。エホバは、アハズが一つのしるしを求めることを願われました(10-25節)。しかし、アハズはそれを求めようとはしませんでした(12節)。そこで、エホバはアハズにキリストの肉体となることのしるしを与えられました。このしるしはイザヤの妻が男の子を産んだことにより成就します(8章3節)。そして、この子はバターと蜜を食べ、いかに悪を捨て、善を選ぶかを知るに至ります(15節)。これは神が、北東のアッシリアから軍隊を送って、アハズが恐れていたアラムの王とイスラエルの王を対処し、この二人の王の地(ユダの地)が、アッシリアの王によって捨てられ、荒らされ、破壊されることの背後にも神の御手があることを示しています(82-87)。

交わった節:1

イザヤ書7章14節(回復訳旧約聖書)

それゆえ、主自ら、あんたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもって男の子を産む。そして彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶ。

解説

インマヌエルとは、「神われらと共にいます」を意味します。このしるしの実際の成就は、イザヤの妻によって男の子が生まれることでした(8:3)。その究極の成就は神が肉体となることであり、イエス・キリストが二重の性質(神性と人性)を持つ男の子として処女マリアから生まれ、インマヌエル、すなわち「神われらと共にいます」をもたらし、神の民(イスラエルと召会を含む)の救いとなりました(マタイ1:20-23とフットノート)。キリスト、神・人、神と人のミングリングはエホバの若枝また地の実であり(4:2)、インマヌエル、神われらと共にいますです。(マタイ18:20. 28:20)。インマヌエルは全てを含みます。彼はまずわたしたちの救い主であり(ルカ1:29)、命を与える方(Iコリンと15:45後半)、全てを含む、内住の霊です。実は、新約全体の内容はインマヌエルであり、キリストにある全ての信者は、キリストの肢体として、この大いなるインマヌエル、団体のキリストの一部分です。インマヌエルのしるしは新エルサレムにおいて究極的に完成し、それはインマヌエルの集大成、神われらと共にいますの総合計となります(回復訳旧約聖書 イザヤ書7章14節フットノート1)。

交わった節:2

イザヤ書7章17節(回復訳旧約聖書)

エホバは、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日から、かつてなかったような日をもたらされる。彼はアッシリアの王をあなたがたにもたらされる。

解説

アッシリアの王の軍隊の侵入後、「エホバはエジブトの川々の果てにいるはえ(兵卒を表徴)と、アッシリアの地にいる蜂(兵卒を表徴)に口笛を吹かれ」(7:18)、兵卒たちはユダの地の様々な場所に住み着きます。また、「主はあの川の向こうから雇ったかみそり、すなわち、アッシリアの王をもって、頭と足の毛とをそり、また髭も取り除」きます(7:20)。ここで頭の毛は栄光を表徴し、体の他の部分の毛は力を表徴し、髭は自尊を表徴しますが、アッシリアの王の「かみそり」によってユダの栄光、力、自尊は取り除かれます。そして、その地の残された全ての人は「バターと蜜を食べる」ようになります(7:22)。その結果、ぶどう園、全地、全ての丘に薔薇とあざみが生え、牛が歩き回り、羊が踏みつけるのには良いのですが、収穫物が成長して、民の食物である穀物を産み出すには適さない地となり、ユダの地は荒廃し、破壊されます(『旧約ライフスタディ:イザヤ書(1)』84-86)。

ディスカッション

  1. なぜ、神はインマヌエルのしるしをアハズに与えたのでしょうか?
  2. 7章の最後に、ユダの地は荒廃してしまいます。なぜだと思いますか?

2020年7月22日のディスカッション

7章には、様々な比喩が出てくるため「とても分かりにくい」という意見が出ました。その一方で、本章に登場した「インマヌエルのしるし」のように、旧約聖書と新約聖書が分かち難く結びついていることを示す表現もあり、「旧約聖書は新約聖書を理解するのに欠かせない存在だと感じられる」という意見も出ました。さらに、過去にイエス・キリストも旧約聖書を読んで、自分が何者なのかということを、認識していったのだという事実にも話がおよび、ディスカッションがもり上がりました。聖書には、確かに理解が難しい側面がありますが、それはわたしたちが信仰を増し加え、主から知恵を与えられることによって解決されます。また、神の視点を徐々に与えられることによって、人間の歴史の中に神の動きがあることも認識できるようになります。聖書通読を通して、神の知恵が与えられ、さらに神の視点を与えられたいとますます願わされました。