【聖書通読】イザヤ書第10回:9章全部(1~21)

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通読範囲

イザヤ書9章(1~21)

アウトライン(『旧約ライフスタディ:イザヤ書(1)』より)

第9章1~7節では、大いなる光また不思議な方としてのキリストを明らかに示すことが、イスラエルの王国に対するエホバの懲らしめと、アッシリアに対する彼の裁きから出てくることが記されています(98)。

交わった節:1

イザヤ書9章1~2節(回復訳旧約聖書)

しかし、苦しみがあった所に、暗黒がなくなる。先に、彼はゼブルンの地とナフタリの地を軽蔑をもって取り扱われたが、後には、海の道、ヨルダン川の向こう、諸国民のガリラヤを、栄光をもって取り扱われる。暗闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。死の影の地に住む者たちの上に光が照り輝いた。

解説

ここに述べられている海は、ガリラヤの海です。主は今や、「海の道」と呼ばれたこの世の一部を、栄光をもって取り扱われます。世のこの部分は、「諸国民のガリラヤ」とも呼ばれます(『旧約ライフスタディ:イザヤ書(1)』99)。ガリラヤは、ユダヤ人と異邦人が雑居していた地でした。ですからそれは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、正統派のユダヤ人から蔑まれていた地でした(ヨハネ7:14,52)。新しく立てられた王は、天の王国のための王の務めを、そのような蔑まれていた地で開始されました。そこは、威厳ある首都エルサレムと正当な宗教の中心である聖なる宮から遠く離れた所でした。これは、新しく油塗られた王の務めが、天的王国のためであって、ダビデの地的王国(メシア王国)とは異なっていたことを暗示します(回復訳旧約聖書 マタイ4章15節フットノート1)。また、キリストに従う者たちの最初のグループ、神の新約の選びの民の初まり、使徒行伝第1章と第2章における120人は、全てガリラヤからでした(使徒2:7)。これは、召会の源もこの蔑まれた地、ガリラヤであったことを示しています。
ここに記されている予言はマタイ4章12節から16節で成就されました。その時キリストは大いなる光、すなわち真の光、命の光としてガリラヤに来て、暗闇の中を歩んでいた民、死の影の中に住んでいた民を照らしました。キリストが大いなる神の民を照らすことは、彼らを死の影から救い、暗闇の束縛から解放し、彼らの上にあったくびきを砕き、彼らの敵を彼らの武具と共に滅ぼします(回復訳旧約聖書 イザヤ書9章2節フットノート1)。

交わった節:2

イザヤ書9章6~7節(回復訳旧約聖書)

一人のみどりごがわたしたちに生まれる。一人の男の子がわたしたちに与えられる。主権は彼の肩にある。そして彼の名は、「不思議な助言者、大能の神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。彼の主権は増し加わり、彼の主権と平和は限りなく、ダビデの座で彼の王国を治め、公正と義の中で、今より永遠に、それを堅く立て、それを支える。万軍のエホバの熱心がこれを成し遂げる。

解説

人の処女から生まれるみどりご(7:14)は、永遠の父によって与えられる男の子です。キリストは神性と人性から生まれたみどりごであり(マタイ1:20~23)、永遠の父によって与えられた神性における男の子でもあります。神性と人生のみどりごの誕生を通して、永遠の父は彼の神聖な男の子を、賜物としてわたしたちに与えました。そのように与えることを通して、この愛すべき男の子を信じる、すなわち受け入れるすべての者は、永遠の命を受けます(ヨハネ3:16. Iヨハネ5:11-12)。「わたしたちに」という句は、特にそれを繰り返していることは、このせつに啓示されているキリストのあらゆる面が、わたしたちの個人的で主観的な経験であることを、強調して示しています。例えば、キリストは「不思議な助言者」と記されていますが、彼はわたしたちに助言を与え、「大能の神」として、力また強さであって、助言を完成します。また、主にわたしたちの内側で支配することによって「平和の君」でもあります(回復訳旧約聖書 イザヤ書8章6節フットノート1~6)。
創世記第11章で人類が彼らの主権者としての神を放棄し、彼ら自身を主権者とした時から、主権は人にとって大きな問題でした。しかし、復興が来るとき、キリストは唯一の主権者となり、三一の神の主権は彼の肩にあります。この主権は増し加わり、池の隅々を満たし、地が平安で満ちるようにします。キリストがダビデの座で彼の王国を治めることは、まず、千年期においてであり、次に新天新地においてであって、永遠に至ります(回復訳旧約聖書 イザヤ書8章7節フットノート1~2)。

 

交わった節:3

イザヤ書9章8~11節(回復訳旧約聖書)

主はヤコブに一つの言葉を送られた。それはイスラエルの上に下る。すべての民、エフライムとサマリアの住民とはそれを知り、心に高ぶり思いあがって言う、「れんがが崩れ落ちても、われわれは切り石で建てよう。イチジク桑の木が切り倒されても、その所を香柏で置き換えよう」。

解説

イザヤ第9章8節から第10章34節は、しいたげられた者、イスラエルの王国と、しいたげる者、アッシリアの王国が、いずれも神の裁きの下にあったことを見せています。この二つの裁きは、実は一つです。ソロモンの時代の後、イスラエルの国は北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分かれました(列王上11:26~12:20)。イスラエルの王国が堕落して、異邦の諸国民の水準にまでなり、アラムの王と同盟さえしたので、イスラエルは神の懲らしめの下にあっただけでなく、彼の裁きの下にもありました。イスラエル(エフライムー9節)に対する神の懲らしめは、イスラエルに対する彼の裁きとなりました。(回復訳旧約聖書 イザヤ書9章8節フットノート1)。

 

ディスカッション

  1. ガリラヤは、どのような場所でしたか?なぜ、キリストはガリラヤに来られたのだと思いますか?
  2. キリストがダビデの座で彼の王国を治める日はいつ来ると考えられるでしょうか?
  3. イザヤ第9章10節でイスラエルの民は「れんがが崩れ落ちても、われわれは切り石で建てよう。いちじく桑の木が切り倒されても、そのところを香柏で置き換えよう」と言いますが、この言葉は、イスラエルの民がどのような状態にあることを示していますか?

2020年8月5日の交わりを終えて

この章に出てくるイスラエルの民の状況は、現代人の状況と重なるのではないかという意見が出ました。しかし、当時、イスラエルの民は、エホバの願っていた方法では無かったとしてもエホバを信じていたのだから、神への信仰をほとんど失ってしまった現代人の方がイスラエルの民よりも、もっと悪質なのではないか、という意見が出ました。

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