2025-09-28 | 初信者成就シリーズ
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わたしたちが正常なクリスチャンとなるためには、あらゆる基本的な問題を正確に対処しなければなりません。家庭であれ、職業であれ、対処されていない基本的な問題が一つでもあれば、後になって多くの問題が生じてきます。
今回の記事では「結婚」について交わりたいと思います。初信者の兄弟たちは、結婚について主の御言葉がどのように語っているのかを知る必要があります。「結婚」について各方面から見ていきましょう。
Ⅰ. 結婚は聖なるものである
結婚について解決すべき第一の問題は、性の感覚です。人には空腹の感覚があるのと同じく、性の感覚もあるということを、はっきりさせる必要があります。空腹が体の自然な要求であるなら、性の感覚も体の自然の要求です。人に空腹感があるのは、自然なことであり、罪ではありません。しかし、人が物を盗んで食べるのは、罪であって、自然なことではありません。同じように、人に性の感覚があるのは、自然なことであって、罪ではありません。しかし、人が不当な手段をもって自分の要求を満たそうとする時、罪に陥るのです。
人が結婚することは神が定められたことであり、神が始められたことであることを、わたしたちは見る必要があります。ですから性の感覚も神が人に与えられたものです。結婚が定められたのは、人が罪を犯した後ではなく、罪を犯す前です。結婚は創世記第2章で定められたのであり、罪は創世記第3章によって入り込みました。ですから、性の感覚には罪の成分はありません。そればかりか、この感覚は神ご自身が創造されたものなのです。
多くの若い兄弟姉妹が結婚の問題で煩わされています。それは彼らが神の定めを知らず、神の御言葉について明らかでないため、理由もなく良心の訴えを受け入れてしまうのです。彼らは性の感覚があると罪だと思い、この欲求が起こると罪だと思ってしまうのです。
ヘブル人への手紙第13章4節では、「すべての人の間で結婚が尊ばれるようにしなさい」と言っています。結婚は尊ばれるべきものであり、また聖なるものです。ですから、わたしたちは神が性を自然なものと見なしておられるばかりか、性を聖なるものと見なしておられるということをも見なければなりません。
パウロはテモテへの第一の手紙第4章3節において、終わりの時には悪鬼の教えが出てきて、これらの悪鬼の教えは結婚を禁じたりすると言っています。G・H・ペンバーの書物の中では、将来のある人は、結婚さえしなければ清い人になることができると思い、聖を追い求めるあまりに結婚を禁じたりするであろうということを、はっきりと指摘しています。しかし、パウロはテモテへの第一の手紙の中で、結婚を禁じるのは悪鬼の教えであるとはっきり言っています。ですから、神は結婚を禁じていないことをあなたがたは知るべきです。
Ⅱ. 結婚の基本的な性質
A. 互いを助け合うため
結婚は神が定められたものです。創世記の中で神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と語られました。神は創造のみわざを成された時、すべての造られたものを見て、良しとされました。第二日目を除いて、彼は造られたものを良しとされました。第二日目の大空は、サタンのいる場所であるため、神はよしとされませんでした。その他の日に神が成されたみわざはどれも良かったのです。けれども、第六日目に、神が一人の人を造られた時には、神は良しとされないばかりか、良くないと言われました。神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われました。それは人の創造がうまくいかなかったというのではなく、人をひとりだけ、すなわち、半分しか造らなかったのが良くないという意味です。
神は六日目にエバを作り、アダムの所に連れて来られました。ですからエバが生み出されたのは結婚のためでした。「配偶者」という言葉は「妻として添わせ、彼を助ける」ことを意味します。この言葉は、ヘブル語では「彼に似合った者、彼の助けとなる者」という意味です。
神が人を造られた時、神は男に女が加えられる必要を覚えておられました。しかし聖書は、神は人を造られたと言っています。ですから神が人を造られたというのは、**男と女を造ることによって、はじめて一人の人を造り上げることです。**それはちょうど、神は初めに半分の人を造り、後で人が半分であるのを見て、さらにもう一人の人を創造されたかのようです。半分を二つ合わせてはじめて一つになります。半分を二つ合わせて、はじめて完全な人になるのです。こういうわけで、エバが造られて、はじめて神はそのみわざを良しとされたのです。これはわたしたちに、結婚は人が始めたものではなく、神が始めたものであることを見せています。
ここで、わたしたちは神の御前における結婚の地位を見ます。神の目的は、一人の夫と一人の妻を得て、互いに助け合うことです。それゆえに彼の妻は配偶者と呼ばれるのです。人が共に生活をして、互いに交わりを持ち、互いに助け合うことを神が求めておられるのを見ます。これが神の目的です。
B. 罪を防ぐため
旧約において、まだこの世に罪が入り込む前に、神はすでに結婚を定められました。新約においては、コリント人への第一の手紙第7章でパウロは、罪が入ってきたために結婚を禁じるのではなく、かえって結婚の必要が増し加わったことをわたしたちに見せています。
結婚によって罪を防止することができます。ですからパウロは、淫行から逃れるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい(2節)と語っているのです。コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは性の感覚があるからといって、それを罪に定めるのではなく、罪を防止するために男女とも結婚すべきであることを見せています。
パウロは、わたしたちが肉の情欲を満たす備えをしないように(ローマ13:14)と言いました。例えば、ある人は高ぶりの罪を犯しやすいとします。パウロは彼に対して「あなたは高ぶりやすいので、どこでも高ぶることがないように家の中で高ぶりなさい。ここで高ぶるなら、他では高ぶらないだろうから」と言うことはできません。もしこのようにするなら、肉の情欲を満たす備えをすることになります。
結婚は肉の情欲を満たす備えをすることではありません。結婚は聖なるものであり、神が定められたものです。わたしたちは結婚することによって罪を防止することができるのです。
コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは結婚の問題を語っています。パウロは初めに「妻は自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは夫が持っているのです。同じように、夫も自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは妻が持っているのです」と言っています(Ⅰコリント7:4)。ここでパウロは、夫婦が不品行に陥ることがないために、主に奉仕するということ以外の理由では決して別れるべきではないということを教えています(Ⅰコリント7:5)。
またパウロはかなり強い言葉を用いて、性の欲求の強い人のことを取り上げています。性の欲求があまり強いなら、情に燃えるよりは結婚する方が良い(Ⅰコリント7:9)と言っています。パウロはこのような人を責めていません。パウロは「あなたに強い欲求があるのは間違いである。それは罪であるから、肉の情欲を満たすために備えをしなさい」とは言いません。「あなたに強い欲求があるなら、結婚しなさい。強い欲求があるよりは結婚するほうがよい」と言っているのです。
このようにして結婚の定めには、旧約と新約に異なった面が存在するようになりました。旧約では、わたしたちに助けを与える配偶者を見せています。新約では、罪を防止することができることを言っています。
C. 共に恵みを受け継ぐため
第三に、ペテロはペテロの第一の手紙第3章7節で、妻は「命の恵みの共同の相続人」であると言っています。言い換えれば、神は夫婦が共に神に仕えることを喜んでおられるということです。
ですから、クリスチャンの結婚には三つの基本的性質があります。第一は互いに助け合うこと、第二は罪を防止すること、第三は二人が神の御前で共に恵みを受け継ぐことです。
Ⅲ. 純潔の問題
もう一面、聖書はわたしたちに、性の感覚はあっても、その感覚があまり強くないために、その要求を満たす必要がない人について見せています。聖書は、このような人に純潔を守るようにと勧めています。
A. 純潔を守ることの利点
処女であることが結婚よりも霊的に聖であるとは言えませんが、処女は全存在と体力のすべてをささげて主の働きに専念することができます。このこともコリント人への第一の手紙7章で取り上げられています。
パウロは、結婚した人に三つの苦難があることを示しています。第一に、結婚は束縛するものです。多くの場合、人は結婚すると自由がなくなります。結婚すると、なすべき多くの事が生じてくるからです。第二に、結婚した人には苦痛があります。パウロは「そのような人たちは、肉体に苦しみを受けるでしょう」(28節)と言っています。人が結婚すると、おのずとその身に苦難が増し加わって、主に奉仕することに専念できなくなります。第三に、結婚した人には世の事に心を配ることがあります(32節-34節)。要するに、結婚には家庭的な事柄の上で苦難と束縛、苦労、心遣いがあるのです。
パウロの言葉は働き人に対して語っているだけでなく、すべての兄弟姉妹に対しても語っているのです。純潔を守るなら、人は多くの苦難を免れることができます。パウロは純潔を守るように命じているのではありませんが、彼の言葉を読むと、彼の心は純潔を守るほうに傾いています。パウロはそこにおいて、とりわけ自己主張するのでなく、ただ事実を兄弟たちに語り、「もしあなたがたが結婚するなら、それによって罪を犯す危険性を免れることができるので、それは良いことです。しかし、結婚はあなたがたに多くの束縛と苦難とより多くの世の心遣いとを与えるでしょう」と言いました。
B. どのような人が純潔を守ることができるか
パウロは引き続いて、どのような人が純潔を守るのかをわたしたちに見せています。そのような賜物を神から受けている人は、純潔を守ってもよいと言っています。純潔も神からの賜物です。結婚も神からの賜物です。それゆえパウロは「ただし、各自は神から自分自身の賜物を受けていて、ある人はこのようにしており、他の人はあのようにしています」(Ⅰコリント7:7)と言っているのです。
純潔を守る第一条件は、性の感覚があるだけで性の強制がないことです。性の力が強制する人もあれば、性の感覚があるだけで性の強制がない人もあります。およそ性の強制のない人は純潔を守ってもよいのです。
第二に、純潔を守る志があり、しかも心が堅固であることです。36節から37節では「もしある人が、自分の処女の娘が青春の盛りを過ぎていて、彼女に対してふさわしく対応していないと思い、そうせざるを得ないなら、彼の望むことを行なわせなさい。彼は罪を犯すのではありません。彼らを結婚させなさい。しかし、彼が心の中で堅く立ち、無理することもなく、自分の意志を制することができ、自分の処女の娘をそのままにしておこうと、心の中で決めたのであれば、彼は良いことを行なうのです」と言っています。パウロはわたしたちに、純潔を守るのはその人自身に志があり、その人自身が要求していることであると示しています。
第三に、環境に困難が決してないことです。37節では「無理することもなく」と言っています。ある人は純潔を守ろうとしても、家庭の中で強制されたりして、純潔を守れなくなるような困難があるかもしれません。それゆえ環境の上での按配があってこそ、純潔を守ることができるのです。
パウロはここで純潔を守る上での三つの基本的な条件を示しています。第一に感覚の上で強制がないこと。第二に、そうすることを心の中で堅く決心していること。第三に、環境の上で困難がないことです。
C. 純潔を守ることは、天の王国と携え上げられることと関係がある
純潔を守ることができる人は、確かに神の御前で多くを得ることのできる人です。マタイによる福音書第19章12節では「天の王国のために自ら結婚しない者もいるからである」と言っています。わたしたちは純潔を守ることが天の王国とどんな関係にあるか言うことはできませんが、純潔を守る人は確かに天の王国に入る上で有利な点があると言えます。
それだけでなく、啓示録第14章において、あの初穂(十四万四千人)はみな純潔な者であり、小羊の行く所へはどこへでも従って行くのを見ます。この十四万四千人は、特に早く携え上げられる人たちです。このように、わたしたちは純潔であることが携え上げられることと確かに関連があることを見ます。
わたしたちは、このことをただ兄弟姉妹の前に置くことができるだけです。
Ⅳ. 結婚の対象
結婚に関して、神は人がだれと結婚できるか、だれと結婚できないかという条件を定められました。神は、神の民の結婚は神の民の間だけに限られるべきであることを、聖書の中ではっきりと見せています。言い換えれば、もし結婚するなら、相手は必ず神の民の中から捜さなければなりません。神の民以外の者と結婚してはならないのです。
A. 旧約の命令
旧約の中には、神の民以外の者と結婚してはならないという命令が多くあります。申命記第7章3節では、「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない」と言っています。これは周辺諸国の民に対してどのようにすべきかが書かれており、神はイスラエルの民に、結婚の対象が主にある者であることをはっきり示されました。
ネヘミヤの時代に、イスラエル人が捕囚の地からユダヤの地に戻った後、多くの者が異邦の女を妻としてめとっていたため、ユダヤの言葉を語ることすらできないものが多くいる状態になりました。それゆえに、ネヘミヤ記第13章23節から27節では、彼らに異邦の女との関係を完全に断ち切るように、また異邦の女と行き来しないようにと要求しています。異邦の女と結婚したら、遅かれ早かれ、あなたの子供たちが彼女について行き、あなたと一緒に神に仕えることができなくなるという問題を見る必要があります。これは厳粛なことです。
マラキ書第2章11節では、イスラエル人に多くの邪悪な罪があり、彼らが異邦の女をめとって神の聖所を汚したことを見せています。神の目からみれば、異邦の女をめとることは神の神聖に対する冒涜です。それゆえにクリスチャンの結婚には制限があり、結婚の対象は信者たちの間だけに限られなければならないのです。
わたしたちはソロモンの失敗からも警告を得ることができます。ソロモンは最も知恵に満ちた王でした。けれども異邦の女をめとったために偶像礼拝に陥りました。
B. 新約の場合
コリント人への第一の手紙第7章39節でパウロは、やもめが結婚するのは、ただ主にある者に限ると言っています。コリント人への第二の手紙第6章14節は信者は未信者とくびきを共にしてはならないと言っています。これは結婚だけを指しているのではありませんが、結婚も含まれます。信者と未信者とは、二頭の動物が一つのくびきを付けて畑を耕すように、同じ目的のために同じ仕事はできません。これは神が禁じられていることです。
信者と未信者とがくびきを共にしてはならないという事の上で、結婚より重大なことはありません。資金を出し合って商売をするとか、何かに加入するとか多くのくびきがありますが、最も重いくびきは結婚です。ですから、最も理想的な結婚の対象は、必ず兄弟姉妹でなければなりません。
Ⅴ. 未信者と結婚している場合にはどうするか
ここで一つの問題が起きてきます。ある兄弟が未信者の妻と結婚していたり、ある姉妹が未信者の夫と結婚している場合はどうしたら良いのでしょうか?
A. 彼が去るなら、去らせなさい
ことのことはコリント人への第一の手紙第7章に記載されています。12節、13節、15節では、もし夫婦の一人が主を信じたために家庭内に問題が起きた場合、どうすべきかという問題に答えています。今日、多くの人はそれほど徹底的に主を信じているとは言えないため、家庭内の問題も多くはありません。主イエスは福音書の中で、家庭内に多くの問題が起こることを予測しておられます。もし徹底的に主を信じたら、家庭には争いが起こるでしょう。
それでは、もし今日、妻が主を信じたために「あなたは主を信じた。だからもうあなたと一緒にいたくない」と言って夫が去ってしまったなら、この時、この妻はどうすべきでしょうか?主はコリント人への第一の手紙第7章15節において、とてもはっきりと語っておられます。それは、彼を離れさせなさいということです。このように妻が主を信じたために夫が離れるなら、また夫が主を信じたために妻が離れるなら、離れさせたらよいのです。
ところが、一つの事をはっきりさせる必要があります。離れるのは、わたしたちの方からではなく彼でなければなりません。つまり、あなたが主を信じたために、彼が不満を抱いて離れるということです。
B. 彼が構わずにいるなら、主は彼を救ってくださる
もし彼が構わずにいるなら、別れてはいけないと、パウロは言っています(Ⅰコリント7:12-13)。なぜなら、主があなたによって彼を救い得るかどうか、どうしてあなたにわかるか、また彼が構わずにおり、一緒に住み続けるのであれば、わたしたちは人と平和に暮らすべきであるから別れてはならないと、パウロは言っています。彼はまた未信者も信者によって聖別されていると言っています(Ⅰコリント7:14)。主が他の人を救われるのは必ずしも容易でないかもしれませんが、この人はあなたのものですから、主が彼を救われるのは特別容易です。わたしたちは、この立場に立ってこの事を取り扱う必要があります。
Ⅵ. 未信者と婚約している場合にはどうするか
今度は、未信者と婚約してしまった場合はどうすればよいのでしょうか?
A. 一番良いのは、未信者の側から解消を申し出ること
主は、わたしたちが未信者と結婚することを望まれません。これは非常にはっきりしています。ですから、もしだれかが未信者と結婚してしまった場合、一番良いのは未信者である婚約者の側から解消を申し出てくることです。なぜなら、まだ結婚しておらず、婚約しているだけなのですから、主が道を開いてくださり、あなたが主を信じたために未信者の側から解消を願い出て来るなら、それで良いのです。
B. 勝手に解消してはならない
しかし、多くの場合、この事は不可能です。なぜなら、婚約してしまった以上、あなたが主を信じたからと言って相手がそんなに簡単に手離すわけはないからです。この時は、わたしが人と婚約したことは、人と契約を立てたことであり、その契約は、わたしが神の御前で人に与えた約束であることを覚える必要があります。クリスチャンは、自分が主を信じたからといって勝手に契約を破棄してはなりません。なぜなら、神の御前において、契約はみな聖であるからです。
しかし、別れることを相手に提案しても構いません。相手が提案してもよいし、あなたが提案してもよいのです。この提案については、相手のほうが主体的でなければならないとは限りません。この点が今までとは違います。すでに結婚している場合には、相手の方が主体的です。しかし、婚約している場合には、自分の方から積極的に一番良いのは別れることだと言ってもいいのです。もし相手は必ず婚約を履行するよう要求するなら、必ずそうしなければなりません。なぜなら、クリスチャンがいったん言葉を口にしたなら、必ず実行しなければならず、それを破棄してはならないからです。ですから、わたしたちは相手とよくよく話し合い、もし相手が別れることを願わないなら、どうしてもその人と結婚しなければなりません。
C. あらかじめ条件を話しておくべきである
あなたが誰かと婚約しており、今あなたはクリスチャンになりました。あなたが主を信じたにもかかわらず、相手がどうしてもあなたと結婚したいと言うなら、どうすべきでしょうか?あなたの側でしてもよい一つの事がここにあります。それは相手とあらかじめ取り決めしておくことです。
あなたは次のように言います、「わたしは必ずあなたと結婚します。でも結婚する前に言っておきたいことがいくつかあります。その条件は次のとおりです。第一に、あなたは必ずわたしが主に仕えることができるようにしなければなりません。わたしは自分を隠してあなたの家に来るのではなく、旗をかかげて来るのです。わたしはクリスチャンですから、あなたに嫁ごうが、あなたはどうしても主に仕える自由をわたしに与えなければならず、わたしが主に仕えることに干渉してはなりません。第二に、将来子供が生まれたら、必ず主の教えにしたがって彼らを養育しなければなりません。主を信じる信じないは、あなたの事です。しかし、わたしたちの子供は必ず主の教えどおりに養育しなければなりません」。
これらの言葉は前もって語られるべきです。これらの事は絶対に結婚前に約束しておく必要があるものであり、前もって話しておかなければならないことです。前もって話し合っておかないと、後でいざこざが起こります。未信者に嫁ぐことは損失であり、未信者をめとることも損失です。損失を少なくし、問題を少なくしたいと思うなら、わたしたちは前もって話し合っておかなければなりません。
Ⅶ. 離婚
聖書には離婚に関する規定があります。聖書の中のただ一つの条件に基づいてのみ、離婚が許されます。その唯一の条件とは姦淫です。精神病になろうと、長年、失踪して行方不明であろうと、それらは離婚の条件になりません。そうではなく、他の人との間に性的行為があったということが唯一の条件なのです。マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節にはっきりと書かれています。
A. 離婚は一を破壊する
なぜ姦淫の場合だけ、離婚が許されるのでしょう?それは神がくびきを共にさせたものを人が離してはならないからです。言い換えるなら、神から見て、夫婦は一体であり、あらゆる離婚はこの”一”を破壊するものであるからです。では姦淫を行なうとは、どういうことなのでしょうか?それは一を破壊するということです。あなたが自分の夫、あるいは自分の妻以外の人と性的行為を持つなら、それは姦淫を行ない、一を破壊したことになります。
B. 一が失われたらなら離婚してもよい
なぜ姦淫を行なったなら、離婚することができるのでしょうか?それはすでに一が破壊されたからです。もともとあなたとあなたの夫は一でした。しかし、あなたの夫が姦淫を行なうやいなや、あなたは自由になることができます。もともと一であるので、あなたはそれを守らなければなりませんでした。しかし今、その一を失ったのですから、あなたは自由になることができます。それゆえ姦淫が行なわれることが離婚の唯一の条件です。
マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節の二つは、とてもはっきりしている個所ですから、わたしたちは十分に注意する必要があります。離婚の根拠は姦淫です。姦淫によって、以前の一が破壊され、もはや夫婦が一でなくなったので、離婚してもよいのです。今日のいわゆる離婚は単なる手続きにすぎません。結婚の存在は、その一の存在を宣言し、離婚は一がもはや存在しないことを宣言しています。それゆえ姦淫を行なったなら、離婚してもよいのです。
それゆえに、わたしたちは結婚とは何かを認識する必要があります。結婚とは一です。二人は、もはや二人でなく一体となることです。姦淫は一を破壊し、離婚は一が破壊されたことを宣言するのです。わたしたちは神がくびきを共にさせたものを引き離してはなりません。しかし、姦淫によって一が破壊されたのであれば、離婚が許されます。
Ⅷ. やもめの問題(配偶者を亡くした者、未亡人)
聖書はまた、妻か夫をなくした者は再婚してもよいと言っています。結婚は死ぬまでのことであり、復活の時には結婚の関係は存在しません。めとったり嫁いだりするのは、この世の事です。配偶者が死んだ後、あなたは過去の愛情のゆえに再婚せずにいても構いませんが、もしあなたが再婚するなら、聖書もこの事を許しています。
パウロはテモテに、若いやもめは結婚するのが望ましいと言っています(Ⅰテモテ5:14)。一人の兄弟が再婚するのも同様です。今日の問題は、あなたにその必要があるかどうかということです。ある人は生理的にその必要があり、ある人は孤独を感じるため心理的に必要があります。また、ある人は家庭環境の上でその必要があります。もしある兄弟が妻を亡くした時、彼が結婚するのは正しいことです。もしある姉妹が夫を亡くした時、彼女が結婚するのも正しいのです。クリスチャンはこの事について批判してはなりません。
Ⅸ. 罪の問題
神は聖書の中で、性の感覚の正しさ、性行為の正しさを認めておられます。性の感覚は罪ではないばかりか、聖なるものでさえあります、しかし、それは結婚という枠内に限定されています。結婚という枠内でのみ、それは正しく聖なるものであるのです。結婚の一の外では、いかなる性の感覚や性行為もみな罪なのです。あなたは見たでしょうか?結婚の枠外であるものは罪です。それは結婚という枠の外でその一を破壊するものだからです。ですから、罪の存在は、性そのものにはよらず、一を破壊することによるのです。
例えば、主イエスはマタイによる福音書第5章28節で、「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言われました。ここの「見る」の原文の意味は、意志を持って見る(look at)のであり、単に見えること(see)ではありません。見るという言葉には、意志の働きが含まれています。すなわち、ここでは女性を意図的に見るのであり、単に見えることではありません。もう一つは、「情欲を抱いて」(in order to lust after her)です。これは女を見たので情欲が生じたのではなく、情欲を抱いているので見たのです。情欲が先にあって、見るのが先ではありません。
わたしたちが路上でたまたま一人の女性を見たとします。サタンが情欲を注入したとしても、わたしたちが拒絶するなら、それでおしまいです。ところが、振り返って彼女を見るなら、罪です。どうか性的感覚が罪なのではなく、意志の同意こそが罪であることを覚えておいてください。なぜなら、この意志の同意は結婚の外にあるからです。同意することによって、あなたはすでに意志のうえで一を破壊しているのです。行為のうえで一を破壊するならもちろん罪ですが、意志のうえで一を破壊しても、それは神の御前で罪なのです。
姦淫とは何でしょうか?配偶者のある者が罪を犯すことが姦淫です。それでは、何を淫行というのでしょうか?配偶者のない者が罪を犯すのが淫行です。行為は同じでも、罪は同じではありません。
わたしたちは必ず、姦淫が罪であり、淫行が罪であることを認識しなければなりません。配偶者のある人が一を破壊するのが罪であるだけでなく、配偶者がなく、一がない人の淫行もまた罪なのです。クリスチャンは姦淫も淫行も行なってはなりません。もしあなたがすでに結婚しているのに結婚の外で性行為を行なうなら、これは姦淫です。もしあなたがまだ結婚していないのに性行為を行なうなら、これは淫行です。クリスチャンは神の御前で、姦淫も淫行も行なってはなりません。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第三十編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-09-21 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,102文字で、16分で読み終えることができます。)
職業はクリスチャンにとって非常に大事です。もし間違った職業を選んでしまえば、積極的に前進することができなくなるでしょう。ですから、クリスチャンは職業の選択に必ず注意しなければなりません。
Ⅰ. 聖書において神が按配された職業
A. 旧約時代において
神は人を創造された時、人のために職業を按配されました。神がアダムとエバに割り当てた仕事は、園の手入れと監視をすることでした。ですから職業は人が罪を犯す前にあったものです。アダムとエバの当初の職業は園丁のように、神の造られたエデンの園を手入れすることでした。
アダムとエバが罪を犯した後、地はのろわれ、彼らは額に汗してはじめてパンにありつき、地を耕してはじめて食べ物を得ました(創世記3:17-19)。このことは、人が堕落した後、神が定められた職業は農夫となって畑を耕すことであったことをはっきり見せています。今日に至るまで、農夫はだれよりも真面目であることを知ることができます。当初、神は人が畑を耕すことを定められました。
創世記第4章になると、カインは土を耕し、アベルは羊を飼っているのを見ます。今や羊を飼うことが加わりました。これは牧畜も神に喜ばれる職業であるのを見ることができます。
この後、地上に人はますます増えてきて、各種の職人が出てきます。鉄職人、銅職人、楽器を作る職人、青銅や鉄の刃物を鍛える職人が出てきます(創世記4:21-22)。バベルの塔になると、れんが職人や大工が出てきます(創世記11:3-4)。(バベルの塔の建造はあるべきではないのですが、それにしても人はそこで建造を学んでいます。ですから、鉄職人、銅職人、楽器作り、建築職人は、やはりすべて正当な職業です)。
創世記第12章になると、神はアブラハムを選ばれました。アブラハムも羊飼いでした。彼には多くの牛と多くの羊がいました。ヤコブの時になると、彼も牛の群れと羊の群れを持っていました。ですから彼らの主要な職業は牧畜であったのを見ることができます。
イスラエル人はエジプトでパロのために働いて、れんがを焼きました。しかし、彼らはエジプトを出た後、神は乳と蜜の流れる地を与えると彼らに約束されました。ここに明らかに二つの職業があります。牧畜と耕作です。神はイスラエル人に、もし神に背き、偶像を拝むなら、「わたしは・・・あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。あなたがたの力はむだに費やされる」と言われました。これも、彼らのカナンの地での職業が牧畜と耕作であったことを明らかに語っています。旧約においてはこれらのいくつかの種類の職業があります。
B. 新約時代において
新約になると、マタイによる福音書で主イエスが語られたたとえの中で、耕作が一つの基本的な職業であるのを見ます。例えば、第13章に種まきのたとえがあります。また第20章には、ぶどう園のたとえがあります。ルカによる福音書第17章では、耕したり羊を飼ったりして、畑から帰って来たしもべについて言っています。ヨハネによる福音書第10章で、主は良い牧者であって、羊のために自分の命を捨てると言われましたが、これは牧畜です。ですから、牧畜と耕作は、神が人に定められた基本的な職業です。
主は十二人の使徒を召されましたが、彼らの大多数は漁師でした。人がもし取税人であれば、主はこの職業を捨てさせられました。しかし、主は漁師については、「あなたがたは以前は魚を捕っていたが、今後は魚を捕るように人間を捕る漁師にしてあげよう」と言われました。ですから漁師も受け入れられる職業です。
ルカは医者であり、パウロは天幕を作る人でした。天幕作りと漁師が異なるのは加工製造することにあります。耕作は直接的生産です。布を織ったり、裁縫したり、天幕を作ったりすることは加工製造することです。
旧約から新約まで、職業について、神はこのように按配されたということができるだけです。主の弟子たちは、農夫であるか、牧者であるか、大工であるか、漁師であるか、加工製造する者であるかでした。もう一つ加えるとしても働く人でした。(霊的な働き人を指すのではありません)。新約の中で、働き人がその報酬を受けるのは当然であるという言葉があるからです。働き人は労働する人であり、力を売る人です。労働によって報酬を得ることも聖書が許している職業です。
Ⅱ. 職業の原則
聖書によれば、神は人のためにこんなにも多くの職業を按配しておられますが、一つの基本的な原則、つまり人が得るもの、人が受け取るものは自然から来るということを見いだすことができます。人は自分の時間、自分の力を投入して報酬を得ます。これが聖書で扱われている職業の原則です。
A. 大自然から得るー豊富を増し加える
種まきが一粒の麦をまくと、やがて多くの実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなります。一粒が百倍になったり、六十倍になったり、三十倍になったりします。種を地に巻いて、それを生長させれば実を結びます。これは自然から供給を得ることです。自然の供給は豊富ですし、だれでも得ることができます。神は良い者の上にも悪い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださるからです。これは明らかに農業に用いられます。ですから、神の目的は人に自然の中から供給を得させることです。牧畜も同様の原則です。神が人に職業を与えられた基本原則は、わたしに得るものがあり、人に損失がないということです。これが神の按配された高尚な職業です。
B. 加工製造するー価値を増し加える
パウロの天幕作りも同様の原則です。しかし、彼は直接自然の中から取ったのではありません。魚を捕ることや牧畜や耕作は、すべて直接、大自然からの物を得ます。しかし、パウロは時間をかけて天幕を作ります。このことが物の価値を増し加えます。例えば、一枚の布がもともと一円の価値しかないとします。わたしがそれを裁断し縫製して天幕を作ると、二円になります。その価値はまし加わり、加工賃を得ます。わたしが加工賃を得たために、だれかが貧しくなるということはあり得ません。ですから神が人に与えられる職業のもう一つの基本的原則は価値を増し加えることです。
C. 労働して賃金を得る
人のために働いたり、大工をしたり、医者になったりすることにも、一つの原則があります。わたしは自分の時間を使ってお金にし、賃金を得ます。これは自然界から得るのでも、加工製造するのでもありませんが、わたしは多くの時間を割き、多くの代価を払い、多くの事をなしたので、多くの収入を得るのです。ですから働いて賃金を得ることも神が許される事です。
D. 聖書で特別に良くないとされていることー売り買いする
聖書の中で良くないと見られている職業は売り買いすることです。どうかこの事には特別に注意してください。初信者の兄弟たちは、もし他の職業を選ぶ余裕があるなら、商売はしないほうがよいでしょう。この問題は拡大してみるとはっきりします。
例えば、ここに百人の人がいて、各自が百万円を持っているとします。百人分を合わせると一億円になります。もしわたしが出て行って売り買いし、商売するなら、自然に金もうけをしてこの百万円を二百万円にしようと思うでしょう。その上、あなたがたはわたしの商売の仕方が正しいかどうかを気にとめないとします。何はともあれ、わたしは一ヶ月商売した後、二百万円にしました。あなたがたの間で必ずある人のお金は減っているでしょう。これは決まりきっています。なぜなら、百人が各自百万円を持っていて、わたしも百万円持っていたからです。わたしが最も正しい方法で商売をしたとしても、わたしのお金は二百万円になったのですから、あなたがたの中のある人のお金は減っているはずですし、ある人のお金は少なくなっているはずです。
わたしたちはクリスチャンです。クリスチャンとしてわたしがあなたがたからお金をもうけて金持ちになり、あなたがたが貧乏になったとしたら、それは良いことでしょうか?決してそうではありません。わたしたちは神の子供です。神の子供は世人を貧しくして自分のお金を増やしてはいけません。正しい方法で人から金をもうけ、信者の金をもうけても、それはすまないことです。商売するとはこういうことです。わたしは他の人の財布から自分の財布へとお金を取り上げることはできません。どんな方法を使っても、お金を人の財布から自分の財布に移し変えることは、その人に損をさせることです。
わたしたちは金もうけすることと豊富を増し加えることとは完全に異なった事であることを区別しなければなりません。神が聖書で人に与えられている基本的な職業は「豊富を増し加える」ものです。あなたがお金もうけすれば、他の人は必ず失うということを覚えておいてください。あなたのお金が増えれば、他の人のお金は減ります。これが商売の原則です。
Ⅲ. 三種類の異なる職業の中から選ぶ
ここに三種類の異なった職業を見てみます。一つは売り買いすることであり、一つは労働することであり、一つは生産することです。神が聖書の中で最高の職業と定められているのは生産する人です。アダムの時から始まって、神が特に注意しておられる職業は生産です。生産はわたしが豊富を増し加え、しかも別の人を貧しくしないものです。わたしが百匹の羊を飼えば、何年かの後には三百匹になり、四百匹になります。しかし、この増加はいかなる人の財布からお金を減少させることはありません。これが聖書における職業の基本的原則です。
パウロが天幕を作ったことは別の原則です。確かに綿や糸や布を増やしていません。しかし布は彼が裁断し縫製したために、彼が多くの時間を費やし、多くの力を投入したために、価値がまし加わりました。地の豊富を増し加えるのは良いことですし、価値を増し加えることも良いことです。ですから、初信者の兄弟たちはお金を増やす職業を選ぶべきではありません。世界の豊富を増し加え、物の価値を増し加える職業を選ぶべきです。
Ⅳ. 利益第一主義の商売をしてはいけない
クリスチャンは利益だけを追求した商売をすべきではありません。確かに主イエスも、わたしたちは彼が来られるまで商売をする必要があると言われました(ルカ19:13)。しかし、その聖書の言葉の意味は、商売するように専心して働く必要があるということです。ご存じのように商売人は非常に専心してやります。金をもうけようと思えば、どんな場所にでももぐり込みます。主の意図はあなたにもぐり込む機会があるなら、このように専心して働きなさいということです。
売り買いはツロから始まりました。そして売り買いの行き着く所はバビロンです。エゼキエル書第28章と啓示録第18章を見れば、売り買いを始めた人はツロの君であることがわかります。エゼキエル第28章が見せているように、ツロの君はサタンを代表しています。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した」(口語訳 エゼキエル28:16)。このような売り買いの思想は、自分が金もうけして他の人に損をさせ、世界の財産を減少させるので、これは神が定められた職業ではありません。これはサタンの所有する職業です。
物質の数量や、物質の価値を増し加える職業はすべて神の御前に受け入れられるものです。利益だけを追求する純然たる商売は神に受け入れられるものではありません。啓示録第18章において、この世がもうすぐ終結して王国が始まろうとする時、バビロンは刑罰を受けます。商売はバビロンが終わる時まで続きます。地上のすべての商人はバビロンのために泣き悲しみます。地上のあらゆる商品の第一は金であり、最後は人の魂です。金から人の魂まで売り買いできないものは何一つありません。わたしたちクリスチャンはこの低い職業を避けなければなりません。
Ⅴ. 純然たる商売と生産業は異なっている
利益だけを追求した純然たる商売と生産業の違いを区別する必要があります。麦は売ることができます。牛や羊、天幕、魚も売ることができます。これは売り買いするとは言いません。この世でのいわゆる売り買いとは、今日わたしが人から百袋の小麦粉を買っておき、値段が高くなるのを待って売りに出すことです。これは、わたしが世の中の物を増やしていないにもかかわらず、わたしの財産は増えます。これは恥ずべきことです。
生産するために売り買いするのは結構です。しかし、ただ買ってきて売るだけではいけません。もし兄弟が種をまいて得たものを売るなら、それは良いのです。もし兄弟が米を買い込んで、それを売るなら、これは良くありません。どちらも売るのですが、原則は根本的に違います。どのような労苦もせず、また価値を増し加えていないものを売って利益を得ることは、純然たる商売です。
ですから、純然たる商売をしている兄弟は、責任兄弟となることはできません。そのような人は金銭において解き放たれていないからです。今後、わたしたちはこの道を歩めば歩むほどはっきりするでしょう。神の子供は完全に金銭の力から離れるべきです。それでこそ神に仕えることができ、教会には道があります。
Ⅵ. 神が受け入れられる職業
羊を飼う人も耕作する人も生産する人です。商売する人は別の種類の人です。もう一種類は両者の中間にあって労働する人です。医者や教師は彼らの時間を取り出します。これも聖書では良い職業です。彼らは生産しませんが、人から何も取りません。彼らは自然界から得るのでもありませんし、人から得るのでもありません。自分の時間、体力、知力に変えて必要なものを得ます。働く者が工賃を得るのは当然です。これも聖書において神が喜ばれる職業です。最高の職業は生産する職業です。その次は労働であって、知力や体力を使って報酬を得るものです。
しかしながら、わたしたちは極端な道を歩みたくありません。商売する人に対して、彼らを罪に定めたりしてはいけません。すでにその中にいる兄弟については、わたしたちは彼を顧み、彼が改めるように助けましょう。彼を困らせてはいけませんが、少なくともこの道をはっきりさせてあげましょう。
初信者の兄弟たちは労働してお金をもうけるのであって、一方で仕入れをし、一方で売り出して多くもうけるようではいけません。わたしたちの原則は豊富を増し加えるのであって、お金を増やすのではありません。もしこうであれば、入ってきたお金は清く、神にささげるお金は受け入れられます。多くの兄弟姉妹がこの原則を見ることができますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十九編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-09-14 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,523文字で、15分で読み終えることができます。)
クリスチャンはお金とどのように付き合っていくべきでしょうか?クリスチャンは金銭をどのように取り扱うべきでしょうか?今回は、クリスチャンとお金について交わりたいと思います。
Ⅰ. 神の原則にしたがって金銭を取り扱う
ある人がすべてを売り払ってしまったとしても、自然と収入があるようになり、金銭はまたもや戻ってきます。一度、全財産を放棄したとしても、それはその人の上でもう金銭に力がなくなったということではありません。あるいは、ある人が一度は金銭を投げ出したとしても、その後、金銭はまたもや力を発揮して、彼は金銭を自分のものだと見なすようになってしまうかもしれません。ですから、信者は神の御前で継続して金銭を外に向かって与えることを学ぶべきです。
クリスチャンの金銭の扱い方は、未信者の金銭の扱い方と全く異なっています。クリスチャンの金銭の扱い方は与えることです。未信者の金銭の扱い方は、蓄えることです。今日、提起したい問題は、クリスチャンはこの地上でどのように生活したら事欠くことがないかということです。**神は、わたしたちがこの地上で生活するのに事欠くことはないと約束しておられます。空を飛ぶ鳥も食べ物に欠くことはありませんし、地のゆりも美しい装いに欠けることはありません。神の子供たちも決して衣食に欠けることはありません。もし神の子供たちに欠乏があるとすれば、決まってその原因があり、理由があります。収入に困難があるのは、その兄弟姉妹たちが神の原則にしたがって金銭を扱っていないからです。
あなたがいったん自分の財産のすべてを売り払って主に従った後は、神の原則に従って歩むべきです。もしあなたが神の原則に従わないなら、必ず苦境に立たされるでしょう。もしどのように自分の金銭を管理するかを学ばなければ、多くの困難にぶつかるでしょう。ですから、わたしたちがどのようにしたら神の富を得られるかを見てみましょう。
Ⅱ. 神の供給には条件がある
わたしたちは信者として、今日、地上で生活している時、食物、衣服、その他の必要について、主を仰がなければなりません。神のあわれみがなければ、わたしたちは地上で日を過ごすことはできません。これは裕福な人でさえそうです。もし富に執着するなら、それだけ悩みも多いことでしょう。主に信頼する人は、多くの蓄えがなくても、主が彼らを困難の中にとどめておかれません。主は彼らの必要すべてを供給することができます。しかし、神が供給されることには条件があることを、わたしたちはやはり認識しなければなりません。
神が空の鳥を養うことができるなら、わたしたちは生かしておくことができます。実際には、すべての鳥を養ったり、十分な肥料を供給して野のすべてのゆりを育てたりすることは、だれもできません。しかし、神には十分な豊富があって、空の鳥も野のゆりも生かしておくことができます。神は、わたしたちが何かに欠乏するのを見たくないのです。欠乏する者はみな、その人自身に問題があり、神の方法で自分の金銭を管理しなかったからです。神の法則にしたがって金銭を取り扱うなら、貧しくなることはありません。
ルカによる福音書第6章38節を読みましょう。この個所で神はどのような人に供給すると言っているでしょうか?あなたは、神は供給したいということを見るべきです。神が供給したいと思われるなら、それは出エジプト記で言われるように、吐き出すほどまで食べさせ、飽き足りるまで食べさせるのです。このことでは神には問題はありません。山々の牛も羊も神のものであり、すべてのものが神のものであるなら、なぜ神の子供たちは貧しいのでしょうか?なぜ神の子供たちは欠乏を経験するのでしょうか?それは、神が供給することができないからではありません。そうではなく、わたしたちが神の要求に応じる必要があるのです。そうしてはじめて、神の供給を受けることができます。ある条件にわたしたちが応じて、はじめて祈りが答えられることができます。救いでさえ条件があります。それは信じることです。すべての約束には条件があり、この条件を満たしてはじめて約束を得ることができます。同様に、神の要求を満たしてはじめて、神の供給を受けることができます。神の要求とは、与えることです。主は言われます、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」。
Ⅲ. 与えれば自分にも与えられる
かなり苦しい状態にある兄弟姉妹は、彼らが与えることに不忠実であったからです。実は、彼らは収入に欠けているのではありません。聖書はある基本的な原則を見せています。それは、豊かになろうとするなら与えなければならず、富を蓄えれば貧しくなるということです。ただ自分のことだけを考えている人は、貧しくなるように定められています。与えることを学んでいる人はだれでも、富があります。神の御言葉はそう言っており、それは真実です。貧しくなりたくないなら、常に与えなければなりません。わたしたちが与えれば与えるほど、ますます神は与えてくださいます。余っているものをわたしたちが人に進んで分け与えようとするなら、人も将来、自分の余っているものを喜んでわたしたちに分け与えてくれるでしょう。
わたしたちが量るその量りで、わたしたちも量られるのです。わたしたちがある度量で兄弟姉妹を扱うなら、神は同じ度量でわたしたちを扱われるでしょう。もしわたしたちが他の人に、全く役に立たないもの、使いものにならないものを与えるなら、他の人も必ずわたしたちに、全く役に立たないもの、使いものにならないものを与えるでしょう。多くの人が収入に問題を持つのは、支出に問題があるからです。もし支出に問題がなければ、収入に問題があるとは想像しがたいことです。神の御言葉は実にはっきりしています。わたしたちが人に与えるなら、主はわたしたちに与えてくださいます。人に与えないなら、主は与えてくださいません。
わたしたちはクリスチャンになったらすぐに、金銭の基本的な学課を学ばなければなりません。クリスチャンには金銭を取り扱う唯一の方法があります。すなわち、わたしたちが受けるのは、与えることにかかっているということです。言い換えれば、クリスチャンの金銭の取り扱い方は、わたしたちが与えたものにしたがって受けるということです。この世の人は、受けたものにしたがって与えますが、わたしたちは与えたものにしたがって受けます。
人がわたしたちに与える前に、わたしたちがまず人に与えなければなりません。大部分の人は、与えることを根本的に学んでいません。彼らは常に、神が自分の祈りに答えてくださるように求めています。わたしたちは受けることができる前に、まず与えなければなりません。もし最近、何も受けなかったとしたら、それは与えることに問題があったことを意味します。人が与えることで問題を持つ時はいつも、欠乏を経験するでしょう。
Ⅳ. 金銭の取り扱いに関する二つの証し
A. モール氏の物語
イギリスのモール氏は「命と信仰」という雑誌の編集長でしたが、彼には主の御前で多くの長所がありました。聖書を認識していたことは、彼の長所の一つです。また彼は主に依り頼んで生活する人でした。欠乏することもよくあり、試練にもしばしば遭いました。彼はルカによる福音書第6章38節のこの一節を認識していたので、欠乏する時はいつでも家族にこう言いました、「ここ数日わたしたちの与えることできっと問題があったに違いない」。彼は、自分の家にはもう何もなくなってしまったとは言いませんでした。そうではなく、ここ数日の「与える」ことで問題があったと言ったのです。
ある時、彼の家にはほとんど何もなくなってしまいました。イギリス人にとって一番大切なものは小麦粉ですが、その小麦粉さえなくなってしまいました。一日、二日と待っても、何かを送ってくれる人はいませんでした。そこで彼は家族に向かって言いました、「きっとわたしたちの家には余分なものがあるのだ」。彼らはひざまずいて祈り、何が余分なのかを見せてくださるように主に求めました。祈り終わった後、手始めに屋根裏部屋の一つ一つの物を調べ、これは多すぎないかどうかを調べました。子供たちのものまで全部見ましたが、すべてちょうど必要なだけでした。そこで彼は主に、「多すぎるものは本当に一つもありません。主よ、わたしに与えてくださらないのは間違っています」と言いました。しばらくして彼は妻に言いました、「主は決して間違われません。きっと家にあるもので何かが多すぎるのだ」。そこで彼らはもう一度調べてみると、地下室に数日前にある人が贈ってくれた一箱のバターを見つけました。彼はこのバターの箱を見て、とても喜んで妻に言いました、「これがきっと多いに違いない」。
彼らは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」という主の言葉を知っていました。そこで急いでこの一箱のバターを誰かに与えようとしましたが、だれに与えたらよいのかを考えました。彼はその教会で責任を負っていた兄弟でしたので、すべての貧しい兄弟姉妹たちに少しずつ贈ることにしました。この老夫婦は、この一箱のバターをナイフで切り分けて一塊ずつ包み、兄弟姉妹たちの家に渡しに行きました。このように一つずつ渡し終わった時、彼は妻に言いました、「これでこの問題は解決しました」。そこで二人はひざまずいて祈りました、「主よ、あなたが語られたことを思い起こしてください。『与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」とあなたは言われました。どうか覚えてください。わたしには小麦粉がありません」。
その日は土曜日でした。そのバターを受け取った多くの人たちの中にとても貧しい姉妹がおり、しかも彼女は体が不自由で寝たきりでした。彼女は長いことバターなしでパンを食べており、それで「主よ、わたしをあわれんで少しバターを与えてください」と祈っていました。彼女がこのように祈って間もなくすると、モール氏がやって来てバターの一塊をくれたのでした。彼女はそこで主に感謝しました。しばらくして彼女はハッとして言いました、「モール兄弟は何の不足もなくてバターをわたしにくれたのでしょうが、主よ、もし彼が何かに欠乏しているなら、彼の祈りを聞いてあげてください」。モール氏は自分の欠乏を他の人に知らせたことのない人だったので、他の人は彼の欠乏に全く気付いていませんでした。しかも、モール氏はお金持ちの兄弟であるといううわささえありました。彼はいつも人に物を与えていました。しかし、この姉妹の祈りによって、その同じ日にモール氏は二袋の小麦粉を受け取り、彼の問題は解決したのです。
わたしたちは、神の言葉の一句一句すべてを信じるべきです。多くの人の問題は、神の言葉を神の言葉として信じないことです。もしあなたが他の人に与えるなら、他の人は必ずあなたに与えるでしょう。ですから、わたしたちは人に与えることを学ぶべきです。これがクリスチャンの金銭の取り扱いの原則です。
Ⅴ. クリスチャンが金銭を取り扱う方法
クリスチャンの金銭の取り扱い方は、お金を手の中に握っていることではありません。握れば握るほど、そのお金は死んでしまいます。それは与えれば与えるほど多くなります。あなたが与えれば与えるほど、ますます神はあなたに与えられるのです。
A. お金を取り出して種をまく
コリント人への第二の手紙第9章6節は言います、「少しだけ種をまく者は、少しだけ刈り取ります。そして祝福をもって種をまく者は、祝福をもって刈り取ります」。これも聖書の中で言われている金銭の取り扱い方の原則です。クリスチャンがお金を人に与えるというのは、それを取り出して種をまくことであり、捨ててしまうことではありません。あなたは与える時、種をまいているのです。
初信者の兄弟姉妹は、早いうちにお金を種としてまくことを学んでください。そうすれば、あなたがた自身に必要が生じた時、そのまいたものを刈り取ることができます。まいていないものを刈り取ることはできません。
B. 神にささげる
それだけではありません。旧約において神はイスラエル人に言われました、「十分の一全部を宝物倉に携えて来て、わたしの家に食物があるようにせよ。万軍のエホバは言われる。こうして、もし望むなら、これによって、わたしがあなたがたに天の窓を開き、祝福をあなたがたに注ぎ出して、余地がなくなるまでになるかどうか、さあわたしを試してみよ」。(マラキ3:10)。これも同じ原則です。
当時、イスラエル人は大きな貧窮と困難の中にありました。彼らはどのようにしてマラキ書第3章10節の言葉を遂行することができたのでしょうか?神は民を叱責して、人にはできない事も神にはできると告げられました。神は次のように言っておられるようでした「十分の一をことごとくわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしをためしてみなさい。わたしが天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしなさい」。
C. 金銭をまき散らす
箴言第11章24節は言います、「まき散らして、なお増し加えられる者があり、当然のことを惜しんで、かえって不足する者がある」。多くの人は、まき散らしていないのに、何も残りません。多くの人は、まき散らしているのに、富を得ています。これが神の言葉が見せているクリスチャンの金銭の取り扱いの原則です。
D. 供給の約束
ピリピ人への手紙第4章19節はとても特別な御言葉です。コリント人は与えることを渋りましたが、ピリピ人はとても気前よかったのです。パウロは何度もピリピ人から受けました。パウロはピリピ人に言いました、「そしてわたしの神は、彼の豊富にしたがって栄光の中で、キリスト・イエスの中で、あなたがたのあらゆる必要を満たしてくださいます」。パウロは、「『わたしの神』は・・・あなたがたのあらゆる必要を満たしてくださいます」と強調しました。金銭と贈り物を受ける神は、与える者の必要を供給してくださいます。
あなたの器に小麦粉がなくなり、瓶に油がなくなった時、どうか思い出してください。あなたはまず、残っているわずかのものでエリヤのためにパンを作り、神のしもべに食べさせなければなりません。わずかの油と小麦粉を取り、パンを作って預言者に食べさせなさい。しばらくすれば、この一握りの麦粉と何滴かの油で、あなたは三年半たべることができるでしょう。人の持っているものは、一回でさえ彼を養うのに十分でないかもしれません。しかし、それが与えられるなら、それは生計の手段となるのです。これがクリスチャンの金銭の取り扱い方です。
Ⅵ. わたしたちの金銭を手放す
新約も旧約も同じことを教えています。クリスチャンの道は貧しい道ではありません。神は、わたしたちが貧しいことを望まれません。もしわたしたちの間に貧しさや困窮があるなら、それはある人たちがお金をしっかりと握りしめているからです。あなたは自分を愛すれば愛するほど、ますます飢えるようになるでしょう。これは確かな原則です。わたしたちが金銭を手放し、それを地上に行き巡らせ、物事を行なわせ、神の奇跡の一部とならせ、祈りに対する神の答えの一部となることを、わたしたちは願います。そうすれば、わたしたちに必用がある時、神が供給してくださいます。
自分を神の御言葉の上に置きなさい。そうでないと、神はご自身をあなたの中で遂行できないでしょう。まず自分を神にささげ、それから金銭を与え続けなさい。そうすれば、神はあなたに与える機会を持たれるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十四編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-09-07 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,828文字で、15分で読み終えることができます。)
あなたはクリスチャンになって以来、「もっと良い人にならなければならない」「善良な行いをしなければならない」と考え、努力してきたかもしれません。確かに、クリスチャンは誠実であるべきですし、愛を示すべきです。しかし、神がわたしたちに求めているのは、単なる「良い人」ではなく、「超越した人」です。
聖書は、私たちが「新しく造られた者」(2コリント5:17)であると言っています。これは、神が私たちをより良い人間にするのではなく、まったく新しい種類の存在へと変えようとしていることを意味します。では、わたしたちが「超越した人」になるとはどういうことでしょうか?これを知るためには、未信者の反応とクリスチャンの反応の違いを理解しなければなりません。
Ⅰ. クリスチャンの反応は未信者の反応と異なっている
人生の半分あるいは半分以上は反応の中で費やされます。人が話し、楽しいと感じる、これが反応です。人がわたしたちに無実の罪を着せ、わたしたちが弁明する、これも反応です。もしあなたが人との生活を注意深く分析してみるなら、人生の半分以上を反応の中で生きていることがわかるでしょう。
クリスチャンも反応の中に生きています。しかし、クリスチャンの反応は未信者とは異なります。一人の人の反応がどうであるかを見れば、その人がどういう人であるかを知ることができます。クリスチャンであるのにクリスチャンでない反応はあってはなりません。クリスチャンでないのにクリスチャンの反応を持ち得ることはありません。ですから、人がどのような種類の人であるかを知るためには、人がどのような反応をするかを見さえすればよいのです。
では、クリスチャンと未信者の反応の違いとは何でしょう?
Ⅱ. 山上での主の教え
マタイによる福音書第5章38節から48節を読みましょう。この部分の聖書はすべて反応について語っています。「『目には目を、歯には歯を』と言われたことを、あなたがたは聞いている」(38節)。「目には目を、歯には歯を」の意味は、人がわたしの目を傷つけるなら、わたしも彼の目を傷つけるという意味です。人がわたしの歯を折るなら、わたしも彼の歯を折ります。あなたがするようにわたしも行います。これを反応と呼びます。以前、旧約の律法を守った時代には、人はこの種の反応をしました。
しかしながら、主は言われました、「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪しき者に抵抗してはならない」(39節)。主が言われたことは、あなたがたの反応を捨て、別の反応をし、悪人に抵抗すべきではないということです。続けて三つのことを述べていますが、それらは聖書で最も有名な言葉で、多くの人が知っています、「あなたの右の頬を打つ者には、他の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、あなたの下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれでもあなたに強いて一マイル行かせるなら、彼と一緒に二マイル行きなさい」(39-41節)。左の頬、上着、二マイルは、すべてクリスチャンの反応です。右の頬、下着、一マイルは人の要求です。人の要求は右の頬ですが、わたしたちの反応は左の頬をも向けることです。人の要求は下着ですが、わたしたちの反応は上着です。人の要求は一マイルですが、わたしたちクリスチャンの反応は二マイルです。マタイによる福音書第5章38節から48節が見せていることは人の要求に対するクリスチャンの反応です。
多くのクリスチャンが何がクリスチャンの反応であるかを見ていません。彼らは良い生き方をし、とても道徳的です。彼らは、自分は理にかなっており、筋が通っていると思っています。しかし、彼らは、クリスチャンの反応は理屈や正しさに基づいているのを忘れています。彼らはもともとクリスチャンの反応がどうであるかを知りません。これが最大の問題です。ですから、初信者の兄弟姉妹は、何がクリスチャンの反応かを見なければなりません。
Ⅲ. 三種類の異なる反応
人の普通の事柄に対する反応は、三種類に分けられるでしょう。第一は理屈を言うことであり、第二は良い行ないであり、第三は神の聖なる命の反応です。理屈を言うという水準であれば、あなたの反応は短気を起こすこと、怒ることです。良い行ないという水準にあれば、あなたの反応は忍耐することです。神の聖なる命という水準にあれば、あなたはすべてを超越するでしょう。これらはわたしたちクリスチャンにあり得る三種類の異なる反応です。
今日誰かがあなたの右の頬を打ち、あなたの心がもし理屈で満ちているとしたら、あなたは言うでしょう、「どうしてこんな事が起こるのか?なぜあなたはわたしを打つのか?」。だれかがあなたの顔を打ったら、あなたはすごい短気を起こして彼に理屈を言うでしょう。あなたは理屈を言うことの中にいるのです。あるいはあなたは、クリスチャンなら良い行ないをすべきであって、怒ることは間違っていると知っているかもしれません。誰かがあなたの下着を取ろうとする時、あなたは忍耐して何も言わず、人が取るに任せます。これは短気を起こす反応よりずっと良いものです。しかし、主はもう一つの反応があることを言っておられます。その反応が、主が要求しておられるものです。
主がわたしたちに定められた反応は、誰かがわたしたちの頬を打ったら怒るというものではありません。だれかがわたしたちの下着を取ろうとしたら忍耐するというものでもありません。主は、だれかがわたしたちの右の頬を打つ時、左の頬を向けて再び打たせなさい、と言っておられます。下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。だれかがわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、二マイル行きなさい。この種の反応は、忍耐とは言わず、超越と言います。この種の反応は、人の要求の上を行きます。ただ要求に応じるだけでなく、人の要求を超越するのです。
主は、クリスチャンにはただ一つの反応だけがあることをわたしたちに見せておられます。その反応は、理屈を言うことでも忍耐することでもなく、超越することです。超越していないのはクリスチャンではないことを、覚えておいてください。
Ⅳ. クリスチャンの反応は超越である
A. 理屈を言うこと
この世の人は理屈に満ちています。十字架の第一の学科はわたしたちが理屈を言わないことを教えます。しかし、多くのクリスチャンが理屈を言ったり、義を語ったりして、「あなたはわたしを打つべきではなかった」と言っているのではないかと思います。クリスチャンの生活は理屈に基づいてはいません。すべて理屈を言うことは、信者の領域の中にないことです。もしあなたが人と理屈を言い合う程度にまで落ちているなら、それはクリスチャンの地位を離れてしまっているということです。
B. 正しい事や良い事を行なうこと
人がわたしの下着を求める時、わたしが与えなくてもそれは正しい事であり、与えるのであればそれは良い事であると、あなたはきっと言うでしょう。しかし、さらに上着をも与えるのがクリスチャンです。このように話せば、この道ははっきりするでしょう。誰かがわたしの下着をかすめようとする時、わたしは彼に与える必要があるでしょうか?ですから、わたしが与えないのは正しい事です。もし与えるなら、それは良い事です。わたしは善人だから彼に与えます。しかし、正しい事をする人がクリスチャンではありません。良い事をする人もクリスチャンではありません。クリスチャンは下着を与えるだけでなく、上着をも与えるのです。これがクリスチャンです。
C. 超越した事を行なうこと
クリスチャンの反応は、正しい事をするのでも良い事をするのでもなく、超越した事をすることです。神の子なら、迫害を受ければ受けるほど、追い込まれれば追い込まれるほど、歩む道がなければないほど、高く上がっていくべきです。人に押されて落ちるなら、これはみじめです。短気を起こす、理屈を言う、忍耐しようとするのであれば、これは残念なことです。人があなたを迫害すればするほど、出口がなくて壁にぶち当たるほど、さらに高く上っていくことができる、これこそクリスチャンです。
クリスチャンであるなら、このようにすべきです。このようにしないなら、あなたの内側はすっきりしないでしょう。クリスチャンが人と理屈を言い合うなら、家に帰るとすっきりしないのです。人に物を取られると、心の中でつぶやき、家に帰ってもすっきりしません。しかし、誰かが下着を求めるなら、あなたは上着をも加えます。そして家に帰れば、ハレルヤと叫ぶことができ、とても気持ちいいでしょう。このようなクリスチャンであれば、とても喜ぶことができるでしょう。
多くのクリスチャンは、二マイル目を行かないために、朝から晩まで憂え、苦渋に満ちています。もし二マイル行こうとするなら、あなたの内側は歌うことができるでしょう。
Ⅴ.クリスチャンの命は超越する命である
多くの兄弟姉妹が反応の上で困難を感じるのは、彼らが主を認識していないからです。二マイル目を行こうとすれば、左の頬を向けて打たせようとすれば、上着を取らせようとすれば、つらいと感じます。しかし、これらすべては主の要求です。ある人は、あなたの右の頬を打ち、それで満足するかもしれません。しかし主は、左の頬を向けて彼に打たせなさいと言われます。誰かがあなたを強いて一マイル目を行かせようとします。しかし主は、あなたに強いて二マイル目を行かせられます。左の頬、上着、二マイル目は主の要求であって、人の要求ではないことを見なければなりません。これは主があなたに要求されることであって、人があなたに要求することではありません。
わたしたちは主こそ理屈に合わない方であることを覚えておかなければなりません。もし一着目の服が理屈に合わないなら、二着目を求めることはもっと理屈に合いません。第二のものは主の要求であり、主の命令です。ですから、主の命令は、あの理屈に合わない人よりもさらに厳しいものです。理屈に合わない人でも、主の命令よりもっと厳しい人は一人もいません。
これはどうしてでしょうか?それは主がわたしたちにくださった命は超越の命であることを、主はご存じであるからです。その命は、超越しなければ気持ち良くないのです。その命は、超越しなければ楽しくないのです。その命は、困らせられれば困らせられるほど、辱められれば辱められるほど、損失を与えられれば与えられるほど、力を現します。これがクリスチャンです。
Ⅵ. これは神の子たちの恵みである
ある人は聖書がわからないので、マタイによる福音書第5章、第6章、第7章の教えは律法であると言います。これは律法でしょうか?違います。これは恵みです。目には目を、歯には歯を、それこそが律法です。何を恵みと言うのでしょうか?恵みとは、人が得るはずのないものを人に与えることです。第一番目の頬、一着目の服、一マイル目の道のりはすでに恵みです。なぜなら、それはみな人が得るはずのないものだからです。人の観念は、これは損であると勘定します。しかし、第一のこれらは、未信者が得ることのできない機会、すなわち超越した命を表現する機会をわたしたちに与えられたということです。わたしたちの内側の命はすべてを超越していますから、第一のものはみなわたしたちに触れることができません。ですから、わたしたちは一マイル行くことができるだけでなく、彼と共に二マイル目を行くことができるのです。下着を与えるだけでなく、上着をも取らせるのです。右の頬を打たせるだけでなく、左の頬も打たせるのです。これが恵みに恵みを加えることです。
Ⅶ. クリスチャンの勝利は超越の勝利である
わたしたちは、二マイル目を行けばそれで十分だと考えるべきではありません。二マイル目を行くのは一つの原則です。その原則は超越していることです。
超越は、頂上にいることです。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、あなたはマタイによる福音書第5章を思い出して、わたしは歯を食いしばって彼に打たせようとします。彼がわたしの下着を求めるなら、わたしは無理して彼に与えます。彼がわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、わたしはやむなく彼と共に二マイル行きます。このようにすることは役に立ちません。なぜなら、あなたは超越しておらず、高く上っていないからです。
では、どのような人が超越の勝利を経験できるのでしょうか?それは、人に辱められた時、主がわたしに豊かな命を与えてくださっていることを認識している人です。このような人には、主の命は超越しており、豊かに供給してくださるという信仰がありますから、このようなことができるのです。クリスチャンの反応は、わたしにはまだ余裕がある、さらに行なうことができる、というものです。なぜなら、彼の中には復活の主が生きており、その信仰の中に生きているからです。そのような人はこのように言うでしょう、「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです」(ピリピ4:13)。
Ⅷ. 注意すべき三つの事柄
最後に、この命の反応について、特に注意しなければならない三つの事があります。
A. 試み、邪悪な者から救い出されるように祈る
第一に、わたしたちは日々、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」(マタイ6:13)と祈る必要があります。なぜなら、わたしたちが地上でこの原則にしたがって生活するなら、人の見方によれば生きていけないからです。主がわたしたちに求めておられるこの反応は、地上では持つすべがありません。あなたがこれにしたがって何度か行うなら、あなたのすべては使い尽くされるでしょう。だからこそ山上の教えで主は、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」という祈りを挿入されたのです。主の守りがあればこそ、わたしたちはこの世で生きていけるのです。ですから、この祈りは絶対に必要です。あなたが超越した勝利の生活をしたいのであれば、毎日求める必要があります。
B. 識別力を持って語る
第二に、このクリスチャンの生活原則を未信者に語ってはならないということです。またこの原則を有名無実なクリスチャン、すなわち、名ばかり立派で、実際の生き方や態度が伴っていないクリスチャンに告げてはならないということです。これは、マタイによる福音書第7章が、「聖なるものを犬に与えてはならない、真珠を豚の前に投げてはならない」と言っているところです。犬と豚はどちらも汚れているものです。犬はすべての悪と汚れを表します。豚は命のない名ばかりのクリスチャンを表し、外側ではひずめが分かれていますが、内側では反芻(はんすう)しません。外面はクリスチャンですが、実質はクリスチャンではありません。これらの話を彼らにしてはなりません。少しでも言えば、自分に災いを招きます。あなたが彼らに言えば、彼は「あなたの頬を向きをかえて、試してみなさい」と言うでしょう。
C. クリスチャンの立場を守る
第三に、わたしたちはクリスチャンの立場を守らなければなりません。わたしたち自身は問題を求めないのですが、神の許しの下に、神の按配の中で、聖霊の管理において、わたしたちはこの類の事に出遭わされます。信者の手によるか、未信者の手によるか問わず、その時にはわたしたちは正当な反応をすべきであり、引き下がってはなりません。
これは不思議なことですが、クリスチャンの命はこのようです。迫害を受ければ受けるほど、困難に遭えば遭うほど、理屈に合わなければ合わないほど、神の御前では楽しいのです。これこそが幸いへと至る道です。もしも今日わたしが一人の兄弟の頬を打ったとして、その兄弟がすぐさまもう一方の頬を向けてわたしに打たせるならば、わたしは一ヶ月の間、すっきりしないでしょう。
すべてのクリスチャンは、地上において他人を利用することはできません。もしあなたがそういう事を一回すれば、神の御前で少なくとも一ヶ月を失ってしまい、起き上がろうとしても起き上がれないでしょう。人に打たせたほうが、家に帰ってよく眠れるでしょうし、食事もおいしいでしょう。利得を得れば得をするなどと絶対に思ってはいけません。反応が正しければ、正しい道を歩んでいるのであると、わたしたちは信じます。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十四編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-31 | 初信者成就シリーズ
(この記事は9,189文字で、19分で読み終えることができます。)
クリスチャンになると就職、結婚、日常生活に関わるあらゆる出来事において神のみこころが何であるのかを求めます。ある人は、「神に祈っても答えられない」と不平を漏らします。まず神のみこころを知る前に、重要なことを述べます。ヨハネによる福音書第7章17節は言います、「だれでも彼のみこころを行おうとするなら、・・・知るであろう」。
多くのクリスチャンが神のみこころを知りたいと願うのに、その答えが得られません。その理由は、彼らは根本的に神のみこころのままに行いたいという願いがないからです。彼らはただ、神のみこころを尋ね求める方法を持ち出して一つの知識にしてしまっているという事実があるからです。彼らには自分の願いがあって、ただ神に自分の助言者になってもらい、神のみこころを持ち出して参考にしているにすぎません。覚えておいてください。神のみこころは、ただそのとおりに行ないたいと思う人たちにのみ知らされるのです。ですから、神のみこころを知りたいなら、そのみこころどおりに行なおうと決意しなければなりません。これはとても重要なことです。
このことを踏まえた上で、どのようにして神のみこころを知ることができるのかを交わりたいと思います。
Ⅰ. 神のみこころどおりでなければならない
救われる前、わたしたちはすべて自分の心のままに行なっていました。当時は自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。しかし、今日わたしたちは主を信じる人となりました。彼はわたしたちの仕える主であり、わたしたちは主に買い戻された者、主に属する者、主に仕える者であることを認めました。ですから、救われた後、わたしたちには一つの根本的な変化がなければなりません。それは、わたしたちの行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、神のみこころどおりでなければならないということです。
ですから、いったん救われたなら、まず「主よ、わたしは何をすべきでしょうか?」と問うべきです。何かの出来事に遭遇した時、「主よ、わたしの意志のままではなく、あなたのみこころのままになさってください」と主に言うべきです。
わたしたちの得た命は、わたしたちの内側で神のみこころにしたがって歩むようにという基本的な要求をします。神のみこころどおりを行なえば行なうほど、内側にますます喜びがあります。わたしたちがクリスチャンになったなら、神のみこころを受け入れることと、神のみこころにすべてを支配させることを学ばなければなりません。もし神のみこころの下に従順に服することができるなら、回り道をすることが少なくてすみます。多くの人が失敗し、多くの人が命の成長に欠けるのは、自分の意志のままに行なうからです。
Ⅱ. どのようにして神のみこころを知るか
多くの場合、わたしたちのような地上の人が神のみこころを知ることなど、口で言うように簡単にはいかないと思っています。しかし、わたしたちが神のみこころを行ないたいと思っている以上に、神ご自身がみこころを行なってほしいと思っておられます。そのために、神は必ず適切な方法を用いてご自身のみこころがどのようなものであるかをわたしたちに知らせてくださいます。これは神の責任です。わたしたちはこれを信じる必要があるだけです。
それでは、どのような方法で神のみこころを知るのでしょうか?それは三つの事を通してです。第一に「環境の按配」、第二に「聖霊の導き」、第三に「聖書の教え」です。この順番は重要性にしたがったものではありません。ただ三つの事があると示したにすぎません。この三つの事柄の証しが同じであり、一つの路線上で一致する時、それを神のみこころであると断定することができます。もし三つのうちの一つが他の二つと一致しないなら、まだ待つ必要があります。三つがすべて一致する時にこそ、わたしたちはそれを行なうことができます。
A. 環境の按配
ルカによる福音書第12章6節では、「五羽のすずめが二アサリアで売られているではないか?」と言い、マタイによる福音書第10章29節では、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか?」と言っています。一アサリオンで二羽のすずめが買えるとすれば、二アサリオンでは四羽のすずめしか買えない計算になります。しかし主は、ニアサリアで五羽のすずめが買えると言われました(アサリアとアサリオンのギリシャ語は同じ)。一アサリオンで二羽、ニアサリアでは四羽とさらに一羽買えるということは、すずめがとても安いものであることを見せています。しかし、そのように安いすずめであっても、もし神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることがないのです。このことは、すべての状況が神の許可を経なければ起こらないことを見せています。もし天の父が許されなければ、すずめ一羽でさえ地に落ちることがないのです。
人の髪の毛が何本あるかを数えることは困難です。しかし主は、「あなたがたの頭の毛でさえ、すべて数えられている」と言われます(マタイ10:30)。「数えられている」というのは、原文によれば「番号をつけられている」と訳すこともできます。自分の頭の毛が何本あるか知っている人はいないでしょう。まただれも自分の頭の毛を数え上げることはできないでしょう。しかし、神はわたしたちの頭の毛を全部数え上げ、番号をつけておられます。わたしたちの神はこんなにも細かく、こんな事でさえいい加減にはなさいません。
このことから、わたしたちは主を信じたらすぐに、神のみこころを環境から知ることを学ばなければなりません。わたしたちの遭遇する事に、一つとして偶然はありません。すべての事は主によって計られています。あなたの仕事、環境、夫、妻、両親、子供たち、親族、友人、すべての事を、神はあなたのためにうまく按配してくださっています。ですから、環境の中で神のみこころを知ることを学ぶ必要があります。これが信者の最も基本的な学課です。
B. 聖霊の導き
神の御手は環境の中で現れますが、神の真の願いは、わたしたちを内側にあって導きを与えることです。ローマ人への手紙第8章14節は言います、「なぜなら、神の霊に導かれている者はみな、神の子たちであるからです」。わたしたちは神の子供たちであり、神の命を持っていますから、神は環境の中でわたしたちを導いてくださるだけでなく、またご自身の霊を通してわたしたちの内側で語り、導いてくださいます。
エゼキエル書は、「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える」(エゼキエル11:19)と言い、さらに再び「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け」(エゼキエル36:26-27)と言っています。「新しい霊」と「わたしの霊」は違うことを見分ける必要があります。「わたしの霊」は神の霊です。「新しい霊」は、わたしたちが新しく生まれた時に得た霊です。この新しい霊は、一つの部屋、一つの家のようなものであり、神の霊を住まわせることができるところです。もし内側にこのような新しい霊がなければ、神はご自身の霊をわたしたちに与えることはできません。昔からずっと神はご自身の霊をわたしたちに与えようとしてこられました。しかし、人の霊は汚れており、旧創造のもので罪に満ちており、しかも死んでいますから、神の霊を人のうちに住まわせることは不可能です。人が神の御前で新しく生まれて新しい霊を持ってはじめて、神の霊を受け入れることができ、神の霊は人のうちに住むことができるのです。
聖霊の働きは二つに分けることができます。一つは内側の促しです。例えば、使徒行伝第8章29節では、「するとその霊はピリポに『近づいて、あの馬車と一緒になりなさい』と言われた」とあり、使徒行伝第10章20節では、聖霊がペテロに「さあ、立ち上がり、下りて行き、何も疑うことなく彼らと一緒に行きなさい」と告げています。これは内側の促しです。
もう一つは内側の禁止です。例えば、使徒行伝第16章6節から7節では、「また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった」とあります。これらはみな内側での禁止を指しています。
初信者の兄弟姉妹が神のみこころを知りたければ、内側の感覚を少しは知らなければなりません。神の霊は、人の最も内側の場所に住んでおられますから、聖霊の感覚は浅薄なものではなく、外面的なものでもなく、最も深みから出てくるものです。声のようでなくてもやはり声のようでもあり、感覚のようでなくてやはり感覚のようでもあるのです。もしあなたが命のある人なら、この命に従順に歩みさえすれば、正しいと感じるでしょう。
しかし、注意すべきことは、内側の感覚を過度に分析してはいけません。これは正しい、これは間違っていると分析し続けるのでしたら、一日中それをしていてもはっきりしません。ある人は、霊の感覚とはどんなものか、魂の感覚とはどんなものかと、そればかり注意して分析しています。これは全く不健康な状態です。これは一種の霊的病気です。実は、人が分析するのは、光が十分にない時だけです。もし光が十分であれば、すべては自然に明らかになり、時間をかけて分析することなど少しも必要でないはずです。
C. 聖書の教え
神のみこころは環境の中で明らかにされるだけでなく、またわたしたちの内側に住んでおられる神の聖霊を通して知らされるだけでなく、聖書を通しても知らされます。
神のみこころは永遠に変わりません。過去の人々は多くの事に出会いましたが、神はその中でご自身のみこころを明らかにしておられ、その事はみな聖書に記載されています。ですから、神のみこころについては、すでに多くの原則、模範が聖書に記されています。神のみこころを知りたければ、真剣に聖書を読まなければなりません。神のみこころは決して、ある時はこうで、またある時は別であるということはあり得ません。キリストにあっては、ただ「しかり」があるだけです(Ⅱコリント1:19)。わたしたちに対する神のみこころが聖書の教えと反することは決してありません。神が聖書の中で間違いであるとしているのに、今日、聖霊がわたしたちを導いてそれをさせるようなことは決してあり得ません。
神が聖書を通してわたしたちに語られる言葉は、二つに分けることができます。一つは聖書の原則的教えであり、もう一つは聖書の約束の言葉です。聖書の原則的教えは、聖霊の照らしによって明らかにされるものです。聖書の約束の言葉は、聖霊の導きによって得られるものです。例えば、マタイによる福音書第28章19節から20節の主の命令の中で聖霊が告げるのは、クリスチャンは人々に福音を宣べ伝えるべきであるということですが、これは聖書の原則的教えです。しかし、もしあなたがある所に行って福音を伝えたい時に、これが神のみこころであるかどうかという問題は、聖霊の導きによって解決される必要があります。あなたは神の御前で多く祈り、神が言葉を与えてくださるように求めるべきです。ある日、聖霊が聖書の中からある言葉を、あるいはある個所を、力強く、新鮮に、生き生きとあなたの内側に置かれるでしょう。それが聖霊があなたに与える約束の言葉です。このようにして、それが神のみこころであるかどうかを知り始めるのです。
Ⅳ. 神のみこころを知る具体的な例
さて、この三つの事柄を一緒にしてみましょう。この三つの順番は定まっていません。ある時、まず環境の按配があり、それから聖霊の導きと聖書の教えがあります。またある時は、まず聖霊の導きと聖書の教えがあって、それから環境の按配が来ます。環境の按配は、神の時と関係があります。ムーディー兄弟は神のみこころを求める時、常に三つの事を問いました。第一に、この働きは神の働きであるか?第二に、この働きは神がわたしに行なわせたい働きなのか?第三に、この時は神の時であるか?第一と第二の問いは、聖書の教えと聖霊の導きから解決することができますが、第三の問いは、環境の按配を見てはじめてわかります。
もし内側の感覚が聖霊の導きであるかどうかを知りたいのでしたら、わたしたちも二つの問いをしなければなりません。第一に、聖書の教えに合っているかどうか、第二に、環境の按配があるかどうかです。もし聖書の教えに合わなければ、それは神のみこころではありません。もし環境の按配がなければ、それは待つ必要があります。もしかすると、わたしたちの感覚が間違っているのかもしれませんし、あるいは神の時がまだ来ていないのかもしれないからです。
神のみこころを求める上でわたしたちが学ぶべき学課は、間違うことを恐れ、主観的にならないことです。わたしたちは神に対して、神のみこころでない道をみなふさいでくださるように求めることができます。
例えば、ある人があなたを招いて働きをさせて、あなたが何かをしようとするとします。あるいは、ある人があなたに自分の前途について再考慮するように勧めるとします。その時、あなたはどのようにしてそれが神のみこころであるかどうかを知りますか?まず聖書の教えを見ます。神が御言葉の中でこのことについてどう教えておられるかを見ます。それから、自分の内側がどう感じるかを問います。聖書はこのように教えているが、あなたの内側では正しいと感じるでしょうか?もし内側の感覚と聖書に書かれていることが違っていれば、それは内側の感覚に全く信頼するわけにはいかないことを証明しているのですから、少し待つべきです。そしてまた尋ね求めます。
もし内側の導きと聖書に書かれている事が一致しているなら、頭を上げて言ってもよいでしょう、「主よ!今までは、あなたのみこころは環境の中で現されてきました。わたしの内側の感覚と聖書の教えが同じであっても、環境はそうでないということは今までありませんでした。主よ!どうか環境を十分に整えてください。環境と聖書の教えと聖霊の導きとを一直線に整えてください」。このようにしてあなたは、神が確かに環境の中でご自身のみこころを現されるということを見るでしょう。もし神のみこころであれば、神がわたしたちに外側で見せていることと、わたしたちが内側で見ていることと、聖書の中で見ることとは、必ず一直線上にあるのです。あなたの内側がはっきりしており、聖書の教えがはっきりしており、環境もはっきりしていれば、神のみこころに対してもはっきりするでしょう。
Ⅴ. 教会の承認とその他の要素
神のみこころは、神の言葉の中や、人の霊の中や、環境の中に現れる以外に、教会の中にも現されます。もしあなたがある事のために神のみこころを尋ね求めるなら、一方において内側ではっきりとした聖霊の導きを受け、聖書の教えと一致するようにし、環境の按配もあるべきですが、もう一方において、もし機会があれば、あなたがみこころについてさらに把握を持つために、教会の中で神を認識している人たちと少し交わることが良いでしょう。
A. 教会の承認
彼らがあなたの思っていることに「アーメン」を言えるかどうかを見ることは大いに助けになります。彼らは聖書についてかなりの認識がありますし、肉もかなりの対処を受けてきましたし、聖書の支配の下に生きており、霊的状態も神が彼らを通してご自身のみこころを語り出すことができる状態ですから、教会の中で現れているあなたの状態にしたがって、あなたの見ているものに関して「アーメン」を言うことができるかどうかを感じることができます。
もし彼らが「アーメン」を言うことができれば、あなたは神のみこころについて確信を持つことができますが、もし彼らが「アーメン」を言うことができなければ、あなたはさらに待つ必要がありますし、さらに確実になるように神に尋ね求めなければなりません。というのは、わたしたち個人には限りがあり、個人の感覚、聖書の教えについての個人の了解、環境の按配に対する個人の認識には誤りがあったり、十分正確でなかったりすることがあるからです。しかし、教会は比較的頼りになります。もし教会の中の他の肢体たちがあなたの得た「導き」についてみなあまり信用できないとする時は、自分の意見に固辞してはなりません。このような状況になったら、へりくだることを学ばなければなりません。
主イエスは言われました、「あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」(マタイ18:18)。教会は神の住まい、神の光のある所ですから、神のみこころが教会の中で明らかになることを信じなければなりません。わたしたちはへりくだった態度を持つべきです。自分の見方に誤りがあることを恐れるがゆえに、教会との交わりが必要であり、からだの供給が必要なのです。
しかし、わたしたちは極端へと走るのを防がなければなりません。あるクリスチャンは受け身になりすぎて、何でも教会に聞きに来て、別の人に代わりに決めてもらおうとしますが、これは根本的に新約の原則に反しています。わたしたちは教会の中の霊的な人たちを旧約の預言者のように見て、あらゆることを彼らに教えてもらおうとしてはいけません。ヨハネの第一の手紙第2章27節は言っています、「あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません。彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます」。この油塗りはわたしたちの内側に住んでいる聖霊です。教会の承認を、この油の教えに代えることは絶対にできません。教会の承認は預言ではありません。それは、わたしたちの見たものと教会の見ているものとを照合して、神のみこころについてさらに確信を得るための機会なのです。ですから、それは個人が神のみこころを尋ね求めることの保護であって、個人が神のみこころを尋ね求めることに取って代わるものではありません。
もう一点知っておくべきことは、先に述べた神のみこころを尋ね求める方法についてですが、それはみな比較的重大な事について応用するものであって、日常生活の中の些細な事の場合にはこのような方法で尋ね求める必要はなく、人としての常識にしたがって決定すれば十分です。
B. その他の要素
幻と夢についてほんの少し触れておきましょう。旧約では、神は多くの幻や夢を通してご自身のみこころを人に告げられました。新約でも幻や夢はありますが、神はそれらを主要な導きとしてはいません。新約の特徴は、神の霊がわたしたちの内側に住んでいるので、神は直接わたしたちの内側で語りかけることができることです。ですから、主要な通常の導きとは、内側の導きです。神が特に重要な事を知らせたいが、普通の状態ではわたしたちがその導きを受けるのが難しい時には、幻や夢の導きを与えられるでしょう。新約では、幻や夢は神の導きの普通の方法ではありません。ですから、それが妥当で確かなものとなるためには、幻や夢を見せられても、さらに内側の証明と環境の証明を求めなければなりません。
例えば、使徒行伝第10章で見せていますが、神はペテロに異邦人に福音を宣べ伝えに行くよう求められました。ペテロはユダヤ人であり、その習慣によれば、決して異邦人の所に行こうとはしません。そこで神はペテロのこの観念をくつがえすために幻を見せたのです。ペテロが幻を見た後、環境の按配上では、コルネリオから遣わされた三人の人が尋ねて来て、もう一面において、聖霊もペテロに語りかけています。これら内側と外側の証明があってはじめて、これは神のみこころであると確信することができます。
あるクリスチャンは、いわゆる幻や夢を多く見るので、それがすっかり日常茶飯事になってしまっています。これは一種の霊的病気です。それは、神経が衰弱しているか、サタンの攻撃を受けているためか、悪霊によって惑わされているかでしょう。いずれにしても、それは不正常な現象です。
結論として、神がわたしたちを導かれる方法は多方面にわたっています。各自の霊的状況は異なっていますし、必要も違いますから、神がそれぞれを導かれる方法も同じではありません。しかし、一般的な方法は、やはり環境の按配、内側の導き、聖書の教えです。ここで繰り返し言いますが、もしこの三点がはっきりと一直線上にあるなら、神のみこころについてかなりの確信を持つことができるでしょう。
Ⅵ. 神のみこころを知っている人
最後に、方法がすべて正しくても、すべての人が神のみこころを知ることができるとは限りません。正しい方法が役に立つのは、人も正しい時だけです。反逆的な人が神のみこころを知ろうとしても、それは無駄です。神のみこころを知ろうとするなら、内側からこのように求めるべきです、「主よ、わたしはあなたのみこころどおりを行ないたいです!」。
申命記第15章17節にある、奴隷の耳を戸に刺す事が見せていることは、もし神に仕えたいなら、あなたの耳はひたすら神の言葉に聞き従わなければならないということです。あなたは主の御前に来て言うべきです、「わたしの耳を戸の上に刺し通してください。あなたの言葉に釘づけられたいと願います。わたしはあなたに仕えたいです。どうかあなたの言葉を聞かせ、あなたのみこころを知らせてください」。わたしたちは耳が戸の上に釘づけられるように、主の言葉に耳を傾けなければなりません。
神のみこころを知ることは小さな事だと決して思うべきではありません。神の目には、わたしたちは虫けらです。このような小さく卑しい人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!わたしたちのように極限まで腐敗している人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!神はご自身を低くしてわたしたちにみこころを知らせてくださるのです。ですから、わたしたちは神のみこころを知ることを学び、伏して礼拝し、神のみこころを尊び、神のみこころを行なわなければなりません。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十七編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-24 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,803文字で、17分で読み終えることができます。)
多くのクリスチャンは主に対して間違った考えを持っています。すなわち、主は地上にあってわたしたちのためにすばらしい模範を残されたので、わたしたちはそれに倣うべきであるとしていることです。確かに、聖書は主に倣いなさいと命じています(Ⅰコリント11:1など)。しかし、聖書は決して自分自身によって主に倣うようにとは言っていません。わたしたちはまずあるものを見てはじめて、主に倣うことができます。多くの人はいつも主に倣いたいと思いながら、いつも失敗しています。彼らは、人がどんなに駄目であるかを知りませんし、人の肉の力には絶対に主に倣う方法がないことを知りません。
あるクリスチャンは、聖書は「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行うことができるのです」(ピリピ4:13)と告げていると言います。ですから、彼らは主に力を求めるのです。彼らは多くの事をすべきである、聖書の多くの命令を守るべきである、主の多くの模範に倣うべきであると感じますが、自分には力がないので主に力を求めるのです。彼らは、もし主が力を与えてくださるなら、すべての事をすることができると思っています。それで多くの人は、毎日毎日、主が力を与えてくださるようにと主を仰ぐのです。
力を与えてくださるように主に依り頼むことは正しいです。しかし、主が力を与えてくださること以外に、見なければならない一つのことがあります。もしそれを見ないなら、主に力を与えてくださいと仰いでも、ずっと力のないままでいることになります。主に力を求めることは良いことです。しかし、時にはこの祈りは答えられますが、時にはこの祈りは答えられないかのようです。そうであれば、主が力を与えられた時はすべての事ができて、主が力を与えられない時はどんな事もできないということになります。ですから、多くのクリスチャンはよく失敗するのです。
Ⅰ. キリストはわたしたちの命である
聖書の中で見せている主とわたしたちの関係はいったい何でしょうか?それは「キリストはわたしたちの命である」ということです。キリストがわたしたちの命となってこそ、わたしたちは主に倣うことができます。「キリストはわたしたちの命である」とは何をいうかがはっきりしないなら、わたしたちには主に倣うすべはありません。ですから、「キリストはわたしたちの命である」という秘訣がまず明らかになり、まずこれを見て、まずこれを得て、そうしてはじめてキリストに倣うことができるのです。
Ⅱ. わたしたちにとって生きることはキリストである
多くのクリスチャンは、ピリピ人への手紙第1章21節の「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、」という御言葉についてとても大きな誤解をしています。パウロの言っている「わたしにとって生きることはキリストであり」とは、一つの事実なのです。それなのに彼らは「わたしにとって生きることはキリストであり」を一つの目標、あるいは一つの望みにしているのです。実際パウロは、「わたしにとって生きることはキリストであり」という目標があると言っているのではありません。パウロは、わたしが生きることができるのはキリストがあるからであり、もしキリストがなければわたしは生きることができない、と言っているのです。これは彼の事実であって、目標ではありません。これは彼の生活の秘訣であって、望みではありません。彼の生活はキリストです。彼が生きることは、キリストが生きることです。
ガラテヤ人への手紙第2章20節の「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という御言葉は、多くのクリスチャンがとてもよく知っている一節です。しかし、多くの人はこの節をピリピ人への手紙第1章21節よりもさらに誤解しています。彼らはガラテヤ人への手紙第2章20節を彼らの目標とし、神の御前で祈り求め、熱望し、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という境地に達したいと望みます。彼らはいつかわたしもパウロのようになり、キリストがわたしの中に生きておられるようになりたいと願います。
しかし、わたしたちの過去の経験によれば、このように願った人がこの目標に到達し得たのをいまだに見たことがないと言えるだけです。もしあなたがそれを目標とするなら、もしその境地に達することを願うなら、もし十字架に釘づけられることを願うなら、もし生きるのはあなた自身ではなくてキリストがあなたの中に生きることを願うなら、いつまで、何年何月まで待たなければならないかわかりません。なぜなら、これはあなたには絶対にできないことだからです。
これは、神がわたしたちに与えられたすばらしい恵みであることを、わたしたちは知らなければなりません。このすばらしい恵みの中に一筋の出口があり、すべて失敗した人に勝利を得させ、すべて汚れた人を清くし、すべて俗な人を聖とし、地に属するすべての人を天に属させ、肉に属するすべての人を霊的にすることができます。これは方法であり、目標ではありません。この方法は、代わりの命によります。主の恵みの中に、代わりに死ぬことがあるのと同様に、代わりに生きることもあります。
主は十字架上で、わたしたちに代わって罪を担い、死ぬことによってわたしたちを死から免れさせ、わたしたちの罪は赦しを得て、裁きを免れました。同様に、ここでまたパウロは、主はわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きることを免れさせてくださると告げています。この意味はとても簡単です。すなわち、キリストがわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きる必要はないということです。キリストが十字架上でわたしたちの代わりに死なれたように、今日、キリストはわたしたちの中でわたしたちに代わって生きてくださいます。パウロは、わたしは自分が生きないことを願っている、キリストに生きてもらうことを願っている、と言っているのではありません。彼は、わたしは生きない、キリストが生きてくださる、と言っているのです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これが勝利の秘訣であり、これが勝利を得る方法です。
死を免れることは大いなる福音です。同様に、わたしたちが生きる必要はないということも大いなる福音です。主があなたをあわれんで光を与えてくださいますように。
A. キリストがわたしたちの中で生きる
もしわたしたちがこれを見なければ、証しを維持したり、クリスチャンの生活を維持したり、試みを拒絶したり、十字架を負ったり、神のみこころにしたがうことは、大変な重荷であると感じるでしょう。主を信じる多くの人は、クリスチャン生活を維持することは大変なことであり、しかもとても力まなければならないと思っています。こういう状況は、彼らが間違った方法でクリスチャン生活を送っていることを示しています。パウロは言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これがクリスチャン生活の秘訣です。主があなたの中でクリスチャンになってくださるのであって、あなたがあなたの中でクリスチャンになるのではありません。もしあなたがあなたの中でクリスチャンになるのであれば、忍耐は苦痛であり、愛も苦痛です。へりくだりも苦痛ですし、十字架を負うことも苦痛です。もしキリストがあなたの中で生きてくださるのなら、忍耐は喜びであり、愛も喜びです。へりくだりも喜びですし、十字架を負うことも喜びです。
ここに大いなる福音があります。神はあなたが善をすることを求めません。また善をしようとする意志も求めません。神は、キリストがあなたの中で生きることを求められます。神が注意されるのは、善を行うか行わないかの問題ではなく、「だれ」が善を行うかの問題です。わたしたちがキリストに倣うのではなく、わたしたちがキリストの力を得るのではなく、「キリスト」がわたしたちの中で生きられるということです。
生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20前半
Ⅲ. わたしはすでにキリストと共に十字架につけられた
あなたはこのような質問をするかも知れません。「どのようにすれば生きているのはもはやわたしではないとなるのでしょうか?」この「わたし」はどのようにすれば除き去られるのでしょうか?この問題の答えは、ガラテヤ人への手紙第2章20節の「わたしはキリストと共に十字架につけられました」です。
わたしたちの内側の目が開かれて、主イエスが十字架上で死なれた時、神はわたしたちをキリストの中に置いて、キリストと共に死なせられたことを、わたしたちは見る必要があります。これは神の側での働きです。あなたは、主イエスがあなたの罪を担ってあなたの代わりに死なれたことを信じました。それは約2000年前の出来事でした。同じように、主イエスが十字架に釘づけられた時、神はあなたという人をも共に十字架上で対処されました。あなたの罪が約2000年前に解決されたように、あなたという人もまた約2000年前に解決されました。神があなたの罪を主イエスの身に帰されたその時に、神はあなたという人をも主イエスの身に帰されたのです。十字架上であなたの罪は終わりました。十字架上であなたという人も終わりました。キリストと共に十字架につけられることを望むのではありません。すでにキリストと共に十字架につけられたのです。わたしたちはすでに終わらされているのです。
聖書は、幕屋の中の垂れ幕にはケルビムが織り出されていると告げています(出エジ26:1)。主イエスが世を去られた時、垂れ幕が裂けました(マタイ27:51)。そして当然ケルビムも裂けました。この垂れ幕は主イエスの肉体を指しています(ヘブル10:20)。ケルビムには人の顔、獅子の顔、牛の顔、わしの顔がありました(エゼキエル1:10,10:20)。ケルビムは被造物を代表しています。主イエスの肉体が裂かれた時、神は被造物を主イエスの中に置いて、みな一緒に裂かれました。ですから、旧創造すべてが過ぎ去りました。キリストが十字架上に釘づけられた時、旧創造全体が裂かれました。あなたもそこにおいて裂かれたのです。
この真理について、あなたは必ず信じなければなりません。罪は十字架上にあり、人もまた十字架上にあります。あなたの罪はすでに担われ、あなたという人はもはや釘づけられて死んでいます。これはキリストがなさった事です。多くの人が失敗するのは、いつも自分の内側を見つめるからです。信仰のある人は、十字架上を見つめるべきであり、キリストが成し遂げられたことを見るべきです。神はわたしをキリストの中に置かれたのですから、キリストが死なれたのであれば、わたしも死んだのです。
A. 十字架は人に対する神の決断である
しかし、どうしてあなたという「人」は今日なおも生きているのでしょうか?あなたは釘づけられて死んだのに、どうしてまだ生きているのでしょうか。この問題を解決するためには、あなたは信じる必要がありますし、意志を用いて自分を神の側に置く必要があります。「死」とは、人が弱くなり、さらに弱くなり、極みまで弱くなって、これ以上弱くなれないほどまで徹底的に弱くなることです。多くの人は自分の弱さを認めません。自分に対して多くの要求があるなら、その人はまだ死んでいません。
今日、多くのクリスチャンが、自分はダメなのにやはり行おうとします。例えば、ある人が忍耐できない時、どうするでしょうか?もし彼が自分で忍耐しようとして、力を尽くして忍耐し、祈る時も忍耐を求め、働く時も忍耐を思うとしたら、忍耐すればするほどますます忍耐できなくなるでしょう。彼は次のように言うべきです、「主よ、あなたはすでに、この忍耐できないわたしを釘づけられました。わたしは忍耐できない人です。わたしは忍耐する必要がありませんし、忍耐しようとも思いません。」これが勝利の道です。
主はあなたを十字架に釘づけられたのですから、あなたは「アーメン!」と言うべきです。主はあなたを十字架につけられたのに、もしあなたがまだ自分で忍耐しようと思うのでしたら、それは駄目です。神はあなたが良くなる見込みがなく死ぬしか方法がないとして、あなたを釘づけられたのに、あなた自身はいまだに自分に望みがあるとして忍耐しようとします。これは、大変な間違いをしていることになります。神はあなたを死ぬべきだと見ておられるのですから、あなたは「アーメン、わたしは死に渡されるべきです」と言えばよいのです。十字架は、わたしたちに対する神の決断です。神はあなたが死ぬ以外道はないと認められたので、あなたを釘づけられたのです。
ですから、これには二面あります。第一に、キリストは死なれ、わたしたちは十字架につけられました。これは神がなさった事です。第二に、わたしはこの事を認めて、「アーメン」と言う必要があります。これはあなたがすべきことです。この二面が必要です。わたしたちはこんなに長い間、こんなに多くの罪を犯し、こんなに多くの弱さを持ち、こんなに多くの高ぶりを持ち、こんなに多くのかんしゃくを起こしてきましたから、わたしたちは自分に対して諦めるべきです。主の御前に来て、主に言いましょう、「わたしはすでに十分にやってきましたが、本当に駄目でした。今日、わたしはもう諦めます。あなたが来てください!わたしはすでに十字架につけられたのですから、今から後はあなたに生きていただきます!」これが、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」ということです。
Ⅳ. 神の御子を信じる信仰によって生きる
ガラテヤ人への手紙第2章20節にはさらに二つの重要な言葉があります、「そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、・・・神の御子の信仰の中で生きるのです」。キリストはわたしたちの中に生きておられます。今後わたしたちは神の御子の信仰によって生きます。わたしたちが日々信じるのは、自分自身の信仰ではなく、神の御子の信仰です。神の御子がわたしたちの中に生きておられるのです。この神の御子の信仰によって生きます。わたしたちは主に向かって言います、「主よ、わたしはあなたがわたしに代わって生きておられることを信じます。主よ、わたしは、あなたがわたしの命となっておられることを信じます。わたしが信じるのは、あなたがわたしのなかに 生きておられることです」。わたしたちがこのように信じるなら、わたしたちはこのように生きるのです。どんなことが起ころうとも、わたし自身は動きません。自分が動いても役に立たないのだから、今後は動かないということです。
サタンがわたしたちを試みる目的は、わたしたちに罪を犯させることだけでなく、わたしたちの古い人を動かそうとすることです。ですから、試みがやってくる度にわたしたちは、動く事を拒絶する学びをし、主に向かって次のように言うべきです、「主よ、これはわたしの事ではありません。これはあなたの事です。このことにわたしには責任がありません。あなたが代わって生きてくださることを仰ぎ望みます」。仰ぎ望むことを学ぶのであって、自分が動いてはなりません。わたしたちの救いは、信じることによるのであって、行為によるのではありません。わたしたちの命も、信じることによるのであって、行為によるのではありません。
失敗は人の行ないが足りないことによるのではなく、人の行ないが多いことによります。わたしたちの行為が多い時、主の命は現れません。わたしたちは日ごとにこのように言うべきです、「主よ、わたしは役に立ちません!あなたの十字架をわたしは受け入れます。主よ、わたしが動かないように守ってください。主よ、あなたが主となって、あなたが生きてください!」。もしあなたが信じることができ、仰ぎ望むことができ、依り頼むことができるなら、毎日、「わたしが生きているのではなく、キリストが生きておられる!」と証しすることができるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-17 | 初信者成就シリーズ
(この記事は7,235文字で、18分で読み終えることができます。)
あなたがもしクリスチャンになって、一度も罪に悩まされたことがなく、罪の感覚を失い、この世の人のように生きているなら、それはすでに良心が麻痺しているか、主を愛していないということでしょう。しかし、あなたがクリスチャンになった後に、常に罪に悩まされ、罪に打ち勝てず、罪に誘惑され、罪に敗北しているなら、それは「正常なクリスチャン」ではありません。なぜなら聖書は、クリスチャンは罪と死の法則から解放されている(ローマ8:2)と言っているからです。
人が主を信じると、すぐに罪から解放されることができます。しかし、すべて主を信じた人がこれを経験するとは限りません。主を信じても多くの人は罪から解放されないばかりか、しばしば罪悪の中に陥っています。間違いなく彼は救われていますし、主のものですし、彼らの中にはすでに永遠の命があります。しかし、彼らはしばしば罪に邪魔されて、自分が願うようには主に仕えることができないでいます。
主を信じてから罪に悩まされるのは、確かにとても苦しいことです。神に照らされている人は、鋭い良心を持っています。彼には罪の感覚があり、内側には罪を罪定めする命があります。それは罪に悩まされると苦しいと感じさせますし、がっかりさせます。これは確かにとても苦しい経験です。
それで、多くのクリスチャンは罪に打ち勝とうと思います。ある人は、罪には打ち勝つ必要があると思っているので、罪と争い、それに打ち勝とうとします。ある人は、罪は彼を不自由にしているので、もし努力奮闘すれば罪のなわめから解かれるとして、力の限り奮闘します。ある人は、祈りによって罪に打ち勝とうとし、必死に悔い改め、必死に罪を犯さないようにと神に助けを求めます。しかし、これらはすべて人の意見であり、神の言葉ではなく、神の教えではありません。これらの方法はすべて、人を勝利へと導くことができません。神の言葉は、わたしたちの力を用いて罪と格闘するようにとは決して言っていません。神の言葉は、罪から救われるように、あるいは罪から解放されるように、罪から自由を得るようにと言っています。
罪はもともと一つの力であり、それはあなたを捕まえていました。**今あなたはこの力を消すのではなく、主によってそれから解放していただくのです。**あなたはもともと罪を持っており、それを離れる方法がありませんでした。**今日、主はそれを打って死なせるのではなく、あなたをそれから引き離して、罪の力から救うのです。**初信者のクリスチャンは、主を信じたらすぐに罪から解放されることを知るべきです。罪から解放されるまで、幾つも曲がり角を曲がる必要はありません。主を信じたらすぐ自由の道を歩むべきです。さて、ローマ人への手紙第7章と第8章からこの問題を解決してみましょう。
Ⅰ. 罪は法則である
ローマ人への手紙第7章15節から25節は言います、「わたしは自分のしていることを認めません。なぜなら、わたしは自分の欲することを実行せず、かえって自分の憎むことを行っているからです。もしわたしの行っていることが、自分の欲しないことであるなら、わたしは律法が善であることに同意することになります。ですから、それを行ない出しているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです。わたしは自分の欲する善を行なわず、かえって自分が欲しない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行ない出すのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。そこでわたしは、善を行おうと欲しているわたしに、悪が共にあるという法則を見いだします。わたしは、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、わたしの思いの法則に逆らって戦っており、わたしの肢体の中にある罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見ます。何とわたしは苦悩している者でしょう!・・・このように、わたし自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。
15節から20節でパウロは、「欲する」「欲していない」という言葉を繰り返し用いています。ここでの重点は、欲する、欲しない、志を立てる、志を立てない、です。21節から26節では、彼はもう一つの重点、すなわち「法則」と見せています。この二つの重点がこの部分の聖書の鍵です。
わたしたちはまず、何を法則と言うのかをはっきりさせましょう。一般的に言うと、**法則の意味は、絶えず同じであり、例外がないことです。しかも法則には力があります。**法則の力は自然であって、人が作り出す必要はありません。例えば、引力は法則です。一つの物を上に向かって投げるなら、それは自然に地上に落ちてきます。手で引っ張り下ろす必要はありません。地球には自然にそれを引っ張り下ろす力があります。何を投げても、どこで投げても、いつ投げても、この法則は変わりません。
ローマ人への手紙第7章は、パウロが勝利を得ようと思っていたことを見せています。彼は罪を犯さないでいられたら、神が喜ばれる事をすることができたら、一番良いと思っています。彼は罪を犯すことを願わないし、失敗することを願いません。しかし結果は、彼は自分がしようとしても駄目であることを認めています。彼は言っています、「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行うことはないからです」。彼は罪を犯すことを願わないのに、犯してしまいます。彼は善をしようと願い、神の律法を行なうことを願っているのに、そうできません。言い換えれば、自分が願うことはすべてできません。自分が志を立てても全部できません。パウロの結果はすべて失敗です。ここからわかるように、勝利の道は人の願いにあるのではなく、人が志を立てて決心することにあるのでもありません。パウロは何度も志を立て、願った上にまた願いましたが、結果はやはり失敗でした。これは、しようとする意志は自分にあるが、それをする力がないことを、明らかに見せています。
なぜ「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはない」(ローマ7:18)のでしょうか?それは罪が一つの法則であるからです。パウロは21節で、しようとするが失敗するのは、罪が一つの法則であることを示しています。彼が善をしようと志を立てる度に、罪を犯す法則が彼と共にあるのです。彼は心の中では神の律法に従うのですが、彼の肉体は罪の法則に従うのです。彼が神の律法に従おうと決心する時、彼の肢体には別の法則があって、彼をその肢体の中にある罪の法則に従うようにとりこにするのです。
聖書の中で、パウロは罪が法則であると語った最初の人でした。これはとても重要な発見です!!!残念ながら、多くの人はクリスチャンになって何年も経つのに、罪が法則であることを見ていません。多くの人は、地球の引力が一つの法則であることを知っています。しかし彼らは罪も一つの法則であることを知りません。パウロも最初は知りませんでした。しかし、罪と格闘し、何度も敗北した結果、罪が法則であることを発見しました。
わたしたちの失敗の歴史はわたしたちに告げますが、誘惑が来た時、心の中では抵抗しようと思うのに、うまく抵抗できずに失敗してしまいます。二度目に誘惑がやって来ると、また抵抗し、結果はまた失敗です。これがわたしたちの失敗の歴史であり、一回、また一回とすべてこのようです。これは決して偶然ではありません。これは法則です。
Ⅱ. 人の意志は罪の法則に打ち勝つことができない
パウロが最初失敗したのは、ずっと自分の意志を用いて「欲したり」、「しようとした」からです。しかし、21節の後、パウロの目は開かれて、彼が対処しなければならない敵である罪は、法則にほかならないことを見ました。罪が一つの法則であるのを見ると、彼はため息をついて言うほかありませんでした、「何とわたしは苦悩している者でしょう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」。彼は、意志をもって罪を対処することはできないことを認識しました。
何を意志と言うのでしょうか?意志とは、人の考え、つまり人が自分で決め、しようと思ったり、欲したり、主張したり、決断したりすることです。人の意志は、一つの事をやろうと決めると、それを遂行しようとします。人の意志は力を生み出すことができます。ですから、意志には力があります。
例えば、たばこを吸っていた人がキリストを受け入れたとします。その人は、クリスチャンはたばこを吸うべきではないと思いました。そして、彼はたばこを辞めることを決意します。しかし、結果はどうでしょう?彼は辞めようとすればするほど、たばこを吸いたいという衝動に駆られるでしょう。これは世的なことであるため、意志が強い人は克服することができるかも知れません。では、これはどうでしょう?
イエスはマタイによる福音書第5章28節で言いました、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのである」。続けて、マタイによる福音書第6章44節は言います、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。極め付けには、マタイによる福音書第6章48節は言います、「だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」。これは神が世の人を愛しておられる完全な愛で、世の人を愛しなさいという意味です。
人は良い事を行おうと、神の命令を守ろうと決意することができます。しかし、問題はここにあります。意志と罪の法則が相反する時、いったいどちらが勝利するかです。たいてい最初は意志が勝ちます。しかし、最後は必ず罪が勝ちます。
例えば、ある重さの本を手に乗せるとします。引力はそれを下に引っ張りますが、あなたは力いっぱいそれを支えます。しかし、法則が絶えずそこに働いて、それを地面へと引っ張ります。あなたはそれを落ちないように持ち続けます。結果、一時間は勝利するでしょう。二時間になると、少し疲れを覚え、さらに一時間経つと、あなたの手は言うことをきかなくなってしまい、手放さなないではいられなくなります。意志を用いて罪に打ち勝とうとするのもこのようです。意志は一時的に罪に抵抗することができますが、罪の力は人の意志の力をはるかに超えています。罪は法則であり、意志によって抵抗して消滅するものではありません。
例えば、かんしゃくを起こすのは、とてもわかりやすい罪です。ある人が耳障りの良くない言葉を一句語ると、あなたの内側は気持ちよく感じませんし、内側で反発してしまいます。その人がもう一句不愉快な言葉を口にすると、あなたはテーブルをたたいて、わめき、ののしり、何でもやってしまいます。しかし、自分はクリスチャンであるからかんしゃくを起こすべきではないと感じて、もう短気を起こすのはやめようと決心します。あなたは祈り、神が赦してくださったと信じ、またその人に罪の告白もしました。心の中もすっきりして、もう短気を起こすことはあるまいと思います。しかし、しばらくして、人がまた聞きづらい言葉を言うと、聞いていてまた耐えられなくなります。二度目、三度目と繰り返されるなら、あなたのかんしゃくは爆発するでしょう。この後、何度決心しても結果は同じです。これは法則であり、人の力では打ち勝つことができません。
パウロは、人が救われるのは意志によらないことを見ました。人がまだ意志の力に頼っている時は、神の救いの方法に頼ることができません。ある日、神の御前にひれ伏して、自分には方法がないことを認めて、何もしない時、何が救いであるかを見ることができるでしょう。そしてローマ人への手紙第8章を理解することができるでしょう。しかし、ローマ人への手紙第7章を軽視しないでください。わたしたちはまず第7章の認識があってはじめて、第8章を経験することができます。**問題は、あなたがローマ人への手紙第8章の教理を理解したかどうかではなく、あなたが第7章から出てきたかどうかです。**あなたが、罪は法則であり、意志は罪の法則に打ち勝てないことを見ていないなら、ローマ人への手紙第7章に閉じ込められてしまい、永遠に第8章に至ることはできません。では、勝利の方法はどこにあるのでしょうか?
Ⅲ. 命の霊の法則はわたしたちを罪の法則から解放する
ローマ人への手紙第8章2節は言います、「そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。勝利の道は、罪と死の法則から解放されることです。
ここでは、「キリスト・イエスにある命の霊は、罪と死とからあなたを解放した」とは言っていません。(多くのクリスチャンはこのように思っているでしょう。)ここでは、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」と言っているのです。多くのクリスチャンは、命の霊が自分を罪と死から解放したと見るだけで**、命の霊の法則が罪と死の法則から自分を解放したということを見ていません。**多くのクリスチャンは、罪と死が法則であることを知るのに何年かかるかわかりません。また聖霊がわたしたちの上で法則であることを知るにもどれだけの年数がかかるかわかりません。ある日、主がわたしたちの目を開かれる時はじめて、罪が法則であることを見ます。また、ある日、聖霊も法則であることを見るに至ります。聖霊も法則であるのを見ることは、さらに大きな発見です。命の霊が法則であることを知った時、わたしたちは跳び上がって言うでしょう、「主よ、感謝します、ハレルヤ!」。人の意思は罪の法則に打ち勝つことはできません。しかし、命の霊の法則によって罪と死の法則から解放されます。
罪が法則であることを見ると、わたしたちはもはや決して自分の意志を用いて何かをしようとしなくなります。同様に、神の御前であわれみを受けて、聖霊も法則であるのを見た時も、わたしたちには大変化があります。多くの人は、命を与える霊(聖霊)はわたしたちに命を与えることができることしか見ていません。聖霊はわたしたちの内側でもう一つの法則であって、この法則によって自然に罪と死との法則から解放されるということを見ていません。この法則がわたしたちを救い、あの法則から解放してくれる時、少しの力も必要なく、決心する必要もなく、努力も必要なく、聖霊をしっかりつかまえることも必要ありません。この法則がわたしたちの中にあるので、わたしたちはそんなに忙しくする必要はありません。もしあなたが、主の霊はあなたの上で何もしてくれないと恐れて、試みが来た時、自分で早々と手助けするなら、それは聖霊があなたの内側で法則であることをまだ見ていないということです。
ある人があなたを理由もなく叱責したり、あるいはあなたを殴ろうとしたとします。どうしてかわからないのですが、あなたは不思議にこの件に打ち勝つことができます。すべての事柄が終わった後、あなたは自分が叱責された時、なぜ怒らなかったのだろうと不思議に思います。しかし、驚いたことに、あなたはどうしてかわからないのですが、その状況に打ち勝ったのです!そうです、すべての勝利はみな、無意識のうちに得るものです。それは聖霊の法則が働いているからです。知らず知らずのうちに勝利を得ることこそ、真の勝利です。
あなたが聖霊が法則であることを知り、一度このように経験すれば、あなたの内に住んでいる聖霊があなたに罪を犯させないので、罪を犯さないように決心する必要はないことを知ることができます。この法則はわたしたちの内側に住んでおり、罪と死との法則からわたしたちを解放します。わたしたちはキリスト・イエスの中におり、命の霊の法則もわたしたちの中にあって、自然にわたしたちを導いてくださいます。
まとめ
もし兄弟姉妹がこのことを見ることができるなら、真に罪から解放されます。聖書では、わたしたちの意志をもって罪に打ち勝ちなさいとは言っていません。聖書ではただ罪から解放されることをこう言っています、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。命を与える霊の法則はわたしたちを罪と死の法則から引き出して解放します。
救われた人はみな、必ず解放の道を見なければなりません。第一に、罪はわたしたちの上で法則であるのを見ましょう。第二に、人の意志は罪の法則に打ち勝つことができないのを見ましょう。第三に、聖霊も法則であることを見ましょう。この法則がわたしたちを罪の法則から解放することができます。
聖霊はあなたの中で、時には命を現し、時には命を現さないと思ってはなりません。もしあなたがこう思っているなら、それは聖霊を知っているだけであって、聖霊の法則を知らないことを証明します。どうか、あなたが罪が法則であること、また聖霊も法則であることを見ることができますように。どうか神があなたの目を開いてくださり、この解放の道、勝利の秘訣をはっきりと見せてくださり、正しい道を歩ませてくださいますように!
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十五編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-10 | 初信者成就シリーズ
(この記事は5,237文字で、11分で読み終えることができます。)
主を愛する聖徒たちは主と会うことを切望します。しかし、多くの聖徒たちの実生活の習慣は、その思いと見合っていないかもしれません。愛する兄弟姉妹が怠惰であることほど嘆かわしいものはありません。
「あなたは今日、何時に起きたでしょうか?」
Ⅰ. 早朝は一日のうちで最も良い時間である
主を信じた人は、毎朝、何時に起きるべきでしょうか?ある姉妹はかつてとても良いことを言いました、「ある人に主を愛する心がどれほどあるかは、まずその人の寝床と主との間の選択を見たらわかります。あなたは寝床をより多く愛しますか、それとも主をより多く愛しますか?寝床をより多く愛するなら、多く眠ります。主をより多く愛するなら、少し早く起きるでしょう」。彼女がこのことを語ったのは、およそ100年前ですが、今日に至ってもこの言葉はやはり新鮮であると感じます。人は寝床をより多く愛するのか、それとも主をより多く愛するのか、いつも選択しなければなりません。主をより多く愛するなら、あなたは早く起きるでしょう。
なぜクリスチャンは早起きをしなければならないのでしょうか?それは人が主にまみえるのに早朝が一番良い時だからです。病気の時以外、すべての兄弟姉妹は早く起床すべきです。多くの病はもともと病ではなく、人が自分を愛しすぎるために病になるのです。医者に多く休息を取るように勧められたら、早起きしなくても良いでしょう。わたしたちは極端に走りたくありません。しかし、健康な人はできるだけ早く起きるべきです。なぜなら、早朝こそ、主にまみえ、主と行き来し、主と交わるのに最も良い時間だからです。マナは日の出前に集められました(出16:14-21)。神が与えてくださる糧を食べようと思えば、人は朝早く起きるべきです。日が昇るとすぐマナは溶けてしまって、食べられなくなります。あなたが神の御前で霊的な養いを得たいなら、霊的に成就されたいなら、霊的な交わりを持ちたいなら、霊的な糧を得たいなら、早く起きなければなりません。遅く起きれば、マナは食べられません。
多くの神の子供たちが病気のような生活をしているのは、決して何か別の霊的問題があるからではなく、彼らの起きるのがあまりに遅すぎるからです。多くの神の子たちは、献身しており、熱心であり、愛する心もあるのに、起きるのが遅すぎるゆえに、クリスチャンとしての正常な生活をすることができないでいます。これは小さな事として、霊性とは関係がないとしてはいけません。実はとても関係があるのです。多くの人が霊的でないのは、遅く起きるからです。神を認識している人は、いつも朝早く起きます。彼らは早く起きて、神と交わるのです。
箴言第26章14節は言います、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる」。ここでは、なまけ者は寝台で、戸がちょうつがいでこちらに向きを変えたり、あちらに向きを変えたりするのに似ていると言っています。聖書ははっきりとこのような者をなまけ者と言っています。
朝早く起きるなら、その人は多くの霊的な益を得るでしょう。普通の時間の祈りは、朝早い時間の祈りに及びません。普通の時間に聖書を読むことは、朝早く聖書を読むのに及びません。普通の時間に主と交わることは、朝早く主と交わるのに及びません。早朝は一日で一番良い時間です。一日の一番良い時、早朝を神の御前で用いるべきです。あるクリスチャンは一日の時間を全部、別の事のために費やし、夜になって最も疲れている時に、もうすぐ床について寝ようとする時に、やっとひざまずいて聖書を読んだり、祈ったりします。その人は聖書をうまく読めないし、祈りもうまくいかないし、主との交わりもうまくいきません。ですから、わたしたちは主を信じたらすぐ、朝早い時に時間を割いて、神と交わり、神と行き来することを学ばなければなりません。
Ⅱ. 早起きの模範
聖書において、神のしもべたちはみな早起きしていました。その模範を見てみましょう。
- アブラハム – 創世記19:27、21:14、22:3
- ヤコブ – 創世記28:18
- モーセ – 出エジプト記8:20、9:13、24:4、34:4
- ヨシュア – ヨシュア記3:1、6:12、7:16、8:10
- ギデオン – 士師記6:38
- ハンナ – サムエル記上1:19
- サムエル – サムエル記上15:12
- ダビデ – サムエル記上17:20
- ヨブ – ヨブ記1:5
- マリヤ – ルカ24:22。マルコ16:9、ヨハネ20:1
- 使徒たち – 使徒行伝5:11
これらの多くの個所の聖書は、神のしもべたちがそれぞれ早朝、神と交渉する習慣を持ち、それぞれ早朝に働く習慣を持ち、それぞれ早朝に神と交わる習慣を持っていたことを告げています。聖書には早く起きなさいという神の命令はありませんが、忠実に神に仕えている人たちはみな朝早く起きていたことを見せている多くの模範があります。主イエスでさえ早起きされました(マルコ1:35。ルカ6:13)。主がこのように模範を示してくださったなら、わたしたちはなおさらのことではないでしょうか?
Ⅲ. 早朝すべき事
早起きすればそれで良いというものではありません。霊的な学び、霊的な内容がなければなりません。ここでは早朝に特にしなければならない幾つかの事を取り上げます。
A. 神と交わる
雅歌第7章12節は言います、「わたしたちは、早く起きてぶどう園に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかを見ましょう。そこでわたしの愛をあなたに与えましょう」。ここから、早朝は主と交わるのに最も良い時であることがわかります。交わりの意味は、わたしたちの霊を神に向かって開き、思いも開き、神に光を与えていただき、神に語っていただき、神にわたしたちを印象づけていただき、神に触れていただくことです(詩119:105、147)。朝早く起きて神の御前に静まり、神の御前で黙想し、神の御前で導きを受け、神の御前で印象づけられ、神に語っていただく機会を得させ、神に触れる学びをしなければなりません。
B. 賛美と歌うこと
早朝には賛美の声と歌う声があるべきです。歌う声が一番良いのは早朝です。早朝は賛美の時です。早朝は神に向かって歌う最も良い時です。最高の賛美を神に向かって送り届ける時は、わたしたちの霊が最も高揚している時です。
C. 聖書を読む
早朝はまたマナを食べる時でもあります(マナはキリストを指しています)。マナを食べるとはどういうことでしょうか?それは毎日早朝にキリストを享受すること(enjoying)、すなわち神の語りかけ、神の言葉を享受することです。それを食べてこそ、わたしたちは荒野を進んで行くことができます。マナを集めるのは早朝です。朝早く起きながら別の事のために時間を使うなら、霊的な面で満足を得たり養いを得ることはできません。
聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7 で述べたように、わたしたちは二冊の聖書を用意し、一冊は午後読むためとし、しるしをつけたり、多くの事を記したりします。もう一冊は早朝マナを食べるために用い、中にはどんな言葉も記さず、どんなしるしも付けません。
早朝は長く多く聖書を読まないで、神の御前で聖書を開いて細やかに一段落を読んで、神との交わりと聖書を読むこととを混ぜ合わせて、歌うことと聖書を読むということも一緒に混ぜ合わせます。これらの事を神の御前で一緒に混ぜ合わせて行い、同時に祈りを加えるのも良いでしょう。神の御前に来て神の言葉を開き、神の言葉を読んで罪の感覚があったなら告白しても良いでしょう。ある聖書の言葉が言っている事柄の上で、神があなたに恵みを与えておられると感じたなら、感謝しても良いでしょう。また聖書が言っているある事柄の上で神に願い求めて、「主よ、この事は真にわたしに欠けているところです。この一段落、この一節、この一句の言葉は、本当にわたしに欠けています。主よ、どうかあなたがわたしに与えてくださいますように」と言っても良いでしょう。またとりなしの祈りをしても結構です。読んでいる時、ある兄弟姉妹の状況がちょうどこの個所の聖書に反すると覚えたなら、神の御前で彼らを訴えたり、とやかく言うことはせずに、「神よ、この句の言葉がわたしの上に成りますように。またこの言葉が某兄弟、某姉妹の上に成りますように」と言えば良いのです。
わたしたちは、朝早くマナを食べる時、祈りを神の言葉の中に織り込み、賛美を神の言葉の中に織り込み、交わりを神の言葉の中に織り込むことを学ばなければなりません。多くの兄弟姉妹が荒野の中を歩けないでいるのは、食べ方が足りないからです。主が恵みを与えてくださいますように。
D. 祈り
わたしたちは早朝、神の御前で交わり、賛美し、マナを食べなければなりませんが、祈りもまた必要です。詩篇第63篇1節は言います、「神よ、あなたはわたしの神です。わたしは切にあなたを求めます」。この「切」は、原文では「早く」という意味です。ここでの祈りは専一に行う祈りです。交わりをし、賛美もし、マナも食べて、最後にあなたは十分に力を得て、すべての事を神の御前でよくよく祈ることができます。祈りは力を要します。ですから、まず早起きして、神に親しみ、養われなければなりません。その後、30分か15分を費やし、重要な事柄のため、あなた自身のため、教会のため、世人のために祈ります。
以上のことから、主を信じている人はだれでも、早朝のこの四つのこと、すなわち神と交わり、賛美し、聖書を読み、祈ることを、神の御前でよくよく行うべきです。早朝にこのようにしたかどうかが、その日の生活に必ずはっきりと現れます。ミューラーのような人でさえ、早朝、主によって養われたかどうかが彼の一日の霊的な状態を決定すると言いました。わたしたちは、もし人が霊的行程において前進しており、霊と魂が完全に分けられる経験をし、外なる人が砕かれているなら、容易に揺らぐことはないであろうことは認めます。しかし、それは別の事です。初信者はとにかく早起きを学ばなければなりません。
Ⅳ. 朝早く起きる実行
最後に少し実行について述べましょう。どうしたらわたしたちは朝早く起きることができるのでしょうか?幾つかの事に注意すべきです。
早起きする人はすべて夜早く寝るという習慣がなければなりません。夜遅く寝て、朝早く起きようと思うのは、理に適っていません。また早起きの目標は、高くしすぎてはいけません。だいたい五時、六時が適切な時間でしょう。極端に走ることで、家族との間に問題を引き起こしたり、職場で問題を引き起こしたりすべきではありません。よくよく神の御前で考慮すべきです。
少し年長の人たち、重みのある人たちは、神の御前でこの事を維持していただきたいと思います。教会は怠惰な人に対しては一押しして、その人を奮い動かすべきです。初信者はこの大きな祝福のある状況にもたらされなければなりません。機会があるごとに、「あなたは毎日何時に起きますか?」と尋ねましょう。しかし、自分自身が神の御前でよく学んでいなければ、このような事をするのはあまり容易ではありません。ですから、わたしたち自身がまず神の御前で先に学ばなければなりません。
朝早く起きることは、信者の習慣の中で第一のものであると言って良いでしょう。食事の時に神に感謝するのは一つの習慣です。主日に集会するのも一つの習慣です。朝早く起きるのはさらに信者になければならない習慣です。とにかく、初信者は習慣を養わなければなりません。このことをよくよく学ぶなら教会は前進するでしょう。一人の兄弟が光を多く得れば、教会全体が明るくなります。教会が貧しいのは、かしらから受け取る人が少なすぎるからです。一人一人がみなかしらから受け取ることができれば、個人で得るものは多くなくても、合わせれば豊かになります。
わたしたちは教会において、少数の人だけが働きをすることを望みません。あらゆる肢体が神の御前で立ち上がり、教会全体が立ち上がって、豊富を得、恵みを得ることを望みます。一つの肢体が得ることは、からだ全体が得ることです。もしすべての兄弟姉妹がこの道を歩むなら、神の御前で受け取る多くの器官が備わり、わたしたちはますます豊かになります。わたしたち全員が早起きを学び、早起きし続けるなら、霊的な前途があるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十一編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-18 | 初信者成就シリーズ
(この記事は8,685文字で、17分で読み終えることができます。)
教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。
Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある
ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。
以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。
聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。
Ⅱ. 教会と集会
教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。
旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。
集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。
「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。
神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。
Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する
コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。
教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。
神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。
Ⅳ. 集会の原則
では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。
A. 主の名の中へと
集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。
なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。
B. 人を建造すること
集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。
ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。
ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。
これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。
自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。
Ⅴ. キリストの中で
最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。
コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。
ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。
コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。
この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。
A. キリストの中には存在しない5つの区別
ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。
1. ギリシャ人とユダヤ人
ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。
第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。
多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。
2. 自由人と奴隷
第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。
3. 男と女
第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)
4. 未開人とスクテヤ人
第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。
5. 割礼と無割礼
最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。
わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。
まとめ
わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-11 | 初信者成就シリーズ
(この記事は9,337文字で、19分で読み終えることができます。)
クリスチャンにはどうしても解決しなければならない一つの問題があります。それは、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきかということです。わたしたちが人に対して罪を犯した場合ではなく、兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきでしょうか?わたしたちはどこまでなら赦すべきなのでしょうか?
聖書を正しく読むのであれば、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯すなら、わたしたちは彼を赦すだけでなく、彼を挽回しなければならないと言っています。消極面では赦しがあり、積極面では挽回があります。この記事では「赦し」と「挽回」について見ていきたいと思います。まずは「赦すこと」について見てみましょう。
Ⅰ. 兄弟を赦す
A. 赦すことが要求されている
マタイによる福音書第18章21節から22節は言います、「その時、ペテロが来てイエスに言った、『主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?七回まででしょうか?』イエスは彼に言われた、『わたしはあなたに七回までとは言わない。七回を七十倍までと言う。』」
ルカによる福音書17章3節から4節は言います、「あなたがたは気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。彼が悔い改めたなら、赦してあげなさい。彼があなたに対して一日に七度、罪を犯しても、あなたに七度、戻って、『悔い改めます』と言うなら、赦してあげなさい」。
マタイによる福音書は、兄弟を赦すのは七度だけでなく、七回を七十倍するまでと言っています。ルカによる福音書は、一人の兄弟があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と言ってくるなら、赦してあげなさいと言っています。彼の悔い改めが真実であっても嘘であっても、彼がそう言う限り、あなたは彼を赦さなければなりません。彼の真偽のほどはわたしたちの問題ではありません。わたしたちはとにかく彼を赦すべきです。
七度は多くありませんが、一日に七度なら少なくありません。その人が一日に七度あなたに向かって「わたしはあなたに対して罪を犯しました」と言うのです。こうであっても、あなたは彼が心から間違ったと告白していると信じることができますか?おそらくあなたは、口先だけであると言うでしょう。こういうわけで、ルカによる福音書第17章5節は言います、「使徒たちは主に言った、『わたしたちの信仰を増し加えてください』」。彼らは、これは難しいと感じたのです。しかし、神の子たちはこの種の状況下でもやはり赦すべきです。
B. 神の度量
主はマタイによる福音書第18章23節から27節で一つのたとえを引用しておられます、「こういうわけで、天の王国は、奴隷と清算しようとした王のようなものである。王が清算し始めると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れて来られた。しかし、彼は返済するすべがなかったので、主人は彼に、自分も妻も子供たちも、持っているすべての物を売って、返済するように命じた。そこで、その奴隷はひれ伏し、拝して、『どうか待ってください。必ず全部お返ししますから』と言った。すると、その奴隷の主人はあわれに思って、彼を釈放し、その負債を免除した」。
このしもべは神の御前で一万タラントの負債がありますが、これはとても大きな金額です。1タラントは約34kgの銀または金の重量を指します。新約聖書の時代では 1タラントは6,000デナリ相当でした。デナリは1日分の労賃なので、1タラントは約16年分の労賃に相当します。ですから、一万タラントは6000万デナリとなり、1日1万円の労賃とすると、6000億円相当となります。しかし、これは、デナリと比べた試算であり、もし現代の金の価値で計算するなら(金 1g=約1万)、3京6000兆円という数字になります。どちらにせよ、わたしたちは神の御前でこれほどの負債があるのです。わたしたちが神に対して持っている負債は、決して返すことのできないものであって、人に対する負債とは比べようもないほどです。どの神の子も、神に対する自分の負債について正当に評価して、はじめて兄弟に対する負債を大目に見て、赦すことができます。もしわたしたちが神の御前で受けた恵みがどんなに大きいかを忘れてしまうなら、大変な恩知らずになってしまうかもしれません。神に対する自分の負債がどんなに大きいかを、わたしたちは見る必要があります。それでこそ、わたしたちに対する他の人の負債には限りがあるのを、わたしたちは見ることができます。
C. 神の願い
神はわたしたちの上に願いを持っておられます。それは、恵みとあわれみにしたがって他の人を取り扱うということです。恵みが必要な人たちは、人に恵みを与えることを学ばなければなりません。
マタイによる福音書第18章28節から29節は言います、「ところが、その奴隷が出て行くと、自分に百デナリの負債のある奴隷仲間の一人を見つけたので、彼を取り押さえ、のどを締めて、『借金を返せ』と言った。その奴隷仲間はひれ伏して請い願い、『どうか待ってくれ。必ず返すから』と言った」。主はここでわたしたちに見せていますが、わたしたちの負債は一万タラントですが、他の人がわたしたちに借りているのは百デナリにすぎません。主はわたしたちを赦しただけでなく、その負債を免除してくださいました。あなたの仲間はあなたの兄弟ですが、彼はあなたに罪を犯しているとは言え、せいぜい百デナリの借金をしているだけです。彼もあなたに言いました、「どうか待ってくれ。必ず返すから」。彼はあなたと同じ願い、同じ要求をしているのですから、あなたはどうして彼を赦さないことができるでしょうか?
主はこのたとえを用いて、他の人を赦さない人は、神から見て何と理屈に合わないかを見せています。もしあなたがあなたの兄弟を赦さないなら、あなたはこの奴隷と同じです。わたしたちがこのたとえを読む時、この人は本当に筋の通らない人だと感じます。彼は何という「義」を説いているのでしょうか?クリスチャンは、自分を取り扱う時は義に基づいているべきですが、他の人を取り扱う時は恵みに基づいているべきです。もし兄弟が悔い改めると言い、それでも赦すことができないなら、恵みをもって人を取り扱っていないことを見せています。
31節から33節は言います、「奴隷仲間たちは、その起こったことを見て、非常に悲しみ、そして来て、起こったことすべてを残らず彼らの主人に説明した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った、『悪い奴隷だ。あなたがわたしに請い願ったから、わたしはすべての負債を免除してやったのだ。わたしがあなたをあわれんだように、あなたも奴隷仲間をあわれむべきではなかったか?』」。主はあなたを取り扱ったのと同じように、あなたが他の人を取り扱うことを望んでおられます。主は義にしたがってではなく、あわれみにしたがってあなたの負債を赦されました。ですから、主はわたしたちがあわれみにしたがって他の人をはかることを願われます。主が用いられたはかりで、あなたも他の人をはかることを、主は願っておられます。主は十分な升を用いて人にゆすり入れ、山盛りになるほどにあなたを恵まれます。神はあなたにも同じように他の人を恵んでほしいのです。
D. 神の懲らしめ
続けて34節は言います、「こうして主人は怒って、負債をすべて返すまで、彼を獄吏に引き渡した」。ここでこの人は神の懲らしめに入れられ、負債全部を返してしまうまで、神は彼を獄吏に引き渡されました。
35節は言います、「あなたがたもそれぞれ、心から自分の兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も、あなたがたにこうされるであろう」。これは厳粛なことです。わたしたちは一人も神の手に陥ることがないように望みます。人は、神が心から自分を赦してくださったように、兄弟を心から赦さなければなりません。神はわたしたちを寛大に取り扱われたのですから、あなたがたも他の人を寛大に取り扱うことを願っておられます。
Ⅱ. 兄弟を挽回する
わたしたちがただ兄弟を赦すだけでしたら、それは消極的でまだ不十分です。わたしたちはさらに彼を挽回する必要があります。
A. 彼自身に告げる
マタイによる福音書18章15節は言います、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい。彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。神の子たちの間では、互いに罪を犯すことがいつも起こります。もしある兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはどうすべきでしょうか?主は言われました、「行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい」。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一に別の人の所に行って告げるのではありません。別の兄弟姉妹に告げるのではなく、教会の長老に告げるのでもありません。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一にしなければならないことは、あなたに罪を犯した兄弟に直接告げることです。
多くの時、問題はここにあります。一人の兄弟が別の兄弟に対して罪を犯すと、被害を受けた兄弟はそれを言い広め、あちらへ行っては人に告げ、こちらに来ては人に告げ、言い広めて全教会がほとんど知ってしまったのに、罪を犯したその兄弟自身は何事かまだ知りません。このように人に告げるのは、弱者の行為です。第一に告げなければならないのは、その本人に対してであって、別の人に対してではありません。わたしたちがこの基本的学課をよく学ぶなら、教会は多くの問題を免れることができるでしょう。
それでは、どのように彼に告げたらよいのでしょうか?手紙を書くのでしょうか?主はこうは言っておられません。主が言われた告げる方法は、手紙を書くことではなく、面と向かって彼に言うことです。しかし、注意しなければならないことは、「あなたと彼との間だけで」言っていいということです。多くの神の子たちはこの点で失敗しています。言い換えれば、個人の罪は、あなたがた二人だけで対処するのであって、第三者は絶対に必要ありません。
ある兄弟姉妹は、このようにすることはとても面倒ではないかと言うかもしれません。確かに少し面倒ですが、あなたは主の言葉にしたがって行わなければなりません。もしあなたが、ある兄弟があなたに罪を犯したことがあまりにも小さいことで、本人に言う必要もないと感じるなら、別の人の所へ行って言う必要もありません。なすべきことは、本人に言うことであって、他の人に言う必要はありません。
B. 告げることの目的
15節後半は言います、「彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。これが告げることの目的です。本人に言う目的は、償いを得るためではありません。それは、もし彼が聞いてくれたなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
ですから問題は、あなたの損失がどれほど大きいかではなく、この兄弟があなたにこのように罪を犯したことで、もしこの件をはっきりと処理しなければ、彼は神の御前で歩んでいくことができなくなり、交わりに問題が生じ、祈りが妨げられるので、あなたは彼を訓戒しなければならないのです。これは、あなたが傷ついたと感じるかどうかの問題ではなく、あなたの責任の問題です。もしあなたが傷ついたと感じるだけで、あまり問題にはならないと感じるなら、放っておいてもよいでしょう。この件が軽いか重いかについて、あなた以上にはっきり知っている人はいません。この兄弟に言うべきかどうかを決定する責任は、あなたにあります。もし兄弟が誤りを犯し、主の御前で問題を持つに至ったなら、あなたはこのことが小さなことではないと知るべきです。機会を捕らえて、彼と二人だけの所で言うべきです、「兄弟よ、あなたがこのようにわたしに罪を犯したのは間違っています。あなたがこのようにわたしに罪を犯したので、あなたは神の御前で道を失い、神の御前で妨げを受け、大きな損失を被っています」。もし彼が聞いてくれたなら、あなたはあなたの兄弟を得たことになりますし、この兄弟を挽回したことになります。
兄弟があなたに罪を犯したら、罪を犯されたあなたは、罪を犯した兄弟を挽回する責任があるのです。彼が犯した罪が小さなものでないなら、あなたは彼の前途のために、彼に告げて、彼を必ず挽回する責任があります。また、方法を考えて、あなたの兄弟を得に行かなければなりません。行って語る時、態度は良くなければなりませんし、心は正しくなければなりません。目的は、あなたの兄弟を得ることです。もし心から彼を得たいと思うなら、彼の誤りをいかに指摘すべきかがわかるでしょう。訓戒する目的は、賠償させることでも、自分の感覚を救うことでもなく、あなたの兄弟を挽回することです。
C. 人に告げる時の正しい態度
もしあなたの目的が正しければ、手続きをどのようにしたらよいかがわかるでしょう。第一に、必ずあなたの霊が正しくなければなりません。次に、あなたが語る言葉、語る方法、態度、顔つき、声、口調もすべて正しくなければなりません。あなたの目的は彼を得ることであって、ただ彼に彼の誤りを知ってもらいたいだけではないからです。もしあなたたがただ彼を叱責しようとするのであれば、あなたの叱責が正しいとしても、あなたが話す最も重大な言葉が正しいとしても、あなたの態度や口調や顔つきは、あなたが彼を得たいという目的からはるかにかけ離れているかもしれません。
ある兄弟をすばらしいと言うことは簡単です。誰かをほめることも容易です。短気を起こすことも容易です。しかし、彼に彼の誤りを知らせ、また彼を挽回して彼を得ることは、恵みに満ちた人だけがなすことができます。自分が正しくても、高ぶらず、へりくだり、穏やかで、人に誤りを知らせることができるのは、これは自分を完全に脇に置いてはじめてなすことができます。
ある兄弟があなたに罪を犯すことを主が許されたなら、それは主があなたを認め、選び、重大な責任をあなたの上に置かれたことを、あなたは知らなければなりません。あなたは選びの器であり、神はあなたを用いて挽回の働きをなさりたいのです。
もしある兄弟があなたに罪を犯し、それがとても小さい事で、あなたが彼を赦して、その事が終わったなら、別の問題は残っていません。しかし、もしある兄弟があなたに罪を犯し、それが赦しがたいほどであれば、あなたは目をつぶって、無かったことにすることはできません。もしこれらの問題が解決されないなら、それは教会の重荷になってしまいます。この重荷は、教会の力もからだの命も奉仕者の働きも減少させてしまいます。人があなたに罪を犯した場合、目をつぶって知らぬ顔でいてはいけません。よくよく対処すべきです。しかしながら、霊が正しく、態度が正しく、言葉遣いが正しく、顔つきも正しく、口調も正しくなければなりません。こうであってはじめて、兄弟を得ることができます。
D. 他の人に告げる
16節は言います、「しかし、もし彼があなたに聞き従わなければ、一人か二人を一緒に連れていきなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるためである」。あなたが正しい方法で彼に語った後、もし彼が聞かないなら、あなたは他の人に告げてもいいでしょう。正しい方法、正しい態度で、柔和の霊を持って穏やかな語りかけをしたにも関わらず、彼が受け入れようとしない時、はじめて他の人に言ってもいいのです。
この一人か二人は、主にあって経験のある人、霊的な度量のある人でなければなりません。あなたは、あなたがた二人の間の事を彼らの前に置き、彼らにこの事柄がどうであるか、この兄弟が間違っているかいないかを見てもらいます。この一人か二人の兄弟は、あなたがたの事を神の御前で祈り、よく調べ、霊的な力で判断します。もし彼らも、この事は彼が間違っていると感じるなら、あなたと一緒に行ってこの兄弟に言います、「この事はあなたが間違っています。あなたがこのようにしていると、神の御前で道を失いますから、悔い改めて、誤りを認めてください」。信頼でき、誠実であり、霊的度量があり、主の御前で経験のある人を連れていきなさい。そうすれば、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるでしょう。
E. 最後に教会に告げる
17節は言います、「もし彼らに聞き従うことを拒むなら、教会に告げなさい」。あなたは一人で対処できなければ、一人か二人を連れて行って対処します。それでも彼が聞かないなら、教会に告げなければなりません。ここの教会に告げるとは、全教会が集まっている時、この事を取り出すということではありません。教会で責任を負っている長老に告げるのです。もし教会の良心も、この兄弟が間違っていると感じるなら、彼はやはり間違っているはずです。もしその兄弟が神の御前で生きているなら、自分の見方を放棄して、二人または三人の証しを受け入れるべきです。もし二人または三人の証しを受け入れないなら、少なくとも教会の裁定を受け入れるべきです。教会の一致した見方、一致した意見は、主のみこころであるに違いありません。
もしそれでも聞かないならどうしましょうか?17節は続けて言います、「もし彼が教会に聞き従うことも拒むなら、彼を異邦人や取税人のように扱いなさい」。これは厳しい言葉です。言い換えれば、もし彼が教会の裁定を受け入れないなら、教会のすべての兄弟姉妹はみな彼と行き来しないのです。彼はその問題を対処しようとしないので、教会は彼を異邦人や取税人のように扱い、彼と交わりを持つべきではありません。ここではまだ彼を除名するほどには至っていませんが、兄弟たちは彼を異邦人や取税人のように扱い、みな彼を相手にしません。彼が話してもだれも聞きません。彼がパンさきに来ても、だれも相手にしません。彼が祈っても、だれも「アーメン」と言いません。彼が来たければ来させますし、去りたければ去らせます。実際的に言って、もし神の子たちがこのような一致した態度を取るなら、とても容易に彼を挽回できるでしょう。このように彼を対処する目的は、やはり彼を挽回することです。
18節の言葉は前の言葉に基づいています。18節は言います、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」。教会がなすことは、主は天において承認しておられます。もし教会が彼を間違っていると見ているのに、彼が教会に聞かないなら、教会は彼を異邦人や取税人のように扱います。このことを主も天で承認されます。
19節と20節で言っている言葉も、前の部分に基づいています、「また、まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。これらの二人または三人は、16節の二人または三人です。彼らは主の御名の中へ集められていますが、教会そのものではありません。なぜなら17節は、もし問題があるなら、彼らはそれを教会に告げる必要がある、と言っているからです。
これらの二人または三人が地上で調和一致して求めるどんな事でも、父によって成就されるとは、兄弟を対処するという文脈で語られています。もし兄弟が、罪を犯した本人からの言葉を受け入れず、二人または三人の言葉も受け入れず、また教会の言葉も受け入れないなら、もう道はないかのようです。しかし、主を賛美します。主は、二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致して祈るなら成就されると言われました。主の言葉はわたしたちが兄弟を挽回することができることを示しています。
ここで一つの問題、すなわち教会がどのように重大な事柄を決定するかについて付け加えます。使徒行伝15章は言っていますが、兄弟たちが一緒に集まる時、誰でも語って構わないし、あらゆる話し合いをしてもよいのです。律法を守る人たちでさえ、立ち上がって彼らの主張を述べていいのです。たとえ彼らの主張が全く間違っていたとしてもです。言い換えれば、兄弟たちすべてに語る機会があります。しかし、兄弟たち全員が事柄を決定できるわけではありません。兄弟たちが神の御前ですべての感覚を語り尽くした後、長老たちがみなの話を聞き終えて、最後に神の御前での感覚を述べ、最後の決定を下します。責任を負う数人の兄弟たちが、神の御前で同じ感覚を持つなら、この感覚が教会の感覚であり、教会の良心です。彼らが語り終わった後、全員が服従し、心を合わせて彼らに従います。これこそ教会の方法です。決して人を抑圧して、話す機会を与えないのではありません。
決定を下す時は、長老たちが聖霊の管理の下で語り、兄弟姉妹は長老たちが語る言葉を聞かなければなりません。もし聖霊が教会の中で権威を持っているなら、これらの事柄はとても順調に解決されます。もし聖霊が教会の中で権威を持っていないなら、肉の意見が多くなって、教会は語ることができません。ですから、わたしたちは聖霊の権威に服し、教会の言葉に聞き従うことを学ぶべきです。
まとめ
もしあなたが兄弟に罪を犯されたなら、主はあなたに彼を「赦すこと」と「挽回する」ことを求めておられます。まずわたしたちが、神に赦され、あわれみを受けた者であることを見る必要があります。神は、主イエスを賜り、わたしたちのすべての負債を赦してくださいました。
また、兄弟を赦すだけでなく、彼を挽回しなければなりません。まず、罪を犯したことを直接彼に告げます。もし、彼がこの言葉を受け入れなければ、信頼でき、霊的度量があり、経験のある兄弟に告げます。もし、これらの兄弟の言葉も受け入れなければ、教会に告げます。これはその地方の教会の責任を負っている長老に告げるということです。
どうか神がわたしたちに恵みを賜り、わたしたちを主と同じように恵みのある人にしてくださいますように。もし兄弟がわたしたちに罪を犯すなら、心から彼を赦しましょう。それだけでなく、さらに自分の責任を果たし、主の言葉にしたがって彼を挽回しましょう。どうか神がわたしたちを導いてくださり、教会の中でこのような生活を生きることができるようにしてくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」