主イエスがこの世を去られる前夜、弟子たちとともに食卓を囲みました(マタイ26:26-28)。その食卓で主が設けられた『晩餐』は、教会にとって特別な意味があります。なぜこの晩餐が設立されたのか。また主の晩餐はどのような意義を持つのか。それはただの儀式ではなく、深淵な霊的意義を含んでいます。

まず初めに「パンさきの意義」についての結論を述べます。パンさきには「主の晩餐」と「主の食卓」という二つの面があります。「主の晩餐」は、主を記念し、主の死を告げ知らせるためです。「主の食卓」は、わたしたち信者がキリストの中で「一」であり、互いに交わりを持っていることを証しすることです。このパンさきは、主の為されたみわざを思い起こし、また主の再来を待ち望みます。わたしたち信者は、キリストの中で「一」であり、交わりを持っていることを深く知るのです。

この記事では、このパンさきについて詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. 主の晩餐の設立

教会には神の子たちが出席すべき晩餐があります。この晩餐は、主イエスがこの地上で生きておられた最後の夜に設けられたものであり、その翌日に彼は十字架に釘付けられました。これは主イエスが地上で生きておられた最後の夜に食された最後の食事です。

この最後の食事とはどのようなものなのでしょう?これには一つの物語があります。ユダヤ人には過越の祭りと呼ばれる祭りがあって、エジプトで奴隷となっていた時に神が彼らを救われたことを記念しました。神がユダヤ人を救われた方法はこうです。神は、おのおのその父の家ごとに小羊を一家族に一頭取って、正月の十四日の夕暮れにこの小羊を殺し、その血を門柱とそのかもいに塗ること、また、その夜はこの小羊の肉を種入れぬパンと苦菜を添えて食べるように命じられました。ユダヤ人がエジプトから出てきた後、毎年この祭りを守って記念するようにと神は命じられました(出エジ12:1-28)。ですから、ユダヤ人にとって過越の祭りは、救われたことを思い起こすことです。

主イエスがこの世を離れようとしていたその夜は、過越の小羊を食べる時でした。主イエスが弟子たちと過越の小羊を食べた直後、主はご自身の晩餐を設けられました。主はここで、ユダヤ人が過越の小羊を食べるのと同じように、わたしたちが彼の晩餐を食べるべきであることを示されたのです。

この二つの事柄を対比させて見てみましょう。イスラエル人は救われてエジプトを脱出したので過越の祭りを守ります。神の子たちは救われてこの世の罪悪から離れたので主の晩餐を食べるのです。イスラエル人には小羊があり、神の子たちであるわたしたちにも小羊があるのです。この小羊とは主イエスです(ヨハネ1:29,36)。今日わたしたちはすでにこの世の罪悪から離れ、サタンの支配から離れ、完全に神に帰されました。ですから、ユダヤ人が過越の小羊を食べるのと同様に、わたしたちは主の晩餐を食べるのです。

彼らが食事をしていた時、イエスはパンを取り、それを祝福してさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、「みな、それから飲みなさい。これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、注ぎ出されるわたしの契約の血である(マタイ26:26-28)。これが主の設けられた晩餐です。

晩餐とは、一日の仕事がすっかり終わって、家族が一緒にくつろいで取る食事のことです。それは朝食や昼食のような慌ただしいものではなく、くつろいで気楽に食事をし、安息の味わいに満ちているものです。神の子たちが晩餐にあずかる時も、このような雰囲気であるべきです。その晩餐では、忙しくするのでもなく、あれやこれやと考えるのでもなく、ただ神の家の中で安息を享受するのです。

主イエスが晩餐を設けられたのは過越の祭りの時でしたから、用いられたのは種の入っていないパン(出エジ12:15)であり、種を入れてふくらませたパンではありません。またマタイによる福音書第26章、マルコによる福音書第14章、ルカによる福音書第22章では、「ぶどうからできたもの」と言っています。ですから、パンをさく時には、ぶどう酒を使っても、ぶどうジュースを使っても良いのです。

Ⅱ. 主の晩餐の意義

なぜ主はわたしたちに晩餐を行うように言われたのでしょう?それは大きく二つの理由があります。一つ目は「主を記念するため」であり、二つ目は「主の死を告げ知らせるため」です。

A. 主を記念する

コリント人への第一の手紙第11章24節で主は、「わたしの記念にこれを行いなさい」と言われました。ですから、晩餐は第一に、主を記念するためのものです。主は、わたしたち人がいとも簡単に彼を忘れてしまうことを知っておられます。わたしたちの得た恵みはこんなにも大きく、その贖いはこんなにもすばらしいものですが、人はすぐに忘れてしまうのです。ですから、主は特に言われたのです、「わたしの記念にこれを行いなさい」。

主がわたしたちに彼を記念するように言われたのは、わたしたちがただ忘れてしまいやすいからだけでなく、わたしたちが彼を記念することを主ご自身が必要としておられるからです。言い換えれば、主は私たちに忘れてほしくないのです。彼は偉大でわたしたちをはるかに超えています。わたしたちが記念しようとしまいと、別になんでもないと考えるかも知れません。しかし、主の言葉は「わたしの記念にこれを行いなさい」です。これは、主がご自身を低くされていることを見せています。すべてを超越しておられる方がわたしたちの記念を受けてくださるのです。これはわたしたちに対する愛の要求です。もしわたしたちが主を常に記念することをせず、主の贖いも自分の前に置かないとしたら、わたしたちは容易にこの世の罪悪と一つとなってしまい、容易に神の子たちとの間に争いが生じるでしょう。

あなたが主を記念する時、この世の罪の力があなたの身に影響を及ぼし続けることができなくなるという大きな益があります。主日ごとに主を記念することによって、どのように主を受け入れたか、どのように主に受け入れられたか、どのように主が自分に代わって死なれたかを思い出すなら、もはやこの世の罪と一つになることはできなくなるでしょう。これが、パンをさいて主を記念することの一つの益です。また、主を記念することは、神の子たちが争うことができないようにし、区別したり差別したりすることができないようにします。あなたが自分はどのように恵みを受けて救われたかを記念している時、別の兄弟もそこでどのように恵みを受けて救われたかを記念しているとしたら、彼を愛さずにはいられません。あなたが、主イエスは自分の千万の罪をすべて赦してくださったことを思う時、別の姉妹が入ってきて、彼女も血による贖いを受けているとしたら、彼女を赦さないということは不可能です。主の晩餐の食卓に来る時、すべての問題は消え去ります。なぜなら、主を記念することは、あなたがいかに救われたか、いかに赦されたかを記念することだからです。

自分の多くの罪を主はすべて赦してくださったのに、なお兄弟姉妹と争い合うことなど、あってはなりません。集会で主を記念する時はいつでも、主はわたしたちにもう一度、彼の愛を学ばせ、十字架のみわざを学ばせ、救われた人はみな主が愛しておられる人であることを学ばせられるのです。主はわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自身を捨てられました。主はあなたのために、またすべて彼のものである人たちのためにも、ご自分を捨てられたのです。

多くの人が怠惰になって実を結ばないのは、以前の罪がすでに清められていることを忘れてしまったからです(Ⅱペテロ1:8-9)。ですから、主はわたしたちにご自身を記念し、愛するようにと言われるのです。この杯は彼の血によって立てられた新しい契約であり、わたしたちのために流されたことを記念するものです。このパンは彼の体であり、わたしたちのために捨てられたことを記念するものです。これがパンさきの第一の重要点です。

B. 主の死を告げ知らせる

主の晩餐にはもう一つの意義があります。コリント人への第一の手紙第11章26節は言います、「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。あなたがパンを食べ、杯を飲むことは、主の死を告げ知らせることなのです。「告げ知らせる」とは、人々に知らせるという意味です。

このパンと杯は、どのようにして主の死を告げ知らせるのでしょうか?血は本来、肉の中にあるものです。その血と肉が分かれてしまえば、それは死を意味します。この杯の中にぶどう酒を見る時、血を見ます。このパンを見る時、肉を見ます。主の血は一方にあり、主の肉がもう一方にあります。血と肉とが分かれてしまっています。これは主の死を表しているのです。この集会では、「わたしたちの主はあなたに代わって死なれました」と言う必要はありません。血が肉の中にないことを見るだけで、ここに死があることがわかります。

このパンはひかれた穀物です。この杯に中のものは搾られたぶどうです。このパンを見ると、そこにはすでにひかれた穀物があり、この杯を見ると、そこにはすでに搾られたぶどうがあります。ここに「死」があります。小麦の粒はひかれなければ一粒のままであって、パンにはなりません。一房のぶどうが搾られなければ、酒(液)もありません。ですから、わたしたちがこのひかれた穀物を食べ、搾られたぶどうを飲む時、これは主の死を告げ知らせることなのです。

あなたの両親、子供たち、親族は主を知らないかもしれませんが、もしあなたが彼らをパンさきの集会に連れて来たら、彼らは初めてパンさきを見て質問するでしょう。「これは一体どういうことですか?パンをさくとはどんな意味ですか?杯を飲むとはどんな意味ですか?」。あなたは言います、「もしこの杯の中のものが血であり、このパンが肉であるとしたら、これはどういうことでしょうか?」。彼らは「これは死です」と答えるでしょう。わたしたちは人に指し示して、ここに置かれているのは主の死であると見せることができます。ですから、出て行って口を使って福音を伝えるだけでなく、集会所で福音を語るだけでなく、主の晩餐も福音を伝えることなのです。

人から見れば、主イエスはもはや地上にはおられませんが、十字架のしるし、すなわちパンと杯が存在し続けています。毎回パンと杯を見る時に、主の十字架上の死を見ます。この十字架のしるしは、主がわたしたちに代わって死なれたことが必ず記憶されるべきであることを示しています。

「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。主イエスは再来しようとしておられます。この言葉は晩餐と一緒にすると特別な意味があります。晩餐は一日の最後の食事です。わたしたちは毎週この晩餐にあずかります。教会は週ごとに同じ晩餐にあずかります。すでに二千年近くもたちましたが、この晩餐はまだ過ぎ去ってはいません。わたしたちは、この晩餐にあずかり続けます。ずっと待って、ある日主が来られる時、もはやこの晩餐にはあずからないでしょう。顔を合わせてわたしたちの主を見る時、晩餐は過ぎ去るでしょう。わたしたちは主を見たなら、もはや主を記念する必要がなくなります。ですから、晩餐の第一の意義は「主を記念すること」であり、第二の意義は「主の死を告げ知らせる」ということです。主の晩餐は、わたしたちが主ご自身を記念するためです。人が主ご自身を記念すれば、自然に主の死も記念するようになります。主の死を記念するなら、自然に王国を待ち望むでしょう。ある日、主は来られます。

Ⅲ. 主の食卓の意義

コリント人への第一の手紙第10章では、別の言葉を用いてパンさきを説明しています。それは晩餐ではなく、「食卓」であると言っています。主が最後の夜に設けられた晩餐において、主を記念し、主の死を告げ知らせ、主の再来を待つのですが、これは一面にすぎません。教会のパンさきにはもう一面があって、それはコリント人への第一の手紙第10章21節で言われている「主の食卓」です。

主の食卓の意義は、コリント人への第一の手紙第10章16節と17節ではっきりと語られています、「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?わたしたちがさくパン、それはキリストの体の交わりではありませんか?一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つからだなのです。それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです」。ここにも二つの意義があります。一つは「交わり」であり、もう一つは「一」です。

A. 交わり

主の食卓の第一の意義は交わりです。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?」。わたしたちはみな、主の杯から飲みます。これが交わりです。コリント人への第一の手紙第10章は信者と信者のお互いの関係を言っています。晩餐はわたしたちが主を記念することを語り、食卓はわたしたちの互いの交わりです。食卓については、「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?」と言っています。ここでの重要点は、キリストの血にあずかることではなく、キリストの血の交わりにあります。

「わたしたちが祝福する祝福の杯」の「杯」は単数です。マタイによる福音書第26章27節で言われている「杯」も単数です。原文どおり直訳すれば、「また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、『みな、それから飲みなさい』」となるべきです。ですから、杯の数を多くすることには賛成しません。なぜなら、意味を変えてしまうからです。一つの杯から共にあずかること、これが交わりの意味です。もしお互いが親密でなければ、同じ一つの杯からあなたが一口、彼が一口飲むことはできないでしょう。神の子たちは共に一つの杯から飲みます。一つの杯からあなたが一口、彼が一口、これほど多くの人たちがみなこの一つの杯から飲むのです。それが交わりです。

B. 一

第二の意義は「一」です。「わたしたちがさくパン、それはキリストの体の交わりではありませんか?一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つからだなのです。それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです」。ここでは、神の子たちが一つになっているのを見ます。コリント人への第一の手紙第11章で言われているパンと第10章で言われているパンには違う意味があります。第11章では、主はパンについて「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」(Ⅰコリント11:24)と言われました。これは主イエスの肉体を指して言われたのです。第10章では、パンは教会を指しています。「わたしたちは数が多くても一つからだなのです」(Ⅰコリント10:17)。ですから、わたしたちはパンであり、このパンは教会です。

すべての神の子たちは、このパンが一つパンであるように一つです。わたしたちにはただ一つのパンがあるだけです。キリストはパンのようにもともと一つです。神はキリストを少しあなたに分け与え、また彼にも少し分け与えられたので、ひとりのキリストは今や多くの人の心の中に住んでおられます。神の子たちがパンをさく時には、ただ主を記念するだけでなく、主の死を告げ知らせるだけでもなく、また神のすべての子たちと交わりを持つだけでもなく、神のすべての子たちが一であることを承認するのです。この一つのパンは神の教会が一であることを表しているのです。

主の食卓の基本的な要素はパンです。このパンは、大きく言えばすべての神の子たちを代表していますし、小さく言えば一つの地方のすべての神の子たちを代表しています。もし何人かの神の子たちが共に集まり、ただその何人かだけを見るなら、そのパンはその何人かだけを含むもので小さすぎて、十分ではありません。一つのパンは、一つの地方のすべての神の子たちを表し、一つの地方の教会を代表しているべきです。またそれだけでなく、この一つパンはこの地上にいるすべての神の子たちを含むものです。わたしたちは、このパンがすべての子たちの一を表していることを見なければなりません。もし一つの単独の教会を設立しようとするなら、そのパンはあまりにも小さすぎて、教会を代表することはできません。

もしわたしたちと共にパンをさいたことのない兄弟が主の食卓の前に来るとします。彼は主と結合していますから、このパンの中にあります。わたしたちは彼を受け入れるでしょうか、それとも受け入れないでしょうか?覚えておかなければならないことは、わたしたちは主人ではなく、接待役に過ぎないということです。食卓は主のものであって、わたしたちのものではありません。わたしたちが主に属する人にパンをさかせないと言うことはできません。この食卓は主のものですから、受け入れるかどうかの権威は主にあり、わたしたちにはありません。わたしたちが拒むことのできる人は、罪の中にとどまって、そこから出てこようとしない人です。なぜなら、彼は主との交わりを断ってしまったのですから、わたしたちも彼との交わりを断つのです。パンさきに受け入れることでは、注意深く判断し、いい加減ではなく、主のみこころに合うようにしなければなりません。

Ⅳ. パンさきの集会で注意すべきこと

最後に二つのことを交わりたいと思います。一つはパンさきの集会とはどのようなものであるか。もう一つは、主を記念する時に、わたしたちはふさわしくなければならないということです。

A. パンさき集会

パンさきの集会では顧みなければならない特別な状況があります。それは、わたしたちは主の血で洗われた人であって、血で洗ってくださるように求める人ではないことです。わたしたちは主の命を得た人であって、命をくださるように求める人ではありません。ですから、この集会ではただ祝福があるのです。主は渡された夜に、「パンを取り、それを祝福して・・・また杯を取り、感謝をささげて」(マタイ26:26-27)。主は祝福し感謝をされただけです。弟子たちとパンをさき終わってから、なおも賛美を歌われました(マタイ26:30)。ですから、この集会の正常な雰囲気は、祝福と感謝と賛美なのです。

パンさきは週に一度です。主は晩餐を設けられた時、「あなたがたは常にこれを行いなさい」(原文には常にの意味があります)と言われました。初期の教会では、週の初めの日にパンをさきました(使徒20:7)。わたしたちの主は死んだだけでなく、復活されました。わたしたちは復活の中で主を記念するのです。

B. ふさわしい

主を記念する時、わたしたちは「ふさわしく」なる必要があります。コリント人への第一の手紙第11章27節から29節は言います、「こういうわけで、だれでも、ふさわしくないままで主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主の体と血に対して罪を犯すのです。人は自分自身を吟味して、それから、そのパンを食べ、その杯から飲みなさい。なぜなら、食べ飲みする者が、その体をわきまえないのであれば、自分自身に対する裁きを、食べ飲みすることになるからです」。食べるときに最も重要なことは、ふさわしいことです。これは人がふさわしいかと言うのではなく、その態度がふさわしいかどうかです。もし一人の人が主のものであるなら、問題ではありません。しかし、もし主の人でないなら、パンをさくことはできません。ですから、ふさわしいかどうかの問題は、人の問題ではなく、態度が正しいかどうかの問題です。

また、わたしたちは兄弟姉妹との間に争いを持ったまま、パンと杯にあずかるべきではありません。パンと杯を食べ飲みすることは受け入れることです。もし、あなたが兄弟姉妹に対して怒っており、赦していないのであれば、パンと杯にあずかるべきではありません。このパンと杯はすべての兄弟姉妹のためのものです。あなたが赦されているように彼らも赦されているのです。わたしたちの態度が正しいかどうかをよくよく吟味する必要があります。

まとめ

パンさきには二つの面があります。一つは「主の晩餐」であり、もう一つは「主の食卓」です。「主の晩餐」は主を記念すること、主の死を告げ知らせるためです。「主の食卓」は、わたしたち信者が互いに交わりを持つことであり、キリストのからだの一を証しすることです。

「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)。この御言葉でパウロは、「主が来られるまで」と言われました。わたしたちは聖書の御言葉にしたがって、「主が来られるまで」パンをさき続ける必要があります。パンさきはただの儀式ではなく、霊的実際に満ちているものなのです。わたしたちは、兄弟姉妹と共にパンと杯にあずかる時、この上ない喜びの中にあることを証することができます。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十七編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

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