イエスは来て、彼らに語って言われた、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」。 マタイによる福音書 28章18-20節

主は、弟子たちにすべての諸国民を弟子とし、命じておいていたことをすべて守るようにと告げました。すべての諸国民を弟子とすることは、人々をキリストへともたらすことです。人々をキリストにもたらすためには、いくつかのなすべきことや学ぶべきことがあります。それは二つに分けることができます。第一は、人のために神の御前に来ることです。第二は、神のために人の前に行くことです。

Ⅰ. 人のために神の御前に来る

Image source: Envato Elements

A. 祈りは人々を主に導くための基本的な働きである

人々を主に導くための基本的な働きがあります。それは人に語りかける前に、まず神の御前で口を開いていなければならないということです。まず神に求め、それから人の前に行って語るのです。どれだけ熱心に人を救いにもたらそうとしても、神の御前で負担がなければ、その働きは成功しないことを知らなければなりません。神の御前で負担があってこそ、人の前で証しができるのです。

主イエスは言われました、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしに来る」(ヨハネ6:37)。ですから第一のことはまず神に人を求めること、神が人を主イエスに与えてくださるよう、人を教会に与えてくださるよう要求することです。救われる人というのは、求めることによって、願い求めることによって神から出てきた人である必要があります。しかも人の心は最も取り扱いにくいものであって、容易に主に向きを変えさせることはできませんから、まず神の御前でよくよくこの人たちのために祈り、神があの強い者を縛り上げてくださるように求めるべきです(ルカ11:21-22)。必ず一人一人、神の御前に行き、よくよく祈るべきです。そうしてはじめて効果的に人を主にもたらすことができます。

人を主にもたらすことのできる人は、祈ることができる人です。もし祈りに確信がないなら、人々を主に導くことでも確信がないでしょう。ですから、祈りの学科において実際的な学びがあるべきです。

B. 記録ノートを準備する

よくよく人のために祈ろうとするなら、記録ノートを準備するのが良いでしょう。まず、すべきことは、神が救いたい人の名前を、神があなたの心に置いてくださるように求めることです。主がその人たちをあなたの心の中に置いてくださるなら、自然と心の中に負担が出てきて、何人かのために祈ることができます。名前を書くときに最も大切なことは、主があなたの心の中に置いてくださった名前を受け入れることです。勝手に名前を書き連ねるのではありません。

このノートはいくつかの項目に分けておくとよいでしょう。第一項目は番号、第二項目は日付、第三項目は名前です。第四項目は救われた日付です。もしあなたが主から負担を与えられ、いったん書いてしまったなら、その人が死ぬまで、祈り続けなければなりません。その人が救われていないなら、決して彼のための祈りをやめてはいけません。一人の兄弟は、ある人のために十八年間祈ってやっと救われました。これは、はっきりと言い切れないことですが、ある人は一年で救われ、ある人は二、三ヶ月で救われるでしょう。決して良い加減であってはなりません。必ず彼らは救われなければなりません。

C. 祈りの最大の妨げは罪である

祈りはテストです。あなたの神の御前での霊的な状態がどうであるかをテストします。もしあなたの霊的な状態が正しく、正常なら、これらの人は一人一人と救われるでしょう。主の御前で求め続けていれば、何日か後、あるいは半年後、一人、二人が救われるでしょう。もしあまりにも長い時間がたっても祈りが答えられないなら、きっとあなたには神の御前で病があるのですから、神の御前に行って、どこに対処すべき問題があるかを光で照らされるように求めなければなりません。

祈りの最大の妨げは罪です。わたしたちは神の御前で聖い生活をすることを学ぶべきです。罪とわかっているものはすべて拒まなければなりません。祈りの詳細については「祈りが答えられるための五つの条件と実践ガイド – 叶えられる祈り – 初信者シリーズ 8 」をご覧ください。

D. 祈れる人となるように求める

兄弟姉妹は、神の御前で祈れる人に、力のある人になるように求める強い心が必要です。ある人は神の御前に力がありますが、ある人は神の御前に力がありません。ある人の神の御前での言葉は神に聞かれますが、ある人たちの言葉は聞かれません。神の御前で力ある者となることは、何を意味するのでしょうか?それはその人が祈る時、神がその人の祈りを聞かれるということです。それはまるで、神が喜んでその人の影響を受けられるかのようです。わたちたちの内側には、祈りがいつも神に聞かれるように願い求める気持ちが必要です。あなたが祈れば神はいつも聞かれるなら、これ以上にすばらしいことはありません。わたしたちは神に求めて、「わたしがあなたの御前で何かを求める時、あなたが喜んで聞いてくださいますように」と言う必要があります。

もし、神があなたの祈りを聞いてくださらないなら、自分と、あるいは神と交渉しなければなりません。祈りが答えられるには、常に交渉が必要です。祈りが答えられないのは病があるからです。こういうわけで祈りのノートが必要となってくるのです。このノートは、あなたの祈りが答えられたかどうかを知らせてくれるものです。多くの人は、祈りを記録していないため、答えられたかどうか全く知りません。ですから、わたしたちは祈りのためにノートを準備しなければなりません。

E. 日々祈る

あなたは周りの人たちのために祈らなければなりません。まず神に、一人二人を特別にあなたの心の中に置いてくださるよう求めなければなりません。

毎日一定の時間を取り出して、とりなしの働きをする必要があります。一時間でも、三十分でも、十五分でも構いませんが、一定の時間を取り出さなければなりません。もし祈るための一定の時間がなければ、ついには祈らなくなるでしょう。ですから、祈りの時間を定め、祈らなければなりません。これは訓練される必要があります。

Ⅱ. 神のために人の前に行く

Image source: Envato Elements

人のために神の御前に来るだけでは十分ではありません。さらに神のために人の前に行き、神がどのような方であるかを語らなければなりません。人に対して語る時、特に注意すべきことがいくつかあります。

A. 決して無意味な議論をしない

第一に、決して無意味な議論をしてはなりません。絶対に議論してはいけないとは言いません。使徒行伝にはいくつかの議論が記されていて、パウロでさえ議論しているからです(使徒17:2,17、18:4,19)。しかし、無意味な議論で人を得ることはできません。なぜなら、議論はしばしば人を去らせてしまうからです。あなたは議論の言葉を少なくし、証しの言葉を多くすべきです。主イエスを信じてどんな喜びや平安を得たかなどを語ればよいのです。証しに議論の余地はありません。

B. 事実をつかむ

人々を主に導くコツは、理屈ではなく事実に注意することです。自分の救われた時はどうであったかを考えてみてください。あなたは教えがよくわかったから信じたのではないでしょう。人々を主に導くコツは、事実をつかむことにあります。ですから、単純な人は人々を主に導くことができますが、教えをうまく語れる人は人々を主に導くことができるとは限らないのです。

かつて一人の老人がいました。彼は救われていませんでしたが、礼拝堂に行くのは良い習慣であると思っていたので、毎週自分も行き、家族にも行くように言っていました。しかし、彼が帰ってくると、すぐに短気を起こして、口汚い言葉の限りを尽くすのです。ある日、娘が里帰りしてきました。彼女は主にある姉妹であり、小さな娘を連れて帰ってきました。その老人はこの小さい孫も連れて礼拝堂に行きました。礼拝堂から出てきた時、孫娘は祖父を見てこのように言いました、「おじいちゃん、イエスを信じているの?」。その老人は、「子供は余計なことを言うものではない」と言いましたが、しばらく歩いていくと、孫娘はまた「おじいちゃんはイエスを信じていないみたい」と言いました。そしてまた、「おじいちゃん、どうしてイエスを信じないの?」と言いました。この子は一つの事実を見いだしたのです。孫娘に質問されてから老人は柔らかくなり、ついに主を受け入れたのです。

福音を伝えるには技術が必要です。神の道を知ってはじめて福音を伝えることができます。事実の言葉は人の心に触れるのです。

C. 誠実で熱心な態度を持つ

教理を多く語る必要はありません。さらに多くの事実を告げる必要があります。それと同時に、その態度は誠実で熱心でなければなりません。軽率な態度であってはなりません。わたしたちは冗談を言うことによって霊的な力をすべて失ってしまいます。これは地上で最も厳粛なことであることを、人々に見せる必要があります。

D. 時が良くても悪くても語る

これまで、まず人のために神の御前に行って祈り、それから人に話すということを述べてきました。しかし、これは祈らなければ語ってはいけないということではありません。初めて会った人にも語らなければなりません。つまり機会を捕らえること、時が良くても語り、時が悪くても語ることです。わたしたちが少しでも不注意であれば、一つの魂を得損ねてしまうでしょう。

E. 注意深く研究する必要がある

あなたが一人の人を主に導いた時は、いつでもさらにそのケースを注意深く研究しなければなりません。ちょうど医者がいろいろな病人の症状を研究するのと同じです。この世では、医学を学んでいないのに医者になれる人はいません。同様に、人々を主に導くことを学ばないで、人々を主に導けるようになる人はいません。わたしたちは必ず研究しなければなりません。なぜその人は受け入れることができたのか?なぜこの一言で彼は受け入れたのか?なぜその人はその言葉を聞いても受け入れなかったのか?わたしたちは、人に福音を語るために真剣にならなければなりません。

Ⅲ. 福音はわたしたちの使命である

Image source: Envato Elements

イエスは来て、彼らに語って言われた、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」。 マタイによる福音書 28章18-20節

福音はわたしたちの使命です。現在、神がわたしたちに願っていることは、すべての聖徒たちが機能することです。福音は主からの命令です。神はすべての聖徒たちが与えられた一タラントを活用することを願っておられます。わたしたちは兄弟姉妹と組み合わされて、福音する必要があります。それは人を得るためであり、またキリストのからだを建造するためです。

この記事では、人々をキリストへと導くために大きく二つのことを交わりました。第一は、人のために神の御前に来ることであり、第二は、神のために人の前に行くことです。わたしたちはまず、神の御前に出なければなりません。そして、神から負担を与えられた人のために日々祈る必要があります。この継続した祈りの積み重ねのために祈りのノートを作る必要があります。

次に神のために人の前に行きます。人に福音をする時の注意点は、無意味な議論をしないこと、事実をつかむこと、時が良くても悪くても語り続けること、そして、福音について研究することです。福音はわたしたちに与えられた使命です。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第十九編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

Bible Letter

メルマガにご登録いただくと、定期的に聖書の御言葉や真理に基づいたメッセージをお届けします。