わたしたちは主を信じた後、必ず罪を告白する習慣、負債を償う習慣を持つべきです。もしだれかに対して罪を犯すなら、あるいはだれかに損害を与えるなら、罪を告白する、あるいはそれを償うことを学ぶべきです。一方で、わたしたちは神の御前で罪を告白しなければなりません。そして他方では、人に対しても罪を告白したり、償ったりしなければなりません。もしこの両方を行わないなら、この人の良心は容易に神の御前でかたくなになってしまいます。良心がかたくなになってしまうと、神の光がその人を照らすのが難しくなってしまいます。
主の働きをしていたある兄弟は、いつも次のように人に聞いていたものです、「あなたが最後に人に対して罪の告白をしたのはいつですか?」。もしその人が最後に罪の告白をしてから長い時間が経っており、それが数年になるとしたら、その人の良心はきっと問題があることでしょう。なぜなら、わたしたちはしばしば人に対して罪を犯してしまうものですが、もし罪を犯しても何の感覚もないとすれば、これはその人の良心が病気であり、正常でない証拠です。わたしたちが神の光の中で生きようとする時、感覚のある良心が必要となります。なぜなら、良心の感覚があれば、神の御前で継続して罪を罪とすることができるからです。
もしその罪がただ神に対するもので、人とは関係がないなら、人に対して罪を償う必要はありません。わたしたちは度を越してまでするべきではありません。どのような兄弟姉妹であれ、その犯した罪がただ神に対するものであって、人とは関係がない場合は、神に罪を告白すればよいのであって、人に罪を告白する必要は決してありません。
それでは、どのような罪が人に対する罪なのでしょうか?また人に対して罪を犯し、損害を与えた時は、どのようにして罪を告白し、負債を償えばよいのでしょうか?これらを詳しく見ていきましょう。
Ⅰ. レビ記第六章にある違反のためのささげ物

違犯のためのささげ物には二つの面があります。レビ記第5章で記されているものと、第6章で記されているものです。第5章では、こまごまとした罪に関して、神の御前で罪を告白し、ささげ物をささげて、赦しを請うべきことを言っています。第6章では、もし何か物質的に人に対して罪を犯すなら、神の御前にささげ物をするだけでは不十分で、その罪を犯した相手に対して弁償すべきであることを言っています。レビ記6章の違犯のためのささげ物の記述から見ることができますが、もしわたしたちが物質的に人に対して罪を犯したなら、その人のところに行って、その罪を取り扱うべきです。もちろん神の御前に行って罪を告白し、赦しを請うべきですが、ただ神の御前で取り扱うだけで、人の前に行って対処しないなら、対処したことになりません。神に対して、その相手に代わって自分の犯した罪を赦してくださるように求めるわけにはいかないのです。
A. 人に対する違犯である罪
レビ記第6章2節から7節は言います、「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行うなら」(すべての罪は、究極的にはエホバに対する違犯です)、「すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行うどれかについて罪を犯すなら、この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される」。ここから、人が物質的な事柄において誰かに対して罪を犯したり、違犯を犯すなら、それを人の前で解決しなければなりません。
次の六つの節は、人に対する六種類の違犯を述べています。第一に、隣人から預かった物について欺く場合です。わたしたちは人から預かった物について欺くべきではないばかりか、むしろ誠意をもって保管すべきです。第二は、担保の品について欺くことです。これは物の売り買いについて欺くとも言えます。これは正当でない手段を使って自分の利益を図り、本来自分のものとはならないはずのものを自分のものにしてしまうことです。第三は、人の財産を奪うことです。他の人の物を自分の物とすることは罪です。第四は、隣人をしいたげることです。人が地位や権力を用いて他の人を圧迫し、自分に都合よくしてしまうことは罪です。第五は、落とし物を拾い、それについて欺くことです。クリスチャンは人のものを拾うべきではありません。もし拾うなら、本人に代わって保管し、何とかしてそれを本人に返す手立てを見つけなければなりません。第六に、偽って誓うことです。明らかに知っているのに知らないと言い、明らかに見ているのに見ていないと言い、明らかに有るのに無いということなどは偽りの誓いをすることです。
ここでの罪はすべて、物について人に借りを作ることを指して言っています。神の子たちとして学ぶべき基本的なことは、他の人のものを自分のものにしてはならないということです。これらの罪はよくよく対処しなければなりません。
B. どのようにして返済するか
わたしたちは神の御前で正しい行いと、咎めのない良心を保持することを学ばなければなりません。ここで神の言葉は、「この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品・・・を返さなければならない」と言っています。神の御前で「なだめられた」から十分であると思ってはなりません。人に対して「返す」ことがなければ、十分ではありません。返してはじめて十分なのです。
それでは、どのようにして返したらよいのでしょうか?5節は言います、「元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。」ここには注意すべき点が三つあります。
第一は、残りなく償うことです。これは必ずすべてを返済しなければならないということです。第二は、残りなく返済することに五分の一を加えるということです。原則は、余るほど十分に返済しなければならないということです。神はご自分の子たちがただ最低限度をするだけでは満足されません。負債を償う時は、けちけちするのではなく、余裕をもって十分にすべきです。五分の一を加えることは、人に罪を犯すことは損失を被ることであることを思い知らせます。このことを見るなら二度と同じことをしないでしょう。
第三は、このように罪を告白することや返済することは、早ければ早いほどよいのです。ここでは、「彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない」と言っています。あなたは過失が明らかになったその日に罪を告白し、返済すべきです。遅らせてはいけません。
このように返済してもまだ十分ではありません。6節は言います、「この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない」。ですから、その人に罪を告白し、償いをした後、やはり神の御前に行って赦しを求めなければなりません。レビ記第5章の違犯のためのささげ物は、物質的には人に負債を負っていないので、ただ神の御前に出てそれを対処すれば十分でした。しかしレビ記第6章は人に対して負債のある場合ですから、人の前ではっきりと対処してはじめて、神の御前に出て赦しを求めることができます。まだはっきりと対処していないのに、神の御前に出て赦しを求めることはできません。
これは浅薄なことであると思ってはいけません。わたしたちの天然の性質は極みまで堕落しています。もし少しでも不注意であるなら、容易に罪を犯してしまうでしょう。ですから、これは一生の間ずっと注意していなければならないことです。
Ⅱ. マタイによる福音書第五章の教え

次に、マタイによる福音書第5章を見ましょう。マタイによる福音書第5章とレビ記第6章で述べられていることは、異なっています。レビ記第6章で述べられているのは、完全に物質的な負債についてであり、マタイによる福音書で述べられているのは、単なる物質的な負債以上のことです。
マタイによる福音書第5章23節から26節は言います、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい。そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。ここで言っている一コドラントとは、単に物質的なものを指すのではなく、その負い目について語っているのです。
主は言われます、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、・・・」。これは特に神の子たちの間でのこと、兄弟と兄弟との間のことについて述べています。あなたが神に対してささげものをしようとする時、突然、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いているのを思い出します。この「思い出す」とは、神があなたに与えた導きです。多くの時、この種のことについて、聖霊は必要な思いをあなたの内に置きます。これを単なる思い込みだと思ってはなりません。そのことを思い出したなら、直ちにしっかりと対処しなければなりません。
もし兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出したなら、それはあなたに何か負い目があるからに違いありません。兄弟に対する負い目とは、物質上でないことかもしれません。もしかすると、気がつかないうちに彼に罪を犯したのかもしれません。ここでのポイントは、他の人に恨みを抱かれているということです。
これをよくよく理解していただきたいのですが、もしだれかに罪を犯したのに、過ちを認めず、赦しを求めなければ、その相手の人が神の御前であなたの名前を挙げてため息をつくだけで、もうあなたは終わりです。なぜなら、あなたが神にささげたものはすべて受け入れられませんし、あなたがささげる祈りもすべて聞かれないからです。もしあなたが一つのことを行い、それが誤りであり、不義であって、他の人に罪を犯し、他の人を傷つけてしまうなら、その人は神の御前に行ってあなたを訴えることをしなくても、神の御前に行って一言、「ああ、あの人は」と言うだけで、あなたのささげものはすべて受け入れられないものとなってしまいます。
もし、あなたがこのことを思い出したなら、「まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。」です。これは兄弟と和解しなければ、あなたの神へのささげものは永遠に受け入れらないことになるということです。
ですから、軽々しく人に罪を犯してはなりません。特に、兄弟姉妹に対しては軽々しく罪を犯してはなりません。主のここでの一句は非常に重要です、「あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい」。わたしたちは、神の裁きの御座へと向かっています。今日わたしたちはみなこの道の途中にいます。彼はまだ世を去っていませんし、あなたも世を去っていません。ですから、早く彼と和解しなければなりません。ある日、あなたがここにおらず、この道からいなくなり、あるいは彼がここにおらず、この道からいなくなるその日が容易に訪れるからです。救いの門は永久に開いているのではありませんし、兄弟たちが互いに罪を告白しあう門も永久に開いているのではありません。
それに引き続いて、主は人の言葉を用いて語っておられます、そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。「裁判官に引き渡し」とは、キリストが再来される時、彼の裁きの座の前で起こります(Ⅱコリント5:10)。裁判官は主であり、役人は御使いであり、獄は懲らしめの場所です。ローマの一コドラントは、一アサリオンの四分の一に当たる小さな銅の貨幣であって、日本円で一円に等しいです。ここの意味は、最も小さいことについても、わたしたちは徹底的に清算する必要があるということです。ですから、もしわたしたちが救われた後に、罪を犯し、それを悔い改めず、和解もしないなら、キリストの再来の時に裁かれ、獄の中で懲らしめを受けるということです。すべての聖徒がこのことをはっきりと見ますように。
Ⅲ. 実行の時に注意すべき幾つかの点

人に対する罪を償おうとする時、注意すべき点が幾つかあります。第一に、罪を犯した範囲にしたがって罪を告白するということです。神の言葉にしたがって行う時に、極端な道を走ってはなりません。度を越すと、今度はサタンの攻撃を受けてしまいます。第二に、罪を告白するときは徹底的にすべきです。しかし、ある時には相手からの益となるように、別の人の益となるために、どのように罪を告白すれば最も良いかをよくよく尋ね求めるべきです。かなり複雑な状況では、経験のある兄弟姉妹と交わることが良いでしょう。
第三に償いにおいて、時としてそれらすべてを償う力がないかもしれません。しかし、償う力がないことと、心から償おうとすることは別のことです。誠意を持って、相手の人に理由を説明し、どのようにすべきかを問うべきです。第四に、もしも償いを受け取るべき人がすでに世を去っていて、その償いを受け取る親族もいないときは、その償うものを、エホバに仕える祭司に帰さなければなりません(民数記5:8)。もしあなたの償いを受け取る本人がいないときは、その償いは彼の親族に帰します。もし親族が一人もいない場合は、教会に渡してもよいでしょう。
第五に、罪を告白し償った後は、良心の訴えを受けないように特に気を付ける必要があります。ある人は、償いのためにずっと訴え続けれられることがよくあります。ですから、主の血が良心を洗い清めたこと、主の死があなたに神の御前で汚れのない良心を持たせたことをひたすら見続けなければなりません。あなたが徹底的に罪を対処したなら、サタンに過度な訴えをさせてはいけません。
第六に罪の告白といやされることは関係があります。ヤコブの手紙第5章16節は言います、「ですから、互いにあなたがたの罪を告白し合い、互いに祈り合いなさい。それは、あなたがたがいやされるためです」。罪を告白した結果は、神が病気をいやしてくださることです。
もし罪を犯した部分があれば、一面、神の御前で罪を告白し、もう一面、人の前で真剣に対処しなければなりません。そうすれば良心は強くなるでしょう。良心が強くなってこそ、霊的な道の上で前進ができるのです。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」