「祈っているのに答えがない…」。もしあなたがこのように悩んでいるなら、それは賛美をする時です。賛美は、神の子たちの最高の働きです。あるいは霊的命の最高の表示が神を賛美することであると言ってもよいでしょう。神の御座は宇宙の中で最も高い所にあり、神は「イスラエルの賛美の上に座しておられる」(詩篇22:3 原文)のです。神の御名、神ご自身は、賛美によって高く挙げられるのです。

ダビデは詩篇の中で、一日に三度神に祈ると言いました(詩篇55:17)。また、一日に七度、神を賛美するという詩も書きました(詩篇119:164)。ダビデは聖霊に感動されて、賛美がいかに重要なことであるかを告白したのです。祈りは一日に三度ですが、賛美は七度です。こればかりでなく、彼はまたあるレビ人たちを任命して、神の契約の箱の前で、シンバルを鳴らさせ、琴を弾かせ、神をあがめ、感謝し、ほめたたえました(歴代上16:4-6)。ソロモンがエホバの宮のすべての工事を終えた時、祭司たちは契約の箱をかついで至聖所に入りました。祭司たちが聖所から出てきた時、歌を歌うレビ人たちがいて、祭壇のそばに立ち、ラッパを吹き、歌を歌い、さまざまな楽器をもって、声を張り上げ、神を賛美しました。その時、エホバの栄光が神の宮を満たしました(歴代下5:12-14)。ダビデとソロモンは神のみこころに触れて、神に喜ばれる賛美をささげたのです。エホバはイスラエルの賛美の上に座しておられるのですから、わたしたちは生涯、神を賛美し、わたしたちの神をほめたたえるべきです。

Ⅰ. 賛美のいけにえ

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聖書は賛美に多くの注意を払っており、またとても多く出てきます。その中でも、詩篇は多くの賛美の言葉で満ちています。詩篇は旧約の賛美の書です。多くの人の賛美は、この詩篇から採られたものです。しかし、詩篇は単に賛美の書であるだけでなく、苦難の書でもあることに注意してください。神が特にわたしたちに見せたいのは、賛美する人とは、神によって苦難な状況を通らせられ、傷ついたと感じている人たちであることです。多くの聖徒たちが神によって暗やみへと導かれ、人に捨てられ、悪く言われ、迫害されました。「あなたの波とあなたの大波はみな、わたしの上を超えて行きます」(詩篇42:7)が、それによってこの人たちの上で神は賛美を得られたのです。賛美の言葉は順調な人の口から出てくるのではなく、訓練を受け、試みを受けた人の口から出てくるのです。詩篇では、最も傷つけられた感覚に触れることができ、またそれゆえに詩篇では、賛美の声は最も大きく、また最も高いのです。神の民が多くの患難、多くの苦しみ、多くの非難を通る時に、神は彼らの上で賛美を造り出し、彼らにそのような環境において神の御前で神を賛美する人となることを学ばせるのです。

ですから、一番喜んでいる人の賛美の声が一番高いのではなく、常に神の御前で困難を通っている人たちの賛美が最高なのです。そしてこのような賛美が、最も神に喜ばれ、最も神の祝福を受けるのです。神が人を高い山に立たせて、顔をカナンに向かわせ、約束の地を見せる時、そこに賛美の声があるだけでなく、人が「死の陰の谷を歩む」(詩篇23:4)時にも、詩を書くことができ、賛美することができることを願っておられます。これが神の賛美です。

このことは、神の御前での賛美の性質はどのようなものであるかを見せています。賛美の性質は一つのいけにえ、一つの犠牲です。言い換えるなら、賛美とは、患難や苦難の中から出てくるものです。ヘブル人への手紙第13章15節ではこのように言っています、「ですから、彼を通して、絶えず賛美のいけにえ、すなわち、御名を言い表す唇の実を、神にささげようではありませんか」。いけにえとは何でしょうか?いけにえとは犠牲であり、死と損失があるのです。いけにえをささげる人は、損失があってはじめてささげることができます。元々ここの一頭の牛や羊はあなたのものでしたが、今日それをささげてしまえば、この一頭の牛あるいは羊をあなたは犠牲にしたことになります。ささげることは、得ることではなく、失うことです。

聖徒たちが賛美をささげる時には、失ったものを一つのいけにえとして神にささげるのです。言い換えれば、神があなたを傷つけ、あなたを砕き、あなたを深く切り裂く時、あなたに神の御前に来て賛美して欲しいのです。このように自分が傷つけられて神に賛美を得させる行為、これがいけにえです。神は、このようにしてご自身を賛美する人を喜ばれるのです。神はこのような賛美を御座とすることを喜ばれます。神はどのような賛美を得たいのでしょうか?神は、神の子たちが自分の損失したものをもって神を賛美することを願われます。何かを得た時に賛美するのではありません。もちろん、これは賛美ですがいけにえではありません。いけにえの原則は、損失に根拠があり、いけにえには損失という性質がなければなりません。神は、わたしたちが損失を受けてもなお賛美できることを願われます。

わたしたちは神の御前で祈るだけでなく、神の御前で賛美する人となることを学ぶべきです。あなたはどこにいても絶えず神を賛美すべきです。ダビデは神の恵みにより、一日に七度神を賛美しました。わたしたちが毎日賛美できるとしたら、これはとてもよい学びであり、とてもよい学課であり、とてもよい霊的訓練です。朝早く起きた時に神を賛美し、何か事に出くわした時に神を賛美し、集会の時に神を賛美し、一人でいる時に神を賛美することを、わたしたちは学ぶべきです。一日に少なくても七回神を賛美すべきです。

あなたが主の御前で賛美することを学んでいる時、ある日、賛美が出てこなくなるでしょう。今日は七度神を賛美することはでき、昨日も七度神を賛美することができたでしょう。その前の一週間は神を賛美することができましたし、その前の一ヶ月間も、神を賛美できたでしょう。しかし、ある日賛美することがなくなるのです。なぜなら、その日は苦しい日であり、一筋の光もなかった日であり、とても良くないことがあった日であり、多くの無実の罪を着せられ、多く非難された日なので、涙を流しても足りないのに、神を賛美することなどできるはずがないと思っているのです。その日になると、あなたは自分の受けた傷、苦痛、苦難のゆえに、賛美することができないでしょう。それどころか、賛美よりもつぶやきたいと自然に感じ、神の御前で感謝ではなく不平を言うことでしょう。賛美したいなどとは思わず、賛美する心さえないでしょう。そのような環境の中で、そのような心境で賛美することはふさわしくないと感じるでしょう。そのような時、あなたは思い出す必要があります。エホバの御座は変わらないし、主の御名も変わらないし、主の栄光も変わらないのです。あなたは彼を賛美すべきです。なぜなら、彼は当然賛美を受けるべき方であるからです。あなたは彼をほめたたえるべきです。なぜなら、彼はほめたたえられるべき方であるからです。あなたは苦難に遭っているでしょうが、彼はやはり賛美を受けるべき方です。あなたは困窮しているかもしれませんが、神を賛美しなければなりません。そのような時にこそ、あなたの賛美は賛美のいけにえとなるのです。あなたの賛美は最も肥えた子牛を引いてきてほふるかのようであり、またあなたの愛するイサクを縛って祭壇の上にささげるかのようです。あなたは涙を流してそこで賛美します。これが賛美のいけにえです。いけにえとは、傷つけられること、死、損失、犠牲です。あなたが神の御前で傷を受け、死に、損失を被り、犠牲がある時、あなたが神の御座は天に堅く定まっており、永遠に揺り動くことがないことを見るなら、神を賛美せざるを得ないでしょう。これが賛美のいけにえです。神はご自分の子たちがどのような事においても、どのような状況の中でも、よくよく神を賛美するのを喜ばれます。

Ⅱ. 賛美と勝利

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これまで賛美が一つのいけにえであることを見てきました。それだけでなく、賛美がわたしたちの霊的戦いに勝利を得る方法であることを見る必要があります。しばしばある人は、サタンの最も恐れるのは神の子たちの祈りであり、いつであれ神の子たちがひざまずいて祈る時にサタンは逃げ去るのであって、だからサタンはいつも神の子たちを攻撃して祈れないようにすると言います。これは通常の攻撃にすぎません。わたしたちが知る必要があることは、サタンが最も攻撃するものは祈りではなく賛美であるということです。サタンは色々と悩まし、祈りはそんなに簡単ではないと感じさせます。これは確かに事実です。しかし、サタンは祈りを攻撃するだけでなく、神の子たちの賛美をさらに攻撃します。祈りは多くのとき戦いですが、賛美は勝利なのです。祈りは霊的戦いですが、賛美は霊的勝利です。いつであれ賛美する時、サタンは必ず逃げ去ります。ですから、サタンは賛美を最も憎み、できることなら全勢力を費やしてでもわたしたちが賛美できないようにしようとしているのです。神の子たちが愚かであれば、自分の環境を見、自分の感覚を見て、賛美をやめてしまいます。神の子たちが神を認識すればするほど、ピリピの獄中でさえ歌うことのできる場所であることを見るでしょう(使徒16:25)。パウロとシラスはそこで神を賛美していた結果、獄の扉がみな開いてしまったのです。

使徒行伝には、獄の門が開いた例が二つあります。一度はペテロの上で、もう一度はパウロの上でです。ペテロの時には、教会が彼のために熱心に祈った結果、御使いが門を開き、ペテロを連れ出しました(使徒12:3-12)。パウロとシラスの場合、彼らは神を賛美していたところ、獄の扉が全部開き、鎖がすべて解けてしまいました。その日、全家族が救われて喜びました(使徒16:19-34)。そこには、獄の中で賛美のいけにえをささげている人たちがいました。体の傷はまだ良くなっていませんし、その痛みも止まっていません。しかも両足にはかせがはめてあり、ローマの獄の中に閉じ込められていたのです。どうして喜ぶことができるでしょうか?どうして歌うことなどできるでしょうか?しかし、そこにいた二人の霊はとても高く引き上げられ、すべてを超越していました。彼らは、神が天に座しておられ、変わることがないことを見ていました。自分たちは変わるし、その環境も変わるし、その感覚も変わります。しかし、神はやはり御座に座しておられ、ほめたたえられるにふさわしい方です。そこで、兄弟パウロとシラスは祈り、歌い、神を賛美しました。このような賛美は、彼らの苦痛から出てきたものであり、このような賛美がいけにえなのです。このような賛美がまた勝利でもあるのです。

あなたは祈る時、その境遇の中にいますが、賛美する時はその境遇の上に立ってしまっているのです。わたしたちがそこで祈り、切に求めている時は、まだその事の中におり、出てきていません。あなたが神の御前で切に求めれば求めるほど、その事に縛られてしまい、その事があなたの上にのしかかってくるのがわかるのでしょう。しかし、もし神によって引き上げられて、獄を超越し、鎖を超越し、体の傷の痛みを超越し、その苦痛と恥辱を超越するなら、その時に声を上げて神の御名を歌いほめたたえることでしょう。パウロとシラスが歌ったことは、神の御前で賛美の言葉を歌っていたことです。彼らは、獄など問題にせず、恥辱も苦痛も問題にならないところまで神によって導かれたので、神の御前で賛美することができたのです。彼らがそのように賛美した時、獄の扉はすべて開き、鎖は落ち、獄吏も救われたのです。

多くの時、祈ることはできないのですが、賛美はできます。これは基本的原則です。もし祈ることができないなら、なぜ賛美しないのですか?主はもう一つのものをわたしたちの手の中に置いて、勝利を得させ、勝ちどきを上げさせてくださるのです。祈る力がなく、霊がとても圧迫され、完全に傷つき、息ができないほどあえぐ時、神を賛美してみてください。祈る事ができれば祈り、祈れなければ賛美してください。わたしたちは、荷が重い時に祈り、荷が取り去られる時には賛美すると思いがちです。しかし、多くの時、荷が重くて祈ることができない時こそ、賛美すべきなのです。荷がなくなってから賛美するのではなく、荷が最も重い時に賛美するのです。もし大変な事に遭い、問題が多すぎて、全身が麻痺してしまったようになり、どうしていいかわからないような時、「なぜ賛美しないのですか?」という言葉を思い出してください。それはとても良い機会なのです。すなわち、そのような時に賛美するなら、神の霊が働いてあなたを導き、すべての門を開き、鎖を全部取り去ってくださいます。

わたしたちは、この高く超越した霊、攻撃を超越した霊を維持することを学ばなければなりません。祈りではいつでも御座に触れることができるとは限りませんが、賛美ではどんな時であっても必ず御座に触れることができます。祈りでは毎回勝利することができるわけではありませんが、賛美は初めから終わりまで一度も失敗はありません。神の子たちは、物事がなく、感覚がなく、傷がなく、問題がない時に口を開いて賛美するだけでなく、特に問題のある時や、傷つけられた時こにこそ、もっと賛美すべき時なのです。そのような時、あなたは頭を上げて、「主よ!あなたを賛美します!」と言ってください。目から涙が流れるでしょうが、口は賛美することができます。心は傷ついていても、霊は賛美することができます。最も愚かな人は、つぶやく人です。つぶやけばつぶやくほどその中に埋もれ、不平を言えば言うほどその中に落ち込み、困難に圧迫されればされるほど息もつけなくなるでしょう。少し進んだ人たちは、問題に遭う時に祈るでしょう。彼らはそこで奮闘努力し、そこから抜け出そうとします。環境は彼らを埋めてしまおうとし、感覚も彼らを埋めてしまおうとします。彼らは埋められたくないので、祈りによって脱出しようとします。しかし、多くの時、祈りも脱出させることができません。彼らが賛美する時にやっと脱出するのです。あなたが自分自身を勝利の地位に置けば、すぐにすべてのものを超越し、どんな問題もあなたを埋めてしまうことはできないでしょう。

歴代志下第20章20節から22節を見ましょう、「彼らは朝早く起きて、テコアの荒野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立ち上がって言った、『ユダと、エルサレムの住民よ、わたしに聞きなさい。エホバ・あなたがたの神を信じなさい.そうすれば堅くされる.彼の預言者を信じなさい.そうすれば成功する』。彼は民と相談して、エホバに歌い、聖なる飾り物を着けて感謝をささげる者たちを立てた.彼らは軍勢の前に出て行って、こう言った、『エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く』。彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。ここには戦いがあります。ヨシャパテがユダの王となった時、ユダ王国はすでに傾きかけていて、とても弱く、すべては惨めな状態にありました。モアブ人、アンモン人、セイル山の人々がユダの人々を攻めに来た時、ユダの人々は全く希望を失い、打ち破られて滅亡してしまうに違いないと思いました。ヨシャパテは復興された王であり、神を畏れる人でした。もちろん最後の時期のユダの王ですから、それほど完全ではなかったとしても、彼はやはり神を求めた人でした。彼はユダの人々に、神を信じるべきであると言いました。そして、歌を歌う人を任命して、主を賛美させたのです。この歌を歌い、主を賛美する人たちに、聖なる飾り物を着けさせ、前に進ませ、主を賛美させて、「エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く」と言わせました。

次の節の中の「賛美し始めたとき」という言葉に注意してください。これはとても尊い言葉です。「彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。「賛美し始めたとき」とは、彼らが歌を歌い、主を賛美しているちょうどその時に、主が立ち上がってアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を殺されたということです。わたしたちは、賛美ほど主の御手を動かすものはないと言わなければなりません。主の御手を動かす最も早い方法は祈ることではなく、賛美することです。これは祈りが不必要であると言っているのではありません。やはり祈る必要があります。しかし、多くのことで賛美して勝利する必要があるのです。

わたしたちがここで見るのは、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。わたしたちは賛美によってサタンに勝利することを学ばなければなりません。ここでの特別な原則は、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。

神の子たちの多くはとても厳しい試練を常に受けています。試練が厳しく、戦いが激しい時は、ヨシャパテのように道がないかのようです。自分を見、環境を見れば、最大の試練です。しかし、神を認識している人は、試練を受ければ受けるほど主を仰ぎ、また賛美することを学びます。そうすれば、頭を上げて主に言うでしょう、「主よ!あなたはすべてを超越しておられる方です。あなたを賛美します!」このような賛美のいけにえは神の御前で効力のあるものです。賛美する時、あなたは勝利の道がどんなに大きいかを見るでしょう!

わたしたちは賛美の学課を学ぶ必要があります。困難に遭う時は、神があなたの手段を禁じ、あなたの計略を差し止めてくださり、賛美の学課を学べるようにあわれみを求めましょう。戦いがどれほどあっても、すべて賛美によって勝利することができます。勝利できないのは、賛美に欠けているからです。もし困難の中にあっても神を信じるなら、このように言ってください、「あなたの御名を賛美します。あなたはすべてにまさって高く、すべてにまさって強く、あなたの慈しみはとこしえに絶えることがありません!」。神を賛美する人はみな、すべてを超越していますから、賛美によってずっと勝利し続けることができるのです。これが原則であり、事実です。

Ⅲ. 信仰が賛美を生む

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詩篇106篇12節の言葉はとても尊いです、「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った」。これはイスラエル人が荒野にいた時の情景です。彼は信じたので、歌いました。彼らは信じたので、賛美しました。賛美には信じるという基本的な内容があります。困難がある時にあなたは祈り、また悩みがある時に祈るでしょう。祈りが一定の時に達すると、信じることができるようになり、そうすれば口を開いて賛美するでしょう。あなたは立って、困難に対してもサタンに対しても、口を開いて「主よ!あなたを賛美します!」と言うなら、感覚がなかったのにあるようになり、ほんのわずかの信仰も満ち溢れるようになります。わたしたちは何かが終わってから、達成されてから賛美するのではなく、信じた時に賛美するのです。敵が逃げ去って歌うのではなく、歌うことで敵を追い払うのです。信じてはじめて賛美できます。それから勝利が来るのです。

Ⅳ. 服従が賛美を生む

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わたしたちの問題はたいてい二種類あります。一つは、環境や出来事の中の問題であり、ヨシャパテのような問題です。これには、神を賛美することによって打ち勝ちます。もう一つは、わたしたちの内側の問題であり、ある人の言葉によって傷つけられるとか、ある人がわたしたちにすまないことをしたとか、欺いたとか、理不尽に扱ったり、逆らったり、理由なく恨んだり、根拠なく非難したりして我慢できないとか、赦せないようなことです。これは個人が勝利する問題です。

ある兄弟があなたに言うべきでないことを言ったとします。それは辛いことです。全身がもがき、全身が不平を言い、全身がつぶやいているかのようです。あなたは赦すことは何と難しいことであり、寛容であることは何と難しいことであり、打ち勝つことは何と難しいことであるかと感じます。罪を着せられ、非難され、迫害されて内側ですっきりしない時には、祈りはあまり効果がありません。その気持ちは防ぎ止めようと思っても止まらず、もがいてももがき切れないのです。この圧迫を拒絶しようとすればするほど、駄目になります。

覚えておいてください。このような個人的な問題にぶつかり、ひどく罪を着せられる時は、祈る時ではなく、賛美する時です。こうべを垂れて主に、「主よ、感謝します。あなたのなさることに間違いはありません。わたしはあなたの御手からこれを受け取ります。感謝します。あなたの御手からいただいたこのことのゆえに、賛美します」と言うべきです。もしこのようにするなら、すべてが過ぎ去ってしまうでしょう。勝利は、自分が肉と争って人を赦そうとして、そのために力を尽くすことによるのではなく、こうべを垂れて、主を賛美して、「主よ、あなたの道を賛美します。あなたがわたしのために備えられたものに間違いはありません。あなたがなさることはすべてすばらしいのです」と言うことによります。傷つけられたと思っている人は賛美の少ない人です。これこそ服従から生まれる賛美のいけにえです。

Ⅴ. はっきりと理解する前に賛美する

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詩篇50篇23節は言います、「だれでも感謝の犠牲をささげる者は、わたしに栄光を帰する」。ここの「感謝」は「賛美」とも訳せます。主はわたしたちの賛美を待っておられます。賛美ほど神に栄光を帰するものはありません。ある日、すべての祈りは過ぎ去り、すべての働きも過ぎ去り、すべての預言者の言葉も過ぎ去り、すべての労苦も過ぎ去るでしょう。しかしその日、賛美は今より増すでしょう。賛美は永遠に続き、永遠にやむことはないでしょう。ですから、最も良い学課は、今日の時に神を賛美することを学ぶことです。

今日わたしたちは鏡に映すように見ており、おぼろげであまりはっきりしてはいません(Iコリ13:12)。多くのことで少しは見ることはできても、その中の意味は何であるかをはっきりと知り尽くすことはできません。わたしたちの遭遇すること、経過すること、内側で受けた傷であろうと、外側の状況の困難であろうと、わたしたちは苦しさを感じるだけで、その意味がはっきりとわからないので、賛美できないのです。天上で多くの賛美があるのは、天上には完全な認識があるからだと信じます。認識が完全であればあるほど、賛美も完全になります。

わたしたちが主の御前に行く日には、すべてのことがはっきりするでしょう。その日には、どの聖霊の管理もすばらしい意図があったことを見るでしょう。わたしたちはこれらを見る時、こうべを垂れて、賛美し、「主よ、あなたには間違いがありません」と言うでしょう。あの時、病気になっていなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。あの時、失敗していなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。その日になれば、なぜ主がこのような目に遭わせたのかがわかるでしょう。その日になれば、頭を下げて言うことでしょう、「主よ、わたしは愚か者です。あの日には賛美しませんでした。わたしはあの日、あなたの前で感謝しなかった愚か者です」。その日になってはっきりわかってから、どんなにつぶやいたかを思って、どれほど悔やむことでしょう。ですから今日、「主よ、あなたのなさることは、わたしにはよくわかりません。しかし、わたしはあなたのなさることに間違いはあり得ないことを知っています」と言うことを学びましょう。

エホバは彼のすべての道において義であり、彼のすべての行ないにおいて慈しみがあります。 詩篇145篇17節

わたしたちの賛美は彼の栄光です。賛美することは、神に栄光を帰することです。神は栄光を受けるべき方です。どうか神がご自身の子たちから多くの賛美をお受けになりますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十六編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

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