教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。
Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある
ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。
以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。
聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。
Ⅱ. 教会と集会
教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。
旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。
集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。
「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。
神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。
Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する
コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。
教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。
神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。
Ⅳ. 集会の原則
では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。
A. 主の名の中へと
集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。
なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。
B. 人を建造すること
集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。
ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。
ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。
これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。
自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。
Ⅴ. キリストの中で
最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。
コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。
ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。
コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。
この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。
A. キリストの中には存在しない5つの区別
ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。
1. ギリシャ人とユダヤ人
ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。
第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。
多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。
2. 自由人と奴隷
第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。
3. 男と女
第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)
4. 未開人とスクテヤ人
第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。
5. 割礼と無割礼
最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。
わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。
まとめ
わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」