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多くのクリスチャンは主に対して間違った考えを持っています。すなわち、主は地上にあってわたしたちのためにすばらしい模範を残されたので、わたしたちはそれに倣うべきであるとしていることです。確かに、聖書は主に倣いなさいと命じています(Ⅰコリント11:1など)。しかし、聖書は決して自分自身によって主に倣うようにとは言っていません。わたしたちはまずあるものを見てはじめて、主に倣うことができます。多くの人はいつも主に倣いたいと思いながら、いつも失敗しています。彼らは、人がどんなに駄目であるかを知りませんし、人の肉の力には絶対に主に倣う方法がないことを知りません。
あるクリスチャンは、聖書は「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行うことができるのです」(ピリピ4:13)と告げていると言います。ですから、彼らは主に力を求めるのです。彼らは多くの事をすべきである、聖書の多くの命令を守るべきである、主の多くの模範に倣うべきであると感じますが、自分には力がないので主に力を求めるのです。彼らは、もし主が力を与えてくださるなら、すべての事をすることができると思っています。それで多くの人は、毎日毎日、主が力を与えてくださるようにと主を仰ぐのです。
力を与えてくださるように主に依り頼むことは正しいです。しかし、主が力を与えてくださること以外に、見なければならない一つのことがあります。もしそれを見ないなら、主に力を与えてくださいと仰いでも、ずっと力のないままでいることになります。主に力を求めることは良いことです。しかし、時にはこの祈りは答えられますが、時にはこの祈りは答えられないかのようです。そうであれば、主が力を与えられた時はすべての事ができて、主が力を与えられない時はどんな事もできないということになります。ですから、多くのクリスチャンはよく失敗するのです。
Ⅰ. キリストはわたしたちの命である
聖書の中で見せている主とわたしたちの関係はいったい何でしょうか?それは「キリストはわたしたちの命である」ということです。キリストがわたしたちの命となってこそ、わたしたちは主に倣うことができます。「キリストはわたしたちの命である」とは何をいうかがはっきりしないなら、わたしたちには主に倣うすべはありません。ですから、「キリストはわたしたちの命である」という秘訣がまず明らかになり、まずこれを見て、まずこれを得て、そうしてはじめてキリストに倣うことができるのです。
Ⅱ. わたしたちにとって生きることはキリストである
多くのクリスチャンは、ピリピ人への手紙第1章21節の「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、」という御言葉についてとても大きな誤解をしています。パウロの言っている「わたしにとって生きることはキリストであり」とは、一つの事実なのです。それなのに彼らは「わたしにとって生きることはキリストであり」を一つの目標、あるいは一つの望みにしているのです。実際パウロは、「わたしにとって生きることはキリストであり」という目標があると言っているのではありません。パウロは、わたしが生きることができるのはキリストがあるからであり、もしキリストがなければわたしは生きることができない、と言っているのです。これは彼の事実であって、目標ではありません。これは彼の生活の秘訣であって、望みではありません。彼の生活はキリストです。彼が生きることは、キリストが生きることです。
ガラテヤ人への手紙第2章20節の「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という御言葉は、多くのクリスチャンがとてもよく知っている一節です。しかし、多くの人はこの節をピリピ人への手紙第1章21節よりもさらに誤解しています。彼らはガラテヤ人への手紙第2章20節を彼らの目標とし、神の御前で祈り求め、熱望し、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という境地に達したいと望みます。彼らはいつかわたしもパウロのようになり、キリストがわたしの中に生きておられるようになりたいと願います。
しかし、わたしたちの過去の経験によれば、このように願った人がこの目標に到達し得たのをいまだに見たことがないと言えるだけです。もしあなたがそれを目標とするなら、もしその境地に達することを願うなら、もし十字架に釘づけられることを願うなら、もし生きるのはあなた自身ではなくてキリストがあなたの中に生きることを願うなら、いつまで、何年何月まで待たなければならないかわかりません。なぜなら、これはあなたには絶対にできないことだからです。
これは、神がわたしたちに与えられたすばらしい恵みであることを、わたしたちは知らなければなりません。このすばらしい恵みの中に一筋の出口があり、すべて失敗した人に勝利を得させ、すべて汚れた人を清くし、すべて俗な人を聖とし、地に属するすべての人を天に属させ、肉に属するすべての人を霊的にすることができます。これは方法であり、目標ではありません。この方法は、代わりの命によります。主の恵みの中に、代わりに死ぬことがあるのと同様に、代わりに生きることもあります。
主は十字架上で、わたしたちに代わって罪を担い、死ぬことによってわたしたちを死から免れさせ、わたしたちの罪は赦しを得て、裁きを免れました。同様に、ここでまたパウロは、主はわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きることを免れさせてくださると告げています。この意味はとても簡単です。すなわち、キリストがわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きる必要はないということです。キリストが十字架上でわたしたちの代わりに死なれたように、今日、キリストはわたしたちの中でわたしたちに代わって生きてくださいます。パウロは、わたしは自分が生きないことを願っている、キリストに生きてもらうことを願っている、と言っているのではありません。彼は、わたしは生きない、キリストが生きてくださる、と言っているのです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これが勝利の秘訣であり、これが勝利を得る方法です。
死を免れることは大いなる福音です。同様に、わたしたちが生きる必要はないということも大いなる福音です。主があなたをあわれんで光を与えてくださいますように。
A. キリストがわたしたちの中で生きる
もしわたしたちがこれを見なければ、証しを維持したり、クリスチャンの生活を維持したり、試みを拒絶したり、十字架を負ったり、神のみこころにしたがうことは、大変な重荷であると感じるでしょう。主を信じる多くの人は、クリスチャン生活を維持することは大変なことであり、しかもとても力まなければならないと思っています。こういう状況は、彼らが間違った方法でクリスチャン生活を送っていることを示しています。パウロは言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これがクリスチャン生活の秘訣です。主があなたの中でクリスチャンになってくださるのであって、あなたがあなたの中でクリスチャンになるのではありません。もしあなたがあなたの中でクリスチャンになるのであれば、忍耐は苦痛であり、愛も苦痛です。へりくだりも苦痛ですし、十字架を負うことも苦痛です。もしキリストがあなたの中で生きてくださるのなら、忍耐は喜びであり、愛も喜びです。へりくだりも喜びですし、十字架を負うことも喜びです。
ここに大いなる福音があります。神はあなたが善をすることを求めません。また善をしようとする意志も求めません。神は、キリストがあなたの中で生きることを求められます。神が注意されるのは、善を行うか行わないかの問題ではなく、「だれ」が善を行うかの問題です。わたしたちがキリストに倣うのではなく、わたしたちがキリストの力を得るのではなく、「キリスト」がわたしたちの中で生きられるということです。
生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20前半
Ⅲ. わたしはすでにキリストと共に十字架につけられた
あなたはこのような質問をするかも知れません。「どのようにすれば生きているのはもはやわたしではないとなるのでしょうか?」この「わたし」はどのようにすれば除き去られるのでしょうか?この問題の答えは、ガラテヤ人への手紙第2章20節の「わたしはキリストと共に十字架につけられました」です。
わたしたちの内側の目が開かれて、主イエスが十字架上で死なれた時、神はわたしたちをキリストの中に置いて、キリストと共に死なせられたことを、わたしたちは見る必要があります。これは神の側での働きです。あなたは、主イエスがあなたの罪を担ってあなたの代わりに死なれたことを信じました。それは約2000年前の出来事でした。同じように、主イエスが十字架に釘づけられた時、神はあなたという人をも共に十字架上で対処されました。あなたの罪が約2000年前に解決されたように、あなたという人もまた約2000年前に解決されました。神があなたの罪を主イエスの身に帰されたその時に、神はあなたという人をも主イエスの身に帰されたのです。十字架上であなたの罪は終わりました。十字架上であなたという人も終わりました。キリストと共に十字架につけられることを望むのではありません。すでにキリストと共に十字架につけられたのです。わたしたちはすでに終わらされているのです。
聖書は、幕屋の中の垂れ幕にはケルビムが織り出されていると告げています(出エジ26:1)。主イエスが世を去られた時、垂れ幕が裂けました(マタイ27:51)。そして当然ケルビムも裂けました。この垂れ幕は主イエスの肉体を指しています(ヘブル10:20)。ケルビムには人の顔、獅子の顔、牛の顔、わしの顔がありました(エゼキエル1:10,10:20)。ケルビムは被造物を代表しています。主イエスの肉体が裂かれた時、神は被造物を主イエスの中に置いて、みな一緒に裂かれました。ですから、旧創造すべてが過ぎ去りました。キリストが十字架上に釘づけられた時、旧創造全体が裂かれました。あなたもそこにおいて裂かれたのです。
この真理について、あなたは必ず信じなければなりません。罪は十字架上にあり、人もまた十字架上にあります。あなたの罪はすでに担われ、あなたという人はもはや釘づけられて死んでいます。これはキリストがなさった事です。多くの人が失敗するのは、いつも自分の内側を見つめるからです。信仰のある人は、十字架上を見つめるべきであり、キリストが成し遂げられたことを見るべきです。神はわたしをキリストの中に置かれたのですから、キリストが死なれたのであれば、わたしも死んだのです。
A. 十字架は人に対する神の決断である
しかし、どうしてあなたという「人」は今日なおも生きているのでしょうか?あなたは釘づけられて死んだのに、どうしてまだ生きているのでしょうか。この問題を解決するためには、あなたは信じる必要がありますし、意志を用いて自分を神の側に置く必要があります。「死」とは、人が弱くなり、さらに弱くなり、極みまで弱くなって、これ以上弱くなれないほどまで徹底的に弱くなることです。多くの人は自分の弱さを認めません。自分に対して多くの要求があるなら、その人はまだ死んでいません。
今日、多くのクリスチャンが、自分はダメなのにやはり行おうとします。例えば、ある人が忍耐できない時、どうするでしょうか?もし彼が自分で忍耐しようとして、力を尽くして忍耐し、祈る時も忍耐を求め、働く時も忍耐を思うとしたら、忍耐すればするほどますます忍耐できなくなるでしょう。彼は次のように言うべきです、「主よ、あなたはすでに、この忍耐できないわたしを釘づけられました。わたしは忍耐できない人です。わたしは忍耐する必要がありませんし、忍耐しようとも思いません。」これが勝利の道です。
主はあなたを十字架に釘づけられたのですから、あなたは「アーメン!」と言うべきです。主はあなたを十字架につけられたのに、もしあなたがまだ自分で忍耐しようと思うのでしたら、それは駄目です。神はあなたが良くなる見込みがなく死ぬしか方法がないとして、あなたを釘づけられたのに、あなた自身はいまだに自分に望みがあるとして忍耐しようとします。これは、大変な間違いをしていることになります。神はあなたを死ぬべきだと見ておられるのですから、あなたは「アーメン、わたしは死に渡されるべきです」と言えばよいのです。十字架は、わたしたちに対する神の決断です。神はあなたが死ぬ以外道はないと認められたので、あなたを釘づけられたのです。
ですから、これには二面あります。第一に、キリストは死なれ、わたしたちは十字架につけられました。これは神がなさった事です。第二に、わたしはこの事を認めて、「アーメン」と言う必要があります。これはあなたがすべきことです。この二面が必要です。わたしたちはこんなに長い間、こんなに多くの罪を犯し、こんなに多くの弱さを持ち、こんなに多くの高ぶりを持ち、こんなに多くのかんしゃくを起こしてきましたから、わたしたちは自分に対して諦めるべきです。主の御前に来て、主に言いましょう、「わたしはすでに十分にやってきましたが、本当に駄目でした。今日、わたしはもう諦めます。あなたが来てください!わたしはすでに十字架につけられたのですから、今から後はあなたに生きていただきます!」これが、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」ということです。
Ⅳ. 神の御子を信じる信仰によって生きる
ガラテヤ人への手紙第2章20節にはさらに二つの重要な言葉があります、「そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、・・・神の御子の信仰の中で生きるのです」。キリストはわたしたちの中に生きておられます。今後わたしたちは神の御子の信仰によって生きます。わたしたちが日々信じるのは、自分自身の信仰ではなく、神の御子の信仰です。神の御子がわたしたちの中に生きておられるのです。この神の御子の信仰によって生きます。わたしたちは主に向かって言います、「主よ、わたしはあなたがわたしに代わって生きておられることを信じます。主よ、わたしは、あなたがわたしの命となっておられることを信じます。わたしが信じるのは、あなたがわたしのなかに 生きておられることです」。わたしたちがこのように信じるなら、わたしたちはこのように生きるのです。どんなことが起ころうとも、わたし自身は動きません。自分が動いても役に立たないのだから、今後は動かないということです。
サタンがわたしたちを試みる目的は、わたしたちに罪を犯させることだけでなく、わたしたちの古い人を動かそうとすることです。ですから、試みがやってくる度にわたしたちは、動く事を拒絶する学びをし、主に向かって次のように言うべきです、「主よ、これはわたしの事ではありません。これはあなたの事です。このことにわたしには責任がありません。あなたが代わって生きてくださることを仰ぎ望みます」。仰ぎ望むことを学ぶのであって、自分が動いてはなりません。わたしたちの救いは、信じることによるのであって、行為によるのではありません。わたしたちの命も、信じることによるのであって、行為によるのではありません。
失敗は人の行ないが足りないことによるのではなく、人の行ないが多いことによります。わたしたちの行為が多い時、主の命は現れません。わたしたちは日ごとにこのように言うべきです、「主よ、わたしは役に立ちません!あなたの十字架をわたしは受け入れます。主よ、わたしが動かないように守ってください。主よ、あなたが主となって、あなたが生きてください!」。もしあなたが信じることができ、仰ぎ望むことができ、依り頼むことができるなら、毎日、「わたしが生きているのではなく、キリストが生きておられる!」と証しすることができるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」