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クリスチャンになると就職、結婚、日常生活に関わるあらゆる出来事において神のみこころが何であるのかを求めます。ある人は、「神に祈っても答えられない」と不平を漏らします。まず神のみこころを知る前に、重要なことを述べます。ヨハネによる福音書第7章17節は言います、「だれでも彼のみこころを行おうとするなら、・・・知るであろう」。
多くのクリスチャンが神のみこころを知りたいと願うのに、その答えが得られません。その理由は、彼らは根本的に神のみこころのままに行いたいという願いがないからです。彼らはただ、神のみこころを尋ね求める方法を持ち出して一つの知識にしてしまっているという事実があるからです。彼らには自分の願いがあって、ただ神に自分の助言者になってもらい、神のみこころを持ち出して参考にしているにすぎません。覚えておいてください。神のみこころは、ただそのとおりに行ないたいと思う人たちにのみ知らされるのです。ですから、神のみこころを知りたいなら、そのみこころどおりに行なおうと決意しなければなりません。これはとても重要なことです。
このことを踏まえた上で、どのようにして神のみこころを知ることができるのかを交わりたいと思います。
Ⅰ. 神のみこころどおりでなければならない
救われる前、わたしたちはすべて自分の心のままに行なっていました。当時は自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。しかし、今日わたしたちは主を信じる人となりました。彼はわたしたちの仕える主であり、わたしたちは主に買い戻された者、主に属する者、主に仕える者であることを認めました。ですから、救われた後、わたしたちには一つの根本的な変化がなければなりません。それは、わたしたちの行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、神のみこころどおりでなければならないということです。
ですから、いったん救われたなら、まず「主よ、わたしは何をすべきでしょうか?」と問うべきです。何かの出来事に遭遇した時、「主よ、わたしの意志のままではなく、あなたのみこころのままになさってください」と主に言うべきです。
わたしたちの得た命は、わたしたちの内側で神のみこころにしたがって歩むようにという基本的な要求をします。神のみこころどおりを行なえば行なうほど、内側にますます喜びがあります。わたしたちがクリスチャンになったなら、神のみこころを受け入れることと、神のみこころにすべてを支配させることを学ばなければなりません。もし神のみこころの下に従順に服することができるなら、回り道をすることが少なくてすみます。多くの人が失敗し、多くの人が命の成長に欠けるのは、自分の意志のままに行なうからです。
Ⅱ. どのようにして神のみこころを知るか
多くの場合、わたしたちのような地上の人が神のみこころを知ることなど、口で言うように簡単にはいかないと思っています。しかし、わたしたちが神のみこころを行ないたいと思っている以上に、神ご自身がみこころを行なってほしいと思っておられます。そのために、神は必ず適切な方法を用いてご自身のみこころがどのようなものであるかをわたしたちに知らせてくださいます。これは神の責任です。わたしたちはこれを信じる必要があるだけです。
それでは、どのような方法で神のみこころを知るのでしょうか?それは三つの事を通してです。第一に「環境の按配」、第二に「聖霊の導き」、第三に「聖書の教え」です。この順番は重要性にしたがったものではありません。ただ三つの事があると示したにすぎません。この三つの事柄の証しが同じであり、一つの路線上で一致する時、それを神のみこころであると断定することができます。もし三つのうちの一つが他の二つと一致しないなら、まだ待つ必要があります。三つがすべて一致する時にこそ、わたしたちはそれを行なうことができます。
A. 環境の按配
ルカによる福音書第12章6節では、「五羽のすずめが二アサリアで売られているではないか?」と言い、マタイによる福音書第10章29節では、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか?」と言っています。一アサリオンで二羽のすずめが買えるとすれば、二アサリオンでは四羽のすずめしか買えない計算になります。しかし主は、ニアサリアで五羽のすずめが買えると言われました(アサリアとアサリオンのギリシャ語は同じ)。一アサリオンで二羽、ニアサリアでは四羽とさらに一羽買えるということは、すずめがとても安いものであることを見せています。しかし、そのように安いすずめであっても、もし神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることがないのです。このことは、すべての状況が神の許可を経なければ起こらないことを見せています。もし天の父が許されなければ、すずめ一羽でさえ地に落ちることがないのです。
人の髪の毛が何本あるかを数えることは困難です。しかし主は、「あなたがたの頭の毛でさえ、すべて数えられている」と言われます(マタイ10:30)。「数えられている」というのは、原文によれば「番号をつけられている」と訳すこともできます。自分の頭の毛が何本あるか知っている人はいないでしょう。まただれも自分の頭の毛を数え上げることはできないでしょう。しかし、神はわたしたちの頭の毛を全部数え上げ、番号をつけておられます。わたしたちの神はこんなにも細かく、こんな事でさえいい加減にはなさいません。
このことから、わたしたちは主を信じたらすぐに、神のみこころを環境から知ることを学ばなければなりません。わたしたちの遭遇する事に、一つとして偶然はありません。すべての事は主によって計られています。あなたの仕事、環境、夫、妻、両親、子供たち、親族、友人、すべての事を、神はあなたのためにうまく按配してくださっています。ですから、環境の中で神のみこころを知ることを学ぶ必要があります。これが信者の最も基本的な学課です。
B. 聖霊の導き
神の御手は環境の中で現れますが、神の真の願いは、わたしたちを内側にあって導きを与えることです。ローマ人への手紙第8章14節は言います、「なぜなら、神の霊に導かれている者はみな、神の子たちであるからです」。わたしたちは神の子供たちであり、神の命を持っていますから、神は環境の中でわたしたちを導いてくださるだけでなく、またご自身の霊を通してわたしたちの内側で語り、導いてくださいます。
エゼキエル書は、「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える」(エゼキエル11:19)と言い、さらに再び「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け」(エゼキエル36:26-27)と言っています。「新しい霊」と「わたしの霊」は違うことを見分ける必要があります。「わたしの霊」は神の霊です。「新しい霊」は、わたしたちが新しく生まれた時に得た霊です。この新しい霊は、一つの部屋、一つの家のようなものであり、神の霊を住まわせることができるところです。もし内側にこのような新しい霊がなければ、神はご自身の霊をわたしたちに与えることはできません。昔からずっと神はご自身の霊をわたしたちに与えようとしてこられました。しかし、人の霊は汚れており、旧創造のもので罪に満ちており、しかも死んでいますから、神の霊を人のうちに住まわせることは不可能です。人が神の御前で新しく生まれて新しい霊を持ってはじめて、神の霊を受け入れることができ、神の霊は人のうちに住むことができるのです。
聖霊の働きは二つに分けることができます。一つは内側の促しです。例えば、使徒行伝第8章29節では、「するとその霊はピリポに『近づいて、あの馬車と一緒になりなさい』と言われた」とあり、使徒行伝第10章20節では、聖霊がペテロに「さあ、立ち上がり、下りて行き、何も疑うことなく彼らと一緒に行きなさい」と告げています。これは内側の促しです。
もう一つは内側の禁止です。例えば、使徒行伝第16章6節から7節では、「また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった」とあります。これらはみな内側での禁止を指しています。
初信者の兄弟姉妹が神のみこころを知りたければ、内側の感覚を少しは知らなければなりません。神の霊は、人の最も内側の場所に住んでおられますから、聖霊の感覚は浅薄なものではなく、外面的なものでもなく、最も深みから出てくるものです。声のようでなくてもやはり声のようでもあり、感覚のようでなくてやはり感覚のようでもあるのです。もしあなたが命のある人なら、この命に従順に歩みさえすれば、正しいと感じるでしょう。
しかし、注意すべきことは、内側の感覚を過度に分析してはいけません。これは正しい、これは間違っていると分析し続けるのでしたら、一日中それをしていてもはっきりしません。ある人は、霊の感覚とはどんなものか、魂の感覚とはどんなものかと、そればかり注意して分析しています。これは全く不健康な状態です。これは一種の霊的病気です。実は、人が分析するのは、光が十分にない時だけです。もし光が十分であれば、すべては自然に明らかになり、時間をかけて分析することなど少しも必要でないはずです。
C. 聖書の教え
神のみこころは環境の中で明らかにされるだけでなく、またわたしたちの内側に住んでおられる神の聖霊を通して知らされるだけでなく、聖書を通しても知らされます。
神のみこころは永遠に変わりません。過去の人々は多くの事に出会いましたが、神はその中でご自身のみこころを明らかにしておられ、その事はみな聖書に記載されています。ですから、神のみこころについては、すでに多くの原則、模範が聖書に記されています。神のみこころを知りたければ、真剣に聖書を読まなければなりません。神のみこころは決して、ある時はこうで、またある時は別であるということはあり得ません。キリストにあっては、ただ「しかり」があるだけです(Ⅱコリント1:19)。わたしたちに対する神のみこころが聖書の教えと反することは決してありません。神が聖書の中で間違いであるとしているのに、今日、聖霊がわたしたちを導いてそれをさせるようなことは決してあり得ません。
神が聖書を通してわたしたちに語られる言葉は、二つに分けることができます。一つは聖書の原則的教えであり、もう一つは聖書の約束の言葉です。聖書の原則的教えは、聖霊の照らしによって明らかにされるものです。聖書の約束の言葉は、聖霊の導きによって得られるものです。例えば、マタイによる福音書第28章19節から20節の主の命令の中で聖霊が告げるのは、クリスチャンは人々に福音を宣べ伝えるべきであるということですが、これは聖書の原則的教えです。しかし、もしあなたがある所に行って福音を伝えたい時に、これが神のみこころであるかどうかという問題は、聖霊の導きによって解決される必要があります。あなたは神の御前で多く祈り、神が言葉を与えてくださるように求めるべきです。ある日、聖霊が聖書の中からある言葉を、あるいはある個所を、力強く、新鮮に、生き生きとあなたの内側に置かれるでしょう。それが聖霊があなたに与える約束の言葉です。このようにして、それが神のみこころであるかどうかを知り始めるのです。
Ⅳ. 神のみこころを知る具体的な例
さて、この三つの事柄を一緒にしてみましょう。この三つの順番は定まっていません。ある時、まず環境の按配があり、それから聖霊の導きと聖書の教えがあります。またある時は、まず聖霊の導きと聖書の教えがあって、それから環境の按配が来ます。環境の按配は、神の時と関係があります。ムーディー兄弟は神のみこころを求める時、常に三つの事を問いました。第一に、この働きは神の働きであるか?第二に、この働きは神がわたしに行なわせたい働きなのか?第三に、この時は神の時であるか?第一と第二の問いは、聖書の教えと聖霊の導きから解決することができますが、第三の問いは、環境の按配を見てはじめてわかります。
もし内側の感覚が聖霊の導きであるかどうかを知りたいのでしたら、わたしたちも二つの問いをしなければなりません。第一に、聖書の教えに合っているかどうか、第二に、環境の按配があるかどうかです。もし聖書の教えに合わなければ、それは神のみこころではありません。もし環境の按配がなければ、それは待つ必要があります。もしかすると、わたしたちの感覚が間違っているのかもしれませんし、あるいは神の時がまだ来ていないのかもしれないからです。
神のみこころを求める上でわたしたちが学ぶべき学課は、間違うことを恐れ、主観的にならないことです。わたしたちは神に対して、神のみこころでない道をみなふさいでくださるように求めることができます。
例えば、ある人があなたを招いて働きをさせて、あなたが何かをしようとするとします。あるいは、ある人があなたに自分の前途について再考慮するように勧めるとします。その時、あなたはどのようにしてそれが神のみこころであるかどうかを知りますか?まず聖書の教えを見ます。神が御言葉の中でこのことについてどう教えておられるかを見ます。それから、自分の内側がどう感じるかを問います。聖書はこのように教えているが、あなたの内側では正しいと感じるでしょうか?もし内側の感覚と聖書に書かれていることが違っていれば、それは内側の感覚に全く信頼するわけにはいかないことを証明しているのですから、少し待つべきです。そしてまた尋ね求めます。
もし内側の導きと聖書に書かれている事が一致しているなら、頭を上げて言ってもよいでしょう、「主よ!今までは、あなたのみこころは環境の中で現されてきました。わたしの内側の感覚と聖書の教えが同じであっても、環境はそうでないということは今までありませんでした。主よ!どうか環境を十分に整えてください。環境と聖書の教えと聖霊の導きとを一直線に整えてください」。このようにしてあなたは、神が確かに環境の中でご自身のみこころを現されるということを見るでしょう。もし神のみこころであれば、神がわたしたちに外側で見せていることと、わたしたちが内側で見ていることと、聖書の中で見ることとは、必ず一直線上にあるのです。あなたの内側がはっきりしており、聖書の教えがはっきりしており、環境もはっきりしていれば、神のみこころに対してもはっきりするでしょう。
Ⅴ. 教会の承認とその他の要素
神のみこころは、神の言葉の中や、人の霊の中や、環境の中に現れる以外に、教会の中にも現されます。もしあなたがある事のために神のみこころを尋ね求めるなら、一方において内側ではっきりとした聖霊の導きを受け、聖書の教えと一致するようにし、環境の按配もあるべきですが、もう一方において、もし機会があれば、あなたがみこころについてさらに把握を持つために、教会の中で神を認識している人たちと少し交わることが良いでしょう。
A. 教会の承認
彼らがあなたの思っていることに「アーメン」を言えるかどうかを見ることは大いに助けになります。彼らは聖書についてかなりの認識がありますし、肉もかなりの対処を受けてきましたし、聖書の支配の下に生きており、霊的状態も神が彼らを通してご自身のみこころを語り出すことができる状態ですから、教会の中で現れているあなたの状態にしたがって、あなたの見ているものに関して「アーメン」を言うことができるかどうかを感じることができます。
もし彼らが「アーメン」を言うことができれば、あなたは神のみこころについて確信を持つことができますが、もし彼らが「アーメン」を言うことができなければ、あなたはさらに待つ必要がありますし、さらに確実になるように神に尋ね求めなければなりません。というのは、わたしたち個人には限りがあり、個人の感覚、聖書の教えについての個人の了解、環境の按配に対する個人の認識には誤りがあったり、十分正確でなかったりすることがあるからです。しかし、教会は比較的頼りになります。もし教会の中の他の肢体たちがあなたの得た「導き」についてみなあまり信用できないとする時は、自分の意見に固辞してはなりません。このような状況になったら、へりくだることを学ばなければなりません。
主イエスは言われました、「あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」(マタイ18:18)。教会は神の住まい、神の光のある所ですから、神のみこころが教会の中で明らかになることを信じなければなりません。わたしたちはへりくだった態度を持つべきです。自分の見方に誤りがあることを恐れるがゆえに、教会との交わりが必要であり、からだの供給が必要なのです。
しかし、わたしたちは極端へと走るのを防がなければなりません。あるクリスチャンは受け身になりすぎて、何でも教会に聞きに来て、別の人に代わりに決めてもらおうとしますが、これは根本的に新約の原則に反しています。わたしたちは教会の中の霊的な人たちを旧約の預言者のように見て、あらゆることを彼らに教えてもらおうとしてはいけません。ヨハネの第一の手紙第2章27節は言っています、「あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません。彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます」。この油塗りはわたしたちの内側に住んでいる聖霊です。教会の承認を、この油の教えに代えることは絶対にできません。教会の承認は預言ではありません。それは、わたしたちの見たものと教会の見ているものとを照合して、神のみこころについてさらに確信を得るための機会なのです。ですから、それは個人が神のみこころを尋ね求めることの保護であって、個人が神のみこころを尋ね求めることに取って代わるものではありません。
もう一点知っておくべきことは、先に述べた神のみこころを尋ね求める方法についてですが、それはみな比較的重大な事について応用するものであって、日常生活の中の些細な事の場合にはこのような方法で尋ね求める必要はなく、人としての常識にしたがって決定すれば十分です。
B. その他の要素
幻と夢についてほんの少し触れておきましょう。旧約では、神は多くの幻や夢を通してご自身のみこころを人に告げられました。新約でも幻や夢はありますが、神はそれらを主要な導きとしてはいません。新約の特徴は、神の霊がわたしたちの内側に住んでいるので、神は直接わたしたちの内側で語りかけることができることです。ですから、主要な通常の導きとは、内側の導きです。神が特に重要な事を知らせたいが、普通の状態ではわたしたちがその導きを受けるのが難しい時には、幻や夢の導きを与えられるでしょう。新約では、幻や夢は神の導きの普通の方法ではありません。ですから、それが妥当で確かなものとなるためには、幻や夢を見せられても、さらに内側の証明と環境の証明を求めなければなりません。
例えば、使徒行伝第10章で見せていますが、神はペテロに異邦人に福音を宣べ伝えに行くよう求められました。ペテロはユダヤ人であり、その習慣によれば、決して異邦人の所に行こうとはしません。そこで神はペテロのこの観念をくつがえすために幻を見せたのです。ペテロが幻を見た後、環境の按配上では、コルネリオから遣わされた三人の人が尋ねて来て、もう一面において、聖霊もペテロに語りかけています。これら内側と外側の証明があってはじめて、これは神のみこころであると確信することができます。
あるクリスチャンは、いわゆる幻や夢を多く見るので、それがすっかり日常茶飯事になってしまっています。これは一種の霊的病気です。それは、神経が衰弱しているか、サタンの攻撃を受けているためか、悪霊によって惑わされているかでしょう。いずれにしても、それは不正常な現象です。
結論として、神がわたしたちを導かれる方法は多方面にわたっています。各自の霊的状況は異なっていますし、必要も違いますから、神がそれぞれを導かれる方法も同じではありません。しかし、一般的な方法は、やはり環境の按配、内側の導き、聖書の教えです。ここで繰り返し言いますが、もしこの三点がはっきりと一直線上にあるなら、神のみこころについてかなりの確信を持つことができるでしょう。
Ⅵ. 神のみこころを知っている人
最後に、方法がすべて正しくても、すべての人が神のみこころを知ることができるとは限りません。正しい方法が役に立つのは、人も正しい時だけです。反逆的な人が神のみこころを知ろうとしても、それは無駄です。神のみこころを知ろうとするなら、内側からこのように求めるべきです、「主よ、わたしはあなたのみこころどおりを行ないたいです!」。
申命記第15章17節にある、奴隷の耳を戸に刺す事が見せていることは、もし神に仕えたいなら、あなたの耳はひたすら神の言葉に聞き従わなければならないということです。あなたは主の御前に来て言うべきです、「わたしの耳を戸の上に刺し通してください。あなたの言葉に釘づけられたいと願います。わたしはあなたに仕えたいです。どうかあなたの言葉を聞かせ、あなたのみこころを知らせてください」。わたしたちは耳が戸の上に釘づけられるように、主の言葉に耳を傾けなければなりません。
神のみこころを知ることは小さな事だと決して思うべきではありません。神の目には、わたしたちは虫けらです。このような小さく卑しい人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!わたしたちのように極限まで腐敗している人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!神はご自身を低くしてわたしたちにみこころを知らせてくださるのです。ですから、わたしたちは神のみこころを知ることを学び、伏して礼拝し、神のみこころを尊び、神のみこころを行なわなければなりません。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十七編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」