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あなたはクリスチャンになって以来、「もっと良い人にならなければならない」「善良な行いをしなければならない」と考え、努力してきたかもしれません。確かに、クリスチャンは誠実であるべきですし、愛を示すべきです。しかし、神がわたしたちに求めているのは、単なる「良い人」ではなく、「超越した人」です。
聖書は、私たちが「新しく造られた者」(2コリント5:17)であると言っています。これは、神が私たちをより良い人間にするのではなく、まったく新しい種類の存在へと変えようとしていることを意味します。では、わたしたちが「超越した人」になるとはどういうことでしょうか?これを知るためには、未信者の反応とクリスチャンの反応の違いを理解しなければなりません。
Ⅰ. クリスチャンの反応は未信者の反応と異なっている
人生の半分あるいは半分以上は反応の中で費やされます。人が話し、楽しいと感じる、これが反応です。人がわたしたちに無実の罪を着せ、わたしたちが弁明する、これも反応です。もしあなたが人との生活を注意深く分析してみるなら、人生の半分以上を反応の中で生きていることがわかるでしょう。
クリスチャンも反応の中に生きています。しかし、クリスチャンの反応は未信者とは異なります。一人の人の反応がどうであるかを見れば、その人がどういう人であるかを知ることができます。クリスチャンであるのにクリスチャンでない反応はあってはなりません。クリスチャンでないのにクリスチャンの反応を持ち得ることはありません。ですから、人がどのような種類の人であるかを知るためには、人がどのような反応をするかを見さえすればよいのです。
では、クリスチャンと未信者の反応の違いとは何でしょう?
Ⅱ. 山上での主の教え
マタイによる福音書第5章38節から48節を読みましょう。この部分の聖書はすべて反応について語っています。「『目には目を、歯には歯を』と言われたことを、あなたがたは聞いている」(38節)。「目には目を、歯には歯を」の意味は、人がわたしの目を傷つけるなら、わたしも彼の目を傷つけるという意味です。人がわたしの歯を折るなら、わたしも彼の歯を折ります。あなたがするようにわたしも行います。これを反応と呼びます。以前、旧約の律法を守った時代には、人はこの種の反応をしました。
しかしながら、主は言われました、「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪しき者に抵抗してはならない」(39節)。主が言われたことは、あなたがたの反応を捨て、別の反応をし、悪人に抵抗すべきではないということです。続けて三つのことを述べていますが、それらは聖書で最も有名な言葉で、多くの人が知っています、「あなたの右の頬を打つ者には、他の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、あなたの下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれでもあなたに強いて一マイル行かせるなら、彼と一緒に二マイル行きなさい」(39-41節)。左の頬、上着、二マイルは、すべてクリスチャンの反応です。右の頬、下着、一マイルは人の要求です。人の要求は右の頬ですが、わたしたちの反応は左の頬をも向けることです。人の要求は下着ですが、わたしたちの反応は上着です。人の要求は一マイルですが、わたしたちクリスチャンの反応は二マイルです。マタイによる福音書第5章38節から48節が見せていることは人の要求に対するクリスチャンの反応です。
多くのクリスチャンが何がクリスチャンの反応であるかを見ていません。彼らは良い生き方をし、とても道徳的です。彼らは、自分は理にかなっており、筋が通っていると思っています。しかし、彼らは、クリスチャンの反応は理屈や正しさに基づいているのを忘れています。彼らはもともとクリスチャンの反応がどうであるかを知りません。これが最大の問題です。ですから、初信者の兄弟姉妹は、何がクリスチャンの反応かを見なければなりません。
Ⅲ. 三種類の異なる反応
人の普通の事柄に対する反応は、三種類に分けられるでしょう。第一は理屈を言うことであり、第二は良い行ないであり、第三は神の聖なる命の反応です。理屈を言うという水準であれば、あなたの反応は短気を起こすこと、怒ることです。良い行ないという水準にあれば、あなたの反応は忍耐することです。神の聖なる命という水準にあれば、あなたはすべてを超越するでしょう。これらはわたしたちクリスチャンにあり得る三種類の異なる反応です。
今日誰かがあなたの右の頬を打ち、あなたの心がもし理屈で満ちているとしたら、あなたは言うでしょう、「どうしてこんな事が起こるのか?なぜあなたはわたしを打つのか?」。だれかがあなたの顔を打ったら、あなたはすごい短気を起こして彼に理屈を言うでしょう。あなたは理屈を言うことの中にいるのです。あるいはあなたは、クリスチャンなら良い行ないをすべきであって、怒ることは間違っていると知っているかもしれません。誰かがあなたの下着を取ろうとする時、あなたは忍耐して何も言わず、人が取るに任せます。これは短気を起こす反応よりずっと良いものです。しかし、主はもう一つの反応があることを言っておられます。その反応が、主が要求しておられるものです。
主がわたしたちに定められた反応は、誰かがわたしたちの頬を打ったら怒るというものではありません。だれかがわたしたちの下着を取ろうとしたら忍耐するというものでもありません。主は、だれかがわたしたちの右の頬を打つ時、左の頬を向けて再び打たせなさい、と言っておられます。下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。だれかがわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、二マイル行きなさい。この種の反応は、忍耐とは言わず、超越と言います。この種の反応は、人の要求の上を行きます。ただ要求に応じるだけでなく、人の要求を超越するのです。
主は、クリスチャンにはただ一つの反応だけがあることをわたしたちに見せておられます。その反応は、理屈を言うことでも忍耐することでもなく、超越することです。超越していないのはクリスチャンではないことを、覚えておいてください。
Ⅳ. クリスチャンの反応は超越である
A. 理屈を言うこと
この世の人は理屈に満ちています。十字架の第一の学科はわたしたちが理屈を言わないことを教えます。しかし、多くのクリスチャンが理屈を言ったり、義を語ったりして、「あなたはわたしを打つべきではなかった」と言っているのではないかと思います。クリスチャンの生活は理屈に基づいてはいません。すべて理屈を言うことは、信者の領域の中にないことです。もしあなたが人と理屈を言い合う程度にまで落ちているなら、それはクリスチャンの地位を離れてしまっているということです。
B. 正しい事や良い事を行なうこと
人がわたしの下着を求める時、わたしが与えなくてもそれは正しい事であり、与えるのであればそれは良い事であると、あなたはきっと言うでしょう。しかし、さらに上着をも与えるのがクリスチャンです。このように話せば、この道ははっきりするでしょう。誰かがわたしの下着をかすめようとする時、わたしは彼に与える必要があるでしょうか?ですから、わたしが与えないのは正しい事です。もし与えるなら、それは良い事です。わたしは善人だから彼に与えます。しかし、正しい事をする人がクリスチャンではありません。良い事をする人もクリスチャンではありません。クリスチャンは下着を与えるだけでなく、上着をも与えるのです。これがクリスチャンです。
C. 超越した事を行なうこと
クリスチャンの反応は、正しい事をするのでも良い事をするのでもなく、超越した事をすることです。神の子なら、迫害を受ければ受けるほど、追い込まれれば追い込まれるほど、歩む道がなければないほど、高く上がっていくべきです。人に押されて落ちるなら、これはみじめです。短気を起こす、理屈を言う、忍耐しようとするのであれば、これは残念なことです。人があなたを迫害すればするほど、出口がなくて壁にぶち当たるほど、さらに高く上っていくことができる、これこそクリスチャンです。
クリスチャンであるなら、このようにすべきです。このようにしないなら、あなたの内側はすっきりしないでしょう。クリスチャンが人と理屈を言い合うなら、家に帰るとすっきりしないのです。人に物を取られると、心の中でつぶやき、家に帰ってもすっきりしません。しかし、誰かが下着を求めるなら、あなたは上着をも加えます。そして家に帰れば、ハレルヤと叫ぶことができ、とても気持ちいいでしょう。このようなクリスチャンであれば、とても喜ぶことができるでしょう。
多くのクリスチャンは、二マイル目を行かないために、朝から晩まで憂え、苦渋に満ちています。もし二マイル行こうとするなら、あなたの内側は歌うことができるでしょう。
Ⅴ.クリスチャンの命は超越する命である
多くの兄弟姉妹が反応の上で困難を感じるのは、彼らが主を認識していないからです。二マイル目を行こうとすれば、左の頬を向けて打たせようとすれば、上着を取らせようとすれば、つらいと感じます。しかし、これらすべては主の要求です。ある人は、あなたの右の頬を打ち、それで満足するかもしれません。しかし主は、左の頬を向けて彼に打たせなさいと言われます。誰かがあなたを強いて一マイル目を行かせようとします。しかし主は、あなたに強いて二マイル目を行かせられます。左の頬、上着、二マイル目は主の要求であって、人の要求ではないことを見なければなりません。これは主があなたに要求されることであって、人があなたに要求することではありません。
わたしたちは主こそ理屈に合わない方であることを覚えておかなければなりません。もし一着目の服が理屈に合わないなら、二着目を求めることはもっと理屈に合いません。第二のものは主の要求であり、主の命令です。ですから、主の命令は、あの理屈に合わない人よりもさらに厳しいものです。理屈に合わない人でも、主の命令よりもっと厳しい人は一人もいません。
これはどうしてでしょうか?それは主がわたしたちにくださった命は超越の命であることを、主はご存じであるからです。その命は、超越しなければ気持ち良くないのです。その命は、超越しなければ楽しくないのです。その命は、困らせられれば困らせられるほど、辱められれば辱められるほど、損失を与えられれば与えられるほど、力を現します。これがクリスチャンです。
Ⅵ. これは神の子たちの恵みである
ある人は聖書がわからないので、マタイによる福音書第5章、第6章、第7章の教えは律法であると言います。これは律法でしょうか?違います。これは恵みです。目には目を、歯には歯を、それこそが律法です。何を恵みと言うのでしょうか?恵みとは、人が得るはずのないものを人に与えることです。第一番目の頬、一着目の服、一マイル目の道のりはすでに恵みです。なぜなら、それはみな人が得るはずのないものだからです。人の観念は、これは損であると勘定します。しかし、第一のこれらは、未信者が得ることのできない機会、すなわち超越した命を表現する機会をわたしたちに与えられたということです。わたしたちの内側の命はすべてを超越していますから、第一のものはみなわたしたちに触れることができません。ですから、わたしたちは一マイル行くことができるだけでなく、彼と共に二マイル目を行くことができるのです。下着を与えるだけでなく、上着をも取らせるのです。右の頬を打たせるだけでなく、左の頬も打たせるのです。これが恵みに恵みを加えることです。
Ⅶ. クリスチャンの勝利は超越の勝利である
わたしたちは、二マイル目を行けばそれで十分だと考えるべきではありません。二マイル目を行くのは一つの原則です。その原則は超越していることです。
超越は、頂上にいることです。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、あなたはマタイによる福音書第5章を思い出して、わたしは歯を食いしばって彼に打たせようとします。彼がわたしの下着を求めるなら、わたしは無理して彼に与えます。彼がわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、わたしはやむなく彼と共に二マイル行きます。このようにすることは役に立ちません。なぜなら、あなたは超越しておらず、高く上っていないからです。
では、どのような人が超越の勝利を経験できるのでしょうか?それは、人に辱められた時、主がわたしに豊かな命を与えてくださっていることを認識している人です。このような人には、主の命は超越しており、豊かに供給してくださるという信仰がありますから、このようなことができるのです。クリスチャンの反応は、わたしにはまだ余裕がある、さらに行なうことができる、というものです。なぜなら、彼の中には復活の主が生きており、その信仰の中に生きているからです。そのような人はこのように言うでしょう、「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです」(ピリピ4:13)。
Ⅷ. 注意すべき三つの事柄
最後に、この命の反応について、特に注意しなければならない三つの事があります。
A. 試み、邪悪な者から救い出されるように祈る
第一に、わたしたちは日々、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」(マタイ6:13)と祈る必要があります。なぜなら、わたしたちが地上でこの原則にしたがって生活するなら、人の見方によれば生きていけないからです。主がわたしたちに求めておられるこの反応は、地上では持つすべがありません。あなたがこれにしたがって何度か行うなら、あなたのすべては使い尽くされるでしょう。だからこそ山上の教えで主は、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」という祈りを挿入されたのです。主の守りがあればこそ、わたしたちはこの世で生きていけるのです。ですから、この祈りは絶対に必要です。あなたが超越した勝利の生活をしたいのであれば、毎日求める必要があります。
B. 識別力を持って語る
第二に、このクリスチャンの生活原則を未信者に語ってはならないということです。またこの原則を有名無実なクリスチャン、すなわち、名ばかり立派で、実際の生き方や態度が伴っていないクリスチャンに告げてはならないということです。これは、マタイによる福音書第7章が、「聖なるものを犬に与えてはならない、真珠を豚の前に投げてはならない」と言っているところです。犬と豚はどちらも汚れているものです。犬はすべての悪と汚れを表します。豚は命のない名ばかりのクリスチャンを表し、外側ではひずめが分かれていますが、内側では反芻(はんすう)しません。外面はクリスチャンですが、実質はクリスチャンではありません。これらの話を彼らにしてはなりません。少しでも言えば、自分に災いを招きます。あなたが彼らに言えば、彼は「あなたの頬を向きをかえて、試してみなさい」と言うでしょう。
C. クリスチャンの立場を守る
第三に、わたしたちはクリスチャンの立場を守らなければなりません。わたしたち自身は問題を求めないのですが、神の許しの下に、神の按配の中で、聖霊の管理において、わたしたちはこの類の事に出遭わされます。信者の手によるか、未信者の手によるか問わず、その時にはわたしたちは正当な反応をすべきであり、引き下がってはなりません。
これは不思議なことですが、クリスチャンの命はこのようです。迫害を受ければ受けるほど、困難に遭えば遭うほど、理屈に合わなければ合わないほど、神の御前では楽しいのです。これこそが幸いへと至る道です。もしも今日わたしが一人の兄弟の頬を打ったとして、その兄弟がすぐさまもう一方の頬を向けてわたしに打たせるならば、わたしは一ヶ月の間、すっきりしないでしょう。
すべてのクリスチャンは、地上において他人を利用することはできません。もしあなたがそういう事を一回すれば、神の御前で少なくとも一ヶ月を失ってしまい、起き上がろうとしても起き上がれないでしょう。人に打たせたほうが、家に帰ってよく眠れるでしょうし、食事もおいしいでしょう。利得を得れば得をするなどと絶対に思ってはいけません。反応が正しければ、正しい道を歩んでいるのであると、わたしたちは信じます。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十四編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」