バプテスマは聖書の中で非常に大きなテーマです。わたしたちはバプテスマについて、二つの面においてはっきりしていなければなりません。その二つの面とは、第一に「バプテスマされる前にはっきりしなければならないこと」です。第二に「バプテスマされた後に振り返ってみること」です。第一は「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということであり、第二は「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。

バプテスマとは何でしょう?早速、結論を申し上げます。バプテスマとは、神の完全な救いを受けるための手続きであり、救われたことを外側に宣言、表明する行為です。また、バプテスマはわたしたちを”この世”から出てこさせ、救いを得させ、この世から離脱させます。これがバプテスマです。

ここからは「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」「バプテスマにはどのような意義があるのか」という、この二つに分けて詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. バプテスマは人に何をするのか?

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信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
マルコによる福音書 16章16節

この聖書の節は、バプテスマが人に何をするかを言っています。ですから、これは第一の面です。この節は「信じること」と「バプテスマされること」は切り離されておらず、一つの事柄であることを見る必要があります

A. 信じてバプテスマされる者は救われる

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1.「信じること」と「バプテスマされること」

「信じてバプテスマされる者は救われる」(マルコ16:16前半)この節には「信じること」と「バプテスマされること」の二つのことが述べられています。「信じること」とは、主イエスを救い主として受け入れることです(ヨハネ1:12)。福音を信じるとは、救い主である主イエスを信じることであり(使徒16:31)、彼を信じるとは、彼をわたしたちの中へと受け入れることです(ヨハネ1:12)。悔い改め、主イエスを信じた者は、永遠の命を持ちます(ヨハネ3:15)。

「バプテスマされること」とは、主イエスの死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また主イエスの復活を通して復活させられ、神の新創造となることよって、これを証しすることです。

旧創造とは、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの人です。生まれながらのわたしたちには神の命、神聖な性質はありません。これが旧創造です。

古い人とは、アダムに属します。アダムは神によって創造されましたが、罪のゆえに堕落しました。全人類はアダムの子孫ですから、すべての人は生まれながらにして罪の性質を持っています。これが古い人です。

新創造とは、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人(ヨハネ3:6)、神の命と神の性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10-11)、新しい構成となったものです。

罪と暗やみの中にいたわたしたちは、主イエスを信じることによって救われます。主イエスを信じ、受け入れた瞬間に、わたしたちは永遠の命を受け、再生されます。これは、霊的に一瞬にして行われることであり、この時、旧創造は終わらせられ、新創造となります。しかし、これは霊的に行われることであるので、わたしたちは、それを見える形で証しする必要があります。それがバプテスマです。

「信じること」は内側の出来事であり、「バプテスマされること」は外側に確証することです。「信じること」と「バプテスマされること」は、神の完全な救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。主イエスを信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また、主イエスを信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側に確証がありません。これらの「信じること」と「バプテスマすること」は並行すべきです。

2. 信じない者は罪に定められる

「しかし、信じない者は罪に定められる。」(マルコ16:16後半)この節は、「信じないでバプテスマされない者」とは言っていません。これは罪定めが「信じないことだけ」であって、「バプテスマされないこと」とは関係がないことを示しています。主イエスを信じることだけで、人が罪定めから救いを受けるのに十分です。しかし、人の内なる救いの完成のために、信じることは、外側の確証としてのバプテスマを必要とします。

B. バプテスマは人を”この世”から救う

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バプテスマはわたしたちをこの世から救います。まず、わたしたちは”この世”とは何かを見ていきましょう。

1. 罪とこの世の違い

わたしたちは神の御前で罪が忌み嫌われるものであることを知っています。しかし、罪だけでなく神はこの世をも忌み嫌っていることを知る必要があります。この両者はけがれており、取り除かなければなりません。しかし、わたしたちはこの両者がわたしたちに与える汚れが異なっていることを見る必要があります。罪の汚れは野蛮で粗暴、醜悪(しゅうあく)です。この世の汚れは文明的で、洗練されており、多くの場合、人の目には美しく映ります。

罪の汚れは、白いワイシャツについた墨のしみか、泥がはねたようです。この世の汚れは、白いワイシャツにプリントされた色とりどりの図柄のようです。一般の人から見れば、ワイシャツにしみがあればきたなくて、それはあるべきものではありません。一方、色とりどりの柄はきたないものではなく、あってしかるべきものです。しかし、神の目には、この双方ともあるべきものとは映りません。また、罪とこの世が人に与える害も多いに異なっています。罪は人を汚します。この世は人を汚すばかりか占有します。ですから、罪は人を汚すもの、この世は人を占有するものです。サタンがもし罪によって人を汚すだけなら、それは人を堕落させるに過ぎません。しかし、この世をもって人を占有するなら、サタンは人を自分のものにしてしまいます。

例えば、両親のもとに純粋な子供がいたとします。もしだれかが、その子供にうそをつくことや盗みをすることを教え、悪いことをするように誘惑するなら、彼の純粋な性質は汚され堕落してしまいます。しかし、この時はまだ彼は両親の保護の下にあります。しかし、ある日、例の悪事を行う者が来て、二着の素敵な洋服で彼をとりこにして、自分のものとしてしまったらどうでしょう?彼は両親のもとを去り、いなくなってしまいます。同じように、サタンが罪によって人を汚しても、それは人を堕落させるだけですが、もしサタンがこの世をもって人を占有するなら、その人を神の御前から離れさせて失われたものとしてしまいます。

2. この世の定義

この世の支配者とはサタンです(ヨハネ12:31)。ですから、この世はサタンに属するものです。そして、この世の友となること、すなわち、この世に占有されることは神の敵となることです(ヤコブ4:4)。

ここで、この世を定義したいと思います。この世とは、人の上で神にとって代わり、人を占有するすべてのものです。人でも事でも物でも、善であろうと悪であろうと、美しいものであれ醜いものであれ、何であれ人を占有して神を思わせない、神に頼らせない、神に属させないようにするものは、すべてこの世です。

この世のギリシャ語は κόσμος(コスモス,kosmos)であり、系統や組織を意味します。サタンは人生に必要な人、事、物を利用して人を占有するだけでなく、さらに進んで、これらの人、事、物を個々の系統に組織し、もっと強力に人を占有します。今日のこの世にある大学は、社会学科、心理学科、美術学科、音楽学科など多くの科に分かれています。人々はこの中にあって、ある人はこの科にとりこになり、ある人は別の科にとりこになっています。サタンはこの多くの人生系統を利用して人々を束縛し、占有し、完全に神を捨てさせ、神を忘れさせ、この世の風潮に従わせます。

3. わたしたちはこの世から出る必要がある

イエスはご自身の王国はこの世ではないと言われました(ヨハネ18:36)。そして、主イエスを信じるわたしたちを暗やみの権威(サタンの王国、この世)から御子の王国へと移してくださいました(コロサイ1:13)。ですから、クリスチャンはこの世に生きていますが、この世に属してはいません。しかし、この世に属していないこと、救われ、再生され、神の民とされ、主イエスを王とする王国の民であることをこの世に宣言するためにはバプテスマが必要です。

例えば、あなたが主イエスを救い主と信じ、永遠の命を受けたとします。もし、あなたがバプテスマしないなら、あなたが救われたことを知る人はあなた以外に誰もいません。もし、あなたがバプテスマされることを拒むなら、他の人があなたを兄弟姉妹であると知ることはできません。

また、あなたが職場で主イエスを受け入れたことを証しすることは不可能です。なぜなら、あなたに救われたことを外側に証しする確証をもっていないからです。バプテスマはただの儀式ではありません。バプテスマされることは大きなことです。バプテスマは、あなたが救われたこと、神の民となったこと、この世とは決別した者となったことを証しすることです。もし、あなたがバプテスマするなら、大胆さを持つでしょう。あなたは大胆に「わたしはクリスチャンになりました!」と人々に証しすることができるでしょう。それがこの世から救われるということです。もし、外側に救われたことを証しせず、クリスチャンであることを隠しているなら、この世から救われていないのです。

4. バプテスマとは”この世”から出てくることである

では、バプテスマとは何でしょう?バプテスマされるとは、この世から離脱すること、この世との関係を断つことです。主イエスを信じる者には永遠の命があるという点については、全く問題がありません。すべての人は主イエスを信じるならすぐに命が入り、永遠に恵みを受け、その他の問題はすべて解決します。

しかし、人がただ信じただけでバプテスマされないなら、その人はまだ救われていません。なぜなら、あなたと他の人との違いを知っている人は、誰一人としていないからです。バプテスマとは、この世との関係を断ち切ったことを宣言することです。そうしてはじめてあなたは救われ、そして、他の人はあなたが救われたことを知るでしょう。

C. バプテスマは水を通して人を救う

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「バプテスマ」のギリシャ語の動詞は βαπτίζω(バプティゾー, baptizō)で、「浸す」「洗う」「沈める」などの意味があります。この動詞から「バプティスマ」が派生しており、元々は水に浸す行為や洗う行為を指していました。ですから、バプテスマとは、あなたを水に浸す、沈める、水によって洗うことです。ノアの箱舟の物語は、バプテスマの型でした。

ペテロは、このノアの物語について、「箱舟に入り、水の中を通って安全に救われた・・・」(第一ペテロ3:20)と言いました。この言葉は、人は水を経ることによって救われることを見せています。ですから、バプテスマは水を経ることによってわたしたちを救います。バプテスマは、わたしたちを水の中にもたらし、また水をから出てこさせます。ノアの箱舟に乗った人たちが水から出てきて救われたと同じように、わたしたちはバプテスマされ、水から出てくることによって救われるのです。

D. バプテスマは人を”この世”から離脱させる

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以上のことから、わたしたちがバプテスマされるやいなや、この世から離脱します。ですから、主イエスを信じた者が、まずはじめにしなければいけないことは、バプテスマです。わたしたちは、この世が神の御前でどういう地位にあるかを見なければなりません。あなたとこの世との関係が断たれることが救われたことです。それはバプテスマによって確証します。こうして、あなたは今後、この世の外におり、別の側に移されるのです。

もう一度、質問します。バプテスマとはなんでしょう?バプテスマとは、この世から出てくることであり、この世から分離する一つの手続きです。あなたがバプテスマされるなら、それはこの世から出てきたことの証し、宣言することです。以上が、第一の「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。

Ⅱ. バプテスマの意義

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ここからは、第二の「バプテスマにはどのような意義があるのか」を見ていきます。このバプテスマの意義は、あなたがバプテスマした後に振り返るためです。わたしたちはバプテスマを10年経って振り返り、20年経って振り返る必要があります。もし、あなたがバプテスマされていないなら、振り返ることは困難でしょう。バプテスマされた人は、実際に水の中に入り、水の中から出てきたことを鮮明に覚えています。このバプテスマが振り返ることのできる出来事となります。

なぜバプテスマを振り返る必要があるのでしょうか?それは、年数が経ってはじめて、バプテスマの真の意義を理解することができるからです。その真の意義とは、バプテスマされた時「主と共に死んだ」(ローマ6:3)ということ、バプテスマされた時「彼と共に葬られた」(コロサイ2:12)ということ、バプテスマされた時「彼と共によみがえった」(コロサイ2:12)ということです。

A. わたしたちは死んだ

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主イエスが十字架に釘づけられて死なれた時、彼はわたしたちを伴って十字架についてくださったので、わたしたちも釘づけられて死にました。

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半

主イエスは神の御前で、わたしたちという人を処理してくださいました。あなたはこのことを見たでしょうか?自分の罪深さを知る時、自分のどうしようもなさを知る時、主イエスの死を聞くなら、それは福音です。自分がどんなに悪いかを見、どんな方法を尽くしてもうまくいかない時、あなたがすでに死んだことを聞くなら、これも福音です。主の死はわたしたちを含みます。

わたしたちが水の中に入ってバプテスマされる時、あるいは主を信じて長年経過して、バプテスマを振り返って見る時、自分がすでに死んでしまった人であることを覚えているべきです。あなたはクリスチャンになって、良い人間になろうとして、もがいているかも知れません。罪ばかり犯す自分にうんざりしているかも知れません。しかし、聖書はあなたは「すでに死んでいる」と言います。これは、あなたがもう良い人間になる必要がないことを告げています。ただあなたは、すでに死んでいることを宣言するだけでいいのです。そうすれば、キリストがあなたに代わって生きてくださるでしょう。これがバプテスマを振り返る意義です。

B. わたしたちは死んで復活した者である

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主が十字架で死なれた時、わたしたちは死にました。そして、主イエスが復活させたれたことにより、復活の力がわたしたちの中に置かれ、この力によってわたしたちは再生されました。水を経て出てきて、復活させられたあなたは、もはや以前のあなたではありません。

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半

生きているのは、もはやわたしではありません!バプテスマを振り返り、わたしたちはこの言葉を宣言すべきです。

「わたしはキリストと共に十字架につけられました!生きているのはもはやわたしではありません!キリストがわたしの中に生きておられるのです!」

まとめ

わたしたちは、これまでバプテスマについて見てきました。バプテスマには二つの面があります。第一の面は、バプテスマの前のことであり「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。バプテスマは、わたしたちを”この世”から救います。また、バプテスマは、この世から離脱したことを宣言することです。

第二の面は、バプテスマの後のことであり「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。バプテスマの意義は、わたしたちは死んだということ、葬られたということ、復活したということ、そして、今、わたしたちはキリストの中におり、キリストがわたしたちの中にいるということです。わたしたちは、絶えずバプテスマを振り返り、自分自身が死んで葬られたことを思い起こす必要があるのです。

参考書籍

「ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)」第一編 ウォッチマンニー著

「命の認識」ウィットネスリー著

「回復訳聖書 フットノート」ウィットネスリー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

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