人が主イエスを信じ、クリスチャンとなった後、過去の問題はどのように対処し終結させるべきなのでしょうか?主を信じた後、過去の多くの事とのかかわりは無くなるものですが、それらを終結させずに放置していても良いのでしょうか?この記事では、「クリスチャンとして過去の問題はどうすべきなのか?」というテーマで学んでいきたいと思います。
まず詳しく入っていく前に、先に結論を述べたいと思います。クリスチャンになった後、わたしたちが対処しなければならない事柄は大きく分けて4つあります。それは、以下の四つです。
- 邪悪で汚れた事物
- 正しくない事柄
- 不義な事柄
- 古い生活の方法
本文では、この問題をどのように対処すべきかを詳しく見ていきたいと思います。
Ⅰ. 聖書の教えはすべて”今後どうあるべきか”を語っている
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旧約から新約までの全聖書、特に新約では、神は人が主を信じる前のさまざまな事に注目していません。聖書は、前に向かって、今後どのように生きていくべきかを述べていることが大半です(ヘブル12:1)。新約のマタイによる福音書
から啓示録
(ヨハネによる黙示録)まで、主を信じた人が過去の事をいかに終結させるかを語っている箇所を見いだすことは実に困難です。書簡の中で過去の間違った行為を取り上げている箇所でも、今後どうあるべきかを言うだけで、以前のことについて、どうするべきかを述べてはいません。
ルカによる福音書で、ある人がバプテスマのヨハネに尋ねました。「それでは、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか?」(ルカ3:10)。この質問に対して、バプテスマのヨハネこう答えました。「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えなさい.食物を持っている者も、同じようにしなさい」(ルカ3:11)。これは過去のことではなく、今後のことを言っています。
また取税人は、このように尋ねました。「先生、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか?」(ルカ3:12)。ヨハネの答えはこうです。「決められた以上のものを取り立ててはならない」(ルカ3:13)。以上のことから、悔い改めを宣べ伝えたバプテスマのヨハネも、過去をどうすべきかではなく、今後どうあるべきかに注意を払っていたことがわかります。
パウロの書簡はどうでしょうか?彼も過去についてではなく、今後どうあるべきかを重んじています。それは、すべてが主イエスの尊い血の下にあるからです。少しでも不注意になるなら、福音を間違えてしまいます。この問題ははっきりさせなければなりません。パウロはコリント人への手紙でコリントの信者へ叱責し、不義な者は神の王国を継ぐ事はないと告げました(第一コリント6:9-11)。しかし、パウロは、彼らに以前これらの事があったと述べていますが、これらをいかに解決すべきかとは言っていません。パウロは過去の問題をどのようにすべきかではなく、あなたたちは主イエス・キリストの御名の中で、洗われ、聖別され、義とされていると言いました(第一コリント6:11)。人間の観念では、過去をどのようにすべきかを指摘するでしょう。しかし、パウロはキリストにある事実を語りました。なぜなら、救い主がすでにわたしたちに代わってすべての過去を対処してくださったからです。
また別の箇所では、盗みをしている者に、今後盗んではいけないことを告げています(エペソ4:28)。ここでもパウロは、かつて盗んだものは返しに行きなさいとは言っていません。これは盗んだものを返しに行かなくてもよいと勧めているのではありません。以前、盗んだものをどのように返すかは、別の問題ということです。
このように、聖書を調べるなら不思議な真理を見いだします。それは、神が重きを置かれるのは信者が今後どうすべきであるか、ということです。これは土台の問題です。多くの誤った福音のゆえに、過去を対処することを重視しすぎて、多くの人は束縛の中に陥ってしまっています。これは、過去を対処しなくていいということではなく、ある事は対処しなければなりません。しかし、土台はこの事にあるのではありません。神が重んじられることは、わたしたちの過去の罪はすべて血の下にあり、主イエスがわたしたちに代わって死なれたゆえに、わたしたちは完全な赦しを得、救いを得ているということです。わたしたちは、ただ主イエスの十字架の救いによって永遠の命を受けるのです。これこそ、わたしたちの土台です。
Ⅱ. 新約における過去を対処する”模範”
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💬 それでは、過去の出来事は何もせず放置していいのですか?
いいえ、これは違います。しかし、新約を調べてみると、過去の出来事をどのように取り扱うべきかは教えではなく、模範であることがわかります。この”模範”を見るなら、わたしたちが過去を対処するべき事柄は大きく4つに分けることができます。
- 邪悪で汚れた事物
- 正しくない事柄
- 不義な事柄
- 古い生活の方法
これらがどのようなことなのかを見ていきたいと思います。
A. 偶像に関わる事柄は必ず徹底的に解決しなければならない
偶像に関わる事柄は「邪悪で汚れた事物」です。
・・・また、あなたがたがどのように偶像から神に向きを変えて、生けるまことの神に仕えるようになったのか、
テサロニケ人への第一の手紙 1章9節より
主を信じる者は、偶像とは反対側にいます。主を信じたなら、必ず偶像の事柄を解決しなければなりません。わたしたちが注意しなければならないのは、神はいかなる像をも作ることを禁じておられるということです(出エジ20:4)。パウロは、クリスチャンの体は生ける神の宮であると言いました(Ⅱコリント2:16)。神の宮と偶像とに何の一致もありません。この意味することは、クリスチャンは寺院、神社に行くべきではないということです。深い山の中で泊まる場所のために寺院しか見つからなかった場合などは例外です。信者は寺院、神社に参拝に行くべきではありません。環境上の、あるいは特別な場合の出来事についてを除いて、故意に観光のためにそれらに接近するのはふさわしくありません。なぜなら、ヨハネは「偶像から自分自身を守りなさい」(Ⅰヨハネ5:21)と言ったからです。自分自身を守るとは、それら偶像に接近しないことを意味します。
わたしたちが今日、偶像についてはっきりしていなければ、将来地上に最大の偶像に出くわした時、逃れることが困難となるでしょう。わたしたちは、いかなる偶像も拝んではならないし、拒絶すべきであることを覚えておかなければなりません。主イエスの像、マリアの像も拝むべきではありません。これが聖書での過去を対処する第一番目の事柄です。すなわち「邪悪で汚れた事物」である偶像を拒絶することです。
B. 適切でないものは終結させるべきである
また、魔術を行なっていた多くの人が、彼らの本を持ち寄って来て、みなの前で焼き払った.彼らがそれらの価を計算すると、銀貨五万であることがわかった。
使徒行伝 19章19節
適切でないものとは、「正しくない事柄」です。この使徒行伝19章19節の出来事は、命令でも教えでもなく、「聖霊の働きの結果」です。聖霊がある段階まで働きを進めると、彼の所有すべきでない物を持ち出させます。このような魔術と関わりのある事物は、売ってお金にするのではなく焼き払うべきです。今日、この世で蔓延しているスピリチュアルやオカルトなどの汚れたものは焼き払うべきです。
この他にも多くの疑わしいものも解決する必要があります。例えば、賭けごとや飲酒に用いられる物などは一掃される必要があります。また、喫煙やみだらな小説を読むことなどは必ずしも不義ではなくても、確かに不道徳で不正常であって、対処されなければなりません。クリスチャンになるとは、礼拝堂に行って説教を聞けば済むというようなものではありません。クリスチャンになるのは実際的なことです。
C. 負債は賠償すべきである
負債とは「不義な事柄」です。不義とは不当、不法を意味します。例えば、わたしたちが過去に不当、不法な手段で手に入れた物、人との不当な関係、人に対する不法な振る舞いなどです。
ザアカイは立って主に言った、「主よ、ご覧ください.わたしは財産の半分を、貧しい人たちに施します.また、だれかから偽りの取り立てによって何かを取っていたなら、四倍にして返します」
ルカによる福音書 19章8節
ザアカイがこのようにしたのは、命令や教えによってではなく、聖霊の感動によりました。ザアカイはだれかから偽りの取り立てをしていたら四倍にして返すといいました。しかし、四倍ではなく二倍でもよかったのです。レビ記の原則に合わせるならばそれに五分の一を加えることです(レビ6:5)。この場合、負債がもし10万円なら、12万へにして返済します。しかし、聖霊の感動を受けた時は、主の霊がどのようになさるかを見るのです。その時、四倍にして返すように感動されることもあるでしょうし、十倍にして返すように感動されることもあるでしょう。重要なことは、このザアカイの物語は原則を語っているということです。ですから、このザアカイの事例を教えとして受け取り、すべてのものを四倍にして返す必要があると解釈すべきではありません。
わたしたちは、このザアカイの物語から、聖霊が働かれる時の導きについて語っていることを、はっきり知らなければなりません。主を信じる前の過去において、だれかを強要したり、だましたり、盗んだりしたとか、その他不正の方法で、得るべきでない物を手に入れたりしたことがあるなら、主があなたの内側で働きかける時、これらを取り扱う必要があります。これは主の御前で赦しを得ることとは関係ありませんが、証しに関係があります。
例えば、わたしが主を信じていなかった時、ある人から10万円を盗んだとします。もし主を信じた後も清算しないなら、どうやって彼に福音を伝えることができるでしょうか?確かにわたしは神の御前に赦されています。しかし、彼の前では証しがありません。「神が赦してくださったのだから返さなくても構わない」と言うことはできません。なぜなら、これは証しに関係があることだからです。ですから、わたしたちは今一度、自分自身に問いかける必要があります。
「主を信じる前に他の人にすまないことをしたことはないか?」「物を借りたままになっていないか?」「何かをでたらめに家に持ち帰ったりしていないか?」「正しくない方法で物を取っていないか?」もし、内側に主からの感覚があるのであれば、すべてきれいに清算しなければなりません。クリスチャンの悔い改めは、過去の誤りを告白することです。普通の人の悔い改めは行為を改めるだけです。クリスチャンは行為の改善ではなく、誤り、間違っていた事を認め、告白しなければなりません。わたしたちの神の御前での問題は、過去の過ちを繰り返さないことで結構です。しかし、人との間ではそうはいきません。ですから、主を信じた後、人の前で誤りを認め、告白し、過去の間違いを解決しなければなりません。
💬 もし、現在返済できる状態でない時はどうすべきですか?
例えば、借りていたお金が膨大すぎて返済することができない。この場合、原則として、その人に対して率直に、かつて盗んだことと今は償う能力がないことを告白しなければなりません。償う償わないは別のことであり、証しすべきであり、証しがなければなりません。
💬 人を殺した人はどうしたらいいのでしょうか?
パウロは直接人を殺したのではありませんが、彼は間接的に人を殺しました(使徒8:1)。しかし、パウロが救われた後、この事をどのように対処したのかを見ることはできません。ですから、原則的には、殺人を犯した人が主を信じたなら、それは過去の罪です。血によって清められない罪は一つとしてありません。ですから、わたしたちがこのような事態に出くわした時は、神がその人の内側で働かれるのでなければ、あまり重い良心の重荷を人に負わせるべきではありません。しかし、これはその問題を放置することを勧めているのではありません。ある人は神が内側で働かれるために良心に平安がないでしょう。
D. 終結がついていない事柄を終結させる
終結がついていない事柄とは「古い生活の方法」です。人が救われた時、必ず手の中には終結していない多くの世俗的な事柄があります。イエスは過去を終結させる一つの方法を語られました。一人の弟子がイエスに言いました。「主よ、まず、わたしの父を葬りに行かせてください」(マタイ8:21)。その問いかけに対し、主は、「わたしに従って来なさい.そして死人に彼らの死人を葬らせなさい」(マタイ8:22)と言われました。主が答えられた第一の「死人」は「彼ら」であり、第二の「死人」は「その父親」を指しています。これは弟子に対して語られた言葉です。主は「弟子となったあなたが父を葬るのではなく、霊的に死んでいる者たちに父を葬らせなさい。あなたは弟子となったのだからわたしに従って来なさい。」と言われました。
これは、わたしたちが父親の葬儀をしないように勧めているのではありません。死人を葬ることは死人に任せるという原則を掴んで、終結がついていない多くの事柄を彼らに任せるのです。これは過去の出来事を放棄するための原則ではありません。そうではなく、主に従おうとする時に、それを阻もうとするこの世の事柄などです。
例えば、自分が仏教徒であったとします。あなたは主イエスを信じる前に、その仏教の人たちに断りを入れてから、主イエスを信じるべきではありません。わたしたちの古い生活方法、古い考えでは、すべての事柄を終結させてから、主に従うと言うでしょう。しかし、そうであれば、だれがクリスチャンになれるでしょう?ですから、原則は主の一つの言葉です。「死人に彼らの死人を葬らせなさい」。霊的に死んだ人に処理を任せればいいのです。これは決して、今後は家の中のことを構わなくていいと勧めているのではありません。この世のことがすべて片付くまで待たなくてよいということです。
Ⅲ. 過去を終結させる根拠と程度
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過去の出来事を終結させる時、注意しなければならないことがあります。それは多くの人が、過去を終結しようとするがあまり、内省へと入ってしまうことです。内省(ないせい)とは、自分自身の心や思考、感情、行動を深く振り返り、自己を見つめることです。これは、聖書で強調されているものではありません。わたしたちが目を向けるべきものは主イエス・キリストです(ヘブル12:2)。もし、あなたが主イエスではなく、自分自身に目が向けられているのであれば、注意しなければなりません。
A. 過去を終結させる根拠
わたしたちが過去を終結させる根拠とは何でしょう?人から言われたからでしょうか?律法に書いているからでしょうか?説教者に指摘されたからでしょうか?過去を終結させる根拠は、外面の規定の要求にしたがってではなく、内側のその霊の運行にしたがってです(ローマ6:4)。ここでパウロは「わたしたちも命の新しさの中を歩く」と言いました。この命の新しさとは、わたしたちが得た神聖な命にしたがって歩くこと、その霊の導きにしたがって歩くことです。古い方法は、律法の規定や戒めなどの外側の要求にしたがって歩くことです。ですから、わたしたちは外側のものに注意を払うのではなく、内側の命の感覚、その霊の導きに注意を払います。そうするなら、その霊が内側で働き、終結させるべき過去の出来事を思い起こしてくれるでしょう。
B. 過去を終結させる程度
💬 どの程度に至れば、過去が終結させられたと言えるのですか?
肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。
ローマ人への手紙 8章6節
「命と平安」がわたしたちが過去を終結させることで要求される程度です。わたしたちが内なる感覚の要求に従い、負っているものを賠償し、罪を告白し、不正で悪魔的で汚れた事物を消し去り、古い生活を終わらせると、強められ、明るくされ、満たされ、生かされた感覚があり、平安で、妥当で、神の完全な臨在の感覚を持ちます。これが「命と平安」です。もし過去のことを終結させても、命と平安の感覚がないのであれば、それは内なる感覚の要求に十分に応じていない証拠です。わたしたちの過去を終結させる程度は「命と平安」です。
Q & A
Q.もし人に対して罪を犯して相手が知らない場合、その人に告白する必要があるでしょうか?
A.重要な点は、物質的な負債があるかどうかです。彼らが知っている場合には、ザアカイのように対処するべきでしょう。彼らが知らないけれども、物質的な負債がある場合には、やはり行って告白しなければなりません。物質的な負債もなく、彼らが知らない場合は、まず主の御前に出て祈り、内なる感覚を顧みてください。それを主に告白することで命と平安の感覚が得られるかも知れませんし、命と平安は得られず、告白するように導かれるかも知れません。しかし、一番いいのは教会と共にすることです。経験のある兄弟たちに助言をいただくことです。なぜなら、彼らはどのうような方法を採れば、さらに一層益となるかを知っているからです。
参考書籍
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」