人が主イエス・キリストを信じたら、教会に加わる、教会に通うという一つの問題が生じます。前回の記事では、この世から分離することについて学びました。この世から分離すればおしまいではなく、さらに進んで積極的に教会に加わるべきです。(教会に加わるという用語は最上ではありませんが、とりあえずこの語を用いることにします)。
今回の記事では、
- なぜ教会に行く必要があるのか
- どの教会に行くべきなのか
- 聖書に啓示されている教会とは
- どのようにして教会に加わるのか
大きくこの四点を述べていきたいと思います。
(教会に加わるという用語が最上でない理由は、第四の項目で明らかになります)
Ⅰ. 教会に加わる必要がある

わたしたちのクリスチャンの友人で教会に通っていない兄弟姉妹が少なからず存在します。彼らは、自分はクリスチャンになるだけで十分であり、どんな教会にも加わらないと言います。聖書の学びは、YouTubeにアップされている動画を拝聴し、仲の良い兄弟姉妹を集めて、オンラインで集まっていると言います。そのような人たちは、キリストは必要だが教会は必要ないと言います。
「わたしはキリストとは関係があるけれども、教会とは関係がない。わたしは一人で祈ることができるし、一人で聖書を読むことができる。知らない人と行き来するのは面倒だ。自分の好きな時に、好きな方法で、信仰を守っているだけで十分だ」。教会が必要でないと考えている人は、この種の考えを持っています。しかし、わたしたちにその気持ちがあろうとなかろうと、わたしたちは教会に加わらなければなりません。人は救われたなら、クリスチャン生活には個人的な面と団体的な面があることを、必ず見なければなりません。個人の面では、主の命を内側に受け入れることができ、一人で主と交わることも、一人で祈ることもできます。しかし、もう一つの面、団体の面があることを見なければなりません。聖書の中の団体的な面に従ってみれば、単独でクリスチャンになることはできません。
クリスチャンの団体的な面について聖書はこのように言います。第一に、神の言葉は、人が救われると、神の家族となり、神の子供たちとなると言っています(エペソ2:19)。第二に、救われた人はみな神の住まい、すなわち神の家であると言っています(エペソ2:22)。第三に、クリスチャンはすべての肢体が合わさってキリストのからだとなります。わたしたちは互いに肢体であり、共に集まるとキリストのからだとなります(ローマ12:5)。
A. 神の家の中では多くの人たちと共に神の子供となる
聖書は、わたしたちが神の子供たちであると告げています(第一ヨハネ5:2)。わたしたちは、一人っ子ではなく、幾千幾万の兄弟姉妹を持つ、神の子供たちです。家庭において、人が五人の兄弟姉妹を持っているのに、彼らと行き来しないことはあり得ません。両親が五人の兄弟姉妹を生んだのですから、必ずこの兄弟姉妹の間で交わりを持ちます。たとえ、何かの理由によって会えない状態であっても、内側に兄弟姉妹に会いたいという気持ちを抱くことは自然なことです。
今日、わたしたちは全世界で最も大きい家庭に生まれました。わたしたちには幾千幾万もの兄弟姉妹がいます。もしあなたのうちに兄弟姉妹に会いたいという思いが少しも無いのでしたら、あなたが兄弟姉妹であるかどうかを疑います。ですから、わたしたちは個人的に神の命を受け入れ、神の子となりました。しかし、わたしたちが得たこの命は幾千万の子たちの中の一つであり、わたしたちはその中の一人であることを覚えておかなければなりません。
B. 兄弟姉妹と組み合わされて神の住まいとなる
聖書はまた、教会が神の住まいであることを見せています(エペソ2:22)。神は地上で住まいを必要としておられることを知らなければなりません。聖書では、モーセが幕屋を建ててから、ソロモンが宮を建造し、また後になって修復し復興するまでずっと、この住まいの思想は一貫しています。ペンテコステから教会が始まると、神は人をもって神の宮を造られます(エペソ2:21-22)。今日、神は教会に住まわれ、教会も神の住まいとなっています。わたしたちという人が共に組み合わされて神の住まいとなるのです。
ペテロはわたしたちは生ける石として、霊の家に建造されつつあると言っています(第一ペテロ2:5)。この霊の家は生ける石によって造られます。生ける石とは、主を信じ、再生されたわたしたち一人一人のことです。わたしたちはキリストの霊の家の一つの材料です。あなたが離れることは、神が建造の材料を失うことを意味します。神は、神の家の建造のためにあなたを必要とします。
C. すべての肢体と組み合わされてキリストのからだとなる
第三にわたしたちはキリストのからだにあって一つであり、一つからだとなっています(第一コリント12:12-22)。これは家庭、家、住まいよりさらに進んでいます。自分の体を想像してみてください。そこには目があり、鼻があり、口があり、手があり、足があります。目が二階にあり、口が家の外にあったらどうでしょう?それは体ではありません。このことを考えるなら誰一人として、別の肢体から離れることはできません。
以上の三点から、クリスチャンは単独で生きていくことはできません。必ず、兄弟姉妹、他の肢体と交わり、組み合わされる必要があります。
Ⅱ. どの教会に加わるべきか

💬 この地上に数多くの教会がありすぎて、どこに行くべきかわかりません。
聖徒たちの間にこのような質問が多くあります。わたしたちはどこの教会に行くべきなのでしょうか?そのために、まず現在、地上に存在する教会の状況を見ていきましょう。
A. 教会には多くの異なる点がある
教会の歴史は2000年にも及びます。各時代においてさまざまな教会が興されました。これは時期に違いがある問題です。教会はまたさまざまな場所で興されました。これは場所に違いがある問題です。教会はまたさまざまなしもべたちを通して興されました。これは人に違いがある問題です。
ここに三つの異なるもの、時、場所、人の違いがあります。それだけでなく、聖書の真理がとても多いゆえに、人はある真理を重視して、一つの教会を設立しています。別の人はまた別の真理を重視するゆえ、別の教会を設立します。これらの異なる状況が、多くの異なる教会を生み出します。今日、全世界での教会の数は1500以上に及びます。これは教会の数ではなく、一つ一つの系統ごとに数えたものです。聖公会を一つの教会とし、長老派を一つの教会とし、○○教団を一つの教会として数えました。これらの1500以上の数ある教会の中から一つを選んで加わることは容易ではありません。
これほど多くの教会、これほど多くの混乱がある中で、神の御前に歩む道はあるのでしょうか?「はい。あります。」神の言葉がわたしたちの間に残されているゆえに、神の言葉を読み、神の言葉が何を言っているかを見ることができます。聖書の中に、わたしたちの加わるべき教会について導く道がすでに備えられています。神はわたしたちを暗やみの中にとどめてはおかれません。
B. 多くの異なる教会がある原因
1. 場所が異なる(発祥地・起源)
教会が分かれてきた状況を見てみましょう。あるものは場所に違いがあります。例えば、聖公会はその英語名は「Anglican Church」であり、その意味は英国教会です。ですから、聖公会の意味は、英国の国教会です。しかし不思議なことが起こります。英国から米国に伝わると、米国聖公会となり、米国の英国教会となります。同じように、日本にある聖公会は、日本の英国教会です。これはとても奇妙です。
カトリックを考えてみましょう。カトリックは事実上ローマ教会です。ここは日本です。しかし、日本のカトリック教会は、日本ローマ教会です。ローマ教会が別の場所に行っって教会を設立することは正しくありません。ですから、すべて場所を起源とする教会は混乱です。
2. 時が異なる
次に、時によって分かれた多くの教会を見てみましょう。始まった時が異なるために、異なった教会が設立されました。カトリック教会は、1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、布教を始めたことで日本に伝わりました。明治時代になると、プロテスタント教会が日本に伝わりました。1859年にアメリカの長老派、聖公会、オランダ改革派の宣教師たちが来日し、布教活動を始めたのが最初です。以降、多くのプロテスタント諸教派が日本に入り、現在も様々な教派が存在しています。
正教会(東方正教会)は、ロシアからの宣教師であるニコライ・カサートキン(日本正教会の聖ニコライ)が1861年に来日し、布教を開始したことで日本に伝わりました。近現代には、ペンテコステ派やバプテスト、ルーテル教会、メソジスト、アドベンチスト教会など、多様なプロテスタント教派や独立系の教会も日本に入ってきています。また、20世紀以降には新興キリスト教系の教会も数多く設立されています。このように時間が異なるために教会を分けてしまいました。
3. 人が異なる
それにとどまらず、教会歴史において人の違いを見ることができます。ウェスレーが設立した教会は、ウェスレー教会となりました。ルーテルが設立した教会は、ルーテル教会になりました。人が同じでないために、教会が人のゆえに分かれました。
4. 真理に対する解釈、重要視する教えが異なる
さらに、真理に対する解釈、重要視する教えが異なるために教会が分かれました。「人は信じることによって救われる」という信仰による義認の真理を重要視するものをルーテル教会と言います。この世から分離されること、聖なる生活、聖潔を重要視するものはホーリネス派です。聖霊の働きを重視するものはペンテコステ派と呼ばれます。長老が教会を管理することを重んじ、使徒の権威は長老に委ねられていることを認めるものを長老派と称します。監督が使徒を受け継ぐことを認めるものは監督派。バプテスマを重んじ、全身を水に浸さなければならないとするのがバプテスト派になりました。
全世界の教会には各種各様の区別があり、各教会にはそれ自身の歴史と教義があります。これは聖書に啓示された真理に対する解釈、重要視する教えが異なることによっての分裂です。このような混乱した状況の中で、あなたはどのように歩むのでしょうか?
Ⅲ. 聖書に啓示されている教会

聖書は、教会の真理に関しては、最も単純であり、少しも乱れておらず、とてもはっきりしています。何節かの聖書を読むことで明らかになります。書簡の最初の数節、また使徒行伝と啓示録(ヨハネによる黙示録)の第一章を読んでみてください。その聖書の言葉の中に見る教会は、エルサレムに在る教会、コリントに在る教会、ピリピに在る教会、エペソに在る教会、コロサイに在る教会などです。使徒行伝にはアンテオケに在る教会があります。啓示録(ヨハネによる黙示録)には七つの教会があります。
確かに聖書の中の教会には区別があります。しかし、聖書にはただ一つの区別があるだけで、二つの区別はありません。この一つの区別とは何でしょう?これはとてもはっきりしています。聖書に啓示されている教会の道はただ一つです。コリントは一つの地方(都市)であり、エペソは一つの地方であり、コロサイは一つの地方であり、ピリピも一つの地方です。すべて地方(都市)です。言い換えれば、教会はただ地方をもって分けることができるだけです。ですから、教会の範囲は一つの都市であり、一つの地方をその単位としています。これが聖書に掲示されている教会の真理です。
この地方(都市)とは、「行政の最小単位」を指します。行政の最小単位とは、政府や自治体の管理やサービスが提供される、最も小さな地域の区分をです。日本においては通常、市(し)・町(まち)・村(むら)がこの行政の最小単位です。調布市を例にとって考えてみましょう。調布市は行政の最小単位です。調布市は東京都下の市ですが、行政は調布市で行われます。市役所は、その市に住む人々のために行政サービスを提供するための施設です。この市役所は行政の最小単位に一つのみ存在します。例えば、調布市に複数の市役所が独立して存在していたらどうでしょう?そのような状態であれば、市民はどちらに行くべきか迷い、サービスや方針に混乱が生まれます。このように、同じ市に複数の市役所がある状態は、秩序を欠き、住民に混乱をもたらすでしょう。そのため、基本的に一つの市には一つの市役所があるべきです。
教会も同じ原則に基づいています。教会は地上で神の行政を行います。その行政の範囲は行政の最小単位であり、一つの地方(都市)には一つの教会があります。調布市に住んでいる市民が調布市のサービスを受けるように、調布市に住んでいる信徒は調布に在る教会へと通います。このことについてさらに詳しくみてみましょう。
A. 地方(行政の最小単位)より小さいものは教会ではない
教会がどれほど大きくても、それは地方(行政の最小単位)の範囲を超えることはできません。同時に教会がどれほど小さくても、地方より小さいものとすることはできません。地方より小さいとは、コリントに在る教会にあった問題です。コリントに在る教会では、ある一組の人たちが、わたしはケパにつく、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはキリストにつく、と言っています(第一コリント1:12)。彼らはコリントに在る教会を四分しました。このようにして教会を分けるなら、それは争いであり分派です。
B. 教会の範囲は地方より大きくすることはできない
教会がもし地方より大きいなら、それもいけません。聖書を読むと、ガラテヤに在る諸教会、アジアに在る諸教会、ユダヤに在る諸教会があります。ガラテヤに在る諸教会は、ガラテヤの手紙にあります(ガラテヤ1:2)。アジアに在る諸教会は、啓示録(ヨハネによる黙示録)にあります(啓示録1:4)。ガラテヤはローマ帝国の一つの州であり、一つの地方ではありません。ですから、ガラテヤに在る教会とは言わず、ガラテヤに在る諸教会と言っています。
原文で調べてみましょう。「コリントに在る教会」のギリシャ語原文は τῇ ἐκκλησίᾳ τοῦ Θεοῦ τῇ οὔσῃ ἐν Κορίνθῳ
(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、「教会」という単語が **ἐκκλησίᾳ**
(エクレシア、ekklēsia) で単数形になっています。「ガラテヤに在る教会」のギリシャ語原文は ταῖς ἐκκλησίαις τῆς Γαλατίας
(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、ἐκκλησίαις
(エクレシアス、ekklēsiais) は複数形で、「教会たち」または「諸教会」という意味です。ですから、神の定めは、調布市には調布に在る教会があり得るのであり、調布市のカトリック教会、プロテスタント教会はあってはいけないのです。また、関東を一つの教会にしてしまうこともできません。関東に在る諸教会があるだけで、関東に在る教会はありません。
C. 教会にはその地方の名前があるだけである
教会には人の名前はありません。教理の名前もありません。制度の名前もありません。牧師が付けた名前もありません。その場所(地方)の地名があるだけです。ですから、聖書の中には、カトリック教会もありませんし、プロテスタント教会もありませんし、メソジスト派、ペンテコステ派、ルーテル派などもありません。これが聖書の中にある教会の真理の啓示です。
Ⅳ. どのようにして教会に加わるのか

最後に、どのようにして教会に加わったらよいのでしょうか?聖書には、教会に加わると言う言葉は存在しません。ですから、この質問自体がおかしいことになりますが、他にわかりやすい言葉がないので、この言葉を用います。
A. 教会には加わる必要もないし、加わることもできない
聖書には一箇所も「教会に加わらなければならない」と言っている所はありません。また「教会に加わろう」と思っても、加わることはできません。これはちょうど一つの耳が、わたしたちの体に加わると決めるようなものです。あなたがその中にいれば、もうそれでその中におり、その中にいなければその中にいないのです。ですので、教会に加わることによって教会の会員となり得るのではありません。人が神のあわれみを受けて、罪を見、血を見、贖われ、赦され、新しい命を得て、神によって、復活を通して再生されたのであれば、神はもうこの人を教会の中に加えておられ、彼はすでに教会の中にいます。
もし、あなたが教会に加わろうとするのであれば、その教会は偽物です。偽の教会にだけ加わることができます。すべての問題は、あなたが神から生まれたかどうかにかかっています。わたしたちが神から生まれたのであれば、みな教会の中の人であり、それに加わる必要などありません。
B. 教会の中での交わりを求める必要がある
あなたは神から生まれ、教会の中にいるので、それで十分でしょうか?いいえ、違います。あなたは兄弟姉妹との交わりを求めなければなりません。信じることは一つのことです。それは内側のことであって、他の人があなたがクリスチャンになったことを知るすべがありません。ですので、あなたは教会へ行き、「わたしはクリスチャンです。わたしをクリスチャンとして受け入れてください」と言う必要があります。
では、どこの教会に行くのでしょう?それはあなたが住んでいる地方の教会に行くのです。例えば、大阪市に住んでいるのであれば、大阪に在る教会に行きます。名古屋市に住んでいるのであれば、名古屋に在る教会にいきます。神戸市に住んでいるなら神戸に在る教会に行きます。調布市に住んでいるのであれば、調布に在る教会に行きます。
このようにネットで自分の地方にある教会を調べてみてください。もし、ヒットしなければ、住んでいる都道府県名で調べると良いでしょう。主が導いてくださいますように。
さらに詳しく知りたい方へ
「第二期 第三十巻 正常なキリスト者の召会生活」 ウォッチマン・ニー著
「教会の認識」 ウィットネス・リー著
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」