前回の記事では、「人生の目的」について見ました。人は神のかたちに(創世記1:26)、また神を入れる器として創造されました。人は神を受け入れることによってのみ、真の満足を得ることができることも見ました。しかし、人は神を入れる器として創造されたのにも関わらず、多くの人は神を持たず、神とのつながりを持っていません。

その理由は「人の堕落」です。人は堕落したために、神とのつながりを失いました。この記事では、「人の堕落とは何か?」「どのように人は堕落したのか?」を詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. 人の葛藤 ー 「良くなりたいのに、なれない」

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あなたはこんなことを感じたことはありませんか?

  • 良い人でいたいのに、つい人を傷つけてしまう。
  • 正しいことをしたいのに、誘惑に負けてしまう。
  • 親切にしたいのに、自己中心的な思いが消えない。
  • 人を赦したいのに、どうしても赦せない。

多くの人は、「良い人になりたい」「正しく生きたい」と願いながら、そのように生きようと努力するにも関わらず、それを行うことができずに内側でどうしようもない葛藤を抱えています。 その原因は、人の内側に存在する「善を行いたいという性質」と「悪を行ってしまうという性質」が心の中で戦っているからです。

では、なぜわたしたちはこのような葛藤を抱えるのでしょうか? 聖書は、この問題の根本的な原因を明確に語っています。

A. 人は神のかたちに造られたが…

前回の記事で見たように、聖書は人を神のかたちに、神の姿にしたがって創造したと語っています。(創世記1:26)

📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半

そして、神は唯一の善なる御方です。(マルコ10:18)

📖 イエスは彼に言われた、「なぜあなたはわたしを善いと言うのか?神おひとりのほかに、善い者はいない。」 マルコによる福音書 10章18節

ですから、神に似せて造られた人には、神のような「善の性質」「善を行いたいと欲する性質」を持っています。

例えば、

✔ 誠実さ → 人は嘘をつくことを良くないと感じる。
✔ 愛と優しさ → 人は他人を愛したいと願う。
✔ 正義感 → 悪を憎み、正しいことをしたいと願う。

これは確かに人の中に存在するものであって、これが人の良心です。良心が健全に機能しているのであれば、人は善を行うことを欲し、悪を行うことを憎みます。しかし、わたしたちの生活の中の経験と照らし合わせるなら、多くの場合、わたしたちは善を行うことに失敗し、悪を行ってしまいます。

なぜわたしたちは、善を行うことを欲するのに、それを行うことができないのでしょうか?

この原因が「人の堕落」です。

Ⅱ. 人の堕落 ― 罪が人の中に入った

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聖書によると、人間はもともと神と共に生きる存在でした。人が神を入れる器として造られたのは、神を内容とし神を表現するためです。神の願いは、神が人の中へと入り、人を通して神の性質である「愛」「光」「義」「聖」を地上で表現することでした。

しかし、人が神の命令を無視し、サタンの指示にしたがったことで、「罪」が人の中に入ったのです。ですから、罪の原因は神の言葉を無視したこと、神に背いたこと(反逆)にあります。

A. 神への反逆

神は最初の人、アダムとエバをエデンの園に住まわせ、彼らに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じられました(創世記2:16-17)。

📖 そして、エホバ・神はその人に命じて言われた、「あなたは、園のどの木からでも自由に食べてよい。ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない。それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。 創世記 2章16-17節

これは、人が神にしたがい、神を命の源として生きるための定めでした。しかし、サタンは蛇の姿をとり、エバを誘惑しました。

蛇はエバに、「あなたがたがそれを食べると、目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになる」とそそのかしました(創世記3:5)。

📖 さて、蛇は、エホバ・神が造られた野のあらゆる動物の中で、最もこうかつであった。蛇は女に言った、「『あなたがたは園の木のどの木からも食べてはならない』と、神はほんとうに言われたのですか?」。 創世記 3章1節

📖 すると、蛇は女に言った、「あなたがたは必ずしも死ぬことはありません!それは、あなたがたがそれから食べる日に、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のようになり、善と悪を知るようになることを、神は知っておられるからです」。 創世記 3章4節

エバは神の言葉にしたがわず、蛇であるサタンの言葉を受け入れ、木の実を取って食べ、アダムにも与えました。彼らがそれを食べた瞬間、罪が人の中に入りました(創世記3:6)。

📖 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良く、目に喜ばしく、その木は賢くなるのに好ましかったので、彼女はその実を摘み取って食べた。彼女はまた一緒にいた夫に与えたので、夫も食べた。 創世記 3章6節

罪とは単なる悪い行為ではなく、神から独立し、自分を中心に生きようとする性質です。アダムとエバは、神に信頼するのではなく、自ら善悪を判断し、自分の意志で生きる道を選びました。その結果、彼らの内側には神の命ではなく罪が入り込み、人類全体に及ぶ堕落が始まりました。

B. 罪とは「的外れ」である

多くの人が「罪」とは悪い行いであると考えます。しかし、聖書が啓示する「罪」の意味は全く異なります。

「罪」という言葉は、新約聖書では主にギリシャ語で「ハマルティア(ἁμαρτία)」と記されています。この言葉の根本的な意味は 「的外れ」 です。「ハマルティア(ἁμαρτία)」は、もともと弓を射るときに 的を外すこと を指す言葉でした。つまり、聖書で「罪」とされるものは、単なる道徳的な悪や法律違反ではなく、 神が人に定められた目的(的)から外れること を意味します。

聖書でいう『罪』とは、単に悪い行いではなく、本来の目的(神と共に生きること)から外れている状態のことです。これが「罪」、つまり「的外れ」です。

あなたは神から的を外していないでしょうか?

C. 罪の結果は「死」である

罪は人類最初の人アダムに入り込みました。その結果、アダムから生まれるすべての子孫である全人類にその影響が及ぼされました。そして、この罪は「死」という結果をもたらしたのです(ローマ5:12)。

📖 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました。 ローマ人への手紙 5章12節

この「罪」は単なる悪い行いではなく、人の内側に入り込んだ「悪の力」です。 それが、人を神から遠ざけ、善を行おうとする心と戦うようになった原因なのです。

例えば、わたしたち人は毒を食べるなら死にます。それと同じように、善悪知識の木を食べることは、サタンの性質(悪の性質)を取り入れることであり、その結果は「死」です。人類最初の人が罪を犯したために、全人類は死ぬ運命となりました。

C. 人の中にある「二つの性質」 ― 善と悪の戦い

人は神のかたちに造られたため、善を行いたい欲する性質を持って生まれました。しかし、「善悪知識の木からは食べてはならない」という神の言葉にしたがわず、サタンの言葉にしたがったために、人の中に本来存在しなかった罪が入りました。この罪は「悪の力」そのものです。これは神に背いた結果であり、神から離れたことを意味します。

人は神から離れましたが、善を行いたいと欲する性質は依然と残っていました。ですから、わたしたち人は善を行おうと努力するのです。しかし、罪人が善を行おうと努力し続けた場合の叫びは以下のようになります。

📖 わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはないからです。 ローマ人への手紙 7章18節

これは、人がどんなに努力しても、「善」を完全に行うことができず、「悪」に引きずられてしまうという現実を表しています。

例えば、

✔ 「正しく生きよう!」と決意しても、失敗してしまう。
✔ 「怒らないようにしよう!」と思っても、イライラしてしまう。
✔ 「赦そう!」と思っても、恨みの心が残る。

これは、わたしたちが「罪の力」に縛られている証拠です。あなたがどれだけ善を行おうとしても完全に行うことができないのは、あなたの努力が足りないからでも、あなたの意志が弱いからでもありません。あなたの中に「罪」があり、あなたが罪人であるからです。

まとめると、罪とは、「的外れ」であり、神中心ではなく、自分中心で生きることです。また、罪は「悪の力」であり、この悪の力によってあなたは完全に善を行うことはできず、葛藤と苦しみの中で生きていくしかないのです。

では、この葛藤から解放される道はあるのでしょうか?

Ⅲ. 解決の道 ― キリストの身代わりの死

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人がどんなに努力しても、「罪の力」から自分自身を解放することはできません。例えば、あなたが誤って毒を飲んでしまったら、自分自身でどれだけ努力しても、そこから救われることはできません。あなたは毒を取り出してもらうために病院に行って、医者に診てもらう必要があります。

では、わたしたちはこの罪と死の問題を解決するために、どうすればいいのでしょうか?

イエスは、わたしたちの罪という霊的な病を癒すために医者として地上に来られました(マルコ2:17)。

📖 イエスはこれを聞いて、彼らに言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 マルコによる福音書 2章17節

「病んでいる人」とは、罪を持つすべての人、つまりわたしたちのことです。そして、イエスは、「義人ではなく、罪人を招くために来られた」と言われました。これは、イエスがわたしたちを救うために来られたことを意味します。

A. キリストの十字架 ― 罪の身代わり

人は罪により、神との関係を失い、死に支配されています(ローマ6:23)。しかし、神はわたしたちを愛し、救うために イエス・キリストを遣わされました。

キリストは 罪を持たない唯一の方でした。しかし、彼はわたしたちの身代わりとして十字架で死なれた のです。

📖 神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わってに罪とされました。それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。 コリント人への第二の手紙 5章21節

これは、ちょうど誰かがわたしたちの借金を代わりに払うようなものです。わたしたちは自分で罪を取り除くことができませんが、イエスがその罪の代価を十字架で支払われました。

B. キリストの復活 ― 新しいいのち

しかし、十字架はイエスの死で終わりではありませんでした。 三日後に彼は復活されました!

📖 そして彼が葬られたこと、そして彼が聖書にしたがって三日目に復活させられたこと、 コリント人への第一の手紙 15章4節

キリストの復活は、死に勝利したことを意味します。そして、彼は今も生きておられ、わたしたちが新しいいのちを受けることができるようになりました。

人の最大の問題は「死」です。「死」から誰も逃れることはできません。しかし、ここに「死」を乗り越えた方がおられます。主イエスが十字架で死と復活を成し遂げられたのは大きく二つのためです。それは第一に、罪の問題を解決するため。第二に、死を乗り越えた復活の命をわたしたちに与えるためです。

C. キリストが新たな道を開かれた

すべての問題は、わたしたちの中に罪が入り、神との関係が断絶されたことにあります。その結果、人は生きる目的を失い、何をしても真の満足を得ることができなくなりました。

しかし、主イエス・キリストは十字架によって、わたしたちの身代わりの死を成し遂げ、復活されました。これは、神とわたしたちとの関係を回復する道を開かれたことを意味します。

Ⅳ. どうすれば、神との関係が回復されるのか?

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救われるとは、神との関係が回復することです。では、どうすればわたしたちは、この罪による「悪の力」から解放され、「死」を乗り越える復活の命を受けることができ、神との関係が回復されるのでしょうか?

聖書は言います。それはただ「信じるだけ」です。

📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。 ローマ人への手紙 10章9節

では、どうすれば神との関係を回復できるのでしょうか? 次の記事では、『キリストの救い』について詳しく見ていきます!

▶ 次の記事:「キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?」

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