クリスチャンにはどうしても解決しなければならない一つの問題があります。それは、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきかということです。わたしたちが人に対して罪を犯した場合ではなく、兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきでしょうか?わたしたちはどこまでなら赦すべきなのでしょうか?

聖書を正しく読むのであれば、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯すなら、わたしたちは彼を赦すだけでなく、彼を挽回しなければならないと言っています。消極面では赦しがあり、積極面では挽回があります。この記事では「赦し」と「挽回」について見ていきたいと思います。まずは「赦すこと」について見てみましょう。

Ⅰ. 兄弟を赦す

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A. 赦すことが要求されている

マタイによる福音書第18章21節から22節は言います、「その時、ペテロが来てイエスに言った、『主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?七回まででしょうか?』イエスは彼に言われた、『わたしはあなたに七回までとは言わない。七回を七十倍までと言う。』」

ルカによる福音書17章3節から4節は言います、「あなたがたは気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。彼が悔い改めたなら、赦してあげなさい。彼があなたに対して一日に七度、罪を犯しても、あなたに七度、戻って、『悔い改めます』と言うなら、赦してあげなさい」。

マタイによる福音書は、兄弟を赦すのは七度だけでなく、七回を七十倍するまでと言っています。ルカによる福音書は、一人の兄弟があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と言ってくるなら、赦してあげなさいと言っています。彼の悔い改めが真実であっても嘘であっても、彼がそう言う限り、あなたは彼を赦さなければなりません。彼の真偽のほどはわたしたちの問題ではありません。わたしたちはとにかく彼を赦すべきです。

七度は多くありませんが、一日に七度なら少なくありません。その人が一日に七度あなたに向かって「わたしはあなたに対して罪を犯しました」と言うのです。こうであっても、あなたは彼が心から間違ったと告白していると信じることができますか?おそらくあなたは、口先だけであると言うでしょう。こういうわけで、ルカによる福音書第17章5節は言います、「使徒たちは主に言った、『わたしたちの信仰を増し加えてください』」。彼らは、これは難しいと感じたのです。しかし、神の子たちはこの種の状況下でもやはり赦すべきです。

B. 神の度量

主はマタイによる福音書第18章23節から27節で一つのたとえを引用しておられます、「こういうわけで、天の王国は、奴隷と清算しようとした王のようなものである。王が清算し始めると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れて来られた。しかし、彼は返済するすべがなかったので、主人は彼に、自分も妻も子供たちも、持っているすべての物を売って、返済するように命じた。そこで、その奴隷はひれ伏し、拝して、『どうか待ってください。必ず全部お返ししますから』と言った。すると、その奴隷の主人はあわれに思って、彼を釈放し、その負債を免除した」。

このしもべは神の御前で一万タラントの負債がありますが、これはとても大きな金額です。1タラントは約34kgの銀または金の重量を指します。新約聖書の時代では 1タラントは6,000デナリ相当でした。デナリは1日分の労賃なので、1タラントは約16年分の労賃に相当します。ですから、一万タラントは6000万デナリとなり、1日1万円の労賃とすると、6000億円相当となります。しかし、これは、デナリと比べた試算であり、もし現代の金の価値で計算するなら(金 1g=約1万)、3京6000兆円という数字になります。どちらにせよ、わたしたちは神の御前でこれほどの負債があるのです。わたしたちが神に対して持っている負債は、決して返すことのできないものであって、人に対する負債とは比べようもないほどです。どの神の子も、神に対する自分の負債について正当に評価して、はじめて兄弟に対する負債を大目に見て、赦すことができます。もしわたしたちが神の御前で受けた恵みがどんなに大きいかを忘れてしまうなら、大変な恩知らずになってしまうかもしれません。神に対する自分の負債がどんなに大きいかを、わたしたちは見る必要があります。それでこそ、わたしたちに対する他の人の負債には限りがあるのを、わたしたちは見ることができます。

C. 神の願い

神はわたしたちの上に願いを持っておられます。それは、恵みとあわれみにしたがって他の人を取り扱うということです。恵みが必要な人たちは、人に恵みを与えることを学ばなければなりません。

マタイによる福音書第18章28節から29節は言います、「ところが、その奴隷が出て行くと、自分に百デナリの負債のある奴隷仲間の一人を見つけたので、彼を取り押さえ、のどを締めて、『借金を返せ』と言った。その奴隷仲間はひれ伏して請い願い、『どうか待ってくれ。必ず返すから』と言った」。主はここでわたしたちに見せていますが、わたしたちの負債は一万タラントですが、他の人がわたしたちに借りているのは百デナリにすぎません。主はわたしたちを赦しただけでなく、その負債を免除してくださいました。あなたの仲間はあなたの兄弟ですが、彼はあなたに罪を犯しているとは言え、せいぜい百デナリの借金をしているだけです。彼もあなたに言いました、「どうか待ってくれ。必ず返すから」。彼はあなたと同じ願い、同じ要求をしているのですから、あなたはどうして彼を赦さないことができるでしょうか?

主はこのたとえを用いて、他の人を赦さない人は、神から見て何と理屈に合わないかを見せています。もしあなたがあなたの兄弟を赦さないなら、あなたはこの奴隷と同じです。わたしたちがこのたとえを読む時、この人は本当に筋の通らない人だと感じます。彼は何という「義」を説いているのでしょうか?クリスチャンは、自分を取り扱う時は義に基づいているべきですが、他の人を取り扱う時は恵みに基づいているべきです。もし兄弟が悔い改めると言い、それでも赦すことができないなら、恵みをもって人を取り扱っていないことを見せています。

31節から33節は言います、「奴隷仲間たちは、その起こったことを見て、非常に悲しみ、そして来て、起こったことすべてを残らず彼らの主人に説明した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った、『悪い奴隷だ。あなたがわたしに請い願ったから、わたしはすべての負債を免除してやったのだ。わたしがあなたをあわれんだように、あなたも奴隷仲間をあわれむべきではなかったか?』」。主はあなたを取り扱ったのと同じように、あなたが他の人を取り扱うことを望んでおられます。主は義にしたがってではなく、あわれみにしたがってあなたの負債を赦されました。ですから、主はわたしたちがあわれみにしたがって他の人をはかることを願われます。主が用いられたはかりで、あなたも他の人をはかることを、主は願っておられます。主は十分な升を用いて人にゆすり入れ、山盛りになるほどにあなたを恵まれます。神はあなたにも同じように他の人を恵んでほしいのです。

D. 神の懲らしめ

続けて34節は言います、「こうして主人は怒って、負債をすべて返すまで、彼を獄吏に引き渡した」。ここでこの人は神の懲らしめに入れられ、負債全部を返してしまうまで、神は彼を獄吏に引き渡されました。

35節は言います、「あなたがたもそれぞれ、心から自分の兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も、あなたがたにこうされるであろう」。これは厳粛なことです。わたしたちは一人も神の手に陥ることがないように望みます。人は、神が心から自分を赦してくださったように、兄弟を心から赦さなければなりません。神はわたしたちを寛大に取り扱われたのですから、あなたがたも他の人を寛大に取り扱うことを願っておられます。

Ⅱ. 兄弟を挽回する

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わたしたちがただ兄弟を赦すだけでしたら、それは消極的でまだ不十分です。わたしたちはさらに彼を挽回する必要があります。

A. 彼自身に告げる

マタイによる福音書18章15節は言います、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい。彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。神の子たちの間では、互いに罪を犯すことがいつも起こります。もしある兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはどうすべきでしょうか?主は言われました、「行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい」。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一に別の人の所に行って告げるのではありません。別の兄弟姉妹に告げるのではなく、教会の長老に告げるのでもありません。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一にしなければならないことは、あなたに罪を犯した兄弟に直接告げることです。

多くの時、問題はここにあります。一人の兄弟が別の兄弟に対して罪を犯すと、被害を受けた兄弟はそれを言い広め、あちらへ行っては人に告げ、こちらに来ては人に告げ、言い広めて全教会がほとんど知ってしまったのに、罪を犯したその兄弟自身は何事かまだ知りません。このように人に告げるのは、弱者の行為です。第一に告げなければならないのは、その本人に対してであって、別の人に対してではありません。わたしたちがこの基本的学課をよく学ぶなら、教会は多くの問題を免れることができるでしょう。

それでは、どのように彼に告げたらよいのでしょうか?手紙を書くのでしょうか?主はこうは言っておられません。主が言われた告げる方法は、手紙を書くことではなく、面と向かって彼に言うことです。しかし、注意しなければならないことは、「あなたと彼との間だけで」言っていいということです。多くの神の子たちはこの点で失敗しています。言い換えれば、個人の罪は、あなたがた二人だけで対処するのであって、第三者は絶対に必要ありません。

ある兄弟姉妹は、このようにすることはとても面倒ではないかと言うかもしれません。確かに少し面倒ですが、あなたは主の言葉にしたがって行わなければなりません。もしあなたが、ある兄弟があなたに罪を犯したことがあまりにも小さいことで、本人に言う必要もないと感じるなら、別の人の所へ行って言う必要もありません。なすべきことは、本人に言うことであって、他の人に言う必要はありません。

B. 告げることの目的

15節後半は言います、「彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。これが告げることの目的です。本人に言う目的は、償いを得るためではありません。それは、もし彼が聞いてくれたなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。

ですから問題は、あなたの損失がどれほど大きいかではなく、この兄弟があなたにこのように罪を犯したことで、もしこの件をはっきりと処理しなければ、彼は神の御前で歩んでいくことができなくなり、交わりに問題が生じ、祈りが妨げられるので、あなたは彼を訓戒しなければならないのです。これは、あなたが傷ついたと感じるかどうかの問題ではなく、あなたの責任の問題です。もしあなたが傷ついたと感じるだけで、あまり問題にはならないと感じるなら、放っておいてもよいでしょう。この件が軽いか重いかについて、あなた以上にはっきり知っている人はいません。この兄弟に言うべきかどうかを決定する責任は、あなたにあります。もし兄弟が誤りを犯し、主の御前で問題を持つに至ったなら、あなたはこのことが小さなことではないと知るべきです。機会を捕らえて、彼と二人だけの所で言うべきです、「兄弟よ、あなたがこのようにわたしに罪を犯したのは間違っています。あなたがこのようにわたしに罪を犯したので、あなたは神の御前で道を失い、神の御前で妨げを受け、大きな損失を被っています」。もし彼が聞いてくれたなら、あなたはあなたの兄弟を得たことになりますし、この兄弟を挽回したことになります。

兄弟があなたに罪を犯したら、罪を犯されたあなたは、罪を犯した兄弟を挽回する責任があるのです。彼が犯した罪が小さなものでないなら、あなたは彼の前途のために、彼に告げて、彼を必ず挽回する責任があります。また、方法を考えて、あなたの兄弟を得に行かなければなりません。行って語る時、態度は良くなければなりませんし、心は正しくなければなりません。目的は、あなたの兄弟を得ることです。もし心から彼を得たいと思うなら、彼の誤りをいかに指摘すべきかがわかるでしょう。訓戒する目的は、賠償させることでも、自分の感覚を救うことでもなく、あなたの兄弟を挽回することです。

C. 人に告げる時の正しい態度

もしあなたの目的が正しければ、手続きをどのようにしたらよいかがわかるでしょう。第一に、必ずあなたの霊が正しくなければなりません。次に、あなたが語る言葉、語る方法、態度、顔つき、声、口調もすべて正しくなければなりません。あなたの目的は彼を得ることであって、ただ彼に彼の誤りを知ってもらいたいだけではないからです。もしあなたたがただ彼を叱責しようとするのであれば、あなたの叱責が正しいとしても、あなたが話す最も重大な言葉が正しいとしても、あなたの態度や口調や顔つきは、あなたが彼を得たいという目的からはるかにかけ離れているかもしれません。

ある兄弟をすばらしいと言うことは簡単です。誰かをほめることも容易です。短気を起こすことも容易です。しかし、彼に彼の誤りを知らせ、また彼を挽回して彼を得ることは、恵みに満ちた人だけがなすことができます。自分が正しくても、高ぶらず、へりくだり、穏やかで、人に誤りを知らせることができるのは、これは自分を完全に脇に置いてはじめてなすことができます。

ある兄弟があなたに罪を犯すことを主が許されたなら、それは主があなたを認め、選び、重大な責任をあなたの上に置かれたことを、あなたは知らなければなりません。あなたは選びの器であり、神はあなたを用いて挽回の働きをなさりたいのです。

もしある兄弟があなたに罪を犯し、それがとても小さい事で、あなたが彼を赦して、その事が終わったなら、別の問題は残っていません。しかし、もしある兄弟があなたに罪を犯し、それが赦しがたいほどであれば、あなたは目をつぶって、無かったことにすることはできません。もしこれらの問題が解決されないなら、それは教会の重荷になってしまいます。この重荷は、教会の力もからだの命も奉仕者の働きも減少させてしまいます。人があなたに罪を犯した場合、目をつぶって知らぬ顔でいてはいけません。よくよく対処すべきです。しかしながら、霊が正しく、態度が正しく、言葉遣いが正しく、顔つきも正しく、口調も正しくなければなりません。こうであってはじめて、兄弟を得ることができます。

D. 他の人に告げる

16節は言います、「しかし、もし彼があなたに聞き従わなければ、一人か二人を一緒に連れていきなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるためである」。あなたが正しい方法で彼に語った後、もし彼が聞かないなら、あなたは他の人に告げてもいいでしょう。正しい方法、正しい態度で、柔和の霊を持って穏やかな語りかけをしたにも関わらず、彼が受け入れようとしない時、はじめて他の人に言ってもいいのです。

この一人か二人は、主にあって経験のある人、霊的な度量のある人でなければなりません。あなたは、あなたがた二人の間の事を彼らの前に置き、彼らにこの事柄がどうであるか、この兄弟が間違っているかいないかを見てもらいます。この一人か二人の兄弟は、あなたがたの事を神の御前で祈り、よく調べ、霊的な力で判断します。もし彼らも、この事は彼が間違っていると感じるなら、あなたと一緒に行ってこの兄弟に言います、「この事はあなたが間違っています。あなたがこのようにしていると、神の御前で道を失いますから、悔い改めて、誤りを認めてください」。信頼でき、誠実であり、霊的度量があり、主の御前で経験のある人を連れていきなさい。そうすれば、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるでしょう。

E. 最後に教会に告げる

17節は言います、「もし彼らに聞き従うことを拒むなら、教会に告げなさい」。あなたは一人で対処できなければ、一人か二人を連れて行って対処します。それでも彼が聞かないなら、教会に告げなければなりません。ここの教会に告げるとは、全教会が集まっている時、この事を取り出すということではありません。教会で責任を負っている長老に告げるのです。もし教会の良心も、この兄弟が間違っていると感じるなら、彼はやはり間違っているはずです。もしその兄弟が神の御前で生きているなら、自分の見方を放棄して、二人または三人の証しを受け入れるべきです。もし二人または三人の証しを受け入れないなら、少なくとも教会の裁定を受け入れるべきです。教会の一致した見方、一致した意見は、主のみこころであるに違いありません。

もしそれでも聞かないならどうしましょうか?17節は続けて言います、「もし彼が教会に聞き従うことも拒むなら、彼を異邦人や取税人のように扱いなさい」。これは厳しい言葉です。言い換えれば、もし彼が教会の裁定を受け入れないなら、教会のすべての兄弟姉妹はみな彼と行き来しないのです。彼はその問題を対処しようとしないので、教会は彼を異邦人や取税人のように扱い、彼と交わりを持つべきではありません。ここではまだ彼を除名するほどには至っていませんが、兄弟たちは彼を異邦人や取税人のように扱い、みな彼を相手にしません。彼が話してもだれも聞きません。彼がパンさきに来ても、だれも相手にしません。彼が祈っても、だれも「アーメン」と言いません。彼が来たければ来させますし、去りたければ去らせます。実際的に言って、もし神の子たちがこのような一致した態度を取るなら、とても容易に彼を挽回できるでしょう。このように彼を対処する目的は、やはり彼を挽回することです。

18節の言葉は前の言葉に基づいています。18節は言います、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」。教会がなすことは、主は天において承認しておられます。もし教会が彼を間違っていると見ているのに、彼が教会に聞かないなら、教会は彼を異邦人や取税人のように扱います。このことを主も天で承認されます。

19節と20節で言っている言葉も、前の部分に基づいています、「また、まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。これらの二人または三人は、16節の二人または三人です。彼らは主の御名の中へ集められていますが、教会そのものではありません。なぜなら17節は、もし問題があるなら、彼らはそれを教会に告げる必要がある、と言っているからです。

これらの二人または三人が地上で調和一致して求めるどんな事でも、父によって成就されるとは、兄弟を対処するという文脈で語られています。もし兄弟が、罪を犯した本人からの言葉を受け入れず、二人または三人の言葉も受け入れず、また教会の言葉も受け入れないなら、もう道はないかのようです。しかし、主を賛美します。主は、二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致して祈るなら成就されると言われました。主の言葉はわたしたちが兄弟を挽回することができることを示しています。

ここで一つの問題、すなわち教会がどのように重大な事柄を決定するかについて付け加えます。使徒行伝15章は言っていますが、兄弟たちが一緒に集まる時、誰でも語って構わないし、あらゆる話し合いをしてもよいのです。律法を守る人たちでさえ、立ち上がって彼らの主張を述べていいのです。たとえ彼らの主張が全く間違っていたとしてもです。言い換えれば、兄弟たちすべてに語る機会があります。しかし、兄弟たち全員が事柄を決定できるわけではありません。兄弟たちが神の御前ですべての感覚を語り尽くした後、長老たちがみなの話を聞き終えて、最後に神の御前での感覚を述べ、最後の決定を下します。責任を負う数人の兄弟たちが、神の御前で同じ感覚を持つなら、この感覚が教会の感覚であり、教会の良心です。彼らが語り終わった後、全員が服従し、心を合わせて彼らに従います。これこそ教会の方法です。決して人を抑圧して、話す機会を与えないのではありません。

決定を下す時は、長老たちが聖霊の管理の下で語り、兄弟姉妹は長老たちが語る言葉を聞かなければなりません。もし聖霊が教会の中で権威を持っているなら、これらの事柄はとても順調に解決されます。もし聖霊が教会の中で権威を持っていないなら、肉の意見が多くなって、教会は語ることができません。ですから、わたしたちは聖霊の権威に服し、教会の言葉に聞き従うことを学ぶべきです。

まとめ

もしあなたが兄弟に罪を犯されたなら、主はあなたに彼を「赦すこと」と「挽回する」ことを求めておられます。まずわたしたちが、神に赦され、あわれみを受けた者であることを見る必要があります。神は、主イエスを賜り、わたしたちのすべての負債を赦してくださいました。

また、兄弟を赦すだけでなく、彼を挽回しなければなりません。まず、罪を犯したことを直接彼に告げます。もし、彼がこの言葉を受け入れなければ、信頼でき、霊的度量があり、経験のある兄弟に告げます。もし、これらの兄弟の言葉も受け入れなければ、教会に告げます。これはその地方の教会の責任を負っている長老に告げるということです。

どうか神がわたしたちに恵みを賜り、わたしたちを主と同じように恵みのある人にしてくださいますように。もし兄弟がわたしたちに罪を犯すなら、心から彼を赦しましょう。それだけでなく、さらに自分の責任を果たし、主の言葉にしたがって彼を挽回しましょう。どうか神がわたしたちを導いてくださり、教会の中でこのような生活を生きることができるようにしてくださいますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

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