パンさきの集会についてはパンをさくことの霊的意義 – 主の晩餐と主の食卓 – 初信者シリーズ10 で詳しく交わりました。ここでは、重要な点だけを見ていきたいと思います。パウロはコリント人への第一の手紙第10章26節で言いました、「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。パウロはここでパンさきの集会は、「主が来られるまで」行うと言っています。わたしたちは証しすることができますが、わたしたちが主日ごとにパンをさくたびに、新たな啓示を受けます。パンをさくたびに、パンさき集会の奥深さを知ります。ですから、初信者の兄弟姉妹はよくよく学ぶ必要があります。
Ⅰ. パンさきの集会の意義
パンさきの集会の意義について、聖書は二方面から述べています。それはコリント人への第一の手紙第10章と第11章です。第11章の示すパンは、主の肉の体であり、この基本的な思想は主を記念することにあります。第10章の示すパンは、キリストのからだであるわたしたちであり、この基本的な思想は神の子供たちの間の交わりにあります。
コリント人への第一の手紙第11章
パン:主の肉の体
意義:主を記念する
コリント人への第一の手紙第10章
パン:キリストのからだであるわたしたち
意義:神の子供たちの間の交わり
ですから、パンさきの集会には二つの意味があります。一つは天に向かっていくものであり、わたしたちが主を記念します。もう一つは、テーブルの上に置かれているこの一つパンを中心とするものであり、わたしたちはみなこの一つパンの中の人であるということを表しています。これによってわたしたちには主の中で交わりがあるのです。ですから、パンさきは、主の御前に来て主と交わりを持つと同時に、神の子供たちとも互いに交わりを持つことです。
Ⅱ. パンさきの集会の区分
毎回のパンさきの集会には、二区分あれば最も好ましいです。それは救いが二区分あるからです。救いの一区分は、あなたが自分は罪人、裁きを受けるべき人、死ぬべき人であったことを見いだすことです。しかし、主はあなたを十字架により贖い、救い、罪を赦してくださいました。これが救いの第一区分です。
しかし、救いはここで終わりではありません。あなたは救われ、主イエスを得て、彼のものとなりました。そこで主イエスはあなたを神の御前に連れていき、彼の父をあなたの父と呼ばせ、聖霊はあなたの中で「アバ、父よ!」と呼ぶように教えます(ローマ8:14-16)。これは救いの第二区分です。ですから、第一区分は主の段階であり、第二区分は御父の段階です。
第一区分:御子(主)
第二区分:御父(神)
救いには御子(主)の面と御父(神)の面があります。だれも御子を離れて御父の前に行くことはできません。わたしたちはまず主のところに至り、十字架に出会い、赦しを得て、義なる方に不義な者の立場を取っていただかなければなりません。そうしてはじめて主はわたしたちを、御父の御前に連れて行くことができます。ですから、わたしたちは御父の御前に来て救いを得るのではなく、まず御子のところに来て救いを得、その後はじめて御父の御前へと至るのです。
Ⅲ. パンさきの集会の手順
パンさきの集会の特徴は賛美と感謝です。第一区分でわたしたちは主の御前に来て、感謝し、賛美します。感謝と賛美以外にできることはありません。この集会の中で祈り求めることは、ふさわしくありません。主はすべてのみわざを終えられました。ですから、わたしたちはただ感謝し賛美すればよいのです。感謝は彼が成してくださった事によるのであり、賛美は彼がどういう御方であるかによるのです。始まりにおいては、感謝が比較的多いでしょうが、徐々に賛美へと至ります。賛美が最も高まった時が、パンをさく時です。
パンをさいた後、第二区分が始まります。人が主の御前に来て、そこでとどまっているのを、主は願われません。わたしたちが主を受け入れると、御父もまたわたしたちを受け入れてくださいます。このことをはっきり認識しなければなりません。福音では、わたしたちは主を受け入れるのであって、御父を受け入れるのではありません。しかし、わたしたち自身は御父によって受け入れられるのです。わたしたちが御子を受け入れることは救いの前半であり、御父がわたしたちを受け入れることで、救いは完全なものとなります。ですから、パンをさいた後、御父の御前に行くことができます。わたしたちはすでに主を受け入れ、主にまみえたので、主はわたしたちを御父の御前へともたらしてくださいます。これがパンさきの第二区分です。
Ⅳ. パンさきの集会は長子が多くの子たちを導く
ヘブル人への手紙第2章は、主イエスが多くの子たちを栄光へと導きいれられることを見せています。主イエスは地上におられた時は、神のひとり子であり、ただひとりの方でした。しかし、彼はすでに死なれ、復活されました。今やわたしたちは彼を得て、神の子とされました。主イエスは長子であり、わたしたちは多くの子たちです。12節は言います、「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し、教会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」。ここで言っている教会の集会は、長子が多くの子たちを導いて、御父に賛美の歌を歌う集会です。パンさきの第二区分も、長子が多くの子たちを引き連れていく集会ですから、わたしたちは最高点に触れなければなりません。パンさきの第二区分は、わたしたちが地上で御父を賛美する絶好の時ですから、この時間にわたしたちの霊を高めるように学ばなければなりません。
神は、「イスラエルの賛美」(詩22:3)の上に座しておられる方です。神の教会は、賛美に触れれば触れるほど、御座に触れます。人は、賛美に触れれば触れるほど、御座を認識します。次の詩歌の一節を読んでみましょう・・・
父よ、われらかしこみて、礼拝す。 なが子ら和合してつどいて、賛美ささぐ。 なが家にわれら帰りきて、 御子と共にアバ!と叫ぶ (詩歌49番)
この詩はとても良い詩歌であり、御子が多くの子らを導いて父を賛美しに行く感覚に触れています。これはとても貴重な詩歌です。
ヘブル人への手紙第2章で語られている集会は、最も良い集会です。わたしたちは今日ここで少し学び得るだけですが、ある日、天に行ってそのような集会をするでしょう。わたしたちは栄光に入る前に、長子が多くの子たちを導いて御父をほめたたえるとはどういうことか、教会の中で御父を賛美するとはどういうことかを、経験すべきなのです。これは、教会の集会が到達することのできる最高点であり、とても栄光あることです。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」