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わたしたちが正常なクリスチャンとなるためには、あらゆる基本的な問題を正確に対処しなければなりません。家庭であれ、職業であれ、対処されていない基本的な問題が一つでもあれば、後になって多くの問題が生じてきます。

今回の記事では「結婚」について交わりたいと思います。初信者の兄弟たちは、結婚について主の御言葉がどのように語っているのかを知る必要があります。「結婚」について各方面から見ていきましょう。

Ⅰ. 結婚は聖なるものである

結婚について解決すべき第一の問題は、性の感覚です。人には空腹の感覚があるのと同じく、性の感覚もあるということを、はっきりさせる必要があります。空腹が体の自然な要求であるなら、性の感覚も体の自然の要求です。人に空腹感があるのは、自然なことであり、罪ではありません。しかし、人が物を盗んで食べるのは、罪であって、自然なことではありません。同じように、人に性の感覚があるのは、自然なことであって、罪ではありません。しかし、人が不当な手段をもって自分の要求を満たそうとする時、罪に陥るのです。

人が結婚することは神が定められたことであり、神が始められたことであることを、わたしたちは見る必要があります。ですから性の感覚も神が人に与えられたものです。結婚が定められたのは、人が罪を犯した後ではなく、罪を犯す前です。結婚は創世記第2章で定められたのであり、罪は創世記第3章によって入り込みました。ですから、性の感覚には罪の成分はありません。そればかりか、この感覚は神ご自身が創造されたものなのです。

多くの若い兄弟姉妹が結婚の問題で煩わされています。それは彼らが神の定めを知らず、神の御言葉について明らかでないため、理由もなく良心の訴えを受け入れてしまうのです。彼らは性の感覚があると罪だと思い、この欲求が起こると罪だと思ってしまうのです。

ヘブル人への手紙第13章4節では、「すべての人の間で結婚が尊ばれるようにしなさい」と言っています。結婚は尊ばれるべきものであり、また聖なるものです。ですから、わたしたちは神が性を自然なものと見なしておられるばかりか、性を聖なるものと見なしておられるということをも見なければなりません。

パウロはテモテへの第一の手紙第4章3節において、終わりの時には悪鬼の教えが出てきて、これらの悪鬼の教えは結婚を禁じたりすると言っています。G・H・ペンバーの書物の中では、将来のある人は、結婚さえしなければ清い人になることができると思い、聖を追い求めるあまりに結婚を禁じたりするであろうということを、はっきりと指摘しています。しかし、パウロはテモテへの第一の手紙の中で、結婚を禁じるのは悪鬼の教えであるとはっきり言っています。ですから、神は結婚を禁じていないことをあなたがたは知るべきです。

Ⅱ. 結婚の基本的な性質

A. 互いを助け合うため

結婚は神が定められたものです。創世記の中で神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と語られました。神は創造のみわざを成された時、すべての造られたものを見て、良しとされました。第二日目を除いて、彼は造られたものを良しとされました。第二日目の大空は、サタンのいる場所であるため、神はよしとされませんでした。その他の日に神が成されたみわざはどれも良かったのです。けれども、第六日目に、神が一人の人を造られた時には、神は良しとされないばかりか、良くないと言われました。神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われました。それは人の創造がうまくいかなかったというのではなく、人をひとりだけ、すなわち、半分しか造らなかったのが良くないという意味です。

神は六日目にエバを作り、アダムの所に連れて来られました。ですからエバが生み出されたのは結婚のためでした。「配偶者」という言葉は「妻として添わせ、彼を助ける」ことを意味します。この言葉は、ヘブル語では「彼に似合った者、彼の助けとなる者」という意味です。

神が人を造られた時、神は男に女が加えられる必要を覚えておられました。しかし聖書は、神は人を造られたと言っています。ですから神が人を造られたというのは、**男と女を造ることによって、はじめて一人の人を造り上げることです。**それはちょうど、神は初めに半分の人を造り、後で人が半分であるのを見て、さらにもう一人の人を創造されたかのようです。半分を二つ合わせてはじめて一つになります。半分を二つ合わせて、はじめて完全な人になるのです。こういうわけで、エバが造られて、はじめて神はそのみわざを良しとされたのです。これはわたしたちに、結婚は人が始めたものではなく、神が始めたものであることを見せています。

ここで、わたしたちは神の御前における結婚の地位を見ます。神の目的は、一人の夫と一人の妻を得て、互いに助け合うことです。それゆえに彼の妻は配偶者と呼ばれるのです。人が共に生活をして、互いに交わりを持ち、互いに助け合うことを神が求めておられるのを見ます。これが神の目的です。

B. 罪を防ぐため

旧約において、まだこの世に罪が入り込む前に、神はすでに結婚を定められました。新約においては、コリント人への第一の手紙第7章でパウロは、罪が入ってきたために結婚を禁じるのではなく、かえって結婚の必要が増し加わったことをわたしたちに見せています。

結婚によって罪を防止することができます。ですからパウロは、淫行から逃れるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい(2節)と語っているのです。コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは性の感覚があるからといって、それを罪に定めるのではなく、罪を防止するために男女とも結婚すべきであることを見せています。

パウロは、わたしたちが肉の情欲を満たす備えをしないように(ローマ13:14)と言いました。例えば、ある人は高ぶりの罪を犯しやすいとします。パウロは彼に対して「あなたは高ぶりやすいので、どこでも高ぶることがないように家の中で高ぶりなさい。ここで高ぶるなら、他では高ぶらないだろうから」と言うことはできません。もしこのようにするなら、肉の情欲を満たす備えをすることになります。

結婚は肉の情欲を満たす備えをすることではありません。結婚は聖なるものであり、神が定められたものです。わたしたちは結婚することによって罪を防止することができるのです。

コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは結婚の問題を語っています。パウロは初めに「妻は自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは夫が持っているのです。同じように、夫も自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは妻が持っているのです」と言っています(Ⅰコリント7:4)。ここでパウロは、夫婦が不品行に陥ることがないために、主に奉仕するということ以外の理由では決して別れるべきではないということを教えています(Ⅰコリント7:5)。

またパウロはかなり強い言葉を用いて、性の欲求の強い人のことを取り上げています。性の欲求があまり強いなら、情に燃えるよりは結婚する方が良い(Ⅰコリント7:9)と言っています。パウロはこのような人を責めていません。パウロは「あなたに強い欲求があるのは間違いである。それは罪であるから、肉の情欲を満たすために備えをしなさい」とは言いません。「あなたに強い欲求があるなら、結婚しなさい。強い欲求があるよりは結婚するほうがよい」と言っているのです。

このようにして結婚の定めには、旧約と新約に異なった面が存在するようになりました。旧約では、わたしたちに助けを与える配偶者を見せています。新約では、罪を防止することができることを言っています。

C. 共に恵みを受け継ぐため

第三に、ペテロはペテロの第一の手紙第3章7節で、妻は「命の恵みの共同の相続人」であると言っています。言い換えれば、神は夫婦が共に神に仕えることを喜んでおられるということです。

ですから、クリスチャンの結婚には三つの基本的性質があります。第一は互いに助け合うこと、第二は罪を防止すること、第三は二人が神の御前で共に恵みを受け継ぐことです。

Ⅲ. 純潔の問題

もう一面、聖書はわたしたちに、性の感覚はあっても、その感覚があまり強くないために、その要求を満たす必要がない人について見せています。聖書は、このような人に純潔を守るようにと勧めています。

A. 純潔を守ることの利点

処女であることが結婚よりも霊的に聖であるとは言えませんが、処女は全存在と体力のすべてをささげて主の働きに専念することができます。このこともコリント人への第一の手紙7章で取り上げられています。

パウロは、結婚した人に三つの苦難があることを示しています。第一に、結婚は束縛するものです。多くの場合、人は結婚すると自由がなくなります。結婚すると、なすべき多くの事が生じてくるからです。第二に、結婚した人には苦痛があります。パウロは「そのような人たちは、肉体に苦しみを受けるでしょう」(28節)と言っています。人が結婚すると、おのずとその身に苦難が増し加わって、主に奉仕することに専念できなくなります。第三に、結婚した人には世の事に心を配ることがあります(32節-34節)。要するに、結婚には家庭的な事柄の上で苦難と束縛、苦労、心遣いがあるのです。

パウロの言葉は働き人に対して語っているだけでなく、すべての兄弟姉妹に対しても語っているのです。純潔を守るなら、人は多くの苦難を免れることができます。パウロは純潔を守るように命じているのではありませんが、彼の言葉を読むと、彼の心は純潔を守るほうに傾いています。パウロはそこにおいて、とりわけ自己主張するのでなく、ただ事実を兄弟たちに語り、「もしあなたがたが結婚するなら、それによって罪を犯す危険性を免れることができるので、それは良いことです。しかし、結婚はあなたがたに多くの束縛と苦難とより多くの世の心遣いとを与えるでしょう」と言いました。

B. どのような人が純潔を守ることができるか

パウロは引き続いて、どのような人が純潔を守るのかをわたしたちに見せています。そのような賜物を神から受けている人は、純潔を守ってもよいと言っています。純潔も神からの賜物です。結婚も神からの賜物です。それゆえパウロは「ただし、各自は神から自分自身の賜物を受けていて、ある人はこのようにしており、他の人はあのようにしています」(Ⅰコリント7:7)と言っているのです。

純潔を守る第一条件は、性の感覚があるだけで性の強制がないことです。性の力が強制する人もあれば、性の感覚があるだけで性の強制がない人もあります。およそ性の強制のない人は純潔を守ってもよいのです。

第二に、純潔を守る志があり、しかも心が堅固であることです。36節から37節では「もしある人が、自分の処女の娘が青春の盛りを過ぎていて、彼女に対してふさわしく対応していないと思い、そうせざるを得ないなら、彼の望むことを行なわせなさい。彼は罪を犯すのではありません。彼らを結婚させなさい。しかし、彼が心の中で堅く立ち、無理することもなく、自分の意志を制することができ、自分の処女の娘をそのままにしておこうと、心の中で決めたのであれば、彼は良いことを行なうのです」と言っています。パウロはわたしたちに、純潔を守るのはその人自身に志があり、その人自身が要求していることであると示しています。

第三に、環境に困難が決してないことです。37節では「無理することもなく」と言っています。ある人は純潔を守ろうとしても、家庭の中で強制されたりして、純潔を守れなくなるような困難があるかもしれません。それゆえ環境の上での按配があってこそ、純潔を守ることができるのです。

パウロはここで純潔を守る上での三つの基本的な条件を示しています。第一に感覚の上で強制がないこと。第二に、そうすることを心の中で堅く決心していること。第三に、環境の上で困難がないことです。

C. 純潔を守ることは、天の王国と携え上げられることと関係がある

純潔を守ることができる人は、確かに神の御前で多くを得ることのできる人です。マタイによる福音書第19章12節では「天の王国のために自ら結婚しない者もいるからである」と言っています。わたしたちは純潔を守ることが天の王国とどんな関係にあるか言うことはできませんが、純潔を守る人は確かに天の王国に入る上で有利な点があると言えます。

それだけでなく、啓示録第14章において、あの初穂(十四万四千人)はみな純潔な者であり、小羊の行く所へはどこへでも従って行くのを見ます。この十四万四千人は、特に早く携え上げられる人たちです。このように、わたしたちは純潔であることが携え上げられることと確かに関連があることを見ます。

わたしたちは、このことをただ兄弟姉妹の前に置くことができるだけです。

Ⅳ. 結婚の対象

結婚に関して、神は人がだれと結婚できるか、だれと結婚できないかという条件を定められました。神は、神の民の結婚は神の民の間だけに限られるべきであることを、聖書の中ではっきりと見せています。言い換えれば、もし結婚するなら、相手は必ず神の民の中から捜さなければなりません。神の民以外の者と結婚してはならないのです。

A. 旧約の命令

旧約の中には、神の民以外の者と結婚してはならないという命令が多くあります。申命記第7章3節では、「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない」と言っています。これは周辺諸国の民に対してどのようにすべきかが書かれており、神はイスラエルの民に、結婚の対象が主にある者であることをはっきり示されました。

ネヘミヤの時代に、イスラエル人が捕囚の地からユダヤの地に戻った後、多くの者が異邦の女を妻としてめとっていたため、ユダヤの言葉を語ることすらできないものが多くいる状態になりました。それゆえに、ネヘミヤ記第13章23節から27節では、彼らに異邦の女との関係を完全に断ち切るように、また異邦の女と行き来しないようにと要求しています。異邦の女と結婚したら、遅かれ早かれ、あなたの子供たちが彼女について行き、あなたと一緒に神に仕えることができなくなるという問題を見る必要があります。これは厳粛なことです。

マラキ書第2章11節では、イスラエル人に多くの邪悪な罪があり、彼らが異邦の女をめとって神の聖所を汚したことを見せています。神の目からみれば、異邦の女をめとることは神の神聖に対する冒涜です。それゆえにクリスチャンの結婚には制限があり、結婚の対象は信者たちの間だけに限られなければならないのです。

わたしたちはソロモンの失敗からも警告を得ることができます。ソロモンは最も知恵に満ちた王でした。けれども異邦の女をめとったために偶像礼拝に陥りました。

B. 新約の場合

コリント人への第一の手紙第7章39節でパウロは、やもめが結婚するのは、ただ主にある者に限ると言っています。コリント人への第二の手紙第6章14節は信者は未信者とくびきを共にしてはならないと言っています。これは結婚だけを指しているのではありませんが、結婚も含まれます。信者と未信者とは、二頭の動物が一つのくびきを付けて畑を耕すように、同じ目的のために同じ仕事はできません。これは神が禁じられていることです。

信者と未信者とがくびきを共にしてはならないという事の上で、結婚より重大なことはありません。資金を出し合って商売をするとか、何かに加入するとか多くのくびきがありますが、最も重いくびきは結婚です。ですから、最も理想的な結婚の対象は、必ず兄弟姉妹でなければなりません。

Ⅴ. 未信者と結婚している場合にはどうするか

ここで一つの問題が起きてきます。ある兄弟が未信者の妻と結婚していたり、ある姉妹が未信者の夫と結婚している場合はどうしたら良いのでしょうか?

A. 彼が去るなら、去らせなさい

ことのことはコリント人への第一の手紙第7章に記載されています。12節、13節、15節では、もし夫婦の一人が主を信じたために家庭内に問題が起きた場合、どうすべきかという問題に答えています。今日、多くの人はそれほど徹底的に主を信じているとは言えないため、家庭内の問題も多くはありません。主イエスは福音書の中で、家庭内に多くの問題が起こることを予測しておられます。もし徹底的に主を信じたら、家庭には争いが起こるでしょう。

それでは、もし今日、妻が主を信じたために「あなたは主を信じた。だからもうあなたと一緒にいたくない」と言って夫が去ってしまったなら、この時、この妻はどうすべきでしょうか?主はコリント人への第一の手紙第7章15節において、とてもはっきりと語っておられます。それは、彼を離れさせなさいということです。このように妻が主を信じたために夫が離れるなら、また夫が主を信じたために妻が離れるなら、離れさせたらよいのです。

ところが、一つの事をはっきりさせる必要があります。離れるのは、わたしたちの方からではなく彼でなければなりません。つまり、あなたが主を信じたために、彼が不満を抱いて離れるということです。

B. 彼が構わずにいるなら、主は彼を救ってくださる

もし彼が構わずにいるなら、別れてはいけないと、パウロは言っています(Ⅰコリント7:12-13)。なぜなら、主があなたによって彼を救い得るかどうか、どうしてあなたにわかるか、また彼が構わずにおり、一緒に住み続けるのであれば、わたしたちは人と平和に暮らすべきであるから別れてはならないと、パウロは言っています。彼はまた未信者も信者によって聖別されていると言っています(Ⅰコリント7:14)。主が他の人を救われるのは必ずしも容易でないかもしれませんが、この人はあなたのものですから、主が彼を救われるのは特別容易です。わたしたちは、この立場に立ってこの事を取り扱う必要があります。

Ⅵ. 未信者と婚約している場合にはどうするか

今度は、未信者と婚約してしまった場合はどうすればよいのでしょうか?

A. 一番良いのは、未信者の側から解消を申し出ること

主は、わたしたちが未信者と結婚することを望まれません。これは非常にはっきりしています。ですから、もしだれかが未信者と結婚してしまった場合、一番良いのは未信者である婚約者の側から解消を申し出てくることです。なぜなら、まだ結婚しておらず、婚約しているだけなのですから、主が道を開いてくださり、あなたが主を信じたために未信者の側から解消を願い出て来るなら、それで良いのです。

B. 勝手に解消してはならない

しかし、多くの場合、この事は不可能です。なぜなら、婚約してしまった以上、あなたが主を信じたからと言って相手がそんなに簡単に手離すわけはないからです。この時は、わたしが人と婚約したことは、人と契約を立てたことであり、その契約は、わたしが神の御前で人に与えた約束であることを覚える必要があります。クリスチャンは、自分が主を信じたからといって勝手に契約を破棄してはなりません。なぜなら、神の御前において、契約はみな聖であるからです。

しかし、別れることを相手に提案しても構いません。相手が提案してもよいし、あなたが提案してもよいのです。この提案については、相手のほうが主体的でなければならないとは限りません。この点が今までとは違います。すでに結婚している場合には、相手の方が主体的です。しかし、婚約している場合には、自分の方から積極的に一番良いのは別れることだと言ってもいいのです。もし相手は必ず婚約を履行するよう要求するなら、必ずそうしなければなりません。なぜなら、クリスチャンがいったん言葉を口にしたなら、必ず実行しなければならず、それを破棄してはならないからです。ですから、わたしたちは相手とよくよく話し合い、もし相手が別れることを願わないなら、どうしてもその人と結婚しなければなりません。

C. あらかじめ条件を話しておくべきである

あなたが誰かと婚約しており、今あなたはクリスチャンになりました。あなたが主を信じたにもかかわらず、相手がどうしてもあなたと結婚したいと言うなら、どうすべきでしょうか?あなたの側でしてもよい一つの事がここにあります。それは相手とあらかじめ取り決めしておくことです。

あなたは次のように言います、「わたしは必ずあなたと結婚します。でも結婚する前に言っておきたいことがいくつかあります。その条件は次のとおりです。第一に、あなたは必ずわたしが主に仕えることができるようにしなければなりません。わたしは自分を隠してあなたの家に来るのではなく、旗をかかげて来るのです。わたしはクリスチャンですから、あなたに嫁ごうが、あなたはどうしても主に仕える自由をわたしに与えなければならず、わたしが主に仕えることに干渉してはなりません。第二に、将来子供が生まれたら、必ず主の教えにしたがって彼らを養育しなければなりません。主を信じる信じないは、あなたの事です。しかし、わたしたちの子供は必ず主の教えどおりに養育しなければなりません」。

これらの言葉は前もって語られるべきです。これらの事は絶対に結婚前に約束しておく必要があるものであり、前もって話しておかなければならないことです。前もって話し合っておかないと、後でいざこざが起こります。未信者に嫁ぐことは損失であり、未信者をめとることも損失です。損失を少なくし、問題を少なくしたいと思うなら、わたしたちは前もって話し合っておかなければなりません。

Ⅶ. 離婚

聖書には離婚に関する規定があります。聖書の中のただ一つの条件に基づいてのみ、離婚が許されます。その唯一の条件とは姦淫です。精神病になろうと、長年、失踪して行方不明であろうと、それらは離婚の条件になりません。そうではなく、他の人との間に性的行為があったということが唯一の条件なのです。マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節にはっきりと書かれています。

A. 離婚は一を破壊する

なぜ姦淫の場合だけ、離婚が許されるのでしょう?それは神がくびきを共にさせたものを人が離してはならないからです。言い換えるなら、神から見て、夫婦は一体であり、あらゆる離婚はこの”一”を破壊するものであるからです。では姦淫を行なうとは、どういうことなのでしょうか?それは一を破壊するということです。あなたが自分の夫、あるいは自分の妻以外の人と性的行為を持つなら、それは姦淫を行ない、一を破壊したことになります。

B. 一が失われたらなら離婚してもよい

なぜ姦淫を行なったなら、離婚することができるのでしょうか?それはすでに一が破壊されたからです。もともとあなたとあなたの夫は一でした。しかし、あなたの夫が姦淫を行なうやいなや、あなたは自由になることができます。もともと一であるので、あなたはそれを守らなければなりませんでした。しかし今、その一を失ったのですから、あなたは自由になることができます。それゆえ姦淫が行なわれることが離婚の唯一の条件です。

マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節の二つは、とてもはっきりしている個所ですから、わたしたちは十分に注意する必要があります。離婚の根拠は姦淫です。姦淫によって、以前の一が破壊され、もはや夫婦が一でなくなったので、離婚してもよいのです。今日のいわゆる離婚は単なる手続きにすぎません。結婚の存在は、その一の存在を宣言し、離婚は一がもはや存在しないことを宣言しています。それゆえ姦淫を行なったなら、離婚してもよいのです。

それゆえに、わたしたちは結婚とは何かを認識する必要があります。結婚とは一です。二人は、もはや二人でなく一体となることです。姦淫は一を破壊し、離婚は一が破壊されたことを宣言するのです。わたしたちは神がくびきを共にさせたものを引き離してはなりません。しかし、姦淫によって一が破壊されたのであれば、離婚が許されます。

Ⅷ. やもめの問題(配偶者を亡くした者、未亡人)

聖書はまた、妻か夫をなくした者は再婚してもよいと言っています。結婚は死ぬまでのことであり、復活の時には結婚の関係は存在しません。めとったり嫁いだりするのは、この世の事です。配偶者が死んだ後、あなたは過去の愛情のゆえに再婚せずにいても構いませんが、もしあなたが再婚するなら、聖書もこの事を許しています。

パウロはテモテに、若いやもめは結婚するのが望ましいと言っています(Ⅰテモテ5:14)。一人の兄弟が再婚するのも同様です。今日の問題は、あなたにその必要があるかどうかということです。ある人は生理的にその必要があり、ある人は孤独を感じるため心理的に必要があります。また、ある人は家庭環境の上でその必要があります。もしある兄弟が妻を亡くした時、彼が結婚するのは正しいことです。もしある姉妹が夫を亡くした時、彼女が結婚するのも正しいのです。クリスチャンはこの事について批判してはなりません。

Ⅸ. 罪の問題

神は聖書の中で、性の感覚の正しさ、性行為の正しさを認めておられます。性の感覚は罪ではないばかりか、聖なるものでさえあります、しかし、それは結婚という枠内に限定されています。結婚という枠内でのみ、それは正しく聖なるものであるのです。結婚の一の外では、いかなる性の感覚や性行為もみな罪なのです。あなたは見たでしょうか?結婚の枠外であるものは罪です。それは結婚という枠の外でその一を破壊するものだからです。ですから、罪の存在は、性そのものにはよらず、一を破壊することによるのです。

例えば、主イエスはマタイによる福音書第5章28節で、「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言われました。ここの「見る」の原文の意味は、意志を持って見る(look at)のであり、単に見えること(see)ではありません。見るという言葉には、意志の働きが含まれています。すなわち、ここでは女性を意図的に見るのであり、単に見えることではありません。もう一つは、「情欲を抱いて」(in order to lust after her)です。これは女を見たので情欲が生じたのではなく、情欲を抱いているので見たのです。情欲が先にあって、見るのが先ではありません。

わたしたちが路上でたまたま一人の女性を見たとします。サタンが情欲を注入したとしても、わたしたちが拒絶するなら、それでおしまいです。ところが、振り返って彼女を見るなら、罪です。どうか性的感覚が罪なのではなく、意志の同意こそが罪であることを覚えておいてください。なぜなら、この意志の同意は結婚の外にあるからです。同意することによって、あなたはすでに意志のうえで一を破壊しているのです。行為のうえで一を破壊するならもちろん罪ですが、意志のうえで一を破壊しても、それは神の御前で罪なのです。

姦淫とは何でしょうか?配偶者のある者が罪を犯すことが姦淫です。それでは、何を淫行というのでしょうか?配偶者のない者が罪を犯すのが淫行です。行為は同じでも、罪は同じではありません。

わたしたちは必ず、姦淫が罪であり、淫行が罪であることを認識しなければなりません。配偶者のある人が一を破壊するのが罪であるだけでなく、配偶者がなく、一がない人の淫行もまた罪なのです。クリスチャンは姦淫も淫行も行なってはなりません。もしあなたがすでに結婚しているのに結婚の外で性行為を行なうなら、これは姦淫です。もしあなたがまだ結婚していないのに性行為を行なうなら、これは淫行です。クリスチャンは神の御前で、姦淫も淫行も行なってはなりません。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第三十編

出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。

「オンライン聖書 回復訳」

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