どのようにして祈るのか?- 祈りが答えられる五つの条件と実践ガイド – 初信者シリーズ 8

どのようにして祈るのか?- 祈りが答えられる五つの条件と実践ガイド – 初信者シリーズ 8

クリスチャンには地上で一つの基本的な権利があります。それは祈りが答えられるということです。あなたが主イエスを信じ、再生されたなら、神は一つの基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。ヨハネによる福音書第16章には、わたしたちが主の御名の中で求める時、神は答えてくださり、わたしたちの喜びが満たされる、と言っています。ですから、わたしたちが絶えず祈るなら、地上で喜んでいるクリスチャンになることができます。

もしあなたがいつも祈っているのに、「神は祈りを聞いてくださらない」と感じているのであれば、それはあなたに問題があることを知らなければなりません。また。あなたがクリスチャンになって何年も経つのに、一、二度しか祈りが聞かれたことがないというなら、それはあなたという人に欠陥があることを証明しています。この記事では、神が祈りに答えられる条件と祈りを実行する方法を共に学んでいきたいと思います。

Ⅰ. 祈りが答えられる条件

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祈りが答えられる基本的な条件は多くありません。もし、このいくつかの条件にしたがって祈るなら、祈りは答えられると信じます。これから話すことはすべて基本的な条件ですから、わたしたちはそれらに注意を払うべきです。この基本的な条件は五つあります。

  1. 求める
  2. 悪い求め方をしてはいけない
  3. 罪を対処する
  4. 信じる
  5. ずっと求め続ける

これら一つ一つを詳しく見ていきましょう。

A. 求める

すべての祈りはみな、神の御前で真実に求めるものでなければなりません。主は言われます、「求めよ、そうすれば、あなたがたに与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、あなたがたに開かれる」(マタイ7:7)。例えば、ここに一つのものがあり、あそこに一つのものがあるとします。それでは、あなたはいったい何が欲しいのですか?神は、あなたが何を欲しがっているのか、何を求めているのかを知ってはじめて、あなたにそれを与えられます。ですから、求めるという意味は、ある特定のものを求めることです。

たとえば、今日あなたが何かが欲しければ、父親に向かってその何かを言うでしょう。レストランに行けば、何を食べたいかを店員さんに言うでしょう。しかし、奇妙なことに、人は神の御前に行って何が欲しいかを言わないのです。ヤコブは手紙の中でこのようにいいました、「あなたがたが得ることがないのは、求めないからです」(ヤコブ4:2)。多くの人に祈るという行為はありますが、求めるものがありません。祈る時、必ず何が欠けているか、何が欲しいかを言い出さなければなりません。これが第一の条件です。

B. 悪い求め方をしてはいけない

わたしたちは神の御前で求めるべきですが、二番目の条件があります。それは悪い求め方をしないことです。「求めても得られないのは、・・・悪い求め方をするからです」(ヤコブ4:3)。わたしたちは、必要があるから神に求めるのであって、何の必要もなしに、度を超えて気ままに求めることはできません。自分の欲望や肉にしたがって、不必要な事物を勝手に求めてはいけません。

悪い求め方をするとは、あなたの度量を超えて、あなたの必要を超えて、あなたの真の欠乏を超えて求めることです。あなたが必要があれば、神に求めることができます。あなたの必要を超えて求めることは、悪い求め方をすることです。わたしたちは自分の正当な範囲内で祈ることを学ぶべきです。これが第二の条件です。

C. 罪を対処する

ある人は、求めることは求め、また悪い求め方もしないのですが、それでも神は彼の祈りを聞かれません。それは基本的な妨げ、すなわち神と彼との間に罪があるという妨げがあるからです。詩篇にはこのような御言葉があります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)。人がもし心に不義をいだいているなら、主は聞いてくださいません。「心に不義がある」とは、捨てることのできていない罪があるということです。自分では知っているのに、心の中に保留している罪があるということです。一つの罪があるだけで、あなたの祈りが神に聞かれないほどの妨げとなります。

箴言第28章13節はいいます、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみをうける」。あなたは主に言わなければなりません、「心にいだいていた不義を、わたしは手放せないでいました。今わたしを赦してください。わたしはそれを捨てたいのです。この罪から離れるようにわたしを救ってください。」あなたが神の御前で罪を告白するなら、主はあなたを赦してくださいます(第一ヨハネ1:9)。そうすれば、あなたの祈りは神に聞かれます。

D. 信じる

もう一つの条件があります。それは積極面で「信じる」ことです。主イエスはこのように言われました、「あなたがたが祈って求めるものはすべて、受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。祈り求めるだけで終わりではありません。祈り求め、そして信じるのです。もう受けたと信じるなら、そのとおりになります。主はここで、「受けたと信じるなら、そのとおりになる」と言われました。主は「必ずそのようになると信じなさい」とは言っていません。「もう受けた」と信じるのです。信じるとは「もう受けた」と信じることです。

多くのクリスチャンは「信じること」に関して間違っています。この「信じる」を「もう受けた」から取り外して、「そのとおりになる」の下にくっつけるのです。彼らは、「そのとおりになると信じる」ことを信仰であると勘違いしています。違います。「もう受けた」と信じるのです。祈りに関する信仰とは何でしょう?それは、神があなたの祈りをすでに聞かれたという確信です。あなたがひざまずいて祈っている時、ある時点になって「神に感謝します!神はわたしの祈りを聞いてくださいました。神に感謝します!このことはもう解決しました」と言ってしまいます。これが信仰であり、「もう受けた」です。

例えば、あなたが一人の病人のために祈るとします。彼は「神に感謝します!わたしはいやされました」を言います。熱はまだ高く、少しの変化もないのですが、彼の内側ではっきりしていさえすれば、もう何の問題もないのです。もし彼が「ああ、わたしは主がこの病気をいやしてくださると信じます」と言うなら、その次になおも多くの「信じる」がなければならなくなります。主イエスは言われました、「もう受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。主は「そのとおりになると信じれば、そのとおりになる」と言われたのではありません。言葉を逆にしてはいけません。

信仰についてマルコによる福音書から具体的な例を用いてさらに詳しく見てみましょう。マルコによる福音書には、祈りに関して特に役に立つ三つの言葉があります。第一は主の力の問題であり、第二は主の意志の問題であり、第三は主の行為の問題です。

1. 主の力 – 神はできる

マルコによる福音書第9章で、自分の息子が口の利けない霊にとりつかれ、それをイエスの元に連れてきた父親が言いました、「もしあなたに何かできるのでしたら、わたしたちをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。主イエスは言われました、「『もしあなたにできるなら』と言うのか。信じる者にはすべての事ができるのだ」。これはできるかできないかの問題ではなく、主の力を信じるか信じないかの問題です。

信じることについて、第一に解決しなければならない問題は、人は困難の中にある時、疑いに満ち、神の力を信じることができないということです。「人にはできない事でも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。

2. 主の意志 – 神はそうされる

確かに彼はおできになります。しかし、どのようにしてわたしたちは、主がわたしをいやしてくださるかを知ることができるのでしょうか?わたしたちは主の意志を知りません。主はわたしたちをいやしてくださるかもしれないし、いやしてくださならいかもしれません。どうしたらいいのでしょうか?もう一つの物語を見てみましょう。

マルコによる福音書第1章40、41節はいいます、「 すると、一人のらい病の人がイエスの所に来て、彼に懇願し、ひざまずいて言った、『あなたがそのつもりであるなら、(みこころであれば、他訳)わたしを清めることができます』。イエスは深くあわれんで、手を伸ばして彼に触れ、そして言われた、『わたしは良しとする。清くなりなさい!』」。ここに神がしてくださるかどうかの問題があります。もし神にわたしたちの病をいやす気持ちがなければ、神の力がどんなに大きくても、それはわたしたちと何の関係もありません。しかし、ここではイエスは深くあわれんで、触れて癒してくださったことを見ます。ですから、解決を要する第一の問題は神ができるということを信じることであり、解決を要する第二の問題は、神はしてくださるということを信じることです。らい病人は主に求め、主は彼を清くされました。わたしたちの主が病をいやされないことはあるでしょうか?

3. 主の行為 – 神はすでに成された

「神はできる」「神はしてくださる」と知っただけではまだ不十分です。もう一つは「神はすでに成された」と信じることです。これは先ほど取り上げた事柄です。信仰とは、「神はできる」「神はそうされる」「神はすでに成し遂げられた」と信じることです。信仰は待ち望むのではありません。待ち望むとは、将来のそうなることを期待することであり、信じるとは、それがすでに成されたと考えることです。「神はすでに成された」を信じるなら、自然と神への感謝が出てくるでしょう。

E. ずっと求め続ける

祈りには、注意しなければならないことがあります。それは、継続しなければならず、やめてはいけないということです。「彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように」(ルカ18:1)。ある祈りは、ずっと祈り続ける必要があります。主が煩わしいと感じ、わたしたちの祈りを聞かないではいられなくなる程度にまで祈り込むのです。

これはわたしたちへのテストです。というのは多くの場合、わたしたちの祈りは一週間も続かないからです。それは、真にわたしたちが求めていなかったことを暴露します。ある種の切迫した環境にあり、ある必要な状況の下にあって、心がそれによって動かされてこそ、ずっと祈り続けることができます。

早見表

祈りが答えられる条件

条件説明
A.求めること祈りにおいて、神に対して具体的に願いを伝えること。
B.悪い求め方をしないこと自己中心的な欲望に基づかず、正しい態度で求めること。
C.罪を対処すること神との妨げとなる罪を認識し、告白して捨てること。
D.信じること祈りが神に聞かれ、答えがすでに与えられたと信じること。
E.求め続けること一度で答えが得られなくても、祈りを続ける忍耐を持つこと。

Ⅱ. 二段階の祈り

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祈りには二つの段階があることを知らなければなりません。第一段階は、約束がないところから祈って約束を得るまで、神の言葉がないところから祈って神の言葉を得るまでです。すべての祈りの開始の時は、みな神に求めるものであって、ずっと求め、三年、五年と費やしてずっと求めなければなりません。この第一段階は「求める期間」です。

第二段階は、約束があって、その約束が実現するまで、神の言葉を受けてから、その言葉が成就するまでです。この第二段階は「賛美の期間」です。この段階では、祈り求めるのではなく、賛美すべきです。第一段階では祈り求め、第二段階では賛美します。第一段階は、言葉がないところから祈って言葉があるまでであり、第二段階は、言葉があったらすぐに主を賛美し、求めていた物が手に入るまで賛美し続けます。これが祈りの秘訣です。

多くの人が理解している祈りには二つの事実しかありません。一点は、わたしは持っていない、わたしは祈るという「求めた」という事実です。もう一点は、わたしは得た、神がわたしに与えたという「受けた」という事実です。例えば、わたしが主の御前で腕時計を与えてくださるように求めるとします。数日たって、主はわたしに一つの腕時計を下さいました。これは腕時計を持っていない状態から求めたという事実があり、腕時計が与えられたという状態という受けたという二点があるだけです。しかし、真の祈りにはその間にもう一点、「信じた」という事実があるべきです。多くのクリスチャンがこのことを知りません。

わたしは祈って腕時計を求めます。ある日わたしは、「神に感謝します。神はすでにわたしの祈りを聞かれました」といいます。この時、依然としてわたしの手元には何もありませんが、内側では、得たことがはっきりしました。そして、数日後に腕時計が手に入るのです。わたしたちは「求めた」「受けた」という二点を見るだけでなく、「信じた」という三点目を見なければなりません。何も持っていない状態から「求める」ということから、それを受けるまでの間にもう一点、神が言葉を与えられた、約束してくださった、わたしは信じた、わたしは喜んだ、があるのです。まだ手元には何もないかもしれません。しかし、霊の中ではすでに得ているのです。クリスチャンにはこの霊の中で得るということがあるべきです。霊の中で得たこの種の感覚がなければ、それは信仰がないことです。

ある時、わたしは主から家族の救いのために祈るように導かれました。わたしは両親と姉と弟のために祈り始めました。わたしは数日間、主の御前に出て、一人一人の名前を挙げて祈りました。これは求める期間でした。それから数週間後、わたしは主のあわれみによって神がわたしたちに与えられた救いの約束は、個人を単位としているのではなく、家を単位としていることを見ました。使徒行伝16章31節はいいます、「すると彼らは言った、「主イエスを信じなさい.そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。聖書の中に、神は人を家族ごとに救われるという一つの基本的な原則があります。例えば、ノアの家族(創7:1)、過越にあずかる家族(出12:3-4)、遊女ラハブの家族(ヨシュア2:18-19)、ザアカイの家族(ルカ19:9)、コルネリオの家族(11:14)、ルデヤの家族(15節)、ここの獄吏の家族、第18章8節のクリスポの家族のようにです。わたしはこの主の言葉を受けてから、求める祈りから賛美する祈りに変わりました。わたしはまだ何も得ていませんが、霊の中にはすでに与えられたという信仰があるのです。

なぜ二つの段階に分けるのでしょうか?それは、物がないところから祈って信仰を得たのに、もしまた祈り求めるなら、信仰はかえって逃げ去るからです。ですから、信仰を得たならすぐに賛美をしなければなりません。信仰があって物がまだない時、賛美をもって神に催促すべきであり、祈り求めることによって神に催促するべきではありません。

早見表

段階説明
第一段階:求めること神に対して具体的に願いを求める段階。
第二段階:賛美をささげること霊の中で約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげる段階。
第三段階:実際に受けること実際に願ったものが与えられる段階。

Ⅲ. 祈りを実行する方法

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最後にどのように祈りを実行するかの具体的方法を交わりたいと思います。まず重要なことは、祈る前に一冊の祈りのノートを用意することです。一年に一冊のノートを用意し、祈りを記載します。そして、各ページを四つの項目に区切ります。第一項目は祈りを始めた日付、第二項目は祈る事柄、第三項目は答えられた日付、第四項目は神がどのように祈りを聞かれたかです。こうすれば、一年の間にどれだけあなたが神に要求し、どれだけ神が聞かれたか、またどれだけ残っているかがわかります。

祈りのノートを活用することによって、祈りが神に聞かれているかどうかを知ることができます。神の答えが止まったら、必ずあなたに欠陥があります。ノートに記された祈りはすべて、神の答えを得るまで祈り続けなければなりません。神があなたのその祈りは神のみこころではないと示された時だけ、停止するのです。それ以外は、得るまで祈り続け、決してたるんではいけません。

祈りのノートを用いる時に注意すべきことがあります。ある事柄は毎日祈る必要がありますが、ある事柄は一週間に一回祈ればいいことです。これは、あなたの祈る項目がどれだけあるかで決まります。あなたの求めるものが少ない場合、ノートに書かれた項目を毎日祈ることができます。項目が多ければ少し工夫して、月曜日には何項目祈り、火曜日に何項目祈ることにします。祈りのノートを活用するためには専一の祈りがなければなりません。あなたは自分自身を訓練して、専ら(もっぱら)祈るための時間を持つべきです。

祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。もし祈り続けているのに一向に状態の変化が見られないなら、神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ!わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか?わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか?手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか?わたしには学ばなければならない学課があるのでしょうか?」自分自身が変化していないのに、他の人の変化を期待することはできません。

まとめ

あなたが主を信じ、受け入れるなら基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。しかし、この祈りが答えられるためには条件があります。第一に求めること。第二に悪い求め方はしてはいけないこと。第三に罪を対処すること。第四に信じること。第五に求め続けることです。

あなたの祈りには三つの段階があるべきです。第一段階は、求めることです。第二段階は、約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげることです。そして第三段階で、実際に受けることです。何もない時には求める時期です。求め続けるなら霊の中で信仰(確信、約束)が与えられます。この時から賛美の時期に移行します。そして、実際に手に入れるまで賛美し続けます。

具体的に祈るために祈りのノートを用意すべきです。専一な祈りのために一日に30分間の祈りの時間を確保することをおすすめしたいと思います。前回の聖書を読む実行を30分、この祈りの実行を30分、一日に合計1時間の時間を主にささげるなら多くの収穫を得るでしょう。聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳第3版(2015)からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

ウォッチマン・ニー略年表 – 召会真理の回復と霊的遺産

ウォッチマン・ニー略年表 – 召会真理の回復と霊的遺産

ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)は、中国において神に大きく用いられた主のしもべであり、多くの霊的著作を通して世界中のクリスチャンに深い影響を与えました。彼の生涯は神の召しに忠実に応答し続け、真理の啓示と実践において大胆かつ誠実でありました。彼の働きと召会(教会)の回復のための務めは、今なお多くの人々の信仰の土台となっています。

以下はウォッチマン・ニーの生涯年表です。

Ⅰ. ウォッチマン・ニー(倪柝聲)の生涯年表

第一期:初期の召命と真理の発見(1903-1927年)

  • 1903年: 中国福建省福州にて敬虔なクリスチャン家庭に生まれる。
  • 1920年4月:17歳で救われ、主に仕えるよう召される。
  • 1921年:バプテスマの真理を知り、マーガレット・バーバーと母と共にバプテスマを受ける。
  • 1922年:パンさき(主の食卓)に関する真理を知り、福州でパンさき集会を始める。また、宗派から離れ、地方召会を設立。
  • 1923年:『現在の証し』雑誌を創刊。
  • 1924年:杭州を訪問し、各地で福音を宣べ伝える。
  • 1925年10月:母とマレーシアのシティアワンを訪問。『クリスチャン』雑誌を出版開始。東南アジア最初の召会を設立。
  • 1926年:廈門、同安、南京などで召会を設立、南京の大学で働く。『霊の人』執筆開始。
  • 1927年:上海の召会を設立、上海福音書房を成立。

第二期:国際的な務めの拡大と真理の出版(1928-1939年)

  • 1928年:上海で第一回勝利の特別集会を導く(主題:「神の永遠のご計画とキリストの勝利」)。
  • 1929年:『霊の人』完成・出版。『聖書についてのメッセージ記録』『小さな群れの詩歌』発行。
  • 1931年10月:上海で第二回勝利の特別集会(主題:「新契約と神の知恵」)。
  • 1932年6月:煙台(チーフー)で召会設立。
  • 1933年:ヨーロッパ(フランス、英国)、カナダ、米国を訪問し、各地で語る。年末に『ニューズレターの収集』を発行。
  • 1934年:第三回特別集会(主題:「キリストは神の中心性と普遍性である」「神の勝利者」)と第四回特別集会(杭州、主題:「どのようにして勝利者となるか」「霊的戦い」)。
  • 1936年:上海郊外の真姑に訓練センター建設。
  • 1937年:上海で『正常なキリスト者の召会生活』のメッセージを解き放つ。マニラ、シンガポール、マレーシア訪問。『開かれた門』出版。
  • 1938年:英国訪問、T・オースチン・スパークスと会う。
  • 1939年:上海の友華村で訓練を実施。

第三期:訓練と迫害の中での忠実さ(1948-1972年)

  • 1948年:上海の召会を復興させる。鼓嶺で第一回訓練指導。
  • 1949年:鼓嶺で第二回訓練指導。
  • 1950年:香港、廈門、チーフーの召会を訪問。
  • 1952年:共産主義政権により主のために投獄。
  • 1972年:獄中にて主に召される。享年70歳。

ウォッチマン・ニーの働きは、中国国内外の教会に大きな影響を与え、今もその霊的遺産が世界中のクリスチャンに継承されています。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)彼は、20世紀の中国において神に大きく用いられた主のしもべです。彼は中国大陸において1920年の17歳でクリスチャンになり、執筆を始めました。彼は約30年間の務めを通して、この時代における主の動きのために、主から彼のからだへ与えられたユニークな賜物であることが明らかされました。1952年に彼は共産主義政権によって投獄され、1972年の死まで監獄に入れられたままでした。彼の言葉は、世界中のクリスチャンたちへの霊的な啓示と豊富な供給の源となっています。

Ⅰ. ウオッチマン・ニー (1903-1972)

ウォッチマン・ニーは1903年、中国・福州で敬虔なクリスチャンの家庭に生まれました。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は福州のアメリカ会衆派の大学で学び、福州北部の会衆派の中国人の初代牧師になりました。祖母や両親も熱心なクリスチャンとして教育を受け、キリスト教に深く根ざした家庭環境の中で育ちました。彼自身も福州の聖公会三一学院という、英語と中国語の教育水準が非常に高い教育機関で学び、両言語に熟達しました。

1920年代になると、中国全土で福音宣教が活発になり、多くの学生たちが福音を受け入れ、霊的な覚醒が広まりました。そのような霊的高揚の中で彼もまた17歳の時に劇的な回心を経験し、自らの人生をキリストに完全に委ねました。回心後、彼は新たに英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)、中国語名を倪柝聲(ニー・トゥォーシェン)に改名しました。「ウォッチマン」とは「見張り人」を意味し、夜の暗闇の中で時を告げ、人々を真理へと目覚めさせる役割を表しています。

A. ウォッチマン・ニーの務め

彼の働きは、当時の中国における形式的で伝統的なキリスト教のあり方に疑問を投げかけ、単に宗教的知識を持つことではなく、「キリストを命として内側で実際的に経験すること」を中心テーマとしました。彼はまた、教派や宗派を超えてキリストのからだである召会(教会)の真理を追求し、『正常なキリスト者の生活』『霊の人』『キリスト者の標準』をはじめ、多くの深遠な著作を通じて、真の霊的な生活の道を示しました。

しかし1952年、中国共産党による宗教弾圧のために逮捕され、約20年間にわたり投獄されました。獄中で多くの苦難を経験しながらも、彼は信仰を守り通し、1972年に殉教しました。ウォッチマン・ニーの肉体は滅ぼされましたが、彼が残した霊的遺産や著作は、中国国内のみならず世界中のクリスチャンに影響を与え続けています。

彼の人生と働きは、主の地上における回復の働きを進めるための特別な賜物であり、中国だけでなく、全世界の教会に霊的な覚醒をもたらす礎となりました。今日でもウォッチマン・ニーの著作や思想は、多くのクリスチャンが真の霊的経験を深めるための貴重な導きとなっています。

さらに詳しく知りたい方は、『キリスト者の標準』『神の福音』『勝利を得る命』『霊の解放』『歌の中の歌』などの著作を手に取ることで、ウォッチマン・ニーの教えや霊的洞察に触れることができます。また、ウォッチマン・ニーの伝記『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー』なども、彼の人生と働きをさらに深く理解するための良書です。

Ⅱ. ウォッチマン・ニーの書籍

A. 神の福音

B. 勝利を得る命

C. 霊の解放

D. 歌の中の歌

E. キリストの奥義

F. 神聖な啓示の先見者

これらの書物は日本福音書房にてお買い求めいただけます。

出版元:日本福音書房

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

どのようにして聖書を読むか?- 四つの基本原則と実践的ガイド – 初信者シリーズ 7

どのようにして聖書を読むか?- 四つの基本原則と実践的ガイド – 初信者シリーズ 7

聖書は、どのクリスチャンも読むべきです。なぜなら、聖書は神の息吹かれたものであり、教えのため、叱責のため、矯正のため、義の中の訓練するために益があるからです(Ⅱテモテ3:16)。この記事では、「聖書を読みたいけど、何から、どうやって読めば良いかわからない人」のための一つの提案として書き進めていきたいと思います。

Ⅰ. 聖書を読むことの重要性

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聖書は、神が過去においてわたしたちのために、どれほどの事をしてくださったかを見せています。また神が過去において人々をどのように導かれたかを見せます。神がわたしたちのために備えられたものがどれだけ豊かで、どれだけ豊富であるかを知るためには聖書を読まなければなりません。神が今日、人に語られる言葉はすべて、神がかつて語られた言葉に基づいています。神が聖書の中で語られなかった言葉をだれかに語られるということはまれです。ですから、神が今日語られることは、ご自身の言葉を繰り返して語られることです。もし人が、神がすでに語られた言葉を知らないなら、神の啓示を得ることは容易ではありません。なぜなら、その人は神に語っていただくための条件に欠けているからです。

聖書は偉大な書物であり、大いなる書物です。わたしたちが生涯の全時間をそれに費やしても、その一部に触れることができるだけです。人が時間をかけないで聖書を知ろうとすることは、不可能なことです。ですから、青年のクリスチャンは最善を尽くして神の言葉に時間を費やす必要があります。そうすれば、中年になった時、老年になった時、豊かな言葉をもって自分自身に供給でき、また他の人に供給できるようになるでしょう。

Ⅱ. 聖書を読むことの基本原則

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聖書を読むのに四つの基本的原則があります。それは以下です。

  1. 事実を発見する
  2. 覚え、記憶する
  3. 分析し、分類し、比較する
  4. 神の照らしを受ける

聖書を読む時、この四つの順序に従うべきであり、第三から第一に飛んだり、第一から第三に飛んだりはできません。第一は聖書の中の事実を発見することです。第二にこれらの事実をしっかりと覚え、よくよく暗記します。神の言葉はどのように言っているかをはっきり知った後、それを記憶します。第三に、これらの事実を分析し、分類し、比較します。神の御前でこれらの事実をよく分析し、よく分類し、よく比較することができたなら、第四の神の照らしを得ることができます。聖書を読む上で、一番重要な点は「聖書の中から事実を読み取ること」です。これができたなら、聖書を読む上での半分の働きを満たしています。

例えば、地球の引力は一つの事実です。ニュートン以前でも、地球には引力が働いていましたが、幾千年も人は発見することができませんでした。ある日、ニュートンが木の下で眠っていると、ひとつのりんごが彼の目の前に落ちてきました。こうしてはじめて彼が地球の引力の法則を発見しました。ですから、問題は事実の有る無しではなく、この事実を発見されるかどうかです。

A. 聖書における事実を発見する具体例

ここで一つの簡単な例を取り上げます。新約聖書において、「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在しますが、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しません。これは事実であり、この事実を知ることが第一の「事実を発見する」ということです。聖書において、「主の中で」と言っている箇所は何を言っているのか?別の箇所で使われる「キリストの中で」とは何を言っているのか?また、「キリスト・イエスの中で」とは何を言っているのか?これらの事実を覚えていれば、取り出して比較することができます。このように分析し、比較し、照らしを求めて神を仰ぎ望む時、わたしたちは何かを見ることができます。

神のあわれみによって光を見るなら、このことが相当はっきりします。このことを理解するためには「イエス」と「キリスト」の違いを理解しなければなりません。「イエス」は「彼の地上の名」であり、「キリスト」は「彼の復活の後の神に油塗られた名」です。

使徒行伝にはこのような御言葉があります。

「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとされたのです」
使徒行伝 2章36節

この御言葉の意味はこうです。「イエス」という名前の方が、地上で生活し、十字架にかけられて死にました。しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させ、神が油塗られた者に与える名、すなわち「キリスト」という新しい名を彼に与えました。ですから、イエスが主またキリストとされたのです。このことから、キリストは彼の復活の名であることがわかります。ローマ人への手紙には「キリスト・イエス」と書かれています(ローマ8:1)。この表現が意味するのは、「キリスト・イエス」という名前が、復活後のイエスの新しい役割と状態を指していることです。つまり、今日の「キリスト」は以前の「イエス」と同一ですが、強調点は復活後の「キリスト」としてのイエスにあります。また、地上にいたときの彼の名前は「イエス・キリスト」でした。これは復活前の名であり、このイエスは将来キリストになるということを意味しています。

要約すると、「キリスト・イエス」 は復活後の状態に強調点があり、「イエス・キリスト」 は復活前の地上での歩みに強調点があります。キリストが以前はイエスであった(キリスト・イエス)ということと、イエスが将来キリストになる(イエス・キリスト)というこの二つの意味は、異なっています。わたしたちは、ただ「キリストの中にいることができる」だけで、イエスの中にいることはできません。なぜなら、「キリスト」は復活後の神の力と命が現れている姿であり、わたしたちが霊的に結びつく対象であるからです。一方、「イエス」は地上における人間としての姿を指し、そのままではわたしたちが霊的に一体となることができません。これが聖書を読む方法です。

まず最初に聖書の中には「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在するのに、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しないという事実を発見しました。これが第一です。第二にこの事実を覚え、記憶しました。第三にこの覚えた事実を分析し、分類し、比較します。分析した結果、「キリスト・イエス」は復活後に強調点があり、「イエス・キリスト」は復活前に強調点があることがわかりました。そして最後に神の御前に出て、祈ります。すると、主はあなたを照らし、さらにはっきりと見せてくださいます。これが聖書を読む四つの原則であり、どれが欠けてもいけません。

Ⅲ. 聖書を読む実行の方法

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ここからは具体的にどのように聖書を読むべきかを交わりたいと思います。まずはじめに、聖書を読む時間を二段階に分ける必要があるということを言わなければなりません。その二段階は聖書の読み方が異なります。第一段階では聖書を黙想します。第二段階では聖書を通読します。

A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む

聖書を読む時間を二段階に分けるおすすめの方法は、午前と午後に分けて読むことです。例えば、早朝の時間に聖書を黙想し、午後の食事の後か就寝前に聖書を読むと言った具合です。後述しますが、後半はまとまった時間が必要なため、時間を確保できる時間帯にしましょう。聖書を読む時間を二段階に分ける理由は目的が異なるからです。前半の聖書を黙想する目的は、霊的命の糧を得て、自己の霊性を高めるためです。この時間に多く読み過ぎてはいけません。三節か四節で十分です。時間にすると15分程度です。後半の聖書を読む目的は、神の言葉の中でいったい何が語られているかを知るためです。この時間は比較的長い時間をかけて多く読みます。おすすめは30分です。

また、聖書を読む方法を二段階に分けるために、二冊の聖書を用意することをおすすめします。前半の時間に使う一冊には一字たりとも書かず、一つのしるしさえ書き込みません。後半の時間に使う別の一冊には、照らしによって見たことを書き込むようにします。言葉で書いても、丸で囲んでも、線を引いても自由です。この理由は、早朝に読む聖書に文字が書かれていると、即時的な語りかけではなく、自分の書き記した文字に気が取られてしまうからです。ですから、早朝に読む用の聖書には何も書き込みません。

A. 前半の時間に聖書を黙想する

聖書を黙想することについては、ジョージ・ミューラーの言葉を引用したいと思います。彼は次のように言いました。

「かつて主は喜んでわたしに一つの真理を教えてくださいました。これは人によってわたしに伝えられたものではありません。今に至るまでに四十数年になりますが、わたしはその真理の益するところを失っていないことを認めます。その要点はこうです。あの時、わたしは以前にも増してはっきりと見たのですが、わたしが毎日必ず注意している最大で一番先になす事は、主の中で喜ぶことです。まず注意すべき事は、わたしが主にどれだけ仕えて、いかに主に栄光を帰しているかではなく、わたしが内側でどのように喜びを得ているかわたしの内なる人がどのように養いを得ているかにあります。わたしは未信者にメッセージすることができ、信者を成就し、苦難にある人を助けることができますし、別の多くの働きを通して自分が神の子であることをこの世において現すことができます。しかし、もしわたしが主の中で喜んでいないなら、内なる人が日ごとにその養いを得ていないなら、わたしがなす一切の事は、正しい霊の中でではないのです。

わたしがそのことをはっきりする前は、少なくとも十年の間、わたしは毎朝、洗面が終わると祈ることを習慣にしていました。そして、その時に知ったのですが、わたしがすべき事で最も重要なのは、神の言葉を読み、それを黙想し、わたしの心の慰め、励まし、警告、叱責、教訓を得る事なのです。わたしがこのように神の言葉を黙想している時、わたしの心は主と経験的に交わることができました。ですから、毎朝早くわたしは新約を黙想し始めました。わたしが数句の言葉で、主がご自身の尊い御言葉を祝福してくださるように祈った後、まず行ったのは神の言葉を黙想することでした。聖書の各節において尋ね求め、その中から祝福を得ようとしました。公衆の面前でメッセージするためではなく、またわたしが黙想した言葉について語るためでもありません。それはわたし自身の魂に糧を得させるためです。

わたしに決まって起こる結果として、数分後にわたしは罪を告白したり、感謝したり、あるいはとりなしの祈りをしたり、懇願するようになります。祈ろうと心がけようとするのではなく、黙想するのですが、たいていとてもすばやく、祈りに転向します。罪を告白したり、とりなしの祈りをしたり、懇願したり、感謝したりの時間を経て、わたしは再び次の句、あるいは次の節を読みます。読んでから、もし導きがあれば、わたし自身のためにあるいは他の人のために祈ります。しかしながら、相変わらずわたしの黙想の目的は、自分の魂が糧を得るためであることを覚えておきます。そのようにした結果、毎日、多くの罪の告白、感謝、懇願、とりなしの祈りがわたしの黙想の中に取り混ぜられて、わたしの内なる人は常に養いと力を感じることができます。朝食の時には、ほとんど例外なく、わたしの心の状態は、喜びがあるか、あるいは平安がありました。わたしの黙想は公衆の面前でメッセージするためではなく、わたしの内なる人の益のためでしたが、主が喜んでわたしに与えてくださったのは、すぐに他の信者の糧になるものでした・・」

神の子であるわたしたちが毎朝しなければならない第一の事は、内なる人のために糧を得に行くことです。わたしたちの外なる人は食べずに働くことができないのと同様に、毎朝わたしたちの内なる人も糧が必要です。内なる人の糧とは、祈りではなく、神の言葉です。これはただ単に神の言葉を読んで、水が水道管を流れるように、その言葉がわたしたちの思いを通過するだけのようであってはいけません。読んだ言葉を黙想し、それをわたしたちの心の中に適用しなければなりません。祈るのに最もよい時とは、内なる人が神の言葉を黙想して養いを得ることによって、御父に出会い、語っていただき、励まされ、慰められ、へりくだらされ、責められた後です。ですから、わたしたちは神の祝福の中で御言葉を黙想すべきです。

B. 後半の時間に聖書を読む

主を信じて間もない人は、少なくとも六ヶ月間は、研究する方法で聖書を読むには適切ではありません。なぜなら、聖書全体についてあまりよく知らないからです。必ず、先に数ヶ月間の時間を費やして、普遍的に聖書全体をよくよく読む必要があります。後半の時間では、聖書を順番に通読し熟考します。一章一章、一回一回、神の御前で継続して読みます。一番良いのは、一日に旧約を何章、新約を何章と決めて読むことです。あまり速すぎるのも、あまり遅すぎるのもよくありません。普遍的に、いつも続けて読みます。

ジョージ・ミューラーは一生のうちに旧約と新約を百回読みました。初信者の兄弟姉妹は聖書を読むことを学び、いったい何回読んだかを記憶するべきです。あなたの聖書の空白のページを、聖書を読んだ回数を記録するために残しておけばいいでしょう。読む方法は、一章一章、一回一回を順番にを原則とします。

早見表

項目聖書を黙想する(前半の区分)聖書を読む(後半の区分)
時間帯午前:早朝、朝食前午後:昼食後、就寝前
目的自分の魂の糧を得る神の言葉の中で何が語られているかを知るため
聖書書き込みをしない聖書書き込みをする聖書
程度三節か四節。多く読み過ぎてはいけません。比較的長い時間をかける
時間15分15分〜30分

Ⅳ. 実際に聖書を読んでみる

Image source: Envato Elements

ここでは、どのように読み進めるべきかを実際にやってみます。

A. 前半の時間に聖書を黙想する

1. 読む聖書箇所を決める

これは、朝起きた時に、主との交わりの中で自由に決めるのが良いでしょう。重要なことは、聖書を理解すること、順番に読むことではなく、自分の魂が糧を得ることです。

2. 御言葉を区切って読み、黙想する

エペソ人への手紙第二章六節を例に実践してみます。

キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました。
エペソ人への手紙 2章6節

まず、この節を一度読んでみます。その後、「、」で区切りながら、小分けにして読んでいきます。すると、三つに小分けすることができます。

  1. 「キリスト・イエスの中で」
  2. 「わたしたちを彼と共に復活させ」
  3. 「彼と共に天上で座らせてくださいました」

そして、この一つ一つを味わいながら読み、黙想します。

「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」

ポイントは二度、三度ではなく、何度も何度も固い食べ物を咀嚼するように噛み締め、味わうことです。これを続けるなら、あなたの内側にある感覚が起こされます。例えば、自分はキリスト・イエスの中にいるという安息。自分は主のものであるという平安。自分はこの世の中にはいないという照らしなどです。この時、感謝の思いが与えられれば、主に感謝をささげます。賛美の思いが与えられれば、主に賛美をします。祈る思いが与えられれば、主に祈ります。

そして、次の区分に移ります。

「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」

ここでわたしたちは、キリストと共に復活させられたという事実を知ります。真にこの事実を見るならあなたはこのように祈るでしょう。「おお、主よ!あなたが復活した時、わたしもあなたと共に復活しました!主よ!わたしはすでに復活の中にいます!主よ!あなたをほめたたえます!」このように、御言葉の祝福の中で主と交わるなら、あなたは多くの励まし、慰め、力を得るでしょう。これが聖書を黙想する方法です。

B. 後半の時間に聖書を読む

聖書を読むにあたり、聖書を読み終えるのにどれくらいの時間が掛かるかを知ることは助けになります。聖書の章の数は「旧約聖書 929章」「新約聖書 260章」で合わせると全聖書は1189章あります。新約聖書を例にあげます。もし一日に一章を読み続けるなら、約八ヶ月で読み終えます。一日に二章なら約四ヶ月、三章なら三ヶ月で読み終えます。平均的に新約聖書の四章は十五分で読むことができます。毎日十五分、四章を読み続けるなら二ヶ月に一回のペースで新約聖書を読むことができます。おすすめは一日に30分間、聖書を読む時間を確保します。その30分間で新約聖書か旧約聖書を通読します。

注意すべきことは、昨日15分、今日は30分、明日は1時間のように、その日の気分に合わせて読まないことです。聖書を読むことは一生涯続けることであり、コツコツと積み重ねていくべきことです。ですから、主との交わりの中で15分と決めたなら、最低でも半年はこのスケジュールで実行します。余裕を見て、段階的に時間を伸ばしていく分には問題はないでしょう。しかし、毎日2時間など読みすぎることもおすすめしません。主の導きがありますように。

早見表(新約聖書)

● 読みたい頻度● 1日に読む章数● 所要時間
1 回 / 1ヶ月9章約35分
1 回 / 2ヶ月4章約16分
1 回 / 3ヶ月3章約12分
1 回 / 4ヶ月2章約8分
1 回 / 8ヶ月1章約4分

まとめ

聖書を読むのに四つの基本的原則があります。

  1. 事実を発見する
  2. 覚え、記憶する
  3. 分析し、分類し、比較する
  4. 神の照らしを受ける

最も重要なことは「事実を発見すること」です。その事実を覚え、記憶し、研究のために分析、比較します。そうすることによって神の照らしを受けることができます。

聖書を読む具体的な方法は、二段階に分けて読むことです。

A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む

前半の「聖書を黙想する」では、御言葉を味わい、祈りや賛美をささげ、御言葉を通して主と交わります。それは霊的な命の糧を得るためです。後半の「聖書を読む」では、決めた時間、節を順番に一章一章読み進めていきます。このように読む章を決めて、また時間を配分して聖書を読むことは、自分にとっての訓練となります。わたしたちは腰に帯を締め、拘束され、神の御前で規律がなければなりません。あなたが30分読むと決めたなら、この30分を守り抜くようにしてください。病気であるとか、休暇で休む時を除いて、一定の時間を維持しましょう。毎日続けていけば、間もなく収穫があるでしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第九編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウオッチマン・ニー兄弟は、すべての真のクリスチャンが保っている聖書的、根本的信仰を完全に信じていました。彼は聖書が神の聖なる言であることを信じ、一字一句がみな神の啓示であることを信じました。

彼は神が三一、父、子、霊であり、三の区別はあるが、完全に一であり、永遠から永遠まで同時同存、相互内在しておられることを信じました。彼は、イエス・キリストが神の御子、神ご自身でさえあり、人として受肉して、人の命と神聖な命を兼ね備えられたこと、十字架につけられて死に、願いを達成されたこと、三日目に死人の中から体を伴って復活されたこと、天に昇って御座に着き、栄光を冠らせられ、万有の主とされたこと、再来して、彼に従う者たちを迎え、イスラエルを救い、地上に彼の千年王国を打ち建てられることを信じました。

彼は、イエス・キリストを信じるすべての者が神によって赦され、贖いの血で洗われ、信仰によって義とされ、聖霊によって再生され、恵みによって救われることを信じました。そのような信者は、神の子供であり、キリストのからだの肢体です。彼はまた、信者めいめいの定めが、召会(教会)、すなわちキリストのからだ、神の家を構成する一部分であることを信じました。 これらのクリスチャン信仰の基本的な面以外に、ニー兄弟はまたさらに光を得て、五十三項目の聖書の教えに関して、主からはっきりした啓示を受けました。これらは、クリスチャンの信仰を十分に理解し、実行するために極めて重要です。

Ⅰ. 一九二〇年から一九三二年まで

1. 救いの確信

主がまずニー兄弟に啓示された基本的項目の一つは、信者の救いの確信です。当時、全中国において、救いの確信の聖書的教えは、どのクリスチャン団体でもほとんど教えられていませんでした。しかしながら、ニー兄弟はこの事柄にとてもはっきりしたので、クリスチャンに福音を宣べ伝えて、彼らが救われたことを認識するのを助けました。彼は聖書のはっきりした御言を用いて、信者が自分の救いに対して、完全に確信できることを示すことができました。彼は疑問のある人たちを、聖書によって、例えばヨハネの福音書第三章十六節のような節を彼らが取り、 この節を消化して、これが確定的であり、決して滅びないと感じるまで助けました。彼はまた、神の霊が彼らの内に住んで、彼らの霊と共に、彼らが神の子供であると証しすることを指摘しました(ローマ八・十六)。二ー兄弟はさらに、ヨハネ第一の手紙第三章十四節から、救いの確信を挙げました、「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死から命へと移ってきたことを知っている」。

2. 恵みと律法の区別

当時の大多数のクリスチャンが救いの確信を持っていなかったのは、彼らが恵みと律法との区別を知らなかったからです。ニー兄弟は、救いはただ恵みによるのであって、律法のわざによるのではないという、主の明確な啓示を受けました。もし救いが律法の事であるなら、それはわたしたち自身の行ないによることになります。しかし救いは主の恵みによるのであって、彼が何であられるか、また彼がわたしたちのために何をされたかによります。

3. 救いと勝利との違い

あるクリスチャンは、救いと勝利との違いを知りません。これは、自分の救いが不確かであるもう一つの原因です。わたしたちが主イエス・キリストを信じた瞬間、わたしたちの救いは永遠に定まります。ところが勝利は、罪、 この世、肉、自己、日常生活のいっさいの消極的な事物に打ち勝つことです。わたしたち神の子供は、ただ主イエス・キリストを信じることによって、救いを得ます。わたしたちの永遠の運命は、永遠に堅固です。ところが勝利は、わたしたちの日常生活においてであり、経綸上の報酬と関係があります。

4. 救いと報酬との違い

クリスチャンがもし救いと報酬の区別について、はっきりしていないなら、自分の得た救いの確証に問題があるようになります。この区別は、ニー兄弟に対して完全に啓示されました。救いは恵みにより、信仰を通してですが(エペソニ・八)、報酬は主の御心に従って働いた結果です(マタイ十六・二七、1コリント三・十四)。

5. 天の王国と永遠の命との違い

あるクリスチャンは、自分が救われているとはあえて言いません。なぜなら彼らは、永遠の命を持つことと天の王国に入ることとの違いがはっきりしていないからです。人が主イエスを信じて救われる時、永遠の命を得ます。

ところが天の王国に入るには、必ず天的統治の下で日常生活を生きなければなりません。そのような生活は、現在の召全時代における一種の訓練であって、王国時代に主の千年王国の統治にあずかる資格をわたしたちに与えます。 このような分け前は、天の統治の下で生活した報酬であって、それは永遠の救いの事柄ではありません。この事で、 ニー兄弟は徹底的な、はっきりした啓示を受けました。

6. 王国の真理

ニー兄弟はまた、新約の中で王国の真理を完全に見ました。彼は新約の中に、天の王国と神の王国との区別を見ました。神の王国は、神のすべての支配を包含し、過去の永遠から将来の永遠にまで至ります。ところが天の王国は、神の王国の中の比較的小さい範囲です。それは現在の召会時代における信者の間での天的支配(マタイ五・三、 十)と、来たるべき王国時代での報酬です(マタイ五・二〇、七・二ー)。すべての再生された信者たちは、 王国にいます(ヨハネ三・五)。しかし天の統治の下に生活した者だけが、王国時代を報酬として受け継ぎます。 神の王国は救いと関係がありますが、天の王国は報酬と関係があります。

7. 携え上げられる

王国の啓示と共に、主はまたニー兄弟に携え上げの啓示を与えられました。今日の根本的神学は、クリスチャンは救われさえすれば、みな普遍的な携え上げにあずかり、主の再来の時、全召会と共に、大艱難の前に携え上げられる、と告げています。しかしニー兄弟は、すべてのクリスチャンが同時に携え上げられるわけではないことを見ました。ある信者たちは、大艱難の前に成熟した勝利者となります。ですから、彼らは先に構え上げられるでしょう。しかしながら、大多数の信者は後で成熟するので、遅れて携え上げられるでしょう。王国は報酬の事柄であり、 携え上げは成熟の事柄です。携え上げられることは収穫物に例えられます。農作物がまだ青いうちは、刈り取られて納屋に入れられることはありません。それは熟してはじめて、刈り取られます。すべてのクリスチャンも、命において成熟しなければなりません。彼らが成熟する時、主は彼らを刈り取り、彼らを天の納屋にもたらされるでしょう。次の二つの点を、しっかり心に留めなければなりません(1) 王国は勝利の信者たちに対する報酬である。(2) 携え上げには勝利者の成熟が要求される。

8. キリスト教の逸脱

ニー兄弟と年若い数名の信者たちは、救われるとすぐ、聖書を学ぶことによって、今日のキリスト教がいかに不正常であるかを認識し始めました。その当時、彼らはまだ学生でした。主は彼らに、今日、実行されているキリスト教は、神が聖なる言葉の中で定められた方法とは、ほとんどあらゆる点で逸脱していることを見せられました。

9. 教会、エクレシア、キリストのからだ

主はニー兄弟に、彼の教会について明らかな啓示を与えられました。ニー兄弟は、教会は建物ではなく、組織やキリスト教の団体でもないことを、宣べ伝え、教えました。召会は有機体であり、生けるからだです。別の面で、 教会はエクレシア、召された者たちの会衆です。

10. 教会の二つの面

二ー兄弟は、各会には宇宙的な面と地方的な面があることを見ました。全宇宙には、ただ一つの召会、神の召会があるだけです(1コリント十・三十二)。この唯一の召会は、地上の多くの地方において表現され、それぞれの地力には一つの地方召会があります。宇宙召会はすべての地方召会から成っており、地方召会は宇宙召会の実際的な表現です。マタイの福音書第十六章十八節で宇宙召会が啓示されており、マタイの福音書第十八章十七節で地方召会を見ます。地方召会がなければ、宇宙召会にあずかるすべはなく、実行上の地方召会を持つ方法もありません。

使徒行伝、書簡、啓示録において、召会は地方召会として表現されています。すなわち、エルサレムに在る召会、アンテオケに在る召会、エペソに在る召会などです。召会の行政は宇宙的ではなく、地方的です。

11. 宗派

ニー兄弟は、召会についての啓示と同時に、宗派の邪悪をも見ました。宗派はキリストのからだを、多くの組織に分けます。これは聖書で罪に定めていることです(1コリント一・十一-十三)。

12. 聖職者制度と宗教組織

ニー兄弟は光を得て、聖職者階級と平信徒制度が間違っていることを見ました。この制度は、キリスト教の組織の中の聖職者、階級、地位を含み、それは一種の人為的組織となりました。ローマ・カトリック教会には、神父、司教、大司教、枢機卿、法王がいます。英国国教会には、牧師、主教、大主教、その地を統治する元首がいます。

ブロテスタントには牧師がいます。このような聖職者階級制度は、明らかに新約の啓示に反するものであり、キリストのからだの肢体の機能をまっ殺します。宗派は、キリストのからだを粉々にし、聖職者制度は、キリストのからだのすべての肢体の機能を破壊します。

13. 普遍的な祭司職

普遍的な祭司は、ニー兄弟に啓示されたもう一つの真理です。彼は、新約の祭司職が旧約の祭司職と違うことを見ました。旧約の祭司職は、結局、アロンの子供たちに与えられ、一般の民と違った聖職者階級を生み出しました。 ところが新約の祭司職は、すべての信者に与えられています(啓一・六、1ペテロニ・五、九)。新約には聖職者も平信徒もなく、全員が祭司です。

14. 正当な長老職

二ー兄弟は聖書からはっきりした啓示を受けて、召会は一団の長老たちによって管理されるべきであることを見ました。すべての地方召会は、一団の老練な兄弟たちが、人を導き、監督して、召会のいっさいの活動を顧みる必要があります。聖書では、この人たちのことを長老、あるいは監督と呼んでいます。

15. 職務と賜物との違い

ニー兄弟は聖書から、教会の職務と賜物とが違うことを見ました。教会の職務は長老と執事を含み、それは地方的です(ピリビー・一賜物は預言者、伝道者、牧する者と教える者を含み、それは宇宙的です(エペソ四・十ー)

16. バプテスマとパンさき

主はニー兄弟に、正当なバプテスマの方式は水の中に浸すことを啓示されました。主はまた彼に、聖書に従ったバンききを実行する道を示されました。バプテスマは、信者の古い生活が終結し、この世から分離して、主と主のからだへと聖別されたという証しです。パンさきは主を記念することであり、彼のからだの合一と交わりを証しします。

17. 頭のおおいと按手

ニー兄弟はまた、頭のおおいと按手を正しく実行することの聖書的意義を見ました。頭のおおいは、召会において、キリストの頭首権に服従するという表現です。按手は連合の行為であって、からだの一の中で行なわれることが、からだの他の肢体への分与であることを示します。手を置くことによって、霊的賜物は肢体に分け与えられ、 キリストのからだの肢体の間で、交わりが実際化されます。

18. 神の信仰によって生きる

ニー兄弟は、真の神に仕える人は必ず神に信頼する生活をするべきであって、宗教組織に雇われてはならないことを見ました。ニー兄弟の務めを始めたころには、信仰による生活の実行は、中国では実際的に知られていませんでした。ブラザレンは彼らの間で主に仕える人を雇いませんでしたが、彼らが中国に来た時には、彼らも中国の信者たちに神に信頼する生活を教えるのは不可能である、と思っていました。信仰によって生活することは、根本的に中国のクリスチャンの観念にはありませんでした。しかしながら、ニー兄弟は、このことを教えただけでなく、 彼自らがこれを実行しました。

19. 神のいやし

ニー兄弟は、聖書から神のいやしを信じただけではなく、彼自らそれを経験しました。彼にとって、それは単に外側の奇跡的賜物ではなく、内側の経験であり、それは命における建造を生み出します。

20. キリストの死と復活

主はニー兄弟に、キリストの死と復活について特別な啓示を与えられました。彼は、キリストの死に二つの面があることを見ました。客観的な面は、わたしたちの罪、もろもろの罪、この世、サタン、暗やみの勢力を対処しました。主観的な面は、わたしたちの肉、自己、古い人を対処しました。彼はまた、キリストの死の中に、旧創造が終結させられていることを見ました。これは十字架の消極面です。積極面では、キリストの神聖な命が解き放たれて、新創造を発芽させました。わたしたちの主の復活において、彼の神聖な命は解き放たれて、信者を再生し、彼らをキリストのからだの肢体としました。彼の復活から、召会は出現し、また彼の復活において、キリストのからだは建造されつつあります。彼の復活の大能の中で、信者は十字架を担うことができ、またキリストの苦難の交わりの中で、彼の死に同形化されるのです(ピリピ三・十)。主の民は、キリストの復活の命を享受し、力を受けて、 地上を歩んではいても、聖なる、天的な生活を生きるのです。この復活は、復活のキリストご自身であり、キリストの霊は、復活の実際です。

21. キリストの昇天

ニー兄弟は、キリストはすでに昇天して、万有のはるか上におられることを見ました。地の引力、悪鬼、空中の権を持つ君、いっさいの暗やみの勢力も、彼を阻止し、彼をとどめておくことはできませんでした。これらは今、 すべて彼の足の下にあります。彼は昇天によって、万有の主となられ(使徒二・三六)、また昇天によって、すべて彼に従う者たちを、天的場所にもたらされました(エペソニ・六。)彼の地位、彼の務め、彼の命は今や、すべて天的です。彼は今、天の命と天そのものを彼の民へと供給して、彼らを天的民にし、地上で天の生活を生きさせる、という働きに就いておられます。

22. キリストの再来

ニー兄弟は、キリストの再来に関する明確で、透徹な展望を得ました。彼は主の来臨(ギリシャ語はparousia パルーシア)に、秘密の面と公の面があることを見ました。目を覚まして彼を追い求め、彼の再来を待ち望んできた人たちに対して、彼は大艱難の前に、天から空中へと、盗人のようにひそかにこられます(マタイ二四・四 啓示録[黙示録]三・三。)ところがこの世に占有された人々に対しては、彼は大観雅の後に、空中から地上へと、いなずまのひらめきのようにこられます(マタイ二四・二七、三〇。)彼のひそかな来臨において、信者たちは空中に携え上げられるでしょう。しかし彼の公の来臨は、地上のこの世に対する裁きをもたらします。

23. 聖霊の内住

十字架につけられ、復活し、昇天されたこのキリストは、今や命の霊として彼の民の霊に内住し、キリストを彼らにとって実際とならせます。このキリストの内住の霊は聖霊であり、神の霊でもあります。神聖な霊の主要な機能は、神聖な命を神の民へと分け与えて、彼らを再生し、彼らを油塗り、神の成分で彼らを浸透して、聖別し、造り変えることです。

24. 油塗りの教え

ニー兄弟は聖霊に関する啓示と共に、また油塗りの教えについて光を受けました。油塗りは、わたしたちの霊の中での聖霊の動きと働きです。油塗りは内側から、わたしたちにすべての事を教えます(1ヨハネニ・ニ七)命の法則は旧約の律法に置き換わり、油塗りの教えは旧約の預言者に置き換わります。わたしたちが主の中に住むのは、油塗りの教えによります。

25. 聖霊の注ぎ

ニー兄弟は、聖霊の二つの面を見ました。それは命のための聖霊の内住と、力のための聖霊の注ぎです。主は死人の中から復活した日、弟子たちの中に聖霊を息吹かれました(ヨハネ二〇・二二。)その時、聖霊は弟子たちに入り、彼らの内に住まわれました。それは、命を分け与えるためでした。ところがペンテコステの日、聖霊は弟子たちの上に注がれました(使徒二・四、三三)。この霊の注ぎは、弟子たちに力を与えるためでした。これは、その霊の第二の経験であって、聖書は聖霊のバプテスマと呼んでいます。大部分のクリスチャンは、その霊の二つの面の違いを見ていません。しかしながら、ニー兄弟はこの区別について、はっきりとした啓示を受けました。彼は異言で語ったことはありませんが、何度も聖霊の注ぎの経験を受けています。

26. 人の三部分

ニー兄弟は彼のクリスチャン生活の初期に、人には三部分、霊、魂、体があることを見ていました(1テサロニケ五・二三。)彼は、魂は人の人格であること、体は人の外側の部分であって、物質の世界に接触するためであること、霊は人の最も内なる部分であって、霊の世界に接触するためであることを見ました。神は霊ですから、必ずわたしたちの霊の中で、彼を礼拝し、彼に仕えなければなりません(ローマ一・九、ヨハネ四・二四)、信者は彼らの霊の中で、神の霊によって再生され、神の霊は彼らの霊と共に証しをし(ローマス・十六)、主イエスは彼らの霊と共におられ(Ⅱテモテ四・三)、彼らは主と一つ霊です(Ⅰコリント六・十七)、霊は魂と分離されなければなりません(ヘブル四・十二)。それは、信者が彼らの霊の中で歩み、生き、働いて(ガラテヤ五・十六、二五)、 霊の人となる(Ⅱコリント二・十四 〜十五)ためです。

27. 信仰による聖別

一九二五年より少し前に、ニー兄弟は、信仰による聖別を見るようになりました。彼はジョン・ウエスレーの聖別に関する教えから光を受けましたが、ウエスレーの教えは真の聖別でなく、罪なき完全である、と言いました。 彼は学びを通して、ブラザレンが聖別の幻で、ウエスレーよりも一歩前進していることを認識するに至りました。 ブラザレンの聖別の教えは正確であるとはいえ、あまりにも客観的で、地位上の変化にすぎないものでした。ブラザレンは、この世の金は俗であるが、宮に置かれた金は聖別されている、と教えました。もう一つの例証として、 ブラザレンは、羊、牛が群れの中にあるのは俗であるが、祭壇の上にささげられると聖別される、と教えました (マタイ二三・十七、十九)。ブラザレンはさらに例証を挙げて、市場の食物は俗なるものであるが、クリスチャンの食卓に置かれると、折りによって聖別される、と説明しました。ニー兄弟は、これらの例証はみな外側の地位上の変化のことで、どれも内側の性質上の変化を指すものはない、と指摘しました。彼は、聖別は単に地位上の変化ではなく、それはまた性質上の変化でなければならない、と教えました(ローマ六・十九、二二)。

28. 命としてのキリスト

キリストは、彼を信じる者たちにとって命です(コロサイ三・四)。この命は、彼らの霊の中の命の霊です(ロ―マ八・二)。信者が行なうことはすべて、この内なる命から行なわれなければなりません。すべての信者は、内なる神聖な命によって生きるべきです(ガラテヤニ۰二〇)

29. 命の霊の法則

信者が上から受けた神聖な命は、聖霊の中にあります。聖霊は命の霊と呼ばれます(ローマ八・二)。この神聖な命には、それ自身の法則と特徴があり、またその機能は神の成分をもって、わたしたちを規制し、供給します。

これは単なる外側の律法の文字ではなく、命の法則であり(ヘブル八・十)、それはわたしたちの内側の神の霊によって執行されます。ニー兄弟はこの内なる法則について、完全な啓示を受けました。この内なる法則、いわゆる命の法則によって、わたしたちは罪と死の律法から解放され、義なる、聖なる生活を生きることができます。

30. 罪と死の法則

ニー兄弟は聖書から、罪と死は一つの法則であることを見ました(ローマ八・二 )。この法則は、わたしたちの体の肢体の中にあり(ローマ七・二三)、それはサタンの邪悪な命から出てきます。すべての堕落した人は、その力の下にあります。しかし命の霊の法則は、罪と死の法則よりも力があり、それからわたしたちを解放することができます。

31. さらに優れた契約

主イエスが彼の血をもってわたしたちのために立てられた新契約は、旧契約よりも優れています(ヘブル七・二二、 八・六)。旧契約は旧約の律法に従っており、その祭司職は、肉につける戒めの律法によるものですが、新契約は命の法則に従っており、その祭司職は、朽ちることのない命の力によるものです(ヘブル八・十、七・十六)

32. キリストの勝利の命

キリストは、サタンと宇宙のいっさいの消極的な事物に勝利を得られたので、彼の命は勝利の命です。もしわたしたちがキリストによって生きるなら、彼の命はわたしたちのために、いっさいの消極的な事物に打ち勝ちます。

33. 勝利者の召し

ニー兄弟は、勝利者の召しについて啓示を受けました。全召会は失敗し、主の御心を満足させることができなくなったために、主は来て、ある者たちを信者のうちから勝利者として召されました。これは、啓示録(黙示録)第二章、第三章の七つの書簡に、はっきりと啓示されています。全召会は目標からそれてしまったので、主は彼を愛する者たちに彼の召しを呼びかけて、彼らが堕落した召会に打ち勝つようにされました。

34.  霊的戦争

一九二五年以前に、二ー兄弟は霊的戦争という事柄を見ませんでした。彼は、この宇宙における神の神聖な目的を達成するために、神と彼の敵、サタンとの間に生じる究極的戦争があることを見ました。この戦争は、すべての神の子供たちを巻き込みます。もし彼らがサタンの側につけば、神に反逆しているのです。もし神の側につけば、 彼らはサタンと戦っているのです。すべての勝利の信者たちは、自分たちが戦場にいて、神の神聖な御旨のために戦っていることを、認識しなければなりません。この霊的戦争で戦うために、信者は必ず天的地位を見る必要があります。エペソ人への手紙第二章は、わたしたちが天で座に着いていることを、はっきりと見せています。エペソ人への手紙第六章は、わたしたちが天にいる諸勢力と戦っていることを、示しています。信者は天の地位を守らなければなりません。そうしてこそ、天にいる神の敵を打ち敗ることができます。もし信者の地位が地上にあるなら、彼らは敵の下にいるのですから、勝利の地位を失っています。

Ⅱ. 一九三三年から一九三七年まで

35. 地方召会の境界

一九三三年と一九三四年に、二ー兄弟は、地方召会の境界が、召会が所在する都市を範囲とすることを見ました。 彼は、都市の境界内に一つ以上の召会があってはならない、と指摘しました。これは自然に分裂を除去します。

36. キリストの中心性と普遍性

一九三三年と一九三四年に、ニー兄弟は、神の永遠のご計画の中に、キリストの中心性と普遍性を見ました。彼は宇宙の中で、またクリスチャン生活の中で、キリストは第一位であるべきことを見ました(コロサイ一・十八)。 彼はまた新しい人、すなわち召会の中で、キリストはすべてであり、すべての中におられることを見ました(コロサイ三・十・十一)。

37. 地方召会の立場

 一九三七年に、ニー兄弟は地方召会の立場を見始めました。これは地方の境界をさらに進んだ一歩であり、信者たちが、いかなるものによっても分裂するべきでないことを示しています。召会の立場は一の立場です。わたしたちはどこへ行こうと、どこにいようと、その地の信者と一つであるべきです。一つの都市には一つの召会があるべきです。召会は、家庭に在る召会、工場に在る召会、大学に在る召会、ある通りに在る召会、その他、ある名称の召会はありません。地方召会は一つの都市に在る召会です。もし一地方に一つ以上の召会があるとしたら、その地の信者は分裂しています。

38. 移住

ニー兄弟は使徒行伝から、福音を広める二つの道があることをはっきりと見ました。一つは、使徒が遣わされることによって、もう一つは、信者たちの移住によってです(使徒八・四)。彼の務めの下で、この二つの方法が、 福音を広めるために用いられました。

Ⅲ. 一九三八年から一九四二年まで

39. 召会(教会)生活の実行

一九三九年に、二ー兄弟は召会について、さらに進んだ光を受けました。今回は、召会生活の実行についてです。 彼は、新約からはっきりした光を受けて、長老がどのように実際に長老職を遂行するべきか、執事、女執事がどのように聖徒たちと召会に仕えるべきかを見ました。彼はまた、召会のすべての肢体を助けて、召会の諸事にあずからせました。

40. 召会(教会)の実際

召会の実行面と共に、ニー兄弟は召会の実際を見ました。彼は、召会の内容はキリストがすべての肢体の中で生き、すべての肢体を通して生かし出されるべきである、と強調しました。キリストでないものは、召会ではありません。実際的に言って、召会はキリストです。ですから、キリストは召会の実際であり、召会はキリストの表現であるべきです。

41. 召会の一

召会の真の一は、その霊の一です(エペソ四・三)。真の一は教理、意見、ある実行の一ではありません。真の一はその霊ご自身です。教理において、あるいは物事を行なう方法で一つであったとしても、その霊の中にいなければ、真の一はありません。

42. からだを見る

 一九三九年から一九四二年に、ニー兄弟は、キリストのからだの幻について、絶えず負担がありました。彼は、 クリスチャンが教理的にではなく、実行的にからだを見るようにと、助ける負担を持ちました。彼は絶えず、からだを見ることが個人主義を不可能にする、と強調しました。人がいったんからだを見るなら、団体的に振る舞い、行動します。

43. からだの中での聖霊の権威

ニー兄弟は、キリストのからだが有機体である以上、聖霊はあらゆる面で、すべての事の上で、権威を持っておられるはずであることを見ました。からだの活動はすべて、聖霊の権威と指図の下になければなりません。

44. 聖霊の実際

聖霊はすべての霊的事物の実際です。「霊的事物」という言葉も、聖霊ご自身がすべての霊的事物の内容と実際でなければ、むなしく、空虚です。聖霊はクリスチャンの命の実際であり、クリスチャン生活の実際です。彼らが何であろうと、何をしようと、実際としての聖霊を持たなければなりません。

45. 召会(教会)の権威

実際的な召全生活の実行について、ニー兄弟は権威の必要性を見ました。かしらとしてのキリストが彼のからだの肢体に与える権威は、代表権威と呼ばれます。地方召会はこのような代表権威の下で、麗しい秩序の中になけれはなりません。この権威は、地方召会の建造のために極めて重要です。こうして、召会は一つの直立した器となります。このためには、服従が必要です。

46. 召会(教会)の建造

主がニー兄弟を通して啓示されたことですが、信者は必ず召会の権威の下に、地方召会の中で、他の人たちと実際的に建造されなければなりません。このような建造は、真に霊的であることのテストです。もし地方召会の中で他の人と建造されないなら、その人の霊的であることは疑問です。

47. 召会(教会)生活における組み合わせ

ニー兄弟が受けたもう一つの啓示は、権威と建造に密接に関係のあるもので、それは召会の組み合わせに関する啓示です。地方召会のすべての肢体は、他の人と建造されるだけでなく、他の人と組み合わされる必要があります。召会の奉仕は、個人的に遂行されることはあり得ません。すべての肢体は、取り組んで奉仕しなければなりません。

48. からだと霊的戦争

ニー兄弟の初期の務めにおいて、彼は霊的戦争を、個人的な面として見ていました。ところが、一九三九年から、 それは個人的な事ではなく、からだの事であるのを見ました。エペソ人への手紙第六章の戦士は単独の信者ではなく、キリストのからだです。ニー兄弟は、もし信者が個人主義であれば、天にいる諸勢力と戦うのは困難である、 と強く語りました。わたしたちが敵と戦うためには、からだが必要です。わたしたちは天にいる必要があるだけではなく、からだの中にもいる必要があります。

Ⅳ. 一九四二年から一九四八年まで

49. 聖霊の管理

一九四二年から一九四六年までの期間は、ニー兄弟にとって苦難の時でした。この期間に彼が学んだのは、聖霊の管理の必要を見ることでした。それは、わたしたちの存在の再構成のためであり、わたしたちの外なる人が砕かれるためです。彼は、神は主権をもってわたしたちの環境を校配し、聖霊の管理を通して、万事を益とならせるように開かれることを見ました。聖霊はわたしたちの環境を按配し、環境を通してわたしたちを管理されます。それは、神聖な成分をもって、わたしたちの内側を再構成するためです。

50. 外なる人が砕かれて、霊が解放される

一九四二年から一九四八年、ニー兄弟は長期の苦難を経過している間に、外なる人が砕かれて、霊が解放されることを見ました。キリストの霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられます。もしわたしたちの外なる人が砕かれていないと、キリストの霊を伴うわたしたちの霊は、わたしたちの外なる人の殻に制限されます。このゆえに、わたしたちの外なる人が砕かれることは極めて必要です。こうして、わたしたちの霊は、キリストの霊を伴って解放され、命を人に分け与えることができるのです。聖霊の管理は、わたしたちの天然の命のある面を破壊し、同時にわたしたちの外なる人を砕きます。

51. 霊を活用する

ニー兄弟は、霊の解放について光を受け、同時に信者がどのように人の霊を活用するかを、学ばなければならないことを見ました。御言を供給し、福音を宣べ伝え、人と接触する時、日常生活の事柄でさえ、信者はまず、自分の霊を活用しなければなりません。彼らは思い、感情、知識を活用するのではありません。これらすべてのことで、霊はいつも先立つ必要があります。わたしたちの霊によって、わたしたちは他の人の霊に触れることができます。 信者はただ霊によってのみ、命の霊を伝達し、命を他の人に分け与えることができるのです。 

Ⅴ. 一九四八年から一九五十年まで

52. 働きの区域

一九四八年、二ー兄弟は、召会は地方的であり、働きは区域的である、という啓示を受けました。召会は地方のことですが、働きは区域、あるいは地域のことです。ペテロの働きの下にあった諸召会は、それぞれの地方にありましたが、ペテロの働きは一つの地域にありました。その地域には、これらすべての地方が含まれていました。パウロの働きも同じであり、彼の働きを通して、諸召会が起こされました。

53. いっさいの物を明け渡す

ニー兄弟は、働きが目的を達成し、地方召会が実際に建造されるには、主の回復にあるすべての信者が、自分自身だけでなく、すべての持ち物を働きに明け渡す必要があることを見ました。このようにして、信者は、利己的であり、個人主義であることから解放されます。これはまた、信者たちが主の権威に服するのを助けます。それは、 主が信者たちの持ち物を主の目的のために用いて、彼らにさらに多くの物質の祝福を与える機会を提供します。 ニー兄弟が得た啓示は、これですべてではありません。彼は聖書から多くの光を受けて、さらに多くの事柄を見ています。それは、福音の真理や実行上の事柄、例えば、主日、結婚、衣服、金銭の取り扱いなどです。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

今の時代のおける神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー