2025-01-20 | 教科書には載らない教会歴史
歴史を遡るなら、主の回復の働きは16世紀においてマルチン・ルターの宗教改革において顕著に見られます。16世紀の宗教改革は、キリスト教の歴史における大きな転換点でした。その中心人物の一人であるマルチン・ルターは、聖書の真理に立ち返ることを訴え、当時の教会のあり方に異議を唱えました。
Ⅰ. 「信仰による義認」の回復
590年に、グレゴリウス大王が法王の座を設立したとき、ローマ・カトリック教会が世界に完全に確立されました。900年以上経って、マルチン・ルターが十六世紀の初めに起こされました。ローマ・カトリック教会が確立された590年からマルチン・ルターが起こされる1517年までおよそ900年の期間、ローマ・カトリック教会は最善を尽くして教会を腐敗させ、堕落させ、変質させました。ローマ・カトリック教会の影響の下で、これは人類歴史における最も暗い期間でした。
マルチン・ルターはローマ・カトリック教会によって引き起こされて、真理を追い求め始めました。ルターは宗教改革における中心人物でしたが、単独ではありませんでした。実は、宗教改革はルターが起こされるはるか前に始まりました。ジョン・フスはルターが登場する前にローマ・カトリック教会を改革しようとしました。フスは主の御言から光を受けて、基本的な真理を語りました。彼の宣べ伝えはローマ・カトリック教会の教えに反していたので、彼は殉教しました。しかしながら、彼が中央ヨーロッパでまいた種は、100年後に実を結びました。
ジョン・フスで始まった教会の回復は、十分強くありませんでした。ルターが起こされてはじめて、教会の回復は十分に強く、完全になりました。ルターと共に立った人たちは、「信仰による義認」 に関する真理を回復しました。彼らが回復した最初の事柄は、カトリック主義が神の救いを失ってしまったということでした。
早くから、ルターはローマ・カトリック教会を改革する事を求めていましたが、彼の計画を遂行することはできませんでした。しかしながら、法王の免罪符を売ることに関する乱用を、彼は容認することはできませんでした。法王の代理はあらゆる都市で免罪符を売っており、人々は免罪符を買う限り、彼らの罪は赦されると告げられました。このようにルターによる宗教改革の前、教会は極みまで堕落していたのです。
神の回復の働きは、信仰による義認の基本的な真理をもって始まりました。マルチン・ルターはこの事柄を、多くの光と大きな透明さをもって表現しました。しかしながら、ルターに従ってカトリック主義から出てきた人たちは十分に純粋ではなく、依然としていくらか混乱していました。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は多くのヨーロッパ諸国の政府と連合していました。ですから、ルターはローマ・カトリック教会に挑戦したとき、関わった政府にも挑戦していました。しかしながら、いくつかの政府はローマ・カトリック教会と一つ思いではありませんでした。例えば、ドイツ周辺地域の国家はルターの連合しました。一方でルターはローマ・カトリック教会から迫害に苦しみ、カトリック主義を支援した政府によって悩まされましたが、もう一方で、ドイツなどの国によっていくらかの支援と保護を受けました。このような板挟み状態はルターを極めて困難な地位に置きました。
Ⅱ. 国教会
ドイツは国教会を設立し始めました。ルターは国教会が間違っていることを知っていました が、彼はこの事柄において弱かったのです。なぜなら、彼はドイツの保護を必要としたからです。この後、英国、デンマーク、スウェーデンは相次いで従い、国教会を設立しました。国教会は王、あるいは皇帝をその代表とします。例えば、ドイツの皇帝はドイツの国教会の代表です。人がドイツ人である限り、彼はドイツ国教会のメンバーです。あらゆるドイツ国民は教会税を払わなければなりません。このゆえに、ローマ・カトリックの他に、いわゆる国教会があるのです。
ルターの著作ははっきりと、教会が国家から分離されるべきである ことを、彼が知っていたことを示していますが、彼はこの分離を成し遂げることができませんでした。彼は、他の人がそれを行うことができることを望みました。ルターは、カトリック主義から抜け出し、プロテスタントとなりましたが、それは不完全なものでした。なぜなら、それは最初から明確に断ち切ることをしなかったからです。
信仰による義認は良い回復でしたが、ルターの死ぬ前でさえ、プロテスタントの諸教会は政治との連合のゆえに混乱していました。信仰による義認を受け入れた多くのプロテスタント信者は、教理を受け入れただけで真に再生されていませんでした。その結果、彼らの多くのこの世的な事柄をプロテスタント主義へともたらしました。「正常な教会生活」は、ルターの時代に回復されませんでした。 主は彼を用いて、信仰による義認に関する真理を回復し、聖書を一般大衆に対して開きました。ルターは彼の命という代価を払って、この真理のために立ちました。ところが、彼は教会に関する真理にきた時、弱かったのです。彼は正常な教会生活を持つという神の真の意図に、わたしたちを連れ戻しませんでした。彼は信仰による義認の真理をもって回復を始めましたが、他に触れる価値があることを何も回復しませんでした。
ですから、啓示録(ヨハネによる黙示録)第3章で主はサルデスに在る教会に言われます、「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる。・・・残っているもの、死にかかっているものを堅固にしなさい。わたしは、あなたのわざのどれも、わたしの神の御前で完成されているのを見ていないからで在る。・・・サルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる」(啓示録(ヨハネによる黙示録)3:1-2,4)主からサルデスに在る教会へのこの言葉は、プロテスタント主義の状態に関する予言です。
誰もがルターを主の偉大なしもべと認めます。しかし、彼の間違いは教会のビジョンに欠けていたことです。わたしたち人は間違いを犯します。わたしたちの保護は、「教会とは何か?」を十分に認識することです。 そして、神はこの回復の働きに続き、カトリックの中にいる主を愛する聖徒たちを用いて新たな回復の働きをおこなわれました。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著 出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-20 | 教科書には載らない教会歴史
一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点に達しました。この教会が堕落した中世の時代を「暗黒時代」と呼びます。
Ⅰ. 中世のローマ・カトリックと暗黒時代
一世紀末から徐々に始まった教会の堕落は、五世紀から十五世紀にかけて、ローマ・カトリックの出現において頂点 に達しました。ローマ帝国は初めの三世紀にわたって教会を迫害しました。四世紀にローマ帝国はその態度を変えて、もはや教会を迫害するのではなく、それを歓迎し、それに特別な地位を与えました。 これはコンスタンティヌスがローマの皇帝になった後に始まりました。コンスタンティヌス大帝が彼の帝国の権力を用いて二ケア会議を開き、二ケア信条を制定した時、教会は政治権力と結び付きました。これがローマ・カトリックの形成の始まりでした。彼は死の床にいつまでバプテスマされませんでしたが、キリスト教を歓迎しました。彼は多くの方法を用いて、民衆が異教の宗教を拒絶し、キリスト教を受け入れるように奨励しました。彼がこれを行ったのは神のためではなく、自分自身の政治権力を固めるためでした。
コンスタンティヌスの統治の期間、キリスト教はまだ公式の国教ではありませんでした。キリスト教が公式の国教として宣言されたのは、370年にテオドシウスの統治になってからでした。この時、すべてのローマ市民はクリスチャンになるように要求されました。ローマ帝国がキリスト教をその公式の宗教として受け入れ、教会が政治と連合した後、ローマ帝国の市民は彼らの習慣を教会の中へと持ち込みました。彼らが拝んだ女神アルテミスは、「聖なる母マリア」となりました。太陽を拝む祭日はキリストの誕生日と呼ばれ、クリスマスとなりました。
五世紀にローマの司教であるレオ一世は自分自身が教会の最高権威であると考え、最初の教皇となりました。六世紀までに教皇制度が確立され、それは西洋における諸教会を統一しました。こうして、ローマ・カトリック教会が正式に設立され、教会の堕落がその頂点に達しました。
1854年に法王ピウス九世は、マリアには罪がなかったと宣言する大勅書を発布しました。これは無原罪懐胎の教理です。この偽りの教えによれば、マリアは聖霊から身ごもったとき、原罪から逃れたのです。法王がこの宣言をした後、ローマ・カトリック全体が、マリアには罪がなかったことに同意しなければなりませんでした。法王はまた、使徒パウロを礼拝することを正式に確証しました。いわゆるカトリックの聖徒たちはみな、法王によって聖人と認められました。
ローマ・カトリックは、六世紀から十五世紀あるいは十六世紀まで、十世紀にわたって繁栄しました。ローマ・カトリックは一般の信者に聖書を読むことを禁じました。 結果として、十世紀の期間にわたって光がなく、全世界は霊的暗闇に陥りました。歴史においてこの期間は中世の期間の暗黒時代と呼ばれています。
聖書によれば、神はこの時代に介入して教会を汚す事柄から対処することはされませんでした。例えば、教会の堕落、変質に関して、もし神が介入してその変質した状態を矯正されるなら、わたしたちはそれは良いことであると考えます。しかしながら、神は介入しないで、その変質を継続させ、さらに悪くなるようにさえしました。神はそれを起こるようにさえされます。
いずれにせよ、教会とローマ帝国との連合は、教会の行政と組織の変質を完成しました。それはペンテコステの日(教会が誕生した日、紀元34年頃)から約280年であり、この時から約1300年間をかけて教会は完全に変質しました。
Ⅱ. 教会の回復の兆し
教会が変質し、ローマ・カトリック教会になった後、ある意味でそれはこれ以上、変質し、堕落することができなくなりました。ローマ・カトリック教会は、極みまで堕落した後の教会の最高の例証です。ですから教会はもはや、さらに変質したり堕落したりすることはあり得ませんでした。この後、神は堕落しきった教会に介入され、マルチン・ルターを用いて回復の働きを行われました。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著 出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-20 | 教科書には載らない教会歴史
真の教会歴史を知るためには、一世紀まで歴史を遡らなければなりません。実は、神の回復の働きは一世紀あたりに始まり、それは教会が荒廃した時でした。
Ⅰ. 主の回復の開始
まず聖書の歴史を振り返りましょう。聖書は一世紀の終わりに完成しました。聖書を書いた最初の人はモーセでした。彼は主イエスが生まれるおよそ1500年前に、すなわち3500年前に聖書の最初の五冊の書を書きました。モーセの後、さまざまな場所に住み、さまざまな時代に生きていた他の人々が、続けて聖書を書きました。主イエスの誕生のおよそ400年前に、あるユダヤ人の聖書学者たちがモーセ五書と、神によって霊感を受けた人によって書かれた他の霊的な巻物を集めました。この材料が調べられた後、三十九巻から神の聖なる言として承認されました。これは旧約の各書です。
旧約の最後の書はマラキ書です。マラキ書の執筆から主イエスの誕生までおよそ400年の期間、それ以上、神聖な言葉は書かれませんでした。およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天しました。聖霊が下ってきて、教会が生まれました。これが使徒行伝第2章に記されているペンテコステです。この後、人々は新約を書きました。初めに、多くの福音書がありましたが、それは調べられ、査定され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書だけが承認されました。福音書に続いて、使徒行伝があります。それはルカによって書かれました。使徒行伝の後、パウロの書簡があり、それはローマ人への手紙からヘブル人への手紙まで全部で十四巻あります。パウロは書簡をおおよそ54年から書き始め、およそ67年に完成しました。パウロの書簡に続いて、ヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙、ヨハネによって書かれた啓示録(ヨハネによる黙示録)があります。これらが新約の完全な文書です。
しかしながら、新約聖書は一世紀に調べられ、査定されたのではありません。それは一世紀の後、あらゆる場所の教会によって徐々に承認されてきました。一世紀の終わりの時、七巻の書、すなわち、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの第二、第三の手紙、ユダの手紙、啓示録(ヨハネによる黙示録)は承認されていませんでした。キリスト教の教師たちが北アフリカのカルタゴでの会議のために集まった397年になってはじめて、これらの七巻の書は新約聖書の一部として承認され、新約には二十七巻あるということが結論づけられました。
A. パウロの完成する務め
一世紀末に、新約聖書はすべて承認されていたわけではありませんでしたが、神の啓示は完成しました。新約聖書の中心的な書物はパウロの書簡です。コロサイ人への手紙第1章25節でパウロは、彼の務めは「神の言葉を完成すること」であったと言います。これは、パウロが完成された神の言葉を書いたことを意味します。この完成する言葉の強調はキリストです。
パウロの書簡は、キリスト、その霊、命、教会について語っており、またキリストの死と復活について語っています。わたしたちはキリストの死と復活をおもに個人的な事柄として理解していますが、パウロがキリストの死と復活に関して語ることは、団体的な事柄、すなわち教会を強調します。ですから、パウロの神の言葉を完成する務めは、キリストが死と復活を通して、命を与える霊と成ってわたしたちの命となり、教会を生み出すこと に関してです。これが、パウロが明らかにしていることであり、神の啓示です。
B. ヨハネの繕う務め
パウロの書簡が書かれた後、彼の死の前にさえ、完成された神の言葉は損害を受け、台無しにされました。このことは教会の堕落につながりました。結果として、およそ67年にパウロは、テモテへの第二の手紙を教会の堕落の予防注射として書いて、堕落の病原菌に対して戦いました。その後しばらくして、パウロは殉教しました。90年までにパウロの啓示は完全に破壊され、グノーシス主義などの多くの異端的な教えが教会の中へと入りました。
パウロの啓示と教会に対する損害のゆえに、主はヨハネを用いて繕う務めを行いました。ヨハネの務めは繕う務めです。繕うとは、壊れたものや傷ついたものを修理したり補修したりすることです。ヨハネは網を繕っている時に主イエスに召されました(マタイ4:21)。この繕う務めのために、ヨハネによる福音書、ヨハネの第一、第二、第三の手紙、啓示録が書かれました。ヨハネによって繕われた後、啓示のいくつかの点は、本来よりも強くなりました。厳格に言って、ヨハネの繕うことは回復の開始です。
Ⅱ. キリストのパースンと信条の起源に関する議論
教会歴史によれば、一世紀の終わりから始まった、キリスト論と関係のある大きな論争がありました。この論争は、どのようにしてキリストが神と人の両方であり得たか に関してでした。ある人たちは、キリストが神でなかったと言いました。他の人たちは、キリストが肉体において来れられたのではなく、人ではなかったと言いました。ですから、ヨハネは彼の福音書を書いて、キリストが神でないという異端に反論したのです。ヨハネによる福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。このことはイエスが神であることを綿密に見せています。ヨハネはまた彼の第一の手紙を書いて、キリストが肉体において来られたのではないという異端に反論しました。325年に、ローマの皇帝であるコンスタンティヌス大帝は、キリストのパースンに関する論争と関わりのあるすべてのキリスト教の教師を二ケアでの会議に集めました。今日に至るまでカトリックとプロテスタントは二ケア信条を堅固に保持しており、それを信仰の基本的な信条として尊重しています。
六世紀には、クリスチャンの中でキリストのパースンに関する異なる七つの学派が存在しました。第一の学派は、キリストには神性があるが、人性はない、すなわち、彼は神であって、人ではないというものです。第二の学派は、キリストには人性だけがあり、神性はない、すなわち、彼は人であるだけであり、神ではないというものです。第三の学派は、キリストには神性があるが、彼の神性は不完全であるというものです。第四の学派は、キリストには人性はあるが、彼の人性は不完全である、すなわち彼には人の体と魂があるが、人の霊はないというものです。第五の学派は、一人の人が二つの性質を所有することはできないので、キリストの神性と人性は区別があり、分離されているというものです。第六の学派は、キリストの神性と人性が結合して、第三の性質を生み出したというものです。第七の学派は正統で、正確であり、聖書的です。この学派は、キリストには神性と人性の両方があり、両方の性質が完全で、ミングリングされている(混ざり合わされている)が、第三の性質を生み出さないというものです。 これは、キリストが真の神であり、また真の人であることを意味します。彼は神であり人であり、人であり神です。彼には神聖な性質と人の性質の両方がありますが、彼は依然としてひとりのパースンです。これが聖書におけるキリストのパースンの啓示です。
キリストのパースンに関する七つの学派
学派 学派の主張 内容の詳細 第1の学派 キリストには神性があるが、人性はない キリストは神であって、人ではない。 第2の学派 キリストには人性だけがあり、神性はない キリストは人であって、神ではない。 第3の学派 キリストには神性があるが、彼の神性は不完全である 神性があるが、それは完全ではない。 第4の学派 キリストには人性があるが、彼の人性は不完全である キリストには人の体と魂はあるが、人の霊がない。 第5の学派 キリストの神性と人性は区別があり、分離されている 一人の人が二つの性質を所有することはできないと主張。 第6の学派 キリストの神性と人性が結合して第三の性質を生み出した 神性と人性が融合し、全く新しい性質が誕生したと考える。 第7の学派 キリストには神性と人性が完全にミングリングされている(正統的立場) キリストは真の神であり、真の人。神性と人性は完全にミングリングされているが、第三の性質は生まれない。
このように、およそ2000年前、主イエスが生まれ、33年半地上で生活し、死んで、葬られ、復活し、昇天し、聖霊が下ってきて、教会が生まれました。この後、100年足らずで教会の中にグノーシス主義などの異なる教えが忍び込み、教会は堕落しました。また六世紀には、キリストのパースンに関する七つの学派が存在するほどに、真理に関しても混乱していました。これが教会歴史の出発点であり、このために神は回復の働きを必要とされました。
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【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著 出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。「オンライン聖書 回復訳」
2024-11-28 | 教科書には載らない教会歴史
「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。
わたしたちが学ぶ教会史といえば、「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「プロテスタントの発展」などが思い浮かびます。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。真の教会歴史とは、単なる宗派の変遷ではなく、神が堕落した教会を回復し続けている歴史なのです。 これを「主の回復」と呼びます。
「回復」とは、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、教会は何を失ったのでしょうか?それは 神が本来望まれた教会の姿 です。
初代教会は聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれ、人間の考え、伝統、権力が入り込み、教会は徐々に神の御心から逸れてしまいました。表面的には繁栄しているように見えても、本質を失ってしまったのです 。これが 教会の堕落 です。
しかし、神はこのままにはされませんでした。ある時代には個人を、またある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復してこられました 。この回復の働きは単なる過去の出来事ではなく、今も続いている神の働き なのです。
では、神は今、何をされているのでしょうか? もしあなたが 「神の現在の働きを知りたい」 と思うなら、まず教会の歴史を正しく知ることが必要です。教会歴史を学ぶことは、単なる知識の習得ではありません。それは、神の御心がどのように進められてきたのかを理解し、今の時代において私たちがどこに立っているのかを知ること です。
あなたが「教会歴史を知りたい」と思ったのは、もしかすると、こういった疑問を持ったからではないでしょうか?
本当の教会の姿とは何か?
なぜキリスト教にはこんなに多くの宗派があるのか?
今、自分の信仰は神の御心の中にあるのか?
これらの問いに答えるために、「神の回復の視点から見た教会の歴史」 を詳しくたどっていきましょう。
この記事では、教会の誕生から、堕落、回復の歴史を辿り、主の回復のために各時代に神が用いられた人々と、回復された真理を見ていきたいと思います。
Ⅰ. 初期の教会(1世紀):神の回復の出発点
A. イエス・キリストの贖いと聖霊の降臨による教会の誕生(AD30-33)
主イエスは、十字架で人類の罪の贖いを完成し、復活 して弟子たちにご自身を「聖なる息」として吹き込みました(ヨハネ20:22)。そして、ペンテコステの日に聖霊が降り、エルサレムにおいて地上に初めて教会が誕生しました(使徒1:8-14、使徒2:42-47)。これが教会の始まりです。
B. 使徒による教会の確立と拡大(AD33-65)
神は使徒たちを遣わし、教会を建造する働きを行われました。使徒ペテロの務めを通じて福音はユダヤ人に、使徒パウロの務めで福音は異邦人世界に広がりました。この務めにより全世界へと教会は広がりました。この務めの中で神はパウロに「神のエコノミー 」(コロサイ1:25)を啓示しました。パウロが宣べ伝えた福音は「キリストと教会(召会)」についてであり、キリストのからだである教会の建造を宣べ伝えることが彼の務めの負担でした。
C. 異端の侵入による教会の堕落(AD65-)
しかし、教会は初期から異なる教えや分裂に直面しました。パウロはテモテに「ある人たちが異なる事を教えたりすることがないように」と命じました(Ⅰテモテ1:3-4)。教会の中に異端やグノーシス主義などの異なる教えが侵入したことにより、多くの聖徒たちが惑わされ、「使徒たちの教え」(使徒2:42)から離れ去っていきました。この「使徒たちの教え」とは異なる教えにより、教会は腐敗させられ、堕落し始めました。
D. 使徒ヨハネによる真理の修復(AD90-95)
異端や異なる教えは教会の中に蔓延し、教会は衰退と堕落の一歩を辿りました。一世紀の最期、神は使徒ヨハネを通して教会の破れ目を繕うために、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、啓示録を書きました。繕うとは、壊れたものや傷ついたものを修理したり補修したりすることです。ヨハネは網を繕っている時に主イエスに召されました(マタイ4:21)。しかし、教会の衰退と堕落は止まることなく悪化の一歩を辿りました。
Ⅱ. 中世の時代(5〜15世紀)
A. 教会の堕落と暗黒時代の到来
476年に西ローマ帝国が崩壊し、中世が始まります。この時代はキリスト教歴史において「暗黒時代 」とも呼ばれ、聖書は一般の民から閉ざされ、神の言葉の光が封じられました。ローマ・カトリック教会 が権力を持ち、神の意図から逸脱した形で宗教的権威を振るいました。初代教会にあった霊的生命は失われました。この教会の堕落による暗黒時代は約1000年間続きました。この暗黒とは、神の光、神の介入、神の回復の働きがなかったということを意味します。
Ⅲ. 宗教改革(16世紀)
A. マルティン・ルターと聖書の回復
教会の歴史を辿れば、主の回復の始まりは十六世紀の宗教改革に行き着きます。それは、今から500年前の出来事です。1517年 、ルターは「95カ条の論題 」を発表し、カトリック教会の堕落や贖宥状(免罪符)の乱用を批判しました。これが宗教改革の始まりです。
ルターは「聖書のみ(Sola Scriptura) 」「信仰のみ(Sola Fide) 」という原則を掲げ、神と人との関係において教会や聖職者を介する必要がないことを強調しました。ルターは「信仰による義認 」の真理を回復し、聖書を一般の人々が読めるようにドイツ語に翻訳しました。しかし、ルターの改革は完全ではありませんでした。教会生活の回復 は成し遂げられず、彼は国家教会を取り入れたことで教会に政治的影響をもたらしました。
それでも、教会歴史を遡るならば、この時に主の回復の働きがあったことを見いだすことができます。ルターが提唱した、「聖書のみ」「信仰義認」「万人祭司」は、確かに主の御心であり、主が成された働きでした。
1. 回復された要素(16世紀)
ルターは以下の三項目の回復に寄与しました。
信者の信仰による義認 。
聖書が信仰の唯一の基準であること(聖書中心主義) 。
万人祭司 の教え:全ての信者が神の御前に直接立つことができる。
Ⅳ. 更なる回復(17〜18世紀)
ルターの宗教改革以来、神はあらゆる国で、あらゆる人々を用いて、主の回復の働きを行われました。
A. 敬虔主義
敬虔主義(Pietism)は、十七世紀後半から十八世紀にかけて、ドイツを中心に展開された宗教改革後の運動であり、形式的な信仰に対する反発から生まれました。ルター派の伝統的な教会が教義重視に傾き、信仰が形式的になっていたことに不満を抱いた人々が、より内面的で実践的な信仰生活を求めたことが背景にあります。聖書の教えを生活の中で実践することで、信者が霊的に成熟することを目指しました。
B. 奥義派
奥義派(Mystics)とは、神との親密な交わりやキリストの内なる命の経験を強調した人たちです。彼らは、外面的な儀式や教義よりも、内面的で霊的な体験を重視しました。十七世紀に活躍したガイオン夫人(Madame Guyon)、フランソワ・フェネロン(François Fénelon)、ブラザー・ローレンス(Brother Lawrence)は、この霊的運動の代表者として知られ、神の臨在の意識や絶え間ない祈りを実践しました。
C. メソジスト運動
メソジスト運動(Methodism)は、十八世紀にイギリスで始まり、後に世界中に広がったプロテスタントの運動です。中心人物はジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703-1791)であり、彼の弟チャールズ・ウェスレー(Charles Wesley)も賛美歌作家として重要な役割を果たしました。この運動は、個人の聖化(Sanctification)と信仰の実践を強調し、形式的な信仰を超えて具体的な生活の中でキリスト教信仰を表現することを目指しました。
D. モラビアン兄弟団
ニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ジンゼンドルフ伯爵(Nikolaus Ludwig von Zinzendorf, 1700-1760)は、十八世紀のモラビア兄弟団(Moravian Brethren)の指導者であり、彼の影響で教会生活の一部の回復 が進みました。ジンゼンドルフの働きは、教理の違いを超えた一 を実践しました。彼らは聖霊の注ぎを経験し、教会史上最も力強いリバイバルを引き起こしました。彼が導いた運動はキリスト教の歴史に深い霊的影響を与えました。
1. 回復された要素(17〜18世紀)
信者の聖化と霊的成長
内なる命の回復
霊的生命と教会の一致の回復
個人的な体験 としての神との交わり。
敬虔な生活
Ⅴ. ブレザレン運動(19世紀)
A. 教会と天の召し
ブレザレン運動(The Brethren Movement)は、十九世紀初頭にジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)などによって始まりました。この運動は、教派による分裂を避け、初代教会のシンプルな形 での集会を目指しました。すべての信者が平等に奉仕する教会生活 を理想としました。聖書に基づいて、「すべての信者が祭司である(万人祭司)」という考えに基づき、牧師や聖職者という階級を廃し、すべての信者が奉仕の役割を担いました。ブレザレンは、教会は人間の組織に依存するべきではなく、聖霊の導き に基づいて存在するべきとしました。この運動は、今日の福音派神学に多大な影響を与えています。真理の回復の90%はブラザレン運動によってもたらされたと言われています。
1. 回復された要素(19世紀)
地方教会 という概念の萌芽。
教会の一致:キリストのからだとしての教会を再確認。
初代教会の単純な集会の形
B. ブラザレンの分裂
ブラザレン運動は、すべての信者が平等に奉仕することを重視し、教会生活において教理を厳格にするよりも、キリストにある一致 を目指しました。しかし、やがて一部の指導者たちの間で教理と交わりに対する厳格な姿勢 が強まり、オープン派とエクスクルーシブ派 という形で分裂しました。ここでも、主の回復が完全に行われなかったことを見ることができます。
Ⅵ. 内なる命のさらなる回復と働き(20世紀)
20世紀に入ると、キリスト教会において「キリストを命として経験する」ことが、さらに深く追求されるようになりました。アンドリュー・マーレー 、ジェシー・ペンルイス 、T・オースティン・スパークス といった霊的指導者たちは、「命としてのキリスト」を深く探求し、十字架の経験や霊的戦い の教えを発展させました。また中国のウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは、神のエコノミー、キリストと召会(教会)に関する真理を回復しました。
A. 霊的探究を求めた指導者たち
1. アンドリュー・マーレー(1828-1917)
マーレーは、キリストに全く依存する生活 と祈りの重要性 を強調しました。彼の多くの著書は、信者が日常生活の中でキリストを命として経験する ための実践的な教えを説きました。
2. ジェシー・ペンルイス(1861-1927)
ペンルイスは、十字架の経験と霊的戦い に焦点を当てました。彼女は、信者が自己を否定し、霊的な戦いに勝利するためには、十字架を深く経験する必要がある と説きました。
3. T・オースティン・スパークス(1888-1971)
スパークスは、キリストの命の働き を通じて信者が霊的に成長し、教会が建造されることを教えました。彼の教えは、キリストの豊かさを経験すること に重点を置いています。
Ⅶ. 中国における「主の回復」
中国は異邦の地であり、多くの信者はいませんでしたが、召会に関して複雑ではありませんでした。このゆえに、主は中国において彼の回復を開始することができたのです。こうして、中国において主の回復が始まりました。
A. キリストのからだの生活を実行
1. ウォッチマン・ニー(1903-1972)
ウォッチマン・ニー(Watchman Nee, 1903-1972)は、中国で初代教会の純粋な教え と教会生活の回復 を追求しました。彼はキリストの命を享受すること 、信者が神の命に生きる教会生活を実践しました。ウォッチマン・ニーは地方教会のビジョンを受け、各都市ごとに「地方教会」を設立し、その地域の信者が一つの教会として集まる、地方教会の真理を回復しました。
2. ウィットネス・リー(1905-1997)
ウォッチマン・ニーの働きを引き継いだウィットネス・リー(Witness Lee, 1905-1997)は、ニーの教えを台湾、そしてアメリカをはじめとする世界各地に拡大しました。リーは「地方教会」を確立し、神のエコノミーの啓示 をさらに発展させました。ウィットネス・リーは、ウォッチマン・ニーの地方教会の真理を引き継ぎ、正当な教会生活、クリスチャン生活の真理を確立しました。
3. 回復された要素(20世紀)
キリストを命と経験する
地方ごとの教会生活(地方教会)。
キリストのからだとしての教会生活。
神のエコノミー :神の計画のもと、信者が神の命を分与すること。
Ⅷ. 現在の主の回復(21世紀)
現在の主の回復は、次の三つの要素 を軸に進んでいます。それは、すべてのすべてであるキリストの回復、キリストのからだの一の回復、そしてキリストのからだのすべての肢体の機能の回復 です。これらは、キリストの豊かさを享受することを通して、信者たちが正当な教会生活を送り、キリストの花嫁を整え、主の来臨を迎えるための準備の歩みです。
1. すべてのすべてであるキリストの回復
すべてのすべてであるキリストの回復 とは、信者たちが日常生活の中でキリストを命として享受し、キリストをすべてとする生活 を回復することを意味します。これは、教義や形式にとどまらず、キリストが私たちの内側で実際に働かれること を経験することです。
2. キリストのからだの一の回復
キリストのからだの一の回復 は、教会が地域ごとの地方教会の立場 で一致し、すべての信者が分け隔てなく一つになることを目指すものです。
3. キリストのからだのすべての肢体の機能の回復
キリストのからだの肢体の機能の回復 とは、教会においてすべての信者が霊的な機能を発揮し、からだ全体が建て上げられる ことを指します。これは、牧師や特定の指導者だけが奉仕するのではなく、全ての信者が神聖な命を分かち合い、互いに仕える ことを意味します。
Ⅸ. まとめ:主の召しに応答する
私たちは、主の回復 の中で、キリストの計り知れない豊富を享受し、その命を通じて教会生活を実践する者たちです。私たちの目標は、伝統や習慣に縛られることなく、神の当初の意図に従った教会生活 を回復することです。この回復の働きは、歴史を通じて続いてきたものであり、最終的には新エルサレムにおいて完成します。
わたしたちは、キリストのからだの一を表現するために地方の合一の立場に立ち 、神の純粋な言葉に基づいて教会生活を実行する使命が与えられています。神が進めておられるこの回復の中で、わたしたちはキリストの命を豊かに享受し、神の栄光のために一を保ちながら歩んでいます。最終的な目的は、終末においてキリストの花嫁としての教会 が整えられ、神の目的が完全に成就することです。
以下の記事では、ダイジェスト版で書かれた内容を各時代ごとにさらに詳しく書かれています。PART 1から順番に読み進めてみてください!
【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著 出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。「オンライン聖書 回復訳」