2025-06-01 | 初信者成就シリーズ
パンさきの集会についてはパンをさくことの霊的意義 – 主の晩餐と主の食卓 – 初信者シリーズ10 で詳しく交わりました。ここでは、重要な点だけを見ていきたいと思います。パウロはコリント人への第一の手紙第10章26節で言いました、「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。パウロはここでパンさきの集会は、「主が来られるまで」行うと言っています。わたしたちは証しすることができますが、わたしたちが主日ごとにパンをさくたびに、新たな啓示を受けます。パンをさくたびに、パンさき集会の奥深さを知ります。ですから、初信者の兄弟姉妹はよくよく学ぶ必要があります。
Ⅰ. パンさきの集会の意義
パンさきの集会の意義について、聖書は二方面から述べています。それはコリント人への第一の手紙第10章と第11章です。第11章の示すパンは、主の肉の体であり、この基本的な思想は主を記念することにあります。第10章の示すパンは、キリストのからだであるわたしたちであり、この基本的な思想は神の子供たちの間の交わりにあります。
コリント人への第一の手紙第11章
パン:主の肉の体
意義:主を記念する
コリント人への第一の手紙第10章
パン:キリストのからだであるわたしたち
意義:神の子供たちの間の交わり
ですから、パンさきの集会には二つの意味があります。一つは天に向かっていくものであり、わたしたちが主を記念します。もう一つは、テーブルの上に置かれているこの一つパンを中心とするものであり、わたしたちはみなこの一つパンの中の人であるということを表しています。これによってわたしたちには主の中で交わりがあるのです。ですから、パンさきは、主の御前に来て主と交わりを持つと同時に、神の子供たちとも互いに交わりを持つことです。
Ⅱ. パンさきの集会の区分
毎回のパンさきの集会には、二区分あれば最も好ましいです。それは救いが二区分あるからです。救いの一区分は、あなたが自分は罪人、裁きを受けるべき人、死ぬべき人であったことを見いだすことです。しかし、主はあなたを十字架により贖い、救い、罪を赦してくださいました。これが救いの第一区分です。
しかし、救いはここで終わりではありません。あなたは救われ、主イエスを得て、彼のものとなりました。そこで主イエスはあなたを神の御前に連れていき、彼の父をあなたの父と呼ばせ、聖霊はあなたの中で「アバ、父よ!」と呼ぶように教えます(ローマ8:14-16)。これは救いの第二区分です。ですから、第一区分は主の段階であり、第二区分は御父の段階です。
第一区分:御子(主)
第二区分:御父(神)
救いには御子(主)の面と御父(神)の面があります。だれも御子を離れて御父の前に行くことはできません。わたしたちはまず主のところに至り、十字架に出会い、赦しを得て、義なる方に不義な者の立場を取っていただかなければなりません。そうしてはじめて主はわたしたちを、御父の御前に連れて行くことができます。ですから、わたしたちは御父の御前に来て救いを得るのではなく、まず御子のところに来て救いを得、その後はじめて御父の御前へと至るのです。
Ⅲ. パンさきの集会の手順
パンさきの集会の特徴は賛美と感謝です。第一区分でわたしたちは主の御前に来て、感謝し、賛美します。感謝と賛美以外にできることはありません。この集会の中で祈り求めることは、ふさわしくありません。主はすべてのみわざを終えられました。ですから、わたしたちはただ感謝し賛美すればよいのです。感謝は彼が成してくださった事によるのであり、賛美は彼がどういう御方であるかによるのです。始まりにおいては、感謝が比較的多いでしょうが、徐々に賛美へと至ります。賛美が最も高まった時が、パンをさく時です。
パンをさいた後、第二区分が始まります。人が主の御前に来て、そこでとどまっているのを、主は願われません。わたしたちが主を受け入れると、御父もまたわたしたちを受け入れてくださいます。このことをはっきり認識しなければなりません。福音では、わたしたちは主を受け入れるのであって、御父を受け入れるのではありません。しかし、わたしたち自身は御父によって受け入れられるのです。わたしたちが御子を受け入れることは救いの前半であり、御父がわたしたちを受け入れることで、救いは完全なものとなります。ですから、パンをさいた後、御父の御前に行くことができます。わたしたちはすでに主を受け入れ、主にまみえたので、主はわたしたちを御父の御前へともたらしてくださいます。これがパンさきの第二区分です。
Ⅳ. パンさきの集会は長子が多くの子たちを導く
ヘブル人への手紙第2章は、主イエスが多くの子たちを栄光へと導きいれられることを見せています。主イエスは地上におられた時は、神のひとり子であり、ただひとりの方でした。しかし、彼はすでに死なれ、復活されました。今やわたしたちは彼を得て、神の子とされました。主イエスは長子であり、わたしたちは多くの子たちです。12節は言います、「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し、教会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」。ここで言っている教会の集会は、長子が多くの子たちを導いて、御父に賛美の歌を歌う集会です。パンさきの第二区分も、長子が多くの子たちを引き連れていく集会ですから、わたしたちは最高点に触れなければなりません。パンさきの第二区分は、わたしたちが地上で御父を賛美する絶好の時ですから、この時間にわたしたちの霊を高めるように学ばなければなりません。
神は、「イスラエルの賛美」(詩22:3)の上に座しておられる方です。神の教会は、賛美に触れれば触れるほど、御座に触れます。人は、賛美に触れれば触れるほど、御座を認識します。次の詩歌の一節を読んでみましょう・・・
父よ、われらかしこみて、礼拝す。 なが子ら和合してつどいて、賛美ささぐ。 なが家にわれら帰りきて、 御子と共にアバ!と叫ぶ (詩歌49番)
この詩はとても良い詩歌であり、御子が多くの子らを導いて父を賛美しに行く感覚に触れています。これはとても貴重な詩歌です。
ヘブル人への手紙第2章で語られている集会は、最も良い集会です。わたしたちは今日ここで少し学び得るだけですが、ある日、天に行ってそのような集会をするでしょう。わたしたちは栄光に入る前に、長子が多くの子たちを導いて御父をほめたたえるとはどういうことか、教会の中で御父を賛美するとはどういうことかを、経験すべきなのです。これは、教会の集会が到達することのできる最高点であり、とても栄光あることです。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-25 | 初信者成就シリーズ
前回のメッセージでは集会の原則を述べました。集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16 この記事では、集会の実行について交わります。わたしたちが見たところによれば、聖書にはおよそ四種類の異なった集会があります。
- 福音を伝える集会
- パンさきの集会
- 祈りの集会
- メッセージを聞く集会
聖書から、当初の使徒の時代にはだいたい四種類の異なる集会があったことを知ることができます。今日、教会が強くなるためには、これらの集会の実行が必要です。それぞれの集会でわたしたちはみなどのように集まればよいかを学ぶ必要があります。
※ これらの4つの集会をひとつひとつ記事にしていきます。
Ⅰ. 福音を伝える集会
福音書においても使徒行伝においても、教会の当初の歴史の中でも、福音を伝える集会はとても重要な集会でした。第三世紀、第四世紀になって、教会が堕落した後、福音を伝える集会は徐々にその地位を失っていき、メッセージを聞く集会がそれに取って代わるようになりました。教会が強くなるためには、やはり福音を伝える集会の地位が回復されなければなりません。
教会が地上に存在するのは、それ自身を建て上げるためだけではなく、人にキリストを認識させるためでもあります。ですから、教会が内側で成就されることについて言えば、福音を伝える賜物は最後に置かれてもいいかのようです。しかし、教会が外に向かって発展するときには、福音を伝える賜物は第一に使われる賜物です。使徒行伝第8章でピリポがサマリヤに行ったのが、一つの根拠です。神はまず福音を伝える人を遣わして出て行かせ、彼らの賜物を活用させて、人を得、主に帰させました。ですから、わたしたちはいつもメッセージを聞くばかりという習慣を改めて、福音を伝える集会を重く見なければなりません。
もし兄弟姉妹が主を信じ、すぐに福音を伝えることを学ぶなら、いつもメッセージを聞くばかりで福音を伝える習慣がないということにはならないでしょう。福音を伝える集会では、わたしたちは自発的に活動する必要があり、他の人が救われても救われなくてもかまわずに座って聞くだけであってはなりません。
この福音を伝える集会は、全教会が働く集会であり、兄弟姉妹全員に責任があります。みなが前もって多くの祈りをし、比較的成長した、比較的賜物のある兄弟たちが立ち上がって福音の語り手となり、その他の兄弟姉妹は心を合わせて、語る兄弟たちのために祈り、彼らが力強く福音を述べ伝えることができるようにします。福音の語り手となる兄弟は二人あるいは三人でもいいでしょうが、三人以上になると多すぎて混乱しやすいでしょう。
Ⅱ. どのように実行するか
兄弟姉妹一人一人は、どのように福音を伝える集会に集まればよいでしょうか?
第一に、福音はあなたが聞くために伝えられるのではなく、信じていない人が聞くためであることをはっきりと認識しなければなりません。あなたは絶対に、傍観的で、冷淡な、非協力的な態度で集会に来てはいけません。話がうまいとか下手とかにこだわってはいけません。あなたの態度は、人を救うために協力するものでなければなりません。
第二に、すべての兄弟姉妹が出席するのが最も好ましいです。自分はもう救われているから福音集会に行く必要はないなどとは、決して考えてはいけません。集会には、福音を聞きに行くのではなく、何かをなしに行くのです。
第三に、福音集会のたびごとに、必ず人を連れて行かなければなりません。集会の前に、友人や親戚の所に行って彼らを誘っておきます。数日前、あるいは一週間、二週間前にあらかじめ行って、約束します。
第四に、人を連れて行ったら、必ずその人を集会の中で顧みなければなりません。
A. 彼の隣に座る
未信者が集会所に着いたら、その人はどこに座ったらいいのかわかりません。ですから、彼に教えてあげます。一人を連れて来たなら、あなたは彼の隣に座ります。二人を連れて来たなら、あなたは彼らの間に座ります。三、四人連れて来たなら、右に一人、左に一人か二人座ってもらいます。四人より多く顧みてはいけません。その時は、他の兄弟姉妹に顧みてもらいます。
B. 聖書の節や詩歌を探し、用語を解釈する
あなたは福音を聞く人と一緒に座っている時、多くの事柄をなすべきです。壇上で聖書が読まれている時、彼に代わって聖書の節を探してあげるべきです。福音を語る人が特別な名詞や言葉を語って解釈しない時、あなたはそれがどういう意味かを小声で彼に教えてあげなければなりません。あなたは隣にいて、福音の及ばないところを補う必要があります。
ある時、一人の兄弟が福音を伝える際、聴衆はとても多かったのですが、彼は「イスラエル人が出エジプトした事をみなさんはご存じでしょう」と話し出しました。別の兄弟がそばに行って彼に、この人たちはイスラエル人もエジプトも知らないことを告げました。この事は、壇上の兄弟は、未信者が聞いてわからないような話はしないのが一番良いということを見せています。それと同時に、座っている兄弟姉妹も、もしこのような状況に出くわしたなら、福音を聞きに来た人にごく簡単に解釈を付け加えて助けてあげなければなりません。「イスラエル人とはユダヤ人のことであり、エジプトは一つの国で、彼らはエジプトで奴隷になっていて、後になって出てきたのですよ」。
あなたはまた彼に詩歌を開いてあげます。多くの詩歌には、折り返しがあって、繰り返し歌うようになっていますから、それを導いてあげます。
C. 彼の反応に注意して彼のために祈る
さらに、主の御前での彼の反応がどうであるかに注意しなければなりません。壇上の兄弟が福音を伝えている際、もし隣に座っている人の反応が悪ければ、「主よ、彼の心を柔らかくしてください」とひそかに祈ったらよいでしょう。あるいは、この人は高ぶっていると感じたなら、「主よ、彼の高ぶりを打ち破ってください」と祈ればよいでしょう。教会が福音をうまく伝えられるかどうかは、すべての兄弟姉妹の状況にかかっています。もし兄弟姉妹が全員参加し、全員が動くなら、福音には道があります。
あなたは連れてきた人の状態についてはっきりするために、目を注いで注意し、彼のために祈りましょう、「主よ、彼の心を動かしてください。主よ、彼が理解できるようにしてください。主よ、彼を感動させてください。主よ、彼の高ぶりを取り除いて、聞けるようにしてください」。時にはあなたは、メッセージをする兄弟がこのような話をしてくれたらよいのにとか、あのようなことを言ってくれたらよいのにと感じるでしょう。その時には次のように祈ればよいでしょう、「主よ、壇上の兄弟がこの人の必要のためにこのような言葉を語れますように」。あなたは祈りによって隣の人を顧み、集会を支えます。これは重要なことです。
D. 彼が主を受け入れるのを助ける
あなたは彼が感動していると感じた時、彼が主を受け入れるように助けなければなりません。祈りをもって主の言葉を彼の心の中に送り込み、祈りをもって主の言葉を送り込んで彼の心を捕らえるのです、「主よ、この言葉を彼に聞き取らせてください。主よ、この言葉が強く彼の内側に入りますように。主よ、この言葉が光を発して、彼が見えるようにしてください」。
福音を語る兄弟がメッセージを締めくくっている時、彼を励まして言います、「この機会を逃さないでください。あなたが主を受け入れることを望みます」。彼はすでに感動しているのに、依然としてためらって決めかねている時、あなたは彼を少し助けてあげる必要があります。時にはわたしたちは人に勧めようとせず、サタンが妨げるに任せてしまいますが、それは駄目です。サタンは人の心の中で主を受け入れるのを邪魔しますが、わたしたちは人が心から主を信じるように押し出す必要があります。わたしたちは集会において、彼が救われるように助けなければなりません。壇上にいる兄弟が人に主を受け入れるように勧め励ましている時、この人の状況を見て、少しでも感動しているようなら、あなたは彼に働きかけて言います、「あなたは今、主を信じ受け入れるべきです。今、受け入れないなら永遠に苦しみますよ」。話す時、態度は厳粛で丁寧であってこそ、効果があります。
どうか一つの原則を覚えておいてください。わたしたちは人を救おうとする時、この人は救われるかどうかとか、この人は神が救いにあらかじめ定められた人かどうかなどと分析してはいけません。わたしたちはひたすら彼が救われることを願うのです。わたしたちは彼を主の御前にもたらさなければなりません。彼が救われなくても、決して手を放してはなりません。
E. 彼を導いて一緒に祈る
ここまできても、することはまだ全部終わっていません。さらに彼を導いて、一緒に祈る必要があります。あなた一人では力が足りないなら、別の兄弟か姉妹に手伝ってもらって祈ります。決していい加減に事を済ませてはいけません。平安を感じるところまで共に祈ってから、彼を見送ります。
F. 彼が救われるまで兄弟姉妹と共に訪問する
彼が家に帰った後、一回目に兄弟姉妹と共に彼を訪問するのはあなたの役目です。教会が人に訪問をお願いする時、あなたは組み合わされて、兄弟あるいは姉妹を連れて彼と話しをしに行きます。ある人は一回福音を聞いただけでは不十分であって、二回、三回と勧めなければなりません。この人が救われるまでずっと続けるのです。
わたしたちが回復に道を歩み、福音集会を一つの重要な集会とするよう、神が導いてくださいますように。この集会の中で、すべての兄弟姉妹になすべきことがあり、一人一人が生きており、各自がでたらめでなく、それぞれが自発的でなければなりません。このような状況になったら、ある日、教会の状態は大いに好転し、福音集会は全教会の働きの集会となります。
もしある地方の教会の人数があまり多くなければ、集会の状況はもっと簡単ですから、必ずしも前述のような細則にしたがう必要はありません。しかし、原則的には、各兄弟姉妹が福音集会を重んじて、この集会の中で一人一人が責任を担い、各自が自発的であり、心を合わせて福音を盛り上げ、人が救われるように導かなければなりません。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-18 | 初信者成就シリーズ
教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。
Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある
ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。
以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。
聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。
Ⅱ. 教会と集会
教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。
旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。
集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。
「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。
神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。
Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する
コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。
教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。
神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。
Ⅳ. 集会の原則
では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。
A. 主の名の中へと
集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。
なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。
B. 人を建造すること
集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。
ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。
ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。
これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。
自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。
Ⅴ. キリストの中で
最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。
コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。
ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。
コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。
この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。
A. キリストの中には存在しない5つの区別
ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。
1. ギリシャ人とユダヤ人
ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。
第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。
多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。
2. 自由人と奴隷
第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。
3. 男と女
第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)
4. 未開人とスクテヤ人
第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。
5. 割礼と無割礼
最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。
わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。
まとめ
わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-11 | 初信者成就シリーズ
クリスチャンにはどうしても解決しなければならない一つの問題があります。それは、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきかということです。わたしたちが人に対して罪を犯した場合ではなく、兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきでしょうか?わたしたちはどこまでなら赦すべきなのでしょうか?
聖書を正しく読むのであれば、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯すなら、わたしたちは彼を赦すだけでなく、彼を挽回しなければならないと言っています。消極面では赦しがあり、積極面では挽回があります。この記事では「赦し」と「挽回」について見ていきたいと思います。まずは「赦すこと」について見てみましょう。
Ⅰ. 兄弟を赦す
A. 赦すことが要求されている
マタイによる福音書第18章21節から22節は言います、「その時、ペテロが来てイエスに言った、『主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?七回まででしょうか?』イエスは彼に言われた、『わたしはあなたに七回までとは言わない。七回を七十倍までと言う。』」
ルカによる福音書17章3節から4節は言います、「あなたがたは気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。彼が悔い改めたなら、赦してあげなさい。彼があなたに対して一日に七度、罪を犯しても、あなたに七度、戻って、『悔い改めます』と言うなら、赦してあげなさい」。
マタイによる福音書は、兄弟を赦すのは七度だけでなく、七回を七十倍するまでと言っています。ルカによる福音書は、一人の兄弟があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と言ってくるなら、赦してあげなさいと言っています。彼の悔い改めが真実であっても嘘であっても、彼がそう言う限り、あなたは彼を赦さなければなりません。彼の真偽のほどはわたしたちの問題ではありません。わたしたちはとにかく彼を赦すべきです。
七度は多くありませんが、一日に七度なら少なくありません。その人が一日に七度あなたに向かって「わたしはあなたに対して罪を犯しました」と言うのです。こうであっても、あなたは彼が心から間違ったと告白していると信じることができますか?おそらくあなたは、口先だけであると言うでしょう。こういうわけで、ルカによる福音書第17章5節は言います、「使徒たちは主に言った、『わたしたちの信仰を増し加えてください』」。彼らは、これは難しいと感じたのです。しかし、神の子たちはこの種の状況下でもやはり赦すべきです。
B. 神の度量
主はマタイによる福音書第18章23節から27節で一つのたとえを引用しておられます、「こういうわけで、天の王国は、奴隷と清算しようとした王のようなものである。王が清算し始めると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れて来られた。しかし、彼は返済するすべがなかったので、主人は彼に、自分も妻も子供たちも、持っているすべての物を売って、返済するように命じた。そこで、その奴隷はひれ伏し、拝して、『どうか待ってください。必ず全部お返ししますから』と言った。すると、その奴隷の主人はあわれに思って、彼を釈放し、その負債を免除した」。
このしもべは神の御前で一万タラントの負債がありますが、これはとても大きな金額です。1タラントは約34kgの銀または金の重量を指します。新約聖書の時代では 1タラントは6,000デナリ相当でした。デナリは1日分の労賃なので、1タラントは約16年分の労賃に相当します。ですから、一万タラントは6000万デナリとなり、1日1万円の労賃とすると、6000億円相当となります。しかし、これは、デナリと比べた試算であり、もし現代の金の価値で計算するなら(金 1g=約1万)、3京6000兆円という数字になります。どちらにせよ、わたしたちは神の御前でこれほどの負債があるのです。わたしたちが神に対して持っている負債は、決して返すことのできないものであって、人に対する負債とは比べようもないほどです。どの神の子も、神に対する自分の負債について正当に評価して、はじめて兄弟に対する負債を大目に見て、赦すことができます。もしわたしたちが神の御前で受けた恵みがどんなに大きいかを忘れてしまうなら、大変な恩知らずになってしまうかもしれません。神に対する自分の負債がどんなに大きいかを、わたしたちは見る必要があります。それでこそ、わたしたちに対する他の人の負債には限りがあるのを、わたしたちは見ることができます。
C. 神の願い
神はわたしたちの上に願いを持っておられます。それは、恵みとあわれみにしたがって他の人を取り扱うということです。恵みが必要な人たちは、人に恵みを与えることを学ばなければなりません。
マタイによる福音書第18章28節から29節は言います、「ところが、その奴隷が出て行くと、自分に百デナリの負債のある奴隷仲間の一人を見つけたので、彼を取り押さえ、のどを締めて、『借金を返せ』と言った。その奴隷仲間はひれ伏して請い願い、『どうか待ってくれ。必ず返すから』と言った」。主はここでわたしたちに見せていますが、わたしたちの負債は一万タラントですが、他の人がわたしたちに借りているのは百デナリにすぎません。主はわたしたちを赦しただけでなく、その負債を免除してくださいました。あなたの仲間はあなたの兄弟ですが、彼はあなたに罪を犯しているとは言え、せいぜい百デナリの借金をしているだけです。彼もあなたに言いました、「どうか待ってくれ。必ず返すから」。彼はあなたと同じ願い、同じ要求をしているのですから、あなたはどうして彼を赦さないことができるでしょうか?
主はこのたとえを用いて、他の人を赦さない人は、神から見て何と理屈に合わないかを見せています。もしあなたがあなたの兄弟を赦さないなら、あなたはこの奴隷と同じです。わたしたちがこのたとえを読む時、この人は本当に筋の通らない人だと感じます。彼は何という「義」を説いているのでしょうか?クリスチャンは、自分を取り扱う時は義に基づいているべきですが、他の人を取り扱う時は恵みに基づいているべきです。もし兄弟が悔い改めると言い、それでも赦すことができないなら、恵みをもって人を取り扱っていないことを見せています。
31節から33節は言います、「奴隷仲間たちは、その起こったことを見て、非常に悲しみ、そして来て、起こったことすべてを残らず彼らの主人に説明した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った、『悪い奴隷だ。あなたがわたしに請い願ったから、わたしはすべての負債を免除してやったのだ。わたしがあなたをあわれんだように、あなたも奴隷仲間をあわれむべきではなかったか?』」。主はあなたを取り扱ったのと同じように、あなたが他の人を取り扱うことを望んでおられます。主は義にしたがってではなく、あわれみにしたがってあなたの負債を赦されました。ですから、主はわたしたちがあわれみにしたがって他の人をはかることを願われます。主が用いられたはかりで、あなたも他の人をはかることを、主は願っておられます。主は十分な升を用いて人にゆすり入れ、山盛りになるほどにあなたを恵まれます。神はあなたにも同じように他の人を恵んでほしいのです。
D. 神の懲らしめ
続けて34節は言います、「こうして主人は怒って、負債をすべて返すまで、彼を獄吏に引き渡した」。ここでこの人は神の懲らしめに入れられ、負債全部を返してしまうまで、神は彼を獄吏に引き渡されました。
35節は言います、「あなたがたもそれぞれ、心から自分の兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も、あなたがたにこうされるであろう」。これは厳粛なことです。わたしたちは一人も神の手に陥ることがないように望みます。人は、神が心から自分を赦してくださったように、兄弟を心から赦さなければなりません。神はわたしたちを寛大に取り扱われたのですから、あなたがたも他の人を寛大に取り扱うことを願っておられます。
Ⅱ. 兄弟を挽回する
わたしたちがただ兄弟を赦すだけでしたら、それは消極的でまだ不十分です。わたしたちはさらに彼を挽回する必要があります。
A. 彼自身に告げる
マタイによる福音書18章15節は言います、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい。彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。神の子たちの間では、互いに罪を犯すことがいつも起こります。もしある兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはどうすべきでしょうか?主は言われました、「行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい」。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一に別の人の所に行って告げるのではありません。別の兄弟姉妹に告げるのではなく、教会の長老に告げるのでもありません。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一にしなければならないことは、あなたに罪を犯した兄弟に直接告げることです。
多くの時、問題はここにあります。一人の兄弟が別の兄弟に対して罪を犯すと、被害を受けた兄弟はそれを言い広め、あちらへ行っては人に告げ、こちらに来ては人に告げ、言い広めて全教会がほとんど知ってしまったのに、罪を犯したその兄弟自身は何事かまだ知りません。このように人に告げるのは、弱者の行為です。第一に告げなければならないのは、その本人に対してであって、別の人に対してではありません。わたしたちがこの基本的学課をよく学ぶなら、教会は多くの問題を免れることができるでしょう。
それでは、どのように彼に告げたらよいのでしょうか?手紙を書くのでしょうか?主はこうは言っておられません。主が言われた告げる方法は、手紙を書くことではなく、面と向かって彼に言うことです。しかし、注意しなければならないことは、「あなたと彼との間だけで」言っていいということです。多くの神の子たちはこの点で失敗しています。言い換えれば、個人の罪は、あなたがた二人だけで対処するのであって、第三者は絶対に必要ありません。
ある兄弟姉妹は、このようにすることはとても面倒ではないかと言うかもしれません。確かに少し面倒ですが、あなたは主の言葉にしたがって行わなければなりません。もしあなたが、ある兄弟があなたに罪を犯したことがあまりにも小さいことで、本人に言う必要もないと感じるなら、別の人の所へ行って言う必要もありません。なすべきことは、本人に言うことであって、他の人に言う必要はありません。
B. 告げることの目的
15節後半は言います、「彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。これが告げることの目的です。本人に言う目的は、償いを得るためではありません。それは、もし彼が聞いてくれたなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
ですから問題は、あなたの損失がどれほど大きいかではなく、この兄弟があなたにこのように罪を犯したことで、もしこの件をはっきりと処理しなければ、彼は神の御前で歩んでいくことができなくなり、交わりに問題が生じ、祈りが妨げられるので、あなたは彼を訓戒しなければならないのです。これは、あなたが傷ついたと感じるかどうかの問題ではなく、あなたの責任の問題です。もしあなたが傷ついたと感じるだけで、あまり問題にはならないと感じるなら、放っておいてもよいでしょう。この件が軽いか重いかについて、あなた以上にはっきり知っている人はいません。この兄弟に言うべきかどうかを決定する責任は、あなたにあります。もし兄弟が誤りを犯し、主の御前で問題を持つに至ったなら、あなたはこのことが小さなことではないと知るべきです。機会を捕らえて、彼と二人だけの所で言うべきです、「兄弟よ、あなたがこのようにわたしに罪を犯したのは間違っています。あなたがこのようにわたしに罪を犯したので、あなたは神の御前で道を失い、神の御前で妨げを受け、大きな損失を被っています」。もし彼が聞いてくれたなら、あなたはあなたの兄弟を得たことになりますし、この兄弟を挽回したことになります。
兄弟があなたに罪を犯したら、罪を犯されたあなたは、罪を犯した兄弟を挽回する責任があるのです。彼が犯した罪が小さなものでないなら、あなたは彼の前途のために、彼に告げて、彼を必ず挽回する責任があります。また、方法を考えて、あなたの兄弟を得に行かなければなりません。行って語る時、態度は良くなければなりませんし、心は正しくなければなりません。目的は、あなたの兄弟を得ることです。もし心から彼を得たいと思うなら、彼の誤りをいかに指摘すべきかがわかるでしょう。訓戒する目的は、賠償させることでも、自分の感覚を救うことでもなく、あなたの兄弟を挽回することです。
C. 人に告げる時の正しい態度
もしあなたの目的が正しければ、手続きをどのようにしたらよいかがわかるでしょう。第一に、必ずあなたの霊が正しくなければなりません。次に、あなたが語る言葉、語る方法、態度、顔つき、声、口調もすべて正しくなければなりません。あなたの目的は彼を得ることであって、ただ彼に彼の誤りを知ってもらいたいだけではないからです。もしあなたたがただ彼を叱責しようとするのであれば、あなたの叱責が正しいとしても、あなたが話す最も重大な言葉が正しいとしても、あなたの態度や口調や顔つきは、あなたが彼を得たいという目的からはるかにかけ離れているかもしれません。
ある兄弟をすばらしいと言うことは簡単です。誰かをほめることも容易です。短気を起こすことも容易です。しかし、彼に彼の誤りを知らせ、また彼を挽回して彼を得ることは、恵みに満ちた人だけがなすことができます。自分が正しくても、高ぶらず、へりくだり、穏やかで、人に誤りを知らせることができるのは、これは自分を完全に脇に置いてはじめてなすことができます。
ある兄弟があなたに罪を犯すことを主が許されたなら、それは主があなたを認め、選び、重大な責任をあなたの上に置かれたことを、あなたは知らなければなりません。あなたは選びの器であり、神はあなたを用いて挽回の働きをなさりたいのです。
もしある兄弟があなたに罪を犯し、それがとても小さい事で、あなたが彼を赦して、その事が終わったなら、別の問題は残っていません。しかし、もしある兄弟があなたに罪を犯し、それが赦しがたいほどであれば、あなたは目をつぶって、無かったことにすることはできません。もしこれらの問題が解決されないなら、それは教会の重荷になってしまいます。この重荷は、教会の力もからだの命も奉仕者の働きも減少させてしまいます。人があなたに罪を犯した場合、目をつぶって知らぬ顔でいてはいけません。よくよく対処すべきです。しかしながら、霊が正しく、態度が正しく、言葉遣いが正しく、顔つきも正しく、口調も正しくなければなりません。こうであってはじめて、兄弟を得ることができます。
D. 他の人に告げる
16節は言います、「しかし、もし彼があなたに聞き従わなければ、一人か二人を一緒に連れていきなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるためである」。あなたが正しい方法で彼に語った後、もし彼が聞かないなら、あなたは他の人に告げてもいいでしょう。正しい方法、正しい態度で、柔和の霊を持って穏やかな語りかけをしたにも関わらず、彼が受け入れようとしない時、はじめて他の人に言ってもいいのです。
この一人か二人は、主にあって経験のある人、霊的な度量のある人でなければなりません。あなたは、あなたがた二人の間の事を彼らの前に置き、彼らにこの事柄がどうであるか、この兄弟が間違っているかいないかを見てもらいます。この一人か二人の兄弟は、あなたがたの事を神の御前で祈り、よく調べ、霊的な力で判断します。もし彼らも、この事は彼が間違っていると感じるなら、あなたと一緒に行ってこの兄弟に言います、「この事はあなたが間違っています。あなたがこのようにしていると、神の御前で道を失いますから、悔い改めて、誤りを認めてください」。信頼でき、誠実であり、霊的度量があり、主の御前で経験のある人を連れていきなさい。そうすれば、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるでしょう。
E. 最後に教会に告げる
17節は言います、「もし彼らに聞き従うことを拒むなら、教会に告げなさい」。あなたは一人で対処できなければ、一人か二人を連れて行って対処します。それでも彼が聞かないなら、教会に告げなければなりません。ここの教会に告げるとは、全教会が集まっている時、この事を取り出すということではありません。教会で責任を負っている長老に告げるのです。もし教会の良心も、この兄弟が間違っていると感じるなら、彼はやはり間違っているはずです。もしその兄弟が神の御前で生きているなら、自分の見方を放棄して、二人または三人の証しを受け入れるべきです。もし二人または三人の証しを受け入れないなら、少なくとも教会の裁定を受け入れるべきです。教会の一致した見方、一致した意見は、主のみこころであるに違いありません。
もしそれでも聞かないならどうしましょうか?17節は続けて言います、「もし彼が教会に聞き従うことも拒むなら、彼を異邦人や取税人のように扱いなさい」。これは厳しい言葉です。言い換えれば、もし彼が教会の裁定を受け入れないなら、教会のすべての兄弟姉妹はみな彼と行き来しないのです。彼はその問題を対処しようとしないので、教会は彼を異邦人や取税人のように扱い、彼と交わりを持つべきではありません。ここではまだ彼を除名するほどには至っていませんが、兄弟たちは彼を異邦人や取税人のように扱い、みな彼を相手にしません。彼が話してもだれも聞きません。彼がパンさきに来ても、だれも相手にしません。彼が祈っても、だれも「アーメン」と言いません。彼が来たければ来させますし、去りたければ去らせます。実際的に言って、もし神の子たちがこのような一致した態度を取るなら、とても容易に彼を挽回できるでしょう。このように彼を対処する目的は、やはり彼を挽回することです。
18節の言葉は前の言葉に基づいています。18節は言います、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」。教会がなすことは、主は天において承認しておられます。もし教会が彼を間違っていると見ているのに、彼が教会に聞かないなら、教会は彼を異邦人や取税人のように扱います。このことを主も天で承認されます。
19節と20節で言っている言葉も、前の部分に基づいています、「また、まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。これらの二人または三人は、16節の二人または三人です。彼らは主の御名の中へ集められていますが、教会そのものではありません。なぜなら17節は、もし問題があるなら、彼らはそれを教会に告げる必要がある、と言っているからです。
これらの二人または三人が地上で調和一致して求めるどんな事でも、父によって成就されるとは、兄弟を対処するという文脈で語られています。もし兄弟が、罪を犯した本人からの言葉を受け入れず、二人または三人の言葉も受け入れず、また教会の言葉も受け入れないなら、もう道はないかのようです。しかし、主を賛美します。主は、二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致して祈るなら成就されると言われました。主の言葉はわたしたちが兄弟を挽回することができることを示しています。
ここで一つの問題、すなわち教会がどのように重大な事柄を決定するかについて付け加えます。使徒行伝15章は言っていますが、兄弟たちが一緒に集まる時、誰でも語って構わないし、あらゆる話し合いをしてもよいのです。律法を守る人たちでさえ、立ち上がって彼らの主張を述べていいのです。たとえ彼らの主張が全く間違っていたとしてもです。言い換えれば、兄弟たちすべてに語る機会があります。しかし、兄弟たち全員が事柄を決定できるわけではありません。兄弟たちが神の御前ですべての感覚を語り尽くした後、長老たちがみなの話を聞き終えて、最後に神の御前での感覚を述べ、最後の決定を下します。責任を負う数人の兄弟たちが、神の御前で同じ感覚を持つなら、この感覚が教会の感覚であり、教会の良心です。彼らが語り終わった後、全員が服従し、心を合わせて彼らに従います。これこそ教会の方法です。決して人を抑圧して、話す機会を与えないのではありません。
決定を下す時は、長老たちが聖霊の管理の下で語り、兄弟姉妹は長老たちが語る言葉を聞かなければなりません。もし聖霊が教会の中で権威を持っているなら、これらの事柄はとても順調に解決されます。もし聖霊が教会の中で権威を持っていないなら、肉の意見が多くなって、教会は語ることができません。ですから、わたしたちは聖霊の権威に服し、教会の言葉に聞き従うことを学ぶべきです。
まとめ
もしあなたが兄弟に罪を犯されたなら、主はあなたに彼を「赦すこと」と「挽回する」ことを求めておられます。まずわたしたちが、神に赦され、あわれみを受けた者であることを見る必要があります。神は、主イエスを賜り、わたしたちのすべての負債を赦してくださいました。
また、兄弟を赦すだけでなく、彼を挽回しなければなりません。まず、罪を犯したことを直接彼に告げます。もし、彼がこの言葉を受け入れなければ、信頼でき、霊的度量があり、経験のある兄弟に告げます。もし、これらの兄弟の言葉も受け入れなければ、教会に告げます。これはその地方の教会の責任を負っている長老に告げるということです。
どうか神がわたしたちに恵みを賜り、わたしたちを主と同じように恵みのある人にしてくださいますように。もし兄弟がわたしたちに罪を犯すなら、心から彼を赦しましょう。それだけでなく、さらに自分の責任を果たし、主の言葉にしたがって彼を挽回しましょう。どうか神がわたしたちを導いてくださり、教会の中でこのような生活を生きることができるようにしてくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-04 | 初信者成就シリーズ
「祈っているのに答えがない…」。もしあなたがこのように悩んでいるなら、それは賛美をする時です。賛美は、神の子たちの最高の働きです。あるいは霊的命の最高の表示が神を賛美することであると言ってもよいでしょう。神の御座は宇宙の中で最も高い所にあり、神は「イスラエルの賛美の上に座しておられる」(詩篇22:3 原文)のです。神の御名、神ご自身は、賛美によって高く挙げられるのです。
ダビデは詩篇の中で、一日に三度神に祈ると言いました(詩篇55:17)。また、一日に七度、神を賛美するという詩も書きました(詩篇119:164)。ダビデは聖霊に感動されて、賛美がいかに重要なことであるかを告白したのです。祈りは一日に三度ですが、賛美は七度です。こればかりでなく、彼はまたあるレビ人たちを任命して、神の契約の箱の前で、シンバルを鳴らさせ、琴を弾かせ、神をあがめ、感謝し、ほめたたえました(歴代上16:4-6)。ソロモンがエホバの宮のすべての工事を終えた時、祭司たちは契約の箱をかついで至聖所に入りました。祭司たちが聖所から出てきた時、歌を歌うレビ人たちがいて、祭壇のそばに立ち、ラッパを吹き、歌を歌い、さまざまな楽器をもって、声を張り上げ、神を賛美しました。その時、エホバの栄光が神の宮を満たしました(歴代下5:12-14)。ダビデとソロモンは神のみこころに触れて、神に喜ばれる賛美をささげたのです。エホバはイスラエルの賛美の上に座しておられるのですから、わたしたちは生涯、神を賛美し、わたしたちの神をほめたたえるべきです。
Ⅰ. 賛美のいけにえ
聖書は賛美に多くの注意を払っており、またとても多く出てきます。その中でも、詩篇は多くの賛美の言葉で満ちています。詩篇は旧約の賛美の書です。多くの人の賛美は、この詩篇から採られたものです。しかし、詩篇は単に賛美の書であるだけでなく、苦難の書でもあることに注意してください。神が特にわたしたちに見せたいのは、賛美する人とは、神によって苦難な状況を通らせられ、傷ついたと感じている人たちであることです。多くの聖徒たちが神によって暗やみへと導かれ、人に捨てられ、悪く言われ、迫害されました。「あなたの波とあなたの大波はみな、わたしの上を超えて行きます」(詩篇42:7)が、それによってこの人たちの上で神は賛美を得られたのです。賛美の言葉は順調な人の口から出てくるのではなく、訓練を受け、試みを受けた人の口から出てくるのです。詩篇では、最も傷つけられた感覚に触れることができ、またそれゆえに詩篇では、賛美の声は最も大きく、また最も高いのです。神の民が多くの患難、多くの苦しみ、多くの非難を通る時に、神は彼らの上で賛美を造り出し、彼らにそのような環境において神の御前で神を賛美する人となることを学ばせるのです。
ですから、一番喜んでいる人の賛美の声が一番高いのではなく、常に神の御前で困難を通っている人たちの賛美が最高なのです。そしてこのような賛美が、最も神に喜ばれ、最も神の祝福を受けるのです。神が人を高い山に立たせて、顔をカナンに向かわせ、約束の地を見せる時、そこに賛美の声があるだけでなく、人が「死の陰の谷を歩む」(詩篇23:4)時にも、詩を書くことができ、賛美することができることを願っておられます。これが神の賛美です。
このことは、神の御前での賛美の性質はどのようなものであるかを見せています。賛美の性質は一つのいけにえ、一つの犠牲です。言い換えるなら、賛美とは、患難や苦難の中から出てくるものです。ヘブル人への手紙第13章15節ではこのように言っています、「ですから、彼を通して、絶えず賛美のいけにえ、すなわち、御名を言い表す唇の実を、神にささげようではありませんか」。いけにえとは何でしょうか?いけにえとは犠牲であり、死と損失があるのです。いけにえをささげる人は、損失があってはじめてささげることができます。元々ここの一頭の牛や羊はあなたのものでしたが、今日それをささげてしまえば、この一頭の牛あるいは羊をあなたは犠牲にしたことになります。ささげることは、得ることではなく、失うことです。
聖徒たちが賛美をささげる時には、失ったものを一つのいけにえとして神にささげるのです。言い換えれば、神があなたを傷つけ、あなたを砕き、あなたを深く切り裂く時、あなたに神の御前に来て賛美して欲しいのです。このように自分が傷つけられて神に賛美を得させる行為、これがいけにえです。神は、このようにしてご自身を賛美する人を喜ばれるのです。神はこのような賛美を御座とすることを喜ばれます。神はどのような賛美を得たいのでしょうか?神は、神の子たちが自分の損失したものをもって神を賛美することを願われます。何かを得た時に賛美するのではありません。もちろん、これは賛美ですがいけにえではありません。いけにえの原則は、損失に根拠があり、いけにえには損失という性質がなければなりません。神は、わたしたちが損失を受けてもなお賛美できることを願われます。
わたしたちは神の御前で祈るだけでなく、神の御前で賛美する人となることを学ぶべきです。あなたはどこにいても絶えず神を賛美すべきです。ダビデは神の恵みにより、一日に七度神を賛美しました。わたしたちが毎日賛美できるとしたら、これはとてもよい学びであり、とてもよい学課であり、とてもよい霊的訓練です。朝早く起きた時に神を賛美し、何か事に出くわした時に神を賛美し、集会の時に神を賛美し、一人でいる時に神を賛美することを、わたしたちは学ぶべきです。一日に少なくても七回神を賛美すべきです。
あなたが主の御前で賛美することを学んでいる時、ある日、賛美が出てこなくなるでしょう。今日は七度神を賛美することはでき、昨日も七度神を賛美することができたでしょう。その前の一週間は神を賛美することができましたし、その前の一ヶ月間も、神を賛美できたでしょう。しかし、ある日賛美することがなくなるのです。なぜなら、その日は苦しい日であり、一筋の光もなかった日であり、とても良くないことがあった日であり、多くの無実の罪を着せられ、多く非難された日なので、涙を流しても足りないのに、神を賛美することなどできるはずがないと思っているのです。その日になると、あなたは自分の受けた傷、苦痛、苦難のゆえに、賛美することができないでしょう。それどころか、賛美よりもつぶやきたいと自然に感じ、神の御前で感謝ではなく不平を言うことでしょう。賛美したいなどとは思わず、賛美する心さえないでしょう。そのような環境の中で、そのような心境で賛美することはふさわしくないと感じるでしょう。そのような時、あなたは思い出す必要があります。エホバの御座は変わらないし、主の御名も変わらないし、主の栄光も変わらないのです。あなたは彼を賛美すべきです。なぜなら、彼は当然賛美を受けるべき方であるからです。あなたは彼をほめたたえるべきです。なぜなら、彼はほめたたえられるべき方であるからです。あなたは苦難に遭っているでしょうが、彼はやはり賛美を受けるべき方です。あなたは困窮しているかもしれませんが、神を賛美しなければなりません。そのような時にこそ、あなたの賛美は賛美のいけにえとなるのです。あなたの賛美は最も肥えた子牛を引いてきてほふるかのようであり、またあなたの愛するイサクを縛って祭壇の上にささげるかのようです。あなたは涙を流してそこで賛美します。これが賛美のいけにえです。いけにえとは、傷つけられること、死、損失、犠牲です。あなたが神の御前で傷を受け、死に、損失を被り、犠牲がある時、あなたが神の御座は天に堅く定まっており、永遠に揺り動くことがないことを見るなら、神を賛美せざるを得ないでしょう。これが賛美のいけにえです。神はご自分の子たちがどのような事においても、どのような状況の中でも、よくよく神を賛美するのを喜ばれます。
Ⅱ. 賛美と勝利
これまで賛美が一つのいけにえであることを見てきました。それだけでなく、賛美がわたしたちの霊的戦いに勝利を得る方法であることを見る必要があります。しばしばある人は、サタンの最も恐れるのは神の子たちの祈りであり、いつであれ神の子たちがひざまずいて祈る時にサタンは逃げ去るのであって、だからサタンはいつも神の子たちを攻撃して祈れないようにすると言います。これは通常の攻撃にすぎません。わたしたちが知る必要があることは、サタンが最も攻撃するものは祈りではなく賛美であるということです。サタンは色々と悩まし、祈りはそんなに簡単ではないと感じさせます。これは確かに事実です。しかし、サタンは祈りを攻撃するだけでなく、神の子たちの賛美をさらに攻撃します。祈りは多くのとき戦いですが、賛美は勝利なのです。祈りは霊的戦いですが、賛美は霊的勝利です。いつであれ賛美する時、サタンは必ず逃げ去ります。ですから、サタンは賛美を最も憎み、できることなら全勢力を費やしてでもわたしたちが賛美できないようにしようとしているのです。神の子たちが愚かであれば、自分の環境を見、自分の感覚を見て、賛美をやめてしまいます。神の子たちが神を認識すればするほど、ピリピの獄中でさえ歌うことのできる場所であることを見るでしょう(使徒16:25)。パウロとシラスはそこで神を賛美していた結果、獄の扉がみな開いてしまったのです。
使徒行伝には、獄の門が開いた例が二つあります。一度はペテロの上で、もう一度はパウロの上でです。ペテロの時には、教会が彼のために熱心に祈った結果、御使いが門を開き、ペテロを連れ出しました(使徒12:3-12)。パウロとシラスの場合、彼らは神を賛美していたところ、獄の扉が全部開き、鎖がすべて解けてしまいました。その日、全家族が救われて喜びました(使徒16:19-34)。そこには、獄の中で賛美のいけにえをささげている人たちがいました。体の傷はまだ良くなっていませんし、その痛みも止まっていません。しかも両足にはかせがはめてあり、ローマの獄の中に閉じ込められていたのです。どうして喜ぶことができるでしょうか?どうして歌うことなどできるでしょうか?しかし、そこにいた二人の霊はとても高く引き上げられ、すべてを超越していました。彼らは、神が天に座しておられ、変わることがないことを見ていました。自分たちは変わるし、その環境も変わるし、その感覚も変わります。しかし、神はやはり御座に座しておられ、ほめたたえられるにふさわしい方です。そこで、兄弟パウロとシラスは祈り、歌い、神を賛美しました。このような賛美は、彼らの苦痛から出てきたものであり、このような賛美がいけにえなのです。このような賛美がまた勝利でもあるのです。
あなたは祈る時、その境遇の中にいますが、賛美する時はその境遇の上に立ってしまっているのです。わたしたちがそこで祈り、切に求めている時は、まだその事の中におり、出てきていません。あなたが神の御前で切に求めれば求めるほど、その事に縛られてしまい、その事があなたの上にのしかかってくるのがわかるのでしょう。しかし、もし神によって引き上げられて、獄を超越し、鎖を超越し、体の傷の痛みを超越し、その苦痛と恥辱を超越するなら、その時に声を上げて神の御名を歌いほめたたえることでしょう。パウロとシラスが歌ったことは、神の御前で賛美の言葉を歌っていたことです。彼らは、獄など問題にせず、恥辱も苦痛も問題にならないところまで神によって導かれたので、神の御前で賛美することができたのです。彼らがそのように賛美した時、獄の扉はすべて開き、鎖は落ち、獄吏も救われたのです。
多くの時、祈ることはできないのですが、賛美はできます。これは基本的原則です。もし祈ることができないなら、なぜ賛美しないのですか?主はもう一つのものをわたしたちの手の中に置いて、勝利を得させ、勝ちどきを上げさせてくださるのです。祈る力がなく、霊がとても圧迫され、完全に傷つき、息ができないほどあえぐ時、神を賛美してみてください。祈る事ができれば祈り、祈れなければ賛美してください。わたしたちは、荷が重い時に祈り、荷が取り去られる時には賛美すると思いがちです。しかし、多くの時、荷が重くて祈ることができない時こそ、賛美すべきなのです。荷がなくなってから賛美するのではなく、荷が最も重い時に賛美するのです。もし大変な事に遭い、問題が多すぎて、全身が麻痺してしまったようになり、どうしていいかわからないような時、「なぜ賛美しないのですか?」という言葉を思い出してください。それはとても良い機会なのです。すなわち、そのような時に賛美するなら、神の霊が働いてあなたを導き、すべての門を開き、鎖を全部取り去ってくださいます。
わたしたちは、この高く超越した霊、攻撃を超越した霊を維持することを学ばなければなりません。祈りではいつでも御座に触れることができるとは限りませんが、賛美ではどんな時であっても必ず御座に触れることができます。祈りでは毎回勝利することができるわけではありませんが、賛美は初めから終わりまで一度も失敗はありません。神の子たちは、物事がなく、感覚がなく、傷がなく、問題がない時に口を開いて賛美するだけでなく、特に問題のある時や、傷つけられた時こにこそ、もっと賛美すべき時なのです。そのような時、あなたは頭を上げて、「主よ!あなたを賛美します!」と言ってください。目から涙が流れるでしょうが、口は賛美することができます。心は傷ついていても、霊は賛美することができます。最も愚かな人は、つぶやく人です。つぶやけばつぶやくほどその中に埋もれ、不平を言えば言うほどその中に落ち込み、困難に圧迫されればされるほど息もつけなくなるでしょう。少し進んだ人たちは、問題に遭う時に祈るでしょう。彼らはそこで奮闘努力し、そこから抜け出そうとします。環境は彼らを埋めてしまおうとし、感覚も彼らを埋めてしまおうとします。彼らは埋められたくないので、祈りによって脱出しようとします。しかし、多くの時、祈りも脱出させることができません。彼らが賛美する時にやっと脱出するのです。あなたが自分自身を勝利の地位に置けば、すぐにすべてのものを超越し、どんな問題もあなたを埋めてしまうことはできないでしょう。
歴代志下第20章20節から22節を見ましょう、「彼らは朝早く起きて、テコアの荒野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立ち上がって言った、『ユダと、エルサレムの住民よ、わたしに聞きなさい。エホバ・あなたがたの神を信じなさい.そうすれば堅くされる.彼の預言者を信じなさい.そうすれば成功する』。彼は民と相談して、エホバに歌い、聖なる飾り物を着けて感謝をささげる者たちを立てた.彼らは軍勢の前に出て行って、こう言った、『エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く』。彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。ここには戦いがあります。ヨシャパテがユダの王となった時、ユダ王国はすでに傾きかけていて、とても弱く、すべては惨めな状態にありました。モアブ人、アンモン人、セイル山の人々がユダの人々を攻めに来た時、ユダの人々は全く希望を失い、打ち破られて滅亡してしまうに違いないと思いました。ヨシャパテは復興された王であり、神を畏れる人でした。もちろん最後の時期のユダの王ですから、それほど完全ではなかったとしても、彼はやはり神を求めた人でした。彼はユダの人々に、神を信じるべきであると言いました。そして、歌を歌う人を任命して、主を賛美させたのです。この歌を歌い、主を賛美する人たちに、聖なる飾り物を着けさせ、前に進ませ、主を賛美させて、「エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く」と言わせました。
次の節の中の「賛美し始めたとき」という言葉に注意してください。これはとても尊い言葉です。「彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。「賛美し始めたとき」とは、彼らが歌を歌い、主を賛美しているちょうどその時に、主が立ち上がってアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を殺されたということです。わたしたちは、賛美ほど主の御手を動かすものはないと言わなければなりません。主の御手を動かす最も早い方法は祈ることではなく、賛美することです。これは祈りが不必要であると言っているのではありません。やはり祈る必要があります。しかし、多くのことで賛美して勝利する必要があるのです。
わたしたちがここで見るのは、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。わたしたちは賛美によってサタンに勝利することを学ばなければなりません。ここでの特別な原則は、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。
神の子たちの多くはとても厳しい試練を常に受けています。試練が厳しく、戦いが激しい時は、ヨシャパテのように道がないかのようです。自分を見、環境を見れば、最大の試練です。しかし、神を認識している人は、試練を受ければ受けるほど主を仰ぎ、また賛美することを学びます。そうすれば、頭を上げて主に言うでしょう、「主よ!あなたはすべてを超越しておられる方です。あなたを賛美します!」このような賛美のいけにえは神の御前で効力のあるものです。賛美する時、あなたは勝利の道がどんなに大きいかを見るでしょう!
わたしたちは賛美の学課を学ぶ必要があります。困難に遭う時は、神があなたの手段を禁じ、あなたの計略を差し止めてくださり、賛美の学課を学べるようにあわれみを求めましょう。戦いがどれほどあっても、すべて賛美によって勝利することができます。勝利できないのは、賛美に欠けているからです。もし困難の中にあっても神を信じるなら、このように言ってください、「あなたの御名を賛美します。あなたはすべてにまさって高く、すべてにまさって強く、あなたの慈しみはとこしえに絶えることがありません!」。神を賛美する人はみな、すべてを超越していますから、賛美によってずっと勝利し続けることができるのです。これが原則であり、事実です。
Ⅲ. 信仰が賛美を生む
詩篇106篇12節の言葉はとても尊いです、「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った」。これはイスラエル人が荒野にいた時の情景です。彼は信じたので、歌いました。彼らは信じたので、賛美しました。賛美には信じるという基本的な内容があります。困難がある時にあなたは祈り、また悩みがある時に祈るでしょう。祈りが一定の時に達すると、信じることができるようになり、そうすれば口を開いて賛美するでしょう。あなたは立って、困難に対してもサタンに対しても、口を開いて「主よ!あなたを賛美します!」と言うなら、感覚がなかったのにあるようになり、ほんのわずかの信仰も満ち溢れるようになります。わたしたちは何かが終わってから、達成されてから賛美するのではなく、信じた時に賛美するのです。敵が逃げ去って歌うのではなく、歌うことで敵を追い払うのです。信じてはじめて賛美できます。それから勝利が来るのです。
Ⅳ. 服従が賛美を生む
わたしたちの問題はたいてい二種類あります。一つは、環境や出来事の中の問題であり、ヨシャパテのような問題です。これには、神を賛美することによって打ち勝ちます。もう一つは、わたしたちの内側の問題であり、ある人の言葉によって傷つけられるとか、ある人がわたしたちにすまないことをしたとか、欺いたとか、理不尽に扱ったり、逆らったり、理由なく恨んだり、根拠なく非難したりして我慢できないとか、赦せないようなことです。これは個人が勝利する問題です。
ある兄弟があなたに言うべきでないことを言ったとします。それは辛いことです。全身がもがき、全身が不平を言い、全身がつぶやいているかのようです。あなたは赦すことは何と難しいことであり、寛容であることは何と難しいことであり、打ち勝つことは何と難しいことであるかと感じます。罪を着せられ、非難され、迫害されて内側ですっきりしない時には、祈りはあまり効果がありません。その気持ちは防ぎ止めようと思っても止まらず、もがいてももがき切れないのです。この圧迫を拒絶しようとすればするほど、駄目になります。
覚えておいてください。このような個人的な問題にぶつかり、ひどく罪を着せられる時は、祈る時ではなく、賛美する時です。こうべを垂れて主に、「主よ、感謝します。あなたのなさることに間違いはありません。わたしはあなたの御手からこれを受け取ります。感謝します。あなたの御手からいただいたこのことのゆえに、賛美します」と言うべきです。もしこのようにするなら、すべてが過ぎ去ってしまうでしょう。勝利は、自分が肉と争って人を赦そうとして、そのために力を尽くすことによるのではなく、こうべを垂れて、主を賛美して、「主よ、あなたの道を賛美します。あなたがわたしのために備えられたものに間違いはありません。あなたがなさることはすべてすばらしいのです」と言うことによります。傷つけられたと思っている人は賛美の少ない人です。これこそ服従から生まれる賛美のいけにえです。
Ⅴ. はっきりと理解する前に賛美する
詩篇50篇23節は言います、「だれでも感謝の犠牲をささげる者は、わたしに栄光を帰する」。ここの「感謝」は「賛美」とも訳せます。主はわたしたちの賛美を待っておられます。賛美ほど神に栄光を帰するものはありません。ある日、すべての祈りは過ぎ去り、すべての働きも過ぎ去り、すべての預言者の言葉も過ぎ去り、すべての労苦も過ぎ去るでしょう。しかしその日、賛美は今より増すでしょう。賛美は永遠に続き、永遠にやむことはないでしょう。ですから、最も良い学課は、今日の時に神を賛美することを学ぶことです。
今日わたしたちは鏡に映すように見ており、おぼろげであまりはっきりしてはいません(Iコリ13:12)。多くのことで少しは見ることはできても、その中の意味は何であるかをはっきりと知り尽くすことはできません。わたしたちの遭遇すること、経過すること、内側で受けた傷であろうと、外側の状況の困難であろうと、わたしたちは苦しさを感じるだけで、その意味がはっきりとわからないので、賛美できないのです。天上で多くの賛美があるのは、天上には完全な認識があるからだと信じます。認識が完全であればあるほど、賛美も完全になります。
わたしたちが主の御前に行く日には、すべてのことがはっきりするでしょう。その日には、どの聖霊の管理もすばらしい意図があったことを見るでしょう。わたしたちはこれらを見る時、こうべを垂れて、賛美し、「主よ、あなたには間違いがありません」と言うでしょう。あの時、病気になっていなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。あの時、失敗していなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。その日になれば、なぜ主がこのような目に遭わせたのかがわかるでしょう。その日になれば、頭を下げて言うことでしょう、「主よ、わたしは愚か者です。あの日には賛美しませんでした。わたしはあの日、あなたの前で感謝しなかった愚か者です」。その日になってはっきりわかってから、どんなにつぶやいたかを思って、どれほど悔やむことでしょう。ですから今日、「主よ、あなたのなさることは、わたしにはよくわかりません。しかし、わたしはあなたのなさることに間違いはあり得ないことを知っています」と言うことを学びましょう。
エホバは彼のすべての道において義であり、彼のすべての行ないにおいて慈しみがあります。 詩篇145篇17節
わたしたちの賛美は彼の栄光です。賛美することは、神に栄光を帰することです。神は栄光を受けるべき方です。どうか神がご自身の子たちから多くの賛美をお受けになりますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-04-27 | 初信者成就シリーズ
わたしたちは主を信じた後、必ず罪を告白する習慣、負債を償う習慣を持つべきです。もしだれかに対して罪を犯すなら、あるいはだれかに損害を与えるなら、罪を告白する、あるいはそれを償うことを学ぶべきです。一方で、わたしたちは神の御前で罪を告白しなければなりません。そして他方では、人に対しても罪を告白したり、償ったりしなければなりません。もしこの両方を行わないなら、この人の良心は容易に神の御前でかたくなになってしまいます。良心がかたくなになってしまうと、神の光がその人を照らすのが難しくなってしまいます。
主の働きをしていたある兄弟は、いつも次のように人に聞いていたものです、「あなたが最後に人に対して罪の告白をしたのはいつですか?」。もしその人が最後に罪の告白をしてから長い時間が経っており、それが数年になるとしたら、その人の良心はきっと問題があることでしょう。なぜなら、わたしたちはしばしば人に対して罪を犯してしまうものですが、もし罪を犯しても何の感覚もないとすれば、これはその人の良心が病気であり、正常でない証拠です。わたしたちが神の光の中で生きようとする時、感覚のある良心が必要となります。なぜなら、良心の感覚があれば、神の御前で継続して罪を罪とすることができるからです。
もしその罪がただ神に対するもので、人とは関係がないなら、人に対して罪を償う必要はありません。わたしたちは度を越してまでするべきではありません。どのような兄弟姉妹であれ、その犯した罪がただ神に対するものであって、人とは関係がない場合は、神に罪を告白すればよいのであって、人に罪を告白する必要は決してありません。
それでは、どのような罪が人に対する罪なのでしょうか?また人に対して罪を犯し、損害を与えた時は、どのようにして罪を告白し、負債を償えばよいのでしょうか?これらを詳しく見ていきましょう。
Ⅰ. レビ記第六章にある違反のためのささげ物
違犯のためのささげ物には二つの面があります。レビ記第5章で記されているものと、第6章で記されているものです。第5章では、こまごまとした罪に関して、神の御前で罪を告白し、ささげ物をささげて、赦しを請うべきことを言っています。第6章では、もし何か物質的に人に対して罪を犯すなら、神の御前にささげ物をするだけでは不十分で、その罪を犯した相手に対して弁償すべきであることを言っています。レビ記6章の違犯のためのささげ物の記述から見ることができますが、もしわたしたちが物質的に人に対して罪を犯したなら、その人のところに行って、その罪を取り扱うべきです。もちろん神の御前に行って罪を告白し、赦しを請うべきですが、ただ神の御前で取り扱うだけで、人の前に行って対処しないなら、対処したことになりません。神に対して、その相手に代わって自分の犯した罪を赦してくださるように求めるわけにはいかないのです。
A. 人に対する違犯である罪
レビ記第6章2節から7節は言います、「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行うなら」(すべての罪は、究極的にはエホバに対する違犯です)、「すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行うどれかについて罪を犯すなら、この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される」。ここから、人が物質的な事柄において誰かに対して罪を犯したり、違犯を犯すなら、それを人の前で解決しなければなりません。
次の六つの節は、人に対する六種類の違犯を述べています。第一に、隣人から預かった物について欺く場合です。わたしたちは人から預かった物について欺くべきではないばかりか、むしろ誠意をもって保管すべきです。第二は、担保の品について欺くことです。これは物の売り買いについて欺くとも言えます。これは正当でない手段を使って自分の利益を図り、本来自分のものとはならないはずのものを自分のものにしてしまうことです。第三は、人の財産を奪うことです。他の人の物を自分の物とすることは罪です。第四は、隣人をしいたげることです。人が地位や権力を用いて他の人を圧迫し、自分に都合よくしてしまうことは罪です。第五は、落とし物を拾い、それについて欺くことです。クリスチャンは人のものを拾うべきではありません。もし拾うなら、本人に代わって保管し、何とかしてそれを本人に返す手立てを見つけなければなりません。第六に、偽って誓うことです。明らかに知っているのに知らないと言い、明らかに見ているのに見ていないと言い、明らかに有るのに無いということなどは偽りの誓いをすることです。
ここでの罪はすべて、物について人に借りを作ることを指して言っています。神の子たちとして学ぶべき基本的なことは、他の人のものを自分のものにしてはならないということです。これらの罪はよくよく対処しなければなりません。
B. どのようにして返済するか
わたしたちは神の御前で正しい行いと、咎めのない良心を保持することを学ばなければなりません。ここで神の言葉は、「この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品・・・を返さなければならない」と言っています。神の御前で「なだめられた」から十分であると思ってはなりません。人に対して「返す」ことがなければ、十分ではありません。返してはじめて十分なのです。
それでは、どのようにして返したらよいのでしょうか?5節は言います、「元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。」ここには注意すべき点が三つあります。
第一は、残りなく償うことです。これは必ずすべてを返済しなければならないということです。第二は、残りなく返済することに五分の一を加えるということです。原則は、余るほど十分に返済しなければならないということです。神はご自分の子たちがただ最低限度をするだけでは満足されません。負債を償う時は、けちけちするのではなく、余裕をもって十分にすべきです。五分の一を加えることは、人に罪を犯すことは損失を被ることであることを思い知らせます。このことを見るなら二度と同じことをしないでしょう。
第三は、このように罪を告白することや返済することは、早ければ早いほどよいのです。ここでは、「彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない」と言っています。あなたは過失が明らかになったその日に罪を告白し、返済すべきです。遅らせてはいけません。
このように返済してもまだ十分ではありません。6節は言います、「この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない」。ですから、その人に罪を告白し、償いをした後、やはり神の御前に行って赦しを求めなければなりません。レビ記第5章の違犯のためのささげ物は、物質的には人に負債を負っていないので、ただ神の御前に出てそれを対処すれば十分でした。しかしレビ記第6章は人に対して負債のある場合ですから、人の前ではっきりと対処してはじめて、神の御前に出て赦しを求めることができます。まだはっきりと対処していないのに、神の御前に出て赦しを求めることはできません。
これは浅薄なことであると思ってはいけません。わたしたちの天然の性質は極みまで堕落しています。もし少しでも不注意であるなら、容易に罪を犯してしまうでしょう。ですから、これは一生の間ずっと注意していなければならないことです。
Ⅱ. マタイによる福音書第五章の教え
次に、マタイによる福音書第5章を見ましょう。マタイによる福音書第5章とレビ記第6章で述べられていることは、異なっています。レビ記第6章で述べられているのは、完全に物質的な負債についてであり、マタイによる福音書で述べられているのは、単なる物質的な負債以上のことです。
マタイによる福音書第5章23節から26節は言います、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい。そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。ここで言っている一コドラントとは、単に物質的なものを指すのではなく、その負い目について語っているのです。
主は言われます、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、・・・」。これは特に神の子たちの間でのこと、兄弟と兄弟との間のことについて述べています。あなたが神に対してささげものをしようとする時、突然、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いているのを思い出します。この「思い出す」とは、神があなたに与えた導きです。多くの時、この種のことについて、聖霊は必要な思いをあなたの内に置きます。これを単なる思い込みだと思ってはなりません。そのことを思い出したなら、直ちにしっかりと対処しなければなりません。
もし兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出したなら、それはあなたに何か負い目があるからに違いありません。兄弟に対する負い目とは、物質上でないことかもしれません。もしかすると、気がつかないうちに彼に罪を犯したのかもしれません。ここでのポイントは、他の人に恨みを抱かれているということです。
これをよくよく理解していただきたいのですが、もしだれかに罪を犯したのに、過ちを認めず、赦しを求めなければ、その相手の人が神の御前であなたの名前を挙げてため息をつくだけで、もうあなたは終わりです。なぜなら、あなたが神にささげたものはすべて受け入れられませんし、あなたがささげる祈りもすべて聞かれないからです。もしあなたが一つのことを行い、それが誤りであり、不義であって、他の人に罪を犯し、他の人を傷つけてしまうなら、その人は神の御前に行ってあなたを訴えることをしなくても、神の御前に行って一言、「ああ、あの人は」と言うだけで、あなたのささげものはすべて受け入れられないものとなってしまいます。
もし、あなたがこのことを思い出したなら、「まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。」です。これは兄弟と和解しなければ、あなたの神へのささげものは永遠に受け入れらないことになるということです。
ですから、軽々しく人に罪を犯してはなりません。特に、兄弟姉妹に対しては軽々しく罪を犯してはなりません。主のここでの一句は非常に重要です、「あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい」。わたしたちは、神の裁きの御座へと向かっています。今日わたしたちはみなこの道の途中にいます。彼はまだ世を去っていませんし、あなたも世を去っていません。ですから、早く彼と和解しなければなりません。ある日、あなたがここにおらず、この道からいなくなり、あるいは彼がここにおらず、この道からいなくなるその日が容易に訪れるからです。救いの門は永久に開いているのではありませんし、兄弟たちが互いに罪を告白しあう門も永久に開いているのではありません。
それに引き続いて、主は人の言葉を用いて語っておられます、そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。「裁判官に引き渡し」とは、キリストが再来される時、彼の裁きの座の前で起こります(Ⅱコリント5:10)。裁判官は主であり、役人は御使いであり、獄は懲らしめの場所です。ローマの一コドラントは、一アサリオンの四分の一に当たる小さな銅の貨幣であって、日本円で一円に等しいです。ここの意味は、最も小さいことについても、わたしたちは徹底的に清算する必要があるということです。ですから、もしわたしたちが救われた後に、罪を犯し、それを悔い改めず、和解もしないなら、キリストの再来の時に裁かれ、獄の中で懲らしめを受けるということです。すべての聖徒がこのことをはっきりと見ますように。
Ⅲ. 実行の時に注意すべき幾つかの点
人に対する罪を償おうとする時、注意すべき点が幾つかあります。第一に、罪を犯した範囲にしたがって罪を告白するということです。神の言葉にしたがって行う時に、極端な道を走ってはなりません。度を越すと、今度はサタンの攻撃を受けてしまいます。第二に、罪を告白するときは徹底的にすべきです。しかし、ある時には相手からの益となるように、別の人の益となるために、どのように罪を告白すれば最も良いかをよくよく尋ね求めるべきです。かなり複雑な状況では、経験のある兄弟姉妹と交わることが良いでしょう。
第三に償いにおいて、時としてそれらすべてを償う力がないかもしれません。しかし、償う力がないことと、心から償おうとすることは別のことです。誠意を持って、相手の人に理由を説明し、どのようにすべきかを問うべきです。第四に、もしも償いを受け取るべき人がすでに世を去っていて、その償いを受け取る親族もいないときは、その償うものを、エホバに仕える祭司に帰さなければなりません(民数記5:8)。もしあなたの償いを受け取る本人がいないときは、その償いは彼の親族に帰します。もし親族が一人もいない場合は、教会に渡してもよいでしょう。
第五に、罪を告白し償った後は、良心の訴えを受けないように特に気を付ける必要があります。ある人は、償いのためにずっと訴え続けれられることがよくあります。ですから、主の血が良心を洗い清めたこと、主の死があなたに神の御前で汚れのない良心を持たせたことをひたすら見続けなければなりません。あなたが徹底的に罪を対処したなら、サタンに過度な訴えをさせてはいけません。
第六に罪の告白といやされることは関係があります。ヤコブの手紙第5章16節は言います、「ですから、互いにあなたがたの罪を告白し合い、互いに祈り合いなさい。それは、あなたがたがいやされるためです」。罪を告白した結果は、神が病気をいやしてくださることです。
もし罪を犯した部分があれば、一面、神の御前で罪を告白し、もう一面、人の前で真剣に対処しなければなりません。そうすれば良心は強くなるでしょう。良心が強くなってこそ、霊的な道の上で前進ができるのです。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」