キリストの救いにあずかったクリスチャンは素晴らしい罪の赦しを経験します!良心の咎めが取り除かれ、大いなる解放を経験するでしょう!
しかし、所詮「赦された罪人」に過ぎない信者は、弱さや環境による圧迫を受け、不幸にも罪を犯すことがあり得ます。
そのようなときに、キリストの贖いは無効になるのでしょうか?以前のように罪を累々と神の御前に罪を積み上げていくしかないのでしょうか?新たに受けた良心の咎めはもう消えないのでしょうか?
もちろん断じてそのようなことはありません!そのことを新約聖書は十分に確証しています。
そしてさらに、旧約聖書には絵的に新約聖書を確証して、わたしたちの信仰を補強しています。
ぜひ、この記事によって、赤い雌牛の予表に込められた神聖な備えを理解して、恐れなくクリスチャン生涯を歩んでください。
(以下の内容は『福音真理問答』という書籍に記載されているウォッチマン・ニーの質疑に対する応答を引用しています。)
Ⅰ. 罪の清めは一回ですか、それとも何回もあるのでしょうか?
(御子は)罪の清めを、ただ一度なされました。ヘブル人への手紙第1章3節は言います、「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」。これは、彼が罪の清めのわざをすでに成し遂げられたことを見せています。ヘブル人への手紙第7章27節は言います、「というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」。ヘブル人への手紙第9章12節は言います、「ご自身の血によって、ただ一度、至聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(原文)。ヘブル人への手紙第9章25節から26節は言います、「キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。・・・・・・・しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」。ヘブル人への手紙第10章10節から12節は言います、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。・・・・・・・キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き」。このことは、罪の清めが一度限りであることを見せています。
キリストの血が尊いのは、この血の効き目にあるのであり、一度で罪を清めることができるからです。
Ⅱ. 新約の主の血と旧約の牛ややぎの血との区別
A . 旧約は何度もささげなければならない
牛ややぎの血はそうではありませんでした。ヘブル人への手紙第10章1節から4節は言います、「律法は、 年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」。この部分は、はっきりと言っています。すなわち、牛ややぎなどの血は、年ごとに罪の思い出をよみがえらせるだけですから、何回もささげなければなりませんでした。牛ややぎの血は、人の罪を取り除くことはできません。十字架の働きは、一度限りですでにこのことを達成しました。もはや何もそれに付け加えることはできません。
B . 主の血の継続的な効力
それでは、ヨハネの第一の手紙第1章7節の言葉をどのように説明すべきでしょうか? 「しかし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。ここの清めることは、長く続く、継続的な行為です。継続と繰り返しとは異なります。繰り返しとは、ある事を何度も行なうことですが、継続は、何かを間断なく行なうことです。継続して清めることの意味は、主の血が神の御前で長く続く効力を持つということです。主の血は、継続的な効力を持ちます。何度も何度も清めなければならないのではありません。尊い血は、わたしたちに神の御前で大いなる自由を与えます。もし主イエスの血が神の御前にどれほど大いなる効力を持つかを知らないのであれば、主の血と牛ややぎの血との区別を見ていないことになります。信者が罪を犯した後に、血が彼を再び清めるのではありません。そうではなく、彼は自分の罪を告白する時、血がすでに自分を清めていることを信じ、こうして平安を得るのです。
C . 救われるのも、救われた後の生活も、一度限りの十字架のみわざによる
仮に、一人の罪人が救われたいとします。彼は、キリストがすでに自分のために死なれたことを信じることによって救われるのでしょうか、それとも、今日キリストがやって来て、再び自分に代わって死んでくださるよう求めることによって救われるのでしょうか? 一人の罪人が救われるのは、彼に代わってすでに死んでくださったキリストを信じることによってであることを、わたしたちは知っています。それでは、信者がまた罪を犯した時、平安を得るのは、キリストの血が自分の罪をすでに清めたと信じることによってでしょうか、それとも、キリストが再びやって来て、血を流し、罪を清めてくださるよう求めることによってでしょうか? もちろん、キリストの血がすでに自分を清めてくださったと信じることによって、平安を得るのです。
Ⅲ . 赤い雌牛に関する詳細な予表
わたしたちは、民数記第19章の赤い雌牛の灰に関する予表を見てみましょう。いけにえとしてささげられる赤い雌牛は、三つの条件を満たさなければなりません(2節)。(一)傷がなく、欠陥がないものでなければなりませんでした。これは、主ご自身に罪がないことを予表します。(二)まだくびきを負ったことのないものでなければなりませんでした。これは、主ご自身が決してサタンの奴隷になったことがないことを示しています。(三)赤い色でなければなりませんでした。これは、主がわたしたちの罪を担われることを予表します。赤は罪を予表します。なぜなら、イザヤ書第1章18節で、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても・・・・・・たとい、紅のように赤くても」と言っているからです。この赤は、皮や毛が赤いことを指しており、雌牛の内側が赤いことを指しているのではありません。主イエスは、ご自身の内側には罪がなく、外側で人の罪を担われたのにすぎません。赤い雌牛は、営所の外で焼かれました(民19・3)。
A . 全世界のすべての罪を担われた
わたしたちの主イエスも、営所の外で死なれました(ヘブル13・12)。赤い牛は罪のなだめのためでした(民19・4)。なぜなら、罪のなだめのためのささげ物はすべて、その血を集会の天幕の前に振りかけなければならなかったからです。もしその血が清めのためであれば、人に振りかけなければなりませんでした。赤い雌牛を焼く方法は、他のいけにえを焼く方法とは異なっていました。「その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる」(民19・5一6)。杉の木とヒソプは、全世界を含む被造物を表徴します(列王上4・33、「杉の木から・・・・・・ヒソプに至るまで」)。このほか、緋の糸は罪を表徴します。ですから、このことによってわたしたちは理解することができますが、主イエスが死なれた時、 アダム以来の全世界のすべての罪が、その中に含まれていたのです。主が十字架上でわたしたちの罪を担われた時、そのみわざは絶対的であり、無限であり、他の何もそれに付け加えることはできません。
B . 焼かれて残った灰-継続的な清めの予表
赤い雌牛は死にましたが、その灰は残りました。その灰は、一頭の赤い雌牛がほふられたことを証明しました。この灰の用途は何だったのでしょうか? 「この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。・・・・・・身のきよい人が、それを汚れた者に・・・・・・振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる」(民19・17一19)。この灰には、継続的に罪を取り除く機能があります。これが示していることは、わたしたちが主の一度限りの身代わりの死に信頼する時、わたしたちの罪は赦され、またわたしたちは主の死という事実によって、わたしたちのすべての罪を対処し、 赦しを得ることができるということです。ヨハネの第一の手紙第1章7節から第2章1節の清めは、赤い雌牛の灰の機能と一致します。
C . 敬虔なクリスチャン生活のための神聖な備え
わたしたちは知らなければなりません。もしわたしたちが不幸にも罪を犯すとしても、もう一頭の赤い雌牛を再びほふる必要はありません。死んだ赤い雌牛の灰は、依然として神の御前で効力を持つのです。 神に感謝します。キリストは十字架上でわたしたちのすべての罪を担われた時、わたしたちの過去の負債を支払ってくださっただけでなく、わたしたちの将来の負債を支払うための十分な蓄えも残されました。 これこそ神の行なわれたことです! これこそ福音です!
まとめ
新約におけるキリストの贖いは、彼のただ一度の十字架の死に基づいており、旧約のように、何度も犠牲を捧げる必要はない。
キリストの一度の贖いのみわざは、広さにおいては全宇宙を網羅し、長さにおいては過去の罪だけでなく、信者が信じた後に犯す可能性のある罪にも十分適応されることが、民数記の赤い雌牛の予表によって確証されている。
参考書籍
「福音真理問答」ウオッチマンニー全集 第一期 第二十巻
出版元:日本福音書房
