旧約聖書ネヘミヤ記第8章10節は以下のように翻訳されています。 「...主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」。【新改訳2017】 「...主を喜ぶことはあなたがたの力です」。【口語訳】...
ウォッチマン・ニー
クリスチャンの自由とは
ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は、どちらも「律法」を扱いながら、まったく異なる角度から語っています。ローマ書は福音の大きな土台として律法を明らかにし、ガラテヤ書は律法主義に傾いた人々を立ち返らせるため、力強く論じています。私たちは知らないうちに律法を「正しい生き方の基準」として受け入れ、そこに安心を求めがちです。しかし、その固定された基準こそが、かえって人を縛る原因となります。この点に気づくとき、キリストにある真の自由の価値が見えてきます。 Ⅰ. ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙の中の律法...
携え上げのタイミング(4)部分携挙説(大患難前と後両方説)
「あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾けるだろうか?だれが来たるべき事に注意して聞くだろうか?。」イザヤ42章23節で、この預言者は聖書の注意深い読者が、いかに稀であるかを嘆き叫んでいます。これまでわたしたちは、携え上げ(携挙)は大患難の前か、後か見てきましたが、どちらか一方だけを信じるそれぞれの信奉者が、各自の主観によって、偏った聖書解釈を施していることが明白にされてきました。...
携え上げのタイミング(3)大患難後説
Ⅰ . 大患難後説の聖書的根拠 わたしたちは、「携え上げのタイミング(1)(2)」を通して、大患難の前に携え挙げられる(携挙)第一の学派を見てきました。...
携え上げのタイミング(2)大患難前説(後編)
Ⅰ. 第一の学派は聖書的な基礎を欠いており、多くの根拠のない推論を用いる――携え上げのような重要な問題は推論を基礎とすることはできない A . 啓示録第四章から第十九章は大患難の期間を指しており、その期間に教会は分はない? この学派の者たちは、啓示録第一章から第三章は教会についてであり、そして第三章以後は啓示録は再び教会について述べていないので、教会は携え上げられたのに違いない、と推論します。キリストの王国には、忍耐の言葉はありません。ただ義と尊厳があるだけです。このことから、これらの者たちは、...
いつ携え上げられるの?ー携え上げのタイミング(1)大患難前説(前編)
クリスチャンの空前の希望であり、全世界に対する大いなる証し、それは「...(クリスチャンが)雲の中に引き上げられ、空中で主と会います.」(Ⅰテサ4:17)すなわち携え上げ(携挙)です。この真理の根拠となる御言葉は聖書の中にパズルのピースのように散りばめられており、その全貌はそれぞれの信仰と立場の偏りによって主に三つの学派に分かれています。ウオッチマン・ニーは希望的観測によって都合よく関連聖書語句を取捨選択するようなことはせずに、かつ三つの学派の論拠を提示した上で誤りを正しつつ、関連した真理にも光を当て啓示を与えるという、きめ細やかなバ...
万有を網羅するキリストの贖いー赤い雌牛の予表
キリストの救いにあずかったクリスチャンは素晴らしい罪の赦しを経験します!良心の咎めが取り除かれ、大いなる解放を経験するでしょう! しかし、所詮「赦された罪人」に過ぎない信者は、弱さや環境による圧迫を受け、不幸にも罪を犯すことがあり得ます。 そのようなときに、キリストの贖いは無効になるのでしょうか?以前のように罪を累々と神の御前に罪を積み上げていくしかないのでしょうか?新たに受けた良心の咎めはもう消えないのでしょうか? もちろん断じてそのようなことはありません!そのことを新約聖書は十分に確証しています。...
何事も思い煩ってはならない(3)神の平安
前回まで私たちは、「いつも主にあって喜びなさい」という神の命令と、その喜びが環境ではなく、私たちの近くにおられる主ご自身から来ることを学びました。また、思い煩いは喜びを奪う重荷であり、祈りと願い、感謝をもって神に委ねることによって解放されることも見てきました。今回の箇所は、その実践をさらに深く示します。神は、私たちが良いものを携えて来ることを求めておられるのではなく、むしろ思い煩いそのものを持って来るよう招いておられます。罪を十字架で担われた主は、人生のあらゆる重荷も担うことのできる方です。本章は、思い煩いを明け渡した者に与えられる「...
何事も思い煩ってはならない(2)祈り、願い、そして感謝
前回は、「いつも主にあって喜びなさい」というみ言葉を通して、喜びが私たちの環境や状況から来るのではなく、変わることのない主ご自身に根ざしていることを学びました。主は近くにおられ、どのような境遇の中でも私たちを離れず支えてくださいます。その事実を知るとき、私たちは困難の中でも喜ぶことができます。しかし実際の生活では、喜びよりも思い煩いに心を奪われてしまうことが少なくありません。本日の箇所では、その思い煩いに対する神のはっきりとした命令と、そこから解放されるための具体的な道が示されます。神は、思い煩う代わりに、祈りと願い、さらに感謝をもっ...
何事も思い煩ってはならない(1)主の中で喜ぶ
人はだれでも喜びを求め、悲しみを避けたいと願います。しかし人生には重荷があり、それが喜びを妨げます。聖書は、喜びを失わせる重荷には「罪」と「思い煩い」の二つがあると示します。罪が赦されても、思い煩いに縛られているなら、喜びは完全ではありません。本稿は、すでに救われたクリスチャンが、なぜ喜びを失ってしまうのかを見つめ直し、「何事も思い煩ってはならない」という御言葉を通して、主にあって生きる真の喜びへの道を明らかにします。...
「とペテロ」
主イエスの復活の記事の中で、マルコによる福音書だけが記す特別な言葉「とペテロ」は、聖書を読む者の心を深く動かします。これは、主を三度否み、深く倒れたペテロに向けて、なお主が温かく心を留めておられたことを示す言葉です。本稿では、この短い一言の背後にある、主の深い思いと変わらぬ愛をたどりながら、失敗した者に向けられる神の恵みを味わっていただきたいと思います。 Ⅰ . 特別な言葉 聖書・・マルコ16・7、マタイ28 この二箇所の聖書を読んだ後、その違いに気づかれたでしょうか?...
マリアよ
聖書・・ヨハネ二十章 一節~十八節...












