Ⅰ . 大患難後説の聖書的根拠
わたしたちは、「携え上げのタイミング(1)(2)」を通して、大患難の前に携え挙げられる(携挙)第一の学派を見てきました。
第一の学派、大患難前説にはいくつかの明確な聖書的根拠がありはするものの、他のタイミングを異にする聖書個所を無視した上で成り立っており、信者の待ち望む敬虔さを鈍らせ、怠惰と自己満足に陥らせる可能性のあるものです。多くの神学者や聖書教師がこの説を前提に指導しており、それを信じている聖徒達は聖書にある通り「目を覚まして」いる必要を感じることなく、教えに酔い、まどろんでしまうかもしれません。(Ⅰテサ5:7)
では、第二の学派、大患難後説はいかがでしょうか?
教会は、クリスチャンはもれなく大患難を経過して、それから携え挙げられる(携挙)と捉える学説を聖書を通して吟味しましょう。
以下の内容はウォッチマン・ニーによる『マタイによる福音書の学び』からの引用をもって、この事柄について説明します。
聖書の中には、教会が患難を経過することを示す十分な証拠がある
幾つかの節を見てみましょう。
A . まず背教が起こり、滅びの子が出現しなければ、それは来ない
テサロニケ人への第二の手紙第二章一節から九節。注意深く読んでください。
最初の節は主題です。すなわち、キリストの来臨と携え上げです。それは、キリストの来臨についてだけ語っているのではありません。また、携え上げだけについて語っているのでもありません。ですから、 携え上げは空中へでなければなりません。それが起こるのは患難の後であることを示している暗示があります。二節の「私たち」という言葉にはパウロが含まれます。また「霊」という言葉は、聖霊ではなく別の霊を指しています。「ことば」とは、うわさを意味します。「主の日」とは、主の来臨と携え上げの日です。第一の学派は、主の日とは大患難であるとします。しかし、これは間違っています。旧約の主の日は常に大患難を指しますが、新約においては必ずしもそうではありません。例えば、ペテロの第二の手紙第三章十節の主の日は、大患難の後の事柄と千年期の後の事柄を指しています。ですから、わたしたちは文脈を見なければなりません。テサロニケ人への第二の手紙第二章一節は、もちろん再臨と携え上げに言及しています。当時、主はすでに来たとか、彼らは後に残されたのだとか言って、テサロニケ人を欺こうとした人がいました。三節の「それ」(原文)は、「主の日」であり、「だま」すこととは、脅したりおびえさせたりすることを意味します。しかしながら、携え上げの前には、二つのしるしがなければなりません。(一)不法の人、滅びの子、すなわち反キリストの現れと、(二)下落あるいは背教です。これは、不法の人は聖徒たちの携え上げの前に現れなければならないことを意味します。不法の人はいつ現れるのでしょうか? もちろん、彼は大患難の間に現されます。ですから、携え上げは患難の後でなければなりません。このことに基づき、少なくとも教会の一部分は患難を経過しなければならないことになります。
B . 終わりのラッパは第七のラッパであり、それは患難後に鳴り響く
コリント人への第一の手紙第十五章五〇節から五五節と、テサロニケ人への第一の手紙第四章十六節から十七節。一つ目のは、復活と変ぼうに言及しています。二つ目のは、復活と携え上げに言及しています。これら二つの部分は、並行する部分です。これらの部分で述べられている事柄が同時に起こることについては、すべての人が同意します。そこには、時を指摘している暗示が何かあるでしょうか? 終わりのラッパが鳴らされます。わたしたちは、これは患難の後でなければならないことを知っています。第一の学派は、終わりのラッパは患難の前に鳴らされると言います。しかし、このことの根拠はありません。
聖書の中の一つの節でさえ、このことを示していません。終わりのラッパを鳴らすことは、患難の後に起こります。この終わりのラッパとは、七つのラッパのうちの第七のラッパです。もし終わりのラッパが患離の前に鳴らされたら、これは不合理なことになります。なぜなら、終わりのラッパの後に、まだ七つのラッパがあることになるからです。これは、末っ子の後にまだ七人の子がいると言うようなものです。…他の人々は、ここのラッパは教会のラッパを指しているのであり、患難のラッパを指しているのではないと言います。聖書のどこが、教会の第一のラッパや終わりのラッパについて述べているでしょうか? ブラザレンのある者は、これはローマの軍隊用語にある終わりのラッパを指しており、全軍が行進する前に鳴らされたものであり、パウロはそれを借用したのであると言います。しかし、聖霊はローマの軍隊用語を借用したりはしません。その上、これは神のラッパであり、教会のラッパではありません。 確かに、これは啓示録における七つのラッパの終わりのラッパです。さらにまた、啓示録第十章七節では、第七のラッパが吹き鳴らされる時、神の奥義は終わります。この奥義は教会を指しています。
C . さまざまな証拠
- 証拠1
時代の満了(原文)。マタイによる福音書第二四章三節、第十三章四〇節、第二八章二〇節では、「時代」は「アイオン」に等しいです。大患難は、この時代の終わりにあります。もし携え上げが患難の前に始まるのであれば、この時代は三年半短くなります。
- 証拠2
敵をキリストの足の下にすること。コリント人への第一の手紙第十五章二五節、使徒行伝第二章三五節。この出来事は、実は患難の後に起こります。テモテへの第一の手紙第六章十四節は言います、「私たちの主イエス・キリストの現われの時(患難の後)まで………………守り」。啓示録の中には、患難の前に主が御座を離れて空中にやって来られることを示している節は、一つもありません。患難が始まった後はじめて、主は御座を離れられるのです(啓十四・十四)。もしキリストが患難の前に空中にやって来られるなら、わたしたちは待ち望んだり、冷静であったり、目を覚ましている必要はないことになります。
Ⅱ . 患難後説の不完全さ
聖書の中には、信者が患難の後に携え上げられることを示す証拠があるが、これはすべての信者が患難の後に携え上げられることを意味するのではない――
第二の学派には幾つかの誤りがある――ある者たちは患難の前に携え上げられることを、
聖書は非常に明確に示している
わたしたちはその理由の幾つかを見ていきましょう。
A . 携え上げのために準備する意味がない
仮に、すべての信者が患難の後に携え上げられるとしましょう。その場合、わたしたちは目を覚ましたり、待ち望んだり、用意する必要がないことになります。なぜなら、主は三年半の期間の後に来ることが、わたしたちには保証されているからです。もしそうであるなら、わたしはあらゆる種類の悪を、三年と五か月と二十九日の間、行なうことができることになります。これは、聖書の中の最も重要な原則と矛盾します。
B . 反キリストを待ち望む結果になる
もしすべての人が患難の後に携え上げられるのであるなら、わたしたちの待ち望むことは、キリストを待ち望むことではなくなってしまいます。反対にそれは、反キリストを待ち望むことになってしまいます。なぜなら、反キリストが先にやって来るからです。
C . 大患難を逃れる望みがなくなる
教会はその望みを失うことになります。テトスへの手紙第二章十三節は、「祝福された望み」、すなわち患難を逃れるという祝福を、「待ち望むように」と言います。
D . 主イエスが盗人のように来る機会がない
第二の学派は、秘密の携え上げがあることを認めません。彼らは、主が「わたしは盗人のように来る」 と言われたことを忘れています。盗人はひそかにやって来ます。盗人は、軍隊の音楽隊の後にやって来るのではありません。盗人がやって来るのは、最上のものを盗むためです。
E . 福音書のユダヤ人に対する大患難の語りかけを、クリスチャンに適用し混乱を招いている
十二人の弟子たちがクリスチャンであることに関して、第二の学派は、彼らはみなクリスチャンであったと言います。これは、彼らはだれもクリスチャンではなかったと言う第一の学派の正反対です。しかし、十二人の弟子たちはユダヤ人の残りの民の代表であったと同時に、クリスチャンでもあったというのが、事実です。例えば、マタイによる福音書第十章五節から六節と第二三章三節では、みなユダヤ人の背景を持っています。これらの節は、クリスチャンを指しているのではありません。
F . 携え上げと現れを区別していない
携え上げ(キリストが聖徒たちのためにやって来られること)と現れ(キリストが聖徒たちと共にやって来られること)を区別しないこと。公の携え上げがあります。ユダの手紙では、主の来臨というのは、エノクの預言によって言及されているように、公の携え上げです。なぜなら、主はご自身の足をオリブ山の上に置かれるからです。啓示録第一章七節は、同じことを語っています。しかし、ただ一つの公の現れしか信じない者たちは、混乱します。彼らは歴史学派に属する者たちであり、啓示録の中で成就されずに残っている唯一の部分は、第十七章の後の部分であると言います。彼らは、第一章から第三章までだけがすでに成就したと言う未来学派と正反対です。もし啓示録の中の出来事が過去の事柄であるなら、それはもはや啓示ではありません。こうして、この書は、赤子ではなくただ学者や歴史家のみによって理解されることになってしまいます。聖書の中の成就は、普通は文字どおりのものです。例えば、処女マリヤ、ベツレヘムなどは、すべて文字どおりのものです。ときどき、比喩による成就がありますが、それらはその時に説明されています。
まとめ
第二の学派、大患難後携え上げ説は、教会が患難を経過することを示す多くの聖書個所により確証されている強力な説ではあるものの、大患難前に携え上げが起こることを示唆した聖書個所を顧慮せずに成り立っており、それゆえ、聖徒達が希望を持つのを困難にしている。患難を逃れるための準備が不必要になることは、第一の学派、大患難前説と同じである。
参考書籍
ウォッチマン・ニー全集 第一期 第十五巻 マタイによる福音書の学び
出版元:日本福音書房
