「あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾けるだろうか?だれが来たるべき事に注意して聞くだろうか?。」イザヤ42章23節で、この預言者は聖書の注意深い読者が、いかに稀であるかを嘆き叫んでいます。これまでわたしたちは、携え上げ(携挙)は大患難の前か、後か見てきましたが、どちらか一方だけを信じるそれぞれの信奉者が、各自の主観によって、偏った聖書解釈を施していることが明白にされてきました。
ここでいよいよ、最後の学説、第三の学説である部分携挙説に来ます。ここで、ウォッチマン・ニーは、ギリシャ語原文まで掘り下げ、その文法を精査し、関連する聖句の相違点から携挙のタイミングを洗い出し、聖書の注意深い読者とは何であるかをも見せています。
以下の内容はウォッチマン・ニーによる『マタイによる福音書の学び』からの引用をもって、この事柄について説明します。
第一の学派は聖書の証拠を欠いていた―第二の学派には幾つかの聖書の根拠はあるが、多くの誤りがある――聖書は本当は何と言っているのか?
Ⅰ . 忍耐についての言を守った者たち
啓示録第三章十節・・「あなたはわたしの忍耐についての言を守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試すために人の住む全地に臨もうとしている試練の時から、あなたを守る」。これは大患難です。この節がわたしたちに告げていることは、ある人々は忍耐の言葉を守ったために、大患難を逃れることができるということです。この節は、第一の学派と第二の学派両方の誤りを証明しています。ヒラデルヒヤは恵みの時代における真の教会を代表しますが、それもやはり当時のアジアにある七つの教会の一つにすぎません。こういうわけで、患難の前には少数の者たち(七分の一)だけが携え上げられることがわかります。
さらにまた、患難の前の携え上げは再生に、すなわち単に神の子になることだけに基づいているのではありません。それはただ一つの条件に基づいています。それは、彼の忍耐の言葉を守ることです。わたしたちは、「今日のすべての信者が彼の忍耐の言葉を守ることができるでしょうか?」と尋ねるかもしれません。
このことからわかりますが、すべての人が患難の前に携え上げられるのではありません。第二の学派は、この節は患難の前の携え上げを指しているのではなく、患難の間に神がわたしたちを保護されることを指しているのであり、大患難の間に神がわたしたちをその患難を通して導かれることを意味するのにすぎない、と言います。これはちょうど、家が火事になっているのに、一つの部屋は損なわれずに残されるようなものです。同様にこれは、イスラエル人がゴセンの地にいた時に災いを被らなかったようなものです。 これは間違っています!
A . 患難の「中で」ではない。
ここではそれは、ある事を経過する間守られることではなく、ある事から守られることです。原文のギリシャ語では、「守る」という言葉の後には、「エク」 (ek)というギリシャ語があり、それは「から、から外へと」 (out of)を意味します【例えば、教会のギリシャ語原文、エクレシア (ekklesia)は、召し出された群れ=召会(a called-out group) です】。ですから、それは、ある事を経過する間守られることではなく、ある事から守られることです。「エク」(ek)は、「から」を意味します。
B . 試練の「時」から守られる。
「あなたはわたしの忍耐についての言を守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試すために人の住む全地に臨もうとしている試練の時から、あなたを守る」。(原文の「守った」と「守る」は、同じ語根からのものです)。試練の時とは、患難ではなく、患難の時です。例えば、わたしは中日戦争の間、上海の北西にいました。わたしは傷つけられませんでした。これは、神がわたしを、 その患難を経過する間守ってくださったことでした。それは、神がわたしを、その患難の時から守ってくださったことではありませんでした。もしわたしたちがその時から守られたいなら、わたしたちはこの世の外へと守られなければなりません。もし神がわたしたちをこの世から守りたいなら、ただ二つの方法があるだけです。すなわち、死と携え上げです。ヒラデルヒヤの者たちはすでに死んでいます。ですから、彼らは大患難の時から守られます。しかし、神は今日の教会を、ただ大患難の時から守りたいという理由だけで、死に渡すことはできません。ですから、唯一の方法は、それを携え上げることです。
しかしあなたがたは、絶えず目を覚まして祈り求め、勝利を得て、これらの起ころうとしているすべての事から逃れ、人の子の前に立つことができるようにしなさい。
ルカによる福音書第二十一章三十六節
Ⅱ . 世的な誘惑から救い出され、絶えず祈る
ルカによる福音書第二一章三六節もまた、患難の前に携え上げられるのは、教会のすべてではなく一部分だけであることを証明しています。ルカによる福音書第二二章の記載とマタイによる福音書第二四章の記載は、おおよそ同じです。しかし、マタイによる福音書は主の来臨と患難を強調しており、ルカによる福音書はエルサレムの破壊と患難を強調しています。ですから、マタイによる福音書には質問があり (マタイ二四・三)、また多くのたとえもあります。ルカによる福音書には、これらのものは何もありません。エルサレムに関しては、最初には紀元後七十年の迫害があり、最後には大患難があります。ルカによる福音書第二一章八節から九節は、終わりの前の事柄に言及しています。十節から十九節は、信者たちが苦難を被ることを示しています。二〇節から二八節は、どのようにしてエルサレムが破壊されるかを示しています。二八節では、すべての聖徒が患難を経過するかのようです。二九節から三三節は、そのような事柄が起こることを保証するたとえがあります。三四節から三六節のような区分がなければ、すべての信者は患難の後に携え上げられると言うことができたでしょう。しかしながら、三四節において語調が変わります。三五節は全世界の事柄に言及しています。三六節は、大患難を逃れるための条件、すなわち目を覚まして祈ることについて述べています。どうすればわたしたちは逃れることができるのでしょうか? 死か携え上げられるかのどちらかによってです。立つこと――これは能動態ではなく、受動態です。それは、人の子の前に置かれることを意味します。もちろん、これは携え上げを指しています。死は祝福ではありません。わたしたちは、死を求めて祈ったり、死を待ち望んだりはしません。ここでは携え上げの条件は、目を覚まして祈ることです。再生されている人がすべて携え上げられるわけではありません。人は常に折らなければなりません。何を祈るべきなのでしょうか? 起ころうとするすべてのことから逃れることができるようにと、祈るべきです。わたしたちはしばしば着る物や食べる物を求めて祈ります。わたしたちは決して携え上げられることを求めて祈ったりしません。もし人が大患難の恐ろしさを知らなければ、彼は祈らないでしょう。
A . あなたは天に行きたいですか?
三六節には、「ふさわしい者とされる」という言葉があるべきです。ふさわしい者とされて、やがて起ころうとしているこれらすべてのことから逃れることは、恵みの問題ではなく、その人がふさわしいかどうかの問題です。ふさわしい者とされるとは、何でしょうか?神は、人が行きたくない所へとその人を迎えることはできません。ある人は、天は味気ない所であると感じます。なぜなら、彼らの心はわなにかけられているからです。彼らは、物をいっぱい積み込んだために上昇することのできない気球のようなものです。こういうわけで、ルカによる福音書第二二章三六節は、第一の学派と第二の学派を黙らせるのです。
B . 第二の学派への反証
- 反証1
第二の学派は、人の携え上げは、その人の行為によって決定されるのではないと言います。それではわたしたちは尋ねますが、売春婦の寝床にいて姦淫する者となっていて、携え上げられることができるでしょうか?
- 反証2
第二の学派もまた、「これらすべてのこと」とは、大患難を指しているのではなく、放蕩や深酒やこの世の煩いを指していると言います。しかし、ここでは、「やがて起ころうとしているこれらすべてのこと」と言います。放蕩や深酒は、この世の事柄です。さらにまた、これらのことについては、ふさわしいかふさわしくないかを問う必要はありません。人はどうであってもそれらから救い出されなければなりません。こういうわけで、人は目を覚ましていなければならず、欺かれるべきではありません。
Ⅲ . さまざまな証拠
A . 「盗人のように」その日が来る人と来ない人
マタイによる福音書第二四章四三節とテサロニケ人への第一の手紙第五章四節は、二つの携え上げがなければならないことを示しています。
B . 携え挙げられる場所の相違
人は異なる場所へと携え上げられます。すなわち、彼らは異なる場所へと行きます。
(a)啓示録第七章十五節は、神の御座の前に立つことを述べています。
(b) ルカによる福音書第二二章三六節は、人の子の前に立つことについて語っています。
(c)テサロニケ人への第一の手紙第四章十七節は、空中にいることについて語っています。
ですから、すべての人が携え上げられるのではなく、また携え上げはすべて同時に起こるのでもありません。
C . タイミングを識別できるかどうか
マルコによる福音書第十三章三三節は、キリストがやって来られる日についてはだれも知らないと記載しています。しかしながら、わたしたちは、彼の来臨は第七のラッパの後であることを知っています。この違いの理由は、前者は第一の携え上げを指しており、後者は患難の後の携え上げを指しているからです。
Ⅳ . 別々の携え上げに反対する者たちからの質問に対する答え
A . キリストのからだの一が損なわれるのでは?
反論は、キリストのからだはばらばらに分けることはできないので、教会の携え上げも分けることはできない、というものです。
しかしながら、からだというのは、比喩的表現であり、わたしたちが同じ命を持っているという事実を指しています。教会は主の花嫁です。仮に、わたしたちがからだというのを文字どおりに解釈するとすれば、今日のからだはすでに分けられています。主は天におられます。パウロは死にました。わたしたちはまだ地上に残っており、ある者はまだ生まれていません。
B .携え上げは無代価の恵みでは?
もう一つの反論は、携え上げは贖いの一部であり、もし贖いが恵みによるのであれば、携え上げも、 人がふさわしい者であるかどうかに基づくことはあり得ない、というものです。
わたしたちが裁きから逃れることが、すでに恵みによります。変ぼう(変える行為)(1コリント十五・五一、五二)と携え上げ(取り去る行為)は、振る舞いによります。
C . 大患難前に携え上げられる望みは?
彼らは、「教会の望みを奪い取ることは残酷なことではないでしょうか?」と問います。 そのような望みは決してありませんでした。それは偽りの望みでした。わたしたちはこのことに気づく必要があります。
D . 関連聖句を比較検討してますか?
これらの者たちは、コリント人への第一の手紙第十五章二三節は、キリストに属していることしか語っておらず、振る舞いについては語っていない、と反論します。
わたしたちの答えは、ただこの一つの節だけのために、他のすべての節を無視することはできない、ということです。さらにまた、この節は、携え上げに関して語っているのではなく、復活に関して語っています。彼らは、そこから携え上げを読み出しているのではなく、その中に携え上げを読み込んでいるのです。
E .死人は患難を経過しないのでは?
これらの者たちは尋ねます、「死人についてはどうなのでしょうか? もしこうであるなら、彼らは患難を経過する必要がありません。これは、彼らにとってあまりにも安易であるかのように思われます」。
わたしたちは神のために心配する必要はありません。義なる神が不義な事を行なうことがあるでしょうか? 千年期の間、これらの人々は損失を被るでしょう(Ⅱコリント五・十)。
F . 「みな」変えられるのでは?
これらの者たちは反論します、「コリント人への第一の手紙第十五章五〇節から五二節は、わたしたちはみな変えられると言っています。「みな」という言葉は、からだ全体を指しているのです」。
確かにそれは、みなと言っていますが、同じ時のみなに言及しているのではありません。例えば、わたしたちはみな死にますが、同じ日に死ぬのではありません。
G . 信者には区別がないのでは?
これらの者たちは、小麦と毒麦の間には違いがあっても、小麦と小麦の間には区別はなく、それゆえすべての人が携え上げられるのであると、強く主張します。
しかし、熟す時は異なっています。初穂と収穫との間には、違いがあります。
H . 死んでいる人々に優先しないのでは?
テサロニケ人への第一の手紙第四章十五節は、生き残っている者たちが「死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」と言います。彼らは、死人は第七のラッパの時に復活する、と反論します。
ですから、復活は患難の後に起こるのです。もし第一の携え上げがあるなら、それは死人が復活する前に起こらなければなりません。しかし、ここでは「決してありません」と言っています。それでは、どうして携え上げを二つの部分に分けることができるのでしょうか?
十五節と十七節は、「生き残っている私たち」と言います。これは最も重要なことであり、最も尊いことです。ある人は、生きていることと、残っていることとは、同じことを意味する、すなわち地上にいることを意味する、と言います。しかし、このような繰り返しをしなければならない理由はありません。「残っている」という言葉は、先に行った一群れがいることを示しています。すると、これらの者たちは反論します、「パウロが「私たち」と言ったからには、パウロは自分自身を「生き残っている』第二の群れにいると考えているのでしょうか?」。ここの「私たち」は、単なる表現の手段にすぎません。それは、日常会話で「わたしたち」という用語を用いながら、実際は自分自身をその中の一人に含めないのと同じようなものです。いずれにせよ、パウロは生き続けたのでもなく、また残りもしませんでした。
こういうわけで、わたしたちの結論は、第三の学派が正しいというものです。
ある信者たちは患難の前に携え上げられ、別の群れの信者たちは患難の後まで残っているでしょう。後者は、患難という試練を被るでしょう。
まとめ
携え上げの時期の第三の学派、部分携挙説は聖書的整合性があり、御父のみこころ、すなわち神の子たちの聖なる生活の要求にも符合している説得力のある学説であり、信者が積極的で建設的な信仰生活を建て上げる啓発と励ましになる。
淡い夢を捨て、細い道を選び、人の子の前に「立たされ」るにふさわしくされるように、恵みを受けている日々を忠信に歩めますように。
大患難の前に携え挙げられ、全世界に対して、主の御名のための証しとされますように。
参考書籍
ウォッチマン・ニー全集 第一期 第十五巻 マタイによる福音書の学び
出版元:日本福音書房
