旧約聖書ネヘミヤ記第8章10節は以下のように翻訳されています。

「…主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」。【新改訳2017】

「…主を喜ぶことはあなたがたの力です」。【口語訳】

バビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人たちに律法の書が読み上げられたとき、彼らは罪悪感と感動の入り混じった涙を流しました。そのような民にネヘミヤ、エズラ、レビ人達は、聖なる日に泣いてはならない、食べ飲みして喜ぶようにと励ましました。文脈からいたしますと、主語は民であり、民が喜ぶべきと読み取れ、そのように多く翻訳されていますが、ウオッチマン・ニーが原文から字義通りに訳したタイトルであるこの節の、「主の喜び」という表現での主語は、「主」です。「喜び」は動詞や形容詞ではなく名詞です。

つまりこの場合の意味は、

  • 「主が持っておられる喜び」
  • 「主ご自身の喜び」

であって、
「私たちが主を喜ぶこと」ではありません。

ここで大事なのは、この喜びは「主から来るもの」「主の内にあるもの」であり、それが私たちに与えられて、力になる、という点です。

本稿では、どの翻訳が正当かという学術的な観点は脇に置き、神の言葉の無限の可能性の一つを吟味し、そこから与えられる光を考察します。それは、主もわたしたちも喜ぶという麗しい結論に導きます。

「主の喜びはあなたがたの力である」という御言葉は、私たちの力の源が自分の感情や状況ではなく、主ご自身にあることを示しています。困難や苦しみの中でも喜ぶことができるのは、私たちが喜びを作り出すからではなく、主の中にある喜びにあずかるからです。本稿では、その喜びの本質と、どのようにしてそれが私たちの力となるのかを明らかにしていきます。

Ⅰ . 主はいつ喜ばれたのか

ネヘミヤ記第8章10節(原文)によれば、主の喜びはわたしたちの力です。それは、わたしたちに平安があるから力があるということではありません。主の喜びがわたしたちを支えるのです。テサロニケ人への第一の手紙第5章16節でパウロはわたしたちに、いつも喜んでいるようにと命じています。これはどのようにすれば可能なのでしょうか? どのようにすればわたしたちは困難、苦境、悩みなどの中で喜ぶことができるのでしょうか? この喜びはどこから来るのでしょうか? わたしたちはそれを造り出すことはできません。なぜなら、もしわたしたちに喜びがなければ、喜ぶことは出来ないないからです! ピリピ人への手紙第4章4節において、使徒はわたしたちに秘訣を与えておられます。それは「主の中でいつも喜びなさい」 です。主よ、あなたの喜びはわたしの力です! 主の喜びとは何でしょうか? 主はどのような時に喜ばれるのでしょうか? 聖書は、主の喜びということを一回だけ記載しています。ですから、わたしたちは容易にその意義を知ることができます。主は、ツロとシドンに対する務めを行なうことにおいて、表面的には失敗したかのようでした(ルカ10・13-15)。21節は言います、「その時、イエスは聖霊の中で歓喜して言われた、「父よ、・・・・・・あなたをほめたたえます。あなたはこれらの事柄を知恵や学識のある者から隠して、みどりごたちに啓示してくださいました。そうです、父よ、このようなことは、あなたの目に喜ばしいことであったからです』」。イエス・キリストは喜んで神のみこころを行ないました。彼は神のみこころの中で喜ばれました。

主の喜びは、環境とは何の関係もありません。

彼は言われました、「父よ、 このようなことは、…………喜ばしいことであったからです」。これは父のみこころです。反対したり、反逆したりする思いはなく、なぜ自分がこれらすべてを経過しなければならないかという疑問もありませんでした。「父よ、このようなことは、あなたの目に喜ばしいことであったからです」が、すべてです。

ある人が盲学校を訪れて、子供たちになぜ目が見えないのかを尋ねました。しばらくの間、沈黙がありました。 その後、一人の子供が涙を流しながら答えました、「父よ、このようなことは、あなたの目に喜ばしいことであったからです」。わたしたちの主には喜びがあることを、わたしたちは見なければなりません。それは、神のみこころが成されるという喜びです。ある時は、わたしたちは涙を流して喜ばなければなりません。

地上における主の喜びの根拠は、主が成功したことや、
働きが順調であることではありません。
主はただ御父のみこころの中で喜ばれました。

それは、わたしたちが主を模倣しなければならないということではなく、主の持っておられた喜び、すなわち主の喜びが、わたしたちのものになるということです。わたしたちは、主に属するものでわたしたちに分与されたものを持つことができます。わたしたちは、主の喜びを持つことができます。主の喜びは、 わたしたちの力となります。

Ⅱ . 影響を受け、反応する生活

最も悪い生活は、反応する生活であり、人や環境の影響をいつも受けることです。これが意味することは、わたしたちが外側のものによって、主からでないものによって生きているということです。反応の生活とは、どういう意味でしょうか? その意味は、わたしたちが何かを語って、人がわたしたちのメッセージを受け入れるなら、わたしたちは喜びに満たされるけれども、わたしたちのメッセージが受け入れられない時は、わたしたちはその反対の反応を示すということです。わたしたちは、この事の影響を受けたり、あの事の影響を受けたりします。すべての事がわたしたちに反応を起こさせます。わたしたちはいつも上下します。このような生活は、わたしたちが主の中で歩んでいないことを示しています。もちろん、わたしたちは依然として肉の中にいるので、物事に対して感覚を持ちますが、これらの感覚は、わたしたちが感覚によって生きるようになるほど強くなるべきではありません。わたしたちは反応の生活をやめなければなりません。しかし、そうするためには、わたしたちは主の喜びによって生きなければなりません。わたしたちは試みを受けて沈む時、見上げつつ言うべきです、「主は今日、ご自身の喜びを失っただろうか?」。もし主が喜びを失ったのであるなら、わたしたちは喜びのない生活に満足してもよいのです!

Ⅲ . 不変の力の源

わたしたちのだれ一人として、意気消沈しているのに、真の力を持つことなどできません。しかし、もしわたしたちが主を賛美するなら、力があるようになります。いったんわたしたちが喜びを失ったのであれば、わたしたちは力を失ってしまったのです。こういうわけで聖書はわたしたちに、すべての事で感謝をささげるようにと告げるのです。わたしたちは、主のみこころに服従した心をもって言うべきです、「主よ、わたしは事情がどうであろうと気にかけません。あなたの喜びがそうであるなら、わたしは喜びます」。

わたしたちは、主の中にあるみこころによって生きなければなりません。それはわたしたちの喜びの問題ではなく、主の喜びの問題です。わたしたちの平安の問題ではなく、主の平安の問題です。わたしたちの感覚が沈む時、わたしたちを高めることのできる唯一のものは、主の喜びです。わたしたちは、わたしたちの問題を超越して生きることを学ばなければなりません。

神を愛する者にとって、すべてのものは益となります。神を愛するとは、神のみこころを愛することを意味します。かつて神の子らの一人が次のように言いました、「わたしたちの心は張り裂けようとも、わたしたちはあなたのみこころのゆえに、あなたが何であるかのゆえに、あなたを賛美します」。

まとめ

主の喜びとは、環境や結果に左右されず、神のみこころが成されることにある喜びです。この喜びに生きるとき、私たちは外側の出来事に振り回されることなく、真の力を得ることができます。主の喜びこそが、私たちを支え導く力なのです。環境を通して現わされる神のみこころに良し悪しのレッテルを貼らず、主の喜びであると受け止めることができれば、不平不満の負のループから抜け出して、主イエスのように天の御父を賛美することができるのです。主は何と言って御父をほめたたえたでしょうか?そうです、「天と地の主よ!」と。言い換えると、主は御父の主権を承認したのです。あなたは神の主権が好きですか?あなたは神のみこころが好きですか?盲学校のあの子供はどうでしたか?

参考書籍

「特別集会、メッセージ、談話の記録(六)」ウオッチマンニー全集 第二期 第四十六巻
出版元:日本福音書房

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