前回は、「いつも主にあって喜びなさい」というみ言葉を通して、喜びが私たちの環境や状況から来るのではなく、変わることのない主ご自身に根ざしていることを学びました。主は近くにおられ、どのような境遇の中でも私たちを離れず支えてくださいます。その事実を知るとき、私たちは困難の中でも喜ぶことができます。しかし実際の生活では、喜びよりも思い煩いに心を奪われてしまうことが少なくありません。本日の箇所では、その思い煩いに対する神のはっきりとした命令と、そこから解放されるための具体的な道が示されます。神は、思い煩う代わりに、祈りと願い、さらに感謝をもって、すべてを神に委ねるよう招いておられます。このみ言葉は、喜びを保つための実践的な鍵を私たちに教えています。

Ⅰ . 「何も思い煩わないで」

A . 思い煩いは罪

6節は言います、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。主が近いので、わたしたちは喜ぶべきです。主が近いので、わたしたちは思い煩うべきではありません。前の節は喜ぶべきであると言い、この節は何も思い煩うべきでないと言います。罪以外に、思い煩いほど人を害するものはないことを、わたしたちは認識しているでしょうか? 実に、思い煩いは罪です。

B . 言い訳はない

思い煩いには多くの言い訳があります。この世には、思い煩うのに十分な理由があります。これらの理由を捜すのは難しくありません。わたしたちは、これらの環境に直面する時、思い煩うことは避けられないと弁論します。ところが、神は、わたしたちには思い煩いの言い訳はないと考えられます。すべての思い煩いには理由はありません。ですから、神は「何も思い煩わないで」と言われます。わたしたちは、自分の生活の問題、家庭の事柄、個人の困難が、思い煩うことであると考えます。ところが聖書は、「何も思い煩わないで」と言います。一つの思い煩いも合法的ではなく、神に許されていません。すべての思い煩いは、神に禁じられています。

C . 思い煩いは義務ではない

わたしは、ある牧師が一人の女性に、何も思い煩わないように、なぜなら思い煩うのは罪だからである、 と言った本を読んでいると言うのを聞きました。その女性は、唯一思い煩うのは自分の九人の息子のことである、と言いました。その牧師は、何も思い煩うべきではないと繰り返しました。その女性は、何も思い煩わないとの神の言葉はこのような思い煩いを含んでいないと言いました。その牧師は、神が何も思い煩わないようにと言われるのは「何も」思い煩わないことだと言いました。その女性は、母親は自分の息子のことで思い煩うべきだと言い張りました。彼女は言いました、「わたしの思い煩いは、わたしの息子のうち四人がすでに天に行ったことに続いています。今わたしはまだ、もう五人のために思い煩わなければなりません」。ある人は、このことあのことで思い煩わなければならない、と言います。心配することが、彼らの本分であるかのようです。ある人は、「人は一年のうちで一つや二つ、思い煩うべきではないのですか?」と尋ねます。違います。なぜでしょうか? なぜなら、「主は近い」からです。あなたの思い煩いは、あなたが彼の心、彼の約束に信頼していないからです。あなたは主を辱めています。主は近いのですが、あなたは思い煩っています。あなたは神の御手の力、神の心の慈愛を疑っています。あなたが思い煩うのは、主が近いことを知らないからです。

Ⅱ . 解放の三つの秘訣、祈り、願い、感謝

A . 御言葉の通りに行う

6節は続けます、「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。どのようにして、思い煩わないようにすることができるのでしょうか?「あらゆるばあいに!」。このようであれば、すべては良いのです。あなたが座っていても、寝ていても、 歩いていても、あらゆることを、三つの方法で神に知らせることができます・・(一) 祈り、すなわち普通の。 祈りによって。(二)願い、すなわちもっぱらの、特別な祈りによって(祈りと願いによって、あなたは心の中の願い事を神に告げることができます)。(三)感謝をもって、すなわち、あらゆる事で神に感謝することによってです。感謝をささげることによって、あなたは自分の必要を神に告げます。あなたは祈り、願い、感謝によって、あらゆることを神に知らせるべきです。ところが、あなたはそうしません。ですから、あなたは思い煩いに満ちており、喜びがないのです。あなたは神の命令に背いているので、思い煩いから解放されることができないのです。

B . 思い煩いを神に送る

わたしたちが自分の遭遇することを一つ一つ神の御手にゆだねるなら、それはすばらしいことです。そうでないと、第一の事が起こる時、わたしたちはそれを自分に置きます。次に第二、第三の事が起こると、 やはりそれを自分自身に置きます。こうして、わたしたちは圧迫され、喜びを失うのです。ある時、わたしは大工さんが瓦を屋根に運んでいるのを見ました。三人がはしごに立っており、一人が一番上、一人が真ん中、一人が一番下にいました。一番下の人が真ん中の人に瓦を渡し、真ん中の人が瓦を受け取ると、 一番上の人に渡します。彼らはこれを休みなく続けました。わたしはこれを見た時、「真ん中の人が、受け取った瓦を渡さなかったなら、あるいは一番上の人が、渡された瓦を受け取るのを断ったなら?」と思いました。もしそうなれば、真ん中の人は、絶え間なく来る瓦で圧死してしまうでしょう。わたしたちはこのように思い煩いを対処するのです。もしすべての思い煩いを神に送って、彼に担っていただかなければ、この世のすべての思い煩いは、わたしたちを圧死させるでしょう。わたしたちはこの世の思い煩いに、自分を圧迫させ続けるのではなく、それを神の側に置かなければなりません。思い煩いを持ったその瞬間、 直ちにそれを神にゆだねなければなりません。思い煩いを一つ一つ、忍耐強く自分に積み重ねてはいけません。出口があるのです。それは、「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただく」ことです。これは、世の人や罪人のできないことです。クリスチャンだけが、これをすることができます。なぜなら、わたしたちは主を持っており、主は近いからです。ですから、大きな事だけでなく、小さな事のためにも祈ることができます。わたしたちは、思い煩いの理由のあるすべての事で、祈ることができます。思い煩う機会を与えるすべての事で、祈ることができます。

C . 聖なる相談相手

わたしたちが何も思い煩わないことができるのは、生まれつき楽天的であるからではなく、愚かな人のようにあらゆる事でとん着しないようにするからでもありません。そのような行為は実に愚かです。わたしたちが何も思い煩わないのは、わたしたちが話し、信頼することができ、責任を持つ方がおられるからです。

わたしたちが喜び、思い煩いから解放されるのは、神を持っており、
祈りを通してすべてを神に託すことができるからです。
祈りはわたしたちの出口です。神がわたしたちの出口です。

Ⅲ . 感謝の効能

D . 愛する方の按配

祈りと願いだけで十分でしょうか? 違います。聖書は祈りと願いだけでなく、感謝も述べています。 わたしたちは、自分に臨むことはすべて、釘を刺し通された手によってわたしたちの手に置かれたことを、 覚えていなければなりません。わたしたちに臨むことはすべて、わたしたちのために死んでくださった主によって按配されたのです。ですから、前もって神に感謝して、「神よ、あなたは決して間違えることはありません」と言うことができます。今日、宣べ伝えることができる人は多くおり、祈ることができる人は多くいます。ところが、感謝をささげることができる人はとても少ないのです。宣べ伝えるのは神のものを人に与えることであり、祈りは神から何かを得ることです。感謝は自分自身を神にささげ、感謝のいけにえをささげることです。聖書はわたしたちが祈り、願うべきであると言っているだけでなく、感謝をささげるべきであるとも言っています。どんなことで神に感謝をささげるのでしょうか? 幸いな時に感謝するだけでなく、悲しんでいる時にも感謝すべきです。あらゆる事で神に感謝するのです。自分が良いと考えることだけでなく、悪いと考えることでも感謝すべきです。

B . 不満を見つけ出す達人

合衆国の西部に、ある大学教授がいて、彼はいつも悲しんでおり、落胆する言葉を話していました。これが、彼の同僚を彼から引き離しました。ある日、天気がとても良く、多くの年少の同僚たちが彼に言いました、「今日は太陽がとても輝いており、鳥のさえずりはとても甘く、花は新鮮に見えます。あなたにはこれらの光景について、何の不平もないはずです」。彼は周りを見回して、何の不平もないことに納得しました。ところが、彼は不平をやめたでしょうか? 違います。彼はさらに見た後、「この光景は長く続かない」と言いました。ああ、多くのクリスチャンはこの人のようです。彼らは神に対する感謝の心を決して持っていません。ただため息をつき、つぶやき、悲しみ、重荷を負うだけで、決して感謝の心を持ちません。

C . 感謝の達人

鉄道の駅で働いているあるクリスチャンがいました。彼は病気であっても健康であっても、環境が良くても悪くても、いつも神に感謝していました。彼の同僚たちはみな、彼が楽天家であると言いました。ある日、彼が線路を修理していると、列車が彼の足の上を通り、彼は失神してしまいました。彼が気づいた時、人々は彼がまたも神に感謝しているのを聞いたのです! 彼らは怒り、彼の足の一本が切断されてしまったのに、どうしてなおも神に感謝することができるのかと思いました。彼は言いました、「神に感謝します。わたしには、まだもう一本の良い足があります!」。兄弟姉妹、あなたは病気であっても、まだ生きています。あなたは貧しくても、絶望的ではありません。あなたは粗末な服を着ていても、まだ身に着けるものがあります。あなたの家は小さくても、まだ枕する所があります。あなたは神に感謝する機会を求めることを学ぶべきです。そうすれば、あなたに思い煩う理由があっても、思い煩う機会はないでしょう。

まとめ

6節は、「何も思い煩わないで」と明確に命じ、思い煩いを罪として示します。私たちは問題を抱え込むのではなく、あらゆる場合に祈り、願い、感謝をもって神に知らせるべきです。思い煩いは人を押しつぶしますが、祈りはそれを神に渡す出口です。感謝は、神がすべてを最善に配しておられるとの信頼の表明です。主が近くにおられるからこそ、私たちは思い煩いから解放され、喜びの中を歩むことができるのです。

《何事も思い煩ってはならない(3)に続く》

参考書籍

「メッセージ記録(二)」ウオッチマンニー全集 第一期 第十八巻
出版元:日本福音書房

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