Ⅰ. 第一の学派は聖書的な基礎を欠いており、多くの根拠のない推論を用いる――携え上げのような重要な問題は推論を基礎とすることはできない

A . 啓示録第四章から第十九章は大患難の期間を指しており、その期間に教会は分はない?

この学派の者たちは、啓示録第一章から第三章は教会についてであり、そして第三章以後は啓示録は再び教会について述べていないので、教会は携え上げられたのに違いない、と推論します。キリストの王国には、忍耐の言葉はありません。ただ義と尊厳があるだけです。このことから、これらの者たちは、 第一章から第三章はこの時代を指しており、第四章から第十九章は大患難の期間を指しており、その期間には教会に分はないと言います。

  • 反証

しかし、教会が述べられていないというのは真実ではありません。第四章から第十九章には、「教会」という用語は用いられていなくても、教会に対する多くの言及があります。例えば、啓示録第十九章十四節の軍勢は、教会ではないでしょうか? さらにまた、啓示録第二二章六節から十六節は、「これらのこと」 (大患難の事柄を含む)と述べています。これは明らかに、それが教会のために書かれたことを示しています。もしそれが教会や信者に関係がないのであれば、なぜ書く必要があったのでしょうか? 啓示録第五章九節は教会に言及しており、啓示録第十七章六節は、教会である聖徒たちに言及しています。「教会」という言葉は述べられていませんが、これらの人々が教会でないと言うことはできません。

B . 数えきれない人が大患難の中で救われる?

これらの者たちは、教会が携え上げられた後、多くの者たちが地上で救われるであろうと推論します。これらの救われた者たちは、大患難において聖徒たちとなります(参照、啓七・九一十七)。彼らは、 大患難のただ中に救われます。第一の学派には、この推論を認める以外の選択はありません。そうでなければ、自分自身を正当化することができません。もし教会が患難の前に携え上げられるのなら、これらすべての無数の聖徒たちはどこからやって来るのでしょうか?

  • 反証

だれにも数えることができない大勢の群衆とは、二億人以上でなければなりません。これは、啓示録における最大の数です(啓九・十六)。今日の世界の人口は十八億人(二千二十五年は八十億人)です。第七章の前に、世界の人口の四分の一が死に(啓六・八)、十三億人(現在では六十億人)が残ります。それではどうして、だれも彼らを数えることはできないと言うことができるでしょうか? これは、二千年を通してすべての聖徒たちに言及しているのに違いありません。

C . 大患難の期間に聖霊が天に戻る?

大患難の間、聖霊は天に戻ったと推論します。これらの者たちは、教会は聖霊と一つであるから、 全教会は患難の前に携え上げられるであろうと推論します。彼らの根拠は、テサロニケ人への第二の手紙第二章六節から八節であり、そこの「不法の人」は反キリストであり、「引き止めているもの」は聖霊であるとします。

  • 反証

しかしながら、「引き止めているもの」が聖霊を指しているとすることはできません。なぜなら、「自分が取り除かれる」という句の語調から、聖霊に言及しているとすることはできないからです。なおまた、聖霊には多くの名――御霊(その霊)、啓示の霊――がありますが、例外なく「霊」という言葉が常にあります。「助け主」 が一度だけ用いられていますが、文脈によればその助け主が聖霊であることがはっきりしています(ヨハネ十四・十六)。聖書の中では、聖霊が「引き止めているもの」と呼ばれたことは一度もありません。聖霊は取り除かれることはありません。聖書は、大患難の間に聖霊がなくなるとは決して言っていません。さらにまた、もし聖霊がなければ、どうして大患難の間に信者となることができるでしょうか? 人が救われるためには、聖霊を通して救われなければなりません! 「御霊によって生まれた者は霊です」。このことは、 啓示録においてとてもはっきりと語られています(参照、啓五・六)。

  • 反証2

大患難の時は、まさに後の雨の時です(参照、使徒二・十五―二二、ヨエルニ・二八一三二)。ヨエルの預言はペンテコステの時に成就されたのではありません。なぜなら、血、火、立ち上る煙、太陽がやみとなること、月が血に変わることなどの不思議なわざがなかったからです。ペンテコステの日には、そのような不思議なわざはありませんでした。
これら五つの不思議なわざはすべて、大患難の間に成就されます。血は第一のラッパ、火は第一と第二のラッパ、煙は第五のラッパ、太陽と月は第六の封印です。ペンテコステは、そのひな形にすぎませんでした。それは単なる小さな前味わいでした。ペテロは、これが預言を「成就した」とは言いませんでした。彼はただ、「これは・・・・・・です」と言っただけでした。ここの「これは・・・・・・です」という言葉は、預言の成就を指しているのではありません。仮に、食事をしている時にAさんがBさんに対して、「あまり速く食べてはいけません。食物をよくかまなければなりません。そうすれば消化されます」と語ったとしましょう。次の日に、Aさんが聖書を読んでいた時、Bさんが彼に言いました、「あなたは聖書を注意深く読むべきです。そうすれば、消化されることができます」。すると、Aさんが言いました、「これは、わたしがあなたにあまり速く食べないようにと言った時、あなたに語ったことです。」ですから、聖霊には大患難の間に行なうべきさらに偉大な働きがあることが、わたしたちにはわかります。もし聖霊がなければ、どうして聖徒たちが患難の間に立つことができるでしょうか?

D . 「弟子たち」とはユダヤ人を意味しているのか?

これらの者たちは、四福音書の中の「弟子たち」という用語はユダヤ人を指しているのだから、主はユダヤ人である弟子たちに対して、「目を覚まし、冷静であり、祈らなければならない」と語っていたのであると推論します。しかし、この学派にとっては、わたしたちはクリスチャンであるから、たとえどうであろうとわたしたちはみな携え上げられるのです。これらの者たちは、ただ書簡にだけ従っているのです。

  • 反証

しかしながら、十二弟子たちは教会の中の人たちであり、彼らはクリスチャンでした。そうでなければ、 この二千年間(すなわち、教会の歴史が始まって以来)に書かれた少数の書簡のうちで、なぜこんなに多くが過渡期の期間(弟子たちの時代)に書かれたのでしょうか? さらにまた、聖書はすべてのクリスチャンを「弟子たち」と呼んでいます(マタイ二八・十九、使徒十一,二六)。

E . 四福音書と使徒行伝はユダヤ人のため?

彼らは、四福音書、使徒行伝などは、異邦人信者のために書かれたのではないとします。スコフィールドは、山上の垂訓はもっぱらユダヤ人のためであると言いました。

  • 反証

しかしながら、彼はマタイによる福音書第二八章二〇節の「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼ら(諸国民)を教えなさい」と、ヨハネによる福音書第十四章二六節の「また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」を忘れています。彼らはただパウロの言葉だけを、彼らの教えの根拠として用います。しかし、コロサイ人への手紙第三章十六節を読んでください。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」。

F . 王国の福音の宣べ伝えに中断があった?

「この王国の福音は全世界に宣べ伝えられて、・・・・・・それから、終わりの日が来ます」(マタイ二四・十四、原文)。彼らは、王国の福音と恵みの福音との間には違いがあると言います。彼らにとって、王国の福音を宣べ伝える時間は、主が地上におられた時と患難の前の時とに制限されていました。しかし、わたしたちの救いは、恵みの福音を通してです。彼らは、携え上げられる前に恵みの福音が全世界で宣べ伝えられる必要はないと考えます。

  • 反証

天の王国の福音は、神の王国の福音と等しいです。使徒行伝第二〇章二四節から二五節は恵みの福音を述べています。二五節の神の王国という言葉は、前の二四節で述べられた恵みの福音です。使徒行伝第一章三節で主は、将来やって来るであろう神の王国の事柄に関して教えておられました。

G . 福音書の時代は恵みの時代ではなかった?

これらの者たちは、キリストは地上におられた時、割礼の者たちに対する奉仕者であったと主張します。主が語られたことは、ユダヤ人の背景に対して語られたのではないでしょうか? 確かにそうでした。しかし、恵みの時代も主と共に始まりました。以下の節を見てください。マタイによる福音書第十一章十三節から十四節。ルカによる福音書第十六章十六節の「それ以来」は、キリストの時以来です。使徒行伝第十章三六節から三七節。使徒行伝第十三章二五節から二七節の「この救いのことば」は、ヨハネの時から始まりました。マルコによる福音書第一章一節の「イエス・キリストの福音」は、バプテスマのヨハネから始まりました。ルカによる福音書第四章十七節から十九節は、恵みの福音が「きょう、実現しました」(ルカ四・二一)と記録しています。ヨハネによる福音書第四章二三節は、イエスの時から、別の時代が始まったと言います。律法の時代には、人が神に近づいたのは、肉体において、また規定によってでした。もしだれかが死体に触れたなら、彼は汚れ、神にいけにえをささげなければなりませんでした。これらは肉の規定です。恵みの時代に神にやって来ることは、霊とまことによって来ることです。ヨハネによる福音書第五章二四節から二五節は、「今がその時です」と言います。これら二つの節は、恵みの福音について語っており、それは「今」です。

まとめ

第一の学派、大患難前の携え上げ説は、多くの推論と聖書解釈の誤用に依存しており、確かな聖書的根拠に欠ける。携え上げは確かに聖書に記されているが、その時期がすべてのクリスチャンにとって患難の前であると断定することはできない

携え上げのタイミング(3)に続く

参考書籍

ウォッチマン・ニー全集 第一期 第十五巻 マタイによる福音書の学び

出版元:日本福音書房

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