2025-09-07 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,828文字で、15分で読み終えることができます。)
あなたはクリスチャンになって以来、「もっと良い人にならなければならない」「善良な行いをしなければならない」と考え、努力してきたかもしれません。確かに、クリスチャンは誠実であるべきですし、愛を示すべきです。しかし、神がわたしたちに求めているのは、単なる「良い人」ではなく、「超越した人」です。
聖書は、私たちが「新しく造られた者」(2コリント5:17)であると言っています。これは、神が私たちをより良い人間にするのではなく、まったく新しい種類の存在へと変えようとしていることを意味します。では、わたしたちが「超越した人」になるとはどういうことでしょうか?これを知るためには、未信者の反応とクリスチャンの反応の違いを理解しなければなりません。
Ⅰ. クリスチャンの反応は未信者の反応と異なっている
人生の半分あるいは半分以上は反応の中で費やされます。人が話し、楽しいと感じる、これが反応です。人がわたしたちに無実の罪を着せ、わたしたちが弁明する、これも反応です。もしあなたが人との生活を注意深く分析してみるなら、人生の半分以上を反応の中で生きていることがわかるでしょう。
クリスチャンも反応の中に生きています。しかし、クリスチャンの反応は未信者とは異なります。一人の人の反応がどうであるかを見れば、その人がどういう人であるかを知ることができます。クリスチャンであるのにクリスチャンでない反応はあってはなりません。クリスチャンでないのにクリスチャンの反応を持ち得ることはありません。ですから、人がどのような種類の人であるかを知るためには、人がどのような反応をするかを見さえすればよいのです。
では、クリスチャンと未信者の反応の違いとは何でしょう?
Ⅱ. 山上での主の教え
マタイによる福音書第5章38節から48節を読みましょう。この部分の聖書はすべて反応について語っています。「『目には目を、歯には歯を』と言われたことを、あなたがたは聞いている」(38節)。「目には目を、歯には歯を」の意味は、人がわたしの目を傷つけるなら、わたしも彼の目を傷つけるという意味です。人がわたしの歯を折るなら、わたしも彼の歯を折ります。あなたがするようにわたしも行います。これを反応と呼びます。以前、旧約の律法を守った時代には、人はこの種の反応をしました。
しかしながら、主は言われました、「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪しき者に抵抗してはならない」(39節)。主が言われたことは、あなたがたの反応を捨て、別の反応をし、悪人に抵抗すべきではないということです。続けて三つのことを述べていますが、それらは聖書で最も有名な言葉で、多くの人が知っています、「あなたの右の頬を打つ者には、他の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、あなたの下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれでもあなたに強いて一マイル行かせるなら、彼と一緒に二マイル行きなさい」(39-41節)。左の頬、上着、二マイルは、すべてクリスチャンの反応です。右の頬、下着、一マイルは人の要求です。人の要求は右の頬ですが、わたしたちの反応は左の頬をも向けることです。人の要求は下着ですが、わたしたちの反応は上着です。人の要求は一マイルですが、わたしたちクリスチャンの反応は二マイルです。マタイによる福音書第5章38節から48節が見せていることは人の要求に対するクリスチャンの反応です。
多くのクリスチャンが何がクリスチャンの反応であるかを見ていません。彼らは良い生き方をし、とても道徳的です。彼らは、自分は理にかなっており、筋が通っていると思っています。しかし、彼らは、クリスチャンの反応は理屈や正しさに基づいているのを忘れています。彼らはもともとクリスチャンの反応がどうであるかを知りません。これが最大の問題です。ですから、初信者の兄弟姉妹は、何がクリスチャンの反応かを見なければなりません。
Ⅲ. 三種類の異なる反応
人の普通の事柄に対する反応は、三種類に分けられるでしょう。第一は理屈を言うことであり、第二は良い行ないであり、第三は神の聖なる命の反応です。理屈を言うという水準であれば、あなたの反応は短気を起こすこと、怒ることです。良い行ないという水準にあれば、あなたの反応は忍耐することです。神の聖なる命という水準にあれば、あなたはすべてを超越するでしょう。これらはわたしたちクリスチャンにあり得る三種類の異なる反応です。
今日誰かがあなたの右の頬を打ち、あなたの心がもし理屈で満ちているとしたら、あなたは言うでしょう、「どうしてこんな事が起こるのか?なぜあなたはわたしを打つのか?」。だれかがあなたの顔を打ったら、あなたはすごい短気を起こして彼に理屈を言うでしょう。あなたは理屈を言うことの中にいるのです。あるいはあなたは、クリスチャンなら良い行ないをすべきであって、怒ることは間違っていると知っているかもしれません。誰かがあなたの下着を取ろうとする時、あなたは忍耐して何も言わず、人が取るに任せます。これは短気を起こす反応よりずっと良いものです。しかし、主はもう一つの反応があることを言っておられます。その反応が、主が要求しておられるものです。
主がわたしたちに定められた反応は、誰かがわたしたちの頬を打ったら怒るというものではありません。だれかがわたしたちの下着を取ろうとしたら忍耐するというものでもありません。主は、だれかがわたしたちの右の頬を打つ時、左の頬を向けて再び打たせなさい、と言っておられます。下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。だれかがわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、二マイル行きなさい。この種の反応は、忍耐とは言わず、超越と言います。この種の反応は、人の要求の上を行きます。ただ要求に応じるだけでなく、人の要求を超越するのです。
主は、クリスチャンにはただ一つの反応だけがあることをわたしたちに見せておられます。その反応は、理屈を言うことでも忍耐することでもなく、超越することです。超越していないのはクリスチャンではないことを、覚えておいてください。
Ⅳ. クリスチャンの反応は超越である
A. 理屈を言うこと
この世の人は理屈に満ちています。十字架の第一の学科はわたしたちが理屈を言わないことを教えます。しかし、多くのクリスチャンが理屈を言ったり、義を語ったりして、「あなたはわたしを打つべきではなかった」と言っているのではないかと思います。クリスチャンの生活は理屈に基づいてはいません。すべて理屈を言うことは、信者の領域の中にないことです。もしあなたが人と理屈を言い合う程度にまで落ちているなら、それはクリスチャンの地位を離れてしまっているということです。
B. 正しい事や良い事を行なうこと
人がわたしの下着を求める時、わたしが与えなくてもそれは正しい事であり、与えるのであればそれは良い事であると、あなたはきっと言うでしょう。しかし、さらに上着をも与えるのがクリスチャンです。このように話せば、この道ははっきりするでしょう。誰かがわたしの下着をかすめようとする時、わたしは彼に与える必要があるでしょうか?ですから、わたしが与えないのは正しい事です。もし与えるなら、それは良い事です。わたしは善人だから彼に与えます。しかし、正しい事をする人がクリスチャンではありません。良い事をする人もクリスチャンではありません。クリスチャンは下着を与えるだけでなく、上着をも与えるのです。これがクリスチャンです。
C. 超越した事を行なうこと
クリスチャンの反応は、正しい事をするのでも良い事をするのでもなく、超越した事をすることです。神の子なら、迫害を受ければ受けるほど、追い込まれれば追い込まれるほど、歩む道がなければないほど、高く上がっていくべきです。人に押されて落ちるなら、これはみじめです。短気を起こす、理屈を言う、忍耐しようとするのであれば、これは残念なことです。人があなたを迫害すればするほど、出口がなくて壁にぶち当たるほど、さらに高く上っていくことができる、これこそクリスチャンです。
クリスチャンであるなら、このようにすべきです。このようにしないなら、あなたの内側はすっきりしないでしょう。クリスチャンが人と理屈を言い合うなら、家に帰るとすっきりしないのです。人に物を取られると、心の中でつぶやき、家に帰ってもすっきりしません。しかし、誰かが下着を求めるなら、あなたは上着をも加えます。そして家に帰れば、ハレルヤと叫ぶことができ、とても気持ちいいでしょう。このようなクリスチャンであれば、とても喜ぶことができるでしょう。
多くのクリスチャンは、二マイル目を行かないために、朝から晩まで憂え、苦渋に満ちています。もし二マイル行こうとするなら、あなたの内側は歌うことができるでしょう。
Ⅴ.クリスチャンの命は超越する命である
多くの兄弟姉妹が反応の上で困難を感じるのは、彼らが主を認識していないからです。二マイル目を行こうとすれば、左の頬を向けて打たせようとすれば、上着を取らせようとすれば、つらいと感じます。しかし、これらすべては主の要求です。ある人は、あなたの右の頬を打ち、それで満足するかもしれません。しかし主は、左の頬を向けて彼に打たせなさいと言われます。誰かがあなたを強いて一マイル目を行かせようとします。しかし主は、あなたに強いて二マイル目を行かせられます。左の頬、上着、二マイル目は主の要求であって、人の要求ではないことを見なければなりません。これは主があなたに要求されることであって、人があなたに要求することではありません。
わたしたちは主こそ理屈に合わない方であることを覚えておかなければなりません。もし一着目の服が理屈に合わないなら、二着目を求めることはもっと理屈に合いません。第二のものは主の要求であり、主の命令です。ですから、主の命令は、あの理屈に合わない人よりもさらに厳しいものです。理屈に合わない人でも、主の命令よりもっと厳しい人は一人もいません。
これはどうしてでしょうか?それは主がわたしたちにくださった命は超越の命であることを、主はご存じであるからです。その命は、超越しなければ気持ち良くないのです。その命は、超越しなければ楽しくないのです。その命は、困らせられれば困らせられるほど、辱められれば辱められるほど、損失を与えられれば与えられるほど、力を現します。これがクリスチャンです。
Ⅵ. これは神の子たちの恵みである
ある人は聖書がわからないので、マタイによる福音書第5章、第6章、第7章の教えは律法であると言います。これは律法でしょうか?違います。これは恵みです。目には目を、歯には歯を、それこそが律法です。何を恵みと言うのでしょうか?恵みとは、人が得るはずのないものを人に与えることです。第一番目の頬、一着目の服、一マイル目の道のりはすでに恵みです。なぜなら、それはみな人が得るはずのないものだからです。人の観念は、これは損であると勘定します。しかし、第一のこれらは、未信者が得ることのできない機会、すなわち超越した命を表現する機会をわたしたちに与えられたということです。わたしたちの内側の命はすべてを超越していますから、第一のものはみなわたしたちに触れることができません。ですから、わたしたちは一マイル行くことができるだけでなく、彼と共に二マイル目を行くことができるのです。下着を与えるだけでなく、上着をも取らせるのです。右の頬を打たせるだけでなく、左の頬も打たせるのです。これが恵みに恵みを加えることです。
Ⅶ. クリスチャンの勝利は超越の勝利である
わたしたちは、二マイル目を行けばそれで十分だと考えるべきではありません。二マイル目を行くのは一つの原則です。その原則は超越していることです。
超越は、頂上にいることです。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、あなたはマタイによる福音書第5章を思い出して、わたしは歯を食いしばって彼に打たせようとします。彼がわたしの下着を求めるなら、わたしは無理して彼に与えます。彼がわたしを強いて一マイル行かせようとするなら、わたしはやむなく彼と共に二マイル行きます。このようにすることは役に立ちません。なぜなら、あなたは超越しておらず、高く上っていないからです。
では、どのような人が超越の勝利を経験できるのでしょうか?それは、人に辱められた時、主がわたしに豊かな命を与えてくださっていることを認識している人です。このような人には、主の命は超越しており、豊かに供給してくださるという信仰がありますから、このようなことができるのです。クリスチャンの反応は、わたしにはまだ余裕がある、さらに行なうことができる、というものです。なぜなら、彼の中には復活の主が生きており、その信仰の中に生きているからです。そのような人はこのように言うでしょう、「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです」(ピリピ4:13)。
Ⅷ. 注意すべき三つの事柄
最後に、この命の反応について、特に注意しなければならない三つの事があります。
A. 試み、邪悪な者から救い出されるように祈る
第一に、わたしたちは日々、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」(マタイ6:13)と祈る必要があります。なぜなら、わたしたちが地上でこの原則にしたがって生活するなら、人の見方によれば生きていけないからです。主がわたしたちに求めておられるこの反応は、地上では持つすべがありません。あなたがこれにしたがって何度か行うなら、あなたのすべては使い尽くされるでしょう。だからこそ山上の教えで主は、「わたしたちを試みに遭わせないで、あの邪悪な者から救い出してください」という祈りを挿入されたのです。主の守りがあればこそ、わたしたちはこの世で生きていけるのです。ですから、この祈りは絶対に必要です。あなたが超越した勝利の生活をしたいのであれば、毎日求める必要があります。
B. 識別力を持って語る
第二に、このクリスチャンの生活原則を未信者に語ってはならないということです。またこの原則を有名無実なクリスチャン、すなわち、名ばかり立派で、実際の生き方や態度が伴っていないクリスチャンに告げてはならないということです。これは、マタイによる福音書第7章が、「聖なるものを犬に与えてはならない、真珠を豚の前に投げてはならない」と言っているところです。犬と豚はどちらも汚れているものです。犬はすべての悪と汚れを表します。豚は命のない名ばかりのクリスチャンを表し、外側ではひずめが分かれていますが、内側では反芻(はんすう)しません。外面はクリスチャンですが、実質はクリスチャンではありません。これらの話を彼らにしてはなりません。少しでも言えば、自分に災いを招きます。あなたが彼らに言えば、彼は「あなたの頬を向きをかえて、試してみなさい」と言うでしょう。
C. クリスチャンの立場を守る
第三に、わたしたちはクリスチャンの立場を守らなければなりません。わたしたち自身は問題を求めないのですが、神の許しの下に、神の按配の中で、聖霊の管理において、わたしたちはこの類の事に出遭わされます。信者の手によるか、未信者の手によるか問わず、その時にはわたしたちは正当な反応をすべきであり、引き下がってはなりません。
これは不思議なことですが、クリスチャンの命はこのようです。迫害を受ければ受けるほど、困難に遭えば遭うほど、理屈に合わなければ合わないほど、神の御前では楽しいのです。これこそが幸いへと至る道です。もしも今日わたしが一人の兄弟の頬を打ったとして、その兄弟がすぐさまもう一方の頬を向けてわたしに打たせるならば、わたしは一ヶ月の間、すっきりしないでしょう。
すべてのクリスチャンは、地上において他人を利用することはできません。もしあなたがそういう事を一回すれば、神の御前で少なくとも一ヶ月を失ってしまい、起き上がろうとしても起き上がれないでしょう。人に打たせたほうが、家に帰ってよく眠れるでしょうし、食事もおいしいでしょう。利得を得れば得をするなどと絶対に思ってはいけません。反応が正しければ、正しい道を歩んでいるのであると、わたしたちは信じます。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十四編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-31 | 初信者成就シリーズ
(この記事は9,189文字で、19分で読み終えることができます。)
クリスチャンになると就職、結婚、日常生活に関わるあらゆる出来事において神のみこころが何であるのかを求めます。ある人は、「神に祈っても答えられない」と不平を漏らします。まず神のみこころを知る前に、重要なことを述べます。ヨハネによる福音書第7章17節は言います、「だれでも彼のみこころを行おうとするなら、・・・知るであろう」。
多くのクリスチャンが神のみこころを知りたいと願うのに、その答えが得られません。その理由は、彼らは根本的に神のみこころのままに行いたいという願いがないからです。彼らはただ、神のみこころを尋ね求める方法を持ち出して一つの知識にしてしまっているという事実があるからです。彼らには自分の願いがあって、ただ神に自分の助言者になってもらい、神のみこころを持ち出して参考にしているにすぎません。覚えておいてください。神のみこころは、ただそのとおりに行ないたいと思う人たちにのみ知らされるのです。ですから、神のみこころを知りたいなら、そのみこころどおりに行なおうと決意しなければなりません。これはとても重要なことです。
このことを踏まえた上で、どのようにして神のみこころを知ることができるのかを交わりたいと思います。
Ⅰ. 神のみこころどおりでなければならない
救われる前、わたしたちはすべて自分の心のままに行なっていました。当時は自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。しかし、今日わたしたちは主を信じる人となりました。彼はわたしたちの仕える主であり、わたしたちは主に買い戻された者、主に属する者、主に仕える者であることを認めました。ですから、救われた後、わたしたちには一つの根本的な変化がなければなりません。それは、わたしたちの行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、神のみこころどおりでなければならないということです。
ですから、いったん救われたなら、まず「主よ、わたしは何をすべきでしょうか?」と問うべきです。何かの出来事に遭遇した時、「主よ、わたしの意志のままではなく、あなたのみこころのままになさってください」と主に言うべきです。
わたしたちの得た命は、わたしたちの内側で神のみこころにしたがって歩むようにという基本的な要求をします。神のみこころどおりを行なえば行なうほど、内側にますます喜びがあります。わたしたちがクリスチャンになったなら、神のみこころを受け入れることと、神のみこころにすべてを支配させることを学ばなければなりません。もし神のみこころの下に従順に服することができるなら、回り道をすることが少なくてすみます。多くの人が失敗し、多くの人が命の成長に欠けるのは、自分の意志のままに行なうからです。
Ⅱ. どのようにして神のみこころを知るか
多くの場合、わたしたちのような地上の人が神のみこころを知ることなど、口で言うように簡単にはいかないと思っています。しかし、わたしたちが神のみこころを行ないたいと思っている以上に、神ご自身がみこころを行なってほしいと思っておられます。そのために、神は必ず適切な方法を用いてご自身のみこころがどのようなものであるかをわたしたちに知らせてくださいます。これは神の責任です。わたしたちはこれを信じる必要があるだけです。
それでは、どのような方法で神のみこころを知るのでしょうか?それは三つの事を通してです。第一に「環境の按配」、第二に「聖霊の導き」、第三に「聖書の教え」です。この順番は重要性にしたがったものではありません。ただ三つの事があると示したにすぎません。この三つの事柄の証しが同じであり、一つの路線上で一致する時、それを神のみこころであると断定することができます。もし三つのうちの一つが他の二つと一致しないなら、まだ待つ必要があります。三つがすべて一致する時にこそ、わたしたちはそれを行なうことができます。
A. 環境の按配
ルカによる福音書第12章6節では、「五羽のすずめが二アサリアで売られているではないか?」と言い、マタイによる福音書第10章29節では、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか?」と言っています。一アサリオンで二羽のすずめが買えるとすれば、二アサリオンでは四羽のすずめしか買えない計算になります。しかし主は、ニアサリアで五羽のすずめが買えると言われました(アサリアとアサリオンのギリシャ語は同じ)。一アサリオンで二羽、ニアサリアでは四羽とさらに一羽買えるということは、すずめがとても安いものであることを見せています。しかし、そのように安いすずめであっても、もし神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることがないのです。このことは、すべての状況が神の許可を経なければ起こらないことを見せています。もし天の父が許されなければ、すずめ一羽でさえ地に落ちることがないのです。
人の髪の毛が何本あるかを数えることは困難です。しかし主は、「あなたがたの頭の毛でさえ、すべて数えられている」と言われます(マタイ10:30)。「数えられている」というのは、原文によれば「番号をつけられている」と訳すこともできます。自分の頭の毛が何本あるか知っている人はいないでしょう。まただれも自分の頭の毛を数え上げることはできないでしょう。しかし、神はわたしたちの頭の毛を全部数え上げ、番号をつけておられます。わたしたちの神はこんなにも細かく、こんな事でさえいい加減にはなさいません。
このことから、わたしたちは主を信じたらすぐに、神のみこころを環境から知ることを学ばなければなりません。わたしたちの遭遇する事に、一つとして偶然はありません。すべての事は主によって計られています。あなたの仕事、環境、夫、妻、両親、子供たち、親族、友人、すべての事を、神はあなたのためにうまく按配してくださっています。ですから、環境の中で神のみこころを知ることを学ぶ必要があります。これが信者の最も基本的な学課です。
B. 聖霊の導き
神の御手は環境の中で現れますが、神の真の願いは、わたしたちを内側にあって導きを与えることです。ローマ人への手紙第8章14節は言います、「なぜなら、神の霊に導かれている者はみな、神の子たちであるからです」。わたしたちは神の子供たちであり、神の命を持っていますから、神は環境の中でわたしたちを導いてくださるだけでなく、またご自身の霊を通してわたしたちの内側で語り、導いてくださいます。
エゼキエル書は、「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える」(エゼキエル11:19)と言い、さらに再び「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け」(エゼキエル36:26-27)と言っています。「新しい霊」と「わたしの霊」は違うことを見分ける必要があります。「わたしの霊」は神の霊です。「新しい霊」は、わたしたちが新しく生まれた時に得た霊です。この新しい霊は、一つの部屋、一つの家のようなものであり、神の霊を住まわせることができるところです。もし内側にこのような新しい霊がなければ、神はご自身の霊をわたしたちに与えることはできません。昔からずっと神はご自身の霊をわたしたちに与えようとしてこられました。しかし、人の霊は汚れており、旧創造のもので罪に満ちており、しかも死んでいますから、神の霊を人のうちに住まわせることは不可能です。人が神の御前で新しく生まれて新しい霊を持ってはじめて、神の霊を受け入れることができ、神の霊は人のうちに住むことができるのです。
聖霊の働きは二つに分けることができます。一つは内側の促しです。例えば、使徒行伝第8章29節では、「するとその霊はピリポに『近づいて、あの馬車と一緒になりなさい』と言われた」とあり、使徒行伝第10章20節では、聖霊がペテロに「さあ、立ち上がり、下りて行き、何も疑うことなく彼らと一緒に行きなさい」と告げています。これは内側の促しです。
もう一つは内側の禁止です。例えば、使徒行伝第16章6節から7節では、「また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった」とあります。これらはみな内側での禁止を指しています。
初信者の兄弟姉妹が神のみこころを知りたければ、内側の感覚を少しは知らなければなりません。神の霊は、人の最も内側の場所に住んでおられますから、聖霊の感覚は浅薄なものではなく、外面的なものでもなく、最も深みから出てくるものです。声のようでなくてもやはり声のようでもあり、感覚のようでなくてやはり感覚のようでもあるのです。もしあなたが命のある人なら、この命に従順に歩みさえすれば、正しいと感じるでしょう。
しかし、注意すべきことは、内側の感覚を過度に分析してはいけません。これは正しい、これは間違っていると分析し続けるのでしたら、一日中それをしていてもはっきりしません。ある人は、霊の感覚とはどんなものか、魂の感覚とはどんなものかと、そればかり注意して分析しています。これは全く不健康な状態です。これは一種の霊的病気です。実は、人が分析するのは、光が十分にない時だけです。もし光が十分であれば、すべては自然に明らかになり、時間をかけて分析することなど少しも必要でないはずです。
C. 聖書の教え
神のみこころは環境の中で明らかにされるだけでなく、またわたしたちの内側に住んでおられる神の聖霊を通して知らされるだけでなく、聖書を通しても知らされます。
神のみこころは永遠に変わりません。過去の人々は多くの事に出会いましたが、神はその中でご自身のみこころを明らかにしておられ、その事はみな聖書に記載されています。ですから、神のみこころについては、すでに多くの原則、模範が聖書に記されています。神のみこころを知りたければ、真剣に聖書を読まなければなりません。神のみこころは決して、ある時はこうで、またある時は別であるということはあり得ません。キリストにあっては、ただ「しかり」があるだけです(Ⅱコリント1:19)。わたしたちに対する神のみこころが聖書の教えと反することは決してありません。神が聖書の中で間違いであるとしているのに、今日、聖霊がわたしたちを導いてそれをさせるようなことは決してあり得ません。
神が聖書を通してわたしたちに語られる言葉は、二つに分けることができます。一つは聖書の原則的教えであり、もう一つは聖書の約束の言葉です。聖書の原則的教えは、聖霊の照らしによって明らかにされるものです。聖書の約束の言葉は、聖霊の導きによって得られるものです。例えば、マタイによる福音書第28章19節から20節の主の命令の中で聖霊が告げるのは、クリスチャンは人々に福音を宣べ伝えるべきであるということですが、これは聖書の原則的教えです。しかし、もしあなたがある所に行って福音を伝えたい時に、これが神のみこころであるかどうかという問題は、聖霊の導きによって解決される必要があります。あなたは神の御前で多く祈り、神が言葉を与えてくださるように求めるべきです。ある日、聖霊が聖書の中からある言葉を、あるいはある個所を、力強く、新鮮に、生き生きとあなたの内側に置かれるでしょう。それが聖霊があなたに与える約束の言葉です。このようにして、それが神のみこころであるかどうかを知り始めるのです。
Ⅳ. 神のみこころを知る具体的な例
さて、この三つの事柄を一緒にしてみましょう。この三つの順番は定まっていません。ある時、まず環境の按配があり、それから聖霊の導きと聖書の教えがあります。またある時は、まず聖霊の導きと聖書の教えがあって、それから環境の按配が来ます。環境の按配は、神の時と関係があります。ムーディー兄弟は神のみこころを求める時、常に三つの事を問いました。第一に、この働きは神の働きであるか?第二に、この働きは神がわたしに行なわせたい働きなのか?第三に、この時は神の時であるか?第一と第二の問いは、聖書の教えと聖霊の導きから解決することができますが、第三の問いは、環境の按配を見てはじめてわかります。
もし内側の感覚が聖霊の導きであるかどうかを知りたいのでしたら、わたしたちも二つの問いをしなければなりません。第一に、聖書の教えに合っているかどうか、第二に、環境の按配があるかどうかです。もし聖書の教えに合わなければ、それは神のみこころではありません。もし環境の按配がなければ、それは待つ必要があります。もしかすると、わたしたちの感覚が間違っているのかもしれませんし、あるいは神の時がまだ来ていないのかもしれないからです。
神のみこころを求める上でわたしたちが学ぶべき学課は、間違うことを恐れ、主観的にならないことです。わたしたちは神に対して、神のみこころでない道をみなふさいでくださるように求めることができます。
例えば、ある人があなたを招いて働きをさせて、あなたが何かをしようとするとします。あるいは、ある人があなたに自分の前途について再考慮するように勧めるとします。その時、あなたはどのようにしてそれが神のみこころであるかどうかを知りますか?まず聖書の教えを見ます。神が御言葉の中でこのことについてどう教えておられるかを見ます。それから、自分の内側がどう感じるかを問います。聖書はこのように教えているが、あなたの内側では正しいと感じるでしょうか?もし内側の感覚と聖書に書かれていることが違っていれば、それは内側の感覚に全く信頼するわけにはいかないことを証明しているのですから、少し待つべきです。そしてまた尋ね求めます。
もし内側の導きと聖書に書かれている事が一致しているなら、頭を上げて言ってもよいでしょう、「主よ!今までは、あなたのみこころは環境の中で現されてきました。わたしの内側の感覚と聖書の教えが同じであっても、環境はそうでないということは今までありませんでした。主よ!どうか環境を十分に整えてください。環境と聖書の教えと聖霊の導きとを一直線に整えてください」。このようにしてあなたは、神が確かに環境の中でご自身のみこころを現されるということを見るでしょう。もし神のみこころであれば、神がわたしたちに外側で見せていることと、わたしたちが内側で見ていることと、聖書の中で見ることとは、必ず一直線上にあるのです。あなたの内側がはっきりしており、聖書の教えがはっきりしており、環境もはっきりしていれば、神のみこころに対してもはっきりするでしょう。
Ⅴ. 教会の承認とその他の要素
神のみこころは、神の言葉の中や、人の霊の中や、環境の中に現れる以外に、教会の中にも現されます。もしあなたがある事のために神のみこころを尋ね求めるなら、一方において内側ではっきりとした聖霊の導きを受け、聖書の教えと一致するようにし、環境の按配もあるべきですが、もう一方において、もし機会があれば、あなたがみこころについてさらに把握を持つために、教会の中で神を認識している人たちと少し交わることが良いでしょう。
A. 教会の承認
彼らがあなたの思っていることに「アーメン」を言えるかどうかを見ることは大いに助けになります。彼らは聖書についてかなりの認識がありますし、肉もかなりの対処を受けてきましたし、聖書の支配の下に生きており、霊的状態も神が彼らを通してご自身のみこころを語り出すことができる状態ですから、教会の中で現れているあなたの状態にしたがって、あなたの見ているものに関して「アーメン」を言うことができるかどうかを感じることができます。
もし彼らが「アーメン」を言うことができれば、あなたは神のみこころについて確信を持つことができますが、もし彼らが「アーメン」を言うことができなければ、あなたはさらに待つ必要がありますし、さらに確実になるように神に尋ね求めなければなりません。というのは、わたしたち個人には限りがあり、個人の感覚、聖書の教えについての個人の了解、環境の按配に対する個人の認識には誤りがあったり、十分正確でなかったりすることがあるからです。しかし、教会は比較的頼りになります。もし教会の中の他の肢体たちがあなたの得た「導き」についてみなあまり信用できないとする時は、自分の意見に固辞してはなりません。このような状況になったら、へりくだることを学ばなければなりません。
主イエスは言われました、「あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」(マタイ18:18)。教会は神の住まい、神の光のある所ですから、神のみこころが教会の中で明らかになることを信じなければなりません。わたしたちはへりくだった態度を持つべきです。自分の見方に誤りがあることを恐れるがゆえに、教会との交わりが必要であり、からだの供給が必要なのです。
しかし、わたしたちは極端へと走るのを防がなければなりません。あるクリスチャンは受け身になりすぎて、何でも教会に聞きに来て、別の人に代わりに決めてもらおうとしますが、これは根本的に新約の原則に反しています。わたしたちは教会の中の霊的な人たちを旧約の預言者のように見て、あらゆることを彼らに教えてもらおうとしてはいけません。ヨハネの第一の手紙第2章27節は言っています、「あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません。彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます」。この油塗りはわたしたちの内側に住んでいる聖霊です。教会の承認を、この油の教えに代えることは絶対にできません。教会の承認は預言ではありません。それは、わたしたちの見たものと教会の見ているものとを照合して、神のみこころについてさらに確信を得るための機会なのです。ですから、それは個人が神のみこころを尋ね求めることの保護であって、個人が神のみこころを尋ね求めることに取って代わるものではありません。
もう一点知っておくべきことは、先に述べた神のみこころを尋ね求める方法についてですが、それはみな比較的重大な事について応用するものであって、日常生活の中の些細な事の場合にはこのような方法で尋ね求める必要はなく、人としての常識にしたがって決定すれば十分です。
B. その他の要素
幻と夢についてほんの少し触れておきましょう。旧約では、神は多くの幻や夢を通してご自身のみこころを人に告げられました。新約でも幻や夢はありますが、神はそれらを主要な導きとしてはいません。新約の特徴は、神の霊がわたしたちの内側に住んでいるので、神は直接わたしたちの内側で語りかけることができることです。ですから、主要な通常の導きとは、内側の導きです。神が特に重要な事を知らせたいが、普通の状態ではわたしたちがその導きを受けるのが難しい時には、幻や夢の導きを与えられるでしょう。新約では、幻や夢は神の導きの普通の方法ではありません。ですから、それが妥当で確かなものとなるためには、幻や夢を見せられても、さらに内側の証明と環境の証明を求めなければなりません。
例えば、使徒行伝第10章で見せていますが、神はペテロに異邦人に福音を宣べ伝えに行くよう求められました。ペテロはユダヤ人であり、その習慣によれば、決して異邦人の所に行こうとはしません。そこで神はペテロのこの観念をくつがえすために幻を見せたのです。ペテロが幻を見た後、環境の按配上では、コルネリオから遣わされた三人の人が尋ねて来て、もう一面において、聖霊もペテロに語りかけています。これら内側と外側の証明があってはじめて、これは神のみこころであると確信することができます。
あるクリスチャンは、いわゆる幻や夢を多く見るので、それがすっかり日常茶飯事になってしまっています。これは一種の霊的病気です。それは、神経が衰弱しているか、サタンの攻撃を受けているためか、悪霊によって惑わされているかでしょう。いずれにしても、それは不正常な現象です。
結論として、神がわたしたちを導かれる方法は多方面にわたっています。各自の霊的状況は異なっていますし、必要も違いますから、神がそれぞれを導かれる方法も同じではありません。しかし、一般的な方法は、やはり環境の按配、内側の導き、聖書の教えです。ここで繰り返し言いますが、もしこの三点がはっきりと一直線上にあるなら、神のみこころについてかなりの確信を持つことができるでしょう。
Ⅵ. 神のみこころを知っている人
最後に、方法がすべて正しくても、すべての人が神のみこころを知ることができるとは限りません。正しい方法が役に立つのは、人も正しい時だけです。反逆的な人が神のみこころを知ろうとしても、それは無駄です。神のみこころを知ろうとするなら、内側からこのように求めるべきです、「主よ、わたしはあなたのみこころどおりを行ないたいです!」。
申命記第15章17節にある、奴隷の耳を戸に刺す事が見せていることは、もし神に仕えたいなら、あなたの耳はひたすら神の言葉に聞き従わなければならないということです。あなたは主の御前に来て言うべきです、「わたしの耳を戸の上に刺し通してください。あなたの言葉に釘づけられたいと願います。わたしはあなたに仕えたいです。どうかあなたの言葉を聞かせ、あなたのみこころを知らせてください」。わたしたちは耳が戸の上に釘づけられるように、主の言葉に耳を傾けなければなりません。
神のみこころを知ることは小さな事だと決して思うべきではありません。神の目には、わたしたちは虫けらです。このような小さく卑しい人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!わたしたちのように極限まで腐敗している人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!神はご自身を低くしてわたしたちにみこころを知らせてくださるのです。ですから、わたしたちは神のみこころを知ることを学び、伏して礼拝し、神のみこころを尊び、神のみこころを行なわなければなりません。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十七編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-24 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,803文字で、17分で読み終えることができます。)
多くのクリスチャンは主に対して間違った考えを持っています。すなわち、主は地上にあってわたしたちのためにすばらしい模範を残されたので、わたしたちはそれに倣うべきであるとしていることです。確かに、聖書は主に倣いなさいと命じています(Ⅰコリント11:1など)。しかし、聖書は決して自分自身によって主に倣うようにとは言っていません。わたしたちはまずあるものを見てはじめて、主に倣うことができます。多くの人はいつも主に倣いたいと思いながら、いつも失敗しています。彼らは、人がどんなに駄目であるかを知りませんし、人の肉の力には絶対に主に倣う方法がないことを知りません。
あるクリスチャンは、聖書は「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行うことができるのです」(ピリピ4:13)と告げていると言います。ですから、彼らは主に力を求めるのです。彼らは多くの事をすべきである、聖書の多くの命令を守るべきである、主の多くの模範に倣うべきであると感じますが、自分には力がないので主に力を求めるのです。彼らは、もし主が力を与えてくださるなら、すべての事をすることができると思っています。それで多くの人は、毎日毎日、主が力を与えてくださるようにと主を仰ぐのです。
力を与えてくださるように主に依り頼むことは正しいです。しかし、主が力を与えてくださること以外に、見なければならない一つのことがあります。もしそれを見ないなら、主に力を与えてくださいと仰いでも、ずっと力のないままでいることになります。主に力を求めることは良いことです。しかし、時にはこの祈りは答えられますが、時にはこの祈りは答えられないかのようです。そうであれば、主が力を与えられた時はすべての事ができて、主が力を与えられない時はどんな事もできないということになります。ですから、多くのクリスチャンはよく失敗するのです。
Ⅰ. キリストはわたしたちの命である
聖書の中で見せている主とわたしたちの関係はいったい何でしょうか?それは「キリストはわたしたちの命である」ということです。キリストがわたしたちの命となってこそ、わたしたちは主に倣うことができます。「キリストはわたしたちの命である」とは何をいうかがはっきりしないなら、わたしたちには主に倣うすべはありません。ですから、「キリストはわたしたちの命である」という秘訣がまず明らかになり、まずこれを見て、まずこれを得て、そうしてはじめてキリストに倣うことができるのです。
Ⅱ. わたしたちにとって生きることはキリストである
多くのクリスチャンは、ピリピ人への手紙第1章21節の「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、」という御言葉についてとても大きな誤解をしています。パウロの言っている「わたしにとって生きることはキリストであり」とは、一つの事実なのです。それなのに彼らは「わたしにとって生きることはキリストであり」を一つの目標、あるいは一つの望みにしているのです。実際パウロは、「わたしにとって生きることはキリストであり」という目標があると言っているのではありません。パウロは、わたしが生きることができるのはキリストがあるからであり、もしキリストがなければわたしは生きることができない、と言っているのです。これは彼の事実であって、目標ではありません。これは彼の生活の秘訣であって、望みではありません。彼の生活はキリストです。彼が生きることは、キリストが生きることです。
ガラテヤ人への手紙第2章20節の「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という御言葉は、多くのクリスチャンがとてもよく知っている一節です。しかし、多くの人はこの節をピリピ人への手紙第1章21節よりもさらに誤解しています。彼らはガラテヤ人への手紙第2章20節を彼らの目標とし、神の御前で祈り求め、熱望し、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という境地に達したいと望みます。彼らはいつかわたしもパウロのようになり、キリストがわたしの中に生きておられるようになりたいと願います。
しかし、わたしたちの過去の経験によれば、このように願った人がこの目標に到達し得たのをいまだに見たことがないと言えるだけです。もしあなたがそれを目標とするなら、もしその境地に達することを願うなら、もし十字架に釘づけられることを願うなら、もし生きるのはあなた自身ではなくてキリストがあなたの中に生きることを願うなら、いつまで、何年何月まで待たなければならないかわかりません。なぜなら、これはあなたには絶対にできないことだからです。
これは、神がわたしたちに与えられたすばらしい恵みであることを、わたしたちは知らなければなりません。このすばらしい恵みの中に一筋の出口があり、すべて失敗した人に勝利を得させ、すべて汚れた人を清くし、すべて俗な人を聖とし、地に属するすべての人を天に属させ、肉に属するすべての人を霊的にすることができます。これは方法であり、目標ではありません。この方法は、代わりの命によります。主の恵みの中に、代わりに死ぬことがあるのと同様に、代わりに生きることもあります。
主は十字架上で、わたしたちに代わって罪を担い、死ぬことによってわたしたちを死から免れさせ、わたしたちの罪は赦しを得て、裁きを免れました。同様に、ここでまたパウロは、主はわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きることを免れさせてくださると告げています。この意味はとても簡単です。すなわち、キリストがわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きる必要はないということです。キリストが十字架上でわたしたちの代わりに死なれたように、今日、キリストはわたしたちの中でわたしたちに代わって生きてくださいます。パウロは、わたしは自分が生きないことを願っている、キリストに生きてもらうことを願っている、と言っているのではありません。彼は、わたしは生きない、キリストが生きてくださる、と言っているのです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これが勝利の秘訣であり、これが勝利を得る方法です。
死を免れることは大いなる福音です。同様に、わたしたちが生きる必要はないということも大いなる福音です。主があなたをあわれんで光を与えてくださいますように。
A. キリストがわたしたちの中で生きる
もしわたしたちがこれを見なければ、証しを維持したり、クリスチャンの生活を維持したり、試みを拒絶したり、十字架を負ったり、神のみこころにしたがうことは、大変な重荷であると感じるでしょう。主を信じる多くの人は、クリスチャン生活を維持することは大変なことであり、しかもとても力まなければならないと思っています。こういう状況は、彼らが間違った方法でクリスチャン生活を送っていることを示しています。パウロは言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これがクリスチャン生活の秘訣です。主があなたの中でクリスチャンになってくださるのであって、あなたがあなたの中でクリスチャンになるのではありません。もしあなたがあなたの中でクリスチャンになるのであれば、忍耐は苦痛であり、愛も苦痛です。へりくだりも苦痛ですし、十字架を負うことも苦痛です。もしキリストがあなたの中で生きてくださるのなら、忍耐は喜びであり、愛も喜びです。へりくだりも喜びですし、十字架を負うことも喜びです。
ここに大いなる福音があります。神はあなたが善をすることを求めません。また善をしようとする意志も求めません。神は、キリストがあなたの中で生きることを求められます。神が注意されるのは、善を行うか行わないかの問題ではなく、「だれ」が善を行うかの問題です。わたしたちがキリストに倣うのではなく、わたしたちがキリストの力を得るのではなく、「キリスト」がわたしたちの中で生きられるということです。
生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20前半
Ⅲ. わたしはすでにキリストと共に十字架につけられた
あなたはこのような質問をするかも知れません。「どのようにすれば生きているのはもはやわたしではないとなるのでしょうか?」この「わたし」はどのようにすれば除き去られるのでしょうか?この問題の答えは、ガラテヤ人への手紙第2章20節の「わたしはキリストと共に十字架につけられました」です。
わたしたちの内側の目が開かれて、主イエスが十字架上で死なれた時、神はわたしたちをキリストの中に置いて、キリストと共に死なせられたことを、わたしたちは見る必要があります。これは神の側での働きです。あなたは、主イエスがあなたの罪を担ってあなたの代わりに死なれたことを信じました。それは約2000年前の出来事でした。同じように、主イエスが十字架に釘づけられた時、神はあなたという人をも共に十字架上で対処されました。あなたの罪が約2000年前に解決されたように、あなたという人もまた約2000年前に解決されました。神があなたの罪を主イエスの身に帰されたその時に、神はあなたという人をも主イエスの身に帰されたのです。十字架上であなたの罪は終わりました。十字架上であなたという人も終わりました。キリストと共に十字架につけられることを望むのではありません。すでにキリストと共に十字架につけられたのです。わたしたちはすでに終わらされているのです。
聖書は、幕屋の中の垂れ幕にはケルビムが織り出されていると告げています(出エジ26:1)。主イエスが世を去られた時、垂れ幕が裂けました(マタイ27:51)。そして当然ケルビムも裂けました。この垂れ幕は主イエスの肉体を指しています(ヘブル10:20)。ケルビムには人の顔、獅子の顔、牛の顔、わしの顔がありました(エゼキエル1:10,10:20)。ケルビムは被造物を代表しています。主イエスの肉体が裂かれた時、神は被造物を主イエスの中に置いて、みな一緒に裂かれました。ですから、旧創造すべてが過ぎ去りました。キリストが十字架上に釘づけられた時、旧創造全体が裂かれました。あなたもそこにおいて裂かれたのです。
この真理について、あなたは必ず信じなければなりません。罪は十字架上にあり、人もまた十字架上にあります。あなたの罪はすでに担われ、あなたという人はもはや釘づけられて死んでいます。これはキリストがなさった事です。多くの人が失敗するのは、いつも自分の内側を見つめるからです。信仰のある人は、十字架上を見つめるべきであり、キリストが成し遂げられたことを見るべきです。神はわたしをキリストの中に置かれたのですから、キリストが死なれたのであれば、わたしも死んだのです。
A. 十字架は人に対する神の決断である
しかし、どうしてあなたという「人」は今日なおも生きているのでしょうか?あなたは釘づけられて死んだのに、どうしてまだ生きているのでしょうか。この問題を解決するためには、あなたは信じる必要がありますし、意志を用いて自分を神の側に置く必要があります。「死」とは、人が弱くなり、さらに弱くなり、極みまで弱くなって、これ以上弱くなれないほどまで徹底的に弱くなることです。多くの人は自分の弱さを認めません。自分に対して多くの要求があるなら、その人はまだ死んでいません。
今日、多くのクリスチャンが、自分はダメなのにやはり行おうとします。例えば、ある人が忍耐できない時、どうするでしょうか?もし彼が自分で忍耐しようとして、力を尽くして忍耐し、祈る時も忍耐を求め、働く時も忍耐を思うとしたら、忍耐すればするほどますます忍耐できなくなるでしょう。彼は次のように言うべきです、「主よ、あなたはすでに、この忍耐できないわたしを釘づけられました。わたしは忍耐できない人です。わたしは忍耐する必要がありませんし、忍耐しようとも思いません。」これが勝利の道です。
主はあなたを十字架に釘づけられたのですから、あなたは「アーメン!」と言うべきです。主はあなたを十字架につけられたのに、もしあなたがまだ自分で忍耐しようと思うのでしたら、それは駄目です。神はあなたが良くなる見込みがなく死ぬしか方法がないとして、あなたを釘づけられたのに、あなた自身はいまだに自分に望みがあるとして忍耐しようとします。これは、大変な間違いをしていることになります。神はあなたを死ぬべきだと見ておられるのですから、あなたは「アーメン、わたしは死に渡されるべきです」と言えばよいのです。十字架は、わたしたちに対する神の決断です。神はあなたが死ぬ以外道はないと認められたので、あなたを釘づけられたのです。
ですから、これには二面あります。第一に、キリストは死なれ、わたしたちは十字架につけられました。これは神がなさった事です。第二に、わたしはこの事を認めて、「アーメン」と言う必要があります。これはあなたがすべきことです。この二面が必要です。わたしたちはこんなに長い間、こんなに多くの罪を犯し、こんなに多くの弱さを持ち、こんなに多くの高ぶりを持ち、こんなに多くのかんしゃくを起こしてきましたから、わたしたちは自分に対して諦めるべきです。主の御前に来て、主に言いましょう、「わたしはすでに十分にやってきましたが、本当に駄目でした。今日、わたしはもう諦めます。あなたが来てください!わたしはすでに十字架につけられたのですから、今から後はあなたに生きていただきます!」これが、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」ということです。
Ⅳ. 神の御子を信じる信仰によって生きる
ガラテヤ人への手紙第2章20節にはさらに二つの重要な言葉があります、「そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、・・・神の御子の信仰の中で生きるのです」。キリストはわたしたちの中に生きておられます。今後わたしたちは神の御子の信仰によって生きます。わたしたちが日々信じるのは、自分自身の信仰ではなく、神の御子の信仰です。神の御子がわたしたちの中に生きておられるのです。この神の御子の信仰によって生きます。わたしたちは主に向かって言います、「主よ、わたしはあなたがわたしに代わって生きておられることを信じます。主よ、わたしは、あなたがわたしの命となっておられることを信じます。わたしが信じるのは、あなたがわたしのなかに 生きておられることです」。わたしたちがこのように信じるなら、わたしたちはこのように生きるのです。どんなことが起ころうとも、わたし自身は動きません。自分が動いても役に立たないのだから、今後は動かないということです。
サタンがわたしたちを試みる目的は、わたしたちに罪を犯させることだけでなく、わたしたちの古い人を動かそうとすることです。ですから、試みがやってくる度にわたしたちは、動く事を拒絶する学びをし、主に向かって次のように言うべきです、「主よ、これはわたしの事ではありません。これはあなたの事です。このことにわたしには責任がありません。あなたが代わって生きてくださることを仰ぎ望みます」。仰ぎ望むことを学ぶのであって、自分が動いてはなりません。わたしたちの救いは、信じることによるのであって、行為によるのではありません。わたしたちの命も、信じることによるのであって、行為によるのではありません。
失敗は人の行ないが足りないことによるのではなく、人の行ないが多いことによります。わたしたちの行為が多い時、主の命は現れません。わたしたちは日ごとにこのように言うべきです、「主よ、わたしは役に立ちません!あなたの十字架をわたしは受け入れます。主よ、わたしが動かないように守ってください。主よ、あなたが主となって、あなたが生きてください!」。もしあなたが信じることができ、仰ぎ望むことができ、依り頼むことができるなら、毎日、「わたしが生きているのではなく、キリストが生きておられる!」と証しすることができるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-17 | 初信者成就シリーズ
(この記事は7,235文字で、18分で読み終えることができます。)
あなたがもしクリスチャンになって、一度も罪に悩まされたことがなく、罪の感覚を失い、この世の人のように生きているなら、それはすでに良心が麻痺しているか、主を愛していないということでしょう。しかし、あなたがクリスチャンになった後に、常に罪に悩まされ、罪に打ち勝てず、罪に誘惑され、罪に敗北しているなら、それは「正常なクリスチャン」ではありません。なぜなら聖書は、クリスチャンは罪と死の法則から解放されている(ローマ8:2)と言っているからです。
人が主を信じると、すぐに罪から解放されることができます。しかし、すべて主を信じた人がこれを経験するとは限りません。主を信じても多くの人は罪から解放されないばかりか、しばしば罪悪の中に陥っています。間違いなく彼は救われていますし、主のものですし、彼らの中にはすでに永遠の命があります。しかし、彼らはしばしば罪に邪魔されて、自分が願うようには主に仕えることができないでいます。
主を信じてから罪に悩まされるのは、確かにとても苦しいことです。神に照らされている人は、鋭い良心を持っています。彼には罪の感覚があり、内側には罪を罪定めする命があります。それは罪に悩まされると苦しいと感じさせますし、がっかりさせます。これは確かにとても苦しい経験です。
それで、多くのクリスチャンは罪に打ち勝とうと思います。ある人は、罪には打ち勝つ必要があると思っているので、罪と争い、それに打ち勝とうとします。ある人は、罪は彼を不自由にしているので、もし努力奮闘すれば罪のなわめから解かれるとして、力の限り奮闘します。ある人は、祈りによって罪に打ち勝とうとし、必死に悔い改め、必死に罪を犯さないようにと神に助けを求めます。しかし、これらはすべて人の意見であり、神の言葉ではなく、神の教えではありません。これらの方法はすべて、人を勝利へと導くことができません。神の言葉は、わたしたちの力を用いて罪と格闘するようにとは決して言っていません。神の言葉は、罪から救われるように、あるいは罪から解放されるように、罪から自由を得るようにと言っています。
罪はもともと一つの力であり、それはあなたを捕まえていました。**今あなたはこの力を消すのではなく、主によってそれから解放していただくのです。**あなたはもともと罪を持っており、それを離れる方法がありませんでした。**今日、主はそれを打って死なせるのではなく、あなたをそれから引き離して、罪の力から救うのです。**初信者のクリスチャンは、主を信じたらすぐに罪から解放されることを知るべきです。罪から解放されるまで、幾つも曲がり角を曲がる必要はありません。主を信じたらすぐ自由の道を歩むべきです。さて、ローマ人への手紙第7章と第8章からこの問題を解決してみましょう。
Ⅰ. 罪は法則である
ローマ人への手紙第7章15節から25節は言います、「わたしは自分のしていることを認めません。なぜなら、わたしは自分の欲することを実行せず、かえって自分の憎むことを行っているからです。もしわたしの行っていることが、自分の欲しないことであるなら、わたしは律法が善であることに同意することになります。ですから、それを行ない出しているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです。わたしは自分の欲する善を行なわず、かえって自分が欲しない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行ない出すのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。そこでわたしは、善を行おうと欲しているわたしに、悪が共にあるという法則を見いだします。わたしは、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、わたしの思いの法則に逆らって戦っており、わたしの肢体の中にある罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見ます。何とわたしは苦悩している者でしょう!・・・このように、わたし自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。
15節から20節でパウロは、「欲する」「欲していない」という言葉を繰り返し用いています。ここでの重点は、欲する、欲しない、志を立てる、志を立てない、です。21節から26節では、彼はもう一つの重点、すなわち「法則」と見せています。この二つの重点がこの部分の聖書の鍵です。
わたしたちはまず、何を法則と言うのかをはっきりさせましょう。一般的に言うと、**法則の意味は、絶えず同じであり、例外がないことです。しかも法則には力があります。**法則の力は自然であって、人が作り出す必要はありません。例えば、引力は法則です。一つの物を上に向かって投げるなら、それは自然に地上に落ちてきます。手で引っ張り下ろす必要はありません。地球には自然にそれを引っ張り下ろす力があります。何を投げても、どこで投げても、いつ投げても、この法則は変わりません。
ローマ人への手紙第7章は、パウロが勝利を得ようと思っていたことを見せています。彼は罪を犯さないでいられたら、神が喜ばれる事をすることができたら、一番良いと思っています。彼は罪を犯すことを願わないし、失敗することを願いません。しかし結果は、彼は自分がしようとしても駄目であることを認めています。彼は言っています、「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行うことはないからです」。彼は罪を犯すことを願わないのに、犯してしまいます。彼は善をしようと願い、神の律法を行なうことを願っているのに、そうできません。言い換えれば、自分が願うことはすべてできません。自分が志を立てても全部できません。パウロの結果はすべて失敗です。ここからわかるように、勝利の道は人の願いにあるのではなく、人が志を立てて決心することにあるのでもありません。パウロは何度も志を立て、願った上にまた願いましたが、結果はやはり失敗でした。これは、しようとする意志は自分にあるが、それをする力がないことを、明らかに見せています。
なぜ「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはない」(ローマ7:18)のでしょうか?それは罪が一つの法則であるからです。パウロは21節で、しようとするが失敗するのは、罪が一つの法則であることを示しています。彼が善をしようと志を立てる度に、罪を犯す法則が彼と共にあるのです。彼は心の中では神の律法に従うのですが、彼の肉体は罪の法則に従うのです。彼が神の律法に従おうと決心する時、彼の肢体には別の法則があって、彼をその肢体の中にある罪の法則に従うようにとりこにするのです。
聖書の中で、パウロは罪が法則であると語った最初の人でした。これはとても重要な発見です!!!残念ながら、多くの人はクリスチャンになって何年も経つのに、罪が法則であることを見ていません。多くの人は、地球の引力が一つの法則であることを知っています。しかし彼らは罪も一つの法則であることを知りません。パウロも最初は知りませんでした。しかし、罪と格闘し、何度も敗北した結果、罪が法則であることを発見しました。
わたしたちの失敗の歴史はわたしたちに告げますが、誘惑が来た時、心の中では抵抗しようと思うのに、うまく抵抗できずに失敗してしまいます。二度目に誘惑がやって来ると、また抵抗し、結果はまた失敗です。これがわたしたちの失敗の歴史であり、一回、また一回とすべてこのようです。これは決して偶然ではありません。これは法則です。
Ⅱ. 人の意志は罪の法則に打ち勝つことができない
パウロが最初失敗したのは、ずっと自分の意志を用いて「欲したり」、「しようとした」からです。しかし、21節の後、パウロの目は開かれて、彼が対処しなければならない敵である罪は、法則にほかならないことを見ました。罪が一つの法則であるのを見ると、彼はため息をついて言うほかありませんでした、「何とわたしは苦悩している者でしょう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」。彼は、意志をもって罪を対処することはできないことを認識しました。
何を意志と言うのでしょうか?意志とは、人の考え、つまり人が自分で決め、しようと思ったり、欲したり、主張したり、決断したりすることです。人の意志は、一つの事をやろうと決めると、それを遂行しようとします。人の意志は力を生み出すことができます。ですから、意志には力があります。
例えば、たばこを吸っていた人がキリストを受け入れたとします。その人は、クリスチャンはたばこを吸うべきではないと思いました。そして、彼はたばこを辞めることを決意します。しかし、結果はどうでしょう?彼は辞めようとすればするほど、たばこを吸いたいという衝動に駆られるでしょう。これは世的なことであるため、意志が強い人は克服することができるかも知れません。では、これはどうでしょう?
イエスはマタイによる福音書第5章28節で言いました、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのである」。続けて、マタイによる福音書第6章44節は言います、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。極め付けには、マタイによる福音書第6章48節は言います、「だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」。これは神が世の人を愛しておられる完全な愛で、世の人を愛しなさいという意味です。
人は良い事を行おうと、神の命令を守ろうと決意することができます。しかし、問題はここにあります。意志と罪の法則が相反する時、いったいどちらが勝利するかです。たいてい最初は意志が勝ちます。しかし、最後は必ず罪が勝ちます。
例えば、ある重さの本を手に乗せるとします。引力はそれを下に引っ張りますが、あなたは力いっぱいそれを支えます。しかし、法則が絶えずそこに働いて、それを地面へと引っ張ります。あなたはそれを落ちないように持ち続けます。結果、一時間は勝利するでしょう。二時間になると、少し疲れを覚え、さらに一時間経つと、あなたの手は言うことをきかなくなってしまい、手放さなないではいられなくなります。意志を用いて罪に打ち勝とうとするのもこのようです。意志は一時的に罪に抵抗することができますが、罪の力は人の意志の力をはるかに超えています。罪は法則であり、意志によって抵抗して消滅するものではありません。
例えば、かんしゃくを起こすのは、とてもわかりやすい罪です。ある人が耳障りの良くない言葉を一句語ると、あなたの内側は気持ちよく感じませんし、内側で反発してしまいます。その人がもう一句不愉快な言葉を口にすると、あなたはテーブルをたたいて、わめき、ののしり、何でもやってしまいます。しかし、自分はクリスチャンであるからかんしゃくを起こすべきではないと感じて、もう短気を起こすのはやめようと決心します。あなたは祈り、神が赦してくださったと信じ、またその人に罪の告白もしました。心の中もすっきりして、もう短気を起こすことはあるまいと思います。しかし、しばらくして、人がまた聞きづらい言葉を言うと、聞いていてまた耐えられなくなります。二度目、三度目と繰り返されるなら、あなたのかんしゃくは爆発するでしょう。この後、何度決心しても結果は同じです。これは法則であり、人の力では打ち勝つことができません。
パウロは、人が救われるのは意志によらないことを見ました。人がまだ意志の力に頼っている時は、神の救いの方法に頼ることができません。ある日、神の御前にひれ伏して、自分には方法がないことを認めて、何もしない時、何が救いであるかを見ることができるでしょう。そしてローマ人への手紙第8章を理解することができるでしょう。しかし、ローマ人への手紙第7章を軽視しないでください。わたしたちはまず第7章の認識があってはじめて、第8章を経験することができます。**問題は、あなたがローマ人への手紙第8章の教理を理解したかどうかではなく、あなたが第7章から出てきたかどうかです。**あなたが、罪は法則であり、意志は罪の法則に打ち勝てないことを見ていないなら、ローマ人への手紙第7章に閉じ込められてしまい、永遠に第8章に至ることはできません。では、勝利の方法はどこにあるのでしょうか?
Ⅲ. 命の霊の法則はわたしたちを罪の法則から解放する
ローマ人への手紙第8章2節は言います、「そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。勝利の道は、罪と死の法則から解放されることです。
ここでは、「キリスト・イエスにある命の霊は、罪と死とからあなたを解放した」とは言っていません。(多くのクリスチャンはこのように思っているでしょう。)ここでは、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」と言っているのです。多くのクリスチャンは、命の霊が自分を罪と死から解放したと見るだけで**、命の霊の法則が罪と死の法則から自分を解放したということを見ていません。**多くのクリスチャンは、罪と死が法則であることを知るのに何年かかるかわかりません。また聖霊がわたしたちの上で法則であることを知るにもどれだけの年数がかかるかわかりません。ある日、主がわたしたちの目を開かれる時はじめて、罪が法則であることを見ます。また、ある日、聖霊も法則であることを見るに至ります。聖霊も法則であるのを見ることは、さらに大きな発見です。命の霊が法則であることを知った時、わたしたちは跳び上がって言うでしょう、「主よ、感謝します、ハレルヤ!」。人の意思は罪の法則に打ち勝つことはできません。しかし、命の霊の法則によって罪と死の法則から解放されます。
罪が法則であることを見ると、わたしたちはもはや決して自分の意志を用いて何かをしようとしなくなります。同様に、神の御前であわれみを受けて、聖霊も法則であるのを見た時も、わたしたちには大変化があります。多くの人は、命を与える霊(聖霊)はわたしたちに命を与えることができることしか見ていません。聖霊はわたしたちの内側でもう一つの法則であって、この法則によって自然に罪と死との法則から解放されるということを見ていません。この法則がわたしたちを救い、あの法則から解放してくれる時、少しの力も必要なく、決心する必要もなく、努力も必要なく、聖霊をしっかりつかまえることも必要ありません。この法則がわたしたちの中にあるので、わたしたちはそんなに忙しくする必要はありません。もしあなたが、主の霊はあなたの上で何もしてくれないと恐れて、試みが来た時、自分で早々と手助けするなら、それは聖霊があなたの内側で法則であることをまだ見ていないということです。
ある人があなたを理由もなく叱責したり、あるいはあなたを殴ろうとしたとします。どうしてかわからないのですが、あなたは不思議にこの件に打ち勝つことができます。すべての事柄が終わった後、あなたは自分が叱責された時、なぜ怒らなかったのだろうと不思議に思います。しかし、驚いたことに、あなたはどうしてかわからないのですが、その状況に打ち勝ったのです!そうです、すべての勝利はみな、無意識のうちに得るものです。それは聖霊の法則が働いているからです。知らず知らずのうちに勝利を得ることこそ、真の勝利です。
あなたが聖霊が法則であることを知り、一度このように経験すれば、あなたの内に住んでいる聖霊があなたに罪を犯させないので、罪を犯さないように決心する必要はないことを知ることができます。この法則はわたしたちの内側に住んでおり、罪と死との法則からわたしたちを解放します。わたしたちはキリスト・イエスの中におり、命の霊の法則もわたしたちの中にあって、自然にわたしたちを導いてくださいます。
まとめ
もし兄弟姉妹がこのことを見ることができるなら、真に罪から解放されます。聖書では、わたしたちの意志をもって罪に打ち勝ちなさいとは言っていません。聖書ではただ罪から解放されることをこう言っています、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。命を与える霊の法則はわたしたちを罪と死の法則から引き出して解放します。
救われた人はみな、必ず解放の道を見なければなりません。第一に、罪はわたしたちの上で法則であるのを見ましょう。第二に、人の意志は罪の法則に打ち勝つことができないのを見ましょう。第三に、聖霊も法則であることを見ましょう。この法則がわたしたちを罪の法則から解放することができます。
聖霊はあなたの中で、時には命を現し、時には命を現さないと思ってはなりません。もしあなたがこう思っているなら、それは聖霊を知っているだけであって、聖霊の法則を知らないことを証明します。どうか、あなたが罪が法則であること、また聖霊も法則であることを見ることができますように。どうか神があなたの目を開いてくださり、この解放の道、勝利の秘訣をはっきりと見せてくださり、正しい道を歩ませてくださいますように!
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十五編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-08-10 | 初信者成就シリーズ
(この記事は5,237文字で、11分で読み終えることができます。)
主を愛する聖徒たちは主と会うことを切望します。しかし、多くの聖徒たちの実生活の習慣は、その思いと見合っていないかもしれません。愛する兄弟姉妹が怠惰であることほど嘆かわしいものはありません。
「あなたは今日、何時に起きたでしょうか?」
Ⅰ. 早朝は一日のうちで最も良い時間である
主を信じた人は、毎朝、何時に起きるべきでしょうか?ある姉妹はかつてとても良いことを言いました、「ある人に主を愛する心がどれほどあるかは、まずその人の寝床と主との間の選択を見たらわかります。あなたは寝床をより多く愛しますか、それとも主をより多く愛しますか?寝床をより多く愛するなら、多く眠ります。主をより多く愛するなら、少し早く起きるでしょう」。彼女がこのことを語ったのは、およそ100年前ですが、今日に至ってもこの言葉はやはり新鮮であると感じます。人は寝床をより多く愛するのか、それとも主をより多く愛するのか、いつも選択しなければなりません。主をより多く愛するなら、あなたは早く起きるでしょう。
なぜクリスチャンは早起きをしなければならないのでしょうか?それは人が主にまみえるのに早朝が一番良い時だからです。病気の時以外、すべての兄弟姉妹は早く起床すべきです。多くの病はもともと病ではなく、人が自分を愛しすぎるために病になるのです。医者に多く休息を取るように勧められたら、早起きしなくても良いでしょう。わたしたちは極端に走りたくありません。しかし、健康な人はできるだけ早く起きるべきです。なぜなら、早朝こそ、主にまみえ、主と行き来し、主と交わるのに最も良い時間だからです。マナは日の出前に集められました(出16:14-21)。神が与えてくださる糧を食べようと思えば、人は朝早く起きるべきです。日が昇るとすぐマナは溶けてしまって、食べられなくなります。あなたが神の御前で霊的な養いを得たいなら、霊的に成就されたいなら、霊的な交わりを持ちたいなら、霊的な糧を得たいなら、早く起きなければなりません。遅く起きれば、マナは食べられません。
多くの神の子供たちが病気のような生活をしているのは、決して何か別の霊的問題があるからではなく、彼らの起きるのがあまりに遅すぎるからです。多くの神の子たちは、献身しており、熱心であり、愛する心もあるのに、起きるのが遅すぎるゆえに、クリスチャンとしての正常な生活をすることができないでいます。これは小さな事として、霊性とは関係がないとしてはいけません。実はとても関係があるのです。多くの人が霊的でないのは、遅く起きるからです。神を認識している人は、いつも朝早く起きます。彼らは早く起きて、神と交わるのです。
箴言第26章14節は言います、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる」。ここでは、なまけ者は寝台で、戸がちょうつがいでこちらに向きを変えたり、あちらに向きを変えたりするのに似ていると言っています。聖書ははっきりとこのような者をなまけ者と言っています。
朝早く起きるなら、その人は多くの霊的な益を得るでしょう。普通の時間の祈りは、朝早い時間の祈りに及びません。普通の時間に聖書を読むことは、朝早く聖書を読むのに及びません。普通の時間に主と交わることは、朝早く主と交わるのに及びません。早朝は一日で一番良い時間です。一日の一番良い時、早朝を神の御前で用いるべきです。あるクリスチャンは一日の時間を全部、別の事のために費やし、夜になって最も疲れている時に、もうすぐ床について寝ようとする時に、やっとひざまずいて聖書を読んだり、祈ったりします。その人は聖書をうまく読めないし、祈りもうまくいかないし、主との交わりもうまくいきません。ですから、わたしたちは主を信じたらすぐ、朝早い時に時間を割いて、神と交わり、神と行き来することを学ばなければなりません。
Ⅱ. 早起きの模範
聖書において、神のしもべたちはみな早起きしていました。その模範を見てみましょう。
- アブラハム – 創世記19:27、21:14、22:3
- ヤコブ – 創世記28:18
- モーセ – 出エジプト記8:20、9:13、24:4、34:4
- ヨシュア – ヨシュア記3:1、6:12、7:16、8:10
- ギデオン – 士師記6:38
- ハンナ – サムエル記上1:19
- サムエル – サムエル記上15:12
- ダビデ – サムエル記上17:20
- ヨブ – ヨブ記1:5
- マリヤ – ルカ24:22。マルコ16:9、ヨハネ20:1
- 使徒たち – 使徒行伝5:11
これらの多くの個所の聖書は、神のしもべたちがそれぞれ早朝、神と交渉する習慣を持ち、それぞれ早朝に働く習慣を持ち、それぞれ早朝に神と交わる習慣を持っていたことを告げています。聖書には早く起きなさいという神の命令はありませんが、忠実に神に仕えている人たちはみな朝早く起きていたことを見せている多くの模範があります。主イエスでさえ早起きされました(マルコ1:35。ルカ6:13)。主がこのように模範を示してくださったなら、わたしたちはなおさらのことではないでしょうか?
Ⅲ. 早朝すべき事
早起きすればそれで良いというものではありません。霊的な学び、霊的な内容がなければなりません。ここでは早朝に特にしなければならない幾つかの事を取り上げます。
A. 神と交わる
雅歌第7章12節は言います、「わたしたちは、早く起きてぶどう園に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかを見ましょう。そこでわたしの愛をあなたに与えましょう」。ここから、早朝は主と交わるのに最も良い時であることがわかります。交わりの意味は、わたしたちの霊を神に向かって開き、思いも開き、神に光を与えていただき、神に語っていただき、神にわたしたちを印象づけていただき、神に触れていただくことです(詩119:105、147)。朝早く起きて神の御前に静まり、神の御前で黙想し、神の御前で導きを受け、神の御前で印象づけられ、神に語っていただく機会を得させ、神に触れる学びをしなければなりません。
B. 賛美と歌うこと
早朝には賛美の声と歌う声があるべきです。歌う声が一番良いのは早朝です。早朝は賛美の時です。早朝は神に向かって歌う最も良い時です。最高の賛美を神に向かって送り届ける時は、わたしたちの霊が最も高揚している時です。
C. 聖書を読む
早朝はまたマナを食べる時でもあります(マナはキリストを指しています)。マナを食べるとはどういうことでしょうか?それは毎日早朝にキリストを享受すること(enjoying)、すなわち神の語りかけ、神の言葉を享受することです。それを食べてこそ、わたしたちは荒野を進んで行くことができます。マナを集めるのは早朝です。朝早く起きながら別の事のために時間を使うなら、霊的な面で満足を得たり養いを得ることはできません。
聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7 で述べたように、わたしたちは二冊の聖書を用意し、一冊は午後読むためとし、しるしをつけたり、多くの事を記したりします。もう一冊は早朝マナを食べるために用い、中にはどんな言葉も記さず、どんなしるしも付けません。
早朝は長く多く聖書を読まないで、神の御前で聖書を開いて細やかに一段落を読んで、神との交わりと聖書を読むこととを混ぜ合わせて、歌うことと聖書を読むということも一緒に混ぜ合わせます。これらの事を神の御前で一緒に混ぜ合わせて行い、同時に祈りを加えるのも良いでしょう。神の御前に来て神の言葉を開き、神の言葉を読んで罪の感覚があったなら告白しても良いでしょう。ある聖書の言葉が言っている事柄の上で、神があなたに恵みを与えておられると感じたなら、感謝しても良いでしょう。また聖書が言っているある事柄の上で神に願い求めて、「主よ、この事は真にわたしに欠けているところです。この一段落、この一節、この一句の言葉は、本当にわたしに欠けています。主よ、どうかあなたがわたしに与えてくださいますように」と言っても良いでしょう。またとりなしの祈りをしても結構です。読んでいる時、ある兄弟姉妹の状況がちょうどこの個所の聖書に反すると覚えたなら、神の御前で彼らを訴えたり、とやかく言うことはせずに、「神よ、この句の言葉がわたしの上に成りますように。またこの言葉が某兄弟、某姉妹の上に成りますように」と言えば良いのです。
わたしたちは、朝早くマナを食べる時、祈りを神の言葉の中に織り込み、賛美を神の言葉の中に織り込み、交わりを神の言葉の中に織り込むことを学ばなければなりません。多くの兄弟姉妹が荒野の中を歩けないでいるのは、食べ方が足りないからです。主が恵みを与えてくださいますように。
D. 祈り
わたしたちは早朝、神の御前で交わり、賛美し、マナを食べなければなりませんが、祈りもまた必要です。詩篇第63篇1節は言います、「神よ、あなたはわたしの神です。わたしは切にあなたを求めます」。この「切」は、原文では「早く」という意味です。ここでの祈りは専一に行う祈りです。交わりをし、賛美もし、マナも食べて、最後にあなたは十分に力を得て、すべての事を神の御前でよくよく祈ることができます。祈りは力を要します。ですから、まず早起きして、神に親しみ、養われなければなりません。その後、30分か15分を費やし、重要な事柄のため、あなた自身のため、教会のため、世人のために祈ります。
以上のことから、主を信じている人はだれでも、早朝のこの四つのこと、すなわち神と交わり、賛美し、聖書を読み、祈ることを、神の御前でよくよく行うべきです。早朝にこのようにしたかどうかが、その日の生活に必ずはっきりと現れます。ミューラーのような人でさえ、早朝、主によって養われたかどうかが彼の一日の霊的な状態を決定すると言いました。わたしたちは、もし人が霊的行程において前進しており、霊と魂が完全に分けられる経験をし、外なる人が砕かれているなら、容易に揺らぐことはないであろうことは認めます。しかし、それは別の事です。初信者はとにかく早起きを学ばなければなりません。
Ⅳ. 朝早く起きる実行
最後に少し実行について述べましょう。どうしたらわたしたちは朝早く起きることができるのでしょうか?幾つかの事に注意すべきです。
早起きする人はすべて夜早く寝るという習慣がなければなりません。夜遅く寝て、朝早く起きようと思うのは、理に適っていません。また早起きの目標は、高くしすぎてはいけません。だいたい五時、六時が適切な時間でしょう。極端に走ることで、家族との間に問題を引き起こしたり、職場で問題を引き起こしたりすべきではありません。よくよく神の御前で考慮すべきです。
少し年長の人たち、重みのある人たちは、神の御前でこの事を維持していただきたいと思います。教会は怠惰な人に対しては一押しして、その人を奮い動かすべきです。初信者はこの大きな祝福のある状況にもたらされなければなりません。機会があるごとに、「あなたは毎日何時に起きますか?」と尋ねましょう。しかし、自分自身が神の御前でよく学んでいなければ、このような事をするのはあまり容易ではありません。ですから、わたしたち自身がまず神の御前で先に学ばなければなりません。
朝早く起きることは、信者の習慣の中で第一のものであると言って良いでしょう。食事の時に神に感謝するのは一つの習慣です。主日に集会するのも一つの習慣です。朝早く起きるのはさらに信者になければならない習慣です。とにかく、初信者は習慣を養わなければなりません。このことをよくよく学ぶなら教会は前進するでしょう。一人の兄弟が光を多く得れば、教会全体が明るくなります。教会が貧しいのは、かしらから受け取る人が少なすぎるからです。一人一人がみなかしらから受け取ることができれば、個人で得るものは多くなくても、合わせれば豊かになります。
わたしたちは教会において、少数の人だけが働きをすることを望みません。あらゆる肢体が神の御前で立ち上がり、教会全体が立ち上がって、豊富を得、恵みを得ることを望みます。一つの肢体が得ることは、からだ全体が得ることです。もしすべての兄弟姉妹がこの道を歩むなら、神の御前で受け取る多くの器官が備わり、わたしたちはますます豊かになります。わたしたち全員が早起きを学び、早起きし続けるなら、霊的な前途があるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十一編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-18 | 初信者成就シリーズ
(この記事は8,685文字で、17分で読み終えることができます。)
教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。
Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある
ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。
以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。
聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。
Ⅱ. 教会と集会
教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。
旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。
集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。
「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。
神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。
Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する
コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。
教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。
神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。
Ⅳ. 集会の原則
では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。
A. 主の名の中へと
集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。
なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。
B. 人を建造すること
集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。
ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。
ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。
これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。
自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。
Ⅴ. キリストの中で
最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。
コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。
ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。
コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。
この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。
A. キリストの中には存在しない5つの区別
ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。
1. ギリシャ人とユダヤ人
ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。
第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。
多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。
2. 自由人と奴隷
第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。
3. 男と女
第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)
4. 未開人とスクテヤ人
第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。
5. 割礼と無割礼
最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。
わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。
まとめ
わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-05-11 | 初信者成就シリーズ
(この記事は9,337文字で、19分で読み終えることができます。)
クリスチャンにはどうしても解決しなければならない一つの問題があります。それは、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきかということです。わたしたちが人に対して罪を犯した場合ではなく、兄弟がわたしたちに対して罪を犯した場合、どうすべきでしょうか?わたしたちはどこまでなら赦すべきなのでしょうか?
聖書を正しく読むのであれば、もし兄弟がわたしたちに対して罪を犯すなら、わたしたちは彼を赦すだけでなく、彼を挽回しなければならないと言っています。消極面では赦しがあり、積極面では挽回があります。この記事では「赦し」と「挽回」について見ていきたいと思います。まずは「赦すこと」について見てみましょう。
Ⅰ. 兄弟を赦す
A. 赦すことが要求されている
マタイによる福音書第18章21節から22節は言います、「その時、ペテロが来てイエスに言った、『主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?七回まででしょうか?』イエスは彼に言われた、『わたしはあなたに七回までとは言わない。七回を七十倍までと言う。』」
ルカによる福音書17章3節から4節は言います、「あなたがたは気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。彼が悔い改めたなら、赦してあげなさい。彼があなたに対して一日に七度、罪を犯しても、あなたに七度、戻って、『悔い改めます』と言うなら、赦してあげなさい」。
マタイによる福音書は、兄弟を赦すのは七度だけでなく、七回を七十倍するまでと言っています。ルカによる福音書は、一人の兄弟があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と言ってくるなら、赦してあげなさいと言っています。彼の悔い改めが真実であっても嘘であっても、彼がそう言う限り、あなたは彼を赦さなければなりません。彼の真偽のほどはわたしたちの問題ではありません。わたしたちはとにかく彼を赦すべきです。
七度は多くありませんが、一日に七度なら少なくありません。その人が一日に七度あなたに向かって「わたしはあなたに対して罪を犯しました」と言うのです。こうであっても、あなたは彼が心から間違ったと告白していると信じることができますか?おそらくあなたは、口先だけであると言うでしょう。こういうわけで、ルカによる福音書第17章5節は言います、「使徒たちは主に言った、『わたしたちの信仰を増し加えてください』」。彼らは、これは難しいと感じたのです。しかし、神の子たちはこの種の状況下でもやはり赦すべきです。
B. 神の度量
主はマタイによる福音書第18章23節から27節で一つのたとえを引用しておられます、「こういうわけで、天の王国は、奴隷と清算しようとした王のようなものである。王が清算し始めると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れて来られた。しかし、彼は返済するすべがなかったので、主人は彼に、自分も妻も子供たちも、持っているすべての物を売って、返済するように命じた。そこで、その奴隷はひれ伏し、拝して、『どうか待ってください。必ず全部お返ししますから』と言った。すると、その奴隷の主人はあわれに思って、彼を釈放し、その負債を免除した」。
このしもべは神の御前で一万タラントの負債がありますが、これはとても大きな金額です。1タラントは約34kgの銀または金の重量を指します。新約聖書の時代では 1タラントは6,000デナリ相当でした。デナリは1日分の労賃なので、1タラントは約16年分の労賃に相当します。ですから、一万タラントは6000万デナリとなり、1日1万円の労賃とすると、6000億円相当となります。しかし、これは、デナリと比べた試算であり、もし現代の金の価値で計算するなら(金 1g=約1万)、3京6000兆円という数字になります。どちらにせよ、わたしたちは神の御前でこれほどの負債があるのです。わたしたちが神に対して持っている負債は、決して返すことのできないものであって、人に対する負債とは比べようもないほどです。どの神の子も、神に対する自分の負債について正当に評価して、はじめて兄弟に対する負債を大目に見て、赦すことができます。もしわたしたちが神の御前で受けた恵みがどんなに大きいかを忘れてしまうなら、大変な恩知らずになってしまうかもしれません。神に対する自分の負債がどんなに大きいかを、わたしたちは見る必要があります。それでこそ、わたしたちに対する他の人の負債には限りがあるのを、わたしたちは見ることができます。
C. 神の願い
神はわたしたちの上に願いを持っておられます。それは、恵みとあわれみにしたがって他の人を取り扱うということです。恵みが必要な人たちは、人に恵みを与えることを学ばなければなりません。
マタイによる福音書第18章28節から29節は言います、「ところが、その奴隷が出て行くと、自分に百デナリの負債のある奴隷仲間の一人を見つけたので、彼を取り押さえ、のどを締めて、『借金を返せ』と言った。その奴隷仲間はひれ伏して請い願い、『どうか待ってくれ。必ず返すから』と言った」。主はここでわたしたちに見せていますが、わたしたちの負債は一万タラントですが、他の人がわたしたちに借りているのは百デナリにすぎません。主はわたしたちを赦しただけでなく、その負債を免除してくださいました。あなたの仲間はあなたの兄弟ですが、彼はあなたに罪を犯しているとは言え、せいぜい百デナリの借金をしているだけです。彼もあなたに言いました、「どうか待ってくれ。必ず返すから」。彼はあなたと同じ願い、同じ要求をしているのですから、あなたはどうして彼を赦さないことができるでしょうか?
主はこのたとえを用いて、他の人を赦さない人は、神から見て何と理屈に合わないかを見せています。もしあなたがあなたの兄弟を赦さないなら、あなたはこの奴隷と同じです。わたしたちがこのたとえを読む時、この人は本当に筋の通らない人だと感じます。彼は何という「義」を説いているのでしょうか?クリスチャンは、自分を取り扱う時は義に基づいているべきですが、他の人を取り扱う時は恵みに基づいているべきです。もし兄弟が悔い改めると言い、それでも赦すことができないなら、恵みをもって人を取り扱っていないことを見せています。
31節から33節は言います、「奴隷仲間たちは、その起こったことを見て、非常に悲しみ、そして来て、起こったことすべてを残らず彼らの主人に説明した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った、『悪い奴隷だ。あなたがわたしに請い願ったから、わたしはすべての負債を免除してやったのだ。わたしがあなたをあわれんだように、あなたも奴隷仲間をあわれむべきではなかったか?』」。主はあなたを取り扱ったのと同じように、あなたが他の人を取り扱うことを望んでおられます。主は義にしたがってではなく、あわれみにしたがってあなたの負債を赦されました。ですから、主はわたしたちがあわれみにしたがって他の人をはかることを願われます。主が用いられたはかりで、あなたも他の人をはかることを、主は願っておられます。主は十分な升を用いて人にゆすり入れ、山盛りになるほどにあなたを恵まれます。神はあなたにも同じように他の人を恵んでほしいのです。
D. 神の懲らしめ
続けて34節は言います、「こうして主人は怒って、負債をすべて返すまで、彼を獄吏に引き渡した」。ここでこの人は神の懲らしめに入れられ、負債全部を返してしまうまで、神は彼を獄吏に引き渡されました。
35節は言います、「あなたがたもそれぞれ、心から自分の兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も、あなたがたにこうされるであろう」。これは厳粛なことです。わたしたちは一人も神の手に陥ることがないように望みます。人は、神が心から自分を赦してくださったように、兄弟を心から赦さなければなりません。神はわたしたちを寛大に取り扱われたのですから、あなたがたも他の人を寛大に取り扱うことを願っておられます。
Ⅱ. 兄弟を挽回する
わたしたちがただ兄弟を赦すだけでしたら、それは消極的でまだ不十分です。わたしたちはさらに彼を挽回する必要があります。
A. 彼自身に告げる
マタイによる福音書18章15節は言います、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい。彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。神の子たちの間では、互いに罪を犯すことがいつも起こります。もしある兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはどうすべきでしょうか?主は言われました、「行って、あなたと彼との間だけで、彼の過ちを示しなさい」。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一に別の人の所に行って告げるのではありません。別の兄弟姉妹に告げるのではなく、教会の長老に告げるのでもありません。もし兄弟があなたに罪を犯したなら、第一にしなければならないことは、あなたに罪を犯した兄弟に直接告げることです。
多くの時、問題はここにあります。一人の兄弟が別の兄弟に対して罪を犯すと、被害を受けた兄弟はそれを言い広め、あちらへ行っては人に告げ、こちらに来ては人に告げ、言い広めて全教会がほとんど知ってしまったのに、罪を犯したその兄弟自身は何事かまだ知りません。このように人に告げるのは、弱者の行為です。第一に告げなければならないのは、その本人に対してであって、別の人に対してではありません。わたしたちがこの基本的学課をよく学ぶなら、教会は多くの問題を免れることができるでしょう。
それでは、どのように彼に告げたらよいのでしょうか?手紙を書くのでしょうか?主はこうは言っておられません。主が言われた告げる方法は、手紙を書くことではなく、面と向かって彼に言うことです。しかし、注意しなければならないことは、「あなたと彼との間だけで」言っていいということです。多くの神の子たちはこの点で失敗しています。言い換えれば、個人の罪は、あなたがた二人だけで対処するのであって、第三者は絶対に必要ありません。
ある兄弟姉妹は、このようにすることはとても面倒ではないかと言うかもしれません。確かに少し面倒ですが、あなたは主の言葉にしたがって行わなければなりません。もしあなたが、ある兄弟があなたに罪を犯したことがあまりにも小さいことで、本人に言う必要もないと感じるなら、別の人の所へ行って言う必要もありません。なすべきことは、本人に言うことであって、他の人に言う必要はありません。
B. 告げることの目的
15節後半は言います、「彼があなたに聞き従えば、あなたは自分の兄弟を得たことになる」。これが告げることの目的です。本人に言う目的は、償いを得るためではありません。それは、もし彼が聞いてくれたなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
ですから問題は、あなたの損失がどれほど大きいかではなく、この兄弟があなたにこのように罪を犯したことで、もしこの件をはっきりと処理しなければ、彼は神の御前で歩んでいくことができなくなり、交わりに問題が生じ、祈りが妨げられるので、あなたは彼を訓戒しなければならないのです。これは、あなたが傷ついたと感じるかどうかの問題ではなく、あなたの責任の問題です。もしあなたが傷ついたと感じるだけで、あまり問題にはならないと感じるなら、放っておいてもよいでしょう。この件が軽いか重いかについて、あなた以上にはっきり知っている人はいません。この兄弟に言うべきかどうかを決定する責任は、あなたにあります。もし兄弟が誤りを犯し、主の御前で問題を持つに至ったなら、あなたはこのことが小さなことではないと知るべきです。機会を捕らえて、彼と二人だけの所で言うべきです、「兄弟よ、あなたがこのようにわたしに罪を犯したのは間違っています。あなたがこのようにわたしに罪を犯したので、あなたは神の御前で道を失い、神の御前で妨げを受け、大きな損失を被っています」。もし彼が聞いてくれたなら、あなたはあなたの兄弟を得たことになりますし、この兄弟を挽回したことになります。
兄弟があなたに罪を犯したら、罪を犯されたあなたは、罪を犯した兄弟を挽回する責任があるのです。彼が犯した罪が小さなものでないなら、あなたは彼の前途のために、彼に告げて、彼を必ず挽回する責任があります。また、方法を考えて、あなたの兄弟を得に行かなければなりません。行って語る時、態度は良くなければなりませんし、心は正しくなければなりません。目的は、あなたの兄弟を得ることです。もし心から彼を得たいと思うなら、彼の誤りをいかに指摘すべきかがわかるでしょう。訓戒する目的は、賠償させることでも、自分の感覚を救うことでもなく、あなたの兄弟を挽回することです。
C. 人に告げる時の正しい態度
もしあなたの目的が正しければ、手続きをどのようにしたらよいかがわかるでしょう。第一に、必ずあなたの霊が正しくなければなりません。次に、あなたが語る言葉、語る方法、態度、顔つき、声、口調もすべて正しくなければなりません。あなたの目的は彼を得ることであって、ただ彼に彼の誤りを知ってもらいたいだけではないからです。もしあなたたがただ彼を叱責しようとするのであれば、あなたの叱責が正しいとしても、あなたが話す最も重大な言葉が正しいとしても、あなたの態度や口調や顔つきは、あなたが彼を得たいという目的からはるかにかけ離れているかもしれません。
ある兄弟をすばらしいと言うことは簡単です。誰かをほめることも容易です。短気を起こすことも容易です。しかし、彼に彼の誤りを知らせ、また彼を挽回して彼を得ることは、恵みに満ちた人だけがなすことができます。自分が正しくても、高ぶらず、へりくだり、穏やかで、人に誤りを知らせることができるのは、これは自分を完全に脇に置いてはじめてなすことができます。
ある兄弟があなたに罪を犯すことを主が許されたなら、それは主があなたを認め、選び、重大な責任をあなたの上に置かれたことを、あなたは知らなければなりません。あなたは選びの器であり、神はあなたを用いて挽回の働きをなさりたいのです。
もしある兄弟があなたに罪を犯し、それがとても小さい事で、あなたが彼を赦して、その事が終わったなら、別の問題は残っていません。しかし、もしある兄弟があなたに罪を犯し、それが赦しがたいほどであれば、あなたは目をつぶって、無かったことにすることはできません。もしこれらの問題が解決されないなら、それは教会の重荷になってしまいます。この重荷は、教会の力もからだの命も奉仕者の働きも減少させてしまいます。人があなたに罪を犯した場合、目をつぶって知らぬ顔でいてはいけません。よくよく対処すべきです。しかしながら、霊が正しく、態度が正しく、言葉遣いが正しく、顔つきも正しく、口調も正しくなければなりません。こうであってはじめて、兄弟を得ることができます。
D. 他の人に告げる
16節は言います、「しかし、もし彼があなたに聞き従わなければ、一人か二人を一緒に連れていきなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるためである」。あなたが正しい方法で彼に語った後、もし彼が聞かないなら、あなたは他の人に告げてもいいでしょう。正しい方法、正しい態度で、柔和の霊を持って穏やかな語りかけをしたにも関わらず、彼が受け入れようとしない時、はじめて他の人に言ってもいいのです。
この一人か二人は、主にあって経験のある人、霊的な度量のある人でなければなりません。あなたは、あなたがた二人の間の事を彼らの前に置き、彼らにこの事柄がどうであるか、この兄弟が間違っているかいないかを見てもらいます。この一人か二人の兄弟は、あなたがたの事を神の御前で祈り、よく調べ、霊的な力で判断します。もし彼らも、この事は彼が間違っていると感じるなら、あなたと一緒に行ってこの兄弟に言います、「この事はあなたが間違っています。あなたがこのようにしていると、神の御前で道を失いますから、悔い改めて、誤りを認めてください」。信頼でき、誠実であり、霊的度量があり、主の御前で経験のある人を連れていきなさい。そうすれば、二人または三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるでしょう。
E. 最後に教会に告げる
17節は言います、「もし彼らに聞き従うことを拒むなら、教会に告げなさい」。あなたは一人で対処できなければ、一人か二人を連れて行って対処します。それでも彼が聞かないなら、教会に告げなければなりません。ここの教会に告げるとは、全教会が集まっている時、この事を取り出すということではありません。教会で責任を負っている長老に告げるのです。もし教会の良心も、この兄弟が間違っていると感じるなら、彼はやはり間違っているはずです。もしその兄弟が神の御前で生きているなら、自分の見方を放棄して、二人または三人の証しを受け入れるべきです。もし二人または三人の証しを受け入れないなら、少なくとも教会の裁定を受け入れるべきです。教会の一致した見方、一致した意見は、主のみこころであるに違いありません。
もしそれでも聞かないならどうしましょうか?17節は続けて言います、「もし彼が教会に聞き従うことも拒むなら、彼を異邦人や取税人のように扱いなさい」。これは厳しい言葉です。言い換えれば、もし彼が教会の裁定を受け入れないなら、教会のすべての兄弟姉妹はみな彼と行き来しないのです。彼はその問題を対処しようとしないので、教会は彼を異邦人や取税人のように扱い、彼と交わりを持つべきではありません。ここではまだ彼を除名するほどには至っていませんが、兄弟たちは彼を異邦人や取税人のように扱い、みな彼を相手にしません。彼が話してもだれも聞きません。彼がパンさきに来ても、だれも相手にしません。彼が祈っても、だれも「アーメン」と言いません。彼が来たければ来させますし、去りたければ去らせます。実際的に言って、もし神の子たちがこのような一致した態度を取るなら、とても容易に彼を挽回できるでしょう。このように彼を対処する目的は、やはり彼を挽回することです。
18節の言葉は前の言葉に基づいています。18節は言います、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」。教会がなすことは、主は天において承認しておられます。もし教会が彼を間違っていると見ているのに、彼が教会に聞かないなら、教会は彼を異邦人や取税人のように扱います。このことを主も天で承認されます。
19節と20節で言っている言葉も、前の部分に基づいています、「また、まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。これらの二人または三人は、16節の二人または三人です。彼らは主の御名の中へ集められていますが、教会そのものではありません。なぜなら17節は、もし問題があるなら、彼らはそれを教会に告げる必要がある、と言っているからです。
これらの二人または三人が地上で調和一致して求めるどんな事でも、父によって成就されるとは、兄弟を対処するという文脈で語られています。もし兄弟が、罪を犯した本人からの言葉を受け入れず、二人または三人の言葉も受け入れず、また教会の言葉も受け入れないなら、もう道はないかのようです。しかし、主を賛美します。主は、二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致して祈るなら成就されると言われました。主の言葉はわたしたちが兄弟を挽回することができることを示しています。
ここで一つの問題、すなわち教会がどのように重大な事柄を決定するかについて付け加えます。使徒行伝15章は言っていますが、兄弟たちが一緒に集まる時、誰でも語って構わないし、あらゆる話し合いをしてもよいのです。律法を守る人たちでさえ、立ち上がって彼らの主張を述べていいのです。たとえ彼らの主張が全く間違っていたとしてもです。言い換えれば、兄弟たちすべてに語る機会があります。しかし、兄弟たち全員が事柄を決定できるわけではありません。兄弟たちが神の御前ですべての感覚を語り尽くした後、長老たちがみなの話を聞き終えて、最後に神の御前での感覚を述べ、最後の決定を下します。責任を負う数人の兄弟たちが、神の御前で同じ感覚を持つなら、この感覚が教会の感覚であり、教会の良心です。彼らが語り終わった後、全員が服従し、心を合わせて彼らに従います。これこそ教会の方法です。決して人を抑圧して、話す機会を与えないのではありません。
決定を下す時は、長老たちが聖霊の管理の下で語り、兄弟姉妹は長老たちが語る言葉を聞かなければなりません。もし聖霊が教会の中で権威を持っているなら、これらの事柄はとても順調に解決されます。もし聖霊が教会の中で権威を持っていないなら、肉の意見が多くなって、教会は語ることができません。ですから、わたしたちは聖霊の権威に服し、教会の言葉に聞き従うことを学ぶべきです。
まとめ
もしあなたが兄弟に罪を犯されたなら、主はあなたに彼を「赦すこと」と「挽回する」ことを求めておられます。まずわたしたちが、神に赦され、あわれみを受けた者であることを見る必要があります。神は、主イエスを賜り、わたしたちのすべての負債を赦してくださいました。
また、兄弟を赦すだけでなく、彼を挽回しなければなりません。まず、罪を犯したことを直接彼に告げます。もし、彼がこの言葉を受け入れなければ、信頼でき、霊的度量があり、経験のある兄弟に告げます。もし、これらの兄弟の言葉も受け入れなければ、教会に告げます。これはその地方の教会の責任を負っている長老に告げるということです。
どうか神がわたしたちに恵みを賜り、わたしたちを主と同じように恵みのある人にしてくださいますように。もし兄弟がわたしたちに罪を犯すなら、心から彼を赦しましょう。それだけでなく、さらに自分の責任を果たし、主の言葉にしたがって彼を挽回しましょう。どうか神がわたしたちを導いてくださり、教会の中でこのような生活を生きることができるようにしてくださいますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十三編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
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2025-05-04 | 初信者成就シリーズ
(この記事は9,981文字で、20分で読み終えることができます。)
「祈っているのに答えがない…」。もしあなたがこのように悩んでいるなら、それは賛美をする時です。賛美は、神の子たちの最高の働きです。あるいは霊的命の最高の表示が神を賛美することであると言ってもよいでしょう。神の御座は宇宙の中で最も高い所にあり、神は「イスラエルの賛美の上に座しておられる」(詩篇22:3 原文)のです。神の御名、神ご自身は、賛美によって高く挙げられるのです。
ダビデは詩篇の中で、一日に三度神に祈ると言いました(詩篇55:17)。また、一日に七度、神を賛美するという詩も書きました(詩篇119:164)。ダビデは聖霊に感動されて、賛美がいかに重要なことであるかを告白したのです。祈りは一日に三度ですが、賛美は七度です。こればかりでなく、彼はまたあるレビ人たちを任命して、神の契約の箱の前で、シンバルを鳴らさせ、琴を弾かせ、神をあがめ、感謝し、ほめたたえました(歴代上16:4-6)。ソロモンがエホバの宮のすべての工事を終えた時、祭司たちは契約の箱をかついで至聖所に入りました。祭司たちが聖所から出てきた時、歌を歌うレビ人たちがいて、祭壇のそばに立ち、ラッパを吹き、歌を歌い、さまざまな楽器をもって、声を張り上げ、神を賛美しました。その時、エホバの栄光が神の宮を満たしました(歴代下5:12-14)。ダビデとソロモンは神のみこころに触れて、神に喜ばれる賛美をささげたのです。エホバはイスラエルの賛美の上に座しておられるのですから、わたしたちは生涯、神を賛美し、わたしたちの神をほめたたえるべきです。
Ⅰ. 賛美のいけにえ
聖書は賛美に多くの注意を払っており、またとても多く出てきます。その中でも、詩篇は多くの賛美の言葉で満ちています。詩篇は旧約の賛美の書です。多くの人の賛美は、この詩篇から採られたものです。しかし、詩篇は単に賛美の書であるだけでなく、苦難の書でもあることに注意してください。神が特にわたしたちに見せたいのは、賛美する人とは、神によって苦難な状況を通らせられ、傷ついたと感じている人たちであることです。多くの聖徒たちが神によって暗やみへと導かれ、人に捨てられ、悪く言われ、迫害されました。「あなたの波とあなたの大波はみな、わたしの上を超えて行きます」(詩篇42:7)が、それによってこの人たちの上で神は賛美を得られたのです。賛美の言葉は順調な人の口から出てくるのではなく、訓練を受け、試みを受けた人の口から出てくるのです。詩篇では、最も傷つけられた感覚に触れることができ、またそれゆえに詩篇では、賛美の声は最も大きく、また最も高いのです。神の民が多くの患難、多くの苦しみ、多くの非難を通る時に、神は彼らの上で賛美を造り出し、彼らにそのような環境において神の御前で神を賛美する人となることを学ばせるのです。
ですから、一番喜んでいる人の賛美の声が一番高いのではなく、常に神の御前で困難を通っている人たちの賛美が最高なのです。そしてこのような賛美が、最も神に喜ばれ、最も神の祝福を受けるのです。神が人を高い山に立たせて、顔をカナンに向かわせ、約束の地を見せる時、そこに賛美の声があるだけでなく、人が「死の陰の谷を歩む」(詩篇23:4)時にも、詩を書くことができ、賛美することができることを願っておられます。これが神の賛美です。
このことは、神の御前での賛美の性質はどのようなものであるかを見せています。賛美の性質は一つのいけにえ、一つの犠牲です。言い換えるなら、賛美とは、患難や苦難の中から出てくるものです。ヘブル人への手紙第13章15節ではこのように言っています、「ですから、彼を通して、絶えず賛美のいけにえ、すなわち、御名を言い表す唇の実を、神にささげようではありませんか」。いけにえとは何でしょうか?いけにえとは犠牲であり、死と損失があるのです。いけにえをささげる人は、損失があってはじめてささげることができます。元々ここの一頭の牛や羊はあなたのものでしたが、今日それをささげてしまえば、この一頭の牛あるいは羊をあなたは犠牲にしたことになります。ささげることは、得ることではなく、失うことです。
聖徒たちが賛美をささげる時には、失ったものを一つのいけにえとして神にささげるのです。言い換えれば、神があなたを傷つけ、あなたを砕き、あなたを深く切り裂く時、あなたに神の御前に来て賛美して欲しいのです。このように自分が傷つけられて神に賛美を得させる行為、これがいけにえです。神は、このようにしてご自身を賛美する人を喜ばれるのです。神はこのような賛美を御座とすることを喜ばれます。神はどのような賛美を得たいのでしょうか?神は、神の子たちが自分の損失したものをもって神を賛美することを願われます。何かを得た時に賛美するのではありません。もちろん、これは賛美ですがいけにえではありません。いけにえの原則は、損失に根拠があり、いけにえには損失という性質がなければなりません。神は、わたしたちが損失を受けてもなお賛美できることを願われます。
わたしたちは神の御前で祈るだけでなく、神の御前で賛美する人となることを学ぶべきです。あなたはどこにいても絶えず神を賛美すべきです。ダビデは神の恵みにより、一日に七度神を賛美しました。わたしたちが毎日賛美できるとしたら、これはとてもよい学びであり、とてもよい学課であり、とてもよい霊的訓練です。朝早く起きた時に神を賛美し、何か事に出くわした時に神を賛美し、集会の時に神を賛美し、一人でいる時に神を賛美することを、わたしたちは学ぶべきです。一日に少なくても七回神を賛美すべきです。
あなたが主の御前で賛美することを学んでいる時、ある日、賛美が出てこなくなるでしょう。今日は七度神を賛美することはでき、昨日も七度神を賛美することができたでしょう。その前の一週間は神を賛美することができましたし、その前の一ヶ月間も、神を賛美できたでしょう。しかし、ある日賛美することがなくなるのです。なぜなら、その日は苦しい日であり、一筋の光もなかった日であり、とても良くないことがあった日であり、多くの無実の罪を着せられ、多く非難された日なので、涙を流しても足りないのに、神を賛美することなどできるはずがないと思っているのです。その日になると、あなたは自分の受けた傷、苦痛、苦難のゆえに、賛美することができないでしょう。それどころか、賛美よりもつぶやきたいと自然に感じ、神の御前で感謝ではなく不平を言うことでしょう。賛美したいなどとは思わず、賛美する心さえないでしょう。そのような環境の中で、そのような心境で賛美することはふさわしくないと感じるでしょう。そのような時、あなたは思い出す必要があります。エホバの御座は変わらないし、主の御名も変わらないし、主の栄光も変わらないのです。あなたは彼を賛美すべきです。なぜなら、彼は当然賛美を受けるべき方であるからです。あなたは彼をほめたたえるべきです。なぜなら、彼はほめたたえられるべき方であるからです。あなたは苦難に遭っているでしょうが、彼はやはり賛美を受けるべき方です。あなたは困窮しているかもしれませんが、神を賛美しなければなりません。そのような時にこそ、あなたの賛美は賛美のいけにえとなるのです。あなたの賛美は最も肥えた子牛を引いてきてほふるかのようであり、またあなたの愛するイサクを縛って祭壇の上にささげるかのようです。あなたは涙を流してそこで賛美します。これが賛美のいけにえです。いけにえとは、傷つけられること、死、損失、犠牲です。あなたが神の御前で傷を受け、死に、損失を被り、犠牲がある時、あなたが神の御座は天に堅く定まっており、永遠に揺り動くことがないことを見るなら、神を賛美せざるを得ないでしょう。これが賛美のいけにえです。神はご自分の子たちがどのような事においても、どのような状況の中でも、よくよく神を賛美するのを喜ばれます。
Ⅱ. 賛美と勝利
これまで賛美が一つのいけにえであることを見てきました。それだけでなく、賛美がわたしたちの霊的戦いに勝利を得る方法であることを見る必要があります。しばしばある人は、サタンの最も恐れるのは神の子たちの祈りであり、いつであれ神の子たちがひざまずいて祈る時にサタンは逃げ去るのであって、だからサタンはいつも神の子たちを攻撃して祈れないようにすると言います。これは通常の攻撃にすぎません。わたしたちが知る必要があることは、サタンが最も攻撃するものは祈りではなく賛美であるということです。サタンは色々と悩まし、祈りはそんなに簡単ではないと感じさせます。これは確かに事実です。しかし、サタンは祈りを攻撃するだけでなく、神の子たちの賛美をさらに攻撃します。祈りは多くのとき戦いですが、賛美は勝利なのです。祈りは霊的戦いですが、賛美は霊的勝利です。いつであれ賛美する時、サタンは必ず逃げ去ります。ですから、サタンは賛美を最も憎み、できることなら全勢力を費やしてでもわたしたちが賛美できないようにしようとしているのです。神の子たちが愚かであれば、自分の環境を見、自分の感覚を見て、賛美をやめてしまいます。神の子たちが神を認識すればするほど、ピリピの獄中でさえ歌うことのできる場所であることを見るでしょう(使徒16:25)。パウロとシラスはそこで神を賛美していた結果、獄の扉がみな開いてしまったのです。
使徒行伝には、獄の門が開いた例が二つあります。一度はペテロの上で、もう一度はパウロの上でです。ペテロの時には、教会が彼のために熱心に祈った結果、御使いが門を開き、ペテロを連れ出しました(使徒12:3-12)。パウロとシラスの場合、彼らは神を賛美していたところ、獄の扉が全部開き、鎖がすべて解けてしまいました。その日、全家族が救われて喜びました(使徒16:19-34)。そこには、獄の中で賛美のいけにえをささげている人たちがいました。体の傷はまだ良くなっていませんし、その痛みも止まっていません。しかも両足にはかせがはめてあり、ローマの獄の中に閉じ込められていたのです。どうして喜ぶことができるでしょうか?どうして歌うことなどできるでしょうか?しかし、そこにいた二人の霊はとても高く引き上げられ、すべてを超越していました。彼らは、神が天に座しておられ、変わることがないことを見ていました。自分たちは変わるし、その環境も変わるし、その感覚も変わります。しかし、神はやはり御座に座しておられ、ほめたたえられるにふさわしい方です。そこで、兄弟パウロとシラスは祈り、歌い、神を賛美しました。このような賛美は、彼らの苦痛から出てきたものであり、このような賛美がいけにえなのです。このような賛美がまた勝利でもあるのです。
あなたは祈る時、その境遇の中にいますが、賛美する時はその境遇の上に立ってしまっているのです。わたしたちがそこで祈り、切に求めている時は、まだその事の中におり、出てきていません。あなたが神の御前で切に求めれば求めるほど、その事に縛られてしまい、その事があなたの上にのしかかってくるのがわかるのでしょう。しかし、もし神によって引き上げられて、獄を超越し、鎖を超越し、体の傷の痛みを超越し、その苦痛と恥辱を超越するなら、その時に声を上げて神の御名を歌いほめたたえることでしょう。パウロとシラスが歌ったことは、神の御前で賛美の言葉を歌っていたことです。彼らは、獄など問題にせず、恥辱も苦痛も問題にならないところまで神によって導かれたので、神の御前で賛美することができたのです。彼らがそのように賛美した時、獄の扉はすべて開き、鎖は落ち、獄吏も救われたのです。
多くの時、祈ることはできないのですが、賛美はできます。これは基本的原則です。もし祈ることができないなら、なぜ賛美しないのですか?主はもう一つのものをわたしたちの手の中に置いて、勝利を得させ、勝ちどきを上げさせてくださるのです。祈る力がなく、霊がとても圧迫され、完全に傷つき、息ができないほどあえぐ時、神を賛美してみてください。祈る事ができれば祈り、祈れなければ賛美してください。わたしたちは、荷が重い時に祈り、荷が取り去られる時には賛美すると思いがちです。しかし、多くの時、荷が重くて祈ることができない時こそ、賛美すべきなのです。荷がなくなってから賛美するのではなく、荷が最も重い時に賛美するのです。もし大変な事に遭い、問題が多すぎて、全身が麻痺してしまったようになり、どうしていいかわからないような時、「なぜ賛美しないのですか?」という言葉を思い出してください。それはとても良い機会なのです。すなわち、そのような時に賛美するなら、神の霊が働いてあなたを導き、すべての門を開き、鎖を全部取り去ってくださいます。
わたしたちは、この高く超越した霊、攻撃を超越した霊を維持することを学ばなければなりません。祈りではいつでも御座に触れることができるとは限りませんが、賛美ではどんな時であっても必ず御座に触れることができます。祈りでは毎回勝利することができるわけではありませんが、賛美は初めから終わりまで一度も失敗はありません。神の子たちは、物事がなく、感覚がなく、傷がなく、問題がない時に口を開いて賛美するだけでなく、特に問題のある時や、傷つけられた時こにこそ、もっと賛美すべき時なのです。そのような時、あなたは頭を上げて、「主よ!あなたを賛美します!」と言ってください。目から涙が流れるでしょうが、口は賛美することができます。心は傷ついていても、霊は賛美することができます。最も愚かな人は、つぶやく人です。つぶやけばつぶやくほどその中に埋もれ、不平を言えば言うほどその中に落ち込み、困難に圧迫されればされるほど息もつけなくなるでしょう。少し進んだ人たちは、問題に遭う時に祈るでしょう。彼らはそこで奮闘努力し、そこから抜け出そうとします。環境は彼らを埋めてしまおうとし、感覚も彼らを埋めてしまおうとします。彼らは埋められたくないので、祈りによって脱出しようとします。しかし、多くの時、祈りも脱出させることができません。彼らが賛美する時にやっと脱出するのです。あなたが自分自身を勝利の地位に置けば、すぐにすべてのものを超越し、どんな問題もあなたを埋めてしまうことはできないでしょう。
歴代志下第20章20節から22節を見ましょう、「彼らは朝早く起きて、テコアの荒野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立ち上がって言った、『ユダと、エルサレムの住民よ、わたしに聞きなさい。エホバ・あなたがたの神を信じなさい.そうすれば堅くされる.彼の預言者を信じなさい.そうすれば成功する』。彼は民と相談して、エホバに歌い、聖なる飾り物を着けて感謝をささげる者たちを立てた.彼らは軍勢の前に出て行って、こう言った、『エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く』。彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。ここには戦いがあります。ヨシャパテがユダの王となった時、ユダ王国はすでに傾きかけていて、とても弱く、すべては惨めな状態にありました。モアブ人、アンモン人、セイル山の人々がユダの人々を攻めに来た時、ユダの人々は全く希望を失い、打ち破られて滅亡してしまうに違いないと思いました。ヨシャパテは復興された王であり、神を畏れる人でした。もちろん最後の時期のユダの王ですから、それほど完全ではなかったとしても、彼はやはり神を求めた人でした。彼はユダの人々に、神を信じるべきであると言いました。そして、歌を歌う人を任命して、主を賛美させたのです。この歌を歌い、主を賛美する人たちに、聖なる飾り物を着けさせ、前に進ませ、主を賛美させて、「エホバに感謝をささげよ、彼の慈愛は永遠に続く」と言わせました。
次の節の中の「賛美し始めたとき」という言葉に注意してください。これはとても尊い言葉です。「彼らが歌って叫び、賛美し始めたとき、エホバは伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせたので、彼らは討たれた」。「賛美し始めたとき」とは、彼らが歌を歌い、主を賛美しているちょうどその時に、主が立ち上がってアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を殺されたということです。わたしたちは、賛美ほど主の御手を動かすものはないと言わなければなりません。主の御手を動かす最も早い方法は祈ることではなく、賛美することです。これは祈りが不必要であると言っているのではありません。やはり祈る必要があります。しかし、多くのことで賛美して勝利する必要があるのです。
わたしたちがここで見るのは、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。わたしたちは賛美によってサタンに勝利することを学ばなければなりません。ここでの特別な原則は、霊的勝利は戦いによるのではなく、賛美によるということです。
神の子たちの多くはとても厳しい試練を常に受けています。試練が厳しく、戦いが激しい時は、ヨシャパテのように道がないかのようです。自分を見、環境を見れば、最大の試練です。しかし、神を認識している人は、試練を受ければ受けるほど主を仰ぎ、また賛美することを学びます。そうすれば、頭を上げて主に言うでしょう、「主よ!あなたはすべてを超越しておられる方です。あなたを賛美します!」このような賛美のいけにえは神の御前で効力のあるものです。賛美する時、あなたは勝利の道がどんなに大きいかを見るでしょう!
わたしたちは賛美の学課を学ぶ必要があります。困難に遭う時は、神があなたの手段を禁じ、あなたの計略を差し止めてくださり、賛美の学課を学べるようにあわれみを求めましょう。戦いがどれほどあっても、すべて賛美によって勝利することができます。勝利できないのは、賛美に欠けているからです。もし困難の中にあっても神を信じるなら、このように言ってください、「あなたの御名を賛美します。あなたはすべてにまさって高く、すべてにまさって強く、あなたの慈しみはとこしえに絶えることがありません!」。神を賛美する人はみな、すべてを超越していますから、賛美によってずっと勝利し続けることができるのです。これが原則であり、事実です。
Ⅲ. 信仰が賛美を生む
詩篇106篇12節の言葉はとても尊いです、「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った」。これはイスラエル人が荒野にいた時の情景です。彼は信じたので、歌いました。彼らは信じたので、賛美しました。賛美には信じるという基本的な内容があります。困難がある時にあなたは祈り、また悩みがある時に祈るでしょう。祈りが一定の時に達すると、信じることができるようになり、そうすれば口を開いて賛美するでしょう。あなたは立って、困難に対してもサタンに対しても、口を開いて「主よ!あなたを賛美します!」と言うなら、感覚がなかったのにあるようになり、ほんのわずかの信仰も満ち溢れるようになります。わたしたちは何かが終わってから、達成されてから賛美するのではなく、信じた時に賛美するのです。敵が逃げ去って歌うのではなく、歌うことで敵を追い払うのです。信じてはじめて賛美できます。それから勝利が来るのです。
Ⅳ. 服従が賛美を生む
わたしたちの問題はたいてい二種類あります。一つは、環境や出来事の中の問題であり、ヨシャパテのような問題です。これには、神を賛美することによって打ち勝ちます。もう一つは、わたしたちの内側の問題であり、ある人の言葉によって傷つけられるとか、ある人がわたしたちにすまないことをしたとか、欺いたとか、理不尽に扱ったり、逆らったり、理由なく恨んだり、根拠なく非難したりして我慢できないとか、赦せないようなことです。これは個人が勝利する問題です。
ある兄弟があなたに言うべきでないことを言ったとします。それは辛いことです。全身がもがき、全身が不平を言い、全身がつぶやいているかのようです。あなたは赦すことは何と難しいことであり、寛容であることは何と難しいことであり、打ち勝つことは何と難しいことであるかと感じます。罪を着せられ、非難され、迫害されて内側ですっきりしない時には、祈りはあまり効果がありません。その気持ちは防ぎ止めようと思っても止まらず、もがいてももがき切れないのです。この圧迫を拒絶しようとすればするほど、駄目になります。
覚えておいてください。このような個人的な問題にぶつかり、ひどく罪を着せられる時は、祈る時ではなく、賛美する時です。こうべを垂れて主に、「主よ、感謝します。あなたのなさることに間違いはありません。わたしはあなたの御手からこれを受け取ります。感謝します。あなたの御手からいただいたこのことのゆえに、賛美します」と言うべきです。もしこのようにするなら、すべてが過ぎ去ってしまうでしょう。勝利は、自分が肉と争って人を赦そうとして、そのために力を尽くすことによるのではなく、こうべを垂れて、主を賛美して、「主よ、あなたの道を賛美します。あなたがわたしのために備えられたものに間違いはありません。あなたがなさることはすべてすばらしいのです」と言うことによります。傷つけられたと思っている人は賛美の少ない人です。これこそ服従から生まれる賛美のいけにえです。
Ⅴ. はっきりと理解する前に賛美する
詩篇50篇23節は言います、「だれでも感謝の犠牲をささげる者は、わたしに栄光を帰する」。ここの「感謝」は「賛美」とも訳せます。主はわたしたちの賛美を待っておられます。賛美ほど神に栄光を帰するものはありません。ある日、すべての祈りは過ぎ去り、すべての働きも過ぎ去り、すべての預言者の言葉も過ぎ去り、すべての労苦も過ぎ去るでしょう。しかしその日、賛美は今より増すでしょう。賛美は永遠に続き、永遠にやむことはないでしょう。ですから、最も良い学課は、今日の時に神を賛美することを学ぶことです。
今日わたしたちは鏡に映すように見ており、おぼろげであまりはっきりしてはいません(Iコリ13:12)。多くのことで少しは見ることはできても、その中の意味は何であるかをはっきりと知り尽くすことはできません。わたしたちの遭遇すること、経過すること、内側で受けた傷であろうと、外側の状況の困難であろうと、わたしたちは苦しさを感じるだけで、その意味がはっきりとわからないので、賛美できないのです。天上で多くの賛美があるのは、天上には完全な認識があるからだと信じます。認識が完全であればあるほど、賛美も完全になります。
わたしたちが主の御前に行く日には、すべてのことがはっきりするでしょう。その日には、どの聖霊の管理もすばらしい意図があったことを見るでしょう。わたしたちはこれらを見る時、こうべを垂れて、賛美し、「主よ、あなたには間違いがありません」と言うでしょう。あの時、病気になっていなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。あの時、失敗していなかったら、わたしはどうなっていたことだろう。その日になれば、なぜ主がこのような目に遭わせたのかがわかるでしょう。その日になれば、頭を下げて言うことでしょう、「主よ、わたしは愚か者です。あの日には賛美しませんでした。わたしはあの日、あなたの前で感謝しなかった愚か者です」。その日になってはっきりわかってから、どんなにつぶやいたかを思って、どれほど悔やむことでしょう。ですから今日、「主よ、あなたのなさることは、わたしにはよくわかりません。しかし、わたしはあなたのなさることに間違いはあり得ないことを知っています」と言うことを学びましょう。
エホバは彼のすべての道において義であり、彼のすべての行ないにおいて慈しみがあります。 詩篇145篇17節
わたしたちの賛美は彼の栄光です。賛美することは、神に栄光を帰することです。神は栄光を受けるべき方です。どうか神がご自身の子たちから多くの賛美をお受けになりますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十六編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-04-27 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,555文字で、13分で読み終えることができます。)
わたしたちは主を信じた後、必ず罪を告白する習慣、負債を償う習慣を持つべきです。もしだれかに対して罪を犯すなら、あるいはだれかに損害を与えるなら、罪を告白する、あるいはそれを償うことを学ぶべきです。一方で、わたしたちは神の御前で罪を告白しなければなりません。そして他方では、人に対しても罪を告白したり、償ったりしなければなりません。もしこの両方を行わないなら、この人の良心は容易に神の御前でかたくなになってしまいます。良心がかたくなになってしまうと、神の光がその人を照らすのが難しくなってしまいます。
主の働きをしていたある兄弟は、いつも次のように人に聞いていたものです、「あなたが最後に人に対して罪の告白をしたのはいつですか?」。もしその人が最後に罪の告白をしてから長い時間が経っており、それが数年になるとしたら、その人の良心はきっと問題があることでしょう。なぜなら、わたしたちはしばしば人に対して罪を犯してしまうものですが、もし罪を犯しても何の感覚もないとすれば、これはその人の良心が病気であり、正常でない証拠です。わたしたちが神の光の中で生きようとする時、感覚のある良心が必要となります。なぜなら、良心の感覚があれば、神の御前で継続して罪を罪とすることができるからです。
もしその罪がただ神に対するもので、人とは関係がないなら、人に対して罪を償う必要はありません。わたしたちは度を越してまでするべきではありません。どのような兄弟姉妹であれ、その犯した罪がただ神に対するものであって、人とは関係がない場合は、神に罪を告白すればよいのであって、人に罪を告白する必要は決してありません。
それでは、どのような罪が人に対する罪なのでしょうか?また人に対して罪を犯し、損害を与えた時は、どのようにして罪を告白し、負債を償えばよいのでしょうか?これらを詳しく見ていきましょう。
Ⅰ. レビ記第六章にある違反のためのささげ物
違犯のためのささげ物には二つの面があります。レビ記第5章で記されているものと、第6章で記されているものです。第5章では、こまごまとした罪に関して、神の御前で罪を告白し、ささげ物をささげて、赦しを請うべきことを言っています。第6章では、もし何か物質的に人に対して罪を犯すなら、神の御前にささげ物をするだけでは不十分で、その罪を犯した相手に対して弁償すべきであることを言っています。レビ記6章の違犯のためのささげ物の記述から見ることができますが、もしわたしたちが物質的に人に対して罪を犯したなら、その人のところに行って、その罪を取り扱うべきです。もちろん神の御前に行って罪を告白し、赦しを請うべきですが、ただ神の御前で取り扱うだけで、人の前に行って対処しないなら、対処したことになりません。神に対して、その相手に代わって自分の犯した罪を赦してくださるように求めるわけにはいかないのです。
A. 人に対する違犯である罪
レビ記第6章2節から7節は言います、「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行うなら」(すべての罪は、究極的にはエホバに対する違犯です)、「すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行うどれかについて罪を犯すなら、この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される」。ここから、人が物質的な事柄において誰かに対して罪を犯したり、違犯を犯すなら、それを人の前で解決しなければなりません。
次の六つの節は、人に対する六種類の違犯を述べています。第一に、隣人から預かった物について欺く場合です。わたしたちは人から預かった物について欺くべきではないばかりか、むしろ誠意をもって保管すべきです。第二は、担保の品について欺くことです。これは物の売り買いについて欺くとも言えます。これは正当でない手段を使って自分の利益を図り、本来自分のものとはならないはずのものを自分のものにしてしまうことです。第三は、人の財産を奪うことです。他の人の物を自分の物とすることは罪です。第四は、隣人をしいたげることです。人が地位や権力を用いて他の人を圧迫し、自分に都合よくしてしまうことは罪です。第五は、落とし物を拾い、それについて欺くことです。クリスチャンは人のものを拾うべきではありません。もし拾うなら、本人に代わって保管し、何とかしてそれを本人に返す手立てを見つけなければなりません。第六に、偽って誓うことです。明らかに知っているのに知らないと言い、明らかに見ているのに見ていないと言い、明らかに有るのに無いということなどは偽りの誓いをすることです。
ここでの罪はすべて、物について人に借りを作ることを指して言っています。神の子たちとして学ぶべき基本的なことは、他の人のものを自分のものにしてはならないということです。これらの罪はよくよく対処しなければなりません。
B. どのようにして返済するか
わたしたちは神の御前で正しい行いと、咎めのない良心を保持することを学ばなければなりません。ここで神の言葉は、「この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品・・・を返さなければならない」と言っています。神の御前で「なだめられた」から十分であると思ってはなりません。人に対して「返す」ことがなければ、十分ではありません。返してはじめて十分なのです。
それでは、どのようにして返したらよいのでしょうか?5節は言います、「元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。」ここには注意すべき点が三つあります。
第一は、残りなく償うことです。これは必ずすべてを返済しなければならないということです。第二は、残りなく返済することに五分の一を加えるということです。原則は、余るほど十分に返済しなければならないということです。神はご自分の子たちがただ最低限度をするだけでは満足されません。負債を償う時は、けちけちするのではなく、余裕をもって十分にすべきです。五分の一を加えることは、人に罪を犯すことは損失を被ることであることを思い知らせます。このことを見るなら二度と同じことをしないでしょう。
第三は、このように罪を告白することや返済することは、早ければ早いほどよいのです。ここでは、「彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない」と言っています。あなたは過失が明らかになったその日に罪を告白し、返済すべきです。遅らせてはいけません。
このように返済してもまだ十分ではありません。6節は言います、「この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない」。ですから、その人に罪を告白し、償いをした後、やはり神の御前に行って赦しを求めなければなりません。レビ記第5章の違犯のためのささげ物は、物質的には人に負債を負っていないので、ただ神の御前に出てそれを対処すれば十分でした。しかしレビ記第6章は人に対して負債のある場合ですから、人の前ではっきりと対処してはじめて、神の御前に出て赦しを求めることができます。まだはっきりと対処していないのに、神の御前に出て赦しを求めることはできません。
これは浅薄なことであると思ってはいけません。わたしたちの天然の性質は極みまで堕落しています。もし少しでも不注意であるなら、容易に罪を犯してしまうでしょう。ですから、これは一生の間ずっと注意していなければならないことです。
Ⅱ. マタイによる福音書第五章の教え
次に、マタイによる福音書第5章を見ましょう。マタイによる福音書第5章とレビ記第6章で述べられていることは、異なっています。レビ記第6章で述べられているのは、完全に物質的な負債についてであり、マタイによる福音書で述べられているのは、単なる物質的な負債以上のことです。
マタイによる福音書第5章23節から26節は言います、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい。そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。ここで言っている一コドラントとは、単に物質的なものを指すのではなく、その負い目について語っているのです。
主は言われます、「だから、あなたが自分の供え物を祭壇にささげようとし、あなたの兄弟が自分に対して何か恨みを持っていることを、そこで思い出したなら、・・・」。これは特に神の子たちの間でのこと、兄弟と兄弟との間のことについて述べています。あなたが神に対してささげものをしようとする時、突然、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いているのを思い出します。この「思い出す」とは、神があなたに与えた導きです。多くの時、この種のことについて、聖霊は必要な思いをあなたの内に置きます。これを単なる思い込みだと思ってはなりません。そのことを思い出したなら、直ちにしっかりと対処しなければなりません。
もし兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出したなら、それはあなたに何か負い目があるからに違いありません。兄弟に対する負い目とは、物質上でないことかもしれません。もしかすると、気がつかないうちに彼に罪を犯したのかもしれません。ここでのポイントは、他の人に恨みを抱かれているということです。
これをよくよく理解していただきたいのですが、もしだれかに罪を犯したのに、過ちを認めず、赦しを求めなければ、その相手の人が神の御前であなたの名前を挙げてため息をつくだけで、もうあなたは終わりです。なぜなら、あなたが神にささげたものはすべて受け入れられませんし、あなたがささげる祈りもすべて聞かれないからです。もしあなたが一つのことを行い、それが誤りであり、不義であって、他の人に罪を犯し、他の人を傷つけてしまうなら、その人は神の御前に行ってあなたを訴えることをしなくても、神の御前に行って一言、「ああ、あの人は」と言うだけで、あなたのささげものはすべて受け入れられないものとなってしまいます。
もし、あなたがこのことを思い出したなら、「まず行って、兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、あなたの供え物をささげなさい。」です。これは兄弟と和解しなければ、あなたの神へのささげものは永遠に受け入れらないことになるということです。
ですから、軽々しく人に罪を犯してはなりません。特に、兄弟姉妹に対しては軽々しく罪を犯してはなりません。主のここでの一句は非常に重要です、「あなたを訴える者と共に道を行く間に、彼と早く仲直りしなさい」。わたしたちは、神の裁きの御座へと向かっています。今日わたしたちはみなこの道の途中にいます。彼はまだ世を去っていませんし、あなたも世を去っていません。ですから、早く彼と和解しなければなりません。ある日、あなたがここにおらず、この道からいなくなり、あるいは彼がここにおらず、この道からいなくなるその日が容易に訪れるからです。救いの門は永久に開いているのではありませんし、兄弟たちが互いに罪を告白しあう門も永久に開いているのではありません。
それに引き続いて、主は人の言葉を用いて語っておられます、そうでないと、その訴える者はあなたを裁判官に引き渡し、そして裁判官は役人に引き渡して、あなたは獄に投げ込まれる。まことに、わたしはあなたに言う。あなたが最後の一コドラントを払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。「裁判官に引き渡し」とは、キリストが再来される時、彼の裁きの座の前で起こります(Ⅱコリント5:10)。裁判官は主であり、役人は御使いであり、獄は懲らしめの場所です。ローマの一コドラントは、一アサリオンの四分の一に当たる小さな銅の貨幣であって、日本円で一円に等しいです。ここの意味は、最も小さいことについても、わたしたちは徹底的に清算する必要があるということです。ですから、もしわたしたちが救われた後に、罪を犯し、それを悔い改めず、和解もしないなら、キリストの再来の時に裁かれ、獄の中で懲らしめを受けるということです。すべての聖徒がこのことをはっきりと見ますように。
Ⅲ. 実行の時に注意すべき幾つかの点
人に対する罪を償おうとする時、注意すべき点が幾つかあります。第一に、罪を犯した範囲にしたがって罪を告白するということです。神の言葉にしたがって行う時に、極端な道を走ってはなりません。度を越すと、今度はサタンの攻撃を受けてしまいます。第二に、罪を告白するときは徹底的にすべきです。しかし、ある時には相手からの益となるように、別の人の益となるために、どのように罪を告白すれば最も良いかをよくよく尋ね求めるべきです。かなり複雑な状況では、経験のある兄弟姉妹と交わることが良いでしょう。
第三に償いにおいて、時としてそれらすべてを償う力がないかもしれません。しかし、償う力がないことと、心から償おうとすることは別のことです。誠意を持って、相手の人に理由を説明し、どのようにすべきかを問うべきです。第四に、もしも償いを受け取るべき人がすでに世を去っていて、その償いを受け取る親族もいないときは、その償うものを、エホバに仕える祭司に帰さなければなりません(民数記5:8)。もしあなたの償いを受け取る本人がいないときは、その償いは彼の親族に帰します。もし親族が一人もいない場合は、教会に渡してもよいでしょう。
第五に、罪を告白し償った後は、良心の訴えを受けないように特に気を付ける必要があります。ある人は、償いのためにずっと訴え続けれられることがよくあります。ですから、主の血が良心を洗い清めたこと、主の死があなたに神の御前で汚れのない良心を持たせたことをひたすら見続けなければなりません。あなたが徹底的に罪を対処したなら、サタンに過度な訴えをさせてはいけません。
第六に罪の告白といやされることは関係があります。ヤコブの手紙第5章16節は言います、「ですから、互いにあなたがたの罪を告白し合い、互いに祈り合いなさい。それは、あなたがたがいやされるためです」。罪を告白した結果は、神が病気をいやしてくださることです。
もし罪を犯した部分があれば、一面、神の御前で罪を告白し、もう一面、人の前で真剣に対処しなければなりません。そうすれば良心は強くなるでしょう。良心が強くなってこそ、霊的な道の上で前進ができるのです。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十二編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-04-20 | 初信者成就シリーズ
(この記事は7,327文字で、15分で読み終えることができます。)
わたしたちは救われた後、再び罪を犯すべきではありません。ヨハネによる福音書第5章で主イエスは、ベテスダの池で38年間病んでいた人をいやされ、その後、主は彼を宮の中で見つけられ、彼に言われました、「見よ、あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけない。もっと悪いことがあなたに起こらないためである」(ヨハネ5:14)。ヨハネによる福音書第8章では、主イエスは一人の淫婦を赦され、その場で彼女に言われました、「今後はもう罪を犯してはいけない」(ヨハネ8:11)。ですから、わたしたちが救われると、主はわたしたちに、もう罪を犯してはいけないと一つの命令をされます。すでに救われたわたしたちは、断じて罪の中に生きてはいけません。
Ⅰ. 救われた後に罪を犯す問題
クリスチャンであるなら、罪を犯してはいけませんし、断じて罪の中に生きてはいけません。しかし、クリスチャンは罪を犯さないことができるのでしょうか?できます!!!あなたに言いますが、クリスチャンは罪を犯さないことができるのです。なぜなら、わたしたちの中には神の命があるからです。この命は罪を犯さず、この命は少しも罪に譲歩することがありません。神が聖であられるように、この命も聖です。もしわたしたちがこの命の感覚にしたがって生きるなら、もしこの命の中で生きるなら、わたしたちは罪を犯すことがありません(Ⅰヨハネ3:9)。
しかし、クリスチャンにも罪を犯す可能性があります。なぜなら、わたしたちはまだ肉体の中にいるからです。もし聖霊にしたがって行動しないなら、もし命の中で生きないなら、いつでもどこででも罪を犯す可能性があります。ガラテヤ人への手紙題6章1節は言います、「兄弟たちよ、たとえだれかが、何かの違犯に陥ったとしても・・・」。ヨハネの第一の手紙第2章1節は言います、「わたしの小さい子供たちよ、・・・もし誰かが罪を犯すなら・・・」。このことから、クリスチャンは依然として、違犯に陥ることがあり得ること、罪を犯すことがあり得ること、を見ることができます。
それでは、人が救われた後に、もし不幸にも罪を犯してしまったなら滅びてしまうのでしょうか?滅びることはありません!なぜなら、主は言われたからです、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して永遠に滅びることはない。まただれもわたしの手から、彼らを奪い去りはしない」(ヨハネ10:28)。言い換えると、人は主イエスを信じ、救われたなら永遠に救われるということです。またコリント人への第一の手紙第5章は、一人の兄弟が淫行の罪を犯したことに言及しており、パウロは次のように言っています、「そのような者を、彼の肉を破壊させるためにサタンに渡したのです。それは、彼の霊が主の日に救われるためです」(Ⅰコリント5:5)。これもまた、人が救われた後に罪を犯してしまうなら、彼の肉は滅ぼされるとしても、彼の霊はやはり救われるということを言っています。
このようであるなら、救われた後に罪を犯すということは別に構わないことなのでしょうか?そうではありません!!!救われた後に罪を犯すなら、三つの恐るべき結果があるのです。第一は、この世において苦痛を受けることです。救われた後に罪を犯すなら、必ず罪を犯した結果が生じます。ちょうどコリント人への第一の手紙第5章が言っているように、このような者をその肉が破壊されるためにサタンに引き渡すのです。これは一つのとても大きな苦痛です。ある罪を犯した後に、もしあなたが罪を悔い改め、罪を告白するなら、神はあなたを赦し、血はあなたを清めるでしょうが、罪の結果を免れる方法はありません。ダビデがウリヤの妻をめとったということについて、エホバは彼の罪を除かれましたが、剣はいつまでも彼の家を離れなかったのです(サムエル下12:9-13)。罪は楽しいおもちゃではなく、あなたが罪を犯すなら必ず苦痛を受けます。
第二は、来るべき世において刑罰を受けることです。もしクリスチャンが罪を犯し、この時代においてそれを正しく対処しなければ、来るべき時代になった時にそれを対処しなければなりません。主が再来される時、「それぞれに、行いにしたがって報いられるからである」(マタイ16:27)とあります。またパウロは言います、「なぜなら、わたしたちはみな、キリストの裁きの座の前に現れなければならないからであり、それは善であれ悪であれ、めいめいが実際に行った事にしたがって、体を通してなされた事柄に対して、報いを受けるためです」(Ⅱコリント5:10)。
第三は神との交わりが断たれるということです。クリスチャンが神と交わることができるということは、最も栄光な権利であり、また最大の祝福でもあります。しかし、クリスチャンが罪を犯すなら、すぐに神との交わりを失ってしまいます。彼の喜びは失われ、神との交わりも失われてしまいます。以前は、祈ることや聖書を読むことにとても味わいがありましたが、今は味わいがなく、神に触れられません。それは神の臨在を失うことです。
ですから、救われた後に罪を犯すことは、とても重大なことです!わたしたちは、わたしたちの行いを絶対にいい加減にすることのないようにしなければなりません。しかし、「もしだれかが罪を犯すなら」、どうすればよいのでしょうか?もしあなたが不幸にも罪を犯してしまったなら、どうすればよいのでしょうか?どのようにすれば神との交わりが回復されるのでしょうか?これはとても重要な問題です。わたしたちはよくよくこの問題を見る必要があります。
Ⅱ. 主はわたしたちのすべての罪を担われた
この問題を解決するのに、第一に見なければならないことは、主イエスが十字架上に釘づけられた時、彼はわたしたちのすべての罪を担われたということです。主イエスが十字架上でわたしたちに代わって担われたものは、すべての罪を含んでいるのです。わたしたちが一生において犯す罪、過去のものだけでなく、現在のものも、将来のものも、主は十字架上で完全にわたしたちに代わって担われたのです。
あなたが24歳で救われたとしても、あなたが救われる前の多くの罪を主はすべて赦してくださったと、あなたは確かに感じるでしょう。しかし、あなたがそこで赦された時、あなたが赦されたと感じる罪は、実際に主によって担われた罪ほど多くありません。わたしたちは、わたしたちが感じていない罪も、主イエスの贖いの中に含まれていることを、知る必要があります。言い換えれば、主は十字架の上でわたしたちの全生涯の罪を担われたということです。
Ⅲ. 赤い雌牛の灰の予表
わたしたちは、主イエスが十字架上でわたしたちの全生涯の罪を担われたということをどのようにして知ることができるのでしょうか?それは旧約の民数記第19章の赤い雌牛の灰の予表によって見ることができます。民数記第19章は、旧約の中で特別な章です。
2節で神はモーセとアロンに言われました、「イスラエルの子たちに告げて、欠陥がなく、傷がなく、くびきを負ったことがない赤い雌牛を、あなたのところに引いて来させなさい」。ここで用いられたのは雄牛ではなく、雌牛です。聖書の中で、性別はとても意義のあるものです。真理の証しのためのすべてのものには男性形が用いられますし、命の経験のためのすべてのものには女性形が用いられます。これは聖書を読む上で知っておかなければならない原則です。アブラハムは信仰によって義とされることを表し、サラは服従を表しています。信仰によって義とされることは、客観面、真理の面、証しの面のことであり、服従は主観面、命の面、経験の面のことです。全聖書の中で、教会がすべて女性形を用いて表されているのは、それが主観的なことであり、主が人の身の上においてなされた働きであるからです。このように、ここにおいて雄牛ではなく雌牛が用いられているのは、これがわたしたちの身の上における主の働きの一面を表しているからなのです。ですから赤い雌牛の働きが表しているのは、主観的なものです。
この赤い雌牛は殺され、指でその血をとり、会見の幕屋の前に向かって七度振りかけられます(民19:3-4)。これは神へささげることであり、罪の贖いのためです。この一頭の赤い雌牛を殺した後、持って行って焼かれます。牛の皮と肉と血と汚物はすべて焼かれます(民19:5)。その雌牛を焼いている時に、祭司は香柏の木とヒソプと緋色の撚り糸とを、火の中へと投げ入れます(民19:6)。この意味はなんでしょう?列王記上第4章33節には、ソロモンの知恵について述べられており、「彼はレバノンにある香柏から城壁に生えるヒソプに至るまで、樹木について論じた。」とあります。これは香柏からヒソプがすべての樹木を含んでいること、全世界を含んでいることを意味します。聖書の中ではイスラエルの全土を指す表現として「ダンからベエルシェバまで」という言葉が使われています(士師20:1、サムエル上3:20)。これはイスラエルの最北端に位置する地名の「ダン」と最南端に位置する地名の「ベエルシェバ」から来ています。ですから、「香柏の木とヒソプ」はすべてを含んでいるという意味です。「緋色の撚り糸」とはなんでしょう?原文によれば、「糸」という文字はなく、イザヤ書第1章18節で言っている「緋」と同じ文字です。イザヤ書第1章18節は言います、「たとえあなたの罪が緋のようであっても」。このことから、緋はわたしたちの罪を表します。ですから、香柏の木、ヒソプ、緋色の撚り糸と雌牛を一緒に焼くという意味は、全世界のすべての罪と、神にささげる一頭の牛とを一緒にして、共に焼くということです。これが主イエスが十字架上でわたしたちの全生涯の罪を担われたという根拠です。
この雌牛は焼き終えた後、どうするのでしょうか?9節はいいます、「そして、清い人がその雌牛の灰を集めて営所の外の清い所に置き、それをイスラエルの子たちの集団のため、汚れを除く水のために保存しておかなければならない。それは罪のためのささげ物である。」ここに雌牛の特別な点があります。この一頭の赤い雌牛を焼き、香柏の木とヒソプも焼き、緋の糸も焼き、その灰を集め、蓄えておきます。以後もしイスラエル人が汚れたものに触れて、神の御前に清くない者になったなら、身の清い人が流れの水を用いて赤い雌牛の灰を調合し、この清くない者の身に注ぎかけて、彼の汚れを除き去らなければなりません。言い換えれば、この灰の用途は、汚れを除き去るためであり、将来において清くなくなった時に用いるため前もって準備しておく「予備」としてのものです。
旧約において、罪人は神の御前に出て、いけにえをささげる必要がありました。しかし、もしある人がすでにいけにえをささげていて、再び汚れたものに触れるなら、彼は神の御前で清くない者であり、神と交わることができません。それでは、どうすればよいのでしょうか?この清くない者のために、赤い雌牛の灰を取って器に入れ、流れの水に加え、汚れを除く水を調合し、彼の身に注ぎかければ、彼の汚れは除き去られ、彼の罪は赦されるのです。赤い雌牛が焼かれるのは、彼が認識している過去の罪のためではなく、彼の将来におけるすべての汚れのためなのです。ですから、赤い雌牛が焼かれるのは、過去の罪のためではなく、将来の罪のためなのです。主の贖いのみわざの中には、わたしたちの将来のすべての汚れ、すべての罪のために、すでに準備があるのです。主の贖いにおいて、すべてがすでに完全に準備されました。
灰にはどんな意味があるのでしょうか?聖書において、灰は最も最終的な形を表すものです。牛でも、羊でも、焼かれた後の最後の形は灰です。灰は最も頼りになるものであり、灰は朽ち果てることのないものです。灰は消滅させることができません。灰は最後の段階のものです。赤い雌牛が焼かれて灰になることは、主の贖いに含まれている永遠に変わることのない効力を予表しています。
もしクリスチャンが不幸にもきよくないものに触れて、汚れたとしても、彼は再び主に自分のために死んでいただくように求めにいく必要はありません。ただその永遠に朽ちることのない灰の効力に信頼して、それを体に注ぎかければよいのです。言い換えれば、赤い雌牛の灰がわたしたちに告げていることは、十字架という過去のみわざは、今日用いるためのものであるということです。神に感謝します。主イエスの贖いは、わたしたちが一生涯、用いることのできるものです。彼の死は、わたしたちのすべての罪を担いました。
Ⅳ. 罪を告白する必要がある
わたしたちはこれまで、主のみわざを見てきました。神のみわざは完全で完璧です。では、わたしたちは何をすべきでしょうか?ヨハネの第一の手紙第1章9節は言います、「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」。ここでの「わたしたち」は、信者を指しているのであって、罪人を指しているのではありません。信者が罪を犯したなら、必ず罪を告白する必要がありますし、そうしてこそ罪が赦されるのです。これが道です。箴言第28章13節は言います、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」。
例えば、うそをつくことは罪です。あなたがうそをついたなら、あなたはうそをついたこと、罪を犯したことを告白しなければなりません。あなたは「あれは少し言いすぎた」などと言って、罪を隠してはいけません。あなたは神の御前に出て、「わたしはうそをつくという罪を犯しました。」と告白しなければなりません。
罪を告白することの意味は、神の側に立って罪を罪定めすることです。ここに三者、すなわち、神、わたし、罪がいます。神と罪は両端にあり、わたしは中間にいます。罪を犯すとは、わたしと罪とが一緒になることであり、神を離れることです。わたしと罪が一緒にいながら、神と一緒にいる方法はありません。コロサイ人への手紙第1章21節は言います、「かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの思いの中で敵であった」。罪を告白することは、神の側に戻って、いま行なったことが罪であると告白することです。これは罪を罪定めすることであり、これによって神の側に戻ることができます。ですから、必ず光の中を歩み、罪に対して深い感覚を持ち、深く憎む人であってこそ、真に罪を告白することができるのです。罪に対して感覚がなく、罪を犯すこと、罪を告白することを日常茶飯事のように軽々しく行っている人は、ただ口先だけで告白しているのであって、それは罪を告白していることにはなりません。
わたしたちはヨハネの第一の手紙第一章の中の二つの「すべて」(7、9節)に注意する必要があります。「すべての罪」、「すべての不義」が、完全に赦され、完全に清められるのです。これは主がなさることです。主の十字架の死は、わたしたちのすべての罪を赦す効力があります。
Ⅴ. 御父と共にある弁護者
ヨハネの第一の手紙第2章1節は言います、「わたしの小さい子供たちよ、わたしがこれらの事を書き送るのは、あなたがたが罪を犯すことがないためです。」「これらの事」とは、わたしたちの罪がどのようにして神の約束と神のみわざによって赦され、清められたかを指して行っています。ヨハネがこれらを書いたのは、わたしたちが罪を犯さないようになるためです。赦されるのだからといって、罪を犯し続けることは神の愛を知らないのです。神の愛はわたしたちが罪を犯すことから救い出します。
その後、続けて言います、「もしだれかが罪を犯すなら、わたしたちには御父と共にある弁護者、義人イエス・キリストがあります」。主イエス・キリストは、ご自身の血に基づいてわたしたちの弁護者となられました。ですから、もしあなたが不注意に罪を犯してしまったとしても、決して失望しないでください。決して罪の中に横たわらないでください。決して罪の中にとどまり続けないでください。罪を犯したなら、まず第一に神の御前であなた自身の罪を告白すべきです。こうして、あなたと神との交わりが直ちに回復されるでしょう。
まとめ
どの兄弟姉妹も主の御前で罪を犯すべきではありません。もし不幸にも罪を犯したなら、まず第一にすぐに神の御前に出て罪を告白しなければなりません。決して引き延ばしてはいけません。すぐに罪を告白し、神に言いましょう、「わたしは罪を犯しました!わたしは罪人です!」罪を告白することは、わたしたち自身に対する裁きです。もしわたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、またすべての不義からわたしたちを清めてくださいます。
罪を犯してしまった後、神との交わりを回復する道はただ一つです。わたしたちが神の御前に行き、わたしたちの罪を認め、告白することです。わたしたちがこの次の道を歩む時に、おごり高ぶることがないように、いい加減にならないように、主を仰ぎ望みましょう。神がわたしたちをあわれんでくださり、わたしたちが一歩一歩前進できますように。
最後にやはり、クリスチャンは罪を犯すべきではないと言わなければなりません。罪を犯すことは、わたしたちに苦しみと損失を与えます。どうか神がわたしたちをあわれみ、わたしたちを守ってくださり、神との隔てのない交わりの中にとどまり続けさせ、絶えず前進させてくださいますように!
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十一編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」