人はだれでも喜びを求め、悲しみを避けたいと願います。しかし人生には重荷があり、それが喜びを妨げます。聖書は、喜びを失わせる重荷には「罪」と「思い煩い」の二つがあると示します。罪が赦されても、思い煩いに縛られているなら、喜びは完全ではありません。本稿は、すでに救われたクリスチャンが、なぜ喜びを失ってしまうのかを見つめ直し、「何事も思い煩ってはならない」という御言葉を通して、主にあって生きる真の喜びへの道を明らかにします。
「主の中でいつも喜びなさい.わたしは繰り返して言います.喜びなさい。
あなたがたの謙虚温柔さ(寛容な心)を、すべての人に知らせなさい。
主は近いのです。
何事にも思い煩うことなく、あらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたがたの要望を神に知らせなさい.
そうすれば、人知をはるかに超えた神の平安が、あなたがたの心と思考を、
キリスト・イエスの中で護衛してくださいます。」
新約聖書回復訳・・ピリピ4・4一7
Ⅰ. 喜びの条件ー重荷が無いこと
A . 二つの重荷、罪と思い煩い
人はみな喜ぶことを好みます。だれも悲しむことを好みません。人が喜んで、悲しまないためには、重荷を背負ってはいけません。そうでないと、喜ぶことはできません。聖書によれば、二種類の重荷があります。一つは罪の重荷であり、もう一つは思い煩いの重荷です。もし罪の重荷が解決されないなら、喜びはありません。もし思い煩いの重荷が解決されないなら、やはり喜びはありません。罪の重荷が解決されても思い煩いの重荷が解決されないなら、喜びは完全ではありません。同時に、思い煩いの重荷が解決されても罪の重荷が解決されないなら、喜びはやはり完全ではありません。罪と思い煩いの重荷は、共に解決されなければなりません。そうしてはじめて、喜ぶことができます。
B . 救われた後に残る重荷-思い煩い
今日はクリスチャンに対して語ります。クリスチャンはどのようにして喜ぶことができるかを考えましょう。クリスチャンはみな救われていますから、罪の重荷はすでに解決されています! ところが、思い煩いの重荷が解決されていないなら、喜ぶことはできません。クリスチャンに喜びがなければ、主と主の御名を辱めることになります。これは、主に信頼しないで、主を疑っていることを意味します。クリスチャンは自分の罪が赦され、救われていることを知っており、自分が神の子供であることを知っています。ところが、多くのクリスチャンは喜んでいません。喜びに欠けることは、確かにクリスチャンに対する神の分け前ではありません。今読んだ幾つかの節は、どのように喜ぶかをわたしたちに見せています。思い煩いから解放されるなら、喜ぶことができます。
C . 神はクリスチャンにいつも喜んでいてもらいたい
しかし、多くのクリスチャンはいつも喜んでいることができるでしょうか? 今日のクリスチャンは、 主の御名を辱めています。主のみこころは、わたしたちが自分の罪を知り、神の御前に来て赦しを求め、 主の血の贖いを通して神の子供たちとなる権威を持つことです。このすべてはすばらしいのですが、神はまたわたしたちに、いつも喜んでいてもらいたいのです。もしわたしたちに喜びがないなら、クリスチャンの正しい生活と態度はありません。クリスチャンはいつも喜んでいなければなりません。聖書を読めば、 信者たちは喜ぶべきであり、思い煩ってはならないことを見ます。それでは、ピリピ人への手紙第4章4節から7節を一句ずつ考えていきましょう。
Ⅱ . 喜んでいることは神の命令である
A . 神の命令を破っている
第4章4節は言います、「いつも主にあって喜びなさい。わたしは繰り返して言います。喜びなさい」。第一に知らなければならないのは、喜んでいることが神の命令であることです。神は決してわたしたちのできないことを命じられません。人に対する神のすべての命令は、人が行なうことのできるものです。聖書はわたしたちに快楽ではなく、主にあって喜ぶことを命じています。ただ主にあって喜ぶだけでなく、いつも主にあって喜んでいるべきです。人が偶像を拝むなら、これは神の命令に背くことを、わたしたちは知っています。ところが、もしクリスチャンが喜んでいないなら、やはり神の命令を破っていることを、わたしたちは認識していないかもしれません。わたしたちは、偶像を拝むなら神の命令を破っているが、喜んでいなくても神の命令を破っていない、と考えるかもしれません。実は、いずれの場合も神の命令を破っているのです。喜ぶことは神の命令ですから、この命令を実行しなければなりません。そうでないと、神の命令に背くことになります。
B . 喜びを妨げる多くの理由
おそらく、あなたはこのように考えるでしょう、「わたしにはあれこれの問題がある。どうして喜んでいることができよう? わたしは労苦しており、家族を養わなければならない。わたしは苦労し、汗を流しているが、あまり稼いでおらず、生活費はとても高いのに、どうして喜んでいることができるだろうか?」。こうして、あなたは思い煩います。あるいは、あなたは母親であるか、やもめです。あなたには多くの子供がおり、収入は乏しくて、支出をまかなうのに十分ではなく、その日暮らしなので、「わたしのような人が、どうして喜ぶことができるのか?」と思います。あるいは、あなたは学生、 医者、主人、使用人であって、この世の人を取り扱うのは難しいと感じ、喜ぶことができません。実に多くのことが、あなたを喜ばせないようにすることができます。
C . 着眼点を変えてみる
しかし、注意してください。四節の喜びはあなたにある喜びではなく、
「いつも主にあって喜びなさい」であるのです。
夫を失ったばかりのあるやもめが、自分の所有物を質に入れようとしており、家主は彼女を家から追い出そうとしていて、このような情況の下で大いに苦しんでいます。しかも、彼女はなおも小さな赤ん坊と遊ぶことができます。彼女は家、死んだ夫、彼女の環境の中では喜ぶことができません。しかし、彼女は喜ぶことができます。彼女は自分の赤ん坊にあって喜ぶことができます。同じように、神はわたしたちに、自分の環境、思いどおりのこと、あらゆる快楽にあって喜ぶことを、求めておられるのではありません。
神は、「主にあって喜びなさい」と告げておられます。この世はわたしたちに反対し、誤解し、拒絶し、わなにかけますが、だれも天におおいをかけることはできません。主は決して変わりません。世人はパウロを獄に入れ、閉じ込めることができましたが、パウロの内側の主を彼から離すことはできませんでした。 ですから、パウロとシラスは牢獄の中で、歌い神を賛美することができたのです。
一つの事をはっきりしているべきです。環境の中で喜ぶのではなく、
わたしたちの主にあって喜びなさい。
D . クリスチャンは忘れっぽい?
友人や親戚がなく、 心が痛んで涙を流す時、わたしたちを愛してくださり、わたしたちが愛している主を仰ぎ見るなら、慰められ、喜ぶことができます。彼はわたしたちの心を満たすのに十分です。ところが、クリスチャンはとても忘れっぽいのです! 今日これを聞いても、明日は忘れてしまいます! こういうわけで、パウロは続けて言っているのです、「わたしは繰り返して言います。喜びなさい」。神の意図は、わたしたちが喜ぶことです。ですから、何が起こっても、わたしたちは喜んでいなければなりません。
E . 苦しみながら喜ぶークリスチャンの中庸
「あなたがたの謙虚温柔さ(寛容な心)を、すべての人に知らせなさい」。「寛容な心」の原文には、中庸であるという意味があります。それは右にも左にも傾かず、多すぎも少なすぎもしないことです。クリスチャンがある問題に出遭って、大きな山の下で押しつぶされるのを感じるなら、彼は中庸ではありません。この世はわたしたちを圧迫しますが、主はわたしたちに喜びを与えてくださいます。この喜びは大きく、困難のただ中で、喜びのうちに日を過ごすことができるようにします。これが、聖書による中庸の原則です。これは、 この世が教える中庸ではありません。
F . 主が近いので喜べる
5節は言います、「主は近いのです」。この言葉を考えてみてください。ある人は、これは主の再来のことを言っていると言いました。しかし、これは二つの理由で信頼に値しません。
(一)「主は近い」の「近い」 は形容詞であって、動詞ではありません。
(二)原文によれば、「近い」という言葉は新約にわずか四回あるだけです。
すなわち、ローマ人への手紙第10章8節、エベソ人への手紙第2章13節と17節、ピリピ人への手紙第4章5節です。四つ目の事例の意義は、初めの三つの事例の意義と同じです。初めの三つの事例で述べられていることはみな、四つ目の事例で述べられていることであるはずです。初めの三つの事例で、「近い」は場所のことを言っています。…ですから、ピリピ人への手紙第4章5節の「主は近い」も、場所のことを言っているに違いありません。これは、主がわたしたちに近いということであって、主がすぐに来られることではありません。主がわたしたちに近く、わたしたちを助けることができるのを知るのは、すばらしいことです。彼がわたしたちのそばにおられるので、わたしたちは喜ぶべきです。彼がわたしたちに近づいてくださったので、わたしたちは喜ぶべきです。
まとめ
喜びは状況から生まれるものではなく、「主にあって喜ぶ」こととして神から命じられています。思い煩いは主への不信から生じますが、主は私たちの近くにおられ、決して離れません。環境が苦しくても、主ご自身は変わらず、私たちを満たすに十分な方です。主が近くにおられることを知り、すべてを主に委ねるとき、思い煩いは平安に変えられ、クリスチャンはどんな境遇の中でも喜びを保つことができます。
《何事も思い煩ってはならない(二)に続く》
参考書籍
「メッセージ記録(二)」ウオッチマンニー全集 第一期 第十八巻
出版元:日本福音書房

