パンさき集会とは何か?- 主の晩餐と主の食卓 – 初信者シリーズ10

パンさき集会とは何か?- 主の晩餐と主の食卓 – 初信者シリーズ10

主イエスがこの世を去られる前夜、弟子たちとともに食卓を囲みました(マタイ26:26-28)。その食卓で主が設けられた『晩餐』は、教会にとって特別な意味があります。なぜこの晩餐が設立されたのか。また主の晩餐はどのような意義を持つのか。それはただの儀式ではなく、深淵な霊的意義を含んでいます。

まず初めに「パンさきの意義」についての結論を述べます。パンさきには「主の晩餐」と「主の食卓」という二つの面があります。「主の晩餐」は、主を記念し、主の死を告げ知らせるためです。「主の食卓」は、わたしたち信者がキリストの中で「一」であり、互いに交わりを持っていることを証しすることです。このパンさきは、主の為されたみわざを思い起こし、また主の再来を待ち望みます。わたしたち信者は、キリストの中で「一」であり、交わりを持っていることを深く知るのです。

この記事では、このパンさきについて詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. 主の晩餐の設立

教会には神の子たちが出席すべき晩餐があります。この晩餐は、主イエスがこの地上で生きておられた最後の夜に設けられたものであり、その翌日に彼は十字架に釘付けられました。これは主イエスが地上で生きておられた最後の夜に食された最後の食事です。

この最後の食事とはどのようなものなのでしょう?これには一つの物語があります。ユダヤ人には過越の祭りと呼ばれる祭りがあって、エジプトで奴隷となっていた時に神が彼らを救われたことを記念しました。神がユダヤ人を救われた方法はこうです。神は、おのおのその父の家ごとに小羊を一家族に一頭取って、正月の十四日の夕暮れにこの小羊を殺し、その血を門柱とそのかもいに塗ること、また、その夜はこの小羊の肉を種入れぬパンと苦菜を添えて食べるように命じられました。ユダヤ人がエジプトから出てきた後、毎年この祭りを守って記念するようにと神は命じられました(出エジ12:1-28)。ですから、ユダヤ人にとって過越の祭りは、救われたことを思い起こすことです。

主イエスがこの世を離れようとしていたその夜は、過越の小羊を食べる時でした。主イエスが弟子たちと過越の小羊を食べた直後、主はご自身の晩餐を設けられました。主はここで、ユダヤ人が過越の小羊を食べるのと同じように、わたしたちが彼の晩餐を食べるべきであることを示されたのです。

この二つの事柄を対比させて見てみましょう。イスラエル人は救われてエジプトを脱出したので過越の祭りを守ります。神の子たちは救われてこの世の罪悪から離れたので主の晩餐を食べるのです。イスラエル人には小羊があり、神の子たちであるわたしたちにも小羊があるのです。この小羊とは主イエスです(ヨハネ1:29,36)。今日わたしたちはすでにこの世の罪悪から離れ、サタンの支配から離れ、完全に神に帰されました。ですから、ユダヤ人が過越の小羊を食べるのと同様に、わたしたちは主の晩餐を食べるのです。

彼らが食事をしていた時、イエスはパンを取り、それを祝福してさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、「みな、それから飲みなさい。これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、注ぎ出されるわたしの契約の血である(マタイ26:26-28)。これが主の設けられた晩餐です。

晩餐とは、一日の仕事がすっかり終わって、家族が一緒にくつろいで取る食事のことです。それは朝食や昼食のような慌ただしいものではなく、くつろいで気楽に食事をし、安息の味わいに満ちているものです。神の子たちが晩餐にあずかる時も、このような雰囲気であるべきです。その晩餐では、忙しくするのでもなく、あれやこれやと考えるのでもなく、ただ神の家の中で安息を享受するのです。

主イエスが晩餐を設けられたのは過越の祭りの時でしたから、用いられたのは種の入っていないパン(出エジ12:15)であり、種を入れてふくらませたパンではありません。またマタイによる福音書第26章、マルコによる福音書第14章、ルカによる福音書第22章では、「ぶどうからできたもの」と言っています。ですから、パンをさく時には、ぶどう酒を使っても、ぶどうジュースを使っても良いのです。

Ⅱ. 主の晩餐の意義

なぜ主はわたしたちに晩餐を行うように言われたのでしょう?それは大きく二つの理由があります。一つ目は「主を記念するため」であり、二つ目は「主の死を告げ知らせるため」です。

A. 主を記念する

コリント人への第一の手紙第11章24節で主は、「わたしの記念にこれを行いなさい」と言われました。ですから、晩餐は第一に、主を記念するためのものです。主は、わたしたち人がいとも簡単に彼を忘れてしまうことを知っておられます。わたしたちの得た恵みはこんなにも大きく、その贖いはこんなにもすばらしいものですが、人はすぐに忘れてしまうのです。ですから、主は特に言われたのです、「わたしの記念にこれを行いなさい」。

主がわたしたちに彼を記念するように言われたのは、わたしたちがただ忘れてしまいやすいからだけでなく、わたしたちが彼を記念することを主ご自身が必要としておられるからです。言い換えれば、主は私たちに忘れてほしくないのです。彼は偉大でわたしたちをはるかに超えています。わたしたちが記念しようとしまいと、別になんでもないと考えるかも知れません。しかし、主の言葉は「わたしの記念にこれを行いなさい」です。これは、主がご自身を低くされていることを見せています。すべてを超越しておられる方がわたしたちの記念を受けてくださるのです。これはわたしたちに対する愛の要求です。もしわたしたちが主を常に記念することをせず、主の贖いも自分の前に置かないとしたら、わたしたちは容易にこの世の罪悪と一つとなってしまい、容易に神の子たちとの間に争いが生じるでしょう。

あなたが主を記念する時、この世の罪の力があなたの身に影響を及ぼし続けることができなくなるという大きな益があります。主日ごとに主を記念することによって、どのように主を受け入れたか、どのように主に受け入れられたか、どのように主が自分に代わって死なれたかを思い出すなら、もはやこの世の罪と一つになることはできなくなるでしょう。これが、パンをさいて主を記念することの一つの益です。また、主を記念することは、神の子たちが争うことができないようにし、区別したり差別したりすることができないようにします。あなたが自分はどのように恵みを受けて救われたかを記念している時、別の兄弟もそこでどのように恵みを受けて救われたかを記念しているとしたら、彼を愛さずにはいられません。あなたが、主イエスは自分の千万の罪をすべて赦してくださったことを思う時、別の姉妹が入ってきて、彼女も血による贖いを受けているとしたら、彼女を赦さないということは不可能です。主の晩餐の食卓に来る時、すべての問題は消え去ります。なぜなら、主を記念することは、あなたがいかに救われたか、いかに赦されたかを記念することだからです。

自分の多くの罪を主はすべて赦してくださったのに、なお兄弟姉妹と争い合うことなど、あってはなりません。集会で主を記念する時はいつでも、主はわたしたちにもう一度、彼の愛を学ばせ、十字架のみわざを学ばせ、救われた人はみな主が愛しておられる人であることを学ばせられるのです。主はわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自身を捨てられました。主はあなたのために、またすべて彼のものである人たちのためにも、ご自分を捨てられたのです。

多くの人が怠惰になって実を結ばないのは、以前の罪がすでに清められていることを忘れてしまったからです(Ⅱペテロ1:8-9)。ですから、主はわたしたちにご自身を記念し、愛するようにと言われるのです。この杯は彼の血によって立てられた新しい契約であり、わたしたちのために流されたことを記念するものです。このパンは彼の体であり、わたしたちのために捨てられたことを記念するものです。これがパンさきの第一の重要点です。

B. 主の死を告げ知らせる

主の晩餐にはもう一つの意義があります。コリント人への第一の手紙第11章26節は言います、「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。あなたがパンを食べ、杯を飲むことは、主の死を告げ知らせることなのです。「告げ知らせる」とは、人々に知らせるという意味です。

このパンと杯は、どのようにして主の死を告げ知らせるのでしょうか?血は本来、肉の中にあるものです。その血と肉が分かれてしまえば、それは死を意味します。この杯の中にぶどう酒を見る時、血を見ます。このパンを見る時、肉を見ます。主の血は一方にあり、主の肉がもう一方にあります。血と肉とが分かれてしまっています。これは主の死を表しているのです。この集会では、「わたしたちの主はあなたに代わって死なれました」と言う必要はありません。血が肉の中にないことを見るだけで、ここに死があることがわかります。

このパンはひかれた穀物です。この杯に中のものは搾られたぶどうです。このパンを見ると、そこにはすでにひかれた穀物があり、この杯を見ると、そこにはすでに搾られたぶどうがあります。ここに「死」があります。小麦の粒はひかれなければ一粒のままであって、パンにはなりません。一房のぶどうが搾られなければ、酒(液)もありません。ですから、わたしたちがこのひかれた穀物を食べ、搾られたぶどうを飲む時、これは主の死を告げ知らせることなのです。

あなたの両親、子供たち、親族は主を知らないかもしれませんが、もしあなたが彼らをパンさきの集会に連れて来たら、彼らは初めてパンさきを見て質問するでしょう。「これは一体どういうことですか?パンをさくとはどんな意味ですか?杯を飲むとはどんな意味ですか?」。あなたは言います、「もしこの杯の中のものが血であり、このパンが肉であるとしたら、これはどういうことでしょうか?」。彼らは「これは死です」と答えるでしょう。わたしたちは人に指し示して、ここに置かれているのは主の死であると見せることができます。ですから、出て行って口を使って福音を伝えるだけでなく、集会所で福音を語るだけでなく、主の晩餐も福音を伝えることなのです。

人から見れば、主イエスはもはや地上にはおられませんが、十字架のしるし、すなわちパンと杯が存在し続けています。毎回パンと杯を見る時に、主の十字架上の死を見ます。この十字架のしるしは、主がわたしたちに代わって死なれたことが必ず記憶されるべきであることを示しています。

「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。主イエスは再来しようとしておられます。この言葉は晩餐と一緒にすると特別な意味があります。晩餐は一日の最後の食事です。わたしたちは毎週この晩餐にあずかります。教会は週ごとに同じ晩餐にあずかります。すでに二千年近くもたちましたが、この晩餐はまだ過ぎ去ってはいません。わたしたちは、この晩餐にあずかり続けます。ずっと待って、ある日主が来られる時、もはやこの晩餐にはあずからないでしょう。顔を合わせてわたしたちの主を見る時、晩餐は過ぎ去るでしょう。わたしたちは主を見たなら、もはや主を記念する必要がなくなります。ですから、晩餐の第一の意義は「主を記念すること」であり、第二の意義は「主の死を告げ知らせる」ということです。主の晩餐は、わたしたちが主ご自身を記念するためです。人が主ご自身を記念すれば、自然に主の死も記念するようになります。主の死を記念するなら、自然に王国を待ち望むでしょう。ある日、主は来られます。

Ⅲ. 主の食卓の意義

コリント人への第一の手紙第10章では、別の言葉を用いてパンさきを説明しています。それは晩餐ではなく、「食卓」であると言っています。主が最後の夜に設けられた晩餐において、主を記念し、主の死を告げ知らせ、主の再来を待つのですが、これは一面にすぎません。教会のパンさきにはもう一面があって、それはコリント人への第一の手紙第10章21節で言われている「主の食卓」です。

主の食卓の意義は、コリント人への第一の手紙第10章16節と17節ではっきりと語られています、「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?わたしたちがさくパン、それはキリストの体の交わりではありませんか?一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つからだなのです。それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです」。ここにも二つの意義があります。一つは「交わり」であり、もう一つは「一」です。

A. 交わり

主の食卓の第一の意義は交わりです。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?」。わたしたちはみな、主の杯から飲みます。これが交わりです。コリント人への第一の手紙第10章は信者と信者のお互いの関係を言っています。晩餐はわたしたちが主を記念することを語り、食卓はわたしたちの互いの交わりです。食卓については、「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか?」と言っています。ここでの重要点は、キリストの血にあずかることではなく、キリストの血の交わりにあります。

「わたしたちが祝福する祝福の杯」の「杯」は単数です。マタイによる福音書第26章27節で言われている「杯」も単数です。原文どおり直訳すれば、「また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、『みな、それから飲みなさい』」となるべきです。ですから、杯の数を多くすることには賛成しません。なぜなら、意味を変えてしまうからです。一つの杯から共にあずかること、これが交わりの意味です。もしお互いが親密でなければ、同じ一つの杯からあなたが一口、彼が一口飲むことはできないでしょう。神の子たちは共に一つの杯から飲みます。一つの杯からあなたが一口、彼が一口、これほど多くの人たちがみなこの一つの杯から飲むのです。それが交わりです。

B. 一

第二の意義は「一」です。「わたしたちがさくパン、それはキリストの体の交わりではありませんか?一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つからだなのです。それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです」。ここでは、神の子たちが一つになっているのを見ます。コリント人への第一の手紙第11章で言われているパンと第10章で言われているパンには違う意味があります。第11章では、主はパンについて「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」(Ⅰコリント11:24)と言われました。これは主イエスの肉体を指して言われたのです。第10章では、パンは教会を指しています。「わたしたちは数が多くても一つからだなのです」(Ⅰコリント10:17)。ですから、わたしたちはパンであり、このパンは教会です。

すべての神の子たちは、このパンが一つパンであるように一つです。わたしたちにはただ一つのパンがあるだけです。キリストはパンのようにもともと一つです。神はキリストを少しあなたに分け与え、また彼にも少し分け与えられたので、ひとりのキリストは今や多くの人の心の中に住んでおられます。神の子たちがパンをさく時には、ただ主を記念するだけでなく、主の死を告げ知らせるだけでもなく、また神のすべての子たちと交わりを持つだけでもなく、神のすべての子たちが一であることを承認するのです。この一つのパンは神の教会が一であることを表しているのです。

主の食卓の基本的な要素はパンです。このパンは、大きく言えばすべての神の子たちを代表していますし、小さく言えば一つの地方のすべての神の子たちを代表しています。もし何人かの神の子たちが共に集まり、ただその何人かだけを見るなら、そのパンはその何人かだけを含むもので小さすぎて、十分ではありません。一つのパンは、一つの地方のすべての神の子たちを表し、一つの地方の教会を代表しているべきです。またそれだけでなく、この一つパンはこの地上にいるすべての神の子たちを含むものです。わたしたちは、このパンがすべての子たちの一を表していることを見なければなりません。もし一つの単独の教会を設立しようとするなら、そのパンはあまりにも小さすぎて、教会を代表することはできません。

もしわたしたちと共にパンをさいたことのない兄弟が主の食卓の前に来るとします。彼は主と結合していますから、このパンの中にあります。わたしたちは彼を受け入れるでしょうか、それとも受け入れないでしょうか?覚えておかなければならないことは、わたしたちは主人ではなく、接待役に過ぎないということです。食卓は主のものであって、わたしたちのものではありません。わたしたちが主に属する人にパンをさかせないと言うことはできません。この食卓は主のものですから、受け入れるかどうかの権威は主にあり、わたしたちにはありません。わたしたちが拒むことのできる人は、罪の中にとどまって、そこから出てこようとしない人です。なぜなら、彼は主との交わりを断ってしまったのですから、わたしたちも彼との交わりを断つのです。パンさきに受け入れることでは、注意深く判断し、いい加減ではなく、主のみこころに合うようにしなければなりません。

Ⅳ. パンさきの集会で注意すべきこと

最後に二つのことを交わりたいと思います。一つはパンさきの集会とはどのようなものであるか。もう一つは、主を記念する時に、わたしたちはふさわしくなければならないということです。

A. パンさき集会

パンさきの集会では顧みなければならない特別な状況があります。それは、わたしたちは主の血で洗われた人であって、血で洗ってくださるように求める人ではないことです。わたしたちは主の命を得た人であって、命をくださるように求める人ではありません。ですから、この集会ではただ祝福があるのです。主は渡された夜に、「パンを取り、それを祝福して・・・また杯を取り、感謝をささげて」(マタイ26:26-27)。主は祝福し感謝をされただけです。弟子たちとパンをさき終わってから、なおも賛美を歌われました(マタイ26:30)。ですから、この集会の正常な雰囲気は、祝福と感謝と賛美なのです。

パンさきは週に一度です。主は晩餐を設けられた時、「あなたがたは常にこれを行いなさい」(原文には常にの意味があります)と言われました。初期の教会では、週の初めの日にパンをさきました(使徒20:7)。わたしたちの主は死んだだけでなく、復活されました。わたしたちは復活の中で主を記念するのです。

B. ふさわしい

主を記念する時、わたしたちは「ふさわしく」なる必要があります。コリント人への第一の手紙第11章27節から29節は言います、「こういうわけで、だれでも、ふさわしくないままで主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主の体と血に対して罪を犯すのです。人は自分自身を吟味して、それから、そのパンを食べ、その杯から飲みなさい。なぜなら、食べ飲みする者が、その体をわきまえないのであれば、自分自身に対する裁きを、食べ飲みすることになるからです」。食べるときに最も重要なことは、ふさわしいことです。これは人がふさわしいかと言うのではなく、その態度がふさわしいかどうかです。もし一人の人が主のものであるなら、問題ではありません。しかし、もし主の人でないなら、パンをさくことはできません。ですから、ふさわしいかどうかの問題は、人の問題ではなく、態度が正しいかどうかの問題です。

また、わたしたちは兄弟姉妹との間に争いを持ったまま、パンと杯にあずかるべきではありません。パンと杯を食べ飲みすることは受け入れることです。もし、あなたが兄弟姉妹に対して怒っており、赦していないのであれば、パンと杯にあずかるべきではありません。このパンと杯はすべての兄弟姉妹のためのものです。あなたが赦されているように彼らも赦されているのです。わたしたちの態度が正しいかどうかをよくよく吟味する必要があります。

まとめ

パンさきには二つの面があります。一つは「主の晩餐」であり、もう一つは「主の食卓」です。「主の晩餐」は主を記念すること、主の死を告げ知らせるためです。「主の食卓」は、わたしたち信者が互いに交わりを持つことであり、キリストのからだの一を証しすることです。

「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)。この御言葉でパウロは、「主が来られるまで」と言われました。わたしたちは聖書の御言葉にしたがって、「主が来られるまで」パンをさき続ける必要があります。パンさきはただの儀式ではなく、霊的実際に満ちているものなのです。わたしたちは、兄弟姉妹と共にパンと杯にあずかる時、この上ない喜びの中にあることを証することができます。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十七編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

古代の教会の主日に関する資料

古代の教会の主日に関する資料

十二使徒の教え(紀元75-90年)

主日に関しては、「十二使徒の教え」(聖書以外の最初の教会の書物であり、およそ紀元七十五年から九十年の間に書かれたものであり、少なくとも啓示録と同時代のものである)という書物の中に、以下のような言葉があります、「主日ごとに、あなたがたは共に集まって、自分の罪を告白した後、パンをさき、感謝をささげなければなりません。そうすれば、あなたがたがささげるささげ物は清められます」。これは、信者が主日の集会において、第一世紀の終わりごろにこのようにしていたことをはっきりと見せています。

イグナチウス(紀元100年)

使徒ヨハネに一人の弟子がおり、その名をイグナチウスと言い、彼は紀元三十年に生まれ、紀元百七年に殉教しました。彼は紀元百年の時、一通の手紙をマイニシア地方の者に書き送りました。この一通の手紙の第九章の中で、彼ははっきりと言っています、「あなたがたは昔の教える人(ユダヤ教の人たちを指す)にしたがって、第七日の安息日を守ることは、もはや今日すべきではありません。主日を守るべきです。なぜなら、その日にわたしたちの命は彼と共に発芽したからです」。これもまたはっきりと、初期の教会が安息日を守っていたのではなく、主日を守っていたことを見せています。

バルナバ(紀元120年)

およそ紀元百二十年にバルナバ(聖書に出てくるバルナバではない)が書いた一通の手紙の第十五章に次の一句があります、「わたしたちは喜んで第八日、つまり主イエスが死から復活された日を守ります」。

エスティノス(紀元138年)

さらにもう一人の教父がおり、人は彼のことを殉教者エスティノスと呼び、教父たちの中ではかなり有名な人です。彼は紀元百年に生まれ、紀元百六十五年に殉教しました。紀元百三十八年の時、彼は「弁証論」という書物を書きました。その書物の中で彼は言っています「日曜日つまり週の初めの日に、すべて町に住んでいる者とその町以外に住んでいる者は共に集まり、みなで使徒の伝記と預言者の著作を読みます。時間が許す限り、読めるだけ読みます。読み終わったら、数句の教える言葉があれば、導く兄弟が、それらの良い事に習うようにとみなに勧めをします。後ほどわたしたち全体は立ち上がって祈り、祈り終わったらパンとぶどう酒を持ってきて、導く人が祈りと感謝をささげ、全員が心を一つにして「アーメン」と言います。富んでいる人も、心から喜んでささげる人も、各自はその感謝にふさわしい額をささげます。それを集めて処理する人に託し、その人が孤児や寡婦、病人、必要のある人、捕らわれている人、わたしたちの間で集会している人を顧みます。言い換えれば、必要のあるすべての人を顧みるのです。日曜日はわたしたちの普通の集会の日です。なぜなら、イエス・キリスト、わたしたちの救い主がこの日に死から復活されたからです。主は土曜日の前日に釘づけられ、土曜日の翌日、つまり日曜日に彼の使徒や弟子たちに現れ、彼らにこの事を教えられました。今日この事をあなたがたに書き送るので、それを考慮するようにしてください」。さらにもう一箇所で彼は言っています、「わたしたちは罪と過ちの中から、わたしたちの主イエス・キリストを通して割礼を受けました。彼は週の初めの日に、死から復活されました。ですから、この日はすべての日の中で主要な日、第一日となったのです」。

メリト(紀元170年)

紀元百七十年、サルデスに在る教会に、メリトと呼ばれた教父がいました。彼の書いた本の中に光のような一句があります、「わたしたちは今日、主の復活の日を過ごしています。この時わたしたちは多くの手紙を読みます」。

クレメンス(紀元194年)

紀元百九十四年、アレクサンドリア市にクレメンスという有名な教父がいました。彼は炎のように言いました、「第七日は今日、働きの日となっています。それはまた普通の働きの日でもあります」。続けて彼はまた言っています、「わたしたちは主日を守るべきです」。

テルトゥリアヌス(紀元200年)

紀元二百年、教父テルトゥリアヌスは言いました、「主日に、わたしたちは特に喜びに満たされます。わたしたちはこの日を、すなわち主の復活の日を守ります。妨げもなく、心配事もありません」。そのころすでに、主日を守ることは太陽を礼拝することであると批判する人がいたので、テルトゥリアヌスは彼らに答えて言いました、「わたしたちは主日に喜びます。わたしたちは太陽を礼拝しているのではありません。わたしたちは、怠けて土曜日に宴会しているような人たちとは異なります」。

オリゲネス

オリゲネスは、教父たちの中でも有名な一人ですが、彼はアレクサンドリアの有名な神学者です。彼は、「主日を守ることは完全なクリスチャンであることのしるしです」と言っています。

週の初めの日は安息日ではない

ある人は、古代の信者たちは安息日を守っていたのであり、第四世紀にコンスタンティヌスが週の初めの日を守るように改めさせたのである、と言います。これは事実に合いません。コンスタンティヌスは、この日を改めたのではなく、この事実を認めたのにすぎません。というのは、教会はすでに長い間、主日を守ってきていたからです。紀元三百十三年の前までは、クリスチャンは迫害を受けました。紀元三百十三年の後、コンスタンティヌスはローマを支配し、ミラノ地方で一つの詔書を発布し、クリスチャンを迫害することを禁じました。紀元三百二十一年、コンスタンティヌスは第二の詔書を発布し、言いました、「主日には、役人も一般民衆も、町に住む者はみな休むべきであり、すべての仕事は停止すべきである」。

この詔書の中でコンスタンティヌスは、初めから終わりまで安息日には全く触れておらず、ただ週の初めの日が教会の日であることを認めただけでした。

以上の資料の中から、主日を守ることは、使徒と教会の教父たちの時から始まり、これが各時代の実行であったことを知ることができます。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十四編
出版元:日本福音書房

日曜日は安息日?それとも主日? – 聖書が教える二つの日 – 初信者シリーズ 9

日曜日は安息日?それとも主日? – 聖書が教える二つの日 – 初信者シリーズ 9

現代の多くのクリスチャンは、日曜日が「安息日」であると考えています。しかし、それは誤った聖書解釈です。この誤解は、聖書に啓示されている真理を曇らせてしまいます。この記事では、まず聖書の啓示に基づき、安息日についての考えを深めましょう。そして、「安息日」と「主日」との違いを明らかにし、私たちがどのような立場で歩むべきかを見ていきます。もし、あなたがまだ日曜日は「安息日」であると考え、それを守っているなら、あなたは恵みの下にではなく律法の下に歩んでいるかもしれません。聖書の中で神が私たちに与えられた真の安息とは何か、主日とは何かを、一緒に見ていきましょう

神は六日かかって天地万物を造り終え、第七日にはすべてのわざをやめて安息されました。その約2,500年の後、神は十戒を与えられました(出エジ20:1-17)。その中の第四の戒めは、人に安息日を記念させるものであり、神のみわざを記念させるものです。この安息日の記念は、神が世界を回復した時、六日間で回復を終え、第七日に安息されたことを、人に振り返って見させるものです。ですから、第七日はもともと神が安息された日です。ここから約2,500年余り経ってから、神はこの第七日の安息日を人に与えて、人もまた安息するようにさせたのです。

旧約の事柄は、すべてきたるべき素晴らしい事柄の影にすぎません(ヘブル10:1)。神が人に安息日を与えられたことも、旧約のその他の多くの予表と同様に、霊的な意義があります。神は第六日に人を造り、第七日に安息されたのですから、人は造られるとすぐに働いたのではなく、まず神の安息の中へと入り込みました。人はまず安息し、その後はじめて働いたのです。これが福音の原則です。ですから、安息日は福音の予表です。安息が働きの前にあること、これが福音です。

安息日の意義は、人が働かずにただ神の安息に入り込むことです。人が神の安息に入り込むとは、人が自らの働きをやめ、神のみわざを受け入れることです。人が安息日を犯すことは、大きな事柄ではないかのように見えますが、神の真理から言えば、それは実に大きな事柄です。人はまず福音を受け入れるべきであり、そうしてこそ行うことができます。人が安息日を犯すとは、自分自身で働くことができ、自分自身で行うことができるということであり、つまり、神のみわざを必要としないことの表示です。安息日を守ることは、何もしないということではなく、人が神の安息の中で安息し、神のみわざを受け入れることです。これが旧約においての安息日がわたしたちに見せていることです。

Ⅰ. 主日は安息日ではない

新約に入ると状況は変わりました。主イエスは安息日に会堂に入られ、聖書を読まれました(ルカ4:16)。彼は会堂に入って、人に教えられました(マルコ1:21)。使徒たちもまた安息日に会堂に入って、聖書について説きました(使徒17:1-3)。このことから、安息日には消極的な休みがあるだけでなく、積極的な働きがあることを見ることができます。もともとそれは体を休める日でしたが、新約になるとそれは霊的な事柄を追求する日と変わりました。これは一つの前進です。

もしわたしたちがよくよく聖書を読むなら、聖書における神の啓示は進歩していることを見いだすことができます。以前の聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7 の記事で、聖書を読む時には「事実を探し出す必要がある」ことを語りました。それは、事実の中に光があるからです。事実に変更があったのですから、新しい光があるのです。安息日についてもそうです。

聖書は創世記において「神はその第七日目を祝福し」(創世記2:3)と言っています。しかし、主イエスが復活された時、聖書は「週の初めの日」(マタイ28:1)と言っています。聖書は主イエスの復活の日を「第七日目」とは言わずに「週の初めの日」と言っています。これは神が「週の初めの日」を「安息日」に代えられたと言っているのではありません。しかし、神がわたしたちの注意を転じて、「週の初めの日」に心を向けるようにと願っていることを聖書ははっきりと見せています。

安息日は福音の予表です。福音の実際であるキリストが来たので、その予表は過ぎ去りました。安息日の原則は福音です。それはささげ物の原則が十字架であるのと同様です。旧約でささげ物に用いられた牛や羊は、みな神の小羊である主イエスを予表しています。主イエスが来られたので、牛や羊は用いられなくなりました。もし今日も牛や羊を引いてきてささげ物にするなら、それは十字架を認識していないということです。同様に、福音はすでに来たのですから、人は福音によって神の御前で安息することができるのです。神は、ご自身の御子の十字架上での贖いを通して、わたしたちのためにすべてのみわざを成し遂げてくださったのですから、神はわたしたちという人が先に何かをするように命令されるのではなく、まず安息するようにと命じられたのです。今日、牛や羊のささげ物がないように、安息日もありません。安息日は旧約における予表です。新約では、この予表はすでに成就したのです。

Ⅱ. 主日の根拠

旧約では、神は七日間の一日、すなわち第七日を選び、それを聖なる安息日と定められました。新約になると、旧約の第七日はすでに過ぎ去りましたが、七日間の中から一日を選ぶ原則はやはり継続しています。しかしながら、新約には別の日があります。安息日が主日になったのではありません。旧約の時、神は一週の中から第七日を選ばれました。新約では、神は一週の中から第一日を選ばれたのです。神は第七日を第一日と呼んだのではなく、別の日を第一日とされました。

詩篇第118篇22節から24節はとても重要です。「家を建てる者たちの捨てた石、それが隅のかしら石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(原文)。ここに「家を建てる者たちの捨てた石」という言葉を見ます。石が役に立つかどうかは、家を建てる者たちの決めることです。家を建てる者たちがこの石は使えないと言えば、それは使えないのです。しかし、不思議なことがあります。神は彼を、すなわち「家を建てる者たちの捨てた石」を、「隅のかしら石」とし、土台とされました。神は最も重要な責任を彼の上に置かれたのです。24節はさらに不思議な言葉です。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」。これは家を建てる者たちの捨てた石が隅のかしら石となった日こそ、主が設けられた日であると言っています。

それでは、どの日が主の設けられた日なのでしょうか?使徒行伝第4章10節から11節は言います、「あなたがた一同も、イスラエルのすべての民も知っていただきたい。あなたがたが十字架につけ、神が死人の中から復活させたナザレ人イエス・キリストの御名の中で、この名の中で、この人が、あなたがたの前に健やかになって立っているのです。この方は、あなたがた、家を建てる者たちに捨てられ、隅のかしらになった石です」。10節は、「あなたがたが十字架につけ、神が死人の中から復活させた」と言い、11節は、「あなたがた、家を建てる者たちに捨てられ、隅のかしらになった石です」と言います。家を建てる者たちが捨てた時とは、主イエスが十字架につけられた時です。神が彼を隅のかしら石とされた時とは、神が彼を死人から復活させた時です。言い換えれば、この石は、主イエスの復活の時に、隅のかしら石となったのです。ですから、「主の設けられた日」とは、主イエスの復活の日です。

ここでわたしたちが見るのは、わたしたちの主日は、旧約の律法の下にある安息日とは全く異なっています。旧約の安息日は、これをしてはならない、あれはすべきではないと、みな消極的です。しかし、神は新約時代に設けられた主イエスの復活の日は、楽しみ喜ぶようにと言っておられます。ですから、主日の特徴は、積極的な命令があるだけであって、消極的な命令はないのです。

七日間の中から神は特に一日を選び出し、この日を特別な名前で呼んでいます。啓示録第1章11節はそれを「主日」と呼んでいます。「主日」は聖書で述べられている「主の日」であるという人がいますが、それは間違っています。原文では「主日」と「主の日」とは全く異なります。「主日」は週の第一日であり、「主の日」は主の再来の日です(第一テサロニケ5:2、第二テサロニケ2:2、第二ペテロ3:10)。もう一面において、古代の教父たちの著作から、「主日」が週の第一日を指し、教会の集会の日とされていることを証明する多くの材料を見つけることができます。古代教父たちの著作の中の多くの資料が、初代教会の時代から第四世紀までずっと週の第一日に集会していたことを証明しています。古代の教会の主日に関する資料

Ⅲ. 主日は何をすべきか

主が設けられた日である主イエスの復活の日、すなわち、週の第一日(主日)にわたしたちは何をすべきなのでしょうか?主日に何をすべきかについて聖書は、三つのことを重要視しています。第一は、喜び楽しむこと。第二は、主を記念すること。第三は、主にささげものをすることです。一つ一つを詳しく見ていきましょう。

1. 楽しみ喜ぶ

詩篇118篇24節は言います、「これは、エホバが設けられた日である。わたしたちは喜び躍り、それを喜び楽しもう」。ここに啓示されているように、すべての神の子たちが週の第一日に取るべき態度は、喜び楽しむことです。わたしたちの主は死から復活されました。これは主が設けられた日(主日)であり、わたしたちはこの日が来るたびに喜び楽しむという態度を持ち続ける必要があります。この日はわたしたちの主の復活の日であり、このような日は他にありません。ですから、主日に喜び楽しむことは自然な反応であるべきです。

2. 主を記念する

第二に、使徒行伝第20章7節は言います、「そして週の初めの日、わたしたちがパンをさくために集まった時・・・」。原文の文法によれば、ここの「週の初めの日」は、ある週の初めの日を限定して指しているのではなく、彼らが毎週の初めの日にパンをさくために集まったことを意味します。当時すべての教会は、週の初めの日になると自然にパンをさくために集まって、主を記念していました。週の初めの日は、わたしたちが主にまみえる日です。週の初めの日に必ずしなければならないことは主を記念することです。わたしたちが週の初めの日にまず主の御前に行くのです。主日は週の第一日です。月曜日は実は週の第二日です。

パンさきには、聖書では二つの意義があります。一つは主を記念することであり、もう一つはわたしたちと神のすべての子供たちとの間に交わりがあることを表明することです。パンさきについてはさらに詳しく書いた記事があるので、こちらをご覧ください。

3. 主にささげものをする

コリント人への第一の手紙第16章1節と2節は言います、「聖徒たちへの贈り物を集めることについては、わたしがガラテヤの諸召会に指示しておいたように、あなたがたも行いなさい。週の初めの日に、各自は得た繁栄に応じて手元に蓄えておき、わたしが行った時に集めることのないようにしなさい」。ここで、週の初めの日になすべき第三の事をみます。パウロはここでガラテヤに在る各教会に指示しておいたように、コリントに在る教会にも指示しています。これは使徒たちの時代には、週の初めの日が特別な日であったことを明らかに示しています。週の初めの日にはパンをさいて主を記念することがあり、また聖徒たちのために献金することがあります。週の初めの日ごとに、各自はその経済的に恵まれたところに応じて主にささげるべきです。一方でパンさきがあり、一方で献金があります。一方でわたしたちは主がどのようにご自身をわたしたちに与えてくださったかを記念し、もう一方でわたしたちもまた、この日に主にささげるのです。

わたしたちは、何も考えないで少しのお金を取り出して献金箱に投げ入れるべきではありません。真心をもって家でよく計算し、家で準備し、あるいは家で包んで、敬虔な方法で献金箱に入れるべきです。パウロはここで、献金は計画的になすもの、定期的になすものであることを見せています。週の初めの日ごとに、自分の経済的に恵まれたところに応じて取り出し、主に言う必要があります、「主よ、あなたはこんなにも豊かに与えてくださいました。主よ、わたしは得たものからあなたにささげます」。恵みが多ければ多く献金し、少なければ少なく献金します。パンさきは厳粛な事であり、献金もまた厳粛な事であることを、知らなければなりません。

まとめ

主は特別に一週の中から一日を取り出して、それを主日と呼んでいます。それは週の初めの第一日です。ですから、わたしたちの日曜日に位置する日は主日です。わたしたちの主日と安息日は異なります。安息日はしてはいけない事に重きがあります。しかし、わたしたちの主日は、体の安息のためではなく、働きのためでもありません。他の日にやってよい事は、主日にも行うことができます。他の日にやってはいけない事は、主日にもやってはいけません。

聖書は、主日に喜び楽しむようにと、もっぱら主の御前に来て恵みを受け、主を記念し、主に仕え、ささげるようにと告げています。わたしたちは一生の間、この主日を取り出して特別な日としなければなりません。少なくとも週の初めの日はすべて取り出して、主のためとしなければなりません。この日はわたしたちの日ではありません。この日は「主日」です。この時間は、わたしたちの時間ではありません。この時間は、主の時間です。この日は主にささげた日であり、それを主日と呼ぶのです。

ヨハネは啓示録でこのように言いました。

わたしは主日に霊の中にいた。
啓示録 1章10節

どうか多くの人が、「わたしは主日に霊の中にいた」と言う事ができますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十四編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

添付資料

古代の教会の主日に関する資料

どのようにして祈るのか?- 祈りが答えられる五つの条件と実践ガイド – 初信者シリーズ 8

どのようにして祈るのか?- 祈りが答えられる五つの条件と実践ガイド – 初信者シリーズ 8

クリスチャンには地上で一つの基本的な権利があります。それは祈りが答えられるということです。あなたが主イエスを信じ、再生されたなら、神は一つの基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。ヨハネによる福音書第16章には、わたしたちが主の御名の中で求める時、神は答えてくださり、わたしたちの喜びが満たされる、と言っています。ですから、わたしたちが絶えず祈るなら、地上で喜んでいるクリスチャンになることができます。

もしあなたがいつも祈っているのに、「神は祈りを聞いてくださらない」と感じているのであれば、それはあなたに問題があることを知らなければなりません。また。あなたがクリスチャンになって何年も経つのに、一、二度しか祈りが聞かれたことがないというなら、それはあなたという人に欠陥があることを証明しています。この記事では、神が祈りに答えられる条件と祈りを実行する方法を共に学んでいきたいと思います。

Ⅰ. 祈りが答えられる条件

祈りが答えられる基本的な条件は多くありません。もし、このいくつかの条件にしたがって祈るなら、祈りは答えられると信じます。これから話すことはすべて基本的な条件ですから、わたしたちはそれらに注意を払うべきです。この基本的な条件は五つあります。

  1. 求める
  2. 悪い求め方をしてはいけない
  3. 罪を対処する
  4. 信じる
  5. ずっと求め続ける

これら一つ一つを詳しく見ていきましょう。

A. 求める

すべての祈りはみな、神の御前で真実に求めるものでなければなりません。主は言われます、「求めよ、そうすれば、あなたがたに与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、あなたがたに開かれる」(マタイ7:7)。例えば、ここに一つのものがあり、あそこに一つのものがあるとします。それでは、あなたはいったい何が欲しいのですか?神は、あなたが何を欲しがっているのか、何を求めているのかを知ってはじめて、あなたにそれを与えられます。ですから、求めるという意味は、ある特定のものを求めることです。

たとえば、今日あなたが何かが欲しければ、父親に向かってその何かを言うでしょう。レストランに行けば、何を食べたいかを店員さんに言うでしょう。しかし、奇妙なことに、人は神の御前に行って何が欲しいかを言わないのです。ヤコブは手紙の中でこのようにいいました、「あなたがたが得ることがないのは、求めないからです」(ヤコブ4:2)。多くの人に祈るという行為はありますが、求めるものがありません。祈る時、必ず何が欠けているか、何が欲しいかを言い出さなければなりません。これが第一の条件です。

B. 悪い求め方をしてはいけない

わたしたちは神の御前で求めるべきですが、二番目の条件があります。それは悪い求め方をしないことです。「求めても得られないのは、・・・悪い求め方をするからです」(ヤコブ4:3)。わたしたちは、必要があるから神に求めるのであって、何の必要もなしに、度を超えて気ままに求めることはできません。自分の欲望や肉にしたがって、不必要な事物を勝手に求めてはいけません。

悪い求め方をするとは、あなたの度量を超えて、あなたの必要を超えて、あなたの真の欠乏を超えて求めることです。あなたが必要があれば、神に求めることができます。あなたの必要を超えて求めることは、悪い求め方をすることです。わたしたちは自分の正当な範囲内で祈ることを学ぶべきです。これが第二の条件です。

C. 罪を対処する

ある人は、求めることは求め、また悪い求め方もしないのですが、それでも神は彼の祈りを聞かれません。それは基本的な妨げ、すなわち神と彼との間に罪があるという妨げがあるからです。詩篇にはこのような御言葉があります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)。人がもし心に不義をいだいているなら、主は聞いてくださいません。「心に不義がある」とは、捨てることのできていない罪があるということです。自分では知っているのに、心の中に保留している罪があるということです。一つの罪があるだけで、あなたの祈りが神に聞かれないほどの妨げとなります。

箴言第28章13節はいいます、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみをうける」。あなたは主に言わなければなりません、「心にいだいていた不義を、わたしは手放せないでいました。今わたしを赦してください。わたしはそれを捨てたいのです。この罪から離れるようにわたしを救ってください。」あなたが神の御前で罪を告白するなら、主はあなたを赦してくださいます(第一ヨハネ1:9)。そうすれば、あなたの祈りは神に聞かれます。

D. 信じる

もう一つの条件があります。それは積極面で「信じる」ことです。主イエスはこのように言われました、「あなたがたが祈って求めるものはすべて、受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。祈り求めるだけで終わりではありません。祈り求め、そして信じるのです。もう受けたと信じるなら、そのとおりになります。主はここで、「受けたと信じるなら、そのとおりになる」と言われました。主は「必ずそのようになると信じなさい」とは言っていません。「もう受けた」と信じるのです。信じるとは「もう受けた」と信じることです。

多くのクリスチャンは「信じること」に関して間違っています。この「信じる」を「もう受けた」から取り外して、「そのとおりになる」の下にくっつけるのです。彼らは、「そのとおりになると信じる」ことを信仰であると勘違いしています。違います。「もう受けた」と信じるのです。祈りに関する信仰とは何でしょう?それは、神があなたの祈りをすでに聞かれたという確信です。あなたがひざまずいて祈っている時、ある時点になって「神に感謝します!神はわたしの祈りを聞いてくださいました。神に感謝します!このことはもう解決しました」と言ってしまいます。これが信仰であり、「もう受けた」です。

例えば、あなたが一人の病人のために祈るとします。彼は「神に感謝します!わたしはいやされました」を言います。熱はまだ高く、少しの変化もないのですが、彼の内側ではっきりしていさえすれば、もう何の問題もないのです。もし彼が「ああ、わたしは主がこの病気をいやしてくださると信じます」と言うなら、その次になおも多くの「信じる」がなければならなくなります。主イエスは言われました、「もう受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。主は「そのとおりになると信じれば、そのとおりになる」と言われたのではありません。言葉を逆にしてはいけません。

信仰についてマルコによる福音書から具体的な例を用いてさらに詳しく見てみましょう。マルコによる福音書には、祈りに関して特に役に立つ三つの言葉があります。第一は主の力の問題であり、第二は主の意志の問題であり、第三は主の行為の問題です。

1. 主の力 – 神はできる

マルコによる福音書第9章で、自分の息子が口の利けない霊にとりつかれ、それをイエスの元に連れてきた父親が言いました、「もしあなたに何かできるのでしたら、わたしたちをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。主イエスは言われました、「『もしあなたにできるなら』と言うのか。信じる者にはすべての事ができるのだ」。これはできるかできないかの問題ではなく、主の力を信じるか信じないかの問題です。

信じることについて、第一に解決しなければならない問題は、人は困難の中にある時、疑いに満ち、神の力を信じることができないということです。「人にはできない事でも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。

2. 主の意志 – 神はそうされる

確かに彼はおできになります。しかし、どのようにしてわたしたちは、主がわたしをいやしてくださるかを知ることができるのでしょうか?わたしたちは主の意志を知りません。主はわたしたちをいやしてくださるかもしれないし、いやしてくださならいかもしれません。どうしたらいいのでしょうか?もう一つの物語を見てみましょう。

マルコによる福音書第1章40、41節はいいます、「 すると、一人のらい病の人がイエスの所に来て、彼に懇願し、ひざまずいて言った、『あなたがそのつもりであるなら、(みこころであれば、他訳)わたしを清めることができます』。イエスは深くあわれんで、手を伸ばして彼に触れ、そして言われた、『わたしは良しとする。清くなりなさい!』」。ここに神がしてくださるかどうかの問題があります。もし神にわたしたちの病をいやす気持ちがなければ、神の力がどんなに大きくても、それはわたしたちと何の関係もありません。しかし、ここではイエスは深くあわれんで、触れて癒してくださったことを見ます。ですから、解決を要する第一の問題は神ができるということを信じることであり、解決を要する第二の問題は、神はしてくださるということを信じることです。らい病人は主に求め、主は彼を清くされました。わたしたちの主が病をいやされないことはあるでしょうか?

3. 主の行為 – 神はすでに成された

「神はできる」「神はしてくださる」と知っただけではまだ不十分です。もう一つは「神はすでに成された」と信じることです。これは先ほど取り上げた事柄です。信仰とは、「神はできる」「神はそうされる」「神はすでに成し遂げられた」と信じることです。信仰は待ち望むのではありません。待ち望むとは、将来のそうなることを期待することであり、信じるとは、それがすでに成されたと考えることです。「神はすでに成された」を信じるなら、自然と神への感謝が出てくるでしょう。

E. ずっと求め続ける

祈りには、注意しなければならないことがあります。それは、継続しなければならず、やめてはいけないということです。「彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように」(ルカ18:1)。ある祈りは、ずっと祈り続ける必要があります。主が煩わしいと感じ、わたしたちの祈りを聞かないではいられなくなる程度にまで祈り込むのです。

これはわたしたちへのテストです。というのは多くの場合、わたしたちの祈りは一週間も続かないからです。それは、真にわたしたちが求めていなかったことを暴露します。ある種の切迫した環境にあり、ある必要な状況の下にあって、心がそれによって動かされてこそ、ずっと祈り続けることができます。

早見表

祈りが答えられる条件

条件説明
A.求めること祈りにおいて、神に対して具体的に願いを伝えること。
B.悪い求め方をしないこと自己中心的な欲望に基づかず、正しい態度で求めること。
C.罪を対処すること神との妨げとなる罪を認識し、告白して捨てること。
D.信じること祈りが神に聞かれ、答えがすでに与えられたと信じること。
E.求め続けること一度で答えが得られなくても、祈りを続ける忍耐を持つこと。

Ⅱ. 二段階の祈り

祈りには二つの段階があることを知らなければなりません。第一段階は、約束がないところから祈って約束を得るまで、神の言葉がないところから祈って神の言葉を得るまでです。すべての祈りの開始の時は、みな神に求めるものであって、ずっと求め、三年、五年と費やしてずっと求めなければなりません。この第一段階は「求める期間」です。

第二段階は、約束があって、その約束が実現するまで、神の言葉を受けてから、その言葉が成就するまでです。この第二段階は「賛美の期間」です。この段階では、祈り求めるのではなく、賛美すべきです。第一段階では祈り求め、第二段階では賛美します。第一段階は、言葉がないところから祈って言葉があるまでであり、第二段階は、言葉があったらすぐに主を賛美し、求めていた物が手に入るまで賛美し続けます。これが祈りの秘訣です。

多くの人が理解している祈りには二つの事実しかありません。一点は、わたしは持っていない、わたしは祈るという「求めた」という事実です。もう一点は、わたしは得た、神がわたしに与えたという「受けた」という事実です。例えば、わたしが主の御前で腕時計を与えてくださるように求めるとします。数日たって、主はわたしに一つの腕時計を下さいました。これは腕時計を持っていない状態から求めたという事実があり、腕時計が与えられたという状態という受けたという二点があるだけです。しかし、真の祈りにはその間にもう一点、「信じた」という事実があるべきです。多くのクリスチャンがこのことを知りません。

わたしは祈って腕時計を求めます。ある日わたしは、「神に感謝します。神はすでにわたしの祈りを聞かれました」といいます。この時、依然としてわたしの手元には何もありませんが、内側では、得たことがはっきりしました。そして、数日後に腕時計が手に入るのです。わたしたちは「求めた」「受けた」という二点を見るだけでなく、「信じた」という三点目を見なければなりません。何も持っていない状態から「求める」ということから、それを受けるまでの間にもう一点、神が言葉を与えられた、約束してくださった、わたしは信じた、わたしは喜んだ、があるのです。まだ手元には何もないかもしれません。しかし、霊の中ではすでに得ているのです。クリスチャンにはこの霊の中で得るということがあるべきです。霊の中で得たこの種の感覚がなければ、それは信仰がないことです。

ある時、わたしは主から家族の救いのために祈るように導かれました。わたしは両親と姉と弟のために祈り始めました。わたしは数日間、主の御前に出て、一人一人の名前を挙げて祈りました。これは求める期間でした。それから数週間後、わたしは主のあわれみによって神がわたしたちに与えられた救いの約束は、個人を単位としているのではなく、家を単位としていることを見ました。使徒行伝16章31節はいいます、「すると彼らは言った、「主イエスを信じなさい.そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。聖書の中に、神は人を家族ごとに救われるという一つの基本的な原則があります。例えば、ノアの家族(創7:1)、過越にあずかる家族(出12:3-4)、遊女ラハブの家族(ヨシュア2:18-19)、ザアカイの家族(ルカ19:9)、コルネリオの家族(11:14)、ルデヤの家族(15節)、ここの獄吏の家族、第18章8節のクリスポの家族のようにです。わたしはこの主の言葉を受けてから、求める祈りから賛美する祈りに変わりました。わたしはまだ何も得ていませんが、霊の中にはすでに与えられたという信仰があるのです。

なぜ二つの段階に分けるのでしょうか?それは、物がないところから祈って信仰を得たのに、もしまた祈り求めるなら、信仰はかえって逃げ去るからです。ですから、信仰を得たならすぐに賛美をしなければなりません。信仰があって物がまだない時、賛美をもって神に催促すべきであり、祈り求めることによって神に催促するべきではありません。

早見表

段階説明
第一段階:求めること神に対して具体的に願いを求める段階。
第二段階:賛美をささげること霊の中で約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげる段階。
第三段階:実際に受けること実際に願ったものが与えられる段階。

Ⅲ. 祈りを実行する方法

最後にどのように祈りを実行するかの具体的方法を交わりたいと思います。まず重要なことは、祈る前に一冊の祈りのノートを用意することです。一年に一冊のノートを用意し、祈りを記載します。そして、各ページを四つの項目に区切ります。第一項目は祈りを始めた日付、第二項目は祈る事柄、第三項目は答えられた日付、第四項目は神がどのように祈りを聞かれたかです。こうすれば、一年の間にどれだけあなたが神に要求し、どれだけ神が聞かれたか、またどれだけ残っているかがわかります。

祈りのノートを活用することによって、祈りが神に聞かれているかどうかを知ることができます。神の答えが止まったら、必ずあなたに欠陥があります。ノートに記された祈りはすべて、神の答えを得るまで祈り続けなければなりません。神があなたのその祈りは神のみこころではないと示された時だけ、停止するのです。それ以外は、得るまで祈り続け、決してたるんではいけません。

祈りのノートを用いる時に注意すべきことがあります。ある事柄は毎日祈る必要がありますが、ある事柄は一週間に一回祈ればいいことです。これは、あなたの祈る項目がどれだけあるかで決まります。あなたの求めるものが少ない場合、ノートに書かれた項目を毎日祈ることができます。項目が多ければ少し工夫して、月曜日には何項目祈り、火曜日に何項目祈ることにします。祈りのノートを活用するためには専一の祈りがなければなりません。あなたは自分自身を訓練して、専ら(もっぱら)祈るための時間を持つべきです。

祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。もし祈り続けているのに一向に状態の変化が見られないなら、神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ!わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか?わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか?手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか?わたしには学ばなければならない学課があるのでしょうか?」自分自身が変化していないのに、他の人の変化を期待することはできません。

まとめ

あなたが主を信じ、受け入れるなら基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。しかし、この祈りが答えられるためには条件があります。第一に求めること。第二に悪い求め方はしてはいけないこと。第三に罪を対処すること。第四に信じること。第五に求め続けることです。

あなたの祈りには三つの段階があるべきです。第一段階は、求めることです。第二段階は、約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげることです。そして第三段階で、実際に受けることです。何もない時には求める時期です。求め続けるなら霊の中で信仰(確信、約束)が与えられます。この時から賛美の時期に移行します。そして、実際に手に入れるまで賛美し続けます。

具体的に祈るために祈りのノートを用意すべきです。専一な祈りのために一日に30分間の祈りの時間を確保することをおすすめしたいと思います。前回の聖書を読む実行を30分、この祈りの実行を30分、一日に合計1時間の時間を主にささげるなら多くの収穫を得るでしょう。聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳第3版(2015)からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

ウォッチマン・ニー略年表 – 召会真理の回復と霊的遺産

ウォッチマン・ニー略年表 – 召会真理の回復と霊的遺産

ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)は、中国において神に大きく用いられた主のしもべであり、多くの霊的著作を通して世界中のクリスチャンに深い影響を与えました。彼の生涯は神の召しに忠実に応答し続け、真理の啓示と実践において大胆かつ誠実でありました。彼の働きと召会(教会)の回復のための務めは、今なお多くの人々の信仰の土台となっています。

以下はウォッチマン・ニーの生涯年表です。

Ⅰ. ウォッチマン・ニー(倪柝聲)の生涯年表

第一期:初期の召命と真理の発見(1903-1927年)

  • 1903年: 中国福建省福州にて敬虔なクリスチャン家庭に生まれる。
  • 1920年4月:17歳で救われ、主に仕えるよう召される。
  • 1921年:バプテスマの真理を知り、マーガレット・バーバーと母と共にバプテスマを受ける。
  • 1922年:パンさき(主の食卓)に関する真理を知り、福州でパンさき集会を始める。また、宗派から離れ、地方召会を設立。
  • 1923年:『現在の証し』雑誌を創刊。
  • 1924年:杭州を訪問し、各地で福音を宣べ伝える。
  • 1925年10月:母とマレーシアのシティアワンを訪問。『クリスチャン』雑誌を出版開始。東南アジア最初の召会を設立。
  • 1926年:廈門、同安、南京などで召会を設立、南京の大学で働く。『霊の人』執筆開始。
  • 1927年:上海の召会を設立、上海福音書房を成立。

第二期:国際的な務めの拡大と真理の出版(1928-1939年)

  • 1928年:上海で第一回勝利の特別集会を導く(主題:「神の永遠のご計画とキリストの勝利」)。
  • 1929年:『霊の人』完成・出版。『聖書についてのメッセージ記録』『小さな群れの詩歌』発行。
  • 1931年10月:上海で第二回勝利の特別集会(主題:「新契約と神の知恵」)。
  • 1932年6月:煙台(チーフー)で召会設立。
  • 1933年:ヨーロッパ(フランス、英国)、カナダ、米国を訪問し、各地で語る。年末に『ニューズレターの収集』を発行。
  • 1934年:第三回特別集会(主題:「キリストは神の中心性と普遍性である」「神の勝利者」)と第四回特別集会(杭州、主題:「どのようにして勝利者となるか」「霊的戦い」)。
  • 1936年:上海郊外の真姑に訓練センター建設。
  • 1937年:上海で『正常なキリスト者の召会生活』のメッセージを解き放つ。マニラ、シンガポール、マレーシア訪問。『開かれた門』出版。
  • 1938年:英国訪問、T・オースチン・スパークスと会う。
  • 1939年:上海の友華村で訓練を実施。

第三期:訓練と迫害の中での忠実さ(1948-1972年)

  • 1948年:上海の召会を復興させる。鼓嶺で第一回訓練指導。
  • 1949年:鼓嶺で第二回訓練指導。
  • 1950年:香港、廈門、チーフーの召会を訪問。
  • 1952年:共産主義政権により主のために投獄。
  • 1972年:獄中にて主に召される。享年70歳。

ウォッチマン・ニーの働きは、中国国内外の教会に大きな影響を与え、今もその霊的遺産が世界中のクリスチャンに継承されています。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)彼は、20世紀の中国において神に大きく用いられた主のしもべです。彼は中国大陸において1920年の17歳でクリスチャンになり、執筆を始めました。彼は約30年間の務めを通して、この時代における主の動きのために、主から彼のからだへ与えられたユニークな賜物であることが明らかされました。1952年に彼は共産主義政権によって投獄され、1972年の死まで監獄に入れられたままでした。彼の言葉は、世界中のクリスチャンたちへの霊的な啓示と豊富な供給の源となっています。

Ⅰ. ウオッチマン・ニー (1903-1972)

ウォッチマン・ニーは1903年、中国・福州で敬虔なクリスチャンの家庭に生まれました。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は福州のアメリカ会衆派の大学で学び、福州北部の会衆派の中国人の初代牧師になりました。祖母や両親も熱心なクリスチャンとして教育を受け、キリスト教に深く根ざした家庭環境の中で育ちました。彼自身も福州の聖公会三一学院という、英語と中国語の教育水準が非常に高い教育機関で学び、両言語に熟達しました。

1920年代になると、中国全土で福音宣教が活発になり、多くの学生たちが福音を受け入れ、霊的な覚醒が広まりました。そのような霊的高揚の中で彼もまた17歳の時に劇的な回心を経験し、自らの人生をキリストに完全に委ねました。回心後、彼は新たに英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)、中国語名を倪柝聲(ニー・トゥォーシェン)に改名しました。「ウォッチマン」とは「見張り人」を意味し、夜の暗闇の中で時を告げ、人々を真理へと目覚めさせる役割を表しています。

A. ウォッチマン・ニーの務め

彼の働きは、当時の中国における形式的で伝統的なキリスト教のあり方に疑問を投げかけ、単に宗教的知識を持つことではなく、「キリストを命として内側で実際的に経験すること」を中心テーマとしました。彼はまた、教派や宗派を超えてキリストのからだである召会(教会)の真理を追求し、『正常なキリスト者の生活』『霊の人』『キリスト者の標準』をはじめ、多くの深遠な著作を通じて、真の霊的な生活の道を示しました。

しかし1952年、中国共産党による宗教弾圧のために逮捕され、約20年間にわたり投獄されました。獄中で多くの苦難を経験しながらも、彼は信仰を守り通し、1972年に殉教しました。ウォッチマン・ニーの肉体は滅ぼされましたが、彼が残した霊的遺産や著作は、中国国内のみならず世界中のクリスチャンに影響を与え続けています。

彼の人生と働きは、主の地上における回復の働きを進めるための特別な賜物であり、中国だけでなく、全世界の教会に霊的な覚醒をもたらす礎となりました。今日でもウォッチマン・ニーの著作や思想は、多くのクリスチャンが真の霊的経験を深めるための貴重な導きとなっています。

さらに詳しく知りたい方は、『キリスト者の標準』『神の福音』『勝利を得る命』『霊の解放』『歌の中の歌』などの著作を手に取ることで、ウォッチマン・ニーの教えや霊的洞察に触れることができます。また、ウォッチマン・ニーの伝記『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー』なども、彼の人生と働きをさらに深く理解するための良書です。

Ⅱ. ウォッチマン・ニーの書籍

A. 神の福音

B. 勝利を得る命

C. 霊の解放

D. 歌の中の歌

E. キリストの奥義

F. 神聖な啓示の先見者

これらの書物は日本福音書房にてお買い求めいただけます。

出版元:日本福音書房

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

どのようにして聖書を読むか?- 四つの基本原則と実践的ガイド – 初信者シリーズ 7

どのようにして聖書を読むか?- 四つの基本原則と実践的ガイド – 初信者シリーズ 7

聖書は、どのクリスチャンも読むべきです。なぜなら、聖書は神の息吹かれたものであり、教えのため、叱責のため、矯正のため、義の中の訓練するために益があるからです(Ⅱテモテ3:16)。この記事では、「聖書を読みたいけど、何から、どうやって読めば良いかわからない人」のための一つの提案として書き進めていきたいと思います。

Ⅰ. 聖書を読むことの重要性

聖書は、神が過去においてわたしたちのために、どれほどの事をしてくださったかを見せています。また神が過去において人々をどのように導かれたかを見せます。神がわたしたちのために備えられたものがどれだけ豊かで、どれだけ豊富であるかを知るためには聖書を読まなければなりません。神が今日、人に語られる言葉はすべて、神がかつて語られた言葉に基づいています。神が聖書の中で語られなかった言葉をだれかに語られるということはまれです。ですから、神が今日語られることは、ご自身の言葉を繰り返して語られることです。もし人が、神がすでに語られた言葉を知らないなら、神の啓示を得ることは容易ではありません。なぜなら、その人は神に語っていただくための条件に欠けているからです。

聖書は偉大な書物であり、大いなる書物です。わたしたちが生涯の全時間をそれに費やしても、その一部に触れることができるだけです。人が時間をかけないで聖書を知ろうとすることは、不可能なことです。ですから、青年のクリスチャンは最善を尽くして神の言葉に時間を費やす必要があります。そうすれば、中年になった時、老年になった時、豊かな言葉をもって自分自身に供給でき、また他の人に供給できるようになるでしょう。

Ⅱ. 聖書を読むことの基本原則

聖書を読むのに四つの基本的原則があります。それは以下です。

  1. 事実を発見する
  2. 覚え、記憶する
  3. 分析し、分類し、比較する
  4. 神の照らしを受ける

聖書を読む時、この四つの順序に従うべきであり、第三から第一に飛んだり、第一から第三に飛んだりはできません。第一は聖書の中の事実を発見することです。第二にこれらの事実をしっかりと覚え、よくよく暗記します。神の言葉はどのように言っているかをはっきり知った後、それを記憶します。第三に、これらの事実を分析し、分類し、比較します。神の御前でこれらの事実をよく分析し、よく分類し、よく比較することができたなら、第四の神の照らしを得ることができます。聖書を読む上で、一番重要な点は「聖書の中から事実を読み取ること」です。これができたなら、聖書を読む上での半分の働きを満たしています。

例えば、地球の引力は一つの事実です。ニュートン以前でも、地球には引力が働いていましたが、幾千年も人は発見することができませんでした。ある日、ニュートンが木の下で眠っていると、ひとつのりんごが彼の目の前に落ちてきました。こうしてはじめて彼が地球の引力の法則を発見しました。ですから、問題は事実の有る無しではなく、この事実を発見されるかどうかです。

A. 聖書における事実を発見する具体例

ここで一つの簡単な例を取り上げます。新約聖書において、「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在しますが、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しません。これは事実であり、この事実を知ることが第一の「事実を発見する」ということです。聖書において、「主の中で」と言っている箇所は何を言っているのか?別の箇所で使われる「キリストの中で」とは何を言っているのか?また、「キリスト・イエスの中で」とは何を言っているのか?これらの事実を覚えていれば、取り出して比較することができます。このように分析し、比較し、照らしを求めて神を仰ぎ望む時、わたしたちは何かを見ることができます。

神のあわれみによって光を見るなら、このことが相当はっきりします。このことを理解するためには「イエス」と「キリスト」の違いを理解しなければなりません。「イエス」は「彼の地上の名」であり、「キリスト」は「彼の復活の後の神に油塗られた名」です。

使徒行伝にはこのような御言葉があります。

「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとされたのです」
使徒行伝 2章36節

この御言葉の意味はこうです。「イエス」という名前の方が、地上で生活し、十字架にかけられて死にました。しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させ、神が油塗られた者に与える名、すなわち「キリスト」という新しい名を彼に与えました。ですから、イエスが主またキリストとされたのです。このことから、キリストは彼の復活の名であることがわかります。ローマ人への手紙には「キリスト・イエス」と書かれています(ローマ8:1)。この表現が意味するのは、「キリスト・イエス」という名前が、復活後のイエスの新しい役割と状態を指していることです。つまり、今日の「キリスト」は以前の「イエス」と同一ですが、強調点は復活後の「キリスト」としてのイエスにあります。また、地上にいたときの彼の名前は「イエス・キリスト」でした。これは復活前の名であり、このイエスは将来キリストになるということを意味しています。

要約すると、「キリスト・イエス」 は復活後の状態に強調点があり、「イエス・キリスト」 は復活前の地上での歩みに強調点があります。キリストが以前はイエスであった(キリスト・イエス)ということと、イエスが将来キリストになる(イエス・キリスト)というこの二つの意味は、異なっています。わたしたちは、ただ「キリストの中にいることができる」だけで、イエスの中にいることはできません。なぜなら、「キリスト」は復活後の神の力と命が現れている姿であり、わたしたちが霊的に結びつく対象であるからです。一方、「イエス」は地上における人間としての姿を指し、そのままではわたしたちが霊的に一体となることができません。これが聖書を読む方法です。

まず最初に聖書の中には「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在するのに、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しないという事実を発見しました。これが第一です。第二にこの事実を覚え、記憶しました。第三にこの覚えた事実を分析し、分類し、比較します。分析した結果、「キリスト・イエス」は復活後に強調点があり、「イエス・キリスト」は復活前に強調点があることがわかりました。そして最後に神の御前に出て、祈ります。すると、主はあなたを照らし、さらにはっきりと見せてくださいます。これが聖書を読む四つの原則であり、どれが欠けてもいけません。

Ⅲ. 聖書を読む実行の方法

ここからは具体的にどのように聖書を読むべきかを交わりたいと思います。まずはじめに、聖書を読む時間を二段階に分ける必要があるということを言わなければなりません。その二段階は聖書の読み方が異なります。第一段階では聖書を黙想します。第二段階では聖書を通読します。

A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む

聖書を読む時間を二段階に分けるおすすめの方法は、午前と午後に分けて読むことです。例えば、早朝の時間に聖書を黙想し、午後の食事の後か就寝前に聖書を読むと言った具合です。後述しますが、後半はまとまった時間が必要なため、時間を確保できる時間帯にしましょう。聖書を読む時間を二段階に分ける理由は目的が異なるからです。前半の聖書を黙想する目的は、霊的命の糧を得て、自己の霊性を高めるためです。この時間に多く読み過ぎてはいけません。三節か四節で十分です。時間にすると15分程度です。後半の聖書を読む目的は、神の言葉の中でいったい何が語られているかを知るためです。この時間は比較的長い時間をかけて多く読みます。おすすめは30分です。

また、聖書を読む方法を二段階に分けるために、二冊の聖書を用意することをおすすめします。前半の時間に使う一冊には一字たりとも書かず、一つのしるしさえ書き込みません。後半の時間に使う別の一冊には、照らしによって見たことを書き込むようにします。言葉で書いても、丸で囲んでも、線を引いても自由です。この理由は、早朝に読む聖書に文字が書かれていると、即時的な語りかけではなく、自分の書き記した文字に気が取られてしまうからです。ですから、早朝に読む用の聖書には何も書き込みません。

A. 前半の時間に聖書を黙想する

聖書を黙想することについては、ジョージ・ミューラーの言葉を引用したいと思います。彼は次のように言いました。

「かつて主は喜んでわたしに一つの真理を教えてくださいました。これは人によってわたしに伝えられたものではありません。今に至るまでに四十数年になりますが、わたしはその真理の益するところを失っていないことを認めます。その要点はこうです。あの時、わたしは以前にも増してはっきりと見たのですが、わたしが毎日必ず注意している最大で一番先になす事は、主の中で喜ぶことです。まず注意すべき事は、わたしが主にどれだけ仕えて、いかに主に栄光を帰しているかではなく、わたしが内側でどのように喜びを得ているかわたしの内なる人がどのように養いを得ているかにあります。わたしは未信者にメッセージすることができ、信者を成就し、苦難にある人を助けることができますし、別の多くの働きを通して自分が神の子であることをこの世において現すことができます。しかし、もしわたしが主の中で喜んでいないなら、内なる人が日ごとにその養いを得ていないなら、わたしがなす一切の事は、正しい霊の中でではないのです。

わたしがそのことをはっきりする前は、少なくとも十年の間、わたしは毎朝、洗面が終わると祈ることを習慣にしていました。そして、その時に知ったのですが、わたしがすべき事で最も重要なのは、神の言葉を読み、それを黙想し、わたしの心の慰め、励まし、警告、叱責、教訓を得る事なのです。わたしがこのように神の言葉を黙想している時、わたしの心は主と経験的に交わることができました。ですから、毎朝早くわたしは新約を黙想し始めました。わたしが数句の言葉で、主がご自身の尊い御言葉を祝福してくださるように祈った後、まず行ったのは神の言葉を黙想することでした。聖書の各節において尋ね求め、その中から祝福を得ようとしました。公衆の面前でメッセージするためではなく、またわたしが黙想した言葉について語るためでもありません。それはわたし自身の魂に糧を得させるためです。

わたしに決まって起こる結果として、数分後にわたしは罪を告白したり、感謝したり、あるいはとりなしの祈りをしたり、懇願するようになります。祈ろうと心がけようとするのではなく、黙想するのですが、たいていとてもすばやく、祈りに転向します。罪を告白したり、とりなしの祈りをしたり、懇願したり、感謝したりの時間を経て、わたしは再び次の句、あるいは次の節を読みます。読んでから、もし導きがあれば、わたし自身のためにあるいは他の人のために祈ります。しかしながら、相変わらずわたしの黙想の目的は、自分の魂が糧を得るためであることを覚えておきます。そのようにした結果、毎日、多くの罪の告白、感謝、懇願、とりなしの祈りがわたしの黙想の中に取り混ぜられて、わたしの内なる人は常に養いと力を感じることができます。朝食の時には、ほとんど例外なく、わたしの心の状態は、喜びがあるか、あるいは平安がありました。わたしの黙想は公衆の面前でメッセージするためではなく、わたしの内なる人の益のためでしたが、主が喜んでわたしに与えてくださったのは、すぐに他の信者の糧になるものでした・・」

神の子であるわたしたちが毎朝しなければならない第一の事は、内なる人のために糧を得に行くことです。わたしたちの外なる人は食べずに働くことができないのと同様に、毎朝わたしたちの内なる人も糧が必要です。内なる人の糧とは、祈りではなく、神の言葉です。これはただ単に神の言葉を読んで、水が水道管を流れるように、その言葉がわたしたちの思いを通過するだけのようであってはいけません。読んだ言葉を黙想し、それをわたしたちの心の中に適用しなければなりません。祈るのに最もよい時とは、内なる人が神の言葉を黙想して養いを得ることによって、御父に出会い、語っていただき、励まされ、慰められ、へりくだらされ、責められた後です。ですから、わたしたちは神の祝福の中で御言葉を黙想すべきです。

B. 後半の時間に聖書を読む

主を信じて間もない人は、少なくとも六ヶ月間は、研究する方法で聖書を読むには適切ではありません。なぜなら、聖書全体についてあまりよく知らないからです。必ず、先に数ヶ月間の時間を費やして、普遍的に聖書全体をよくよく読む必要があります。後半の時間では、聖書を順番に通読し熟考します。一章一章、一回一回、神の御前で継続して読みます。一番良いのは、一日に旧約を何章、新約を何章と決めて読むことです。あまり速すぎるのも、あまり遅すぎるのもよくありません。普遍的に、いつも続けて読みます。

ジョージ・ミューラーは一生のうちに旧約と新約を百回読みました。初信者の兄弟姉妹は聖書を読むことを学び、いったい何回読んだかを記憶するべきです。あなたの聖書の空白のページを、聖書を読んだ回数を記録するために残しておけばいいでしょう。読む方法は、一章一章、一回一回を順番にを原則とします。

早見表

項目聖書を黙想する(前半の区分)聖書を読む(後半の区分)
時間帯午前:早朝、朝食前午後:昼食後、就寝前
目的自分の魂の糧を得る神の言葉の中で何が語られているかを知るため
聖書書き込みをしない聖書書き込みをする聖書
程度三節か四節。多く読み過ぎてはいけません。比較的長い時間をかける
時間15分15分〜30分

Ⅳ. 実際に聖書を読んでみる

ここでは、どのように読み進めるべきかを実際にやってみます。

A. 前半の時間に聖書を黙想する

1. 読む聖書箇所を決める

これは、朝起きた時に、主との交わりの中で自由に決めるのが良いでしょう。重要なことは、聖書を理解すること、順番に読むことではなく、自分の魂が糧を得ることです。

2. 御言葉を区切って読み、黙想する

エペソ人への手紙第二章六節を例に実践してみます。

キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました。
エペソ人への手紙 2章6節

まず、この節を一度読んでみます。その後、「、」で区切りながら、小分けにして読んでいきます。すると、三つに小分けすることができます。

  1. 「キリスト・イエスの中で」
  2. 「わたしたちを彼と共に復活させ」
  3. 「彼と共に天上で座らせてくださいました」

そして、この一つ一つを味わいながら読み、黙想します。

「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」

ポイントは二度、三度ではなく、何度も何度も固い食べ物を咀嚼するように噛み締め、味わうことです。これを続けるなら、あなたの内側にある感覚が起こされます。例えば、自分はキリスト・イエスの中にいるという安息。自分は主のものであるという平安。自分はこの世の中にはいないという照らしなどです。この時、感謝の思いが与えられれば、主に感謝をささげます。賛美の思いが与えられれば、主に賛美をします。祈る思いが与えられれば、主に祈ります。

そして、次の区分に移ります。

「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」

ここでわたしたちは、キリストと共に復活させられたという事実を知ります。真にこの事実を見るならあなたはこのように祈るでしょう。「おお、主よ!あなたが復活した時、わたしもあなたと共に復活しました!主よ!わたしはすでに復活の中にいます!主よ!あなたをほめたたえます!」このように、御言葉の祝福の中で主と交わるなら、あなたは多くの励まし、慰め、力を得るでしょう。これが聖書を黙想する方法です。

B. 後半の時間に聖書を読む

聖書を読むにあたり、聖書を読み終えるのにどれくらいの時間が掛かるかを知ることは助けになります。聖書の章の数は「旧約聖書 929章」「新約聖書 260章」で合わせると全聖書は1189章あります。新約聖書を例にあげます。もし一日に一章を読み続けるなら、約八ヶ月で読み終えます。一日に二章なら約四ヶ月、三章なら三ヶ月で読み終えます。平均的に新約聖書の四章は十五分で読むことができます。毎日十五分、四章を読み続けるなら二ヶ月に一回のペースで新約聖書を読むことができます。おすすめは一日に30分間、聖書を読む時間を確保します。その30分間で新約聖書か旧約聖書を通読します。

注意すべきことは、昨日15分、今日は30分、明日は1時間のように、その日の気分に合わせて読まないことです。聖書を読むことは一生涯続けることであり、コツコツと積み重ねていくべきことです。ですから、主との交わりの中で15分と決めたなら、最低でも半年はこのスケジュールで実行します。余裕を見て、段階的に時間を伸ばしていく分には問題はないでしょう。しかし、毎日2時間など読みすぎることもおすすめしません。主の導きがありますように。

早見表(新約聖書)

● 読みたい頻度● 1日に読む章数● 所要時間
1 回 / 1ヶ月9章約35分
1 回 / 2ヶ月4章約16分
1 回 / 3ヶ月3章約12分
1 回 / 4ヶ月2章約8分
1 回 / 8ヶ月1章約4分

まとめ

聖書を読むのに四つの基本的原則があります。

  1. 事実を発見する
  2. 覚え、記憶する
  3. 分析し、分類し、比較する
  4. 神の照らしを受ける

最も重要なことは「事実を発見すること」です。その事実を覚え、記憶し、研究のために分析、比較します。そうすることによって神の照らしを受けることができます。

聖書を読む具体的な方法は、二段階に分けて読むことです。

A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む

前半の「聖書を黙想する」では、御言葉を味わい、祈りや賛美をささげ、御言葉を通して主と交わります。それは霊的な命の糧を得るためです。後半の「聖書を読む」では、決めた時間、節を順番に一章一章読み進めていきます。このように読む章を決めて、また時間を配分して聖書を読むことは、自分にとっての訓練となります。わたしたちは腰に帯を締め、拘束され、神の御前で規律がなければなりません。あなたが30分読むと決めたなら、この30分を守り抜くようにしてください。病気であるとか、休暇で休む時を除いて、一定の時間を維持しましょう。毎日続けていけば、間もなく収穫があるでしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第九編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウオッチマン・ニー兄弟は、すべての真のクリスチャンが保っている聖書的、根本的信仰を完全に信じていました。彼は聖書が神の聖なる言であることを信じ、一字一句がみな神の啓示であることを信じました。

彼は神が三一、父、子、霊であり、三の区別はあるが、完全に一であり、永遠から永遠まで同時同存、相互内在しておられることを信じました。彼は、イエス・キリストが神の御子、神ご自身でさえあり、人として受肉して、人の命と神聖な命を兼ね備えられたこと、十字架につけられて死に、願いを達成されたこと、三日目に死人の中から体を伴って復活されたこと、天に昇って御座に着き、栄光を冠らせられ、万有の主とされたこと、再来して、彼に従う者たちを迎え、イスラエルを救い、地上に彼の千年王国を打ち建てられることを信じました。

彼は、イエス・キリストを信じるすべての者が神によって赦され、贖いの血で洗われ、信仰によって義とされ、聖霊によって再生され、恵みによって救われることを信じました。そのような信者は、神の子供であり、キリストのからだの肢体です。彼はまた、信者めいめいの定めが、召会(教会)、すなわちキリストのからだ、神の家を構成する一部分であることを信じました。 これらのクリスチャン信仰の基本的な面以外に、ニー兄弟はまたさらに光を得て、五十三項目の聖書の教えに関して、主からはっきりした啓示を受けました。これらは、クリスチャンの信仰を十分に理解し、実行するために極めて重要です。

目次

Ⅰ. 一九二〇年から一九三二年まで

1. 救いの確信

主がまずニー兄弟に啓示された基本的項目の一つは、信者の救いの確信です。当時、全中国において、救いの確信の聖書的教えは、どのクリスチャン団体でもほとんど教えられていませんでした。しかしながら、ニー兄弟はこの事柄にとてもはっきりしたので、クリスチャンに福音を宣べ伝えて、彼らが救われたことを認識するのを助けました。彼は聖書のはっきりした御言を用いて、信者が自分の救いに対して、完全に確信できることを示すことができました。彼は疑問のある人たちを、聖書によって、例えばヨハネの福音書第三章十六節のような節を彼らが取り、 この節を消化して、これが確定的であり、決して滅びないと感じるまで助けました。彼はまた、神の霊が彼らの内に住んで、彼らの霊と共に、彼らが神の子供であると証しすることを指摘しました(ローマ八・十六)。二ー兄弟はさらに、ヨハネ第一の手紙第三章十四節から、救いの確信を挙げました、「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死から命へと移ってきたことを知っている」。

2. 恵みと律法の区別

当時の大多数のクリスチャンが救いの確信を持っていなかったのは、彼らが恵みと律法との区別を知らなかったからです。ニー兄弟は、救いはただ恵みによるのであって、律法のわざによるのではないという、主の明確な啓示を受けました。もし救いが律法の事であるなら、それはわたしたち自身の行ないによることになります。しかし救いは主の恵みによるのであって、彼が何であられるか、また彼がわたしたちのために何をされたかによります。

3. 救いと勝利との違い

あるクリスチャンは、救いと勝利との違いを知りません。これは、自分の救いが不確かであるもう一つの原因です。わたしたちが主イエス・キリストを信じた瞬間、わたしたちの救いは永遠に定まります。ところが勝利は、罪、 この世、肉、自己、日常生活のいっさいの消極的な事物に打ち勝つことです。わたしたち神の子供は、ただ主イエス・キリストを信じることによって、救いを得ます。わたしたちの永遠の運命は、永遠に堅固です。ところが勝利は、わたしたちの日常生活においてであり、経綸上の報酬と関係があります。

4. 救いと報酬との違い

クリスチャンがもし救いと報酬の区別について、はっきりしていないなら、自分の得た救いの確証に問題があるようになります。この区別は、ニー兄弟に対して完全に啓示されました。救いは恵みにより、信仰を通してですが(エペソニ・八)、報酬は主の御心に従って働いた結果です(マタイ十六・二七、1コリント三・十四)。

5. 天の王国と永遠の命との違い

あるクリスチャンは、自分が救われているとはあえて言いません。なぜなら彼らは、永遠の命を持つことと天の王国に入ることとの違いがはっきりしていないからです。人が主イエスを信じて救われる時、永遠の命を得ます。

ところが天の王国に入るには、必ず天的統治の下で日常生活を生きなければなりません。そのような生活は、現在の召全時代における一種の訓練であって、王国時代に主の千年王国の統治にあずかる資格をわたしたちに与えます。 このような分け前は、天の統治の下で生活した報酬であって、それは永遠の救いの事柄ではありません。この事で、 ニー兄弟は徹底的な、はっきりした啓示を受けました。

6. 王国の真理

ニー兄弟はまた、新約の中で王国の真理を完全に見ました。彼は新約の中に、天の王国と神の王国との区別を見ました。神の王国は、神のすべての支配を包含し、過去の永遠から将来の永遠にまで至ります。ところが天の王国は、神の王国の中の比較的小さい範囲です。それは現在の召会時代における信者の間での天的支配(マタイ五・三、 十)と、来たるべき王国時代での報酬です(マタイ五・二〇、七・二ー)。すべての再生された信者たちは、 王国にいます(ヨハネ三・五)。しかし天の統治の下に生活した者だけが、王国時代を報酬として受け継ぎます。 神の王国は救いと関係がありますが、天の王国は報酬と関係があります。

7. 携え上げられる

王国の啓示と共に、主はまたニー兄弟に携え上げの啓示を与えられました。今日の根本的神学は、クリスチャンは救われさえすれば、みな普遍的な携え上げにあずかり、主の再来の時、全召会と共に、大艱難の前に携え上げられる、と告げています。しかしニー兄弟は、すべてのクリスチャンが同時に携え上げられるわけではないことを見ました。ある信者たちは、大艱難の前に成熟した勝利者となります。ですから、彼らは先に構え上げられるでしょう。しかしながら、大多数の信者は後で成熟するので、遅れて携え上げられるでしょう。王国は報酬の事柄であり、 携え上げは成熟の事柄です。携え上げられることは収穫物に例えられます。農作物がまだ青いうちは、刈り取られて納屋に入れられることはありません。それは熟してはじめて、刈り取られます。すべてのクリスチャンも、命において成熟しなければなりません。彼らが成熟する時、主は彼らを刈り取り、彼らを天の納屋にもたらされるでしょう。次の二つの点を、しっかり心に留めなければなりません(1) 王国は勝利の信者たちに対する報酬である。(2) 携え上げには勝利者の成熟が要求される。

8. キリスト教の逸脱

ニー兄弟と年若い数名の信者たちは、救われるとすぐ、聖書を学ぶことによって、今日のキリスト教がいかに不正常であるかを認識し始めました。その当時、彼らはまだ学生でした。主は彼らに、今日、実行されているキリスト教は、神が聖なる言葉の中で定められた方法とは、ほとんどあらゆる点で逸脱していることを見せられました。

9. 教会、エクレシア、キリストのからだ

主はニー兄弟に、彼の教会について明らかな啓示を与えられました。ニー兄弟は、教会は建物ではなく、組織やキリスト教の団体でもないことを、宣べ伝え、教えました。召会は有機体であり、生けるからだです。別の面で、 教会はエクレシア、召された者たちの会衆です。

10. 教会の二つの面

二ー兄弟は、各会には宇宙的な面と地方的な面があることを見ました。全宇宙には、ただ一つの召会、神の召会があるだけです(1コリント十・三十二)。この唯一の召会は、地上の多くの地方において表現され、それぞれの地力には一つの地方召会があります。宇宙召会はすべての地方召会から成っており、地方召会は宇宙召会の実際的な表現です。マタイの福音書第十六章十八節で宇宙召会が啓示されており、マタイの福音書第十八章十七節で地方召会を見ます。地方召会がなければ、宇宙召会にあずかるすべはなく、実行上の地方召会を持つ方法もありません。

使徒行伝、書簡、啓示録において、召会は地方召会として表現されています。すなわち、エルサレムに在る召会、アンテオケに在る召会、エペソに在る召会などです。召会の行政は宇宙的ではなく、地方的です。

11. 宗派

ニー兄弟は、召会についての啓示と同時に、宗派の邪悪をも見ました。宗派はキリストのからだを、多くの組織に分けます。これは聖書で罪に定めていることです(1コリント一・十一-十三)。

12. 聖職者制度と宗教組織

ニー兄弟は光を得て、聖職者階級と平信徒制度が間違っていることを見ました。この制度は、キリスト教の組織の中の聖職者、階級、地位を含み、それは一種の人為的組織となりました。ローマ・カトリック教会には、神父、司教、大司教、枢機卿、法王がいます。英国国教会には、牧師、主教、大主教、その地を統治する元首がいます。

ブロテスタントには牧師がいます。このような聖職者階級制度は、明らかに新約の啓示に反するものであり、キリストのからだの肢体の機能をまっ殺します。宗派は、キリストのからだを粉々にし、聖職者制度は、キリストのからだのすべての肢体の機能を破壊します。

13. 普遍的な祭司職

普遍的な祭司は、ニー兄弟に啓示されたもう一つの真理です。彼は、新約の祭司職が旧約の祭司職と違うことを見ました。旧約の祭司職は、結局、アロンの子供たちに与えられ、一般の民と違った聖職者階級を生み出しました。 ところが新約の祭司職は、すべての信者に与えられています(啓一・六、1ペテロニ・五、九)。新約には聖職者も平信徒もなく、全員が祭司です。

14. 正当な長老職

二ー兄弟は聖書からはっきりした啓示を受けて、召会は一団の長老たちによって管理されるべきであることを見ました。すべての地方召会は、一団の老練な兄弟たちが、人を導き、監督して、召会のいっさいの活動を顧みる必要があります。聖書では、この人たちのことを長老、あるいは監督と呼んでいます。

15. 職務と賜物との違い

ニー兄弟は聖書から、教会の職務と賜物とが違うことを見ました。教会の職務は長老と執事を含み、それは地方的です(ピリビー・一賜物は預言者、伝道者、牧する者と教える者を含み、それは宇宙的です(エペソ四・十ー)

16. バプテスマとパンさき

主はニー兄弟に、正当なバプテスマの方式は水の中に浸すことを啓示されました。主はまた彼に、聖書に従ったバンききを実行する道を示されました。バプテスマは、信者の古い生活が終結し、この世から分離して、主と主のからだへと聖別されたという証しです。パンさきは主を記念することであり、彼のからだの合一と交わりを証しします。

17. 頭のおおいと按手

ニー兄弟はまた、頭のおおいと按手を正しく実行することの聖書的意義を見ました。頭のおおいは、召会において、キリストの頭首権に服従するという表現です。按手は連合の行為であって、からだの一の中で行なわれることが、からだの他の肢体への分与であることを示します。手を置くことによって、霊的賜物は肢体に分け与えられ、 キリストのからだの肢体の間で、交わりが実際化されます。

18. 神の信仰によって生きる

ニー兄弟は、真の神に仕える人は必ず神に信頼する生活をするべきであって、宗教組織に雇われてはならないことを見ました。ニー兄弟の務めを始めたころには、信仰による生活の実行は、中国では実際的に知られていませんでした。ブラザレンは彼らの間で主に仕える人を雇いませんでしたが、彼らが中国に来た時には、彼らも中国の信者たちに神に信頼する生活を教えるのは不可能である、と思っていました。信仰によって生活することは、根本的に中国のクリスチャンの観念にはありませんでした。しかしながら、ニー兄弟は、このことを教えただけでなく、 彼自らがこれを実行しました。

19. 神のいやし

ニー兄弟は、聖書から神のいやしを信じただけではなく、彼自らそれを経験しました。彼にとって、それは単に外側の奇跡的賜物ではなく、内側の経験であり、それは命における建造を生み出します。

20. キリストの死と復活

主はニー兄弟に、キリストの死と復活について特別な啓示を与えられました。彼は、キリストの死に二つの面があることを見ました。客観的な面は、わたしたちの罪、もろもろの罪、この世、サタン、暗やみの勢力を対処しました。主観的な面は、わたしたちの肉、自己、古い人を対処しました。彼はまた、キリストの死の中に、旧創造が終結させられていることを見ました。これは十字架の消極面です。積極面では、キリストの神聖な命が解き放たれて、新創造を発芽させました。わたしたちの主の復活において、彼の神聖な命は解き放たれて、信者を再生し、彼らをキリストのからだの肢体としました。彼の復活から、召会は出現し、また彼の復活において、キリストのからだは建造されつつあります。彼の復活の大能の中で、信者は十字架を担うことができ、またキリストの苦難の交わりの中で、彼の死に同形化されるのです(ピリピ三・十)。主の民は、キリストの復活の命を享受し、力を受けて、 地上を歩んではいても、聖なる、天的な生活を生きるのです。この復活は、復活のキリストご自身であり、キリストの霊は、復活の実際です。

21. キリストの昇天

ニー兄弟は、キリストはすでに昇天して、万有のはるか上におられることを見ました。地の引力、悪鬼、空中の権を持つ君、いっさいの暗やみの勢力も、彼を阻止し、彼をとどめておくことはできませんでした。これらは今、 すべて彼の足の下にあります。彼は昇天によって、万有の主となられ(使徒二・三六)、また昇天によって、すべて彼に従う者たちを、天的場所にもたらされました(エペソニ・六。)彼の地位、彼の務め、彼の命は今や、すべて天的です。彼は今、天の命と天そのものを彼の民へと供給して、彼らを天的民にし、地上で天の生活を生きさせる、という働きに就いておられます。

22. キリストの再来

ニー兄弟は、キリストの再来に関する明確で、透徹な展望を得ました。彼は主の来臨(ギリシャ語はparousia パルーシア)に、秘密の面と公の面があることを見ました。目を覚まして彼を追い求め、彼の再来を待ち望んできた人たちに対して、彼は大艱難の前に、天から空中へと、盗人のようにひそかにこられます(マタイ二四・四 啓示録[黙示録]三・三。)ところがこの世に占有された人々に対しては、彼は大観雅の後に、空中から地上へと、いなずまのひらめきのようにこられます(マタイ二四・二七、三〇。)彼のひそかな来臨において、信者たちは空中に携え上げられるでしょう。しかし彼の公の来臨は、地上のこの世に対する裁きをもたらします。

23. 聖霊の内住

十字架につけられ、復活し、昇天されたこのキリストは、今や命の霊として彼の民の霊に内住し、キリストを彼らにとって実際とならせます。このキリストの内住の霊は聖霊であり、神の霊でもあります。神聖な霊の主要な機能は、神聖な命を神の民へと分け与えて、彼らを再生し、彼らを油塗り、神の成分で彼らを浸透して、聖別し、造り変えることです。

24. 油塗りの教え

ニー兄弟は聖霊に関する啓示と共に、また油塗りの教えについて光を受けました。油塗りは、わたしたちの霊の中での聖霊の動きと働きです。油塗りは内側から、わたしたちにすべての事を教えます(1ヨハネニ・ニ七)命の法則は旧約の律法に置き換わり、油塗りの教えは旧約の預言者に置き換わります。わたしたちが主の中に住むのは、油塗りの教えによります。

25. 聖霊の注ぎ

ニー兄弟は、聖霊の二つの面を見ました。それは命のための聖霊の内住と、力のための聖霊の注ぎです。主は死人の中から復活した日、弟子たちの中に聖霊を息吹かれました(ヨハネ二〇・二二。)その時、聖霊は弟子たちに入り、彼らの内に住まわれました。それは、命を分け与えるためでした。ところがペンテコステの日、聖霊は弟子たちの上に注がれました(使徒二・四、三三)。この霊の注ぎは、弟子たちに力を与えるためでした。これは、その霊の第二の経験であって、聖書は聖霊のバプテスマと呼んでいます。大部分のクリスチャンは、その霊の二つの面の違いを見ていません。しかしながら、ニー兄弟はこの区別について、はっきりとした啓示を受けました。彼は異言で語ったことはありませんが、何度も聖霊の注ぎの経験を受けています。

26. 人の三部分

ニー兄弟は彼のクリスチャン生活の初期に、人には三部分、霊、魂、体があることを見ていました(1テサロニケ五・二三。)彼は、魂は人の人格であること、体は人の外側の部分であって、物質の世界に接触するためであること、霊は人の最も内なる部分であって、霊の世界に接触するためであることを見ました。神は霊ですから、必ずわたしたちの霊の中で、彼を礼拝し、彼に仕えなければなりません(ローマ一・九、ヨハネ四・二四)、信者は彼らの霊の中で、神の霊によって再生され、神の霊は彼らの霊と共に証しをし(ローマス・十六)、主イエスは彼らの霊と共におられ(Ⅱテモテ四・三)、彼らは主と一つ霊です(Ⅰコリント六・十七)、霊は魂と分離されなければなりません(ヘブル四・十二)。それは、信者が彼らの霊の中で歩み、生き、働いて(ガラテヤ五・十六、二五)、 霊の人となる(Ⅱコリント二・十四 〜十五)ためです。

27. 信仰による聖別

一九二五年より少し前に、ニー兄弟は、信仰による聖別を見るようになりました。彼はジョン・ウエスレーの聖別に関する教えから光を受けましたが、ウエスレーの教えは真の聖別でなく、罪なき完全である、と言いました。 彼は学びを通して、ブラザレンが聖別の幻で、ウエスレーよりも一歩前進していることを認識するに至りました。 ブラザレンの聖別の教えは正確であるとはいえ、あまりにも客観的で、地位上の変化にすぎないものでした。ブラザレンは、この世の金は俗であるが、宮に置かれた金は聖別されている、と教えました。もう一つの例証として、 ブラザレンは、羊、牛が群れの中にあるのは俗であるが、祭壇の上にささげられると聖別される、と教えました (マタイ二三・十七、十九)。ブラザレンはさらに例証を挙げて、市場の食物は俗なるものであるが、クリスチャンの食卓に置かれると、折りによって聖別される、と説明しました。ニー兄弟は、これらの例証はみな外側の地位上の変化のことで、どれも内側の性質上の変化を指すものはない、と指摘しました。彼は、聖別は単に地位上の変化ではなく、それはまた性質上の変化でなければならない、と教えました(ローマ六・十九、二二)。

28. 命としてのキリスト

キリストは、彼を信じる者たちにとって命です(コロサイ三・四)。この命は、彼らの霊の中の命の霊です(ロ―マ八・二)。信者が行なうことはすべて、この内なる命から行なわれなければなりません。すべての信者は、内なる神聖な命によって生きるべきです(ガラテヤニ۰二〇)

29. 命の霊の法則

信者が上から受けた神聖な命は、聖霊の中にあります。聖霊は命の霊と呼ばれます(ローマ八・二)。この神聖な命には、それ自身の法則と特徴があり、またその機能は神の成分をもって、わたしたちを規制し、供給します。

これは単なる外側の律法の文字ではなく、命の法則であり(ヘブル八・十)、それはわたしたちの内側の神の霊によって執行されます。ニー兄弟はこの内なる法則について、完全な啓示を受けました。この内なる法則、いわゆる命の法則によって、わたしたちは罪と死の律法から解放され、義なる、聖なる生活を生きることができます。

30. 罪と死の法則

ニー兄弟は聖書から、罪と死は一つの法則であることを見ました(ローマ八・二 )。この法則は、わたしたちの体の肢体の中にあり(ローマ七・二三)、それはサタンの邪悪な命から出てきます。すべての堕落した人は、その力の下にあります。しかし命の霊の法則は、罪と死の法則よりも力があり、それからわたしたちを解放することができます。

31. さらに優れた契約

主イエスが彼の血をもってわたしたちのために立てられた新契約は、旧契約よりも優れています(ヘブル七・二二、 八・六)。旧契約は旧約の律法に従っており、その祭司職は、肉につける戒めの律法によるものですが、新契約は命の法則に従っており、その祭司職は、朽ちることのない命の力によるものです(ヘブル八・十、七・十六)

32. キリストの勝利の命

キリストは、サタンと宇宙のいっさいの消極的な事物に勝利を得られたので、彼の命は勝利の命です。もしわたしたちがキリストによって生きるなら、彼の命はわたしたちのために、いっさいの消極的な事物に打ち勝ちます。

33. 勝利者の召し

ニー兄弟は、勝利者の召しについて啓示を受けました。全召会は失敗し、主の御心を満足させることができなくなったために、主は来て、ある者たちを信者のうちから勝利者として召されました。これは、啓示録(黙示録)第二章、第三章の七つの書簡に、はっきりと啓示されています。全召会は目標からそれてしまったので、主は彼を愛する者たちに彼の召しを呼びかけて、彼らが堕落した召会に打ち勝つようにされました。

34.  霊的戦争

一九二五年以前に、二ー兄弟は霊的戦争という事柄を見ませんでした。彼は、この宇宙における神の神聖な目的を達成するために、神と彼の敵、サタンとの間に生じる究極的戦争があることを見ました。この戦争は、すべての神の子供たちを巻き込みます。もし彼らがサタンの側につけば、神に反逆しているのです。もし神の側につけば、 彼らはサタンと戦っているのです。すべての勝利の信者たちは、自分たちが戦場にいて、神の神聖な御旨のために戦っていることを、認識しなければなりません。この霊的戦争で戦うために、信者は必ず天的地位を見る必要があります。エペソ人への手紙第二章は、わたしたちが天で座に着いていることを、はっきりと見せています。エペソ人への手紙第六章は、わたしたちが天にいる諸勢力と戦っていることを、示しています。信者は天の地位を守らなければなりません。そうしてこそ、天にいる神の敵を打ち敗ることができます。もし信者の地位が地上にあるなら、彼らは敵の下にいるのですから、勝利の地位を失っています。

Ⅱ. 一九三三年から一九三七年まで

35. 地方召会の境界

一九三三年と一九三四年に、二ー兄弟は、地方召会の境界が、召会が所在する都市を範囲とすることを見ました。 彼は、都市の境界内に一つ以上の召会があってはならない、と指摘しました。これは自然に分裂を除去します。

36. キリストの中心性と普遍性

一九三三年と一九三四年に、ニー兄弟は、神の永遠のご計画の中に、キリストの中心性と普遍性を見ました。彼は宇宙の中で、またクリスチャン生活の中で、キリストは第一位であるべきことを見ました(コロサイ一・十八)。 彼はまた新しい人、すなわち召会の中で、キリストはすべてであり、すべての中におられることを見ました(コロサイ三・十・十一)。

37. 地方召会の立場

 一九三七年に、ニー兄弟は地方召会の立場を見始めました。これは地方の境界をさらに進んだ一歩であり、信者たちが、いかなるものによっても分裂するべきでないことを示しています。召会の立場は一の立場です。わたしたちはどこへ行こうと、どこにいようと、その地の信者と一つであるべきです。一つの都市には一つの召会があるべきです。召会は、家庭に在る召会、工場に在る召会、大学に在る召会、ある通りに在る召会、その他、ある名称の召会はありません。地方召会は一つの都市に在る召会です。もし一地方に一つ以上の召会があるとしたら、その地の信者は分裂しています。

38. 移住

ニー兄弟は使徒行伝から、福音を広める二つの道があることをはっきりと見ました。一つは、使徒が遣わされることによって、もう一つは、信者たちの移住によってです(使徒八・四)。彼の務めの下で、この二つの方法が、 福音を広めるために用いられました。

Ⅲ. 一九三八年から一九四二年まで

39. 召会(教会)生活の実行

一九三九年に、二ー兄弟は召会について、さらに進んだ光を受けました。今回は、召会生活の実行についてです。 彼は、新約からはっきりした光を受けて、長老がどのように実際に長老職を遂行するべきか、執事、女執事がどのように聖徒たちと召会に仕えるべきかを見ました。彼はまた、召会のすべての肢体を助けて、召会の諸事にあずからせました。

40. 召会(教会)の実際

召会の実行面と共に、ニー兄弟は召会の実際を見ました。彼は、召会の内容はキリストがすべての肢体の中で生き、すべての肢体を通して生かし出されるべきである、と強調しました。キリストでないものは、召会ではありません。実際的に言って、召会はキリストです。ですから、キリストは召会の実際であり、召会はキリストの表現であるべきです。

41. 召会の一

召会の真の一は、その霊の一です(エペソ四・三)。真の一は教理、意見、ある実行の一ではありません。真の一はその霊ご自身です。教理において、あるいは物事を行なう方法で一つであったとしても、その霊の中にいなければ、真の一はありません。

42. からだを見る

 一九三九年から一九四二年に、ニー兄弟は、キリストのからだの幻について、絶えず負担がありました。彼は、 クリスチャンが教理的にではなく、実行的にからだを見るようにと、助ける負担を持ちました。彼は絶えず、からだを見ることが個人主義を不可能にする、と強調しました。人がいったんからだを見るなら、団体的に振る舞い、行動します。

43. からだの中での聖霊の権威

ニー兄弟は、キリストのからだが有機体である以上、聖霊はあらゆる面で、すべての事の上で、権威を持っておられるはずであることを見ました。からだの活動はすべて、聖霊の権威と指図の下になければなりません。

44. 聖霊の実際

聖霊はすべての霊的事物の実際です。「霊的事物」という言葉も、聖霊ご自身がすべての霊的事物の内容と実際でなければ、むなしく、空虚です。聖霊はクリスチャンの命の実際であり、クリスチャン生活の実際です。彼らが何であろうと、何をしようと、実際としての聖霊を持たなければなりません。

45. 召会(教会)の権威

実際的な召全生活の実行について、ニー兄弟は権威の必要性を見ました。かしらとしてのキリストが彼のからだの肢体に与える権威は、代表権威と呼ばれます。地方召会はこのような代表権威の下で、麗しい秩序の中になけれはなりません。この権威は、地方召会の建造のために極めて重要です。こうして、召会は一つの直立した器となります。このためには、服従が必要です。

46. 召会(教会)の建造

主がニー兄弟を通して啓示されたことですが、信者は必ず召会の権威の下に、地方召会の中で、他の人たちと実際的に建造されなければなりません。このような建造は、真に霊的であることのテストです。もし地方召会の中で他の人と建造されないなら、その人の霊的であることは疑問です。

47. 召会(教会)生活における組み合わせ

ニー兄弟が受けたもう一つの啓示は、権威と建造に密接に関係のあるもので、それは召会の組み合わせに関する啓示です。地方召会のすべての肢体は、他の人と建造されるだけでなく、他の人と組み合わされる必要があります。召会の奉仕は、個人的に遂行されることはあり得ません。すべての肢体は、取り組んで奉仕しなければなりません。

48. からだと霊的戦争

ニー兄弟の初期の務めにおいて、彼は霊的戦争を、個人的な面として見ていました。ところが、一九三九年から、 それは個人的な事ではなく、からだの事であるのを見ました。エペソ人への手紙第六章の戦士は単独の信者ではなく、キリストのからだです。ニー兄弟は、もし信者が個人主義であれば、天にいる諸勢力と戦うのは困難である、 と強く語りました。わたしたちが敵と戦うためには、からだが必要です。わたしたちは天にいる必要があるだけではなく、からだの中にもいる必要があります。

Ⅳ. 一九四二年から一九四八年まで

49. 聖霊の管理

一九四二年から一九四六年までの期間は、ニー兄弟にとって苦難の時でした。この期間に彼が学んだのは、聖霊の管理の必要を見ることでした。それは、わたしたちの存在の再構成のためであり、わたしたちの外なる人が砕かれるためです。彼は、神は主権をもってわたしたちの環境を校配し、聖霊の管理を通して、万事を益とならせるように開かれることを見ました。聖霊はわたしたちの環境を按配し、環境を通してわたしたちを管理されます。それは、神聖な成分をもって、わたしたちの内側を再構成するためです。

50. 外なる人が砕かれて、霊が解放される

一九四二年から一九四八年、ニー兄弟は長期の苦難を経過している間に、外なる人が砕かれて、霊が解放されることを見ました。キリストの霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられます。もしわたしたちの外なる人が砕かれていないと、キリストの霊を伴うわたしたちの霊は、わたしたちの外なる人の殻に制限されます。このゆえに、わたしたちの外なる人が砕かれることは極めて必要です。こうして、わたしたちの霊は、キリストの霊を伴って解放され、命を人に分け与えることができるのです。聖霊の管理は、わたしたちの天然の命のある面を破壊し、同時にわたしたちの外なる人を砕きます。

51. 霊を活用する

ニー兄弟は、霊の解放について光を受け、同時に信者がどのように人の霊を活用するかを、学ばなければならないことを見ました。御言を供給し、福音を宣べ伝え、人と接触する時、日常生活の事柄でさえ、信者はまず、自分の霊を活用しなければなりません。彼らは思い、感情、知識を活用するのではありません。これらすべてのことで、霊はいつも先立つ必要があります。わたしたちの霊によって、わたしたちは他の人の霊に触れることができます。 信者はただ霊によってのみ、命の霊を伝達し、命を他の人に分け与えることができるのです。 

Ⅴ. 一九四八年から一九五十年まで

52. 働きの区域

一九四八年、二ー兄弟は、召会は地方的であり、働きは区域的である、という啓示を受けました。召会は地方のことですが、働きは区域、あるいは地域のことです。ペテロの働きの下にあった諸召会は、それぞれの地方にありましたが、ペテロの働きは一つの地域にありました。その地域には、これらすべての地方が含まれていました。パウロの働きも同じであり、彼の働きを通して、諸召会が起こされました。

53. いっさいの物を明け渡す

ニー兄弟は、働きが目的を達成し、地方召会が実際に建造されるには、主の回復にあるすべての信者が、自分自身だけでなく、すべての持ち物を働きに明け渡す必要があることを見ました。このようにして、信者は、利己的であり、個人主義であることから解放されます。これはまた、信者たちが主の権威に服するのを助けます。それは、 主が信者たちの持ち物を主の目的のために用いて、彼らにさらに多くの物質の祝福を与える機会を提供します。 ニー兄弟が得た啓示は、これですべてではありません。彼は聖書から多くの光を受けて、さらに多くの事柄を見ています。それは、福音の真理や実行上の事柄、例えば、主日、結婚、衣服、金銭の取り扱いなどです。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

今の時代のおける神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー

按手とは何か? – 連合、祝福、そしてキリストのからだとの関係 – 初信者シリーズ6

按手とは何か? – 連合、祝福、そしてキリストのからだとの関係 – 初信者シリーズ6

聖書は、人の救いにはバプテスマが必要であることをはっきりと見せています(マルコ16:16)。バプテスマの真意と意義 – この世からの離脱 – 初信者シリーズ1 聖書はまた、人は按手を受けることが必要であることもはっきりと見せています。それは使徒行伝に二箇所、記されています。一箇所はサマリヤで(使徒8:14-17)、もう一箇所はエペソで(使徒19:5-6)、両方ともまずバプテスマがあり、引き続き按手があります。これは当時使徒たちが行なったことであり、聖書に記されているはっきりとした事実です。今日の神の子たちはバプテスマされるだけでなく、按手がなければ何かが欠けています。

按手とは何でしょう?まずはじめに結論を述べたいと思います。按手とは、わたしたちがキリストのからだと一となり、からだの肢体となり、かしらの下へ服すことによって塗り油を受けることです。按手には、連合(一つとなること)と祝福を与える(伝える)という二つの意義があります。ここから、このことについて詳しく見ていきましょう。

Ⅰ. 按手は真理の基礎である

ヘブル人への手紙第6章は、キリストの初歩的な言葉を後にして、円熟にもたらされようではありませんかと言っています(ヘブル6:1-2)。クリスチャン生活においては、いくつかの真理が基礎となっており、すべておろそかにしてはなりません。信者は重ねて基礎を打ち立てる必要はありませんが、基礎というものはなくてはならないものです。ヘブル人への手紙第6章の、キリストの初歩的な教えとは何でしょう?それは悔い改め、信じること、按手、復活、裁きです。聖書ははっきりとバプテスマ、按手がキリストの教えの基礎であることを見せています。ですから、もしわたしたちが、バプテスマされたのに按手されていないとすれば、主に従っていく上で一つの基礎を欠いていることになります。

このヘブル人への手紙第6章1節と2節を理解するために、今日の教会の状況とこの当時のヘブル人の状況の違いを見る必要があります。当時のヘブル人は基礎があるのに、さらにそれを立てようとして、ずっと基礎のことで何度も同じことをしていました。ですから、使徒はヘブル人に向かって、キリストの初歩的な言葉を後にして、円熟にもたらされようではありませんか、と言いました。しかし、今日の教会の状況、クリスチャンは、これらの基礎がよく立てられていないのに進もうとします。これは大きな誤りです。按手はキリストの教えの基礎の一つですから、すでに立てた人は進むべきであり、立てていない人は必ず立てなければなりません。これがヘブル人への手紙第6章1節と2節を解釈する上での背景です。

一軒の家を建てる時、六つの石を基礎とするとします。もし、一つの石を欠いてしまうなら、ある日、問題が起きます。バプテスマは基礎であり、按手も基礎です。わたしたちは真理の基礎をおろそかにすべきではありません。

Ⅱ. 按手の意義

💬 按手をする意味は何ですか?

按手の意義は大きく2つです。一つ目は、連合、合一、一つとすること、一つとなることです。二つ目は、祝福を与えること、伝えること、流し込むことです。一つ目の連合は、レビ記1章、3章、4章で述べられています。二つ目の祝福を与えることは、創世記でイサクが彼の二人の息子に按手し、ヤコブが彼の二人の孫、エフライムとマナセに按手することにおいて述べられています。これらの二つを詳しく見ていきましょう。

A. 連合(一つとなること)

レビ記第1章4節は、全焼のささげ物の頭の上に手を置かなければならないと言います。その理由は、その全焼のささげ物が手を置いた者に代わって受け入れられるようにするためです。これは手を置くこと(按手)によって、ささげ物がささげた人と一つになっていることを見ます。これがささげ物と連合する(一つとなる)という意味です。旧約時代、神はただ牛や羊をささげただけで満足されたのでしょうか?そうではありません。人が神の御前に来て、自分をささげない限り、神は満足されません。ですから、ささげ物をささげることは、自分をささげることであり、牛や羊をささげることではありません。では、実際に自分自身をささげ、祭壇で燃やされ、全焼のささげ物とするならどうでしょう?これは、旧約のモレクを拝した人たちと同じです。モレク崇拝は、古代中東で行われていた異教の儀式であり、その神「モレク」への奉納が行われていました。この崇拝における最も特徴的で忌まわしい行為は、子どもを火に通して生贄(いけにえ)としてささげることでした。神はこれを禁じています(レビ18:21)。

モレクを拝した人たちは、牛や羊でなく、自分の生んだ子をささげました。わたしたちの神が、わたしたち自身をささげるように要求なさるなら、わたしたちの神はモレクと大して変わりません。神はわたしたちに一つの方法を与え、わたしたちが生贄(いけにえ)となっても焼き捨てられないようにしてくださっています。それは、一頭の牛を引いてきて、その頭に自分の手を置くことです。この時、このように言うべきです。「本来わたし自身が、祭壇に上るべきであり、本来わたし自身が火で焼かれるべきでした。本来わたしが生贄(いけにえ)となり、自分の罪を贖って死ぬべきでした。しかし、主よ、わたしは今、一頭の牛を引いてきて、わたしの手をその頭に置きます。それがわたしです。それをほふることを祭司に委ねます。それはわたし自身がほふられることです。その血が流れることは、わたしの血が流れることです。」あなたがバプテスマされた時も、このようでした。バプテスマの浸水はキリストの死を適用し葬られることであり、水から出てきたのは、キリストの復活を適用し新しく生まれることでした。あなたは両手を牛の頭に置いています。それはこの一頭の牛をあなた自身とすることです。この一頭の牛を神にささげることは、自分をささげることです。ですから、按手の意味は連合(一つとすること)です。

B. 祝福を与える(流し込むこと)

旧約では、按手にもう一つの意味があります。創世記では、イサクが彼の二人の息子に按手し、ヤコブが彼の二人の孫、エフライムとマナセに按手しています。ヤコブが二人の孫に按手した時、それぞれ一方の手を一人の孫の頭に置き、彼らを祝福しました。これが与えること、受け継がせることとなり、祝福を彼ら二人に授けました。

以上のことから、按手の意義は、一つは合一であり、もう一つは伝えることです、一つは連合であり、一つは祝福を与えることです。

Ⅲ. キリストのからだと油塗り

💬 なぜ按手をしなければならないのですか?

これは按手がキリストのからだと油塗りに直接関係があるからです。

A. 神は油をキリストのからだ全体に注がれる

ここでまず「キリストのからだ」とは何か?「油」とは何か?を考えましょう。詩篇133篇はこのように言います。

見よ、何とすばらしく、何と喜ばしいことであろう。兄弟たちが和合して住んでいる! それは、頭に注がれた尊い油が髭に、アロンの髭に流れ下り、彼の衣のすそに流れ下るようだ。 詩篇 133篇1-2節

神は今日、ナザレ人イエスの上にご自身の霊を注がれました。これが塗り油です。神がご自身の霊を彼の上に注がれ、彼に聖霊を得させられた時、神は聖霊を彼個人の上に注がれたのではなく、神は彼の聖霊を彼のからだのかしらに注がれたのです(使徒10:38、コロサイ1:18)。詩篇133篇にあるように、神は油をかしら(頭)の上に注がれました。主イエスは彼個人の資格をもって神の油を得られたのではありません。主イエスが神から聖霊をその頭に注がれたことは、かしらとしての地位に立っておられたということです。言い換えれば、彼はからだのために、神によって油塗られたのです。こういうわけで、彼の名は「油塗られた者」であり、クリストス(Christos)です。またわたしたちの名も「油塗られた者たち」(Ⅰヨハネ2:20)であり、クリスチャンです。彼はかしらであり、教会はからだです。

神は地上で、一人の人を造り出したいのではなく、神は地上で一人の団体の人、すなわち教会を建て上げたいのです。神の塗り油は一つの肢体の上に塗られるのではなく、すべての肢体の上に塗られるのでもなく、かしらの上に塗られるのです。わたしたちが聖霊についてはっきりしたければ、からだについてはっきりしなければなりません。聖霊はからだに与えられたのではなく、聖霊はかしらに与えられたのです。神が塗り油をかしらの上に注がれたので、からだ全身に塗り油があるのです。

B. わたしたちがからだの地位に立てば塗り油を得る

それでは、わたしたちはどのようにすれば塗り油を得られるのでしょうか?それは、必ずからだの地位に立たなければなりません。もし、わたしたちがからだの地位に立っているなら、自然にかしらから油が流れてきます。多くの人が神の御前で祝福されない理由はここにあります。つまり、個人が神の御前で聖霊を得ようと、塗り油を得ようとするからです。塗り油はアロンの頭に注がれました(詩篇133:2)。そして、髭に流れ、衣のすそにまで流れ下りました。かしらに注がれることによって、からだ全体がこの油塗りにあずかるのです。ですから、人が油塗り(聖霊)を享受することは、個人が懇願する問題ではなく、祈る問題でもなく、わたしとからだが正当な関係を持つ問題です。

C. 按手する人はキリストのからだの代表(使徒)である

神の言葉は、人がバプテスマされ、キリストに帰された後、神の建てられた権威、すなわち使徒のように、かしらを代表し、からだを代表する人によって按手されるようにと言っています(使徒8:18、19:6)。これが按手の意義です。按手されるとあなたの頭は低くなります。その意味は、「わたしは今日から頭を出しません。わたしの頭は権威の下に服します」ということです。わたしの頭はでしゃばらず、わたしの頭は権威の下にあります。

使徒がからだを代表し、わたしたちに按手する時、彼とわたしたちは交わりのある者であり、彼とわたしたちは一である、と告げていることになります。使徒はからだを代表します。なぜなら、神が教会の中で立てられたのが第一に使徒ですので(エペソ4:11)、彼は教会を代表することができるからです。ですから、教会を代表する使徒が按手する時、「兄弟よ、あなたはキリストのからだと一ですから、塗り油がかしらからあなたに下ってきます」と言っているのです。これが按手する理由です。使徒は教会を代表するだけでなく、キリストをも代表します。神が教会の中で第一に立てられたのが使徒です。第一にとは、権威です。言い換えれば、ここに代表の権威があるということです。ですから、使徒の手がわたしの頭にある時、教会がわたしに按手しているだけでなく、キリストもわたしに按手しているのです。

Ⅳ. どのように按手を受けるか

💬 按手を受ける時の注意点はありますか?

これはどのように按手を受けるかという問題です。以下に詳しく説明したいと思います。

A. からだ全体によって生きていることを見る必要がある

だれかがあなたに按手する時、無駄に按手するわけでも、でたらめに按手するわけでもありません。あなたは目を開いて、今日からわたしは多くの子たちの中の子となること、多くの細胞の中の細胞となること、多くの肢体の中の肢体となることを見なければなりません。わたしたちは一つの肢体ですから、わたしたちの命はからだ全体によって生きます。もしわたしたちが単独になるならおしまいです。これが按手があなたになすことです。

ですから按手の時、あなたは次のような認識を持たなければなりません。「主よ!わたしは自分自身によっては生きられません。今日わたしは、自分がからだの一肢体であること、かしらの権威の下にあること、からだがあってはじめて生きられること、からだがあってはじめて塗り油を得られることを認めます。」あなたは頭首権(かしらの権威)に服さなければなりません。そしてからだ全体と連合されなければなりません。そうすれば、塗り油はあなたに下ってくるでしょう。

Ⅴ. 聖書の中の一つの例外

聖書の中で一個所だけ按手においての例外があります。それはコルネリオの家での事です。コルネリオの家では、パプテスマもなければ、按手もないのに、聖霊が先に下りました(使徒10:44)。 コルネリオの家が例外である理由は、ペンテコステ以来、すべての使徒たちが依然として、主の恵みはユダヤ人だけに与えられるとしていたからです。使徒たちはユダヤ人でしたし、主イエスもユダヤ人でした。ペンテコステの時、聖霊もやはりユダヤ人の上に下りました。あの時に救われた三千人はみなユダヤ人でした。彼らはそれぞれの国に散らばって住んでいたユダヤ人であって、エルサレムに帰って来て主の恵みを得ました。その時に至るまでずっと、主の恵みはすべてユダヤ人によって得られていました。それでは、この恵みは外国人、異邦人には与えられないのでしょうか?彼らははっきりしていませんでした。

この当時のユダヤ人が異邦人に対する罵り(ののしり)方はひどいものがあります。彼らは外国人を動物や獣として見るのです。ペテロでさえ、頭を切り換えることができず、同じ見方をしていました。人の暗やみ、盲目を打ち破ることは容易ではありません。ですから、主がペテロをコルネリオの家に行かせて、異邦人が主を信じる門を開かせられたことは、一つの大いなる事でした。主はまずぺテロに幻を与えなければなりませんでした。天が開けて、大きなシーツのような入れ物が下ってきて、その中に何かが入っていました。主はペテロに、「殺して食べなさい」と言われました。ペテロはちょっと見「わたしはこれを食べたことがありません」(使徒10:14)と言いました。その意味は、「わたしは異邦人の一人にも触れたことがありません」ということです。この入れ物は一回、二回、三回と下ってきて、やっとペテロは明らかになりました。もしそのようにしなかったら、ペテロはなおも理解することができなかったでしょう。この幻が開かれるや、カイザリヤから人々がやって来ました。この時、ペテロはそれがどういう意味かを知りました。それは、異邦人も神の救いにあずかることができ、犬もテーブルの下のパンくずを食べることができる、ということでした(使徒10:34)。

そこでペテロは行きました。行った時、ペテロはまだ彼らにバプテスマを授けようとはしませんでした。確かにコルネリオの家の人たちはすでに信じていました。しかし、仮にペテロが彼らにバプテスマをしようとしたなら、ペテロと同行していた兄弟たちは必ずしも認めはしなかったでしょう。その時、ペテロはとても困難な立場にありました。彼自身ははっきりしていましたが、兄弟たちははっきりしていなかったからです。しかし、その時、主が異邦人の上に聖霊を下らせました。それは彼らがバプテスマしたり、按手を受ける前でした。そこでペテロは帰って来た時、大胆に次のように言うことができました、「わたしは数句語っただけでした。福音もまだよく伝えていませんでした。それにもかかわらず、聖霊が下ってきました。そういうわけで、わたしは彼らの足りない所を補って、彼らにバプテスマするほか仕方がなかったのです」。

バプテスマはこの世を離脱し、キリストに入り込むことであり、按手は塗り油を得るためです。コルネリオの全家族はすでに塗り油を得ていました。ですから、彼らが按手を受ける必要はもはやなかったのです。こういうわけで、ペテロは彼らにバプテスマしただけでした。

まとめ

按手は真理の基礎です。基礎であるからには、救いにおいてバプテスマが不可欠であるように、按手も不可欠です。按手の意義は、連合と祝福を与えることです。按手されることによって、わたしたちはキリストのからだと一となり、かしらの下へ服し、塗り油を受けることができます。按手される時、あなたは多くの子たちの中の子となること、多くの細胞の中の細胞となること、多くの肢体の中の肢体となることを見なければなりません。これが按手の意義です。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第七編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

どの教会に行くべきか? – 聖書が示す教会の真理 – 初信者シリーズ5

どの教会に行くべきか? – 聖書が示す教会の真理 – 初信者シリーズ5

人が主イエス・キリストを信じたら、教会に加わる、教会に通うという一つの問題が生じます。前回の記事では、この世から分離することについて学びました。この世から分離すればおしまいではなく、さらに進んで積極的に教会に加わるべきです。(教会に加わるという用語は最上ではありませんが、とりあえずこの語を用いることにします)。

今回の記事では、

  1. なぜ教会に行く必要があるのか
  2. どの教会に行くべきなのか
  3. 聖書に啓示されている教会とは
  4. どのようにして教会に加わるのか

大きくこの四点を述べていきたいと思います。

(教会に加わるという用語が最上でない理由は、第四の項目で明らかになります)

Ⅰ. 教会に加わる必要がある

わたしたちのクリスチャンの友人で教会に通っていない兄弟姉妹が少なからず存在します。彼らは、自分はクリスチャンになるだけで十分であり、どんな教会にも加わらないと言います。聖書の学びは、YouTubeにアップされている動画を拝聴し、仲の良い兄弟姉妹を集めて、オンラインで集まっていると言います。そのような人たちは、キリストは必要だが教会は必要ないと言います。

「わたしはキリストとは関係があるけれども、教会とは関係がない。わたしは一人で祈ることができるし、一人で聖書を読むことができる。知らない人と行き来するのは面倒だ。自分の好きな時に、好きな方法で、信仰を守っているだけで十分だ」。教会が必要でないと考えている人は、この種の考えを持っています。しかし、わたしたちにその気持ちがあろうとなかろうと、わたしたちは教会に加わらなければなりません。人は救われたなら、クリスチャン生活には個人的な面と団体的な面があることを、必ず見なければなりません。個人の面では、主の命を内側に受け入れることができ、一人で主と交わることも、一人で祈ることもできます。しかし、もう一つの面、団体の面があることを見なければなりません。聖書の中の団体的な面に従ってみれば、単独でクリスチャンになることはできません。

クリスチャンの団体的な面について聖書はこのように言います。第一に、神の言葉は、人が救われると、神の家族となり、神の子供たちとなると言っています(エペソ2:19)。第二に、救われた人はみな神の住まい、すなわち神の家であると言っています(エペソ2:22)。第三に、クリスチャンはすべての肢体が合わさってキリストのからだとなります。わたしたちは互いに肢体であり、共に集まるとキリストのからだとなります(ローマ12:5)。

A. 神の家の中では多くの人たちと共に神の子供となる

聖書は、わたしたちが神の子供たちであると告げています(第一ヨハネ5:2)。わたしたちは、一人っ子ではなく、幾千幾万の兄弟姉妹を持つ、神の子供たちです。家庭において、人が五人の兄弟姉妹を持っているのに、彼らと行き来しないことはあり得ません。両親が五人の兄弟姉妹を生んだのですから、必ずこの兄弟姉妹の間で交わりを持ちます。たとえ、何かの理由によって会えない状態であっても、内側に兄弟姉妹に会いたいという気持ちを抱くことは自然なことです。

今日、わたしたちは全世界で最も大きい家庭に生まれました。わたしたちには幾千幾万もの兄弟姉妹がいます。もしあなたのうちに兄弟姉妹に会いたいという思いが少しも無いのでしたら、あなたが兄弟姉妹であるかどうかを疑います。ですから、わたしたちは個人的に神の命を受け入れ、神の子となりました。しかし、わたしたちが得たこの命は幾千万の子たちの中の一つであり、わたしたちはその中の一人であることを覚えておかなければなりません。

B. 兄弟姉妹と組み合わされて神の住まいとなる

聖書はまた、教会が神の住まいであることを見せています(エペソ2:22)。神は地上で住まいを必要としておられることを知らなければなりません。聖書では、モーセが幕屋を建ててから、ソロモンが宮を建造し、また後になって修復し復興するまでずっと、この住まいの思想は一貫しています。ペンテコステから教会が始まると、神は人をもって神の宮を造られます(エペソ2:21-22)。今日、神は教会に住まわれ、教会も神の住まいとなっています。わたしたちという人が共に組み合わされて神の住まいとなるのです。

ペテロはわたしたちは生ける石として、霊の家に建造されつつあると言っています(第一ペテロ2:5)。この霊の家は生ける石によって造られます。生ける石とは、主を信じ、再生されたわたしたち一人一人のことです。わたしたちはキリストの霊の家の一つの材料です。あなたが離れることは、神が建造の材料を失うことを意味します。神は、神の家の建造のためにあなたを必要とします。

C. すべての肢体と組み合わされてキリストのからだとなる

第三にわたしたちはキリストのからだにあって一つであり、一つからだとなっています(第一コリント12:12-22)。これは家庭、家、住まいよりさらに進んでいます。自分の体を想像してみてください。そこには目があり、鼻があり、口があり、手があり、足があります。目が二階にあり、口が家の外にあったらどうでしょう?それは体ではありません。このことを考えるなら誰一人として、別の肢体から離れることはできません。

以上の三点から、クリスチャンは単独で生きていくことはできません。必ず、兄弟姉妹、他の肢体と交わり、組み合わされる必要があります。

Ⅱ. どの教会に加わるべきか

💬 この地上に数多くの教会がありすぎて、どこに行くべきかわかりません。

聖徒たちの間にこのような質問が多くあります。わたしたちはどこの教会に行くべきなのでしょうか?そのために、まず現在、地上に存在する教会の状況を見ていきましょう。

A. 教会には多くの異なる点がある

教会の歴史は2000年にも及びます。各時代においてさまざまな教会が興されました。これは時期に違いがある問題です。教会はまたさまざまな場所で興されました。これは場所に違いがある問題です。教会はまたさまざまなしもべたちを通して興されました。これは人に違いがある問題です。

ここに三つの異なるもの、時、場所、人の違いがあります。それだけでなく、聖書の真理がとても多いゆえに、人はある真理を重視して、一つの教会を設立しています。別の人はまた別の真理を重視するゆえ、別の教会を設立します。これらの異なる状況が、多くの異なる教会を生み出します。今日、全世界での教会の数は1500以上に及びます。これは教会の数ではなく、一つ一つの系統ごとに数えたものです。聖公会を一つの教会とし、長老派を一つの教会とし、○○教団を一つの教会として数えました。これらの1500以上の数ある教会の中から一つを選んで加わることは容易ではありません。

これほど多くの教会、これほど多くの混乱がある中で、神の御前に歩む道はあるのでしょうか?「はい。あります。」神の言葉がわたしたちの間に残されているゆえに、神の言葉を読み、神の言葉が何を言っているかを見ることができます。聖書の中に、わたしたちの加わるべき教会について導く道がすでに備えられています。神はわたしたちを暗やみの中にとどめてはおかれません。

B. 多くの異なる教会がある原因

1. 場所が異なる(発祥地・起源)

教会が分かれてきた状況を見てみましょう。あるものは場所に違いがあります。例えば、聖公会はその英語名は「Anglican Church」であり、その意味は英国教会です。ですから、聖公会の意味は、英国の国教会です。しかし不思議なことが起こります。英国から米国に伝わると、米国聖公会となり、米国の英国教会となります。同じように、日本にある聖公会は、日本の英国教会です。これはとても奇妙です。

カトリックを考えてみましょう。カトリックは事実上ローマ教会です。ここは日本です。しかし、日本のカトリック教会は、日本ローマ教会です。ローマ教会が別の場所に行っって教会を設立することは正しくありません。ですから、すべて場所を起源とする教会は混乱です。

2. 時が異なる

次に、時によって分かれた多くの教会を見てみましょう。始まった時が異なるために、異なった教会が設立されました。カトリック教会は、1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、布教を始めたことで日本に伝わりました。明治時代になると、プロテスタント教会が日本に伝わりました。1859年にアメリカの長老派、聖公会、オランダ改革派の宣教師たちが来日し、布教活動を始めたのが最初です。以降、多くのプロテスタント諸教派が日本に入り、現在も様々な教派が存在しています。

正教会(東方正教会)は、ロシアからの宣教師であるニコライ・カサートキン(日本正教会の聖ニコライ)が1861年に来日し、布教を開始したことで日本に伝わりました。近現代には、ペンテコステ派やバプテスト、ルーテル教会、メソジスト、アドベンチスト教会など、多様なプロテスタント教派や独立系の教会も日本に入ってきています。また、20世紀以降には新興キリスト教系の教会も数多く設立されています。このように時間が異なるために教会を分けてしまいました。

3. 人が異なる

それにとどまらず、教会歴史において人の違いを見ることができます。ウェスレーが設立した教会は、ウェスレー教会となりました。ルーテルが設立した教会は、ルーテル教会になりました。人が同じでないために、教会が人のゆえに分かれました。

4. 真理に対する解釈、重要視する教えが異なる

さらに、真理に対する解釈、重要視する教えが異なるために教会が分かれました。「人は信じることによって救われる」という信仰による義認の真理を重要視するものをルーテル教会と言います。この世から分離されること、聖なる生活、聖潔を重要視するものはホーリネス派です。聖霊の働きを重視するものはペンテコステ派と呼ばれます。長老が教会を管理することを重んじ、使徒の権威は長老に委ねられていることを認めるものを長老派と称します。監督が使徒を受け継ぐことを認めるものは監督派。バプテスマを重んじ、全身を水に浸さなければならないとするのがバプテスト派になりました。

全世界の教会には各種各様の区別があり、各教会にはそれ自身の歴史と教義があります。これは聖書に啓示された真理に対する解釈、重要視する教えが異なることによっての分裂です。このような混乱した状況の中で、あなたはどのように歩むのでしょうか?

Ⅲ. 聖書に啓示されている教会

聖書は、教会の真理に関しては、最も単純であり、少しも乱れておらず、とてもはっきりしています。何節かの聖書を読むことで明らかになります。書簡の最初の数節、また使徒行伝と啓示録(ヨハネによる黙示録)の第一章を読んでみてください。その聖書の言葉の中に見る教会は、エルサレムに在る教会、コリントに在る教会、ピリピに在る教会、エペソに在る教会、コロサイに在る教会などです。使徒行伝にはアンテオケに在る教会があります。啓示録(ヨハネによる黙示録)には七つの教会があります。

確かに聖書の中の教会には区別があります。しかし、聖書にはただ一つの区別があるだけで、二つの区別はありません。この一つの区別とは何でしょう?これはとてもはっきりしています。聖書に啓示されている教会の道はただ一つです。コリントは一つの地方(都市)であり、エペソは一つの地方であり、コロサイは一つの地方であり、ピリピも一つの地方です。すべて地方(都市)です。言い換えれば、教会はただ地方をもって分けることができるだけです。ですから、教会の範囲は一つの都市であり、一つの地方をその単位としています。これが聖書に掲示されている教会の真理です。

この地方(都市)とは、「行政の最小単位」を指します。行政の最小単位とは、政府や自治体の管理やサービスが提供される、最も小さな地域の区分をです。日本においては通常、市(し)・町(まち)・村(むら)がこの行政の最小単位です。調布市を例にとって考えてみましょう。調布市は行政の最小単位です。調布市は東京都下の市ですが、行政は調布市で行われます。市役所は、その市に住む人々のために行政サービスを提供するための施設です。この市役所は行政の最小単位に一つのみ存在します。例えば、調布市に複数の市役所が独立して存在していたらどうでしょう?そのような状態であれば、市民はどちらに行くべきか迷い、サービスや方針に混乱が生まれます。このように、同じ市に複数の市役所がある状態は、秩序を欠き、住民に混乱をもたらすでしょう。そのため、基本的に一つの市には一つの市役所があるべきです。

教会も同じ原則に基づいています。教会は地上で神の行政を行います。その行政の範囲は行政の最小単位であり、一つの地方(都市)には一つの教会があります。調布市に住んでいる市民が調布市のサービスを受けるように、調布市に住んでいる信徒は調布に在る教会へと通います。このことについてさらに詳しくみてみましょう。

A. 地方(行政の最小単位)より小さいものは教会ではない

教会がどれほど大きくても、それは地方(行政の最小単位)の範囲を超えることはできません。同時に教会がどれほど小さくても、地方より小さいものとすることはできません。地方より小さいとは、コリントに在る教会にあった問題です。コリントに在る教会では、ある一組の人たちが、わたしはケパにつく、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはキリストにつく、と言っています(第一コリント1:12)。彼らはコリントに在る教会を四分しました。このようにして教会を分けるなら、それは争いであり分派です。

B. 教会の範囲は地方より大きくすることはできない

教会がもし地方より大きいなら、それもいけません。聖書を読むと、ガラテヤに在る諸教会、アジアに在る諸教会、ユダヤに在る諸教会があります。ガラテヤに在る諸教会は、ガラテヤの手紙にあります(ガラテヤ1:2)。アジアに在る諸教会は、啓示録(ヨハネによる黙示録)にあります(啓示録1:4)。ガラテヤはローマ帝国の一つの州であり、一つの地方ではありません。ですから、ガラテヤに在る教会とは言わず、ガラテヤに在る諸教会と言っています。

原文で調べてみましょう。「コリントに在る教会」のギリシャ語原文は τῇ ἐκκλησίᾳ τοῦ Θεοῦ τῇ οὔσῃ ἐν Κορίνθῳ(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、「教会」という単語が **ἐκκλησίᾳ** (エクレシア、ekklēsia) で単数形になっています。「ガラテヤに在る教会」のギリシャ語原文は ταῖς ἐκκλησίαις τῆς Γαλατίας(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、ἐκκλησίαις (エクレシアス、ekklēsiais) は複数形で、「教会たち」または「諸教会」という意味です。ですから、神の定めは、調布市には調布に在る教会があり得るのであり、調布市のカトリック教会、プロテスタント教会はあってはいけないのです。また、関東を一つの教会にしてしまうこともできません。関東に在る諸教会があるだけで、関東に在る教会はありません。

C. 教会にはその地方の名前があるだけである

教会には人の名前はありません。教理の名前もありません。制度の名前もありません。牧師が付けた名前もありません。その場所(地方)の地名があるだけです。ですから、聖書の中には、カトリック教会もありませんし、プロテスタント教会もありませんし、メソジスト派、ペンテコステ派、ルーテル派などもありません。これが聖書の中にある教会の真理の啓示です。

Ⅳ. どのようにして教会に加わるのか

最後に、どのようにして教会に加わったらよいのでしょうか?聖書には、教会に加わると言う言葉は存在しません。ですから、この質問自体がおかしいことになりますが、他にわかりやすい言葉がないので、この言葉を用います。

A. 教会には加わる必要もないし、加わることもできない

聖書には一箇所も「教会に加わらなければならない」と言っている所はありません。また「教会に加わろう」と思っても、加わることはできません。これはちょうど一つの耳が、わたしたちの体に加わると決めるようなものです。あなたがその中にいれば、もうそれでその中におり、その中にいなければその中にいないのです。ですので、教会に加わることによって教会の会員となり得るのではありません。人が神のあわれみを受けて、罪を見、血を見、贖われ、赦され、新しい命を得て、神によって、復活を通して再生されたのであれば、神はもうこの人を教会の中に加えておられ、彼はすでに教会の中にいます。

もし、あなたが教会に加わろうとするのであれば、その教会は偽物です。偽の教会にだけ加わることができます。すべての問題は、あなたが神から生まれたかどうかにかかっています。わたしたちが神から生まれたのであれば、みな教会の中の人であり、それに加わる必要などありません。

B. 教会の中での交わりを求める必要がある

あなたは神から生まれ、教会の中にいるので、それで十分でしょうか?いいえ、違います。あなたは兄弟姉妹との交わりを求めなければなりません。信じることは一つのことです。それは内側のことであって、他の人があなたがクリスチャンになったことを知るすべがありません。ですので、あなたは教会へ行き、「わたしはクリスチャンです。わたしをクリスチャンとして受け入れてください」と言う必要があります。

では、どこの教会に行くのでしょう?それはあなたが住んでいる地方の教会に行くのです。例えば、大阪市に住んでいるのであれば、大阪に在る教会に行きます。名古屋市に住んでいるのであれば、名古屋に在る教会にいきます。神戸市に住んでいるなら神戸に在る教会に行きます。調布市に住んでいるのであれば、調布に在る教会に行きます。

このようにネットで自分の地方にある教会を調べてみてください。もし、ヒットしなければ、住んでいる都道府県名で調べると良いでしょう。主が導いてくださいますように。

さらに詳しく知りたい方へ

「第二期 第三十巻 正常なキリスト者の召会生活」 ウォッチマン・ニー著

「教会の認識」 ウィットネス・リー著

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第六編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

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