わたしたちのクリスチャン生涯は、一つの競走です。これは単なる旅ではなく、明確な目標へと向かうものです。目標とは、神がわたしたちの前に置かれた王国。そして、その王国へ至る道は、信仰をもって走り抜くことによってのみ開かれます。今、わたしたちはこの問いに向き合う時に立っています。あなたは、この競走をどのように走りますか?

以下の内容はウォッチマン・ニーによる『メッセージ記録』からの引用をもって、この事柄について説明します。

Ⅰ. 信仰と競走の関係

聖書は「こんなにすばらしい救い」(ヘブル2:3) について語っていますが、ここで言及されているのは単なる救いではなく、神の王国に入ること、すなわち千年王国に参与することです。神は、罪人に対しては永遠の命を提供し、すでに救われた者に対しては王国への招待を与えます。しかし、王国に入るためには信仰に基づいた生き方が求められます。

…神は人の前に二つのものを置かれます。第一に、彼は罪人の前に永遠の命を置かれます。第二に、彼は永遠の命を得た人の前に王国を置かれます。信じる者には、永遠の命があります。しかしながら、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の王国にはいれません」(マタイ5・20、原文)。「わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の王国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ7・21、原文)。 これら二つの節から見ることができますが、永遠の命を得るためにはわたしたちが信じることしか必要でありませんが、王国に入るためには別な資格があります。

Ⅱ. クリスチャンの競走

救われた者は、神によって「競走」に招かれます。この競走は、永遠の命を得るためではなく、王国を受け継ぐためのものです。

いったん人が救われたなら、神はその人を一つの競走へと入れられます。クリスチャンの一生は、一つの競走です。この競走は、永遠の命を得るためのものではありません。反対に、すでに永遠の命を持っている者だけが、この競走を走る資格があります。競走の最後に、ある者は冠を受けるでしょうし、ある者は冠を受けないでしょう(Ⅰコリント9・24、25)。 冠とは何でしょうか? 冠は王国を代表します。冠は、王国、支配すること、栄光の表徴です。冠を受けることとは、王国を得ること、すなわち主イエスと共に王となって、支配し、栄光を受けることを意味します。冠を受けないこととは、王国を得損なうこと、すなわち主イエスと共に王となって、支配し、栄光を受けることができないことを意味します。冠は王国の表徴です。クリスチャンが永遠の命を得ることについては、問題はありません。しかしながら、クリスチャンが王国を得ることは、彼がどのように競走を走るかにかかっています。

人が救われた後、神は人を、王国を直接の目当てとする競走へと入れられます。すべて彼の言葉、行為、思想、生活、また彼に関するすべての事柄は、将来彼が王国を得るかどうかと関係があります。競走に加わらない者は、自分は王国を得るのにふさわしくないと決めてしまった者です。正しく競走を走らない者は、王国を得るのを遅らせているのです。神はすでにすべてのクリスチャンをこの道に置かれました。わたしたちが王国を得るか得ないかは、わたしたちにかかっています。わたしたちの捨てること、わたしたちのささげること、わたしたちの忠信さ、わたしたちの勝利は、わたしたちを冠を受ける者とします。しかし、この世を願望し、自分の肉にしたがって歩く者は、自分たちは主イエスを通して永遠の命を得ていても、天の王国は依然として自分たちのものではないことを見るでしょう。…

Ⅲ. 競走を走るために必要なこと

ヘブル12:1は、競走を走るために「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨て」ることを勧めています。ここで重要なのは、「罪」と「重荷」の違いです。

A. 罪を捨てる

…わたしたちは、自分がすでに知っているすべての罪を取り去り、拒絶するべきです。ねたみ、ごう慢、心の中の汚れ、口の偽り、短気な性質、放縦な欲望はすべて、わたしたちが走る者となる資格を失わせます。走る資格を失った者は、天の王国に入ることや、主イエスと共に支配することができません。わたしたちは自分の違反すべてを、神の御前に徹底的に告白し、悔い改め、捨て去り、神の赦しを尋ね求めなければなりません。わたしたちは自分の前に置かれた競走を、とがめのある良心で走ることはできません。わたしたちは、捨て去らない罪を持って、わたしたちの中の良心を長い間とがめのあるままにしておくべきではありません。もしわたしたちがだれかに罪を犯したなら、わたしたちはその人に適切に告白すべきです。もしわたしたちがだれかに物質的なことで負債があるなら、わたしたちは自分のできるところにしたがってその人に賠償すべきです。わたしたちは人に違反を犯して、それを取り扱わないままにすべきではありません。損失を恐れてはいけません。また、面目を失うことを恐れてはいけません。…

B. 重荷を降ろす

…「いっさいの重荷(重さ)・・・・・・・を捨て」という言葉を、再び考えてみましょう。重さとは何でしょうか? 重さとは、必ずしも罪ではなく、またとても悪いものでもありません。しかし、それは容易にわたしたちにまつわりつくものです。もしわたしたちが罪を取り除かなければ、わたしたちは走る資格を失うでしょう。しかしながら、もしわたしたちが自分の重さを降ろさなければ、たとえ走る資格があったとしても、 わたしたちは速く走れないでしょう。革のコートと上着を着て走っている人を見たことがあるでしょうか? わたしたちが速く走ることや前進することを妨げるものはすべて、重さです。

十九世紀に、主によって大いに用いられた人がいました。彼は非常に多くの時間を費やして、ヘブル語の辞書を編慕しました。それが完成した時、彼はそれを友人たちに送って見てもらいました。友人たちはとても称賛し、この辞書が出版されれば、彼は有名な学者になるであろうと考えました。しかし、この兄弟は結局、その辞書の原稿を焼き捨ててしまいました。彼は言いました、「この辞書を編集していた時、主に対するわたしの愛と、人の魂に対するわたしの愛は、減少してしまいました。校正と印刷には、さらに多くの時間がかかります。ですから、わたしはむしろそれを焼いてしまいます」。校正することと印刷することは、罪ではありませんでしたが、彼にとっては重さでした。ですから、彼は自分の重さを捨てることを選びました。ある事柄は罪ではありませんが、それはわたしたちにとって重さではないでしょうか?…

わたしたちは、マルコによる福音書第4章19節で述べられていることに注意を払わなければなりません。主は、わたしたちが実を結ばないのは罪のためであると言われたのではなく、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」がわたしたちに実を結ばせないのであると言われました。罪を犯すまでもなく、ほんの少しの世の心遣いが、わたしたちに実を結ばせないのです。富は罪ではありません。しかし、 富は決して、わたしたちが二つの翼を持って飛ぶのを助けることはしません。すべて金持ちになろうと企てる人は、決して良い競走を走ることはできません。…

重さは罪ではありません。多くの場合、それは何か合法的なものでさえあるかもしれません。しかし、 それはやはり重さであり、わたしたちの前進する速度を減少させるでしょう。おそらく、わたしたちの重さとは、わたしたちが捨てることのできない友情、わたしたちが追い求めている地位、ほんの少しのこの世的な野心、心地よい家、一皿のおいしそうな食物、美しい服であるでしょう。これらのものやその他無数のものも罪ではありませんが、それらはわたしたちが速く走るのを妨げるでしょう。…

競走を走る者は、自分の前に置かれている競走を忍耐をもって走るべきでもあります。…わたしたちは最初はよく走るかもしれません。また途中もよく走るかもしれません。しかし、終わりにもよく走るとは限りません。最初に勝利を得、途中で勝利を得、最後にも勝利を得ることが、勝利を得ることとされます。最終点に着くまでは、わたしたちが褒賞を得ることは保証できません。…パウロでさえ次のように言いました、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです」(ピリビ3・12)。わたしたちはどうでしょうか?

「走る」こととは何でしょうか?「走る」こととは、じっと立っていることを意味するのでもなく、ゆっくりと歩くことを意味するのでもありません。それは、速く走ることを意味します。わたしたちが勝利を得るか得ないかは、わたしたちがどれだけ速く走るかにかかっています。もしわたしたちが時間を浪費し、ぐずぐずしているなら、必ず失敗するでしょう。…

Ⅳ. キリストを見上げて走り続ける

競走する時、定められた走路の外を走る人がいるでしょうか? すべての人は、自分のために書かれた走路の中を走らなければなりません。これが、テモテへの第二の手紙第2章5節が言っていることです、「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」。残念なことに、多くのクリスチャンは熱心に走ってはいますが、神の道を走っていません。わたしたち自身の熱心さ、労苦、活動すべてが、 神のみこころに置き換わることは決してできません。神のみこころの外を走ることはすべて、損失という結果になります。…

わたしたちの足は、神が書かれた走路の中を正しく走らなければなりません。わたしたちの目は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを、ひたすら見つめて」(ヘブル12・2、原文)いなければなりません。これは、わたしたちが他のすべてのものから目をそらして、イエスを見なければならないことを意味します。わたしたちは他のどんなものも見るべきではなく、ただイエスを見るべきです。わたしたちはイエスを見つめる時はじめて、真っすぐ走ることができます。わたしたちの周りにある多くのものは、わたしたちのビジョンに影響を与え、わたしたちの目標を変えさせます。ただイエスを見つめることによってのみ、わたしたちは最初から最後まで競走を走ることができます。…

「目をそらす」ことは、主を見つめるための先決条件です。他のすべてのものから目をそらさなければ、わたしたちは決して主を見つめることはできません。競走を走りながら周囲を見回す人は、決してうまく走れません。間違った走路を走るか、あるいは完全に止まってしまうでしょう。それだけでなく、わたしたちの内側を振り返ることでさえも、わたしたちの霊的行程においてとても有害です。自分で自分を回想すること、自分の感覚を自分で分析すること、自分自身の進歩を自分で考慮すること、あるいは自分自身の霊性について過度に心配することでさえ、わたしたちの前進を妨げます。競走を走ることの最大の危険の一つは、走る者が前進を心配するあまり、知らず知らずのうちに自分の状態を回想することにあります。その結果、わたしたちはイエスを見つめることができなくなります。イエスを見つめることとは、何でしょうか? イエスを見つめることとは、自分自身を見つめないことです。イエスを見つめることとは、イエスによって引き寄せられて、わたしたちの内側の世界から離れ、わたしたちが見つめている方に自分自身を結合させることです。…

わたしたちの主は王国の喜びのゆえに、「いとわないで」、「耐え忍び」ました。わたしたちはどうでしょうか? 兄弟姉妹よ、わたしたちは今までに王国の栄光のために何かを捨てたでしょうか? わたしたちは今までに神からの賞のゆえに、自分の行ないたいことを行なわず、自分の行ないたくないことを行なったことがあるでしょうか? もしこの喜びが主を引き寄せたのであれば、それはわたしたちをも引き寄せることができないでしょうか? 古今の多くの聖徒たちは、王国の栄光のゆえにすべてのものを捨てて、 イエスに従いました。わたしたちはどうでしょうか?

わたしたちの見つめるイエスは、このようなイエスです。彼は、「ご自分の前に置かれた喜びのために、 恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです」(ヘブル12・2、 原文)。彼はこのようであります。原則において、その過程はわたしたちの場合も同じであるべきです。恥は人が彼に与えたものですが、彼はそれをいといませんでした。彼は人によって誤解され、追い払われ、訴えられ、見捨てられ、罪定めされましたが、それを意に留めませんでした。それは、彼の受けた恥があまり激しいものではなかったからではありません。彼の受けた恥は、普通の人が受けたことのないものでした。彼が辱められた時、彼の聖なる感情が恥を感じなかったわけではありません。彼の感覚は、おそらく他のだれよりも鋭いものであったことでしょう。しかしながら、彼はそれをいといませんでした。彼は、恥に注意を払われませんでした。

神が彼に与えられた十字架は、軽いものではありませんでした。人の前で、悪鬼の前で、天使の前で彼が経過されたことは、容易なことではありませんでした。しかしながら、わたしたちの主は十字架を耐え忍ばれました。彼はそれを受け入れ、それを耐え忍ばれました。その結果「神の御座の右に座しておられ」栄光の現れを待っているのです。何とわたしたちは自分の面目を保とうとすることでしょう! わたしたちは、辱められ、誤解され、批判され、反対されることを恐れます。わたしたちは力を尽くして円満な人になろうとします。わたしたちは辱めを受けることを避けます。わたしたちは自己を否もうとせず、また主のために辱めを受けようとしません。辱めを受け入れることがあっても仕方なくであり、静かに、自己弁護せずに、逃げようとせずに、 そのような辱め(これはわたしたちの魂の命を減少させます)を進んで受け入れることをしません。

わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださる十字架を進んで担おうとしません。わたしたちは十字架の道を歩いていません。わたしたちは、十字架の道が何であるのかさえも知りません。わたしたちは、 すべて自分に起こることが神によって許されていることを知りません。すべてわたしたちの意図に相反し、 わたしたちに対して偽りの訴えをし、わたしたちに苦痛を感じさせ、わたしたちを環境の中でざ折させ、 わたしたちの望みを泡となすものは、神からの十字架です。わたしたちはこれらのものをどのように取り扱うのでしょうか? わたしたちの心はそれらに抵抗するのでしょうか? わたしたちは他の人につぶやくのでしょうか? わたしたちは、これらのものが過ぎ去るのを望むのでしょうか? わたしたちの中の反逆的な態度は、わたしたちが競走をよく走れないようにします。

神が一つ一つの十字架をわたしたちの上に臨ませるのには、特別な目的があります。主イエスがご自分の十字架を耐え忍ばれたのと同じように、わたしたちがそれを神のみこころにしたがって耐え忍ぶなら(注意・彼の十字架は贖いのためでしたが、わたしたちの十字架はそうではありません)、わたしたちの天然の命は今一度、対処されるでしょう。わたしたちはさらに度量を大きくされ、神の御子の復活の命で満たされるでしょう。わたしたちの抵抗と反逆、逃げようとして奮闘する力は、神の目的を妨げ、わたしたちの上に望む十字架をむなしくさせてしまいます。それらは、神が達成したいことを達成させなくします。…

王国へと向かって走る行程において最も恐るべきことの一つは、うみ疲れて、魂が気落ちすることです。神は主イエスをわたしたちの前に置かれました。それは、わたしたちが彼に倣うためです。終わりに、この部分はわたしたちに次のように告げています、「ご自身に対する罪人たちのあれほどまでの反抗を耐え忍んだ方を、比較し考えなさい。それは、あなたがたがうみ疲れて、魂が気落ちすることのないためです」 (ヘブル12・3、原文)。ここの「あれほどまでの」は、どのようにして彼が辱めを受け、侮辱され、捨て去られ、むち打たれ、傷つけられ、十字架に釘づけられる(十字架には人からの面もあります)などしたかを示しています。わたしたちは注意して考えるべきであり、またこれらのことを一つ一つ考えるべきです。 そうすれば、わたしたちはうみ疲れることがなく、魂が気落ちすることもないでしょう。…

魂とは、感情、思い、意志の器官です。「うみ疲れて、魂が気落ちする」こととは、魂において力がなくなることを意味します。意志は麻ひし、感覚は冷淡になり、思いは関心を失います。すべてのことはむなしく思われ、すべてのことを自然に任せるようになります。「将来わたしが冠を受けるかどうかは、運命に任せます」。競走を走ることにおける最大の誘惑の一つは、わたしたちに反対する事柄すべてがわたしたちを圧倒し、わたしたちがそれらに抵抗することができなくなる時、わたしたちがそれらに屈して、天の冠を得るために真剣に走るのを拒むことです。もしわたしたちが主イエスのことを考え、彼の経験を調べるなら、そのように屈することはないでしょう。ギデオンと彼の三百人は、「疲れていたが、追撃を続けた」(士8・4)のです。わたしたちは、「疲れていても、走り続ける」べきです。…

競走において最も称賛を受ける人はだれでしょうか? それは、傷つけられても、再び立ち上がり、最後には一位となる人です。この人は、必ずやむことのない称賛を受けるでしょう。ですから、傷つけられることや苦難を受けることは、問題ではありません。失敗することでさえ、問題ではありません。倒れても再び立ち上がる者が、やはり最高の者です。兄弟姉妹よ、今日わたしたちはみな競走の中にいます。今日は何も勘定されません。すべてのことは、競走の最後において最終的に判断されるでしょう。わたしたちはどのような理由があっても、自暴自棄になったり、うみ疲れたり、気落ちしたりすべきではありません。わたしたちは、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめて、わたしたちの前に置かれている競走を走るべきです! 

Ⅴ. まとめ

聖書は、クリスチャンの人生を「競走」として提示し、その目標が神の王国にあることを強調しています。イエスの模範を通して、私たちは励まされ、この競走を最後まで走り抜くように召されています。私たちが信仰を持ち続け、罪と重荷を取り除き、神のみこころにしたがって最後まで走り通せば、王国の冠を受けることができるのです。

引用:ウオッチマンニー全集 第一期17 メッセージ記録(一)

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