クリスチャンの空前の希望であり、全世界に対する大いなる証し、それは「…(クリスチャンが)雲の中に引き上げられ、空中で主と会います.」(Ⅰテサ4:17)すなわち携え上げ(携挙)です。この真理の根拠となる御言葉は聖書の中にパズルのピースのように散りばめられており、その全貌はそれぞれの信仰と立場の偏りによって主に三つの学派に分かれています。ウオッチマン・ニーは希望的観測によって都合よく関連聖書語句を取捨選択するようなことはせずに、かつ三つの学派の論拠を提示した上で誤りを正しつつ、関連した真理にも光を当て啓示を与えるという、きめ細やかなバランス感覚を持って語りかけを与えました。この記事の読者は携え上げだけでなく、他の多くの細やかな光をも受けるでしょう。ここでは携え上げに対する三つの主な学派を分類しつつ、第一の学派を徹底的に論じた引用を見ていきましょう。
以下の内容はウォッチマン・ニーによる『マタイによる福音書の学び』からの引用をもって、この事柄について説明します。
Ⅰ. 三つの主な学派
マタイによる福音書第二四章と第二五章を理解するためには、わたしたちはまず携え上げの問題を理解する必要があります。携え上げは、この時代の終わりの前の最も重要な事柄です。残念なことに、多くの人々はそれを誤解しています。
「携え上げ」という言葉は、ヨハネによる福音書第十四章一節から三節の「迎える」という言葉と等しいものです。携え上げられることは、自分自身で登ることではありません。携え上げられることは、主によって天へと迎えられることです。ですから、「携え上げ」というのは特別な用語です。主はすぐに来られるでしょう。そして、主は来られたら、わたしたちを迎えてくださるでしょう。
携え上げの問題に関しては、信者たちの間に多くの異なる意見があります。(一)ある人は、すべて救われている者は、大患難の前に携え上げられると言います。
(二)ある人は、すべて救われている者は、大患難を経過しなければならないと言います。
(三)ある人は、救われている者たちの一部分は患難の前に携え上げられ、一部分は患難の後に取られると言います。
これら三つの学派は、それぞれがお互いを異端であると見なし、交わりを断ち切っています。これは間違いです。
| 立場の内容 | 主な提唱者(代表的な人物) | |
| 第1の学派 | 携え上げは大患難の前に起こる (患難前携挙) | ダービー、ケリー、トーレイ(後に変更)、ムーディー(後に変更)、ブルックス、ジェイムズ・グレイ、ガエベレイン、ワイス、スコフィールド |
| 第2の学派 | 携え上げは大患難の後に起こる (患難後携挙) | ミューラー(最初は患難前派)、A・J・ゴードン、シンプソン、エルドマン、ムーアヘッド、ヘンリー・フロスト、チャンバーレイン、ジェイムズ・ライト、ニュートン |
| 第3の学派 | 一部の信者は患難前に携え上げられ、 他の者は後に携え上げられる (部分携挙説) | ハドソン・テーラー、ロバート・チャップマン、ロバート・ガボット、ペンバー、パントン |
三つの学派のうちどれ一つとして他を無視することはできませんが、ただ一つの学派だけが正しいです。 これを学ぶ時、わたしたちは公平な態度を持つようにしましょう。わたしたちは弁護士ではなく、検事になることにしましょう。
Ⅱ. 第一の学派 患難前の携え上げの根拠
A . 「やがて来る御怒り」を大患難と特定している
これを支持する者たちは、テサロニケ人への第一の手紙第一章十節の「やがて来る御怒り」とは、大患難であると言います。その節は「救い出して」と言っているので、携え上げは患難の前であることを意味しているに違いないのです。同様に彼らは、テサロニケ人への第一の手紙第五章九節はわたしたちに、神はわたしたちを御怒りに会うように定めたのではなく、そしてその御怒りとは大患難であると告げていると言います。
- 反証
以上の証拠が大患難を指していると考えることは、完全に間違っています。なぜここの御怒りが大患難の御怒りでなければならないのでしょうか? たとえわたしたちがここの御怒りは大患難の一部であると考えたとしても、御怒りが患難に等しいと信じるに足る十分な理由はやはりありません。大患難とは、一方においては、未信者の上に臨む神の刑罰と御怒りであり、他方においては、信者の上に臨むサタンの攻撃と怒りです。信者たちに対するサタンの攻撃は、信者たちを大きな苦難の下にもたらします。 しかし、これは信者たちが神の怒りの下で苦しむことではありません。
B . 「ヤコブにも苦難の時だ」を大患難がユダヤ人のみに該当すると捉えている
これらの者たちは、エレミヤ書第三〇章六節から七節の「ヤコブにも苦難の時だ」は、大患難がユダヤ人だけに対するものであり、異邦人や教会に対するものではないことを示している、と言います。教会はユダヤ人ではないので、これらの者たちの観念によれば、わたしたちは大患難を経過することがないのです。(ダニエル十二・一)
- 反証
もし全聖書に以上の二つの言葉しかなかったなら、大患難は確かにユダヤ人に対するものであるでしょう。しかし、わたしたちは聖書の他の所も見なければなりません。例えば、啓示録第三章十節です。「地上に住む者たちを試みる」。エレミヤ書やダニエル書の預言はユダヤ人に対して語られたものであるので、そこには「ヤコブ」や「あなたの民」などの言葉があるのです。
C . 二十四人の長老たちが教会であると考えている
啓示録第四章一節から四節。この学派を擁護する者たちは、次のように考えます。(一)啓示錄第二章と第三章は、今日の教会時代を指している。(二)啓示録第四章一節は教会を指している。(三)啓示録第四章四節の二十四人の長老たちは、教会が携え上げられ、栄光化されることを表している。(四)啓示録第五章と第六章は、それに続いて大患難の開始を述べている。
- 反証1
しかし、啓示録第四章一節は、全教会に対して語りかけているのではありません。「ここに上れ」と言う時、それはただヨハネに対して語りかけているのです。これは、バトモス島で起こった、達成された事実です。そうでなければ、使徒行伝第八章三九節でピリボが取り去られたことは、彼も携え上げられたことを指すことになってしまいます。
- 反証 2
二十四人の長老たちが栄光化された教会であるということについては、これは本当に無意味です。なぜなら、
(一)二十四というのは、教会の数ではありません。七と七の倍数が、教会を指している数です―― 例えば、七つの教会などです。
(二)長老たちが教会を表しているという所は、聖書の中にはありません。 教会の中に、またユダヤ人の間には、長老がいます。しかし、すべての信者が長老であるわけではありません。神は最初に御使いたちを創造し、次にユダヤ人を選び、最後に教会に恵みを与えられました。どうして長老たちを教会であると考えることができるでしょうか?
(三) 啓示録第四章と第五章では、長老たちが御座の上に座って、金の冠をかぶっており、そしてキリストが立っています。御座と金の冠は王職の表徴ですから、教会はキリストが栄光を受ける前に栄光化されたのでしょうか?
(四)ある人は、長老たちが着ている白い衣は主の義を指しており、彼らは主の血で洗われたのである、と言います。しかしながら、聖書の中には、長老たちの衣が血によって洗われたという記載はありません。罪のゆえに、わたしたちの衣は尊い血によって白く洗われる必要があります。しかし、二十四人の長老たちは決して罪を犯しませんでした。
(五)これらの長老たちは、自分自身では決して救いの歌を歌いませんでした。第五章では、 彼らは救いの歌を歌いました。しかし、彼らは、彼ら自身に言及しているのではありませんでした。彼らは、贖われた者たちに言及していました。聖書の幾つかの訳は、九節の部分を「わたしたちを贖い」と翻訳しています。この翻訳は間違っています。「わたしたち」という言葉は、「人々」であるべきです。神が他の人々を救うことに言及している歌を教会が歌うことは、道理に合いません。
(六)啓示録第四章は、教会、異邦人、ユダヤ人に関して語っているのではなく、全宇宙に言及しているのです。ですから、そこの長老たちは、全宇宙の長老たちです。教会は、全宇宙の長老たちではありません。
(七)啓示録第五章八節によれば、教会は人の祈りを神の御前にもたらすことはできません。
(八)啓示録第七章十三節では、もしヨハネも教会の一部分であるなら、それは教会が教会に尋ねることになってしまいます。
(九)ヨハネは長老たちに「主よ」と呼びかけているのですから、明らかにヨハネの地位は下です。もし二十四人の長老たちが教会であるなら、ヨハネは長老であるのですから、彼は長老たちの間の長老になります。
(十)二十四という数字は文字どおりに解釈されます。それは表徴ではありません。長老たちの間の一人がヨハネと共に語ったのであるなら、どうして教会の二十四分の一がヨハネと共に語ることなどできたでしょうか? 数は定まっているのですから、長老たちもまた定まっています。二十四人の長老たちとは、実は宇宙を統治している天使長たちです。サタンの下にでさえ、君主たちと支配者たちとがいます。
D . 第一テサロニケ4:16-17は携え上げの時までは言っていない
彼らは、「テサロニケ人への第一の手紙第四章十六節と十七節は、携え上げを指しているのではないでしょうか?」と言います。もちろん、それは携え上げを指していますが、それがいつであるかは言っていません。それは、携え上げの事実は述べていますが、携え上げの時は述べていません。これは、携え上げが患難の前であることの証明にはなりません。
E . 終わりのラッパは患難後に鳴らされる
コリント人への第一の手紙第十五章五〇節から五二節は、死んでいる者と生きている者との両方が携え上げられることを示しています。これは携え上げの事実に言及していますが、携え上げが患難の前であるとは言っていません。反対にそれは、携え上げが患難の後、すなわち終わりのラッパの時であることを証明しています。これは、啓示録第十一章十五節の第七のラッパに等しいです。ある人は、ローマの習慣によればラッパは三回吹かれたのであるから、終わりのラッパは第三のラッパであると言います。これは間違っています。なぜなら、聖霊は、啓示を与える時にローマの方法を借りたりはしないからです。それには何の関連もなく、無意味です。
F . 条件付きの約束を無条件に捉えてしまっている。
これらの者たちは、主はルカによる福音書第二二章三六節において、教会が大患難を逃れて、「人の子の前に立つ」ことができることをはっきりと約束された、と言います。これが彼らにとっての携え上げです。
- 反証
しかし、ここでは、この約束には条件があります。それは、再生による救いにかかっているのではなく、目を覚まして祈ることにかかっています。もし人が目を覚まして待ち望んでいればふさわしい者であると見なされるなら、それは目を覚まして祈ることにかかっている約束となります。全教会のすべての人が、目を覚まして祈っているわけではありません。わたしたちはこのことに注意を払う必要があります。
G . 「わたしの忍耐について言ったことばを守るなら…」
啓示録第三章十節が、これらの者たちの最も強い根拠です。しかし、ここもやはり条件のある約束です。このことに基づいてすべての人が患離の前に携え上げられる、と言うことはできません。教会の中では、すべての人がキリストの忍耐についての言葉に従うわけではありません。「わたしの忍耐について言ったことば」とは、何を意味するのでしょうか? 今日、人々は主をののしり、主をのろい、主を否んでいます。それにもかかわらず、主は天からいなずまを送って彼らを殺したりはされません。主は彼らを罰せられません。これが、この時代におけるキリストの忍耐の言葉です。今日、わたしたちはキリストと共に忍耐します。わたしたちは抵抗しません。すべての人がこの忍耐の言葉を守ることが、本当に可能でしょうか?もしそうであるなら、すべての信者は携え上げられることができます。もしそうでないなら、すべての信者が患難の前に携え上げられるわけではありません。もしこのような論法を取るなら、ヨハネによる福音書第三章十六節にしたがって全世界の人々が救われることになってしまいます。しかし、彼らは、 ヨハネによる福音書第三章十六節における「御子を信じる者が」という条件を忘れています。ここの啓示録第三章十節の主の約束は、ヒラデルヒヤの教会全体に対するものでした。彼らは、ヒラデルヒヤは教会の代表であるから、全教会は患難の前に携え上げられると言います。当時の小アジアには七つの教会がありましたが、主のこの約束は七つのうちただ一つにだけ語られました。こういうわけで、ヒラデルヒヤが全教会を代表することはできません。そうでなければ、他の六つの教会の勝利者は携え上げられることができず、患難から救われるという望みを持てません。
まとめ
携え上げの時期について、おもに三つの学派が存在し、患難前の携え上げを支持する学説の聖書的根拠を検証した。彼らの論拠には希望的観測があり、他の反証的な聖書個所を無視したり、聖句の約束が要求する条件を省いたりしている。
参考書籍
ウォッチマン・ニー全集 第一期 第十五巻 マタイによる福音書の学び
出版元:日本福音書房
