主イエスの復活の記事の中で、マルコによる福音書だけが記す特別な言葉「とペテロ」は、聖書を読む者の心を深く動かします。これは、主を三度否み、深く倒れたペテロに向けて、なお主が温かく心を留めておられたことを示す言葉です。本稿では、この短い一言の背後にある、主の深い思いと変わらぬ愛をたどりながら、失敗した者に向けられる神の恵みを味わっていただきたいと思います。
Ⅰ . 特別な言葉
聖書・・マルコ16・7、マタイ28
この二箇所の聖書を読んだ後、その違いに気づかれたでしょうか? マタイによる福音書は、主の復活の後、御使いが女たちに、彼の復活を彼の弟子たちに告げるように言った、と言っています。マルコによる福音書は、御使いが女たちに、主の弟子たちとペテロに告げるように求めていることを記しています。
ああ、「とペテロ」という言葉によって、涙が流れます。四福音書すべては、主の復活の物語を記しています。しかしマルコによる福音書だけに、「とペテロ」という言葉があります。ヨハネは主が愛された者であるのに、なぜ聖書は「とヨハネ」と言っていないのでしょうか? トマスは主の復活を疑ったのに、なぜ「とトマス」と言っていないのでしょうか? 御使いは最高の弟子や最も必要な弟子のことを述べないで、特にペテロを述べました。なぜでしょうか? ペテロと他の人とには、何の違いがあるのでしょうか?
Ⅱ . ペテロの心の声
ペテロはどういう人であったでしょうか? 復活の三日前、ペテロは大きな罪を犯しました。それは、 主に御父の御使いたちの前で彼を告白させなくする罪です。ペテロは主を人々の前で否んだだけでなく、 その当時、人にさげすまれていた女中の前でさえ否みました。ところが主は女たちに、彼の復活について弟子たちとベテロに告げてもらいたかったのです。「とペテロ」という言葉には、何と深い意義があることでしょう! 兄弟姉妹にペテロのような経験があるなら、彼らはこう思うでしょう。…
「ああ、わたしは倒れてしまった。わたしが犯した罪は、普通の罪ではない。わたしはもはや、主に近づくことができないかもしれない。主はすでにわたしを見捨てられただろう。今後、主に重要なことがある時、彼はわたしを連れて行ってくださらないだろう。わたしは変貌の山で彼と共にいた時のような特別な経験を、持つことはできないだろう。ゲッセマネの園でのように、彼と共にいることはできないだろう。わたしは主に、彼のために死ぬと言い、主は、鶏が二度鳴く前にわたしは三度彼を否むと言われた。わたしは、主がわたしを誤解しておられると思った。彼が捕らえられた時、わたしは剣で一人の人の耳を切り落とし、自分は勇敢に主を愛することができると思っていた。ところが、わたしは倒れた。わたしは大祭司や勢力のあるビラトの前では倒れなかったが、女中の質問の前に倒れてしまった。わたしは一度、二度、 主を否み、最後には誓ってまで主を否んだ。ある時、わたしは彼がキリスト、生ける神の御子であると告白した。またある時、わたしは彼に、「主よ、わたしたちはだれの所に行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言った。ところが最終的に、主が十字架につけられようとしている時、わたしは倒れた。わたしは彼を否むという大きな罪を犯した。わたしは悔やんで泣いたが、主はわたしをどのように取り扱われるのか、わからない。わたしが彼を否んだことを彼が知られなければよいのだが、わたしが彼を否んだ時、彼は振り向いてわたしを見つめられた。彼はわたしがしたことを知られた。どうしよう?わたしはあえて、もう彼には近づかない。彼はわたしを愛しておられるが、わたしはあえて彼に近づかない。なぜなら、わたしと彼とを隔てる罪があるからだ。今後は彼に近づくことはできないだろう。
ところが、主は復活された後、何人かの女たちが、特別にわたしに告げるべき言葉をもたらした。
ああ、わたしは三度も主を否んだのに、主はわたしを見捨てられなかった。彼はわたしを恨むことも、憎むこともされなかった。彼の心が思っていたのはわたしであった。彼はほかのだれでもなく、特にわたしのことを言われた。彼はただわたしだけを覚えておられるかのようだ。「とペテロ!」、「とペテロ!』。この言葉は本当に、この世で最も美しい音楽、最もすばらしい訪れだ! もし主が女たちに、弟子たちに告げなさいと言われただけであったら、わたしはもう彼の弟子にふさわしくない、もう彼の弟子ではないと思い、あえて彼に会いに行かなかっただろう。しかし、主が「とペテロ」と言われたので、彼がなおもわたしを欲しておられることがわかる。わたしには彼に会いに行く力はないが、「とペテロ」がわたしを励まして行かせる。女たちがもたらした知らせは本当だ。主は御使いに、わたしの名を特に述べられた。主はわたしを見捨てられなかった。わたしはなおも彼に近づくことができる。立ち上がって彼に会いに行こう!」。
Ⅲ . 主イエスと過ごした日々
倒れて罪を犯したペテロ、主を否んだペテロがいますが、主は特に彼のことを述べられました。これは福音です! 兄弟姉妹、主がひとたびあなたを救われたなら、あなたを永遠に救われたことを、知っているでしょうか? あなたが失望しても、主は決して失望されません。あなたのような罪深い人は、恥じて彼に戻るでしょうが、あなたが罪を犯したその方は、彼に戻ることに何の間違いもないと考えられます。 彼が何とも思っておられないのに、なぜあなたは自分の失敗を思い続けていなければならないのでしょうか? 主が今日、あなたの顔からおおいを取り除くことができるのであれば、あなたは彼を恐れることはなく、あえて彼に近づかないでいることもありません。ペテロは自分が主に言ったことを覚えていました、 「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26・33)。彼はまた、ゲネサレの湖で主の栄光を見た時、言ったことを覚えていたでしょう・・「主よ、私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)。ペテロは自分の真の状態を認識した後、どうしてあえて再び主に会うことができたでしょうか? 彼は主の要求を覚えていたでしょう・・「あなたがたは、 そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」。彼は自分の耳で主の命令を聞いていました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ26・40,41)。彼の状態は主の要求にはるかに及びませんでした。どうして彼は、あえて主に会いに行くことができたでしょう? しかし、彼はともかく主に会いに行きました。彼は「とペテロ」の言葉のゆえに、あえて行きました。兄弟姉妹、あなたが「とペテロ」の言葉の背後にある主の意図を知るなら、なおも彼に向かわないで、彼から離れるでしょうか?「とベテロ」の言葉の深い意義を認識するなら、あなたは主に近づくに違いありません。
Ⅳ . マルコ福音書はペテロ福音書
四福音書の中で、マルコによる福音書だけが、このことを記載しています。マルコはペテロに従い、彼から学んだ青年でした。マルコによる福音書は、ペテロが口述したのをマルコが筆記したものです。「お弟子たちとペテロに・・・・言いなさい」という言葉は、ペテロが特に述べたものです。この言葉は他の人には重要でないかもしれませんが、ペテロの心の中では非常に重要でした。聖霊が聖書を書いておられた時、たとえこの言葉がマタイ、ルカ、ヨハネには重要でないと思われたとしても、マルコによる福音書を口述したペテロには忘れられない重要な言葉であることを、彼は特にわたしたちに示されたかったのです。「とべテロ」には、ペテロにとって特別な意義がありました。毎回この言葉を思い起こすと、甘かったのです。恵みの言葉は特に、恵みを受ける人には記念すべきものです。兄弟姉妹、あなたがパンさきの集会で主を記念している時、まだ心の中で神を恐れているでしょうか?
Ⅴ . 「とあなた」
あなたと神とを隔てている声がまだあるでしょうか?あなたは号泣し、悔いて、主を失望させたことに同意するでしょう。しかし、あなたはあえて主に、「主よ、あなたに来ます」と言うでしょうか? 考えてみてください・・彼があなたを愛するがゆえに進んで十字架に行かれたのであれば、あなたが失敗し、倒れ、 堕落したがゆえに、あなたを愛することをやめられるでしょうか? 彼が十字架上で持っておられた愛は、 減少したのでしょうか?
あなたが彼を愛さず、彼に近づかず、彼に戻らないのはいとも容易です。
しかし、彼があなたを忘れ、あなたを見捨て、あなたを愛さないことは不可能です。
主が十字架につけられた後の三日間、ペテロは倒れたので黙っていました。しかし、主は彼を忘れませんでした。ですから、主に会いに行く力があなたにないなら、あなたが彼の言葉を信じようとする限り、彼はあなたに、彼に近づく力を与えてくださいます。あなたが倒れても、彼はあなたを再び起こすことができます。あなたはもはや彼に近づくことができないかのようですが、信仰の中で「とペテロ」という言葉を思い起こしてください。 そうすれば、彼に近づくことができるでしょう。彼に近づきたくても、彼から遠く離れており、彼に近づく力がないと感じる時、「とペテロ」という言葉を思い起こす必要があります。ペテロが倒れれば倒れるほど、主はますます彼を思い起こされます。ペテロはあえて主に近づきませんでしたが、主の心は彼を引き付け、主から逃げないようにしました。あなたが主の心を誤解することがありませんように。あなたが「とペテロ」という言葉を聞いたことがあるなら、主があなたを見捨てられなかったことを知るべきです。主はペテロを放棄されませんでしたし、あなたをも放棄されませんでした。「とペテロ」は、 「とあなた」―― ペテロのように倒れた「あなた」を意味します。あなたのための主の心を見ますように。主の心を見るなら、あなたは彼に向かって走って行くでしょう。
まとめ
「とペテロ」という言葉は、どれほど倒れ、どれほど自分を責めていたとしても、主が決して私たちを見捨てず、再びご自身へと招いてくださる確かな愛のしるしです。主はペテロを忘れず、恥じて近づけない彼を励まし、立ち上がる力を与えられました。同じように、主は私たち一人ひとりにも「とあなた」と呼びかけてくださいます。主の愛を信じるなら、どんなに弱っていても、再び主へと戻る力が与えられるのです。
参考書籍
「メッセージ記録(二)」ウオッチマンニー全集 第一期 第十八巻
出版元:日本福音書房

