本稿は、主イエスがゲッセマネで祈られた姿から、「杯」と「神のみこころ」の違いを明らかにし、真の従順とは何かを示しています。私たちはしばしば与えられた事柄や方法に心を奪われがちですが、神が求めておられるのは行為そのものではなく、みこころに対する打算のない純粋な応答です。神の現在の導きに従うことの重要性を学びます。
Ⅰ . ゲッセネマネの祈り
わたしたちの主は、ゲッセマネにおられた時に祈られました、「わたしのこころのままではなく、あなたのみこころが行なわれますように」(ルカ22・42)。わたしたちが主を喜ばせることを追い求める上で、二つの事柄がわたしたちの前に置かれています。それは杯とみこころです。「杯」は「みこころ」に対して、いつも二次的なものであるべきです。主は十字架につけられるために来られたのですが、それでも彼は「父よ、みこころでしたら、この杯をわたしから取り去ってください」(ルカ22・42)と祈られました。 なぜでしょうか? これは、わたしたちには理解し難いことです(参照、ヨハネ12・27)。
主は、「みこころでしたら、この杯をわたしから取り去ってください」と祈ることはできました。しかし、彼にとって「もしできるのでしたら、わたしにあなたのみこころを行なわせないでください」と祈るのは、不可能なことでした。
わたしたちは杯と直接何のかかわりも持たず、ただみこころとかかわっているのです。わたしたちは十字架を、それが十字架であるがゆえに取るのではなく、ただそれが神のみこころであるがゆえに取ります。「聞き従うことは、いけにえにまさります」(サムエル上15,22)。
杯とは、神のみこころに関連した「事柄」を表しており、わたしたちは容易にそれらによって心を奪われてしまいます。しかし、主は全く父のみこころによって占有されていました。主は杯を飲まれましたが、 彼が杯を飲んだのはその杯のゆえではありません。そうではなく、それが神の彼に対するみこころであったからです。神のみこころを追い求める上での最大の危険は、わたしたちが彼の示してくださった何かによって占有されてしまい、それがある種の固定観念となってしまうことです。しかしながら、最後の瞬間に至っても、主はその杯を断念することができました。
Ⅱ . アブラハムの柔軟さ
わたしたちは、主がわたしたちに示してくださった何かにしがみついてはいないでしょうか? 神のみこころがわたしたちにとってすべてでしょうか? わたしたちは完全に神のみこころによって縛られているべきです。わたしたちの態度は、次のようであるべきです、「わたしは神のみこころのために存在します。その他のいかなるもののためでもありません」。アブラハムは、神を知っており、また神のみこころを知っていました。しかし、彼は二つの異なる命令を受けました。 アブラハムは何と言ったでしょうか? 彼は「あなたはイサクをささげるようにわたしに命じられました。ですから、わたしはイサクをささげに行きます」と言ったでしょうか?「神は、イサクをささげる生活をするようにわたしたちを召されたのではなく、彼のみこころを行なう生活をするようにと召されたのです」。わたしたちがそのような動きを経過したので、必然的にわたしたちは神のみこころを行なっているのだと考えるべきではありません。最後の夜に至っても、主は依然として十字架に関して確認しておられました。もし神がわたしたちにこれがみこころであると示されたならば、わたしたちは彼の力がそれを成し遂げることを信頼すべきです。わたしたちは「神のみこころといつも直接的にかかわっているべきです」。わたしたちが何かを行なうか行なわないかは、わたしたちにとって大きな事柄ではなく、わたしたちが待たなければならないとしても、大して問題にはならないというのでなければなりません。わたしたちは、神がわたしたちの心を物事から引き離し、わたしたちを神のみこころにとどめておくようにと求める必要があります。「父よ、これはあなたの現在の導きでしょうか?」。
もしわたしたちが自分で物事を成し遂げようとするのなら、
わたしたちは霊的でない力を用いなければならないでしょう。
わたしたちは本当に柔軟であるべきです。わたしたちは止まって、一歩後ろに下がるか、物事を取り消すことでさえ恐れるべきではありません。神は生きておられる神です。神には生きたみこころがあるのです。ある日、神はイサクをささげるようにと、わたしたちを召されるかもしれません。次の日に、神はイサクを連れ戻すようにと、わたしたちを召されるかもしれません。わたしたちはイサクを殺すということに占有されてはなりません。もしわたしたちがただみこころにのみ心を留めて、物事に心を留めないのであれば、それを止められてもわたしたちにはいかなる苦痛もありません。もし止められることが苦痛をもたらすのであれば、これはわたしたちの何かがそこに忍び込んでいたということを示します。「主よ、わたしは自分のためには何もほしくありません。わたしはただあなたのみこころだけがほしいです」。
物事に対する期待が何もない時、わたしたちは平安の生活を過ごすことができます。
そこには何の失望もないからです。
Ⅲ . 杯は「軽く」握る
わたしたちの問題は、しばしばわたしたちが何をすべきかについてあまりにも確信し過ぎているということにあります。わたしたちはむしろ祈るべきです、「主よ、わたしはあなたのみこころを失いがちです」。 わたしたちは間違いを犯す領域を超越した境地に達したと決して言うことができません。すべての杯はとても軽く握られているべきです。元へ戻すことができるのは、祝福されたことです。このような態度は、 神の御前でわたしたちを最も柔軟な状態に保ちます。パウロの人生に幾つもの「停止」があったことを、使徒行伝は記録しています! わたしたちのうち果たして何人が、神によって止められることができるでしょうか? 砕かれていること、そして柔軟であることは、いけにえをささげることよりも重要です。わたしたちは「物事」といかなる関連も持つべきではありません。わたしたちは、かつて神が示された彼の欲するものではなく、彼が今、欲しておられるものを愛したいものです。神の「現在の」みこころを行なうように用意ができていなければなりません。
Ⅳ . 神のみこころを自分色に染めない
ヨハネによる福音書第6章38節は言います、「なぜなら、わたしが天から下って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行なうためだからである」。神のみこころは、わたしたちの気質とは何の関係もありません。多くの時、わたしたちは人がどのような種類の導きを受けたかで、その人がどのような人であるかを知ることができます。なぜなら天然の強さがしばしば神のみこころの中に入り込むからです。これほど深刻な事はありません。純粋な神のみこころは、「わたしたち自身」が除外されたところにあります。神の子供たちの間の導きには、あまりに多くの個人的な害悪が含まれています。臆病な兄弟は、いつも後方の席を取るようにと「導かれ」ます。でしゃばりの兄弟は、いつも前列の席を取るように「導かれ」ますが、双方とも「導かれた」と主張します。「自分の意志ではなく」とは、それがわたしたちに何の関係もないということを意味します。神のみこころをわたし自身のために色付けすべきではありません。わたしたちは天然の強さを終わらさなければなりません。天然の強さは非常に深く切断され、徹底的に除き去られなければなりません。ある人が混ざり物のない純粋な所にもたらされるのは何と良い事でしょう。その霊はすべての事柄を識別します(Ⅰコリント第2章)。天然の命は、神聖な事柄から分離されなければなりませんし、天然の強さは打ち崩され、その背骨は砕かれなければなりません。わたしたちは周りにいる人たちがわたしたちを主がどのように導いておられるのか見当もつかないというほど、その霊に満たされているべきです。わたしたちに何か天然のものがある場合のみ、他の人々はわたしたちを識別することができるのです。
まとめ
神に従うとは、特定の行為や形に固執することではなく、常に神の「今のみこころ」に応答することです。杯は手段にすぎず、本質はみこころにあります。私たちは自分の思いや性格を混ぜず、柔軟で砕かれた心をもって導きに従う必要があります。過去の経験や理解に縛られず、生きて働かれる神に従うとき、真に神のみこころを行う歩みが可能となります。
参考書籍
「特別集会、メッセージ、談話の記録(六)」ウオッチマンニー全集 第二期 第四十六巻
出版元:日本福音書房
