神のみこころがわからない… – みこころを知る3つの鍵 – 初信者シリーズ20

神のみこころがわからない… – みこころを知る3つの鍵 – 初信者シリーズ20

(この記事は9,189文字で、22分で読み終えることができます。)

クリスチャンになると就職、結婚、日常生活に関わるあらゆる出来事において神のみこころが何であるのかを求めます。ある人は、「神に祈っても答えられない」と不平を漏らします。まず神のみこころを知る前に、重要なことを述べます。ヨハネによる福音書第7章17節は言います、「だれでも彼のみこころを行おうとするなら、・・・知るであろう」。

多くのクリスチャンが神のみこころを知りたいと願うのに、その答えが得られません。その理由は、彼らは根本的に神のみこころのままに行いたいという願いがないからです。彼らはただ、神のみこころを尋ね求める方法を持ち出して一つの知識にしてしまっているという事実があるからです。彼らには自分の願いがあって、ただ神に自分の助言者になってもらい、神のみこころを持ち出して参考にしているにすぎません。覚えておいてください。神のみこころは、ただそのとおりに行ないたいと思う人たちにのみ知らされるのです。ですから、神のみこころを知りたいなら、そのみこころどおりに行なおうと決意しなければなりません。これはとても重要なことです。

このことを踏まえた上で、どのようにして神のみこころを知ることができるのかを交わりたいと思います。

Ⅰ. 神のみこころどおりでなければならない

救われる前、わたしたちはすべて自分の心のままに行なっていました。当時は自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。しかし、今日わたしたちは主を信じる人となりました。彼はわたしたちの仕える主であり、わたしたちは主に買い戻された者、主に属する者、主に仕える者であることを認めました。ですから、救われた後、わたしたちには一つの根本的な変化がなければなりません。それは、わたしたちの行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、神のみこころどおりでなければならないということです。

ですから、いったん救われたなら、まず「主よ、わたしは何をすべきでしょうか?」と問うべきです。何かの出来事に遭遇した時、「主よ、わたしの意志のままではなく、あなたのみこころのままになさってください」と主に言うべきです。

わたしたちの得た命は、わたしたちの内側で神のみこころにしたがって歩むようにという基本的な要求をします。神のみこころどおりを行なえば行なうほど、内側にますます喜びがあります。わたしたちがクリスチャンになったなら、神のみこころを受け入れることと、神のみこころにすべてを支配させることを学ばなければなりません。もし神のみこころの下に従順に服することができるなら、回り道をすることが少なくてすみます。多くの人が失敗し、多くの人が命の成長に欠けるのは、自分の意志のままに行なうからです。

Ⅱ. どのようにして神のみこころを知るか

多くの場合、わたしたちのような地上の人が神のみこころを知ることなど、口で言うように簡単にはいかないと思っています。しかし、わたしたちが神のみこころを行ないたいと思っている以上に、神ご自身がみこころを行なってほしいと思っておられます。そのために、神は必ず適切な方法を用いてご自身のみこころがどのようなものであるかをわたしたちに知らせてくださいます。これは神の責任です。わたしたちはこれを信じる必要があるだけです。

それでは、どのような方法で神のみこころを知るのでしょうか?それは三つの事を通してです。第一に「環境の按配」、第二に「聖霊の導き」、第三に「聖書の教え」です。この順番は重要性にしたがったものではありません。ただ三つの事があると示したにすぎません。この三つの事柄の証しが同じであり、一つの路線上で一致する時、それを神のみこころであると断定することができます。もし三つのうちの一つが他の二つと一致しないなら、まだ待つ必要があります。三つがすべて一致する時にこそ、わたしたちはそれを行なうことができます。

A. 環境の按配

ルカによる福音書第12章6節では、「五羽のすずめが二アサリアで売られているではないか?」と言い、マタイによる福音書第10章29節では、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか?」と言っています。一アサリオンで二羽のすずめが買えるとすれば、二アサリオンでは四羽のすずめしか買えない計算になります。しかし主は、ニアサリアで五羽のすずめが買えると言われました(アサリアとアサリオンのギリシャ語は同じ)。一アサリオンで二羽、ニアサリアでは四羽とさらに一羽買えるということは、すずめがとても安いものであることを見せています。しかし、そのように安いすずめであっても、もし神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることがないのです。このことは、すべての状況が神の許可を経なければ起こらないことを見せています。もし天の父が許されなければ、すずめ一羽でさえ地に落ちることがないのです。

人の髪の毛が何本あるかを数えることは困難です。しかし主は、「あなたがたの頭の毛でさえ、すべて数えられている」と言われます(マタイ10:30)。「数えられている」というのは、原文によれば「番号をつけられている」と訳すこともできます。自分の頭の毛が何本あるか知っている人はいないでしょう。まただれも自分の頭の毛を数え上げることはできないでしょう。しかし、神はわたしたちの頭の毛を全部数え上げ、番号をつけておられます。わたしたちの神はこんなにも細かく、こんな事でさえいい加減にはなさいません。

このことから、わたしたちは主を信じたらすぐに、神のみこころを環境から知ることを学ばなければなりません。わたしたちの遭遇する事に、一つとして偶然はありません。すべての事は主によって計られています。あなたの仕事、環境、夫、妻、両親、子供たち、親族、友人、すべての事を、神はあなたのためにうまく按配してくださっています。ですから、環境の中で神のみこころを知ることを学ぶ必要があります。これが信者の最も基本的な学課です。

B. 聖霊の導き

神の御手は環境の中で現れますが、神の真の願いは、わたしたちを内側にあって導きを与えることです。ローマ人への手紙第8章14節は言います、「なぜなら、神の霊に導かれている者はみな、神の子たちであるからです」。わたしたちは神の子供たちであり、神の命を持っていますから、神は環境の中でわたしたちを導いてくださるだけでなく、またご自身の霊を通してわたしたちの内側で語り、導いてくださいます。

エゼキエル書は、「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える」(エゼキエル11:19)と言い、さらに再び「あなたがたのうちに新しい霊を授ける。・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け」(エゼキエル36:26-27)と言っています。「新しい霊」と「わたしの霊」は違うことを見分ける必要があります。「わたしの霊」は神の霊です。「新しい霊」は、わたしたちが新しく生まれた時に得た霊です。この新しい霊は、一つの部屋、一つの家のようなものであり、神の霊を住まわせることができるところです。もし内側にこのような新しい霊がなければ、神はご自身の霊をわたしたちに与えることはできません。昔からずっと神はご自身の霊をわたしたちに与えようとしてこられました。しかし、人の霊は汚れており、旧創造のもので罪に満ちており、しかも死んでいますから、神の霊を人のうちに住まわせることは不可能です。人が神の御前で新しく生まれて新しい霊を持ってはじめて、神の霊を受け入れることができ、神の霊は人のうちに住むことができるのです。

聖霊の働きは二つに分けることができます。一つは内側の促しです。例えば、使徒行伝第8章29節では、「するとその霊はピリポに『近づいて、あの馬車と一緒になりなさい』と言われた」とあり、使徒行伝第10章20節では、聖霊がペテロに「さあ、立ち上がり、下りて行き、何も疑うことなく彼らと一緒に行きなさい」と告げています。これは内側の促しです。

もう一つは内側の禁止です。例えば、使徒行伝第16章6節から7節では、「また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった」とあります。これらはみな内側での禁止を指しています。

初信者の兄弟姉妹が神のみこころを知りたければ、内側の感覚を少しは知らなければなりません。神の霊は、人の最も内側の場所に住んでおられますから、聖霊の感覚は浅薄なものではなく、外面的なものでもなく、最も深みから出てくるものです。声のようでなくてもやはり声のようでもあり、感覚のようでなくてやはり感覚のようでもあるのです。もしあなたが命のある人なら、この命に従順に歩みさえすれば、正しいと感じるでしょう。

しかし、注意すべきことは、内側の感覚を過度に分析してはいけません。これは正しい、これは間違っていると分析し続けるのでしたら、一日中それをしていてもはっきりしません。ある人は、霊の感覚とはどんなものか、魂の感覚とはどんなものかと、そればかり注意して分析しています。これは全く不健康な状態です。これは一種の霊的病気です。実は、人が分析するのは、光が十分にない時だけです。もし光が十分であれば、すべては自然に明らかになり、時間をかけて分析することなど少しも必要でないはずです。

C. 聖書の教え

神のみこころは環境の中で明らかにされるだけでなく、またわたしたちの内側に住んでおられる神の聖霊を通して知らされるだけでなく、聖書を通しても知らされます。

神のみこころは永遠に変わりません。過去の人々は多くの事に出会いましたが、神はその中でご自身のみこころを明らかにしておられ、その事はみな聖書に記載されています。ですから、神のみこころについては、すでに多くの原則、模範が聖書に記されています。神のみこころを知りたければ、真剣に聖書を読まなければなりません。神のみこころは決して、ある時はこうで、またある時は別であるということはあり得ません。キリストにあっては、ただ「しかり」があるだけです(Ⅱコリント1:19)。わたしたちに対する神のみこころが聖書の教えと反することは決してありません。神が聖書の中で間違いであるとしているのに、今日、聖霊がわたしたちを導いてそれをさせるようなことは決してあり得ません。

神が聖書を通してわたしたちに語られる言葉は、二つに分けることができます。一つは聖書の原則的教えであり、もう一つは聖書の約束の言葉です。聖書の原則的教えは、聖霊の照らしによって明らかにされるものです。聖書の約束の言葉は、聖霊の導きによって得られるものです。例えば、マタイによる福音書第28章19節から20節の主の命令の中で聖霊が告げるのは、クリスチャンは人々に福音を宣べ伝えるべきであるということですが、これは聖書の原則的教えです。しかし、もしあなたがある所に行って福音を伝えたい時に、これが神のみこころであるかどうかという問題は、聖霊の導きによって解決される必要があります。あなたは神の御前で多く祈り、神が言葉を与えてくださるように求めるべきです。ある日、聖霊が聖書の中からある言葉を、あるいはある個所を、力強く、新鮮に、生き生きとあなたの内側に置かれるでしょう。それが聖霊があなたに与える約束の言葉です。このようにして、それが神のみこころであるかどうかを知り始めるのです。

Ⅳ. 神のみこころを知る具体的な例

さて、この三つの事柄を一緒にしてみましょう。この三つの順番は定まっていません。ある時、まず環境の按配があり、それから聖霊の導きと聖書の教えがあります。またある時は、まず聖霊の導きと聖書の教えがあって、それから環境の按配が来ます。環境の按配は、神の時と関係があります。ムーディー兄弟は神のみこころを求める時、常に三つの事を問いました。第一に、この働きは神の働きであるか?第二に、この働きは神がわたしに行なわせたい働きなのか?第三に、この時は神の時であるか?第一と第二の問いは、聖書の教えと聖霊の導きから解決することができますが、第三の問いは、環境の按配を見てはじめてわかります。

もし内側の感覚が聖霊の導きであるかどうかを知りたいのでしたら、わたしたちも二つの問いをしなければなりません。第一に、聖書の教えに合っているかどうか、第二に、環境の按配があるかどうかです。もし聖書の教えに合わなければ、それは神のみこころではありません。もし環境の按配がなければ、それは待つ必要があります。もしかすると、わたしたちの感覚が間違っているのかもしれませんし、あるいは神の時がまだ来ていないのかもしれないからです。

神のみこころを求める上でわたしたちが学ぶべき学課は、間違うことを恐れ、主観的にならないことです。わたしたちは神に対して、神のみこころでない道をみなふさいでくださるように求めることができます。

例えば、ある人があなたを招いて働きをさせて、あなたが何かをしようとするとします。あるいは、ある人があなたに自分の前途について再考慮するように勧めるとします。その時、あなたはどのようにしてそれが神のみこころであるかどうかを知りますか?まず聖書の教えを見ます。神が御言葉の中でこのことについてどう教えておられるかを見ます。それから、自分の内側がどう感じるかを問います。聖書はこのように教えているが、あなたの内側では正しいと感じるでしょうか?もし内側の感覚と聖書に書かれていることが違っていれば、それは内側の感覚に全く信頼するわけにはいかないことを証明しているのですから、少し待つべきです。そしてまた尋ね求めます。

もし内側の導きと聖書に書かれている事が一致しているなら、頭を上げて言ってもよいでしょう、「主よ!今までは、あなたのみこころは環境の中で現されてきました。わたしの内側の感覚と聖書の教えが同じであっても、環境はそうでないということは今までありませんでした。主よ!どうか環境を十分に整えてください。環境と聖書の教えと聖霊の導きとを一直線に整えてください」。このようにしてあなたは、神が確かに環境の中でご自身のみこころを現されるということを見るでしょう。もし神のみこころであれば、神がわたしたちに外側で見せていることと、わたしたちが内側で見ていることと、聖書の中で見ることとは、必ず一直線上にあるのです。あなたの内側がはっきりしており、聖書の教えがはっきりしており、環境もはっきりしていれば、神のみこころに対してもはっきりするでしょう。

Ⅴ. 教会の承認とその他の要素

神のみこころは、神の言葉の中や、人の霊の中や、環境の中に現れる以外に、教会の中にも現されます。もしあなたがある事のために神のみこころを尋ね求めるなら、一方において内側ではっきりとした聖霊の導きを受け、聖書の教えと一致するようにし、環境の按配もあるべきですが、もう一方において、もし機会があれば、あなたがみこころについてさらに把握を持つために、教会の中で神を認識している人たちと少し交わることが良いでしょう。

A. 教会の承認

彼らがあなたの思っていることに「アーメン」を言えるかどうかを見ることは大いに助けになります。彼らは聖書についてかなりの認識がありますし、肉もかなりの対処を受けてきましたし、聖書の支配の下に生きており、霊的状態も神が彼らを通してご自身のみこころを語り出すことができる状態ですから、教会の中で現れているあなたの状態にしたがって、あなたの見ているものに関して「アーメン」を言うことができるかどうかを感じることができます。

もし彼らが「アーメン」を言うことができれば、あなたは神のみこころについて確信を持つことができますが、もし彼らが「アーメン」を言うことができなければ、あなたはさらに待つ必要がありますし、さらに確実になるように神に尋ね求めなければなりません。というのは、わたしたち個人には限りがあり、個人の感覚、聖書の教えについての個人の了解、環境の按配に対する個人の認識には誤りがあったり、十分正確でなかったりすることがあるからです。しかし、教会は比較的頼りになります。もし教会の中の他の肢体たちがあなたの得た「導き」についてみなあまり信用できないとする時は、自分の意見に固辞してはなりません。このような状況になったら、へりくだることを学ばなければなりません。

主イエスは言われました、「あなたがたが地上で縛るものはすべて、天で縛られていたものであり、あなたがたが地上で解くものはすべて、天で解かれていたものである」(マタイ18:18)。教会は神の住まい、神の光のある所ですから、神のみこころが教会の中で明らかになることを信じなければなりません。わたしたちはへりくだった態度を持つべきです。自分の見方に誤りがあることを恐れるがゆえに、教会との交わりが必要であり、からだの供給が必要なのです。

しかし、わたしたちは極端へと走るのを防がなければなりません。あるクリスチャンは受け身になりすぎて、何でも教会に聞きに来て、別の人に代わりに決めてもらおうとしますが、これは根本的に新約の原則に反しています。わたしたちは教会の中の霊的な人たちを旧約の預言者のように見て、あらゆることを彼らに教えてもらおうとしてはいけません。ヨハネの第一の手紙第2章27節は言っています、「あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません。彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます」。この油塗りはわたしたちの内側に住んでいる聖霊です。教会の承認を、この油の教えに代えることは絶対にできません。教会の承認は預言ではありません。それは、わたしたちの見たものと教会の見ているものとを照合して、神のみこころについてさらに確信を得るための機会なのです。ですから、それは個人が神のみこころを尋ね求めることの保護であって、個人が神のみこころを尋ね求めることに取って代わるものではありません。

もう一点知っておくべきことは、先に述べた神のみこころを尋ね求める方法についてですが、それはみな比較的重大な事について応用するものであって、日常生活の中の些細な事の場合にはこのような方法で尋ね求める必要はなく、人としての常識にしたがって決定すれば十分です。

B. その他の要素

幻と夢についてほんの少し触れておきましょう。旧約では、神は多くの幻や夢を通してご自身のみこころを人に告げられました。新約でも幻や夢はありますが、神はそれらを主要な導きとしてはいません。新約の特徴は、神の霊がわたしたちの内側に住んでいるので、神は直接わたしたちの内側で語りかけることができることです。ですから、主要な通常の導きとは、内側の導きです。神が特に重要な事を知らせたいが、普通の状態ではわたしたちがその導きを受けるのが難しい時には、幻や夢の導きを与えられるでしょう。新約では、幻や夢は神の導きの普通の方法ではありません。ですから、それが妥当で確かなものとなるためには、幻や夢を見せられても、さらに内側の証明と環境の証明を求めなければなりません。

例えば、使徒行伝第10章で見せていますが、神はペテロに異邦人に福音を宣べ伝えに行くよう求められました。ペテロはユダヤ人であり、その習慣によれば、決して異邦人の所に行こうとはしません。そこで神はペテロのこの観念をくつがえすために幻を見せたのです。ペテロが幻を見た後、環境の按配上では、コルネリオから遣わされた三人の人が尋ねて来て、もう一面において、聖霊もペテロに語りかけています。これら内側と外側の証明があってはじめて、これは神のみこころであると確信することができます。

あるクリスチャンは、いわゆる幻や夢を多く見るので、それがすっかり日常茶飯事になってしまっています。これは一種の霊的病気です。それは、神経が衰弱しているか、サタンの攻撃を受けているためか、悪霊によって惑わされているかでしょう。いずれにしても、それは不正常な現象です。

結論として、神がわたしたちを導かれる方法は多方面にわたっています。各自の霊的状況は異なっていますし、必要も違いますから、神がそれぞれを導かれる方法も同じではありません。しかし、一般的な方法は、やはり環境の按配、内側の導き、聖書の教えです。ここで繰り返し言いますが、もしこの三点がはっきりと一直線上にあるなら、神のみこころについてかなりの確信を持つことができるでしょう。

Ⅵ. 神のみこころを知っている人

最後に、方法がすべて正しくても、すべての人が神のみこころを知ることができるとは限りません。正しい方法が役に立つのは、人も正しい時だけです。反逆的な人が神のみこころを知ろうとしても、それは無駄です。神のみこころを知ろうとするなら、内側からこのように求めるべきです、「主よ、わたしはあなたのみこころどおりを行ないたいです!」。

申命記第15章17節にある、奴隷の耳を戸に刺す事が見せていることは、もし神に仕えたいなら、あなたの耳はひたすら神の言葉に聞き従わなければならないということです。あなたは主の御前に来て言うべきです、「わたしの耳を戸の上に刺し通してください。あなたの言葉に釘づけられたいと願います。わたしはあなたに仕えたいです。どうかあなたの言葉を聞かせ、あなたのみこころを知らせてください」。わたしたちは耳が戸の上に釘づけられるように、主の言葉に耳を傾けなければなりません。

神のみこころを知ることは小さな事だと決して思うべきではありません。神の目には、わたしたちは虫けらです。このような小さく卑しい人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!わたしたちのように極限まで腐敗している人が神のみこころを知ることができるとは、何と驚くべきことでしょう!神はご自身を低くしてわたしたちにみこころを知らせてくださるのです。ですから、わたしたちは神のみこころを知ることを学び、伏して礼拝し、神のみこころを尊び、神のみこころを行なわなければなりません。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十七編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

主に倣うのではなく、主に生きていただく- 勝利を得る命 – 初信者シリーズ19

主に倣うのではなく、主に生きていただく- 勝利を得る命 – 初信者シリーズ19

(この記事は6,803文字で、17分で読み終えることができます。)

多くのクリスチャンは主に対して間違った考えを持っています。すなわち、主は地上にあってわたしたちのためにすばらしい模範を残されたので、わたしたちはそれに倣うべきであるとしていることです。確かに、聖書は主に倣いなさいと命じています(Ⅰコリント11:1など)。しかし、聖書は決して自分自身によって主に倣うようにとは言っていません。わたしたちはまずあるものを見てはじめて、主に倣うことができます。多くの人はいつも主に倣いたいと思いながら、いつも失敗しています。彼らは、人がどんなに駄目であるかを知りませんし、人の肉の力には絶対に主に倣う方法がないことを知りません。

あるクリスチャンは、聖書は「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行うことができるのです」(ピリピ4:13)と告げていると言います。ですから、彼らは主に力を求めるのです。彼らは多くの事をすべきである、聖書の多くの命令を守るべきである、主の多くの模範に倣うべきであると感じますが、自分には力がないので主に力を求めるのです。彼らは、もし主が力を与えてくださるなら、すべての事をすることができると思っています。それで多くの人は、毎日毎日、主が力を与えてくださるようにと主を仰ぐのです。

力を与えてくださるように主に依り頼むことは正しいです。しかし、主が力を与えてくださること以外に、見なければならない一つのことがあります。もしそれを見ないなら、主に力を与えてくださいと仰いでも、ずっと力のないままでいることになります。主に力を求めることは良いことです。しかし、時にはこの祈りは答えられますが、時にはこの祈りは答えられないかのようです。そうであれば、主が力を与えられた時はすべての事ができて、主が力を与えられない時はどんな事もできないということになります。ですから、多くのクリスチャンはよく失敗するのです。

Ⅰ. キリストはわたしたちの命である

聖書の中で見せている主とわたしたちの関係はいったい何でしょうか?それは「キリストはわたしたちの命である」ということです。キリストがわたしたちの命となってこそ、わたしたちは主に倣うことができます。「キリストはわたしたちの命である」とは何をいうかがはっきりしないなら、わたしたちには主に倣うすべはありません。ですから、「キリストはわたしたちの命である」という秘訣がまず明らかになり、まずこれを見て、まずこれを得て、そうしてはじめてキリストに倣うことができるのです。

Ⅱ. わたしたちにとって生きることはキリストである

多くのクリスチャンは、ピリピ人への手紙第1章21節の「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、」という御言葉についてとても大きな誤解をしています。パウロの言っている「わたしにとって生きることはキリストであり」とは、一つの事実なのです。それなのに彼らは「わたしにとって生きることはキリストであり」を一つの目標、あるいは一つの望みにしているのです。実際パウロは、「わたしにとって生きることはキリストであり」という目標があると言っているのではありません。パウロは、わたしが生きることができるのはキリストがあるからであり、もしキリストがなければわたしは生きることができない、と言っているのです。これは彼の事実であって、目標ではありません。これは彼の生活の秘訣であって、望みではありません。彼の生活はキリストです彼が生きることは、キリストが生きることです

ガラテヤ人への手紙第2章20節の「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という御言葉は、多くのクリスチャンがとてもよく知っている一節です。しかし、多くの人はこの節をピリピ人への手紙第1章21節よりもさらに誤解しています。彼らはガラテヤ人への手紙第2章20節を彼らの目標とし、神の御前で祈り求め、熱望し、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」という境地に達したいと望みます。彼らはいつかわたしもパウロのようになり、キリストがわたしの中に生きておられるようになりたいと願います。

しかし、わたしたちの過去の経験によれば、このように願った人がこの目標に到達し得たのをいまだに見たことがないと言えるだけです。もしあなたがそれを目標とするなら、もしその境地に達することを願うなら、もし十字架に釘づけられることを願うなら、もし生きるのはあなた自身ではなくてキリストがあなたの中に生きることを願うなら、いつまで、何年何月まで待たなければならないかわかりません。なぜなら、これはあなたには絶対にできないことだからです。

これは、神がわたしたちに与えられたすばらしい恵みであることを、わたしたちは知らなければなりません。このすばらしい恵みの中に一筋の出口があり、すべて失敗した人に勝利を得させ、すべて汚れた人を清くし、すべて俗な人を聖とし、地に属するすべての人を天に属させ、肉に属するすべての人を霊的にすることができます。これは方法であり、目標ではありません。この方法は、代わりの命によります。主の恵みの中に、代わりに死ぬことがあるのと同様に、代わりに生きることもあります。

主は十字架上で、わたしたちに代わって罪を担い、死ぬことによってわたしたちを死から免れさせ、わたしたちの罪は赦しを得て、裁きを免れました。同様に、ここでまたパウロは、主はわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きることを免れさせてくださると告げています。この意味はとても簡単です。すなわち、キリストがわたしたちの中に生きてくださり、わたしたちが生きる必要はないということです。キリストが十字架上でわたしたちの代わりに死なれたように、今日、キリストはわたしたちの中でわたしたちに代わって生きてくださいます。パウロは、わたしは自分が生きないことを願っている、キリストに生きてもらうことを願っている、と言っているのではありません。彼は、わたしは生きない、キリストが生きてくださる、と言っているのです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これが勝利の秘訣であり、これが勝利を得る方法です。

死を免れることは大いなる福音です。同様に、わたしたちが生きる必要はないということも大いなる福音です。主があなたをあわれんで光を与えてくださいますように。

A. キリストがわたしたちの中で生きる

もしわたしたちがこれを見なければ、証しを維持したり、クリスチャンの生活を維持したり、試みを拒絶したり、十字架を負ったり、神のみこころにしたがうことは、大変な重荷であると感じるでしょう。主を信じる多くの人は、クリスチャン生活を維持することは大変なことであり、しかもとても力まなければならないと思っています。こういう状況は、彼らが間違った方法でクリスチャン生活を送っていることを示しています。パウロは言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これがクリスチャン生活の秘訣です。主があなたの中でクリスチャンになってくださるのであって、あなたがあなたの中でクリスチャンになるのではありません。もしあなたがあなたの中でクリスチャンになるのであれば、忍耐は苦痛であり、愛も苦痛です。へりくだりも苦痛ですし、十字架を負うことも苦痛です。もしキリストがあなたの中で生きてくださるのなら、忍耐は喜びであり、愛も喜びです。へりくだりも喜びですし、十字架を負うことも喜びです。

ここに大いなる福音があります。神はあなたが善をすることを求めません。また善をしようとする意志も求めません。神は、キリストがあなたの中で生きることを求められます。神が注意されるのは、善を行うか行わないかの問題ではなく、「だれ」が善を行うかの問題です。わたしたちがキリストに倣うのではなく、わたしたちがキリストの力を得るのではなく、「キリスト」がわたしたちの中で生きられるということです。

生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20前半

Ⅲ. わたしはすでにキリストと共に十字架につけられた

あなたはこのような質問をするかも知れません。「どのようにすれば生きているのはもはやわたしではないとなるのでしょうか?」この「わたし」はどのようにすれば除き去られるのでしょうか?この問題の答えは、ガラテヤ人への手紙第2章20節の「わたしはキリストと共に十字架につけられました」です。

わたしたちの内側の目が開かれて、主イエスが十字架上で死なれた時、神はわたしたちをキリストの中に置いて、キリストと共に死なせられたことを、わたしたちは見る必要があります。これは神の側での働きです。あなたは、主イエスがあなたの罪を担ってあなたの代わりに死なれたことを信じました。それは約2000年前の出来事でした。同じように、主イエスが十字架に釘づけられた時、神はあなたという人をも共に十字架上で対処されました。あなたの罪が約2000年前に解決されたように、あなたという人もまた約2000年前に解決されました。神があなたの罪を主イエスの身に帰されたその時に、神はあなたという人をも主イエスの身に帰されたのです。十字架上であなたの罪は終わりました。十字架上であなたという人も終わりました。キリストと共に十字架につけられることを望むのではありません。すでにキリストと共に十字架につけられたのです。わたしたちはすでに終わらされているのです。

聖書は、幕屋の中の垂れ幕にはケルビムが織り出されていると告げています(出エジ26:1)。主イエスが世を去られた時、垂れ幕が裂けました(マタイ27:51)。そして当然ケルビムも裂けました。この垂れ幕は主イエスの肉体を指しています(ヘブル10:20)。ケルビムには人の顔、獅子の顔、牛の顔、わしの顔がありました(エゼキエル1:10,10:20)。ケルビムは被造物を代表しています。主イエスの肉体が裂かれた時、神は被造物を主イエスの中に置いて、みな一緒に裂かれました。ですから、旧創造すべてが過ぎ去りました。キリストが十字架上に釘づけられた時、旧創造全体が裂かれました。あなたもそこにおいて裂かれたのです。

この真理について、あなたは必ず信じなければなりません。罪は十字架上にあり、人もまた十字架上にあります。あなたの罪はすでに担われ、あなたという人はもはや釘づけられて死んでいます。これはキリストがなさった事です。多くの人が失敗するのは、いつも自分の内側を見つめるからです。信仰のある人は、十字架上を見つめるべきであり、キリストが成し遂げられたことを見るべきです。神はわたしをキリストの中に置かれたのですから、キリストが死なれたのであれば、わたしも死んだのです。

A. 十字架は人に対する神の決断である

しかし、どうしてあなたという「人」は今日なおも生きているのでしょうか?あなたは釘づけられて死んだのに、どうしてまだ生きているのでしょうか。この問題を解決するためには、あなたは信じる必要がありますし、意志を用いて自分を神の側に置く必要があります。「死」とは、人が弱くなり、さらに弱くなり、極みまで弱くなって、これ以上弱くなれないほどまで徹底的に弱くなることです。多くの人は自分の弱さを認めません。自分に対して多くの要求があるなら、その人はまだ死んでいません。

今日、多くのクリスチャンが、自分はダメなのにやはり行おうとします。例えば、ある人が忍耐できない時、どうするでしょうか?もし彼が自分で忍耐しようとして、力を尽くして忍耐し、祈る時も忍耐を求め、働く時も忍耐を思うとしたら、忍耐すればするほどますます忍耐できなくなるでしょう。彼は次のように言うべきです、「主よ、あなたはすでに、この忍耐できないわたしを釘づけられました。わたしは忍耐できない人です。わたしは忍耐する必要がありませんし、忍耐しようとも思いません。」これが勝利の道です。

主はあなたを十字架に釘づけられたのですから、あなたは「アーメン!」と言うべきです。主はあなたを十字架につけられたのに、もしあなたがまだ自分で忍耐しようと思うのでしたら、それは駄目です。神はあなたが良くなる見込みがなく死ぬしか方法がないとして、あなたを釘づけられたのに、あなた自身はいまだに自分に望みがあるとして忍耐しようとします。これは、大変な間違いをしていることになります。神はあなたを死ぬべきだと見ておられるのですから、あなたは「アーメン、わたしは死に渡されるべきです」と言えばよいのです。十字架は、わたしたちに対する神の決断です。神はあなたが死ぬ以外道はないと認められたので、あなたを釘づけられたのです。

ですから、これには二面あります。第一に、キリストは死なれ、わたしたちは十字架につけられました。これは神がなさった事です。第二に、わたしはこの事を認めて、「アーメン」と言う必要があります。これはあなたがすべきことです。この二面が必要です。わたしたちはこんなに長い間、こんなに多くの罪を犯し、こんなに多くの弱さを持ち、こんなに多くの高ぶりを持ち、こんなに多くのかんしゃくを起こしてきましたから、わたしたちは自分に対して諦めるべきです。主の御前に来て、主に言いましょう、「わたしはすでに十分にやってきましたが、本当に駄目でした。今日、わたしはもう諦めます。あなたが来てください!わたしはすでに十字架につけられたのですから、今から後はあなたに生きていただきます!」これが、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」ということです。

Ⅳ. 神の御子を信じる信仰によって生きる

ガラテヤ人への手紙第2章20節にはさらに二つの重要な言葉があります、「そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、・・・神の御子の信仰の中で生きるのです」。キリストはわたしたちの中に生きておられます。今後わたしたちは神の御子の信仰によって生きます。わたしたちが日々信じるのは、自分自身の信仰ではなく、神の御子の信仰です。神の御子がわたしたちの中に生きておられるのです。この神の御子の信仰によって生きます。わたしたちは主に向かって言います、「主よ、わたしはあなたがわたしに代わって生きておられることを信じます。主よ、わたしは、あなたがわたしの命となっておられることを信じます。わたしが信じるのは、あなたがわたしのなかに 生きておられることです」。わたしたちがこのように信じるなら、わたしたちはこのように生きるのです。どんなことが起ころうとも、わたし自身は動きません。自分が動いても役に立たないのだから、今後は動かないということです。

サタンがわたしたちを試みる目的は、わたしたちに罪を犯させることだけでなく、わたしたちの古い人を動かそうとすることです。ですから、試みがやってくる度にわたしたちは、動く事を拒絶する学びをし、主に向かって次のように言うべきです、「主よ、これはわたしの事ではありません。これはあなたの事です。このことにわたしには責任がありません。あなたが代わって生きてくださることを仰ぎ望みます」。仰ぎ望むことを学ぶのであって、自分が動いてはなりません。わたしたちの救いは、信じることによるのであって、行為によるのではありません。わたしたちの命も、信じることによるのであって、行為によるのではありません。

失敗は人の行ないが足りないことによるのではなく、人の行ないが多いことによります。わたしたちの行為が多い時、主の命は現れません。わたしたちは日ごとにこのように言うべきです、「主よ、わたしは役に立ちません!あなたの十字架をわたしは受け入れます。主よ、わたしが動かないように守ってください。主よ、あなたが主となって、あなたが生きてください!」。もしあなたが信じることができ、仰ぎ望むことができ、依り頼むことができるなら、毎日、「わたしが生きているのではなく、キリストが生きておられる!」と証しすることができるでしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十六編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

罪に打ち勝つ秘訣は「祈り」ではない!?-命の霊の法則による真の解放- 初信者シリーズ18

罪に打ち勝つ秘訣は「祈り」ではない!?-命の霊の法則による真の解放- 初信者シリーズ18

(この記事は7,235文字で、18分で読み終えることができます。)

あなたがもしクリスチャンになって、一度も罪に悩まされたことがなく、罪の感覚を失い、この世の人のように生きているなら、それはすでに良心が麻痺しているか、主を愛していないということでしょう。しかし、あなたがクリスチャンになった後に、常に罪に悩まされ、罪に打ち勝てず、罪に誘惑され、罪に敗北しているなら、それは「正常なクリスチャン」ではありません。なぜなら聖書は、クリスチャンは罪と死の法則から解放されている(ローマ8:2)と言っているからです。

人が主を信じると、すぐに罪から解放されることができます。しかし、すべて主を信じた人がこれを経験するとは限りません。主を信じても多くの人は罪から解放されないばかりか、しばしば罪悪の中に陥っています。間違いなく彼は救われていますし、主のものですし、彼らの中にはすでに永遠の命があります。しかし、彼らはしばしば罪に邪魔されて、自分が願うようには主に仕えることができないでいます。

主を信じてから罪に悩まされるのは、確かにとても苦しいことです。神に照らされている人は、鋭い良心を持っています。彼には罪の感覚があり、内側には罪を罪定めする命があります。それは罪に悩まされると苦しいと感じさせますし、がっかりさせます。これは確かにとても苦しい経験です。

それで、多くのクリスチャンは罪に打ち勝とうと思います。ある人は、罪には打ち勝つ必要があると思っているので、罪と争い、それに打ち勝とうとします。ある人は、罪は彼を不自由にしているので、もし努力奮闘すれば罪のなわめから解かれるとして、力の限り奮闘します。ある人は、祈りによって罪に打ち勝とうとし、必死に悔い改め、必死に罪を犯さないようにと神に助けを求めます。しかし、これらはすべて人の意見であり、神の言葉ではなく、神の教えではありません。これらの方法はすべて、人を勝利へと導くことができません。神の言葉は、わたしたちの力を用いて罪と格闘するようにとは決して言っていません。神の言葉は、罪から救われるように、あるいは罪から解放されるように、罪から自由を得るようにと言っています。

罪はもともと一つの力であり、それはあなたを捕まえていました。**今あなたはこの力を消すのではなく、主によってそれから解放していただくのです。**あなたはもともと罪を持っており、それを離れる方法がありませんでした。**今日、主はそれを打って死なせるのではなく、あなたをそれから引き離して、罪の力から救うのです。**初信者のクリスチャンは、主を信じたらすぐに罪から解放されることを知るべきです。罪から解放されるまで、幾つも曲がり角を曲がる必要はありません。主を信じたらすぐ自由の道を歩むべきです。さて、ローマ人への手紙第7章と第8章からこの問題を解決してみましょう。

Ⅰ. 罪は法則である

ローマ人への手紙第7章15節から25節は言います、「わたしは自分のしていることを認めません。なぜなら、わたしは自分の欲することを実行せず、かえって自分の憎むことを行っているからです。もしわたしの行っていることが、自分の欲しないことであるなら、わたしは律法が善であることに同意することになります。ですから、それを行ない出しているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです。わたしは自分の欲する善を行なわず、かえって自分が欲しない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行ない出すのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。そこでわたしは、善を行おうと欲しているわたしに、悪が共にあるという法則を見いだします。わたしは、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、わたしの思いの法則に逆らって戦っており、わたしの肢体の中にある罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見ます。何とわたしは苦悩している者でしょう!・・・このように、わたし自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。

15節から20節でパウロは、「欲する」「欲していない」という言葉を繰り返し用いています。ここでの重点は、欲する、欲しない、志を立てる、志を立てない、です。21節から26節では、彼はもう一つの重点、すなわち「法則」と見せています。この二つの重点がこの部分の聖書の鍵です。

わたしたちはまず、何を法則と言うのかをはっきりさせましょう。一般的に言うと、**法則の意味は、絶えず同じであり、例外がないことです。しかも法則には力があります。**法則の力は自然であって、人が作り出す必要はありません。例えば、引力は法則です。一つの物を上に向かって投げるなら、それは自然に地上に落ちてきます。手で引っ張り下ろす必要はありません。地球には自然にそれを引っ張り下ろす力があります。何を投げても、どこで投げても、いつ投げても、この法則は変わりません。

ローマ人への手紙第7章は、パウロが勝利を得ようと思っていたことを見せています。彼は罪を犯さないでいられたら、神が喜ばれる事をすることができたら、一番良いと思っています。彼は罪を犯すことを願わないし、失敗することを願いません。しかし結果は、彼は自分がしようとしても駄目であることを認めています。彼は言っています、「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行うことはないからです」。彼は罪を犯すことを願わないのに、犯してしまいます。彼は善をしようと願い、神の律法を行なうことを願っているのに、そうできません。言い換えれば、自分が願うことはすべてできません。自分が志を立てても全部できません。パウロの結果はすべて失敗です。ここからわかるように、勝利の道は人の願いにあるのではなく、人が志を立てて決心することにあるのでもありません。パウロは何度も志を立て、願った上にまた願いましたが、結果はやはり失敗でした。これは、しようとする意志は自分にあるが、それをする力がないことを、明らかに見せています。

なぜ「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはない」(ローマ7:18)のでしょうか?それは罪が一つの法則であるからです。パウロは21節で、しようとするが失敗するのは、罪が一つの法則であることを示しています。彼が善をしようと志を立てる度に、罪を犯す法則が彼と共にあるのです。彼は心の中では神の律法に従うのですが、彼の肉体は罪の法則に従うのです。彼が神の律法に従おうと決心する時、彼の肢体には別の法則があって、彼をその肢体の中にある罪の法則に従うようにとりこにするのです。

聖書の中で、パウロは罪が法則であると語った最初の人でした。これはとても重要な発見です!!!残念ながら、多くの人はクリスチャンになって何年も経つのに、罪が法則であることを見ていません。多くの人は、地球の引力が一つの法則であることを知っています。しかし彼らは罪も一つの法則であることを知りません。パウロも最初は知りませんでした。しかし、罪と格闘し、何度も敗北した結果、罪が法則であることを発見しました。

わたしたちの失敗の歴史はわたしたちに告げますが、誘惑が来た時、心の中では抵抗しようと思うのに、うまく抵抗できずに失敗してしまいます。二度目に誘惑がやって来ると、また抵抗し、結果はまた失敗です。これがわたしたちの失敗の歴史であり、一回、また一回とすべてこのようです。これは決して偶然ではありません。これは法則です。

Ⅱ. 人の意志は罪の法則に打ち勝つことができない

パウロが最初失敗したのは、ずっと自分の意志を用いて「欲したり」、「しようとした」からです。しかし、21節の後、パウロの目は開かれて、彼が対処しなければならない敵である罪は、法則にほかならないことを見ました。罪が一つの法則であるのを見ると、彼はため息をついて言うほかありませんでした、「何とわたしは苦悩している者でしょう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」。彼は、意志をもって罪を対処することはできないことを認識しました。

何を意志と言うのでしょうか?意志とは、人の考え、つまり人が自分で決め、しようと思ったり、欲したり、主張したり、決断したりすることです。人の意志は、一つの事をやろうと決めると、それを遂行しようとします。人の意志は力を生み出すことができます。ですから、意志には力があります。

例えば、たばこを吸っていた人がキリストを受け入れたとします。その人は、クリスチャンはたばこを吸うべきではないと思いました。そして、彼はたばこを辞めることを決意します。しかし、結果はどうでしょう?彼は辞めようとすればするほど、たばこを吸いたいという衝動に駆られるでしょう。これは世的なことであるため、意志が強い人は克服することができるかも知れません。では、これはどうでしょう?

イエスはマタイによる福音書第5章28節で言いました、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのである」。続けて、マタイによる福音書第6章44節は言います、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。極め付けには、マタイによる福音書第6章48節は言います、「だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」。これは神が世の人を愛しておられる完全な愛で、世の人を愛しなさいという意味です。

人は良い事を行おうと、神の命令を守ろうと決意することができます。しかし、問題はここにあります。意志と罪の法則が相反する時、いったいどちらが勝利するかです。たいてい最初は意志が勝ちます。しかし、最後は必ず罪が勝ちます。

例えば、ある重さの本を手に乗せるとします。引力はそれを下に引っ張りますが、あなたは力いっぱいそれを支えます。しかし、法則が絶えずそこに働いて、それを地面へと引っ張ります。あなたはそれを落ちないように持ち続けます。結果、一時間は勝利するでしょう。二時間になると、少し疲れを覚え、さらに一時間経つと、あなたの手は言うことをきかなくなってしまい、手放さなないではいられなくなります。意志を用いて罪に打ち勝とうとするのもこのようです。意志は一時的に罪に抵抗することができますが、罪の力は人の意志の力をはるかに超えています。罪は法則であり、意志によって抵抗して消滅するものではありません。

例えば、かんしゃくを起こすのは、とてもわかりやすい罪です。ある人が耳障りの良くない言葉を一句語ると、あなたの内側は気持ちよく感じませんし、内側で反発してしまいます。その人がもう一句不愉快な言葉を口にすると、あなたはテーブルをたたいて、わめき、ののしり、何でもやってしまいます。しかし、自分はクリスチャンであるからかんしゃくを起こすべきではないと感じて、もう短気を起こすのはやめようと決心します。あなたは祈り、神が赦してくださったと信じ、またその人に罪の告白もしました。心の中もすっきりして、もう短気を起こすことはあるまいと思います。しかし、しばらくして、人がまた聞きづらい言葉を言うと、聞いていてまた耐えられなくなります。二度目、三度目と繰り返されるなら、あなたのかんしゃくは爆発するでしょう。この後、何度決心しても結果は同じです。これは法則であり、人の力では打ち勝つことができません。

パウロは、人が救われるのは意志によらないことを見ました。人がまだ意志の力に頼っている時は、神の救いの方法に頼ることができません。ある日、神の御前にひれ伏して、自分には方法がないことを認めて、何もしない時、何が救いであるかを見ることができるでしょう。そしてローマ人への手紙第8章を理解することができるでしょう。しかし、ローマ人への手紙第7章を軽視しないでください。わたしたちはまず第7章の認識があってはじめて、第8章を経験することができます。**問題は、あなたがローマ人への手紙第8章の教理を理解したかどうかではなく、あなたが第7章から出てきたかどうかです。**あなたが、罪は法則であり、意志は罪の法則に打ち勝てないことを見ていないなら、ローマ人への手紙第7章に閉じ込められてしまい、永遠に第8章に至ることはできません。では、勝利の方法はどこにあるのでしょうか?

Ⅲ. 命の霊の法則はわたしたちを罪の法則から解放する

ローマ人への手紙第8章2節は言います、「そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。勝利の道は、罪と死の法則から解放されることです。

ここでは、「キリスト・イエスにある命の霊は、罪と死とからあなたを解放した」とは言っていません。(多くのクリスチャンはこのように思っているでしょう。)ここでは、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」と言っているのです。多くのクリスチャンは、命の霊が自分を罪と死から解放したと見るだけで**、命の霊の法則が罪と死の法則から自分を解放したということを見ていません。**多くのクリスチャンは、罪と死が法則であることを知るのに何年かかるかわかりません。また聖霊がわたしたちの上で法則であることを知るにもどれだけの年数がかかるかわかりません。ある日、主がわたしたちの目を開かれる時はじめて、罪が法則であることを見ます。また、ある日、聖霊も法則であることを見るに至ります。聖霊も法則であるのを見ることは、さらに大きな発見です。命の霊が法則であることを知った時、わたしたちは跳び上がって言うでしょう、「主よ、感謝します、ハレルヤ!」。人の意思は罪の法則に打ち勝つことはできません。しかし、命の霊の法則によって罪と死の法則から解放されます。

罪が法則であることを見ると、わたしたちはもはや決して自分の意志を用いて何かをしようとしなくなります。同様に、神の御前であわれみを受けて、聖霊も法則であるのを見た時も、わたしたちには大変化があります。多くの人は、命を与える霊(聖霊)はわたしたちに命を与えることができることしか見ていません。聖霊はわたしたちの内側でもう一つの法則であって、この法則によって自然に罪と死との法則から解放されるということを見ていません。この法則がわたしたちを救い、あの法則から解放してくれる時、少しの力も必要なく、決心する必要もなく、努力も必要なく、聖霊をしっかりつかまえることも必要ありません。この法則がわたしたちの中にあるので、わたしたちはそんなに忙しくする必要はありません。もしあなたが、主の霊はあなたの上で何もしてくれないと恐れて、試みが来た時、自分で早々と手助けするなら、それは聖霊があなたの内側で法則であることをまだ見ていないということです。

ある人があなたを理由もなく叱責したり、あるいはあなたを殴ろうとしたとします。どうしてかわからないのですが、あなたは不思議にこの件に打ち勝つことができます。すべての事柄が終わった後、あなたは自分が叱責された時、なぜ怒らなかったのだろうと不思議に思います。しかし、驚いたことに、あなたはどうしてかわからないのですが、その状況に打ち勝ったのです!そうです、すべての勝利はみな、無意識のうちに得るものです。それは聖霊の法則が働いているからです。知らず知らずのうちに勝利を得ることこそ、真の勝利です。

あなたが聖霊が法則であることを知り、一度このように経験すれば、あなたの内に住んでいる聖霊があなたに罪を犯させないので、罪を犯さないように決心する必要はないことを知ることができます。この法則はわたしたちの内側に住んでおり、罪と死との法則からわたしたちを解放します。わたしたちはキリスト・イエスの中におり、命の霊の法則もわたしたちの中にあって、自然にわたしたちを導いてくださいます。

まとめ

もし兄弟姉妹がこのことを見ることができるなら、真に罪から解放されます。聖書では、わたしたちの意志をもって罪に打ち勝ちなさいとは言っていません。聖書ではただ罪から解放されることをこう言っています、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです」。命を与える霊の法則はわたしたちを罪と死の法則から引き出して解放します。

救われた人はみな、必ず解放の道を見なければなりません。第一に、罪はわたしたちの上で法則であるのを見ましょう。第二に、人の意志は罪の法則に打ち勝つことができないのを見ましょう。第三に、聖霊も法則であることを見ましょう。この法則がわたしたちを罪の法則から解放することができます。

聖霊はあなたの中で、時には命を現し、時には命を現さないと思ってはなりません。もしあなたがこう思っているなら、それは聖霊を知っているだけであって、聖霊の法則を知らないことを証明します。どうか、あなたが罪が法則であること、また聖霊も法則であることを見ることができますように。どうか神があなたの目を開いてくださり、この解放の道、勝利の秘訣をはっきりと見せてくださり、正しい道を歩ませてくださいますように!

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第二十五編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

霊的な力が欲しいなら、朝早く起きなさい!!- 早起き- 初信者シリーズ17

霊的な力が欲しいなら、朝早く起きなさい!!- 早起き- 初信者シリーズ17

主を愛する聖徒たちは主と会うことを切望します。しかし、多くの聖徒たちの実生活の習慣は、その思いと見合っていないかもしれません。愛する兄弟姉妹が怠惰であることほど嘆かわしいものはありません。

「あなたは今日、何時に起きたでしょうか?」

Ⅰ. 早朝は一日のうちで最も良い時間である

主を信じた人は、毎朝、何時に起きるべきでしょうか?ある姉妹はかつてとても良いことを言いました、「ある人に主を愛する心がどれほどあるかは、まずその人の寝床と主との間の選択を見たらわかります。あなたは寝床をより多く愛しますか、それとも主をより多く愛しますか?寝床をより多く愛するなら、多く眠ります。主をより多く愛するなら、少し早く起きるでしょう」。彼女がこのことを語ったのは、およそ100年前ですが、今日に至ってもこの言葉はやはり新鮮であると感じます。人は寝床をより多く愛するのか、それとも主をより多く愛するのか、いつも選択しなければなりません。主をより多く愛するなら、あなたは早く起きるでしょう。

なぜクリスチャンは早起きをしなければならないのでしょうか?それは人が主にまみえるのに早朝が一番良い時だからです。病気の時以外、すべての兄弟姉妹は早く起床すべきです。多くの病はもともと病ではなく、人が自分を愛しすぎるために病になるのです。医者に多く休息を取るように勧められたら、早起きしなくても良いでしょう。わたしたちは極端に走りたくありません。しかし、健康な人はできるだけ早く起きるべきです。なぜなら、早朝こそ、主にまみえ、主と行き来し、主と交わるのに最も良い時間だからです。マナは日の出前に集められました(出16:14-21)。神が与えてくださる糧を食べようと思えば、人は朝早く起きるべきです。日が昇るとすぐマナは溶けてしまって、食べられなくなります。あなたが神の御前で霊的な養いを得たいなら、霊的に成就されたいなら、霊的な交わりを持ちたいなら、霊的な糧を得たいなら、早く起きなければなりません。遅く起きれば、マナは食べられません。

多くの神の子供たちが病気のような生活をしているのは、決して何か別の霊的問題があるからではなく、彼らの起きるのがあまりに遅すぎるからです。多くの神の子たちは、献身しており、熱心であり、愛する心もあるのに、起きるのが遅すぎるゆえに、クリスチャンとしての正常な生活をすることができないでいます。これは小さな事として、霊性とは関係がないとしてはいけません。実はとても関係があるのです。多くの人が霊的でないのは、遅く起きるからです。神を認識している人は、いつも朝早く起きます。彼らは早く起きて、神と交わるのです。

箴言第26章14節は言います、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる」。ここでは、なまけ者は寝台で、戸がちょうつがいでこちらに向きを変えたり、あちらに向きを変えたりするのに似ていると言っています。聖書ははっきりとこのような者をなまけ者と言っています。

朝早く起きるなら、その人は多くの霊的な益を得るでしょう。普通の時間の祈りは、朝早い時間の祈りに及びません。普通の時間に聖書を読むことは、朝早く聖書を読むのに及びません。普通の時間に主と交わることは、朝早く主と交わるのに及びません。早朝は一日で一番良い時間です。一日の一番良い時、早朝を神の御前で用いるべきです。あるクリスチャンは一日の時間を全部、別の事のために費やし、夜になって最も疲れている時に、もうすぐ床について寝ようとする時に、やっとひざまずいて聖書を読んだり、祈ったりします。その人は聖書をうまく読めないし、祈りもうまくいかないし、主との交わりもうまくいきません。ですから、わたしたちは主を信じたらすぐ、朝早い時に時間を割いて、神と交わり、神と行き来することを学ばなければなりません。

Ⅱ. 早起きの模範

聖書において、神のしもべたちはみな早起きしていました。その模範を見てみましょう。

  1. アブラハム – 創世記19:27、21:14、22:3
  2. ヤコブ – 創世記28:18
  3. モーセ – 出エジプト記8:20、9:13、24:4、34:4
  4. ヨシュア – ヨシュア記3:1、6:12、7:16、8:10
  5. ギデオン – 士師記6:38
  6. ハンナ – サムエル記上1:19
  7. サムエル – サムエル記上15:12
  8. ダビデ – サムエル記上17:20
  9. ヨブ – ヨブ記1:5
  10. マリヤ – ルカ24:22。マルコ16:9、ヨハネ20:1
  11. 使徒たち – 使徒行伝5:11

これらの多くの個所の聖書は、神のしもべたちがそれぞれ早朝、神と交渉する習慣を持ち、それぞれ早朝に働く習慣を持ち、それぞれ早朝に神と交わる習慣を持っていたことを告げています。聖書には早く起きなさいという神の命令はありませんが、忠実に神に仕えている人たちはみな朝早く起きていたことを見せている多くの模範があります。主イエスでさえ早起きされました(マルコ1:35。ルカ6:13)。主がこのように模範を示してくださったなら、わたしたちはなおさらのことではないでしょうか?

Ⅲ. 早朝すべき事

早起きすればそれで良いというものではありません。霊的な学び、霊的な内容がなければなりません。ここでは早朝に特にしなければならない幾つかの事を取り上げます。

A. 神と交わる

雅歌第7章12節は言います、「わたしたちは、早く起きてぶどう園に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかを見ましょう。そこでわたしの愛をあなたに与えましょう」。ここから、早朝は主と交わるのに最も良い時であることがわかります。交わりの意味は、わたしたちの霊を神に向かって開き、思いも開き、神に光を与えていただき、神に語っていただき、神にわたしたちを印象づけていただき、神に触れていただくことです(詩119:105、147)。朝早く起きて神の御前に静まり、神の御前で黙想し、神の御前で導きを受け、神の御前で印象づけられ、神に語っていただく機会を得させ、神に触れる学びをしなければなりません。

B. 賛美と歌うこと

早朝には賛美の声と歌う声があるべきです。歌う声が一番良いのは早朝です。早朝は賛美の時です。早朝は神に向かって歌う最も良い時です。最高の賛美を神に向かって送り届ける時は、わたしたちの霊が最も高揚している時です。

C. 聖書を読む

早朝はまたマナを食べる時でもあります(マナはキリストを指しています)。マナを食べるとはどういうことでしょうか?それは毎日早朝にキリストを享受すること(enjoying)、すなわち神の語りかけ、神の言葉を享受することです。それを食べてこそ、わたしたちは荒野を進んで行くことができます。マナを集めるのは早朝です。朝早く起きながら別の事のために時間を使うなら、霊的な面で満足を得たり養いを得ることはできません。

聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7 で述べたように、わたしたちは二冊の聖書を用意し、一冊は午後読むためとし、しるしをつけたり、多くの事を記したりします。もう一冊は早朝マナを食べるために用い、中にはどんな言葉も記さず、どんなしるしも付けません。

早朝は長く多く聖書を読まないで、神の御前で聖書を開いて細やかに一段落を読んで、神との交わりと聖書を読むこととを混ぜ合わせて、歌うことと聖書を読むということも一緒に混ぜ合わせます。これらの事を神の御前で一緒に混ぜ合わせて行い、同時に祈りを加えるのも良いでしょう。神の御前に来て神の言葉を開き、神の言葉を読んで罪の感覚があったなら告白しても良いでしょう。ある聖書の言葉が言っている事柄の上で、神があなたに恵みを与えておられると感じたなら、感謝しても良いでしょう。また聖書が言っているある事柄の上で神に願い求めて、「主よ、この事は真にわたしに欠けているところです。この一段落、この一節、この一句の言葉は、本当にわたしに欠けています。主よ、どうかあなたがわたしに与えてくださいますように」と言っても良いでしょう。またとりなしの祈りをしても結構です。読んでいる時、ある兄弟姉妹の状況がちょうどこの個所の聖書に反すると覚えたなら、神の御前で彼らを訴えたり、とやかく言うことはせずに、「神よ、この句の言葉がわたしの上に成りますように。またこの言葉が某兄弟、某姉妹の上に成りますように」と言えば良いのです。

わたしたちは、朝早くマナを食べる時、祈りを神の言葉の中に織り込み、賛美を神の言葉の中に織り込み、交わりを神の言葉の中に織り込むことを学ばなければなりません。多くの兄弟姉妹が荒野の中を歩けないでいるのは、食べ方が足りないからです。主が恵みを与えてくださいますように。

D. 祈り

わたしたちは早朝、神の御前で交わり、賛美し、マナを食べなければなりませんが、祈りもまた必要です。詩篇第63篇1節は言います、「神よ、あなたはわたしの神です。わたしは切にあなたを求めます」。この「切」は、原文では「早く」という意味です。ここでの祈りは専一に行う祈りです。交わりをし、賛美もし、マナも食べて、最後にあなたは十分に力を得て、すべての事を神の御前でよくよく祈ることができます。祈りは力を要します。ですから、まず早起きして、神に親しみ、養われなければなりません。その後、30分か15分を費やし、重要な事柄のため、あなた自身のため、教会のため、世人のために祈ります。

以上のことから、主を信じている人はだれでも、早朝のこの四つのこと、すなわち神と交わり、賛美し、聖書を読み、祈ることを、神の御前でよくよく行うべきです。早朝にこのようにしたかどうかが、その日の生活に必ずはっきりと現れます。ミューラーのような人でさえ、早朝、主によって養われたかどうかが彼の一日の霊的な状態を決定すると言いました。わたしたちは、もし人が霊的行程において前進しており、霊と魂が完全に分けられる経験をし、外なる人が砕かれているなら、容易に揺らぐことはないであろうことは認めます。しかし、それは別の事です。初信者はとにかく早起きを学ばなければなりません。

Ⅳ. 朝早く起きる実行

最後に少し実行について述べましょう。どうしたらわたしたちは朝早く起きることができるのでしょうか?幾つかの事に注意すべきです。

早起きする人はすべて夜早く寝るという習慣がなければなりません。夜遅く寝て、朝早く起きようと思うのは、理に適っていません。また早起きの目標は、高くしすぎてはいけません。だいたい五時、六時が適切な時間でしょう。極端に走ることで、家族との間に問題を引き起こしたり、職場で問題を引き起こしたりすべきではありません。よくよく神の御前で考慮すべきです。

少し年長の人たち、重みのある人たちは、神の御前でこの事を維持していただきたいと思います。教会は怠惰な人に対しては一押しして、その人を奮い動かすべきです。初信者はこの大きな祝福のある状況にもたらされなければなりません。機会があるごとに、「あなたは毎日何時に起きますか?」と尋ねましょう。しかし、自分自身が神の御前でよく学んでいなければ、このような事をするのはあまり容易ではありません。ですから、わたしたち自身がまず神の御前で先に学ばなければなりません。

朝早く起きることは、信者の習慣の中で第一のものであると言って良いでしょう。食事の時に神に感謝するのは一つの習慣です。主日に集会するのも一つの習慣です。朝早く起きるのはさらに信者になければならない習慣です。とにかく、初信者は習慣を養わなければなりません。このことをよくよく学ぶなら教会は前進するでしょう。一人の兄弟が光を多く得れば、教会全体が明るくなります。教会が貧しいのは、かしらから受け取る人が少なすぎるからです。一人一人がみなかしらから受け取ることができれば、個人で得るものは多くなくても、合わせれば豊かになります。

わたしたちは教会において、少数の人だけが働きをすることを望みません。あらゆる肢体が神の御前で立ち上がり、教会全体が立ち上がって、豊富を得、恵みを得ることを望みます。一つの肢体が得ることは、からだ全体が得ることです。もしすべての兄弟姉妹がこの道を歩むなら、神の御前で受け取る多くの器官が備わり、わたしたちはますます豊かになります。わたしたち全員が早起きを学び、早起きし続けるなら、霊的な前途があるでしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十一編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16

集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16

教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。

Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある

ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。

以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。

聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。

Ⅱ. 教会と集会

教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。

旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。

集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。

「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。

神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。

Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する

コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。

教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。

神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。

Ⅳ. 集会の原則

では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。

A. 主の名の中へと

集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。

なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。

B. 人を建造すること

集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。

ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。

ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。

これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。

自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。

Ⅴ. キリストの中で

最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。

コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。

ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。

コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。

この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。

A. キリストの中には存在しない5つの区別

ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。

1. ギリシャ人とユダヤ人

ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。

第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。

多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。

2. 自由人と奴隷

第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。

3. 男と女

第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)

4. 未開人とスクテヤ人

第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。

5. 割礼と無割礼

最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。

わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。

まとめ

わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」