第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?

Ⅰ. 人は何のために生きているのか?

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あなたはこれまでに、「何のために生きているのか?」と考えたことがありますか?

  • 仕事を頑張っているけれど、何のためにやっているのかわからなくなるときがある。
  • 夢や目標を達成したのに、「次はどうすればいい?」とむなしさを感じる。
  • 幸せになるために努力しているのに、「本当にこれが幸せなのか?」と疑問が生まれる。

こうした疑問を持つのは、あなただけではありません。これは、人間が本質的に抱えている問いなのです。

A. お金や成功では満たされない理由

多くの人が「お金」「成功」「知識」「楽しみ」こそが人生の目的だと考えます。

  • 「もっとお金を稼げば、満たされるはず」
  • 「成功すれば、人生に意味が見いだせるはず」
  • 「好きなことを楽しめば、満足できるはず」

しかし、実際にそれらを手に入れた人たちはどうでしょうか?

  • 大富豪の中には、人生にむなしさを感じている人がいる。
  • 成功した経営者やスポーツ選手が、「達成感よりも空虚感の方が強かった」と語ることがある。
  • 快楽を追い求めても、一時的な満足しか得られない。

なぜでしょうか? それは、お金や成功、楽しみが「人生の目的」ではないからです。それらは確かに「必要なもの」かもしれませんが、人生の最終的な目的にはなり得ません。

では、人間は何のために生きているのでしょうか?

Ⅱ. 聖書が語る「人生の目的」

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人間が「人生の目的は何か?」と問い続ける理由は、神が人間を特別な目的をもって造られたからです。聖書にはこう書かれています。

📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半

この言葉が示しているのは、人間は偶然に生まれた存在ではなく、神が意図をもって造られたということです。神は人間を、ただ生まれて死ぬために造ったのではありません。人間が本当に満たされる唯一の道は、「神の目的」に沿って生きることです。

では、神の目的とは何でしょうか?

A. 「神のご計画」 ― 神の壮大な計画

聖書は、神には壮大な計画があると語っています。聖書は、宗教書、哲学書、道徳書ではなく、神のご計画が書かれた書物です。この計画の中で、神は天、地、人を創造されました(創世記1:1、26)。ですから、「なぜ天が造られたのか?」「なぜ地が造られたのか?」「なぜ人が造られたのか?」これらの問いに対する答えは、聖書に記されています。

📖 わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない大いなる隠された事をあなたに告げよう。エレミヤ書 33章3節

では、神が人を造った意図はなんだったのでしょう?

1. 人間は「神のいのち」を受けるために造られた

神のご計画の中で最も重要なポイントは、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。大切なのでもう一度いいます。、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。

聖書は、人間の構造についてこう語ります。

📖 あなたがたの霊と魂と体とを守って… テサロニケ人への第一の手紙 5章23節

この聖書の言葉から、人間は 「体」「魂」「霊」 の3つの部分で構成されていることがわかります。

1. 体(からだ)

「体」は、私たちの物理的な部分、つまり目に見える肉体のことです。日常生活で使う手足や目、耳などがこれに当たります。体を通して、私たちは周囲の世界と接触し、感じ、行動します。

2. 魂(たましい)

「魂」は、私たちの内面的な部分を指します。具体的には、思考、感情、意志などが含まれます。例えば、喜びや悲しみを感じる心、何かを決断する力、物事を考える知性などが魂の働きです。魂は、私たちの個性や人格を形成し、自己意識や他者との関係性にも関与しています。

3. 霊(れい)

「霊」は、私たちの最も深い部分であり、神や霊的な世界とつながる部分とされています。霊を通して、私たちは神との交わりや祈り、礼拝など、霊的な活動を行います。霊は、私たちが神の存在を感じたり、霊的な真理を理解したりする際に働くと考えられています。

このように、聖書では人間を「体」「魂」「霊」の3つの要素からなる存在として描いています。それぞれが独自の役割を持ちながらも、互いに深く結びついており、私たちの全体的な存在を構成しています。

  • → 物理的な世界を感じる
  • → 思考や感情を持つ
  • → 神と交わるための器

「霊」という言葉は宗教的に聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば、人間が目に見えないもの(愛や希望、真理)を求める心の深い部分を指します。この部分こそが、神とつながるための器として造られました。

2. 人は神を入れる器

人間は単なる生き物ではなく、神を受け入れるために造られた器(うつわ) です。聖書は、人間の本質を「器」として説明しています。

📖 しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか?ローマ人への手紙 9章23節

例えば、わたしたちが普段使うコップやペットボトルは、水や飲み物を入れるために作られています。器自体は空っぽで、その目的は中身を受け入れ、保持し、必要に応じて提供することです。同じように、聖書では人間を「器」として描いています。これは、人間が神を内に受け入れるためにデザインされた存在であることを示しています。つまり、器が水を受け入れるように、人は神を内に入れるために造られたのです。このように、人間は単なる生き物ではなく、神との深いつながりを持つための特別な「器」として造られた存在なのです。

3. しかし、なぜ人は神を持っていないのか?

あなたが生きる目的を知らず、心の中に満たされない思いを抱えているのは、神とのつながりを持っていないからです。世の中には、神とのつながりを持つ人と持たない人の二種類がいます。一般的に、神とのつながりを持つ人をクリスチャン(キリスト者)と呼びます。

では、なぜ人は神を受け入れる存在として造られたのに、神とのつながりを持たない人がいるのでしょうか?それは、人が罪を犯し、その結果、神との関係が損なわれてしまったからです。この状態を聖書では「人の堕落」と表現します。人は自分中心の生き方を選んだ結果、心の中に空虚感やむなしさを感じるようになりました。

📖 空の空、すべては空である。伝道者の書 1章2節

多くの人は「わたしは罪を犯していない」と言います。しかし、わたしたちが認識している罪と聖書が啓示している罪の意味は大きくことなります。次の記事では、「人の堕落」というテーマで、聖書が啓示している罪とは何なのかを明らかにしていきます。

次の記事:「人の堕落 ― なぜ人は神から離れたのか?」

【ダイジェスト版】人生の奥義シリーズ

【ダイジェスト版】人生の奥義シリーズ

この記事は、「人生の奥義」すなわち、「人生の目的」「生きる意味」を提示します。人生の奥義シリーズは全部で三記事の構成になります。このダイジェスト版は、それらすべてを簡潔にまとめた内容になります。

人生の奥義シリーズ:全三部作

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?
第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?
第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?

📖 その奥義は、啓示によってわたしに知らされました。エペソ人への手紙 3章3節

Ⅰ. 人生の目的 ― なぜ生きているのか?

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人は何のために生まれたのでしょうか。人生の目的は何でしょうか。

  • 仕事を頑張っても、何のためにやっているのか分からなくなる
  • 夢を叶えても、「次は何をすればいい?」とむなしさを感じる
  • 幸せになるために努力しているのに、本当に満たされているのか分からない

こうした悩みは、すべての人が共通して抱える問題 です。

A. なぜ、お金や成功では満たされないのか?

多くの人は、「お金」「成功」「楽しみ」が人生の目的だと考えますが、それらを手に入れた人が、必ずしも満たされているわけではありません。

なぜなら

  • 大金持ちでも、人生にむなしさを感じる人がいる
  • 成功した人が、達成感よりも空虚感の方が強かったと語ることがある
  • 快楽を追い求めても、一時的な満足しか得られない

なぜでしょうか?それは、人間が本来持つ「もっと深い渇き」を満たすものではないからです。では、人間の生きるの目的とは何でしょうか?


これを理解するためには、人がどのように創造され、どのような目的をもって造られたのかを知る必要があります。聖書は人の創造について語ります。ですから、聖書を理解することによって人生の意義を知ることができます。

Ⅱ. 人生の目的 ― 神が人を造られた理由

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📖 「神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』」創世記 1:26 前半

聖書は、「人は神のかたちに造られた」(創世記 1:26)と語っています。つまり、人は偶然に存在しているのではなく、神によって意図的に造られた のです。神は人をご自身のかたちに造られました。手袋は手のかたちに作られます。それは手を入れるためです。同じように、人が神のかたちに造られたのは、神を入れるためです。人は「神を入れる器」として造られました。ですから、神以外のもので人を満足させることはできません。

人は、目に見える体だけでなく、心(考えや感情)や、さらに深い部分である「魂」と「霊」を持っています。その中で「霊」は、人が本当の意味で満たされるためにとても重要な部分です。ちょうどラジオが電波を受信するための機能を持っているように、人の霊は、目に見えないけれども確かに存在する「神」とつながるためのものです。神が人の内側に入り、心の奥深くで人とともにいることで、人は本当の満足を得ることができます。これこそ、人が生まれ、生きる本当の意味なのです。

あなたが生きている目的は、神を受け入れ、神と共に生きること です。しかし、ほとんどの人はこの目的を知りません。なぜでしょうか?それは、人間が 「神から離れてしまった」 からです。

Ⅲ. 人の堕落 ー なぜ人は神を知らないのか?

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あなたは、

✔ 良い人でいたいのに、自己中心的な思いを捨てられない
✔ 人を赦したいのに、恨みの心が消えない
✔ 正しく生きたいのに、誘惑に負けてしまう

善いことをしたいのに、思うようにできずに葛藤したことはありませんか? それは、人にはもともと善を求める心があるにもかかわらず、罪が入り込んだことで神から離れてしまったからです。

📖 わたしは自分の欲する善を行わず、かえって自分が欲していない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行うなら、それを行いだすのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。ローマ人への手紙 7章19-20節

罪とは、単なる悪い行いではなく、人の内側に入り込んだ「悪の力」 です。この罪によってわたしたちは善を行うことはできません。またこの罪によって人の中に死が入り込みました。

📖 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました。ローマ人への手紙 5章12節

「死」とは、神から離れることであり、神との交わりが断絶されることです。罪は神から人を遠ざけ、これによりわたしたちは何をしても満たされることがありません。罪が人の中に入り、その結果、神から離れたことが、何をしても満たされない真の原因です。

では、どうすればこの問題を解決できるのでしょうか?

Ⅳ. 解決の道 ― キリストが罪の問題を解決された

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人間の罪の問題を解決するために、神は御子イエス・キリスト をわたしたちのためにこの世に送られました。

📖 神はそのひとり子を賜ったほどに、世の人を愛された。それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。ヨハネによる福音書 3章16節

キリストは、あなたの罪をすべて背負い、十字架で死なれました。

📖 神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わって罪とされました。それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。コリント人への第二の手紙 5章21節

キリストの十字架の死は、あなたの罪を背負った身代わりの死でした。しかし、それだけではありません。キリストは死から復活されました。

📖 このイエスを、神は復活させました。わたしたちはみな、そのことの証し人です。使徒行伝 2章32節

キリストは、死と罪の力を打ち破り、復活されました。これは、死が終わりではないことの確かな証拠であり、私たちに復活の命を分け与えるためです。主イエス・キリストは死人の中から復活し、『命を与える霊』となられました。今や、この『命を与える霊』であるキリストは、人の内に入ることができます。もしキリストを受け入れるなら、その人は永遠の命を持ち、神がその霊の中に住まわれることで、喜びに満ちた人生を歩むことができるのです。

Ⅴ. どうすればキリストを受け入れられるのか?

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では、どのようにすればキリストを受け入れ、神との関係を回復することができるのでしょうか?

A. キリストを受け入れるための4つのステップ

キリストはすでにあなたの罪のために身代わりの死を成し遂げられ、復活されました。あとは、あなたがそれを 「自分のものとして受け取る」 だけです。

📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。ローマ人への手紙 10章9節

では、キリストを受け入れるために 必要な4つのステップ を見ていきましょう。

① 悔い改め神に心の向きを変える

📖 この時からイエスは宣べ伝え始めて言われた、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」マタイによる福音書 4章17節

「悔い改め」 とは、単に過去のあやまちや罪を後悔することではありません。また、「良い行いをしよう」と決心してやり直すことでもありません。悔い改めとは、「思いの向きを変える」こと です。以前あなたは神に背いている人でした。あなたの思いが神に背いていたのです。

🔹 今まで:自分中心の人生を生き、神なしで生きてきた。
🔹 これから:神に向き直り、神のもとに戻るために心の向きを変える。

たとえば、もしあなたが間違った方向に歩いていたら、まずは進行方向を変える必要があります。同じように、人生の進む方向を 神に向き直すことが悔い改めです。

② 信じる ― キリストを受け入れる

📖 「それは、彼の中へと信じる者がすべて、永遠の命を持つためである」。 ヨハネによる福音書 3章15節

「信じる」とは、うなずくことでも、同意することでも、知識として理解することでもありません。信じることは 「受け入れること」 です。

たとえば、誰かがあなたに腕時計をプレゼントするとします。それを 「素敵ですね!」 と言っても、それだけでは十分ではありません。その腕時計を 実際に受け取る 必要があります。キリストも同じです。彼はすでにあなたのために死に、復活し、救いを用意してくださいました。でも、それを あなた自身のものとして受け取る ことが必要です。

③ 呼び求める 口で告白する

📖 なぜなら、「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」からです。ローマ人への手紙 10章13節

神は 「主の御名を呼び求める」こと を求めています。例えば、 結婚も「心の中で好き」と思っているだけでは成立しません。実際に 「結婚します」と告白することで、関係が確定します。キリストとの関係も同じです。

心でキリストが自分の罪のために死に、復活したことを信じ、イエスが主であると口で言い表すなら、あなたは救われます。

呼び求める方法はとても簡単です。「主イエスよ!」と声を出して呼び求めてください。ただこれだけです。8回ほど主を呼び求め、あなたの内側の深い部分に変化を感じるでしょう。

④ バプテスマされる ― 証しする

📖 信じてバプテスマされる者は救われる。しかし、信じない者は罪に定められる。マルコによる福音書 16章16節

バプテスマとは、「キリストを受け入れた」ことの公に証しすることです。バプテスマは、単なる儀式ではなく、神の王国に入るための重要なステップ です。

📖 イエスは答えられた「まことに、まことに、わたしはあなたに言う。人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。」ヨハネによる福音書 3章5節

バプテスマを受けることで、あなたはサタンの国から、神の王国へと移されます。バプテスマは自分一人では出来ませんので、あなたがキリストを受け入れたのであれば、クリスチャンにバプテスマしてほしいことを伝えれば良いでしょう。

Ⅵ. 祈ってみてください!

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あなたが「キリストを受け入れたい」と思うなら、今、心を開いてこの祈りをしてみてください。

「主イエスよ!わたしは罪人です。わたしはあなたが必要です。わたしの罪のために死んでくださり、復活してくださって感謝します。今、わたしはあなたをわたしの救い主として受け入れます。わたしの霊の中に入ってきて、わたしを新しくしてください。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン!」

Ⅶ. キリストを受け入れたら、次に何をすればいいのか?

あなたがキリストを受け入れたなら、ここからが新しい人生の始まり です。

神との関係をさらに深めるために、以下のことを実行してみてください。

聖書を読む(神の言葉を知る)
祈る(神と交わる)
クリスチャンと交わる(共に成長する)
集会に参加する(主を礼拝する)

わたしたちはあなたを神の家族として歓迎します。主があなたを導いてくださいますように。

人生の奥義シリーズ:全三部作

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?
第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?
第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?

バプテスマとは何か ?- この世からの離脱 – 初信者シリーズ1

バプテスマとは何か ?- この世からの離脱 – 初信者シリーズ1

バプテスマは聖書の中で非常に大きなテーマです。わたしたちはバプテスマについて、二つの面においてはっきりしていなければなりません。その二つの面とは、第一に「バプテスマされる前にはっきりしなければならないこと」です。第二に「バプテスマされた後に振り返ってみること」です。第一は「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということであり、第二は「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。

バプテスマとは何でしょう?早速、結論を申し上げます。バプテスマとは、神の完全な救いを受けるための手続きであり、救われたことを外側に宣言、表明する行為です。また、バプテスマはわたしたちを”この世”から出てこさせ、救いを得させ、この世から離脱させます。これがバプテスマです。

ここからは「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」「バプテスマにはどのような意義があるのか」という、この二つに分けて詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. バプテスマは人に何をするのか?

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信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
マルコによる福音書 16章16節

この聖書の節は、バプテスマが人に何をするかを言っています。ですから、これは第一の面です。この節は「信じること」と「バプテスマされること」は切り離されておらず、一つの事柄であることを見る必要があります

A. 信じてバプテスマされる者は救われる

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1.「信じること」と「バプテスマされること」

「信じてバプテスマされる者は救われる」(マルコ16:16前半)この節には「信じること」と「バプテスマされること」の二つのことが述べられています。「信じること」とは、主イエスを救い主として受け入れることです(ヨハネ1:12)。福音を信じるとは、救い主である主イエスを信じることであり(使徒16:31)、彼を信じるとは、彼をわたしたちの中へと受け入れることです(ヨハネ1:12)。悔い改め、主イエスを信じた者は、永遠の命を持ちます(ヨハネ3:15)。

「バプテスマされること」とは、主イエスの死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また主イエスの復活を通して復活させられ、神の新創造となることよって、これを証しすることです。

旧創造とは、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの人です。生まれながらのわたしたちには神の命、神聖な性質はありません。これが旧創造です。

古い人とは、アダムに属します。アダムは神によって創造されましたが、罪のゆえに堕落しました。全人類はアダムの子孫ですから、すべての人は生まれながらにして罪の性質を持っています。これが古い人です。

新創造とは、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人(ヨハネ3:6)、神の命と神の性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10-11)、新しい構成となったものです。

罪と暗やみの中にいたわたしたちは、主イエスを信じることによって救われます。主イエスを信じ、受け入れた瞬間に、わたしたちは永遠の命を受け、再生されます。これは、霊的に一瞬にして行われることであり、この時、旧創造は終わらせられ、新創造となります。しかし、これは霊的に行われることであるので、わたしたちは、それを見える形で証しする必要があります。それがバプテスマです。

「信じること」は内側の出来事であり、「バプテスマされること」は外側に確証することです。「信じること」と「バプテスマされること」は、神の完全な救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。主イエスを信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また、主イエスを信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側に確証がありません。これらの「信じること」と「バプテスマすること」は並行すべきです。

2. 信じない者は罪に定められる

「しかし、信じない者は罪に定められる。」(マルコ16:16後半)この節は、「信じないでバプテスマされない者」とは言っていません。これは罪定めが「信じないことだけ」であって、「バプテスマされないこと」とは関係がないことを示しています。主イエスを信じることだけで、人が罪定めから救いを受けるのに十分です。しかし、人の内なる救いの完成のために、信じることは、外側の確証としてのバプテスマを必要とします。

B. バプテスマは人を”この世”から救う

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バプテスマはわたしたちをこの世から救います。まず、わたしたちは”この世”とは何かを見ていきましょう。

1. 罪とこの世の違い

わたしたちは神の御前で罪が忌み嫌われるものであることを知っています。しかし、罪だけでなく神はこの世をも忌み嫌っていることを知る必要があります。この両者はけがれており、取り除かなければなりません。しかし、わたしたちはこの両者がわたしたちに与える汚れが異なっていることを見る必要があります。罪の汚れは野蛮で粗暴、醜悪(しゅうあく)です。この世の汚れは文明的で、洗練されており、多くの場合、人の目には美しく映ります。

罪の汚れは、白いワイシャツについた墨のしみか、泥がはねたようです。この世の汚れは、白いワイシャツにプリントされた色とりどりの図柄のようです。一般の人から見れば、ワイシャツにしみがあればきたなくて、それはあるべきものではありません。一方、色とりどりの柄はきたないものではなく、あってしかるべきものです。しかし、神の目には、この双方ともあるべきものとは映りません。また、罪とこの世が人に与える害も多いに異なっています。罪は人を汚します。この世は人を汚すばかりか占有します。ですから、罪は人を汚すもの、この世は人を占有するものです。サタンがもし罪によって人を汚すだけなら、それは人を堕落させるに過ぎません。しかし、この世をもって人を占有するなら、サタンは人を自分のものにしてしまいます。

例えば、両親のもとに純粋な子供がいたとします。もしだれかが、その子供にうそをつくことや盗みをすることを教え、悪いことをするように誘惑するなら、彼の純粋な性質は汚され堕落してしまいます。しかし、この時はまだ彼は両親の保護の下にあります。しかし、ある日、例の悪事を行う者が来て、二着の素敵な洋服で彼をとりこにして、自分のものとしてしまったらどうでしょう?彼は両親のもとを去り、いなくなってしまいます。同じように、サタンが罪によって人を汚しても、それは人を堕落させるだけですが、もしサタンがこの世をもって人を占有するなら、その人を神の御前から離れさせて失われたものとしてしまいます。

2. この世の定義

この世の支配者とはサタンです(ヨハネ12:31)。ですから、この世はサタンに属するものです。そして、この世の友となること、すなわち、この世に占有されることは神の敵となることです(ヤコブ4:4)。

ここで、この世を定義したいと思います。この世とは、人の上で神にとって代わり、人を占有するすべてのものです。人でも事でも物でも、善であろうと悪であろうと、美しいものであれ醜いものであれ、何であれ人を占有して神を思わせない、神に頼らせない、神に属させないようにするものは、すべてこの世です。

この世のギリシャ語は κόσμος(コスモス,kosmos)であり、系統や組織を意味します。サタンは人生に必要な人、事、物を利用して人を占有するだけでなく、さらに進んで、これらの人、事、物を個々の系統に組織し、もっと強力に人を占有します。今日のこの世にある大学は、社会学科、心理学科、美術学科、音楽学科など多くの科に分かれています。人々はこの中にあって、ある人はこの科にとりこになり、ある人は別の科にとりこになっています。サタンはこの多くの人生系統を利用して人々を束縛し、占有し、完全に神を捨てさせ、神を忘れさせ、この世の風潮に従わせます。

3. わたしたちはこの世から出る必要がある

イエスはご自身の王国はこの世ではないと言われました(ヨハネ18:36)。そして、主イエスを信じるわたしたちを暗やみの権威(サタンの王国、この世)から御子の王国へと移してくださいました(コロサイ1:13)。ですから、クリスチャンはこの世に生きていますが、この世に属してはいません。しかし、この世に属していないこと、救われ、再生され、神の民とされ、主イエスを王とする王国の民であることをこの世に宣言するためにはバプテスマが必要です。

例えば、あなたが主イエスを救い主と信じ、永遠の命を受けたとします。もし、あなたがバプテスマしないなら、あなたが救われたことを知る人はあなた以外に誰もいません。もし、あなたがバプテスマされることを拒むなら、他の人があなたを兄弟姉妹であると知ることはできません。

また、あなたが職場で主イエスを受け入れたことを証しすることは不可能です。なぜなら、あなたに救われたことを外側に証しする確証をもっていないからです。バプテスマはただの儀式ではありません。バプテスマされることは大きなことです。バプテスマは、あなたが救われたこと、神の民となったこと、この世とは決別した者となったことを証しすることです。もし、あなたがバプテスマするなら、大胆さを持つでしょう。あなたは大胆に「わたしはクリスチャンになりました!」と人々に証しすることができるでしょう。それがこの世から救われるということです。もし、外側に救われたことを証しせず、クリスチャンであることを隠しているなら、この世から救われていないのです。

4. バプテスマとは”この世”から出てくることである

では、バプテスマとは何でしょう?バプテスマされるとは、この世から離脱すること、この世との関係を断つことです。主イエスを信じる者には永遠の命があるという点については、全く問題がありません。すべての人は主イエスを信じるならすぐに命が入り、永遠に恵みを受け、その他の問題はすべて解決します。

しかし、人がただ信じただけでバプテスマされないなら、その人はまだ救われていません。なぜなら、あなたと他の人との違いを知っている人は、誰一人としていないからです。バプテスマとは、この世との関係を断ち切ったことを宣言することです。そうしてはじめてあなたは救われ、そして、他の人はあなたが救われたことを知るでしょう。

C. バプテスマは水を通して人を救う

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「バプテスマ」のギリシャ語の動詞は βαπτίζω(バプティゾー, baptizō)で、「浸す」「洗う」「沈める」などの意味があります。この動詞から「バプティスマ」が派生しており、元々は水に浸す行為や洗う行為を指していました。ですから、バプテスマとは、あなたを水に浸す、沈める、水によって洗うことです。ノアの箱舟の物語は、バプテスマの型でした。

ペテロは、このノアの物語について、「箱舟に入り、水の中を通って安全に救われた・・・」(第一ペテロ3:20)と言いました。この言葉は、人は水を経ることによって救われることを見せています。ですから、バプテスマは水を経ることによってわたしたちを救います。バプテスマは、わたしたちを水の中にもたらし、また水をから出てこさせます。ノアの箱舟に乗った人たちが水から出てきて救われたと同じように、わたしたちはバプテスマされ、水から出てくることによって救われるのです。

D. バプテスマは人を”この世”から離脱させる

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以上のことから、わたしたちがバプテスマされるやいなや、この世から離脱します。ですから、主イエスを信じた者が、まずはじめにしなければいけないことは、バプテスマです。わたしたちは、この世が神の御前でどういう地位にあるかを見なければなりません。あなたとこの世との関係が断たれることが救われたことです。それはバプテスマによって確証します。こうして、あなたは今後、この世の外におり、別の側に移されるのです。

もう一度、質問します。バプテスマとはなんでしょう?バプテスマとは、この世から出てくることであり、この世から分離する一つの手続きです。あなたがバプテスマされるなら、それはこの世から出てきたことの証し、宣言することです。以上が、第一の「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。

Ⅱ. バプテスマの意義

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ここからは、第二の「バプテスマにはどのような意義があるのか」を見ていきます。このバプテスマの意義は、あなたがバプテスマした後に振り返るためです。わたしたちはバプテスマを10年経って振り返り、20年経って振り返る必要があります。もし、あなたがバプテスマされていないなら、振り返ることは困難でしょう。バプテスマされた人は、実際に水の中に入り、水の中から出てきたことを鮮明に覚えています。このバプテスマが振り返ることのできる出来事となります。

なぜバプテスマを振り返る必要があるのでしょうか?それは、年数が経ってはじめて、バプテスマの真の意義を理解することができるからです。その真の意義とは、バプテスマされた時「主と共に死んだ」(ローマ6:3)ということ、バプテスマされた時「彼と共に葬られた」(コロサイ2:12)ということ、バプテスマされた時「彼と共によみがえった」(コロサイ2:12)ということです。

A. わたしたちは死んだ

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主イエスが十字架に釘づけられて死なれた時、彼はわたしたちを伴って十字架についてくださったので、わたしたちも釘づけられて死にました。

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半

主イエスは神の御前で、わたしたちという人を処理してくださいました。あなたはこのことを見たでしょうか?自分の罪深さを知る時、自分のどうしようもなさを知る時、主イエスの死を聞くなら、それは福音です。自分がどんなに悪いかを見、どんな方法を尽くしてもうまくいかない時、あなたがすでに死んだことを聞くなら、これも福音です。主の死はわたしたちを含みます。

わたしたちが水の中に入ってバプテスマされる時、あるいは主を信じて長年経過して、バプテスマを振り返って見る時、自分がすでに死んでしまった人であることを覚えているべきです。あなたはクリスチャンになって、良い人間になろうとして、もがいているかも知れません。罪ばかり犯す自分にうんざりしているかも知れません。しかし、聖書はあなたは「すでに死んでいる」と言います。これは、あなたがもう良い人間になる必要がないことを告げています。ただあなたは、すでに死んでいることを宣言するだけでいいのです。そうすれば、キリストがあなたに代わって生きてくださるでしょう。これがバプテスマを振り返る意義です。

B. わたしたちは死んで復活した者である

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主が十字架で死なれた時、わたしたちは死にました。そして、主イエスが復活させたれたことにより、復活の力がわたしたちの中に置かれ、この力によってわたしたちは再生されました。水を経て出てきて、復活させられたあなたは、もはや以前のあなたではありません。

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半

生きているのは、もはやわたしではありません!バプテスマを振り返り、わたしたちはこの言葉を宣言すべきです。

「わたしはキリストと共に十字架につけられました!生きているのはもはやわたしではありません!キリストがわたしの中に生きておられるのです!」

まとめ

わたしたちは、これまでバプテスマについて見てきました。バプテスマには二つの面があります。第一の面は、バプテスマの前のことであり「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。バプテスマは、わたしたちを”この世”から救います。また、バプテスマは、この世から離脱したことを宣言することです。

第二の面は、バプテスマの後のことであり「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。バプテスマの意義は、わたしたちは死んだということ、葬られたということ、復活したということ、そして、今、わたしたちはキリストの中におり、キリストがわたしたちの中にいるということです。わたしたちは、絶えずバプテスマを振り返り、自分自身が死んで葬られたことを思い起こす必要があるのです。

参考書籍

「ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)」第一編 ウォッチマンニー著

「命の認識」ウィットネスリー著

「回復訳聖書 フットノート」ウィットネスリー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【人気No1】教科書には載らない教会歴史 – 神が回復し続けているもの –

【人気No1】教科書には載らない教会歴史 – 神が回復し続けているもの –

「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。

キリスト教会の歴史を学ぶとき、多くの人は「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「近代のプロテスタント教会の発展」といった出来事を思い浮かべるでしょう。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。この深い霊的な視点こそ、「教科書には載らない教会歴史」です。「教科書には載らない教会歴史」、すなわち、真の教会の歴史とは、単なる組織や宗派の変遷ではなく、神がご自身の働きを回復し続けている歴史なのです。この神による回復の働きをわたしたちは、そのまま「主の回復」「神の回復」と読んでいます。

Ⅰ. なぜ「回復」が必要なのか?

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「回復」という言葉は、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、キリストの教会において、何が失われたのでしょうか?それは、神が本来望まれた教会の姿 です。

初代教会は、ペンテコステの日に聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれて、異なる教えや人間的な要素が教会の中に入り込み、教会は徐々に神の本来の意図から逸れていきました。権力、伝統、組織化……。こうして教会は、外面的には繁栄しているように見えても、神の御心からは遠ざかってしまった のです。この神が本来望まれた教会の姿から逸脱することを「堕落」と言います。ですから、2000年の教会の歴史とは「教会の堕落の歴史」と言うことができます。

Ⅱ. 神の回復の働き

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しかし、神は教会をこのままにはされませんでした。2000年に及ぶ教会歴史を学ぶなら、その歴史は「堕落の歴史」であるだけなく、「回復の歴史」でもあることを見ることができます。ある時代には個人を、ある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復 してこられました。

16世紀にはマルチン・ルターを用いて、「信仰による義認」を回復しました。17〜18世紀においては、ヨーロッパで主を愛する聖徒たちによって、「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」が回復されました。19世紀にはブラザレンの聖徒たちにより、宗派や組織を離れ、キリストにある信者が一つに集まること、また、正常な教会生活の開始を持ちました。20世紀では、中国において、「キリストのからだとしての教会生活の実行」を回復しました。これらは、神の回復の働きです。

  • 16世紀の宗教改革 ― 聖書の権威と「信仰による義認」を回復
  • 17〜18世紀の敬虔主義・メソジスト運動 ― 「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」の回復
  • 19世紀のブラザレン運動 ― 「教会の一と聖書の真理」の回復
  • 20世紀以降の主の回復 ― 「キリストのからだとしての正常な教会生活」の回復

こうして、神は時代ごとに、御心にかなう真理と実行を回復されてきました。

Ⅲ. 今の教会はどうなのか?

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この歴史を振り返ると、ある問いが生まれます。

もし神が歴史を通して回復の働きを進めてこられたのなら、今の私たちはどこにいるのか?

あなたが今所属している教会は、神が回復されてきた真理のどこに立っているでしょうか? かつての堕落した教会のように、知らぬ間に人間的な伝統や組織の影響を受け、神の御心から逸れてはいないでしょうか?

それ以上に、あなたは本当に神の御心にしたがって歩んでいるのでしょうか?

教会の歴史は、単なる過去の話ではありません。それは今も続いている神の働きであり、わたしたちはその歴史の中に生きているのです。これが 「教科書に載らない教会歴史」 です。

Ⅳ. どうすればいいのか?

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もし、あなたが自分を義とせず、「私は本当に神の御心にしたがって歩んでいるのだろうか?」と問いかけるなら、あなたは神が今まさに行われている働きを知る必要があります。そして、その働き――すなわち主の回復の働き を知るためには、「まず、真の教会の歴史を知る」 必要があります。

多くのクリスチャンは、キリスト教の歴史を「宗派の発展の流れ」としてしか見ていません。しかし、本当の教会の歴史とは、神が堕落した教会をどのように回復してこられたのか という視点から見るべきものです。そして重要なのは、神は過去だけでなく、今もその回復の働きを続けておられる ということです。

Ⅴ. 次の記事へ――主の回復の歴史をたどる

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では、「神はどのように教会を回復してこられたのか?」そして、「神が今しておられる働きとは何なのか?」

次の記事では、この視点から教会の歴史を詳しく見ていきます。あなたが今どこにいるのか、そして神がどこへ導いておられるのかを知るために、共に神の回復の歴史をたどっていきましょう。

この「教科書には載らない教会歴史」は全10の記事で構成されています。教会が誕生した2000年前に遡り、時代を経てどのように神が回復の働きをおこなわれてきたのかを見ていきます。是非、PART 1から順番にご覧ください。

【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

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【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

英国ブラザレンが起こされてから100年後、1920年に、主は異邦の地である中国に行かざる得なくなりました。なぜなら、彼にはヨーロッパとアメリカにおける混乱した状況において主には回復の働きをする道がなかったからです。この回復は、キリストのからだの回復です。これが今日、主が求めてられるものであり、回復されている働きです。

Ⅰ. 主は福音の処女地である中国において新しい事を開始する

十八世紀に、モラビア兄弟団がヨーロッパ大陸にありました。十九世紀に、英国においてブラザレンが主によって用いられました。一世紀後、主は極東の中国において新しい事を開始されました。中国での主の回復の働きおいて、主はウォッチマン・ニーを召されました。この主の働きは1922年から中国の福州において開始されました。ウォッチマン・ニーはこのように言いました。「主がわたしたちを起こされた時までに、正しい教会生活に関する限り、西洋世界はダメにされました。ヨーロッパとアメリカの両方において、カトリック、国教会、私立教会は多くの混乱を引き起こしました。ブラザレンが現れた後、彼らはキリストのただ一つからだがあること、またただ一つの教会があることを、分裂があるべきでないことを宣言しましたが、最終的に他のどのグループよりも分裂しました。ですから、ヨーロッパとアメリカには、混乱したキリスト教があるだけです。主は処女地である中国に来ざる得ませんでした。今、主が中国に来て、新しい事を開始したということです」。中国は異邦の地であり、多くの信者はいませんでしたが、教会に関して複雑ではありませんでした。このゆえに、主は中国において彼の回復を開始することができたのです。こうして、中国において主の回復が始まりました。

ウォッチマン・ニー兄弟はほとんどあらゆる宗派から、あらゆる種類のキリスト教の実行から、教会歴史を通じてすべての追い求める聖徒から、良い、助けとなる事柄を取り上げて、それらを伝えました。彼は、「わたしたちはわたしたちの前にいた多くの聖徒たちの肩の上に立っている」と言いました。これは主の回復の働きの継続でした。彼は1930年以前に一世紀からのキリスト教の文書を内容とする古典的なキリスト教の書籍を三千冊以上も集めていました。彼が20歳から25歳の時、彼の寝室は本に満ちていました。彼は特別な賜物を主から受けていました。彼はあるものを読む時、戻ってそれを見直す必要はありませんでした。彼はただ読んだことを徹底的に、正確に述べることができました。彼は聖書を知っており、命を知っており、主を知っており、教会を知っており、教会歴史を知っている人でした。

中国における教会生活の初期に人々がウォッチマン・ニー兄弟のもとに来た時、彼らはこの集まりがバプテスト教会であるのか、長老教会であるのか、ペンテコステ教会であるのか、ブラザレン教会であるのかと疑問に思いました。なぜなら、ウォッチマン・ニーの実行はバプテスト派で行うように、人々をバプテスマしました。また長老派が行うように、教会の統治を持ちました。またペンテコステ派が強調したその霊の注ぎ出しを経験しました。またブラザレンが解き放ったすべての真理を持っていました。ウォッチマン・ニーは一世紀からすべての聖徒を通して主が回復した多くの良い事柄を集めて、教会生活を実行しました。

Ⅱ. ウォッチマン・ニーが主から受けた啓示

ウォッチマン・ニー兄弟は主から多くの啓示を受けました。主から受けた啓示の総合計は「キリストと教会」です。キリストと教会は聖書の偉大な奥義です。キリストは内容であり、教会は表現です。言い換えると、キリストは内側でわたしたちの命であり、教会(召会)は外側でわたしたちの生活です。

以下はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示の主要な項目です。

A. 地方教会の境界

ウォッチマン・ニーは1933年と1934年に地方教会に関する真理を見ました。1933年に彼はブラザレンに招かれて、英国にいる彼らを訪問しました。彼らはまた彼をカナダとアメリカ合衆国に連れて行きました。その時、彼はブラザレンの諸集会の間にある混乱と分裂を見ました。一つの都市にいくつかのブラザレンの集会があり得たのです。このことがウォッチマン・ニーを悩ませました。ですから彼は一年を費やして新約聖書を再び読み、学んで、地方の集会、地方教会の境界がその地方教会の立っている地方(都市)の境界であることを見ました。

B. 地方教会の立場

1937年の初めに、ウォッチマン・ニーは地方教会の境界だけでなく、地方教会の立場も見始めました。ウォッチマン・ニーは新約聖書に戻って、教会の実行上の表現に関する真理を調べました。この聖書研究と学びによって、彼は一つの都市にただ一つの教会があるべきことを見いだしました。地方教会は、都市に在る教会です。地方教会の立場は、一の立場であり、それはまた地方の立場と呼ばれます。例えば、大阪市に住んでいるなら大阪に在る教会で集会します。調布市に住んでいるなら調布に在る教会で集会します。北京なら北京に在る教会、台北なら台北に在る教会です。これは聖書的であるだけでなく、あらゆる人間の好き嫌いによる分裂、分派を排除します。すべての兄弟姉妹が分派、分裂なく集まることのできる聖書的な立場は地方の立場です。この教会の立場はからだの交わりを保ちます。これが神の願っている教会の一の立場です。

C. 教会生活の実行

教会の立場を見た後、ウォッチマン・ニーは教会生活の実行に関してはっきりしました。1940年に彼はウィットネス・リーにこのように言いました、「兄弟、わたしたちはこの手に教会生活に関する青写真を持っているのです」。ウォッチマン・ニーは務めの中で正常なキリスト者の教会生活の実行を導きました。また、その実行を受け継いだウィットネス・リーはそれを中国北部に持って行き、実行に移しました。この青写真のすぐれたはたらきを通して、大復興が中国北部にもたらされました。この結果、ウォッチマン・ニーが受けた啓示の真実性が主の働きによって証明されました。

D. キリストのからだ

1940年からウォッチマン・ニーは、常にキリストのからだを強調しました。彼には、聖徒たちがからだを見ることで、とても負担がありました。彼はメッセージに次ぐメッセージ、特別集会に次ぐ特別集会を与え、常に一つの事柄、すなわち、キリストのからだを見ることを強調しました。彼はよく聖徒たちにからだを見たかどうかを尋ねました。そして数人に、彼らが見たと思っていたことの証しをするように求めました。彼らの証しの後に、「あなたはからだを見たことがありません」と彼は言いました。これはわたしたちがからだを教理的には知っていても、それがわたしたちにとって実際でないかもしれない可能性があるということです。彼は聖徒たちがキリストのからだのビジョンを必要とすることを繰り返し強調しました。

Ⅲ. ウォッチマン・ニーの務めの最後

ウォッチマン・ニー兄弟の務めは中国共産党による国の占領により終わりを迎えました。共産党はある場所を占領した後、二年の自由を与えました。ウォッチマン・ニーは1950年と1951年に二年間の自由がありました。この二年間に、彼は最善を尽くして、できるだけ多くの書物を出版しました。なぜなら、彼は逮捕され投獄されることを予期していたからです。1952年に彼は逮捕されて四年間、投獄されました。1956年には彼は十五年の投獄を宣告されましたが、その日から1972年に死ぬまで、獄中にとどまりました。こうして、彼は死ぬまで二十年間、獄に入れられました。

共産党の占領により、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーにこれまで回復された真理を宣べ伝えるべく台湾に渡るように告げました。そして、ウォッチマン・ニーの務めをウォットネス・リーが引き継ぎ台湾において務めを開始しました。

Ⅳ. ウィットネス・リーの主の回復における務め

1948年11月初めに、アメリカ合衆国の大統領選挙がありました。共和党デューイと民主党のトルーマンが大統領の選挙運動をしていました。大多数の中国人はデューイが当選することを願っていました。しかし、トルーマンがアメリカ合衆国の大統領に当選しました。これは、政治情勢が変化することを意味しました。このことにより共産党軍は浦口に来ており、国内を占領しようとしていました。ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは緊急の特別集会を持ち、祈り、どうすべきかを交わりました。しばらくの沈黙の後、ウォッチマン・ニーは言いました、「わたしはどのような状況の下でも、わたしたちがリー兄弟を出国させなければならないと感じます。その他の兄弟姉妹はここにとどまって、わたしたちの働きを継続する必要があります」。

1949年2月にウォッチマン・ニーは福州から上海へ飛び、緊急の同労者集会を持ちました。その集会でも彼は繰り返して言いました、「リー兄弟の個人的な感覚がどうであっても、わたしたちは彼に国を出ることを求めなければなりません」。彼はまた、残りの同労者たちが国にとどまって、最後まで主に対して忠信であるべきであると言いました。この言葉に対してウォットネス・リーの感覚はとても重かったと言います。なぜなら、みながとどまっているのに、自分は国外へ遣わされようとしていたからです。ですから、彼は言いました、「ニー兄弟、あなたは、あなたと残りの人たちはとどまって主に対して忠信であり、わたしが国を出るべき唯一の者であると言明しました。これは、わたしがここにとどまって主に対して忠信であるのにふさわしくないからですか?」。ウォッチマン、ニーはウィットネス・リーに言いました、「ウィットネス兄弟、わたしたちは主に信頼していますが、ある日、敵はわたしたちを一網打尽にする可能性があることを、あなたは認識しなければなりません。ですから、あなたは行かなければなりません。このようにして、わたしたちは依然として何かを残すでしょう」。

A. 台湾に移住する

1949年3月末に、共産軍が南京から上海に進入しようとしており情勢は緊迫しました。ある日、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーに電報を打ち、直ちに福州の彼の所に来るようにと求めました。ウィットネス・リーは福州に飛んでニー兄弟の訓練に参加しました。数日後、共産党が杭州から南下し、間もなく福州に到着するという知らせが来ました。ニー兄弟は直ちに兄弟たちに、航空券を買いリー兄弟に台湾へ行かせるように告げました。こうして1949年にウィットネス・リーは台湾へ行き、ウォッチマン・ニーの主の回復の務めを継続しました。

Ⅴ. ウィットネス・リーの中心的な務め

ウィットネス・リーは1949年の台湾において務めを開始し、1997年のアメリカにおいて務めを終えました。彼の働きは、ウォッチマン・ニーの務めの継続でした。彼はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示をさらに発展させ、実行に移し、神の働きを全世界へと拡大させました。

彼の務めは1949年に台湾から始まり、東南アジア、極東へと地方教会を拡大、拡充させました。1962年からはアメリカへ移住し、国際的に地方教会の働きを拡充させました。彼の働きは文字の務めであり、歴代の聖徒たちが受けてきた啓示をさらに深化させ、聖徒たちに命の言葉を供給しました。1974年からは、聖書全巻を神のご計画から解き明かす講解メッセージを開始し、それはライフスタディという書物として記録されています。また、聖書の霊的な理解を深めるために聖書の翻訳を行いました。

A. 台湾での働き

台湾の台北での務めは、1949年8月から約300人を収容できる集会所をもって始まりました。第一に彼らは、台北の人口にしたがって福音ビラを配りました。その当時、台北の人口はわずか七十万人でした。彼らは全台北にビラを配りました。第二に、巨大な文字で福音の標語を印刷し、それらを幹線道路、小さな路地、駅、その他の重要な場所に貼りました。第三に、福音チームを送り出し、毎週一度か二度、出て行きました。チームの人はみな福音シャツを着て、チームは通りを行進し、詩歌を歌い、太鼓をたたき、人々が救われるように手招きしました。最終的に、約400人が主日ごとに記名し、大勢が救われました。一年目に救われる人の人数は三十倍に増えました。

B. 極東、東南アジアでの地方教会の拡大と拡充

1957年に教会生活が日本に拡大しました。1966年に韓国で教会生活が始まりました。15年間で30の諸教会と1880人が起こされました。

東南アジアにおける主の回復は、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイに到達しました。現在フィリピンには122の地方教会があり、約16,000人の聖徒たちがいます。インドネシアには17の地方召会があり、タイには、12の集会する場所があります。

C. アメリカへの移住

ウィットネス・リーはアメリカで働きをする意図を持っていませんでした。それは、ウォッチマン・ニーとのある交わりによりました。ニー兄弟はリー兄弟に言いました、「地上には、主の回復のために困難である二つの地域がある。その一つはアメリカ合衆国であり、それはこの世的で物質主義的であるからです。もう一つは東南アジアであり、それはその地域の人々があまりにも怠惰であるからです」。このことのゆえに、ウィットネス・リーは初期の年月で、主の回復の場所としてアメリカ合衆国を考えていなかったのです。

しかし、主の導きによって1957年に一度目のアメリカ合衆国を滞在しました。二度目は1960年であり、一ヶ月ほどアメリカ合衆国で滞在しました。この当時、アメリカ合衆国には追い求めるクリスチャンはいたものの、誰も「教会の立場」についてはっきりしていませんでした。ウィットネス・リーはこの時、「教会の立場」についてのメッセージを解き放しました。これによって、多くの兄弟たちが「教会の立場」について光を得ました。

この責任の兄弟たちの間に、以前ブラジルで働いていた実に重みのある西洋の宣教師であったクラーク兄弟と、グルーラー兄弟がいました。彼らはいずれもロンドンのオナーオークに住んで、特別集会に参加し、そこで霊的な助けを受けました。リー兄弟との談話の中で、彼らは教会の立場について聞いたことがなかったが、それについて聞いた後、とても尊いと感じると言いました。この機会をとらえて、ウィットネス・リーは、立場の基礎を彼らに据えました。

ウィットネス・リーは言いました。「T・オースティン・スパークス兄弟は確かに霊的な度量を持っており、命とキリストのからだの面に関する原則、例えば、からだの中の交わりの必要を強調します。彼の助けに基づいて、わたしたちはここニューヨークにおいてからだの交わりを願っています。しかしながら、例えば、もし一人の兄弟が事を行うのに一つの方法を主張し、他の兄弟が別の方法を主張するなら、どうして交わりがあり得るでしょうか?ですから、わたしたちは、立場が制限であることを見なければなりません。二人の人がいるだけでなく、ニューヨークで交わりを慕っている多くの人がいても、どのようにしてこれら多くの人は交わりの中にとどまることができるでしょうか?制限としての立場がなければ、異なる見解があれば直ちに分裂があるでしょう。教会の立場は、からだの交わりの実行のために必要です」。彼らは完全にこの言葉を受け入れました。

ウィットネス・リーは1961年、三度目にアメリカ合衆国へ行き、しばらくニューヨークに住んで、通常の特別集会を持ちました。ある日、ある兄弟がリー兄弟に言いました、「リー兄弟、去年あなたが来たとき、立場に関する真理を解き放ち、ニューヨークに在る召会に多大な助けを与え、召会が基礎を持つようにされました」。この言葉を受け、ウィットネス・リーはアメリカ合衆国での滞在期間を延長しました。1962年秋以降、リー兄弟は台湾に帰国する予定でしたが、内側にとても重い負担を感じ、アメリカにとどまって働きを開始すべきであることがとてもはっきりしました。1962年、ウィットネス・リーは台湾に戻らないことを決定し、ロサンゼルスにとどまり、アメリカ合衆国において主の回復の働きを開始しました。

D.文字の務め

聖書にはただ一つの務めがあります。それは「キリストと教会」に関するものです。この唯一の務め、「その務め」とは神の言葉を用いて、キリストを供給し、召会を生み出し、聖徒たちを建て上げ、彼らを共に成長させ、キリストのからだとすることです。これが「その務め」です。

この唯一の務めは神の語りかけです。この神の語りかけは文字の働きによってウォッチマン・ニーによって始まりました。初期の頃、この文字の務めはニー兄弟自身に属しているものでした。彼がメッセージを与え、それから書房が彼の与えたメッセージを印刷し発行していました。ニー兄弟は1922年から「現在の証し」誌の発行を始め、1925年に「クリスチャン」誌の発行を開始しました。後に、一人では処理できないため、ウォットネス・リーに編集の仕事をするように案配しました。この書房は彼の個人的なもので、この文字の働きも彼個人のものでした。

ウィットネス・リーは1949年に台湾に渡り、台湾で働きを始めました。彼は台湾において文字の働きが必要であるという負担がありました。ニー兄弟との交わりの中で、1950年より、福音書房を上海以外に、一つを台北に、もう一つを香港に持つことになりました。ウィットネス・リーがアメリカで働きを始めた後、彼はすぐに「ストリーム」誌を登録し、出版しました。現在は規模も大きくなり、書籍だけでなく、オーディーオテープ、ビデオテープも出ています。毎週木曜日に、アナハイムのリビングストリームミニストリーから発行され、世界各地の400箇所の諸地方教会へ供給されています(現在はさらに増えています)。

E. ライフスタディと聖書の翻訳

1974年にウィットネス・リーは務めの拠点をロサンゼルスからアナハイムへと移しました。この時、彼はライフスタディの訓練を始める負担を持ちました。彼はアメリカでの務めの最初の11年間において、キリスト、教会、そして王国など、さまざまなテーマに関するメッセージを特別集会で語りました。しかし、聖書における全体的な啓示を完全に網羅するには、単一のテーマでは不十分であることに気づきました。そのため、彼は聖徒たちが聖書を一冊ずつ開くことができるよう、務めを進めていくべきだと感じました。このため、1974年に半期訓練を通じて聖書全体を一冊ずつ学ぶ「ライフスタディ」を始めました。これは全聖書を開く講解メッセージです。

またその後に、彼は一群れの兄弟たちと、英文聖書の翻訳の働きを始めました。その大部分はウィットネス・リーたちの訳ではありませんでした。むしろ、権威ある訳の聖書からエッセンスを集め、原文を参照し、それを経験に照らし合わせながら、それを編集しました。それを「回復訳聖書」と呼びました。英語版回復訳新約聖書は1987年に完成され、旧約聖書は2003年に完成されました。日本語版は新約聖書が1995年、旧約聖書が2009年で完成。中国語は新約聖書が1987年、旧約聖書が2003年に完成ました。またこの回復訳聖書は40以上の言語に翻訳されています。

翻訳と編集作業の大部分は数人のアメリカ人の兄弟が行い、ウィットネス・リーが審査して承認しました。この訳本に基づき、長い時間を掛けてフットノート(聖書註釈)を書きました。フットノート(聖書註釈)を書き終えた後、参照聖句を整えました。訳文の整理、フットノート(聖書註釈)を書くこと、参照聖句の編集、各所のアウトラインを書くこと、メッセージのアウトラインを書く事、この五つの項目の作業を終えるのに四ヶ月かかりました。ウィットネス・リーの負担は、全地の460以上の諸地方教会がみな御言から供給を受けることでした。ライフスタディは1974年から開始し、1995年に全聖書の講解メッセージが終了しました。その内容は全1984篇のメッセージが提供され、これらは聖書全体(旧約39巻+新約27巻)を網羅しています。これらそれぞれ書籍として販売されています。

ウィットネス・リーは言います、「歴代、多くの人々は聖書を学び、解説し、いくつかの傑作がありました。しかしながら、より完全で、より十分な基準の訳本は決してありませんでした。過去六十年において、主はわたしたちに多くの新しい光を見せてくださいました。これらは以前の人が見たことのないものです。わたしたちは、わたしたちの前にいた人たちの方の上に立って、さらに多くの啓示を得ました。これは解放されるべきです。ですから、わたしたちはライフスタディの訓練を持つのです」。

回復訳聖書の翻訳完成年代

新約聖書完成旧約聖書完成全聖書完成
アメリカ1987年2003年2003年
日本1995年2009年2009年
中国1987年2003年2003年
韓国1990年代完成(年不明)完成(年不明)
スペイン語1998年翻訳中翻訳中
ロシア語2000年代翻訳中翻訳中

Ⅵ. ウィットネス・リーの務め

ウィットネス・リーの務めは、真にウォッチマン・ニーの継続でした。その内容は「キリストと教会」であり、それをさらに深化させました。彼は神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)に沿って務めを行いました。神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)とは、神がキリストを通してご自身を人に分与し、召会を建造し、最終的に神と人が一つになるという永遠の計画を指します。この神のご計画の実現のために、各地方に地方教会を設立し、正常な教会生活の実行を導きました。彼は1997年96歳を持って、ご自身の務めを終えました。

しかし、主の回復の務めは現在も進行中です。この主の回復の務めは、全地にある諸地方教会のすべての聖徒たちによって行われています。

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【全10記事】教科書には載らない教会歴史

【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)

【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)

【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)

【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)

【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)

【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)

【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)

【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)

【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史

隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-

参考資料

・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著

・召会の行程 ウィットネス・リー著

・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」

・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」