2025-02-04 | 人生の奥義シリーズ
前回の記事では、「人生の目的」について見ました。人は神のかたちに(創世記1:26)、また神を入れる器として創造されました。人は神を受け入れることによってのみ、真の満足を得ることができることも見ました。しかし、人は神を入れる器として創造されたのにも関わらず、多くの人は神を持たず、神とのつながりを持っていません。
その理由は「人の堕落」です。人は堕落したために、神とのつながりを失いました。この記事では、「人の堕落とは何か?」「どのように人は堕落したのか?」を詳しく見ていきたいと思います。
Ⅰ. 人の葛藤 ー 「良くなりたいのに、なれない」
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あなたはこんなことを感じたことはありませんか?
- 良い人でいたいのに、つい人を傷つけてしまう。
- 正しいことをしたいのに、誘惑に負けてしまう。
- 親切にしたいのに、自己中心的な思いが消えない。
- 人を赦したいのに、どうしても赦せない。
多くの人は、「良い人になりたい」「正しく生きたい」と願いながら、そのように生きようと努力するにも関わらず、それを行うことができずに内側でどうしようもない葛藤を抱えています。 その原因は、人の内側に存在する「善を行いたいという性質」と「悪を行ってしまうという性質」が心の中で戦っているからです。
では、なぜわたしたちはこのような葛藤を抱えるのでしょうか? 聖書は、この問題の根本的な原因を明確に語っています。
A. 人は神のかたちに造られたが…
前回の記事で見たように、聖書は人を神のかたちに、神の姿にしたがって創造したと語っています。(創世記1:26)
📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半
そして、神は唯一の善なる御方です。(マルコ10:18)
📖 イエスは彼に言われた、「なぜあなたはわたしを善いと言うのか?神おひとりのほかに、善い者はいない。」 マルコによる福音書 10章18節
ですから、神に似せて造られた人には、神のような「善の性質」「善を行いたいと欲する性質」を持っています。
例えば、
✔ 誠実さ → 人は嘘をつくことを良くないと感じる。
✔ 愛と優しさ → 人は他人を愛したいと願う。
✔ 正義感 → 悪を憎み、正しいことをしたいと願う。
これは確かに人の中に存在するものであって、これが人の良心です。良心が健全に機能しているのであれば、人は善を行うことを欲し、悪を行うことを憎みます。しかし、わたしたちの生活の中の経験と照らし合わせるなら、多くの場合、わたしたちは善を行うことに失敗し、悪を行ってしまいます。
なぜわたしたちは、善を行うことを欲するのに、それを行うことができないのでしょうか?
この原因が「人の堕落」です。
Ⅱ. 人の堕落 ― 罪が人の中に入った
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聖書によると、人間はもともと神と共に生きる存在でした。人が神を入れる器として造られたのは、神を内容とし神を表現するためです。神の願いは、神が人の中へと入り、人を通して神の性質である「愛」「光」「義」「聖」を地上で表現することでした。
しかし、人が神の命令を無視し、サタンの指示にしたがったことで、「罪」が人の中に入ったのです。ですから、罪の原因は神の言葉を無視したこと、神に背いたこと(反逆)にあります。
A. 神への反逆
神は最初の人、アダムとエバをエデンの園に住まわせ、彼らに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じられました(創世記2:16-17)。
📖 そして、エホバ・神はその人に命じて言われた、「あなたは、園のどの木からでも自由に食べてよい。ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない。それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。 創世記 2章16-17節
これは、人が神にしたがい、神を命の源として生きるための定めでした。しかし、サタンは蛇の姿をとり、エバを誘惑しました。
蛇はエバに、「あなたがたがそれを食べると、目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになる」とそそのかしました(創世記3:5)。
📖 さて、蛇は、エホバ・神が造られた野のあらゆる動物の中で、最もこうかつであった。蛇は女に言った、「『あなたがたは園の木のどの木からも食べてはならない』と、神はほんとうに言われたのですか?」。 創世記 3章1節
📖 すると、蛇は女に言った、「あなたがたは必ずしも死ぬことはありません!それは、あなたがたがそれから食べる日に、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のようになり、善と悪を知るようになることを、神は知っておられるからです」。 創世記 3章4節
エバは神の言葉にしたがわず、蛇であるサタンの言葉を受け入れ、木の実を取って食べ、アダムにも与えました。彼らがそれを食べた瞬間、罪が人の中に入りました(創世記3:6)。
📖 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良く、目に喜ばしく、その木は賢くなるのに好ましかったので、彼女はその実を摘み取って食べた。彼女はまた一緒にいた夫に与えたので、夫も食べた。 創世記 3章6節
罪とは単なる悪い行為ではなく、神から独立し、自分を中心に生きようとする性質です。アダムとエバは、神に信頼するのではなく、自ら善悪を判断し、自分の意志で生きる道を選びました。その結果、彼らの内側には神の命ではなく罪が入り込み、人類全体に及ぶ堕落が始まりました。
B. 罪とは「的外れ」である
多くの人が「罪」とは悪い行いであると考えます。しかし、聖書が啓示する「罪」の意味は全く異なります。
「罪」という言葉は、新約聖書では主にギリシャ語で「ハマルティア(ἁμαρτία)」と記されています。この言葉の根本的な意味は 「的外れ」 です。「ハマルティア(ἁμαρτία)」は、もともと弓を射るときに 的を外すこと を指す言葉でした。つまり、聖書で「罪」とされるものは、単なる道徳的な悪や法律違反ではなく、 神が人に定められた目的(的)から外れること を意味します。
聖書でいう『罪』とは、単に悪い行いではなく、本来の目的(神と共に生きること)から外れている状態のことです。これが「罪」、つまり「的外れ」です。
あなたは神から的を外していないでしょうか?
C. 罪の結果は「死」である
罪は人類最初の人アダムに入り込みました。その結果、アダムから生まれるすべての子孫である全人類にその影響が及ぼされました。そして、この罪は「死」という結果をもたらしたのです(ローマ5:12)。
📖 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました。 ローマ人への手紙 5章12節
この「罪」は単なる悪い行いではなく、人の内側に入り込んだ「悪の力」です。 それが、人を神から遠ざけ、善を行おうとする心と戦うようになった原因なのです。
例えば、わたしたち人は毒を食べるなら死にます。それと同じように、善悪知識の木を食べることは、サタンの性質(悪の性質)を取り入れることであり、その結果は「死」です。人類最初の人が罪を犯したために、全人類は死ぬ運命となりました。
C. 人の中にある「二つの性質」 ― 善と悪の戦い
人は神のかたちに造られたため、善を行いたい欲する性質を持って生まれました。しかし、「善悪知識の木からは食べてはならない」という神の言葉にしたがわず、サタンの言葉にしたがったために、人の中に本来存在しなかった罪が入りました。この罪は「悪の力」そのものです。これは神に背いた結果であり、神から離れたことを意味します。
人は神から離れましたが、善を行いたいと欲する性質は依然と残っていました。ですから、わたしたち人は善を行おうと努力するのです。しかし、罪人が善を行おうと努力し続けた場合の叫びは以下のようになります。
📖 わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはないからです。 ローマ人への手紙 7章18節
これは、人がどんなに努力しても、「善」を完全に行うことができず、「悪」に引きずられてしまうという現実を表しています。
例えば、
✔ 「正しく生きよう!」と決意しても、失敗してしまう。
✔ 「怒らないようにしよう!」と思っても、イライラしてしまう。
✔ 「赦そう!」と思っても、恨みの心が残る。
これは、わたしたちが「罪の力」に縛られている証拠です。あなたがどれだけ善を行おうとしても完全に行うことができないのは、あなたの努力が足りないからでも、あなたの意志が弱いからでもありません。あなたの中に「罪」があり、あなたが罪人であるからです。
まとめると、罪とは、「的外れ」であり、神中心ではなく、自分中心で生きることです。また、罪は「悪の力」であり、この悪の力によってあなたは完全に善を行うことはできず、葛藤と苦しみの中で生きていくしかないのです。
では、この葛藤から解放される道はあるのでしょうか?
Ⅲ. 解決の道 ― キリストの身代わりの死
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人がどんなに努力しても、「罪の力」から自分自身を解放することはできません。例えば、あなたが誤って毒を飲んでしまったら、自分自身でどれだけ努力しても、そこから救われることはできません。あなたは毒を取り出してもらうために病院に行って、医者に診てもらう必要があります。
では、わたしたちはこの罪と死の問題を解決するために、どうすればいいのでしょうか?
イエスは、わたしたちの罪という霊的な病を癒すために医者として地上に来られました(マルコ2:17)。
📖 イエスはこれを聞いて、彼らに言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 マルコによる福音書 2章17節
「病んでいる人」とは、罪を持つすべての人、つまりわたしたちのことです。そして、イエスは、「義人ではなく、罪人を招くために来られた」と言われました。これは、イエスがわたしたちを救うために来られたことを意味します。
A. キリストの十字架 ― 罪の身代わり
人は罪により、神との関係を失い、死に支配されています(ローマ6:23)。しかし、神はわたしたちを愛し、救うために イエス・キリストを遣わされました。
キリストは 罪を持たない唯一の方でした。しかし、彼はわたしたちの身代わりとして十字架で死なれた のです。
📖 神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わってに罪とされました。それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。 コリント人への第二の手紙 5章21節
これは、ちょうど誰かがわたしたちの借金を代わりに払うようなものです。わたしたちは自分で罪を取り除くことができませんが、イエスがその罪の代価を十字架で支払われました。
B. キリストの復活 ― 新しいいのち
しかし、十字架はイエスの死で終わりではありませんでした。 三日後に彼は復活されました!
📖 そして彼が葬られたこと、そして彼が聖書にしたがって三日目に復活させられたこと、 コリント人への第一の手紙 15章4節
キリストの復活は、死に勝利したことを意味します。そして、彼は今も生きておられ、わたしたちが新しいいのちを受けることができるようになりました。
人の最大の問題は「死」です。「死」から誰も逃れることはできません。しかし、ここに「死」を乗り越えた方がおられます。主イエスが十字架で死と復活を成し遂げられたのは大きく二つのためです。それは第一に、罪の問題を解決するため。第二に、死を乗り越えた復活の命をわたしたちに与えるためです。
C. キリストが新たな道を開かれた
すべての問題は、わたしたちの中に罪が入り、神との関係が断絶されたことにあります。その結果、人は生きる目的を失い、何をしても真の満足を得ることができなくなりました。
しかし、主イエス・キリストは十字架によって、わたしたちの身代わりの死を成し遂げ、復活されました。これは、神とわたしたちとの関係を回復する道を開かれたことを意味します。
Ⅳ. どうすれば、神との関係が回復されるのか?
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救われるとは、神との関係が回復することです。では、どうすればわたしたちは、この罪による「悪の力」から解放され、「死」を乗り越える復活の命を受けることができ、神との関係が回復されるのでしょうか?
聖書は言います。それはただ「信じるだけ」です。
📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。 ローマ人への手紙 10章9節
では、どうすれば神との関係を回復できるのでしょうか? 次の記事では、『キリストの救い』について詳しく見ていきます!
▶ 次の記事:「キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?」
2025-02-04 | 人生の奥義シリーズ
Ⅰ. 人は何のために生きているのか?
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あなたはこれまでに、「何のために生きているのか?」と考えたことがありますか?
- 仕事を頑張っているけれど、何のためにやっているのかわからなくなるときがある。
- 夢や目標を達成したのに、「次はどうすればいい?」とむなしさを感じる。
- 幸せになるために努力しているのに、「本当にこれが幸せなのか?」と疑問が生まれる。
こうした疑問を持つのは、あなただけではありません。これは、人間が本質的に抱えている問いなのです。
A. お金や成功では満たされない理由
多くの人が「お金」「成功」「知識」「楽しみ」こそが人生の目的だと考えます。
- 「もっとお金を稼げば、満たされるはず」
- 「成功すれば、人生に意味が見いだせるはず」
- 「好きなことを楽しめば、満足できるはず」
しかし、実際にそれらを手に入れた人たちはどうでしょうか?
- 大富豪の中には、人生にむなしさを感じている人がいる。
- 成功した経営者やスポーツ選手が、「達成感よりも空虚感の方が強かった」と語ることがある。
- 快楽を追い求めても、一時的な満足しか得られない。
なぜでしょうか? それは、お金や成功、楽しみが「人生の目的」ではないからです。それらは確かに「必要なもの」かもしれませんが、人生の最終的な目的にはなり得ません。
では、人間は何のために生きているのでしょうか?
Ⅱ. 聖書が語る「人生の目的」
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人間が「人生の目的は何か?」と問い続ける理由は、神が人間を特別な目的をもって造られたからです。聖書にはこう書かれています。
📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半
この言葉が示しているのは、人間は偶然に生まれた存在ではなく、神が意図をもって造られたということです。神は人間を、ただ生まれて死ぬために造ったのではありません。人間が本当に満たされる唯一の道は、「神の目的」に沿って生きることです。
では、神の目的とは何でしょうか?
A. 「神のご計画」 ― 神の壮大な計画
聖書は、神には壮大な計画があると語っています。聖書は、宗教書、哲学書、道徳書ではなく、神のご計画が書かれた書物です。この計画の中で、神は天、地、人を創造されました(創世記1:1、26)。ですから、「なぜ天が造られたのか?」「なぜ地が造られたのか?」「なぜ人が造られたのか?」これらの問いに対する答えは、聖書に記されています。
📖 わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない大いなる隠された事をあなたに告げよう。エレミヤ書 33章3節
では、神が人を造った意図はなんだったのでしょう?
1. 人間は「神のいのち」を受けるために造られた
神のご計画の中で最も重要なポイントは、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。大切なのでもう一度いいます。、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。
聖書は、人間の構造についてこう語ります。
📖 あなたがたの霊と魂と体とを守って… テサロニケ人への第一の手紙 5章23節
この聖書の言葉から、人間は 「体」「魂」「霊」 の3つの部分で構成されていることがわかります。
1. 体(からだ)
「体」は、私たちの物理的な部分、つまり目に見える肉体のことです。日常生活で使う手足や目、耳などがこれに当たります。体を通して、私たちは周囲の世界と接触し、感じ、行動します。
2. 魂(たましい)
「魂」は、私たちの内面的な部分を指します。具体的には、思考、感情、意志などが含まれます。例えば、喜びや悲しみを感じる心、何かを決断する力、物事を考える知性などが魂の働きです。魂は、私たちの個性や人格を形成し、自己意識や他者との関係性にも関与しています。
3. 霊(れい)
「霊」は、私たちの最も深い部分であり、神や霊的な世界とつながる部分とされています。霊を通して、私たちは神との交わりや祈り、礼拝など、霊的な活動を行います。霊は、私たちが神の存在を感じたり、霊的な真理を理解したりする際に働くと考えられています。
このように、聖書では人間を「体」「魂」「霊」の3つの要素からなる存在として描いています。それぞれが独自の役割を持ちながらも、互いに深く結びついており、私たちの全体的な存在を構成しています。
- 体 → 物理的な世界を感じる
- 魂 → 思考や感情を持つ
- 霊 → 神と交わるための器
「霊」という言葉は宗教的に聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば、人間が目に見えないもの(愛や希望、真理)を求める心の深い部分を指します。この部分こそが、神とつながるための器として造られました。
2. 人は神を入れる器
人間は単なる生き物ではなく、神を受け入れるために造られた器(うつわ) です。聖書は、人間の本質を「器」として説明しています。
📖 しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか?ローマ人への手紙 9章23節
例えば、わたしたちが普段使うコップやペットボトルは、水や飲み物を入れるために作られています。器自体は空っぽで、その目的は中身を受け入れ、保持し、必要に応じて提供することです。同じように、聖書では人間を「器」として描いています。これは、人間が神を内に受け入れるためにデザインされた存在であることを示しています。つまり、器が水を受け入れるように、人は神を内に入れるために造られたのです。このように、人間は単なる生き物ではなく、神との深いつながりを持つための特別な「器」として造られた存在なのです。
3. しかし、なぜ人は神を持っていないのか?
あなたが生きる目的を知らず、心の中に満たされない思いを抱えているのは、神とのつながりを持っていないからです。世の中には、神とのつながりを持つ人と持たない人の二種類がいます。一般的に、神とのつながりを持つ人をクリスチャン(キリスト者)と呼びます。
では、なぜ人は神を受け入れる存在として造られたのに、神とのつながりを持たない人がいるのでしょうか?それは、人が罪を犯し、その結果、神との関係が損なわれてしまったからです。この状態を聖書では「人の堕落」と表現します。人は自分中心の生き方を選んだ結果、心の中に空虚感やむなしさを感じるようになりました。
📖 空の空、すべては空である。伝道者の書 1章2節
多くの人は「わたしは罪を犯していない」と言います。しかし、わたしたちが認識している罪と聖書が啓示している罪の意味は大きくことなります。次の記事では、「人の堕落」というテーマで、聖書が啓示している罪とは何なのかを明らかにしていきます。
▶ 次の記事:「人の堕落 ― なぜ人は神から離れたのか?」
2025-02-02 | 人生の奥義シリーズ
この記事は、「人生の奥義」すなわち、「人生の目的」「生きる意味」を提示します。人生の奥義シリーズは全部で三記事の構成になります。このダイジェスト版は、それらすべてを簡潔にまとめた内容になります。
人生の奥義シリーズ:全三部作
第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?
第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?
第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?
📖 その奥義は、啓示によってわたしに知らされました。エペソ人への手紙 3章3節
Ⅰ. 人生の目的 ― なぜ生きているのか?
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人は何のために生まれたのでしょうか。人生の目的は何でしょうか。
- 仕事を頑張っても、何のためにやっているのか分からなくなる
- 夢を叶えても、「次は何をすればいい?」とむなしさを感じる
- 幸せになるために努力しているのに、本当に満たされているのか分からない
こうした悩みは、すべての人が共通して抱える問題 です。
A. なぜ、お金や成功では満たされないのか?
多くの人は、「お金」「成功」「楽しみ」が人生の目的だと考えますが、それらを手に入れた人が、必ずしも満たされているわけではありません。
なぜなら
- 大金持ちでも、人生にむなしさを感じる人がいる
- 成功した人が、達成感よりも空虚感の方が強かったと語ることがある
- 快楽を追い求めても、一時的な満足しか得られない
なぜでしょうか?それは、人間が本来持つ「もっと深い渇き」を満たすものではないからです。では、人間の生きるの目的とは何でしょうか?
これを理解するためには、人がどのように創造され、どのような目的をもって造られたのかを知る必要があります。聖書は人の創造について語ります。ですから、聖書を理解することによって人生の意義を知ることができます。
Ⅱ. 人生の目的 ― 神が人を造られた理由
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📖 「神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』」創世記 1:26 前半
聖書は、「人は神のかたちに造られた」(創世記 1:26)と語っています。つまり、人は偶然に存在しているのではなく、神によって意図的に造られた のです。神は人をご自身のかたちに造られました。手袋は手のかたちに作られます。それは手を入れるためです。同じように、人が神のかたちに造られたのは、神を入れるためです。人は「神を入れる器」として造られました。ですから、神以外のもので人を満足させることはできません。
人は、目に見える体だけでなく、心(考えや感情)や、さらに深い部分である「魂」と「霊」を持っています。その中で「霊」は、人が本当の意味で満たされるためにとても重要な部分です。ちょうどラジオが電波を受信するための機能を持っているように、人の霊は、目に見えないけれども確かに存在する「神」とつながるためのものです。神が人の内側に入り、心の奥深くで人とともにいることで、人は本当の満足を得ることができます。これこそ、人が生まれ、生きる本当の意味なのです。
あなたが生きている目的は、神を受け入れ、神と共に生きること です。しかし、ほとんどの人はこの目的を知りません。なぜでしょうか?それは、人間が 「神から離れてしまった」 からです。
Ⅲ. 人の堕落 ー なぜ人は神を知らないのか?
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あなたは、
✔ 良い人でいたいのに、自己中心的な思いを捨てられない
✔ 人を赦したいのに、恨みの心が消えない
✔ 正しく生きたいのに、誘惑に負けてしまう
善いことをしたいのに、思うようにできずに葛藤したことはありませんか? それは、人にはもともと善を求める心があるにもかかわらず、罪が入り込んだことで神から離れてしまったからです。
📖 わたしは自分の欲する善を行わず、かえって自分が欲していない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行うなら、それを行いだすのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。ローマ人への手紙 7章19-20節
罪とは、単なる悪い行いではなく、人の内側に入り込んだ「悪の力」 です。この罪によってわたしたちは善を行うことはできません。またこの罪によって人の中に死が入り込みました。
📖 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました。ローマ人への手紙 5章12節
「死」とは、神から離れることであり、神との交わりが断絶されることです。罪は神から人を遠ざけ、これによりわたしたちは何をしても満たされることがありません。罪が人の中に入り、その結果、神から離れたことが、何をしても満たされない真の原因です。
では、どうすればこの問題を解決できるのでしょうか?
Ⅳ. 解決の道 ― キリストが罪の問題を解決された
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人間の罪の問題を解決するために、神は御子イエス・キリスト をわたしたちのためにこの世に送られました。
📖 神はそのひとり子を賜ったほどに、世の人を愛された。それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。ヨハネによる福音書 3章16節
キリストは、あなたの罪をすべて背負い、十字架で死なれました。
📖 神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わって罪とされました。それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。コリント人への第二の手紙 5章21節
キリストの十字架の死は、あなたの罪を背負った身代わりの死でした。しかし、それだけではありません。キリストは死から復活されました。
📖 このイエスを、神は復活させました。わたしたちはみな、そのことの証し人です。使徒行伝 2章32節
キリストは、死と罪の力を打ち破り、復活されました。これは、死が終わりではないことの確かな証拠であり、私たちに復活の命を分け与えるためです。主イエス・キリストは死人の中から復活し、『命を与える霊』となられました。今や、この『命を与える霊』であるキリストは、人の内に入ることができます。もしキリストを受け入れるなら、その人は永遠の命を持ち、神がその霊の中に住まわれることで、喜びに満ちた人生を歩むことができるのです。
Ⅴ. どうすればキリストを受け入れられるのか?
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では、どのようにすればキリストを受け入れ、神との関係を回復することができるのでしょうか?
A. キリストを受け入れるための4つのステップ
キリストはすでにあなたの罪のために身代わりの死を成し遂げられ、復活されました。あとは、あなたがそれを 「自分のものとして受け取る」 だけです。
📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。ローマ人への手紙 10章9節
では、キリストを受け入れるために 必要な4つのステップ を見ていきましょう。
① 悔い改め ー 神に心の向きを変える
📖 この時からイエスは宣べ伝え始めて言われた、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」。マタイによる福音書 4章17節
「悔い改め」 とは、単に過去のあやまちや罪を後悔することではありません。また、「良い行いをしよう」と決心してやり直すことでもありません。悔い改めとは、「思いの向きを変える」こと です。以前あなたは神に背いている人でした。あなたの思いが神に背いていたのです。
🔹 今まで:自分中心の人生を生き、神なしで生きてきた。
🔹 これから:神に向き直り、神のもとに戻るために心の向きを変える。
たとえば、もしあなたが間違った方向に歩いていたら、まずは進行方向を変える必要があります。同じように、人生の進む方向を 神に向き直すことが悔い改めです。
② 信じる ― キリストを受け入れる
📖 「それは、彼の中へと信じる者がすべて、永遠の命を持つためである」。 ヨハネによる福音書 3章15節
「信じる」とは、うなずくことでも、同意することでも、知識として理解することでもありません。信じることは 「受け入れること」 です。
たとえば、誰かがあなたに腕時計をプレゼントするとします。それを 「素敵ですね!」 と言っても、それだけでは十分ではありません。その腕時計を 実際に受け取る 必要があります。キリストも同じです。彼はすでにあなたのために死に、復活し、救いを用意してくださいました。でも、それを あなた自身のものとして受け取る ことが必要です。
③ 呼び求める ― 口で告白する
📖 なぜなら、「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」からです。ローマ人への手紙 10章13節
神は 「主の御名を呼び求める」こと を求めています。例えば、 結婚も「心の中で好き」と思っているだけでは成立しません。実際に 「結婚します」と告白することで、関係が確定します。キリストとの関係も同じです。
心でキリストが自分の罪のために死に、復活したことを信じ、イエスが主であると口で言い表すなら、あなたは救われます。
呼び求める方法はとても簡単です。「主イエスよ!」と声を出して呼び求めてください。ただこれだけです。8回ほど主を呼び求め、あなたの内側の深い部分に変化を感じるでしょう。
④ バプテスマされる ― 証しする
📖 信じてバプテスマされる者は救われる。しかし、信じない者は罪に定められる。マルコによる福音書 16章16節
バプテスマとは、「キリストを受け入れた」ことの公に証しすることです。バプテスマは、単なる儀式ではなく、神の王国に入るための重要なステップ です。
📖 イエスは答えられた「まことに、まことに、わたしはあなたに言う。人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。」ヨハネによる福音書 3章5節
バプテスマを受けることで、あなたはサタンの国から、神の王国へと移されます。バプテスマは自分一人では出来ませんので、あなたがキリストを受け入れたのであれば、クリスチャンにバプテスマしてほしいことを伝えれば良いでしょう。
Ⅵ. 祈ってみてください!
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あなたが「キリストを受け入れたい」と思うなら、今、心を開いてこの祈りをしてみてください。
「主イエスよ!わたしは罪人です。わたしはあなたが必要です。わたしの罪のために死んでくださり、復活してくださって感謝します。今、わたしはあなたをわたしの救い主として受け入れます。わたしの霊の中に入ってきて、わたしを新しくしてください。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン!」
Ⅶ. キリストを受け入れたら、次に何をすればいいのか?
あなたがキリストを受け入れたなら、ここからが新しい人生の始まり です。
神との関係をさらに深めるために、以下のことを実行してみてください。
✅ 聖書を読む(神の言葉を知る)
✅ 祈る(神と交わる)
✅ クリスチャンと交わる(共に成長する)
✅ 集会に参加する(主を礼拝する)
わたしたちはあなたを神の家族として歓迎します。主があなたを導いてくださいますように。
人生の奥義シリーズ:全三部作
第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?
第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?
第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?
2025-02-02 | 初信者成就シリーズ
(この記事は6,960文字で、14分で読み終えることができます。)
バプテスマは聖書の中で非常に大きなテーマです。わたしたちはバプテスマについて、二つの面においてはっきりしていなければなりません。その二つの面とは、第一に「バプテスマされる前にはっきりしなければならないこと」です。第二に「バプテスマされた後に振り返ってみること」です。第一は「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということであり、第二は「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。
バプテスマとは何でしょう?早速、結論を申し上げます。バプテスマとは、神の完全な救いを受けるための手続きであり、救われたことを外側に宣言、表明する行為です。また、バプテスマはわたしたちを”この世”から出てこさせ、救いを得させ、この世から離脱させます。これがバプテスマです。
ここからは「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」、「バプテスマにはどのような意義があるのか」という、この二つに分けて詳しく見ていきたいと思います。
Ⅰ. バプテスマは人に何をするのか?
信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
マルコによる福音書 16章16節
この聖書の節は、バプテスマが人に何をするかを言っています。ですから、これは第一の面です。この節は「信じること」と「バプテスマされること」は切り離されておらず、一つの事柄であることを見る必要があります
A. 信じてバプテスマされる者は救われる
1.「信じること」と「バプテスマされること」
「信じてバプテスマされる者は救われる」(マルコ16:16前半)この節には「信じること」と「バプテスマされること」の二つのことが述べられています。「信じること」とは、主イエスを救い主として受け入れることです(ヨハネ1:12)。福音を信じるとは、救い主である主イエスを信じることであり(使徒16:31)、彼を信じるとは、彼をわたしたちの中へと受け入れることです(ヨハネ1:12)。悔い改め、主イエスを信じた者は、永遠の命を持ちます(ヨハネ3:15)。
「バプテスマされること」とは、主イエスの死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また主イエスの復活を通して復活させられ、神の新創造となることよって、これを証しすることです。
旧創造とは、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの人です。生まれながらのわたしたちには神の命、神聖な性質はありません。これが旧創造です。
古い人とは、アダムに属します。アダムは神によって創造されましたが、罪のゆえに堕落しました。全人類はアダムの子孫ですから、すべての人は生まれながらにして罪の性質を持っています。これが古い人です。
新創造とは、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人(ヨハネ3:6)、神の命と神の性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10-11)、新しい構成となったものです。
罪と暗やみの中にいたわたしたちは、主イエスを信じることによって救われます。主イエスを信じ、受け入れた瞬間に、わたしたちは永遠の命を受け、再生されます。これは、霊的に一瞬にして行われることであり、この時、旧創造は終わらせられ、新創造となります。しかし、これは霊的に行われることであるので、わたしたちは、それを見える形で証しする必要があります。それがバプテスマです。
「信じること」は内側の出来事であり、「バプテスマされること」は外側に確証することです。「信じること」と「バプテスマされること」は、神の完全な救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。主イエスを信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また、主イエスを信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側に確証がありません。これらの「信じること」と「バプテスマすること」は並行すべきです。
2. 信じない者は罪に定められる
「しかし、信じない者は罪に定められる。」(マルコ16:16後半)この節は、「信じないでバプテスマされない者」とは言っていません。これは罪定めが「信じないことだけ」であって、「バプテスマされないこと」とは関係がないことを示しています。主イエスを信じることだけで、人が罪定めから救いを受けるのに十分です。しかし、人の内なる救いの完成のために、信じることは、外側の確証としてのバプテスマを必要とします。
B. バプテスマは人を”この世”から救う
バプテスマはわたしたちをこの世から救います。まず、わたしたちは”この世”とは何かを見ていきましょう。
1. 罪とこの世の違い
わたしたちは神の御前で罪が忌み嫌われるものであることを知っています。しかし、罪だけでなく神はこの世をも忌み嫌っていることを知る必要があります。この両者はけがれており、取り除かなければなりません。しかし、わたしたちはこの両者がわたしたちに与える汚れが異なっていることを見る必要があります。罪の汚れは野蛮で粗暴、醜悪(しゅうあく)です。この世の汚れは文明的で、洗練されており、多くの場合、人の目には美しく映ります。
罪の汚れは、白いワイシャツについた墨のしみか、泥がはねたようです。この世の汚れは、白いワイシャツにプリントされた色とりどりの図柄のようです。一般の人から見れば、ワイシャツにしみがあればきたなくて、それはあるべきものではありません。一方、色とりどりの柄はきたないものではなく、あってしかるべきものです。しかし、神の目には、この双方ともあるべきものとは映りません。また、罪とこの世が人に与える害も多いに異なっています。罪は人を汚します。この世は人を汚すばかりか占有します。ですから、罪は人を汚すもの、この世は人を占有するものです。サタンがもし罪によって人を汚すだけなら、それは人を堕落させるに過ぎません。しかし、この世をもって人を占有するなら、サタンは人を自分のものにしてしまいます。
例えば、両親のもとに純粋な子供がいたとします。もしだれかが、その子供にうそをつくことや盗みをすることを教え、悪いことをするように誘惑するなら、彼の純粋な性質は汚され堕落してしまいます。しかし、この時はまだ彼は両親の保護の下にあります。しかし、ある日、例の悪事を行う者が来て、二着の素敵な洋服で彼をとりこにして、自分のものとしてしまったらどうでしょう?彼は両親のもとを去り、いなくなってしまいます。同じように、サタンが罪によって人を汚しても、それは人を堕落させるだけですが、もしサタンがこの世をもって人を占有するなら、その人を神の御前から離れさせて失われたものとしてしまいます。
2. この世の定義
この世の支配者とはサタンです(ヨハネ12:31)。ですから、この世はサタンに属するものです。そして、この世の友となること、すなわち、この世に占有されることは神の敵となることです(ヤコブ4:4)。
ここで、この世を定義したいと思います。この世とは、人の上で神にとって代わり、人を占有するすべてのものです。人でも事でも物でも、善であろうと悪であろうと、美しいものであれ醜いものであれ、何であれ人を占有して神を思わせない、神に頼らせない、神に属させないようにするものは、すべてこの世です。
この世のギリシャ語は κόσμος(コスモス,kosmos)であり、系統や組織を意味します。サタンは人生に必要な人、事、物を利用して人を占有するだけでなく、さらに進んで、これらの人、事、物を個々の系統に組織し、もっと強力に人を占有します。今日のこの世にある大学は、社会学科、心理学科、美術学科、音楽学科など多くの科に分かれています。人々はこの中にあって、ある人はこの科にとりこになり、ある人は別の科にとりこになっています。サタンはこの多くの人生系統を利用して人々を束縛し、占有し、完全に神を捨てさせ、神を忘れさせ、この世の風潮に従わせます。
3. わたしたちはこの世から出る必要がある
イエスはご自身の王国はこの世ではないと言われました(ヨハネ18:36)。そして、主イエスを信じるわたしたちを暗やみの権威(サタンの王国、この世)から御子の王国へと移してくださいました(コロサイ1:13)。ですから、クリスチャンはこの世に生きていますが、この世に属してはいません。しかし、この世に属していないこと、救われ、再生され、神の民とされ、主イエスを王とする王国の民であることをこの世に宣言するためにはバプテスマが必要です。
例えば、あなたが主イエスを救い主と信じ、永遠の命を受けたとします。もし、あなたがバプテスマしないなら、あなたが救われたことを知る人はあなた以外に誰もいません。もし、あなたがバプテスマされることを拒むなら、他の人があなたを兄弟姉妹であると知ることはできません。
また、あなたが職場で主イエスを受け入れたことを証しすることは不可能です。なぜなら、あなたに救われたことを外側に証しする確証をもっていないからです。バプテスマはただの儀式ではありません。バプテスマされることは大きなことです。バプテスマは、あなたが救われたこと、神の民となったこと、この世とは決別した者となったことを証しすることです。もし、あなたがバプテスマするなら、大胆さを持つでしょう。あなたは大胆に「わたしはクリスチャンになりました!」と人々に証しすることができるでしょう。それがこの世から救われるということです。もし、外側に救われたことを証しせず、クリスチャンであることを隠しているなら、この世から救われていないのです。
4. バプテスマとは”この世”から出てくることである
では、バプテスマとは何でしょう?バプテスマされるとは、この世から離脱すること、この世との関係を断つことです。主イエスを信じる者には永遠の命があるという点については、全く問題がありません。すべての人は主イエスを信じるならすぐに命が入り、永遠に恵みを受け、その他の問題はすべて解決します。
しかし、人がただ信じただけでバプテスマされないなら、その人はまだ救われていません。なぜなら、あなたと他の人との違いを知っている人は、誰一人としていないからです。バプテスマとは、この世との関係を断ち切ったことを宣言することです。そうしてはじめてあなたは救われ、そして、他の人はあなたが救われたことを知るでしょう。
C. バプテスマは水を通して人を救う
「バプテスマ」のギリシャ語の動詞は βαπτίζω(バプティゾー, baptizō)で、「浸す」「洗う」「沈める」などの意味があります。この動詞から「バプティスマ」が派生しており、元々は水に浸す行為や洗う行為を指していました。ですから、バプテスマとは、あなたを水に浸す、沈める、水によって洗うことです。ノアの箱舟の物語は、バプテスマの型でした。
ペテロは、このノアの物語について、「箱舟に入り、水の中を通って安全に救われた・・・」(第一ペテロ3:20)と言いました。この言葉は、人は水を経ることによって救われることを見せています。ですから、バプテスマは水を経ることによってわたしたちを救います。バプテスマは、わたしたちを水の中にもたらし、また水をから出てこさせます。ノアの箱舟に乗った人たちが水から出てきて救われたと同じように、わたしたちはバプテスマされ、水から出てくることによって救われるのです。
D. バプテスマは人を”この世”から離脱させる
以上のことから、わたしたちがバプテスマされるやいなや、この世から離脱します。ですから、主イエスを信じた者が、まずはじめにしなければいけないことは、バプテスマです。わたしたちは、この世が神の御前でどういう地位にあるかを見なければなりません。あなたとこの世との関係が断たれることが救われたことです。それはバプテスマによって確証します。こうして、あなたは今後、この世の外におり、別の側に移されるのです。
もう一度、質問します。バプテスマとはなんでしょう?バプテスマとは、この世から出てくることであり、この世から分離する一つの手続きです。あなたがバプテスマされるなら、それはこの世から出てきたことの証し、宣言することです。以上が、第一の「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。
Ⅱ. バプテスマの意義
ここからは、第二の「バプテスマにはどのような意義があるのか」を見ていきます。このバプテスマの意義は、あなたがバプテスマした後に振り返るためです。わたしたちはバプテスマを10年経って振り返り、20年経って振り返る必要があります。もし、あなたがバプテスマされていないなら、振り返ることは困難でしょう。バプテスマされた人は、実際に水の中に入り、水の中から出てきたことを鮮明に覚えています。このバプテスマが振り返ることのできる出来事となります。
なぜバプテスマを振り返る必要があるのでしょうか?それは、年数が経ってはじめて、バプテスマの真の意義を理解することができるからです。その真の意義とは、バプテスマされた時「主と共に死んだ」(ローマ6:3)ということ、バプテスマされた時「彼と共に葬られた」(コロサイ2:12)ということ、バプテスマされた時「彼と共によみがえった」(コロサイ2:12)ということです。
A. わたしたちは死んだ
主イエスが十字架に釘づけられて死なれた時、彼はわたしたちを伴って十字架についてくださったので、わたしたちも釘づけられて死にました。
わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半
主イエスは神の御前で、わたしたちという人を処理してくださいました。あなたはこのことを見たでしょうか?自分の罪深さを知る時、自分のどうしようもなさを知る時、主イエスの死を聞くなら、それは福音です。自分がどんなに悪いかを見、どんな方法を尽くしてもうまくいかない時、あなたがすでに死んだことを聞くなら、これも福音です。主の死はわたしたちを含みます。
わたしたちが水の中に入ってバプテスマされる時、あるいは主を信じて長年経過して、バプテスマを振り返って見る時、自分がすでに死んでしまった人であることを覚えているべきです。あなたはクリスチャンになって、良い人間になろうとして、もがいているかも知れません。罪ばかり犯す自分にうんざりしているかも知れません。しかし、聖書はあなたは「すでに死んでいる」と言います。これは、あなたがもう良い人間になる必要がないことを告げています。ただあなたは、すでに死んでいることを宣言するだけでいいのです。そうすれば、キリストがあなたに代わって生きてくださるでしょう。これがバプテスマを振り返る意義です。
B. わたしたちは死んで復活した者である
主が十字架で死なれた時、わたしたちは死にました。そして、主イエスが復活させたれたことにより、復活の力がわたしたちの中に置かれ、この力によってわたしたちは再生されました。水を経て出てきて、復活させられたあなたは、もはや以前のあなたではありません。
わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半
生きているのは、もはやわたしではありません!バプテスマを振り返り、わたしたちはこの言葉を宣言すべきです。
「わたしはキリストと共に十字架につけられました!生きているのはもはやわたしではありません!キリストがわたしの中に生きておられるのです!」
まとめ
わたしたちは、これまでバプテスマについて見てきました。バプテスマには二つの面があります。第一の面は、バプテスマの前のことであり「バプテスマはわたしたちに何をしてくれるのか」ということです。バプテスマは、わたしたちを”この世”から救います。また、バプテスマは、この世から離脱したことを宣言することです。
第二の面は、バプテスマの後のことであり「バプテスマにはどのような意義があるのか」ということです。バプテスマの意義は、わたしたちは死んだということ、葬られたということ、復活したということ、そして、今、わたしたちはキリストの中におり、キリストがわたしたちの中にいるということです。わたしたちは、絶えずバプテスマを振り返り、自分自身が死んで葬られたことを思い起こす必要があるのです。
参考書籍
「ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)」第一編 ウォッチマンニー著
「命の認識」ウィットネスリー著
「回復訳聖書 フットノート」ウィットネスリー著
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-30 | 教科書には載らない教会歴史
「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。
キリスト教会の歴史を学ぶとき、多くの人は「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「近代のプロテスタント教会の発展」といった出来事を思い浮かべるでしょう。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。この深い霊的な視点こそ、「教科書には載らない教会歴史」です。「教科書には載らない教会歴史」、すなわち、真の教会の歴史とは、単なる組織や宗派の変遷ではなく、神がご自身の働きを回復し続けている歴史なのです。この神による回復の働きをわたしたちは、そのまま「主の回復」「神の回復」と読んでいます。
Ⅰ. なぜ「回復」が必要なのか?
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「回復」という言葉は、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、キリストの教会において、何が失われたのでしょうか?それは、神が本来望まれた教会の姿 です。
初代教会は、ペンテコステの日に聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれて、異なる教えや人間的な要素が教会の中に入り込み、教会は徐々に神の本来の意図から逸れていきました。権力、伝統、組織化……。こうして教会は、外面的には繁栄しているように見えても、神の御心からは遠ざかってしまった のです。この神が本来望まれた教会の姿から逸脱することを「堕落」と言います。ですから、2000年の教会の歴史とは「教会の堕落の歴史」と言うことができます。
Ⅱ. 神の回復の働き
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しかし、神は教会をこのままにはされませんでした。2000年に及ぶ教会歴史を学ぶなら、その歴史は「堕落の歴史」であるだけなく、「回復の歴史」でもあることを見ることができます。ある時代には個人を、ある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復 してこられました。
16世紀にはマルチン・ルターを用いて、「信仰による義認」を回復しました。17〜18世紀においては、ヨーロッパで主を愛する聖徒たちによって、「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」が回復されました。19世紀にはブラザレンの聖徒たちにより、宗派や組織を離れ、キリストにある信者が一つに集まること、また、正常な教会生活の開始を持ちました。20世紀では、中国において、「キリストのからだとしての教会生活の実行」を回復しました。これらは、神の回復の働きです。
- 16世紀の宗教改革 ― 聖書の権威と「信仰による義認」を回復
- 17〜18世紀の敬虔主義・メソジスト運動 ― 「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」の回復
- 19世紀のブラザレン運動 ― 「教会の一と聖書の真理」の回復
- 20世紀以降の主の回復 ― 「キリストのからだとしての正常な教会生活」の回復
こうして、神は時代ごとに、御心にかなう真理と実行を回復されてきました。
Ⅲ. 今の教会はどうなのか?
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この歴史を振り返ると、ある問いが生まれます。
もし神が歴史を通して回復の働きを進めてこられたのなら、今の私たちはどこにいるのか?
あなたが今所属している教会は、神が回復されてきた真理のどこに立っているでしょうか? かつての堕落した教会のように、知らぬ間に人間的な伝統や組織の影響を受け、神の御心から逸れてはいないでしょうか?
それ以上に、あなたは本当に神の御心にしたがって歩んでいるのでしょうか?
教会の歴史は、単なる過去の話ではありません。それは今も続いている神の働きであり、わたしたちはその歴史の中に生きているのです。これが 「教科書に載らない教会歴史」 です。
Ⅳ. どうすればいいのか?
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もし、あなたが自分を義とせず、「私は本当に神の御心にしたがって歩んでいるのだろうか?」と問いかけるなら、あなたは神が今まさに行われている働きを知る必要があります。そして、その働き――すなわち主の回復の働き を知るためには、「まず、真の教会の歴史を知る」 必要があります。
多くのクリスチャンは、キリスト教の歴史を「宗派の発展の流れ」としてしか見ていません。しかし、本当の教会の歴史とは、神が堕落した教会をどのように回復してこられたのか という視点から見るべきものです。そして重要なのは、神は過去だけでなく、今もその回復の働きを続けておられる ということです。
Ⅴ. 次の記事へ――主の回復の歴史をたどる
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では、「神はどのように教会を回復してこられたのか?」そして、「神が今しておられる働きとは何なのか?」
次の記事では、この視点から教会の歴史を詳しく見ていきます。あなたが今どこにいるのか、そして神がどこへ導いておられるのかを知るために、共に神の回復の歴史をたどっていきましょう。
この「教科書には載らない教会歴史」は全10の記事で構成されています。教会が誕生した2000年前に遡り、時代を経てどのように神が回復の働きをおこなわれてきたのかを見ていきます。是非、PART 1から順番にご覧ください。
【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
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