2025-01-30 | 教科書には載らない教会歴史
「キリストの教会歴史を知りたい」と思ったあなたへ。
キリスト教会の歴史を学ぶとき、多くの人は「ローマ・カトリックの成立」「宗教改革」「近代のプロテスタント教会の発展」といった出来事を思い浮かべるでしょう。しかし、それらの出来事の背後には、もっと深い霊的な視点 があります。この深い霊的な視点こそ、「教科書には載らない教会歴史」です。「教科書には載らない教会歴史」、すなわち、真の教会の歴史とは、単なる組織や宗派の変遷ではなく、神がご自身の働きを回復し続けている歴史なのです。この神による回復の働きをわたしたちは、そのまま「主の回復」「神の回復」と読んでいます。
Ⅰ. なぜ「回復」が必要なのか?
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「回復」という言葉は、失われたものを取り戻し、元の正常な状態に戻すことを意味します。では、キリストの教会において、何が失われたのでしょうか?それは、神が本来望まれた教会の姿 です。
初代教会は、ペンテコステの日に聖霊によって生み出され、キリストのからだとして機能していました。しかし、歴史が進むにつれて、異なる教えや人間的な要素が教会の中に入り込み、教会は徐々に神の本来の意図から逸れていきました。権力、伝統、組織化……。こうして教会は、外面的には繁栄しているように見えても、神の御心からは遠ざかってしまった のです。この神が本来望まれた教会の姿から逸脱することを「堕落」と言います。ですから、2000年の教会の歴史とは「教会の堕落の歴史」と言うことができます。
Ⅱ. 神の回復の働き
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しかし、神は教会をこのままにはされませんでした。2000年に及ぶ教会歴史を学ぶなら、その歴史は「堕落の歴史」であるだけなく、「回復の歴史」でもあることを見ることができます。ある時代には個人を、ある時代にはグループを用いて、少しずつ失われたものを回復 してこられました。
16世紀にはマルチン・ルターを用いて、「信仰による義認」を回復しました。17〜18世紀においては、ヨーロッパで主を愛する聖徒たちによって、「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」が回復されました。19世紀にはブラザレンの聖徒たちにより、宗派や組織を離れ、キリストにある信者が一つに集まること、また、正常な教会生活の開始を持ちました。20世紀では、中国において、「キリストのからだとしての教会生活の実行」を回復しました。これらは、神の回復の働きです。
- 16世紀の宗教改革 ― 聖書の権威と「信仰による義認」を回復
- 17〜18世紀の敬虔主義・メソジスト運動 ― 「内なる命の経験」「個人的な霊的生活」の回復
- 19世紀のブラザレン運動 ― 「教会の一と聖書の真理」の回復
- 20世紀以降の主の回復 ― 「キリストのからだとしての正常な教会生活」の回復
こうして、神は時代ごとに、御心にかなう真理と実行を回復されてきました。
Ⅲ. 今の教会はどうなのか?
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この歴史を振り返ると、ある問いが生まれます。
もし神が歴史を通して回復の働きを進めてこられたのなら、今の私たちはどこにいるのか?
あなたが今所属している教会は、神が回復されてきた真理のどこに立っているでしょうか? かつての堕落した教会のように、知らぬ間に人間的な伝統や組織の影響を受け、神の御心から逸れてはいないでしょうか?
それ以上に、あなたは本当に神の御心にしたがって歩んでいるのでしょうか?
教会の歴史は、単なる過去の話ではありません。それは今も続いている神の働きであり、わたしたちはその歴史の中に生きているのです。これが 「教科書に載らない教会歴史」 です。
Ⅳ. どうすればいいのか?
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もし、あなたが自分を義とせず、「私は本当に神の御心にしたがって歩んでいるのだろうか?」と問いかけるなら、あなたは神が今まさに行われている働きを知る必要があります。そして、その働き――すなわち主の回復の働き を知るためには、「まず、真の教会の歴史を知る」 必要があります。
多くのクリスチャンは、キリスト教の歴史を「宗派の発展の流れ」としてしか見ていません。しかし、本当の教会の歴史とは、神が堕落した教会をどのように回復してこられたのか という視点から見るべきものです。そして重要なのは、神は過去だけでなく、今もその回復の働きを続けておられる ということです。
Ⅴ. 次の記事へ――主の回復の歴史をたどる
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では、「神はどのように教会を回復してこられたのか?」そして、「神が今しておられる働きとは何なのか?」
次の記事では、この視点から教会の歴史を詳しく見ていきます。あなたが今どこにいるのか、そして神がどこへ導いておられるのかを知るために、共に神の回復の歴史をたどっていきましょう。
この「教科書には載らない教会歴史」は全10の記事で構成されています。教会が誕生した2000年前に遡り、時代を経てどのように神が回復の働きをおこなわれてきたのかを見ていきます。是非、PART 1から順番にご覧ください。
【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
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2025-01-21 | 教科書には載らない教会歴史
英国ブラザレンが起こされてから100年後、1920年に、主は異邦の地である中国に行かざる得なくなりました。なぜなら、彼にはヨーロッパとアメリカにおける混乱した状況において主には回復の働きをする道がなかったからです。この回復は、キリストのからだの回復です。これが今日、主が求めてられるものであり、回復されている働きです。
Ⅰ. 主は福音の処女地である中国において新しい事を開始する
十八世紀に、モラビア兄弟団がヨーロッパ大陸にありました。十九世紀に、英国においてブラザレンが主によって用いられました。一世紀後、主は極東の中国において新しい事を開始されました。中国での主の回復の働きおいて、主はウォッチマン・ニーを召されました。この主の働きは1922年から中国の福州において開始されました。ウォッチマン・ニーはこのように言いました。「主がわたしたちを起こされた時までに、正しい教会生活に関する限り、西洋世界はダメにされました。ヨーロッパとアメリカの両方において、カトリック、国教会、私立教会は多くの混乱を引き起こしました。ブラザレンが現れた後、彼らはキリストのただ一つからだがあること、またただ一つの教会があることを、分裂があるべきでないことを宣言しましたが、最終的に他のどのグループよりも分裂しました。ですから、ヨーロッパとアメリカには、混乱したキリスト教があるだけです。主は処女地である中国に来ざる得ませんでした。今、主が中国に来て、新しい事を開始したということです」。中国は異邦の地であり、多くの信者はいませんでしたが、教会に関して複雑ではありませんでした。このゆえに、主は中国において彼の回復を開始することができたのです。こうして、中国において主の回復が始まりました。
ウォッチマン・ニー兄弟はほとんどあらゆる宗派から、あらゆる種類のキリスト教の実行から、教会歴史を通じてすべての追い求める聖徒から、良い、助けとなる事柄を取り上げて、それらを伝えました。彼は、「わたしたちはわたしたちの前にいた多くの聖徒たちの肩の上に立っている」と言いました。これは主の回復の働きの継続でした。彼は1930年以前に一世紀からのキリスト教の文書を内容とする古典的なキリスト教の書籍を三千冊以上も集めていました。彼が20歳から25歳の時、彼の寝室は本に満ちていました。彼は特別な賜物を主から受けていました。彼はあるものを読む時、戻ってそれを見直す必要はありませんでした。彼はただ読んだことを徹底的に、正確に述べることができました。彼は聖書を知っており、命を知っており、主を知っており、教会を知っており、教会歴史を知っている人でした。
中国における教会生活の初期に人々がウォッチマン・ニー兄弟のもとに来た時、彼らはこの集まりがバプテスト教会であるのか、長老教会であるのか、ペンテコステ教会であるのか、ブラザレン教会であるのかと疑問に思いました。なぜなら、ウォッチマン・ニーの実行はバプテスト派で行うように、人々をバプテスマしました。また長老派が行うように、教会の統治を持ちました。またペンテコステ派が強調したその霊の注ぎ出しを経験しました。またブラザレンが解き放ったすべての真理を持っていました。ウォッチマン・ニーは一世紀からすべての聖徒を通して主が回復した多くの良い事柄を集めて、教会生活を実行しました。
Ⅱ. ウォッチマン・ニーが主から受けた啓示
ウォッチマン・ニー兄弟は主から多くの啓示を受けました。主から受けた啓示の総合計は「キリストと教会」です。キリストと教会は聖書の偉大な奥義です。キリストは内容であり、教会は表現です。言い換えると、キリストは内側でわたしたちの命であり、教会(召会)は外側でわたしたちの生活です。
以下はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示の主要な項目です。
A. 地方教会の境界
ウォッチマン・ニーは1933年と1934年に地方教会に関する真理を見ました。1933年に彼はブラザレンに招かれて、英国にいる彼らを訪問しました。彼らはまた彼をカナダとアメリカ合衆国に連れて行きました。その時、彼はブラザレンの諸集会の間にある混乱と分裂を見ました。一つの都市にいくつかのブラザレンの集会があり得たのです。このことがウォッチマン・ニーを悩ませました。ですから彼は一年を費やして新約聖書を再び読み、学んで、地方の集会、地方教会の境界がその地方教会の立っている地方(都市)の境界であることを見ました。
B. 地方教会の立場
1937年の初めに、ウォッチマン・ニーは地方教会の境界だけでなく、地方教会の立場も見始めました。ウォッチマン・ニーは新約聖書に戻って、教会の実行上の表現に関する真理を調べました。この聖書研究と学びによって、彼は一つの都市にただ一つの教会があるべきことを見いだしました。地方教会は、都市に在る教会です。地方教会の立場は、一の立場であり、それはまた地方の立場と呼ばれます。例えば、大阪市に住んでいるなら大阪に在る教会で集会します。調布市に住んでいるなら調布に在る教会で集会します。北京なら北京に在る教会、台北なら台北に在る教会です。これは聖書的であるだけでなく、あらゆる人間の好き嫌いによる分裂、分派を排除します。すべての兄弟姉妹が分派、分裂なく集まることのできる聖書的な立場は地方の立場です。この教会の立場はからだの交わりを保ちます。これが神の願っている教会の一の立場です。
C. 教会生活の実行
教会の立場を見た後、ウォッチマン・ニーは教会生活の実行に関してはっきりしました。1940年に彼はウィットネス・リーにこのように言いました、「兄弟、わたしたちはこの手に教会生活に関する青写真を持っているのです」。ウォッチマン・ニーは務めの中で正常なキリスト者の教会生活の実行を導きました。また、その実行を受け継いだウィットネス・リーはそれを中国北部に持って行き、実行に移しました。この青写真のすぐれたはたらきを通して、大復興が中国北部にもたらされました。この結果、ウォッチマン・ニーが受けた啓示の真実性が主の働きによって証明されました。
D. キリストのからだ
1940年からウォッチマン・ニーは、常にキリストのからだを強調しました。彼には、聖徒たちがからだを見ることで、とても負担がありました。彼はメッセージに次ぐメッセージ、特別集会に次ぐ特別集会を与え、常に一つの事柄、すなわち、キリストのからだを見ることを強調しました。彼はよく聖徒たちにからだを見たかどうかを尋ねました。そして数人に、彼らが見たと思っていたことの証しをするように求めました。彼らの証しの後に、「あなたはからだを見たことがありません」と彼は言いました。これはわたしたちがからだを教理的には知っていても、それがわたしたちにとって実際でないかもしれない可能性があるということです。彼は聖徒たちがキリストのからだのビジョンを必要とすることを繰り返し強調しました。
Ⅲ. ウォッチマン・ニーの務めの最後
ウォッチマン・ニー兄弟の務めは中国共産党による国の占領により終わりを迎えました。共産党はある場所を占領した後、二年の自由を与えました。ウォッチマン・ニーは1950年と1951年に二年間の自由がありました。この二年間に、彼は最善を尽くして、できるだけ多くの書物を出版しました。なぜなら、彼は逮捕され投獄されることを予期していたからです。1952年に彼は逮捕されて四年間、投獄されました。1956年には彼は十五年の投獄を宣告されましたが、その日から1972年に死ぬまで、獄中にとどまりました。こうして、彼は死ぬまで二十年間、獄に入れられました。
共産党の占領により、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーにこれまで回復された真理を宣べ伝えるべく台湾に渡るように告げました。そして、ウォッチマン・ニーの務めをウォットネス・リーが引き継ぎ台湾において務めを開始しました。
Ⅳ. ウィットネス・リーの主の回復における務め
1948年11月初めに、アメリカ合衆国の大統領選挙がありました。共和党デューイと民主党のトルーマンが大統領の選挙運動をしていました。大多数の中国人はデューイが当選することを願っていました。しかし、トルーマンがアメリカ合衆国の大統領に当選しました。これは、政治情勢が変化することを意味しました。このことにより共産党軍は浦口に来ており、国内を占領しようとしていました。ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは緊急の特別集会を持ち、祈り、どうすべきかを交わりました。しばらくの沈黙の後、ウォッチマン・ニーは言いました、「わたしはどのような状況の下でも、わたしたちがリー兄弟を出国させなければならないと感じます。その他の兄弟姉妹はここにとどまって、わたしたちの働きを継続する必要があります」。
1949年2月にウォッチマン・ニーは福州から上海へ飛び、緊急の同労者集会を持ちました。その集会でも彼は繰り返して言いました、「リー兄弟の個人的な感覚がどうであっても、わたしたちは彼に国を出ることを求めなければなりません」。彼はまた、残りの同労者たちが国にとどまって、最後まで主に対して忠信であるべきであると言いました。この言葉に対してウォットネス・リーの感覚はとても重かったと言います。なぜなら、みながとどまっているのに、自分は国外へ遣わされようとしていたからです。ですから、彼は言いました、「ニー兄弟、あなたは、あなたと残りの人たちはとどまって主に対して忠信であり、わたしが国を出るべき唯一の者であると言明しました。これは、わたしがここにとどまって主に対して忠信であるのにふさわしくないからですか?」。ウォッチマン、ニーはウィットネス・リーに言いました、「ウィットネス兄弟、わたしたちは主に信頼していますが、ある日、敵はわたしたちを一網打尽にする可能性があることを、あなたは認識しなければなりません。ですから、あなたは行かなければなりません。このようにして、わたしたちは依然として何かを残すでしょう」。
A. 台湾に移住する
1949年3月末に、共産軍が南京から上海に進入しようとしており情勢は緊迫しました。ある日、ウォッチマン・ニーはウィットネス・リーに電報を打ち、直ちに福州の彼の所に来るようにと求めました。ウィットネス・リーは福州に飛んでニー兄弟の訓練に参加しました。数日後、共産党が杭州から南下し、間もなく福州に到着するという知らせが来ました。ニー兄弟は直ちに兄弟たちに、航空券を買いリー兄弟に台湾へ行かせるように告げました。こうして1949年にウィットネス・リーは台湾へ行き、ウォッチマン・ニーの主の回復の務めを継続しました。
Ⅴ. ウィットネス・リーの中心的な務め
ウィットネス・リーは1949年の台湾において務めを開始し、1997年のアメリカにおいて務めを終えました。彼の働きは、ウォッチマン・ニーの務めの継続でした。彼はウォッチマン・ニーが受けた主からの啓示をさらに発展させ、実行に移し、神の働きを全世界へと拡大させました。
彼の務めは1949年に台湾から始まり、東南アジア、極東へと地方教会を拡大、拡充させました。1962年からはアメリカへ移住し、国際的に地方教会の働きを拡充させました。彼の働きは文字の務めであり、歴代の聖徒たちが受けてきた啓示をさらに深化させ、聖徒たちに命の言葉を供給しました。1974年からは、聖書全巻を神のご計画から解き明かす講解メッセージを開始し、それはライフスタディという書物として記録されています。また、聖書の霊的な理解を深めるために聖書の翻訳を行いました。
A. 台湾での働き
台湾の台北での務めは、1949年8月から約300人を収容できる集会所をもって始まりました。第一に彼らは、台北の人口にしたがって福音ビラを配りました。その当時、台北の人口はわずか七十万人でした。彼らは全台北にビラを配りました。第二に、巨大な文字で福音の標語を印刷し、それらを幹線道路、小さな路地、駅、その他の重要な場所に貼りました。第三に、福音チームを送り出し、毎週一度か二度、出て行きました。チームの人はみな福音シャツを着て、チームは通りを行進し、詩歌を歌い、太鼓をたたき、人々が救われるように手招きしました。最終的に、約400人が主日ごとに記名し、大勢が救われました。一年目に救われる人の人数は三十倍に増えました。
B. 極東、東南アジアでの地方教会の拡大と拡充
1957年に教会生活が日本に拡大しました。1966年に韓国で教会生活が始まりました。15年間で30の諸教会と1880人が起こされました。
東南アジアにおける主の回復は、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイに到達しました。現在フィリピンには122の地方教会があり、約16,000人の聖徒たちがいます。インドネシアには17の地方召会があり、タイには、12の集会する場所があります。
C. アメリカへの移住
ウィットネス・リーはアメリカで働きをする意図を持っていませんでした。それは、ウォッチマン・ニーとのある交わりによりました。ニー兄弟はリー兄弟に言いました、「地上には、主の回復のために困難である二つの地域がある。その一つはアメリカ合衆国であり、それはこの世的で物質主義的であるからです。もう一つは東南アジアであり、それはその地域の人々があまりにも怠惰であるからです」。このことのゆえに、ウィットネス・リーは初期の年月で、主の回復の場所としてアメリカ合衆国を考えていなかったのです。
しかし、主の導きによって1957年に一度目のアメリカ合衆国を滞在しました。二度目は1960年であり、一ヶ月ほどアメリカ合衆国で滞在しました。この当時、アメリカ合衆国には追い求めるクリスチャンはいたものの、誰も「教会の立場」についてはっきりしていませんでした。ウィットネス・リーはこの時、「教会の立場」についてのメッセージを解き放しました。これによって、多くの兄弟たちが「教会の立場」について光を得ました。
この責任の兄弟たちの間に、以前ブラジルで働いていた実に重みのある西洋の宣教師であったクラーク兄弟と、グルーラー兄弟がいました。彼らはいずれもロンドンのオナーオークに住んで、特別集会に参加し、そこで霊的な助けを受けました。リー兄弟との談話の中で、彼らは教会の立場について聞いたことがなかったが、それについて聞いた後、とても尊いと感じると言いました。この機会をとらえて、ウィットネス・リーは、立場の基礎を彼らに据えました。
ウィットネス・リーは言いました。「T・オースティン・スパークス兄弟は確かに霊的な度量を持っており、命とキリストのからだの面に関する原則、例えば、からだの中の交わりの必要を強調します。彼の助けに基づいて、わたしたちはここニューヨークにおいてからだの交わりを願っています。しかしながら、例えば、もし一人の兄弟が事を行うのに一つの方法を主張し、他の兄弟が別の方法を主張するなら、どうして交わりがあり得るでしょうか?ですから、わたしたちは、立場が制限であることを見なければなりません。二人の人がいるだけでなく、ニューヨークで交わりを慕っている多くの人がいても、どのようにしてこれら多くの人は交わりの中にとどまることができるでしょうか?制限としての立場がなければ、異なる見解があれば直ちに分裂があるでしょう。教会の立場は、からだの交わりの実行のために必要です」。彼らは完全にこの言葉を受け入れました。
ウィットネス・リーは1961年、三度目にアメリカ合衆国へ行き、しばらくニューヨークに住んで、通常の特別集会を持ちました。ある日、ある兄弟がリー兄弟に言いました、「リー兄弟、去年あなたが来たとき、立場に関する真理を解き放ち、ニューヨークに在る召会に多大な助けを与え、召会が基礎を持つようにされました」。この言葉を受け、ウィットネス・リーはアメリカ合衆国での滞在期間を延長しました。1962年秋以降、リー兄弟は台湾に帰国する予定でしたが、内側にとても重い負担を感じ、アメリカにとどまって働きを開始すべきであることがとてもはっきりしました。1962年、ウィットネス・リーは台湾に戻らないことを決定し、ロサンゼルスにとどまり、アメリカ合衆国において主の回復の働きを開始しました。
D.文字の務め
聖書にはただ一つの務めがあります。それは「キリストと教会」に関するものです。この唯一の務め、「その務め」とは神の言葉を用いて、キリストを供給し、召会を生み出し、聖徒たちを建て上げ、彼らを共に成長させ、キリストのからだとすることです。これが「その務め」です。
この唯一の務めは神の語りかけです。この神の語りかけは文字の働きによってウォッチマン・ニーによって始まりました。初期の頃、この文字の務めはニー兄弟自身に属しているものでした。彼がメッセージを与え、それから書房が彼の与えたメッセージを印刷し発行していました。ニー兄弟は1922年から「現在の証し」誌の発行を始め、1925年に「クリスチャン」誌の発行を開始しました。後に、一人では処理できないため、ウォットネス・リーに編集の仕事をするように案配しました。この書房は彼の個人的なもので、この文字の働きも彼個人のものでした。
ウィットネス・リーは1949年に台湾に渡り、台湾で働きを始めました。彼は台湾において文字の働きが必要であるという負担がありました。ニー兄弟との交わりの中で、1950年より、福音書房を上海以外に、一つを台北に、もう一つを香港に持つことになりました。ウィットネス・リーがアメリカで働きを始めた後、彼はすぐに「ストリーム」誌を登録し、出版しました。現在は規模も大きくなり、書籍だけでなく、オーディーオテープ、ビデオテープも出ています。毎週木曜日に、アナハイムのリビングストリームミニストリーから発行され、世界各地の400箇所の諸地方教会へ供給されています(現在はさらに増えています)。
E. ライフスタディと聖書の翻訳
1974年にウィットネス・リーは務めの拠点をロサンゼルスからアナハイムへと移しました。この時、彼はライフスタディの訓練を始める負担を持ちました。彼はアメリカでの務めの最初の11年間において、キリスト、教会、そして王国など、さまざまなテーマに関するメッセージを特別集会で語りました。しかし、聖書における全体的な啓示を完全に網羅するには、単一のテーマでは不十分であることに気づきました。そのため、彼は聖徒たちが聖書を一冊ずつ開くことができるよう、務めを進めていくべきだと感じました。このため、1974年に半期訓練を通じて聖書全体を一冊ずつ学ぶ「ライフスタディ」を始めました。これは全聖書を開く講解メッセージです。
またその後に、彼は一群れの兄弟たちと、英文聖書の翻訳の働きを始めました。その大部分はウィットネス・リーたちの訳ではありませんでした。むしろ、権威ある訳の聖書からエッセンスを集め、原文を参照し、それを経験に照らし合わせながら、それを編集しました。それを「回復訳聖書」と呼びました。英語版回復訳新約聖書は1987年に完成され、旧約聖書は2003年に完成されました。日本語版は新約聖書が1995年、旧約聖書が2009年で完成。中国語は新約聖書が1987年、旧約聖書が2003年に完成ました。またこの回復訳聖書は40以上の言語に翻訳されています。
翻訳と編集作業の大部分は数人のアメリカ人の兄弟が行い、ウィットネス・リーが審査して承認しました。この訳本に基づき、長い時間を掛けてフットノート(聖書註釈)を書きました。フットノート(聖書註釈)を書き終えた後、参照聖句を整えました。訳文の整理、フットノート(聖書註釈)を書くこと、参照聖句の編集、各所のアウトラインを書くこと、メッセージのアウトラインを書く事、この五つの項目の作業を終えるのに四ヶ月かかりました。ウィットネス・リーの負担は、全地の460以上の諸地方教会がみな御言から供給を受けることでした。ライフスタディは1974年から開始し、1995年に全聖書の講解メッセージが終了しました。その内容は全1984篇のメッセージが提供され、これらは聖書全体(旧約39巻+新約27巻)を網羅しています。これらそれぞれ書籍として販売されています。
ウィットネス・リーは言います、「歴代、多くの人々は聖書を学び、解説し、いくつかの傑作がありました。しかしながら、より完全で、より十分な基準の訳本は決してありませんでした。過去六十年において、主はわたしたちに多くの新しい光を見せてくださいました。これらは以前の人が見たことのないものです。わたしたちは、わたしたちの前にいた人たちの方の上に立って、さらに多くの啓示を得ました。これは解放されるべきです。ですから、わたしたちはライフスタディの訓練を持つのです」。
回復訳聖書の翻訳完成年代
国 | 新約聖書完成 | 旧約聖書完成 | 全聖書完成 |
---|
アメリカ | 1987年 | 2003年 | 2003年 |
日本 | 1995年 | 2009年 | 2009年 |
中国 | 1987年 | 2003年 | 2003年 |
韓国 | 1990年代 | 完成(年不明) | 完成(年不明) |
スペイン語 | 1998年 | 翻訳中 | 翻訳中 |
ロシア語 | 2000年代 | 翻訳中 | 翻訳中 |
Ⅵ. ウィットネス・リーの務め
ウィットネス・リーの務めは、真にウォッチマン・ニーの継続でした。その内容は「キリストと教会」であり、それをさらに深化させました。彼は神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)に沿って務めを行いました。神のエコノミー(神の経綸、神のご計画)とは、神がキリストを通してご自身を人に分与し、召会を建造し、最終的に神と人が一つになるという永遠の計画を指します。この神のご計画の実現のために、各地方に地方教会を設立し、正常な教会生活の実行を導きました。彼は1997年96歳を持って、ご自身の務めを終えました。
しかし、主の回復の務めは現在も進行中です。この主の回復の務めは、全地にある諸地方教会のすべての聖徒たちによって行われています。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-21 | 教科書には載らない教会歴史
ブラザレンが起こされた後、神の回復の働きは大部分が完全でした。その後、神の回復の働きは徐々に継続しました。ブラザレンが起こされてから、100年の回復の働きは、ほとんどが英国においてでした。
Ⅰ. 各世界におけるその他の回復
A. 信仰によって生きる
神の御前で信仰によって生きることの回復は、ジョージ・ミューラーが中心人物でした。彼は、財政の実行上の事柄における祈りに対して、人は神の答えを見ることができると証ししました。これらの兄弟たちは、信仰によって生きる原則の下で生きました。なぜなら彼らはみな神の御前で信仰によって生き、宗教組織や人の方法から自由であったからです。
B. 勝利を得る
次は勝利を得る事柄の回復です。過去100年の教会歴史の歴史上の記録や伝記において、勝利を得る事柄を強調した一連の信者たちがいました。さらに、彼らは勝利を得る生活をしました。その一人にハンナ・ホワイトホール・スミス夫人がいました。彼女は、「クリスチャンの幸いな生活の秘訣」と呼ばれる本を書きました。これはケズィック・コンベンションに影響を及ぼしました。これらの信者たちは献身の真理だけを宣べ伝えました。彼らは、霊的な経験はすべて献身に基づいていると考えました。もし人が祈り、罪に打ち勝ち、力をもって福音を宣べ伝えることができないなら、それは彼が献身していないからであると言いました。
原則的に、回復があるとき、そこには主の臨在があります。しかし時が進んでいくにつれて、霊的な水準は落ちていきます。例えば、現在わたしたちが十六世紀に回復された信仰義認の真理を宣べ伝えることはどうでしょうか?もちろん、それは必要ですが、以前のように人に触れ、引き上げることないでしょう。なぜなら時代が変わっているからです。後ほど、ジェシー・ペン・ルイス夫人が立ち上がって、信者たちがキリストと共に十字架につけられることを宣べ伝えました。それは十字架の真理です。彼女は、どのようにして十字架がわたしたちの古い人を対処したかを説明しました。
命の事柄に関して、アンドリュー・マーレー兄弟がいます。彼はペン・ルイス夫人よりも少し早く、内住するキリストを真に知っていました。この後、T・オースティン・スパークス兄弟が出てきて、復活の事柄を見ました。ペン・ルイス夫人の中心的なメッセージはキリストの十字架であり、T・オースティン・スパークスの中心的なメッセージはキリストの復活です。これらは勝利を得る路線です。
- 信者の幸いの秘訣(ハンナ・ホワイトホール・スミス夫人)
- 内住するキリスト(アンドリュー・マーレー)
- キリストと共に死ぬ(ジェシー・ペン・ルイス夫人)
- 復活のキリスト(T・オースティン・スパークス)
これが適切な順序です。
C. 福音
無視すべてきでない別の大きな回復は、福音の回復です。英国でC・H・スポルジョンは伝道の王と呼ばれ、アメリカでD・L・ムーディーは伝道の大家と呼ばれました。彼らは多くの人を救いにもたらし、彼らの福音は多くの人に影響を与えました。この二人ほど福音を拡大した人はほとんどいません。
これに続いて国外伝道が起こりました。十九世紀の終わりに国外伝道は頂点に達しました。西洋の宣教団は全世界に福音を宣べ伝えました。それはアフリカ、南アメリカ、中国、日本、インド、さらには太平洋の孤島にまで及びました。
もし信仰による義認の回復から現在までのあらゆる回復の働きのリストを作るなら、聖書におけるほとんどすべての真理が回復されていることを見いだすでしょう。しかし、まだ回復されるべきものが残されています。それがキリストのからだの一の回復、正常な教会生活の回復です。以前として、キリストのからだがないのです。神はこの地上のキリストのからだを持つために中国で回復の働きを始められました。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
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参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-21 | 教科書には載らない教会歴史
十九世紀の主の回復の働きは主の回復の黄金期と呼ばれます。主はこの時代で、神の聖徒たちに真理に対する大きな光を与えられました。
Ⅰ. ブラザレンによる教会生活の回復
十九世紀、1825年〜1828年に、主はジョン・ネルソン・ダービーのリーダーシップでブラザレンを起こしました。D・Mパントンはブラザレンの運動とその意義は宗教改革よりもはるかに大きなものであったと言いました。宗教改革は政府との結び付きのゆえに、いくらかこの世的でした。しかし、ブラザレンの間の動きは、真に霊的なものでした。彼らは主に対する彼らの働きにおいて、どんな宣伝をすることも好みませんでした。J・N・ダービーの一枚の写真を見つけることさえ困難です。これらの信者たちが見た光は、ツィンツェンドルフやモラビア兄弟団が見たものを超えていました。ウォッチマン・ニーは、英国ブラザレンが興されたことは啓示録(ヨハネによる黙示録)における七つの手紙の中のヒラデルヒヤに在る教会の成就であると考えることができると言いました。このことは、ブラザレンの初期の状態が教会生活の完全な回復であったことを証明します。彼らは真理についての豊富な理解力と良い霊的状態を持っていました。
Ⅱ. ブラザレンの分裂
マルチン・ルターの宗教改革は、閉じられた聖書を解放しましたが、彼は聖書を解釈しませんでした。聖書を読む人々は理解するのが難しいと感じました。ブラザレンが起こされた時はじめて、聖書が解釈されました。彼らは大部分の予言と予表を解釈しました。残念なことに、彼ら自身の前例のない聖書の理解力の結果、彼らは教理に注意を払い過ぎ、それは議論という結果になりました。残念なことに、ブラザレンの黄金時代は、ほんの短期間、続いただけでした。結局、彼らの間に亀裂が生じました。最初の分裂は、J・N・ダービーとベンジャミン・ニュートンとの間に起こりました。彼らの論争は、信者たちの携え上げに関してでした。ダービーは、大患難の前に携え上げに関して強硬でしたが、ニュートンは、大患難後の携え上げに関して強硬でした。
その後、彼らの間に第二の亀裂がありました。この分裂は、いわゆる閉鎖的ブラザレンと開放的ブラザレンとの間にありました。ジョージ・ミューラーは、ブラザレンの間で導く兄弟の一人でした。彼は真の神の人でした。彼は十九世紀に信仰の王と呼ばれました。しかし、彼の理解とダービーの認識との間には、大きな食い違いがありました。ダービーと彼の追従者たちは、宗派に依然として加わっているどんなクリスチャンも、受け入れないと主張しました。彼らはすべての宗派を罪、悪と考えました。こうして、彼らの目に、ある人がどれほど善良で霊的であっても、彼が宗派にとどまっている限り、この悪の仲間であると見なされました。彼は宗派の中のクリスチャンを悪の仲間と見なし、受け入れようとしませんでした。しかしながら、ジョージ・ミューラーは、これは公正ではないと言いました。彼は、宗派にかかわりのある多くの親愛なる聖徒たちも、やはり主にとても近いと言いました。彼らは、これらの信者たちは拒絶され得ないし、彼らは受け入れられなければならないと主張しました。これがダービーとミューラーの間の食い違いでした。それはブラザレンの間に、もう一つの分裂を引き起こしました。こうして、この時までに、ブラザレンの間に三つの主要なグループがありました。すなわち、ベンジャミン・ニュートンのグループ、閉鎖的ブラザレン、開放的ブラザレンです。
この後、ブラザレンの教理的な論争が日ごとに増し加わりました。90年後、第一次世界大戦の終わりに、ブラザレンは150以上の集会に分裂しました。今日、ブラザレンは1000以上の集会があります。それらは何度も分裂しました。ブラザレンの間の分裂の始まりは、携え上げに関する不一致にありましたが、彼らに啓示された真理は、主の子供たちすべてにとって大いに益となりました。根本主義的キリスト教の神学の90%以上は、ブラザレンの教えから来たと言われています。アメリカ合衆国において、多くの根本主義の神学校は、C・I・スコフィールドの教えを用いています。スコフィールド博士は偉大な学者であり、ブラザレンの研究者でした。彼が自分の引照付き聖書や聖書通信講座で書いたもののほぼ90%は、ブラザレンの教えから採用されました。根本主義の各宗派がブラザレンの動きに同意してもしなくても、彼らの根本主義的教えは、ブラザレンの教えによって大いに影響されました。ある意味で、ブラザレンの教えはいわゆる教会を助けましたが、別の意味でこれらの教えは分裂という結果となりました。ブラザレンの間の動きは、初めのころ、実に驚くべきものでした。これは黄金時代であり、それは教会生活にとって大いなる助けでした。
Ⅲ. ブラザレンの間の回復
ブラザレンを通しての主の回復の働きは極めて強力でとても豊富でした。主は彼らを通して多くの事柄を回復されました。それは「絶対的にこの世を放棄すること」「兄弟愛」「実行上の生活」「真理」「財物をささげる」などです。
A. 絶対的にこの世を放棄する
教会歴史において、ブラザレンのように明確にこの世と断絶したグループを見ることはまれです。彼らはモラビア兄弟団よりもはるかに前進していました。モラビア兄弟団は政治と宗教組織と断絶しました。しかし、ブラザレンは政治と宗教組織だけでなく、この世も放棄しました。彼らは絶対的で明確な方法で行いました。
今日でさえ、ブラザレンの間の何人かの人たちは、決して自分の写真を撮らず、いかなる写真も人に見せるために残しておきません。さらに、ブラザレンの指導者の一人であるジョン・ネルソン・ダービーの正統な伝記を見いだすことは困難です。なぜなら彼は人々に、自分の伝記を書いたり、自分が行ったことを宣伝したりすることを許さなかったからです。教会歴史全体において、彼らはこの世を放棄することで最も徹底していました。これは単に形式ではありませんでした。彼らはこの世から分離しただけでなく、実はそれを放棄したのです。
B. 兄弟愛
次に、ブラザレンは兄弟愛の実際を回復しました。現在のわたしたちクリスチャンの状態と100年前の彼らの状態を比較するなら、わたしたちははるかに遅れています。彼らはヒラデルヒアの教会にある兄弟愛の実際を持っていました。
C. 実行上の生活
さらに、教会歴史における他のどのクリスチャングループも、主の御前での実行上の生活の事柄でブラザレンに匹敵しないでしょう。ブラザレンの実行上の生活は彼らの家族を含みました。何人かの人は、全世界の最高のクリスチャン家庭はブラザレンの人たちであると言いました。この実行上のクリスチャン生活の回復は高く、大きく、強力でした。
D. 真理
ブラザレンの間のもう一つの特別な回復は、真理の回復でした。大部分のクリスチャンはブラザレンの間の真理と啓示の回復が、それ以前のすべてを凌ぐことを認めています。ダービーは聖書解釈の王と考えられます。今日のプロテスタント主義で教えられた正統な真理は、100%近くがブラザレンによって回復された真理からです。今日プロテスタント主義で教えられている正統な事柄は、ブラザレンの教えによって影響されてきました。
ムーディーは、全世界のすべての本が焼かれても、聖書の写しとブラザレンの著者であるC・H・マッキントッシュによる「モーセ五書の注釈」の写しを持てば満足するといいました。「スコフィールド聖書研究」は今日クリスチャンの間で普及しています。それは多くの伝道者にとってなくてはならない聖書研究書です。スコフィールドがこの二冊の出版物で書いたことの九割近くが、ブラザレンんの教えから採られました。今日、聖書の正しい知識を持って神の御前に生きている人はみな、ブラザレンによって助けられたと信じます。ブラザレンに反対する人たちでさえ、彼らから助けを受けています。
E. 財物をささげる
ブラザレンによって回復されたもう一つの事は、財物をささげることです。彼らは信者たちにささげるように決して促したり求めたりしませんでした。彼らはただ神のために生き、彼らの財物を神のために用いました。財物をささげる事柄で、ブラザレンに匹敵することができるグループを見いだすことは困難です。
十九世紀の回復の開始は絶大的なものでした。しかし、その結果は分裂となり、キリストのからだを引き裂くものでした。主はキリストのからだの建造のために、二十世紀において回復の働きをもたれました。
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【全10記事】教科書には載らない教会歴史
【PART1】主の回復の出発点(1世紀〜4世紀)
【PART2】教会の堕落(5世紀〜15世紀)
【PART3】マルチン・ルターと宗教改革(16世紀)
【PART4】内なる命の経験の回復(17世紀)
【PART5】モラビア兄弟団による教会生活の開始(18世紀)
【PART6】ブラザレンによる回復された教会生活(19世紀)
【PART7】英国、南米、米国における主の回復(20世紀)
【PART8】中国における主の回復の開始(20世紀)
【ダイジェスト版】教科書には載らない教会歴史
隠されてきた真の教会歴史 – 主の回復とは?-
参考資料
・召会と地方召会の歴史 ウィットネス・リー著
・召会の行程 ウィットネス・リー著
・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
・「回復訳聖書 フットノート」ウィットネス・リー著
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-01-21 | 教科書には載らない教会歴史
十八世紀において、主はさらなる回復の働きを行われました。この主の回復は正当な教会生活の実行の開始でもありました。
Ⅰ. 組織と宗派を離れることの回復
十六世紀に宗教改革が完全に形成され、十七世紀に内なる命の認識が顕著でした。その100年後の十八世紀の初めにモラビア兄弟団とツィンツェンドルフ伯爵が起こされました。これは主の回復における重要な発展であり、それは政治と地上の組織を離れることを強調しました。
十六世紀の回復は信仰による義認でした。それは教会を政治から連れ出すことに失敗し、政治に巻き込まれさえしました。ツィンツェンドルフ伯爵と一群れの兄弟たちが起こされてはじめて、教会はこの世の政権と地上の組織とのきずなから逃れました。彼らがそのような回復を持つことができたのは、彼らの背景と彼らの長期間の展望のゆえでした。彼らの背景は、300年前にジョン・フスによって植えられた種でした。ジョン・フスの時代、北ヨーロッパの多くの人は純粋な心で主を愛して、彼らの時代の堕落した宗教を受け入れることができませんでした。彼らは組織化された教会に反対し、凶暴な迫害によって彼らの諸国から追い出されました。これらの信者たちはボヘミアに移住しました。
ボヘミアとモラビアに散らばっていた兄弟たちは避難するためにドイツに逃げました。十八世紀に、ドイツのザクセンにツィンツェンドルフという名の信者がいました。ツィンツェンドルフは伯爵であり、大きな私有地を所有しており、裕福でした。ツィンツェンドルフは主を愛していたので、迫害された兄弟たちを自分の私有地に迎え入れ、彼らを共に集めて、自由に神に仕えさせました。避難した大部分の信者たちはモラビア出身であったので、人々は彼らをモラビア兄弟団と呼びました。
ボヘミアはチェコ共和国の西半分にあり、オーストリアの北部にあって、第二次世界大戦の時、ヒトラーと英国が戦った場所です。モラビアの兄弟たちは主を愛したために迫害され、ボヘミアに移住しました。主を愛したツィンツェンドルフ伯爵はボヘミアに住んでおり、これらの兄弟たちを受け入れました。モラビアからの兄弟たちの地に、独立グループからの信者たちもそこに行きました。これらの信者たちは異なる場所の出身であったので、彼らはさまざまな教理に対して異なる見方を持っていました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いに関して異議を唱え始めました。ある日ツィンツェンドルフ伯爵は、協議会を招集して、彼らに自分の教理上の異なる違いを下ろすように説得しました。彼らは、彼らの間の一を保ち、教理における、また彼らの宗教的な背景における違いをわきに置くという協定に署名しました。ツィンツェンドルフは、主から彼らに与えられた知恵にしたがって、彼は彼らをその背景の下に置き、一の中で集会し始めるように導きました。涙を伴う多くの祈りを通して、また主の愛と知恵に依り頼むことによって、彼の私有地に避難を求めた信者たちが彼らの異なる意見を下ろし、教会の過去の教えを回復し、互いに愛し合い、一の中にとどまるように励ましました。
その後、彼らは主の食卓を持っていた時、聖霊の注ぎ出しを経験しました。それまでの教会歴史において、彼らの間には最も強いリバイバルがありました。そして彼らは、地上で最も優勢なクリスチャンの群れの一つとなりました。彼らの集会の状態は教会生活の完全な回復と考えられることはできませんが、彼らは少なくとも教会生活の70%を持っていました。ルターの宗教改革のおよそ200年後、正常な教会生活がついに始まりました。彼らは自分たちの地を離れてボヘミアに移住したとき、自然にこの世の政治組織、また召会の堕落した組織との関係を断ち切りました。
Ⅱ. 福音を宣べ伝えることの回復
歴史家たちは、ツィンツェンドルフが教会の中でいかなる特別な称号も持ったことを記録していません。彼は聖職者ではありませんでした。彼はモラビア兄弟団の間で単に兄弟でした。これらの兄弟たちはこの世と宗教の組織を離れました。50年で彼らは伝道団を派遣して外国の地で福音を宣べ伝え、それは前の二世紀に全世界のすべての伝道団が派遣したものより多かったのです。彼らはこの世と宗教の組織を離れたので、聖霊は彼らの間で働くことができました。彼らは地に出て行って福音の証しをすべての人にもたらすことを回復しました。さらに、モラビア兄弟団には多くの特別な特徴がありました。それは、互いに愛し合うこと、また一つ思いの状態を持つことなどです。ジョン・ウェスレーは彼らによって成就されました。
Ⅲ. 聖なる生活の回復
次の回復は聖なる生活の回復でした。この回復は、ウェスレー家と彼らに従う者たちによってもたらされました。ウェスレー家の兄弟たち、ジョンとチャールズは、英国のオックスフォード大学の優秀な学生でした。ジョン・ウェスレーは説教を宣べ伝えることですばらしく、チャールス・ウェスレーは詩歌を書くことですばらしかったのです。彼ら二人は、人が聖なる生活をするべきであることを宣べ伝えました。ですから、彼らはどのように聖なる生活をするかについて、人々が従うべき多くの規則を作りました。彼らの規則のいくつかは真理にしたがっていましたが、彼らはまたいくらか間違いました。
神はジョン・ウェスレーを起こして英国で回復の働きを行わせましたが、彼はモラビアの人たちによって大いに影響され、教えの事柄で彼らから多くの助けを受けました。ですから、ジョン・ウェスレーによって宣べ伝えられた言葉は、おもにモラビア兄弟団から来ました。
その後、アンドリュー・マーレーの教えはおもにウィリアム・ローの働きに基づいていました。ウィリアム・ローは奥義派の人たちに大きな変化をもたらしました。ウィリアム・ローの時代、奥義派の人たちの教えは拡大することができませんでしたが、彼の変化の後、彼らの教えはさらに実際的になりました。アンドリュー・マーレーの教えの多くはウィリアム・ローの著作から派生しており、それゆえに奥義派からでした。ジョン・ウェスレーは奥義派の影響から逃れることはできませんでした。ですから、聖についての彼の教理の多くの面が、奥義的な観点を含んでいます。この影響が、真理の認識が十分に正確ではありませんでした。
しかし、ウェスレーの回復はとても強力でした。それは人々を召して罪に打ち勝つ生活をさせ、多くの人に聖なる生活を追い求めさせる回復でした。ウェスレー派で最も有名な人はジョージ・ホイットフィールドであり、彼はとても有能でした。ウェスレー家とホイットフィールドは、未信者に福音を宣べ伝えませんでした。そうではなく、彼らはクリスチャンに福音を宣べ伝えました。彼らは、もし人が再生されていないなら、聖別されないと言いました。これは人々に大きな転換をさせ、彼らの生活に変化を持たせました。人々は乱雑な生活をしていましたが、その当時、彼らの生活に変化がありました。主要なことは、この当時に多くの人が転換したということです。この回復は、幕屋の周りの白い亜麻布のあげばりの境界線が、さらに明確に引かれるようにしました。
そして、主の回復の働きは十九世紀に突入します。この時期の主の回復の働きは黄金期と呼ばれています。ジョン・ネルソン・ダービーを含むブラザレンは、今日のわたしたちキリスト教神学の大きな助けとなっています。
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・ウィットネス・リー全集 1981年第二巻(上)「主の回復の歴史と啓示 第一巻」
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※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
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2025-01-20 | 教科書には載らない教会歴史
17世紀において、主は内なる命の経験の回復をもたらされました。この回復はプロテスタント運動の中にではなく、ローマ・カトリック教会の中にいる主を愛する聖徒によってもたらされました。
Ⅰ. 命の認識の回復
教会歴史や霊的な伝記を注意深く研究するなら、マルチン・ルターは形式上、教会をカトリック主義から連れ出しましたが、ローマ・カトリック教会には、なおも多くの霊的な人々がいたことを見ます。トマス・ア・ケンピスはそのような人でした。彼はルター以前の時代にいました。ガイオン夫人は十七世紀の人でした。ガイオン夫人は奥義派の人たちに近かったのですが、奥義派の路線は彼女から始まったのではありません。ガイオン夫人の前にさえ、多くの人は神の御前で生きていました。これらの人は少数ではありませんでした。ローマ・カトリック教会は彼らを迫害しましたが、彼らはカトリック主義にとどまりました。
いくつかの事柄が、ローマ・カトリック教会の領域の人たちによって回復されました。プロテスタント主義は信仰による義認を回復しましたが、ローマ・カトリック教会にいる霊的な人たちは、内なる命の認識を回復しました。十六世紀のルターと十七世紀のガイオン夫人との間の100年以上に、他の明確な回復はなく、ただ一般的な回復だけでした。第一の回復は信仰による義認であり、第二の回復は内なる命の認識でした。ガイオン夫人は内なる命の認識を回復した人たちの代表です。彼らは神との内なる交わりと神の御前に生きることに注意を払いました。歴史家たちは彼らを奥義派と呼んでいます。彼らの間で、フェネロン神父はとても有名です。他の多くの人がいましたが、彼らは隠されていたので彼らについての記録はほとんどありません。ガイオン夫人、フェネロン神父、ブラザー・ローレンスなど、これらの聖徒たちは、内なる命としてのキリストに関していくらか知りましたが、彼らには実行上の教会生活がありませんでした。彼らは依然としてローマ・カトリックの範囲の中にいました。依然としてマリア像に行きました。彼女はプロテスタント主義の死に対する反応として神によって用いられたにもかかわらず、教会について明確ではなく、カトリック主義の中の偶像についてさえ明確ではありませんでした。
Ⅱ. 宗派(私立教会)とフリーグループ
この時点で主は真理を愛する人々の群れを興されました。これらの信者たちは聖書の中にある多くの真理を見いだし、進んで立ち上がってこれらの真理を実行しました。彼らはローマ・カトリックによって統治されたり、国教会によって管理されたりするのを拒絶しました。こうして、十七世紀と十八世紀に多くのフリーグループが、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などのいわゆる単立教会や私立教会を形成しました。これらのグループは今日、異なる宗派です。
ある人たちは、正しいバプテスマは水に浸すことによることを見ました。自然に、これがバプテスト教会の始まりでした。バプテスト派は、多くの私立教会のうちの一つです。それは、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、国教会に加えて、いわゆる教会の第四の部類と考えられるでしょう。これらの私立教会は、バプテスト教会、長老教会、メソジスト教会などを含みます。今日、多くの私立教会があります。いわゆる教会の第五の部類は、フリーグループです。これらのフリーグループは、すべての聖書教会、単立教会を含みます。聖書教会、単立教会は、ローマ・カトリック、ギリシャ正教会、国教会、どの私立宗派にも属しません。聖書教会、単立教会の中にいる人たちは、彼らのすべての実行を聖書に基づいて持つように努めます。これらの聖書教会、単立教会に加えて、宗派の外で集会する他の多くのフリーグループがあります。
一世紀から始まって、教会は徐々に堕落し、真理から離れました。十七世紀と十八世紀までに、五つの大きな組織が生み出されました。それは①ローマ・カトリック、②国教会、③ギリシャ正教会、④私的に設立された私立教会(宗派)、⑤フリーグループです。しかしながら、あらゆる世紀には純粋な心で主を愛し、真理を愛する少数の人々がいました。これらの信者たちは、聖書の中で彼らが見た真理を実行しました。彼らのキリストについての理解は正確であり、彼らは文字と教理以上に、聖霊を重視しました。これらの信者たちは命を重視し、聖書的な方法にしたがって人々を共に集らせ、自由に礼拝させました。
Ⅲ. 階級制度と聖職者
使徒たちがまだ生きていた時、彼らは「だれでもあなたがたの間で偉大でありたい者は、あなたがたのしもべとなり」(マタイ20:26)という主の言葉を守りました。ですから、使徒たちが生きていた時、他の人たちを管理する偉大な人はいませんでした。パウロは聖霊の導きに従うことによって、各地方で長老を立てましたが、長老は信者たちの上に権力を振るう偉大な人たちではありません(Ⅰペテロ5:1-3)。「長老」という言葉は、命において円熟している信者たちを指します。長老たちはより経験があり、より洞察力があり、比較的思慮深いのです。彼らは年長である必要はありません。パウロはまた彼らを監督と呼びました(使徒20:28、Ⅰテモテ3:1-2)。原文の「監督」という言葉は、上から事柄を監督する人を指しています。長老は、より円熟している人を示していますが、監督は長老の機能、すなわち長老が行う事を示しています。「長老」と「監督」は両方とも同じ人を指しています。
使徒行伝第20章におけるパウロの言葉は、エペソに在る教会の監督が教会の長老であったことをはっきりと示しています(使徒20:17,28)。二世紀において、使徒たちが亡くなった後、イグナティウスという聖書教師が立ち上がりました。彼は主を愛し、最終的に主のために殉教しました。しかしながら、彼は彼の文書の中で監督と長老を二つのグループの人々に分離するという大きな間違いを犯しました。彼はまた監督に特別な権威を与えました。彼が書いたのは、長老が一つの地方におり、いくつかの地方の教会が共にグループとなって、監督の管理の下にある教区となるということでした。こういうわけで、監督は長老の上になりました。この一つの間違いは後に階級制度を生み出しました。この教えに基づいて、監督は長老の上におり、司教は監督の上におり、大司教は司教の上におり、ローマの枢機卿は大司教の上におり、教皇は枢機卿の間から選ばれました。監督のこれらの階級が聖職者と呼ばれます。歴史を通して、純粋な心で主を愛する者たちはローマ・カトリックの聖職者を拒絶してきました。しかしながら、最終的に国教会も聖職者制度を発展させ、いわゆる私立教会も牧師制度を発展させました。これらはみな中間階級です。これは啓示録(ヨハネによる黙示録)で記されている「ニコライの者」であり(啓(黙示録)1:6、2:15)、主が憎んでおられる者たちです。
Ⅳ. 勝利者
ルターは教会を改革しましたが、神は命の認識の回復をローマ・カトリック教会の内側に残されたかのようです。これはプロテスタント主義に対する神の反応でした。何世紀にもわたって、神の働きは人の行動に反応してきました。宗教改革はカトリック主義に対する反応でした。しかしながら、カトリック主義の内側にある命の認識の回復は、プロテスタント主義の律法主義と形式主義に対する反応でした。今日でさえ、多くのカトリック教徒は神の御前で生きています。彼らはプロテスタント主義をさげすんでいます。なぜなら、それは外側の形式を強調しすぎて、内なる命を無視しているからです。
啓示録(ヨハネによる黙示録)第2章18節から29節でテアテラに在る教会に対する手紙は、テアテラに在る教会の内側に「残りの者」と呼ばれる一群れの人たちがいて、彼らが勝利者であることを見せています。勝利者はプロテスタント教会だけでなく、ローマ・カトリック教会の中にもいます。神は内なる命の回復をカトリック主義の中に起こして、宗教改革が地上での彼の必要に応じることができないこと、プロテスタント主義が彼の証しの標準に符号しないことを見せられました。信仰による義認の回復は大きなことであり、命の認識の回復も大きな事柄でした。
神はルターを用いて「信仰義認」を、カトリックの主を愛する聖徒たちを用いて「内なる命の経験」と回復されました。しかし、主はそれだけでは止まらず、さらに進んだ回復の働きをおこなわれました。これは、主が現在おこなわれている「正常な教会生活」の開始でした。
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・召会の行程 ウィットネス・リー著
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