2025-03-30 | 初信者成就シリーズ
現代の多くのクリスチャンは、日曜日が「安息日」であると考えています。しかし、それは誤った聖書解釈です。この誤解は、聖書に啓示されている真理を曇らせてしまいます。この記事では、まず聖書の啓示に基づき、安息日についての考えを深めましょう。そして、「安息日」と「主日」との違いを明らかにし、私たちがどのような立場で歩むべきかを見ていきます。もし、あなたがまだ日曜日は「安息日」であると考え、それを守っているなら、あなたは恵みの下にではなく律法の下に歩んでいるかもしれません。聖書の中で神が私たちに与えられた真の安息とは何か、主日とは何かを、一緒に見ていきましょう
神は六日かかって天地万物を造り終え、第七日にはすべてのわざをやめて安息されました。その約2,500年の後、神は十戒を与えられました(出エジ20:1-17)。その中の第四の戒めは、人に安息日を記念させるものであり、神のみわざを記念させるものです。この安息日の記念は、神が世界を回復した時、六日間で回復を終え、第七日に安息されたことを、人に振り返って見させるものです。ですから、第七日はもともと神が安息された日です。ここから約2,500年余り経ってから、神はこの第七日の安息日を人に与えて、人もまた安息するようにさせたのです。
旧約の事柄は、すべてきたるべき素晴らしい事柄の影にすぎません(ヘブル10:1)。神が人に安息日を与えられたことも、旧約のその他の多くの予表と同様に、霊的な意義があります。神は第六日に人を造り、第七日に安息されたのですから、人は造られるとすぐに働いたのではなく、まず神の安息の中へと入り込みました。人はまず安息し、その後はじめて働いたのです。これが福音の原則です。ですから、安息日は福音の予表です。安息が働きの前にあること、これが福音です。
安息日の意義は、人が働かずにただ神の安息に入り込むことです。人が神の安息に入り込むとは、人が自らの働きをやめ、神のみわざを受け入れることです。人が安息日を犯すことは、大きな事柄ではないかのように見えますが、神の真理から言えば、それは実に大きな事柄です。人はまず福音を受け入れるべきであり、そうしてこそ行うことができます。人が安息日を犯すとは、自分自身で働くことができ、自分自身で行うことができるということであり、つまり、神のみわざを必要としないことの表示です。安息日を守ることは、何もしないということではなく、人が神の安息の中で安息し、神のみわざを受け入れることです。これが旧約においての安息日がわたしたちに見せていることです。
Ⅰ. 主日は安息日ではない
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新約に入ると状況は変わりました。主イエスは安息日に会堂に入られ、聖書を読まれました(ルカ4:16)。彼は会堂に入って、人に教えられました(マルコ1:21)。使徒たちもまた安息日に会堂に入って、聖書について説きました(使徒17:1-3)。このことから、安息日には消極的な休みがあるだけでなく、積極的な働きがあることを見ることができます。もともとそれは体を休める日でしたが、新約になるとそれは霊的な事柄を追求する日と変わりました。これは一つの前進です。
もしわたしたちがよくよく聖書を読むなら、聖書における神の啓示は進歩していることを見いだすことができます。以前の聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7 の記事で、聖書を読む時には「事実を探し出す必要がある」ことを語りました。それは、事実の中に光があるからです。事実に変更があったのですから、新しい光があるのです。安息日についてもそうです。
聖書は創世記において「神はその第七日目を祝福し」(創世記2:3)と言っています。しかし、主イエスが復活された時、聖書は「週の初めの日」(マタイ28:1)と言っています。聖書は主イエスの復活の日を「第七日目」とは言わずに「週の初めの日」と言っています。これは神が「週の初めの日」を「安息日」に代えられたと言っているのではありません。しかし、神がわたしたちの注意を転じて、「週の初めの日」に心を向けるようにと願っていることを聖書ははっきりと見せています。
安息日は福音の予表です。福音の実際であるキリストが来たので、その予表は過ぎ去りました。安息日の原則は福音です。それはささげ物の原則が十字架であるのと同様です。旧約でささげ物に用いられた牛や羊は、みな神の小羊である主イエスを予表しています。主イエスが来られたので、牛や羊は用いられなくなりました。もし今日も牛や羊を引いてきてささげ物にするなら、それは十字架を認識していないということです。同様に、福音はすでに来たのですから、人は福音によって神の御前で安息することができるのです。神は、ご自身の御子の十字架上での贖いを通して、わたしたちのためにすべてのみわざを成し遂げてくださったのですから、神はわたしたちという人が先に何かをするように命令されるのではなく、まず安息するようにと命じられたのです。今日、牛や羊のささげ物がないように、安息日もありません。安息日は旧約における予表です。新約では、この予表はすでに成就したのです。
Ⅱ. 主日の根拠
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旧約では、神は七日間の一日、すなわち第七日を選び、それを聖なる安息日と定められました。新約になると、旧約の第七日はすでに過ぎ去りましたが、七日間の中から一日を選ぶ原則はやはり継続しています。しかしながら、新約には別の日があります。安息日が主日になったのではありません。旧約の時、神は一週の中から第七日を選ばれました。新約では、神は一週の中から第一日を選ばれたのです。神は第七日を第一日と呼んだのではなく、別の日を第一日とされました。
詩篇第118篇22節から24節はとても重要です。「家を建てる者たちの捨てた石、それが隅のかしら石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(原文)。ここに「家を建てる者たちの捨てた石」という言葉を見ます。石が役に立つかどうかは、家を建てる者たちの決めることです。家を建てる者たちがこの石は使えないと言えば、それは使えないのです。しかし、不思議なことがあります。神は彼を、すなわち「家を建てる者たちの捨てた石」を、「隅のかしら石」とし、土台とされました。神は最も重要な責任を彼の上に置かれたのです。24節はさらに不思議な言葉です。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」。これは家を建てる者たちの捨てた石が隅のかしら石となった日こそ、主が設けられた日であると言っています。
それでは、どの日が主の設けられた日なのでしょうか?使徒行伝第4章10節から11節は言います、「あなたがた一同も、イスラエルのすべての民も知っていただきたい。あなたがたが十字架につけ、神が死人の中から復活させたナザレ人イエス・キリストの御名の中で、この名の中で、この人が、あなたがたの前に健やかになって立っているのです。この方は、あなたがた、家を建てる者たちに捨てられ、隅のかしらになった石です」。10節は、「あなたがたが十字架につけ、神が死人の中から復活させた」と言い、11節は、「あなたがた、家を建てる者たちに捨てられ、隅のかしらになった石です」と言います。家を建てる者たちが捨てた時とは、主イエスが十字架につけられた時です。神が彼を隅のかしら石とされた時とは、神が彼を死人から復活させた時です。言い換えれば、この石は、主イエスの復活の時に、隅のかしら石となったのです。ですから、「主の設けられた日」とは、主イエスの復活の日です。
ここでわたしたちが見るのは、わたしたちの主日は、旧約の律法の下にある安息日とは全く異なっています。旧約の安息日は、これをしてはならない、あれはすべきではないと、みな消極的です。しかし、神は新約時代に設けられた主イエスの復活の日は、楽しみ喜ぶようにと言っておられます。ですから、主日の特徴は、積極的な命令があるだけであって、消極的な命令はないのです。
七日間の中から神は特に一日を選び出し、この日を特別な名前で呼んでいます。啓示録第1章11節はそれを「主日」と呼んでいます。「主日」は聖書で述べられている「主の日」であるという人がいますが、それは間違っています。原文では「主日」と「主の日」とは全く異なります。「主日」は週の第一日であり、「主の日」は主の再来の日です(第一テサロニケ5:2、第二テサロニケ2:2、第二ペテロ3:10)。もう一面において、古代の教父たちの著作から、「主日」が週の第一日を指し、教会の集会の日とされていることを証明する多くの材料を見つけることができます。古代教父たちの著作の中の多くの資料が、初代教会の時代から第四世紀までずっと週の第一日に集会していたことを証明しています。古代の教会の主日に関する資料
Ⅲ. 主日は何をすべきか
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主が設けられた日である主イエスの復活の日、すなわち、週の第一日(主日)にわたしたちは何をすべきなのでしょうか?主日に何をすべきかについて聖書は、三つのことを重要視しています。第一は、喜び楽しむこと。第二は、主を記念すること。第三は、主にささげものをすることです。一つ一つを詳しく見ていきましょう。
1. 楽しみ喜ぶ
詩篇118篇24節は言います、「これは、エホバが設けられた日である。わたしたちは喜び躍り、それを喜び楽しもう」。ここに啓示されているように、すべての神の子たちが週の第一日に取るべき態度は、喜び楽しむことです。わたしたちの主は死から復活されました。これは主が設けられた日(主日)であり、わたしたちはこの日が来るたびに喜び楽しむという態度を持ち続ける必要があります。この日はわたしたちの主の復活の日であり、このような日は他にありません。ですから、主日に喜び楽しむことは自然な反応であるべきです。
2. 主を記念する
第二に、使徒行伝第20章7節は言います、「そして週の初めの日、わたしたちがパンをさくために集まった時・・・」。原文の文法によれば、ここの「週の初めの日」は、ある週の初めの日を限定して指しているのではなく、彼らが毎週の初めの日にパンをさくために集まったことを意味します。当時すべての教会は、週の初めの日になると自然にパンをさくために集まって、主を記念していました。週の初めの日は、わたしたちが主にまみえる日です。週の初めの日に必ずしなければならないことは主を記念することです。わたしたちが週の初めの日にまず主の御前に行くのです。主日は週の第一日です。月曜日は実は週の第二日です。
パンさきには、聖書では二つの意義があります。一つは主を記念することであり、もう一つはわたしたちと神のすべての子供たちとの間に交わりがあることを表明することです。パンさきについてはさらに詳しく書いた記事があるので、こちらをご覧ください。
3. 主にささげものをする
コリント人への第一の手紙第16章1節と2節は言います、「聖徒たちへの贈り物を集めることについては、わたしがガラテヤの諸召会に指示しておいたように、あなたがたも行いなさい。週の初めの日に、各自は得た繁栄に応じて手元に蓄えておき、わたしが行った時に集めることのないようにしなさい」。ここで、週の初めの日になすべき第三の事をみます。パウロはここでガラテヤに在る各教会に指示しておいたように、コリントに在る教会にも指示しています。これは使徒たちの時代には、週の初めの日が特別な日であったことを明らかに示しています。週の初めの日にはパンをさいて主を記念することがあり、また聖徒たちのために献金することがあります。週の初めの日ごとに、各自はその経済的に恵まれたところに応じて主にささげるべきです。一方でパンさきがあり、一方で献金があります。一方でわたしたちは主がどのようにご自身をわたしたちに与えてくださったかを記念し、もう一方でわたしたちもまた、この日に主にささげるのです。
わたしたちは、何も考えないで少しのお金を取り出して献金箱に投げ入れるべきではありません。真心をもって家でよく計算し、家で準備し、あるいは家で包んで、敬虔な方法で献金箱に入れるべきです。パウロはここで、献金は計画的になすもの、定期的になすものであることを見せています。週の初めの日ごとに、自分の経済的に恵まれたところに応じて取り出し、主に言う必要があります、「主よ、あなたはこんなにも豊かに与えてくださいました。主よ、わたしは得たものからあなたにささげます」。恵みが多ければ多く献金し、少なければ少なく献金します。パンさきは厳粛な事であり、献金もまた厳粛な事であることを、知らなければなりません。
まとめ
主は特別に一週の中から一日を取り出して、それを主日と呼んでいます。それは週の初めの第一日です。ですから、わたしたちの日曜日に位置する日は主日です。わたしたちの主日と安息日は異なります。安息日はしてはいけない事に重きがあります。しかし、わたしたちの主日は、体の安息のためではなく、働きのためでもありません。他の日にやってよい事は、主日にも行うことができます。他の日にやってはいけない事は、主日にもやってはいけません。
聖書は、主日に喜び楽しむようにと、もっぱら主の御前に来て恵みを受け、主を記念し、主に仕え、ささげるようにと告げています。わたしたちは一生の間、この主日を取り出して特別な日としなければなりません。少なくとも週の初めの日はすべて取り出して、主のためとしなければなりません。この日はわたしたちの日ではありません。この日は「主日」です。この時間は、わたしたちの時間ではありません。この時間は、主の時間です。この日は主にささげた日であり、それを主日と呼ぶのです。
ヨハネは啓示録でこのように言いました。
わたしは主日に霊の中にいた。
啓示録 1章10節
どうか多くの人が、「わたしは主日に霊の中にいた」と言う事ができますように。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十四編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
添付資料
古代の教会の主日に関する資料
2025-03-30 | 初信者成就シリーズ
十二使徒の教え(紀元75-90年)
主日に関しては、「十二使徒の教え」(聖書以外の最初の教会の書物であり、およそ紀元七十五年から九十年の間に書かれたものであり、少なくとも啓示録と同時代のものである)という書物の中に、以下のような言葉があります、「主日ごとに、あなたがたは共に集まって、自分の罪を告白した後、パンをさき、感謝をささげなければなりません。そうすれば、あなたがたがささげるささげ物は清められます」。これは、信者が主日の集会において、第一世紀の終わりごろにこのようにしていたことをはっきりと見せています。
イグナチウス(紀元100年)
使徒ヨハネに一人の弟子がおり、その名をイグナチウスと言い、彼は紀元三十年に生まれ、紀元百七年に殉教しました。彼は紀元百年の時、一通の手紙をマイニシア地方の者に書き送りました。この一通の手紙の第九章の中で、彼ははっきりと言っています、「あなたがたは昔の教える人(ユダヤ教の人たちを指す)にしたがって、第七日の安息日を守ることは、もはや今日すべきではありません。主日を守るべきです。なぜなら、その日にわたしたちの命は彼と共に発芽したからです」。これもまたはっきりと、初期の教会が安息日を守っていたのではなく、主日を守っていたことを見せています。
バルナバ(紀元120年)
およそ紀元百二十年にバルナバ(聖書に出てくるバルナバではない)が書いた一通の手紙の第十五章に次の一句があります、「わたしたちは喜んで第八日、つまり主イエスが死から復活された日を守ります」。
エスティノス(紀元138年)
さらにもう一人の教父がおり、人は彼のことを殉教者エスティノスと呼び、教父たちの中ではかなり有名な人です。彼は紀元百年に生まれ、紀元百六十五年に殉教しました。紀元百三十八年の時、彼は「弁証論」という書物を書きました。その書物の中で彼は言っています「日曜日つまり週の初めの日に、すべて町に住んでいる者とその町以外に住んでいる者は共に集まり、みなで使徒の伝記と預言者の著作を読みます。時間が許す限り、読めるだけ読みます。読み終わったら、数句の教える言葉があれば、導く兄弟が、それらの良い事に習うようにとみなに勧めをします。後ほどわたしたち全体は立ち上がって祈り、祈り終わったらパンとぶどう酒を持ってきて、導く人が祈りと感謝をささげ、全員が心を一つにして「アーメン」と言います。富んでいる人も、心から喜んでささげる人も、各自はその感謝にふさわしい額をささげます。それを集めて処理する人に託し、その人が孤児や寡婦、病人、必要のある人、捕らわれている人、わたしたちの間で集会している人を顧みます。言い換えれば、必要のあるすべての人を顧みるのです。日曜日はわたしたちの普通の集会の日です。なぜなら、イエス・キリスト、わたしたちの救い主がこの日に死から復活されたからです。主は土曜日の前日に釘づけられ、土曜日の翌日、つまり日曜日に彼の使徒や弟子たちに現れ、彼らにこの事を教えられました。今日この事をあなたがたに書き送るので、それを考慮するようにしてください」。さらにもう一箇所で彼は言っています、「わたしたちは罪と過ちの中から、わたしたちの主イエス・キリストを通して割礼を受けました。彼は週の初めの日に、死から復活されました。ですから、この日はすべての日の中で主要な日、第一日となったのです」。
メリト(紀元170年)
紀元百七十年、サルデスに在る教会に、メリトと呼ばれた教父がいました。彼の書いた本の中に光のような一句があります、「わたしたちは今日、主の復活の日を過ごしています。この時わたしたちは多くの手紙を読みます」。
クレメンス(紀元194年)
紀元百九十四年、アレクサンドリア市にクレメンスという有名な教父がいました。彼は炎のように言いました、「第七日は今日、働きの日となっています。それはまた普通の働きの日でもあります」。続けて彼はまた言っています、「わたしたちは主日を守るべきです」。
テルトゥリアヌス(紀元200年)
紀元二百年、教父テルトゥリアヌスは言いました、「主日に、わたしたちは特に喜びに満たされます。わたしたちはこの日を、すなわち主の復活の日を守ります。妨げもなく、心配事もありません」。そのころすでに、主日を守ることは太陽を礼拝することであると批判する人がいたので、テルトゥリアヌスは彼らに答えて言いました、「わたしたちは主日に喜びます。わたしたちは太陽を礼拝しているのではありません。わたしたちは、怠けて土曜日に宴会しているような人たちとは異なります」。
オリゲネス
オリゲネスは、教父たちの中でも有名な一人ですが、彼はアレクサンドリアの有名な神学者です。彼は、「主日を守ることは完全なクリスチャンであることのしるしです」と言っています。
週の初めの日は安息日ではない
ある人は、古代の信者たちは安息日を守っていたのであり、第四世紀にコンスタンティヌスが週の初めの日を守るように改めさせたのである、と言います。これは事実に合いません。コンスタンティヌスは、この日を改めたのではなく、この事実を認めたのにすぎません。というのは、教会はすでに長い間、主日を守ってきていたからです。紀元三百十三年の前までは、クリスチャンは迫害を受けました。紀元三百十三年の後、コンスタンティヌスはローマを支配し、ミラノ地方で一つの詔書を発布し、クリスチャンを迫害することを禁じました。紀元三百二十一年、コンスタンティヌスは第二の詔書を発布し、言いました、「主日には、役人も一般民衆も、町に住む者はみな休むべきであり、すべての仕事は停止すべきである」。
この詔書の中でコンスタンティヌスは、初めから終わりまで安息日には全く触れておらず、ただ週の初めの日が教会の日であることを認めただけでした。
以上の資料の中から、主日を守ることは、使徒と教会の教父たちの時から始まり、これが各時代の実行であったことを知ることができます。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十四編
出版元:日本福音書房
2025-03-23 | 初信者成就シリーズ
クリスチャンには地上で一つの基本的な権利があります。それは祈りが答えられるということです。あなたが主イエスを信じ、再生されたなら、神は一つの基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。ヨハネによる福音書第16章には、わたしたちが主の御名の中で求める時、神は答えてくださり、わたしたちの喜びが満たされる、と言っています。ですから、わたしたちが絶えず祈るなら、地上で喜んでいるクリスチャンになることができます。
もしあなたがいつも祈っているのに、「神は祈りを聞いてくださらない」と感じているのであれば、それはあなたに問題があることを知らなければなりません。また。あなたがクリスチャンになって何年も経つのに、一、二度しか祈りが聞かれたことがないというなら、それはあなたという人に欠陥があることを証明しています。この記事では、神が祈りに答えられる条件と祈りを実行する方法を共に学んでいきたいと思います。
Ⅰ. 祈りが答えられる条件
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祈りが答えられる基本的な条件は多くありません。もし、このいくつかの条件にしたがって祈るなら、祈りは答えられると信じます。これから話すことはすべて基本的な条件ですから、わたしたちはそれらに注意を払うべきです。この基本的な条件は五つあります。
- 求める
- 悪い求め方をしてはいけない
- 罪を対処する
- 信じる
- ずっと求め続ける
これら一つ一つを詳しく見ていきましょう。
A. 求める
すべての祈りはみな、神の御前で真実に求めるものでなければなりません。主は言われます、「求めよ、そうすれば、あなたがたに与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、あなたがたに開かれる」(マタイ7:7)。例えば、ここに一つのものがあり、あそこに一つのものがあるとします。それでは、あなたはいったい何が欲しいのですか?神は、あなたが何を欲しがっているのか、何を求めているのかを知ってはじめて、あなたにそれを与えられます。ですから、求めるという意味は、ある特定のものを求めることです。
たとえば、今日あなたが何かが欲しければ、父親に向かってその何かを言うでしょう。レストランに行けば、何を食べたいかを店員さんに言うでしょう。しかし、奇妙なことに、人は神の御前に行って何が欲しいかを言わないのです。ヤコブは手紙の中でこのようにいいました、「あなたがたが得ることがないのは、求めないからです」(ヤコブ4:2)。多くの人に祈るという行為はありますが、求めるものがありません。祈る時、必ず何が欠けているか、何が欲しいかを言い出さなければなりません。これが第一の条件です。
B. 悪い求め方をしてはいけない
わたしたちは神の御前で求めるべきですが、二番目の条件があります。それは悪い求め方をしないことです。「求めても得られないのは、・・・悪い求め方をするからです」(ヤコブ4:3)。わたしたちは、必要があるから神に求めるのであって、何の必要もなしに、度を超えて気ままに求めることはできません。自分の欲望や肉にしたがって、不必要な事物を勝手に求めてはいけません。
悪い求め方をするとは、あなたの度量を超えて、あなたの必要を超えて、あなたの真の欠乏を超えて求めることです。あなたが必要があれば、神に求めることができます。あなたの必要を超えて求めることは、悪い求め方をすることです。わたしたちは自分の正当な範囲内で祈ることを学ぶべきです。これが第二の条件です。
C. 罪を対処する
ある人は、求めることは求め、また悪い求め方もしないのですが、それでも神は彼の祈りを聞かれません。それは基本的な妨げ、すなわち神と彼との間に罪があるという妨げがあるからです。詩篇にはこのような御言葉があります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)。人がもし心に不義をいだいているなら、主は聞いてくださいません。「心に不義がある」とは、捨てることのできていない罪があるということです。自分では知っているのに、心の中に保留している罪があるということです。一つの罪があるだけで、あなたの祈りが神に聞かれないほどの妨げとなります。
箴言第28章13節はいいます、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみをうける」。あなたは主に言わなければなりません、「心にいだいていた不義を、わたしは手放せないでいました。今わたしを赦してください。わたしはそれを捨てたいのです。この罪から離れるようにわたしを救ってください。」あなたが神の御前で罪を告白するなら、主はあなたを赦してくださいます(第一ヨハネ1:9)。そうすれば、あなたの祈りは神に聞かれます。
D. 信じる
もう一つの条件があります。それは積極面で「信じる」ことです。主イエスはこのように言われました、「あなたがたが祈って求めるものはすべて、受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。祈り求めるだけで終わりではありません。祈り求め、そして信じるのです。もう受けたと信じるなら、そのとおりになります。主はここで、「受けたと信じるなら、そのとおりになる」と言われました。主は「必ずそのようになると信じなさい」とは言っていません。「もう受けた」と信じるのです。信じるとは「もう受けた」と信じることです。
多くのクリスチャンは「信じること」に関して間違っています。この「信じる」を「もう受けた」から取り外して、「そのとおりになる」の下にくっつけるのです。彼らは、「そのとおりになると信じる」ことを信仰であると勘違いしています。違います。「もう受けた」と信じるのです。祈りに関する信仰とは何でしょう?それは、神があなたの祈りをすでに聞かれたという確信です。あなたがひざまずいて祈っている時、ある時点になって「神に感謝します!神はわたしの祈りを聞いてくださいました。神に感謝します!このことはもう解決しました」と言ってしまいます。これが信仰であり、「もう受けた」です。
例えば、あなたが一人の病人のために祈るとします。彼は「神に感謝します!わたしはいやされました」を言います。熱はまだ高く、少しの変化もないのですが、彼の内側ではっきりしていさえすれば、もう何の問題もないのです。もし彼が「ああ、わたしは主がこの病気をいやしてくださると信じます」と言うなら、その次になおも多くの「信じる」がなければならなくなります。主イエスは言われました、「もう受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。主は「そのとおりになると信じれば、そのとおりになる」と言われたのではありません。言葉を逆にしてはいけません。
信仰についてマルコによる福音書から具体的な例を用いてさらに詳しく見てみましょう。マルコによる福音書には、祈りに関して特に役に立つ三つの言葉があります。第一は主の力の問題であり、第二は主の意志の問題であり、第三は主の行為の問題です。
1. 主の力 – 神はできる
マルコによる福音書第9章で、自分の息子が口の利けない霊にとりつかれ、それをイエスの元に連れてきた父親が言いました、「もしあなたに何かできるのでしたら、わたしたちをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。主イエスは言われました、「『もしあなたにできるなら』と言うのか。信じる者にはすべての事ができるのだ」。これはできるかできないかの問題ではなく、主の力を信じるか信じないかの問題です。
信じることについて、第一に解決しなければならない問題は、人は困難の中にある時、疑いに満ち、神の力を信じることができないということです。「人にはできない事でも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。
2. 主の意志 – 神はそうされる
確かに彼はおできになります。しかし、どのようにしてわたしたちは、主がわたしをいやしてくださるかを知ることができるのでしょうか?わたしたちは主の意志を知りません。主はわたしたちをいやしてくださるかもしれないし、いやしてくださならいかもしれません。どうしたらいいのでしょうか?もう一つの物語を見てみましょう。
マルコによる福音書第1章40、41節はいいます、「 すると、一人のらい病の人がイエスの所に来て、彼に懇願し、ひざまずいて言った、『あなたがそのつもりであるなら、(みこころであれば、他訳)わたしを清めることができます』。イエスは深くあわれんで、手を伸ばして彼に触れ、そして言われた、『わたしは良しとする。清くなりなさい!』」。ここに神がしてくださるかどうかの問題があります。もし神にわたしたちの病をいやす気持ちがなければ、神の力がどんなに大きくても、それはわたしたちと何の関係もありません。しかし、ここではイエスは深くあわれんで、触れて癒してくださったことを見ます。ですから、解決を要する第一の問題は神ができるということを信じることであり、解決を要する第二の問題は、神はしてくださるということを信じることです。らい病人は主に求め、主は彼を清くされました。わたしたちの主が病をいやされないことはあるでしょうか?
3. 主の行為 – 神はすでに成された
「神はできる」「神はしてくださる」と知っただけではまだ不十分です。もう一つは「神はすでに成された」と信じることです。これは先ほど取り上げた事柄です。信仰とは、「神はできる」「神はそうされる」「神はすでに成し遂げられた」と信じることです。信仰は待ち望むのではありません。待ち望むとは、将来のそうなることを期待することであり、信じるとは、それがすでに成されたと考えることです。「神はすでに成された」を信じるなら、自然と神への感謝が出てくるでしょう。
E. ずっと求め続ける
祈りには、注意しなければならないことがあります。それは、継続しなければならず、やめてはいけないということです。「彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように」(ルカ18:1)。ある祈りは、ずっと祈り続ける必要があります。主が煩わしいと感じ、わたしたちの祈りを聞かないではいられなくなる程度にまで祈り込むのです。
これはわたしたちへのテストです。というのは多くの場合、わたしたちの祈りは一週間も続かないからです。それは、真にわたしたちが求めていなかったことを暴露します。ある種の切迫した環境にあり、ある必要な状況の下にあって、心がそれによって動かされてこそ、ずっと祈り続けることができます。
早見表
祈りが答えられる条件
条件 | 説明 |
---|
A.求めること | 祈りにおいて、神に対して具体的に願いを伝えること。 |
B.悪い求め方をしないこと | 自己中心的な欲望に基づかず、正しい態度で求めること。 |
C.罪を対処すること | 神との妨げとなる罪を認識し、告白して捨てること。 |
D.信じること | 祈りが神に聞かれ、答えがすでに与えられたと信じること。 |
E.求め続けること | 一度で答えが得られなくても、祈りを続ける忍耐を持つこと。 |
Ⅱ. 二段階の祈り
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祈りには二つの段階があることを知らなければなりません。第一段階は、約束がないところから祈って約束を得るまで、神の言葉がないところから祈って神の言葉を得るまでです。すべての祈りの開始の時は、みな神に求めるものであって、ずっと求め、三年、五年と費やしてずっと求めなければなりません。この第一段階は「求める期間」です。
第二段階は、約束があって、その約束が実現するまで、神の言葉を受けてから、その言葉が成就するまでです。この第二段階は「賛美の期間」です。この段階では、祈り求めるのではなく、賛美すべきです。第一段階では祈り求め、第二段階では賛美します。第一段階は、言葉がないところから祈って言葉があるまでであり、第二段階は、言葉があったらすぐに主を賛美し、求めていた物が手に入るまで賛美し続けます。これが祈りの秘訣です。
多くの人が理解している祈りには二つの事実しかありません。一点は、わたしは持っていない、わたしは祈るという「求めた」という事実です。もう一点は、わたしは得た、神がわたしに与えたという「受けた」という事実です。例えば、わたしが主の御前で腕時計を与えてくださるように求めるとします。数日たって、主はわたしに一つの腕時計を下さいました。これは腕時計を持っていない状態から求めたという事実があり、腕時計が与えられたという状態という受けたという二点があるだけです。しかし、真の祈りにはその間にもう一点、「信じた」という事実があるべきです。多くのクリスチャンがこのことを知りません。
わたしは祈って腕時計を求めます。ある日わたしは、「神に感謝します。神はすでにわたしの祈りを聞かれました」といいます。この時、依然としてわたしの手元には何もありませんが、内側では、得たことがはっきりしました。そして、数日後に腕時計が手に入るのです。わたしたちは「求めた」「受けた」という二点を見るだけでなく、「信じた」という三点目を見なければなりません。何も持っていない状態から「求める」ということから、それを受けるまでの間にもう一点、神が言葉を与えられた、約束してくださった、わたしは信じた、わたしは喜んだ、があるのです。まだ手元には何もないかもしれません。しかし、霊の中ではすでに得ているのです。クリスチャンにはこの霊の中で得るということがあるべきです。霊の中で得たこの種の感覚がなければ、それは信仰がないことです。
ある時、わたしは主から家族の救いのために祈るように導かれました。わたしは両親と姉と弟のために祈り始めました。わたしは数日間、主の御前に出て、一人一人の名前を挙げて祈りました。これは求める期間でした。それから数週間後、わたしは主のあわれみによって神がわたしたちに与えられた救いの約束は、個人を単位としているのではなく、家を単位としていることを見ました。使徒行伝16章31節はいいます、「すると彼らは言った、「主イエスを信じなさい.そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。聖書の中に、神は人を家族ごとに救われるという一つの基本的な原則があります。例えば、ノアの家族(創7:1)、過越にあずかる家族(出12:3-4)、遊女ラハブの家族(ヨシュア2:18-19)、ザアカイの家族(ルカ19:9)、コルネリオの家族(11:14)、ルデヤの家族(15節)、ここの獄吏の家族、第18章8節のクリスポの家族のようにです。わたしはこの主の言葉を受けてから、求める祈りから賛美する祈りに変わりました。わたしはまだ何も得ていませんが、霊の中にはすでに与えられたという信仰があるのです。
なぜ二つの段階に分けるのでしょうか?それは、物がないところから祈って信仰を得たのに、もしまた祈り求めるなら、信仰はかえって逃げ去るからです。ですから、信仰を得たならすぐに賛美をしなければなりません。信仰があって物がまだない時、賛美をもって神に催促すべきであり、祈り求めることによって神に催促するべきではありません。
早見表
段階 | 説明 |
---|
第一段階:求めること | 神に対して具体的に願いを求める段階。 |
第二段階:賛美をささげること | 霊の中で約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげる段階。 |
第三段階:実際に受けること | 実際に願ったものが与えられる段階。 |
Ⅲ. 祈りを実行する方法
Image source: Envato Elements
最後にどのように祈りを実行するかの具体的方法を交わりたいと思います。まず重要なことは、祈る前に一冊の祈りのノートを用意することです。一年に一冊のノートを用意し、祈りを記載します。そして、各ページを四つの項目に区切ります。第一項目は祈りを始めた日付、第二項目は祈る事柄、第三項目は答えられた日付、第四項目は神がどのように祈りを聞かれたかです。こうすれば、一年の間にどれだけあなたが神に要求し、どれだけ神が聞かれたか、またどれだけ残っているかがわかります。
祈りのノートを活用することによって、祈りが神に聞かれているかどうかを知ることができます。神の答えが止まったら、必ずあなたに欠陥があります。ノートに記された祈りはすべて、神の答えを得るまで祈り続けなければなりません。神があなたのその祈りは神のみこころではないと示された時だけ、停止するのです。それ以外は、得るまで祈り続け、決してたるんではいけません。
祈りのノートを用いる時に注意すべきことがあります。ある事柄は毎日祈る必要がありますが、ある事柄は一週間に一回祈ればいいことです。これは、あなたの祈る項目がどれだけあるかで決まります。あなたの求めるものが少ない場合、ノートに書かれた項目を毎日祈ることができます。項目が多ければ少し工夫して、月曜日には何項目祈り、火曜日に何項目祈ることにします。祈りのノートを活用するためには専一の祈りがなければなりません。あなたは自分自身を訓練して、専ら(もっぱら)祈るための時間を持つべきです。
祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。もし祈り続けているのに一向に状態の変化が見られないなら、神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ!わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか?わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか?手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか?わたしには学ばなければならない学課があるのでしょうか?」自分自身が変化していないのに、他の人の変化を期待することはできません。
まとめ
あなたが主を信じ、受け入れるなら基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。しかし、この祈りが答えられるためには条件があります。第一に求めること。第二に悪い求め方はしてはいけないこと。第三に罪を対処すること。第四に信じること。第五に求め続けることです。
あなたの祈りには三つの段階があるべきです。第一段階は、求めることです。第二段階は、約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげることです。そして第三段階で、実際に受けることです。何もない時には求める時期です。求め続けるなら霊の中で信仰(確信、約束)が与えられます。この時から賛美の時期に移行します。そして、実際に手に入れるまで賛美し続けます。
具体的に祈るために祈りのノートを用意すべきです。専一な祈りのために一日に30分間の祈りの時間を確保することをおすすめしたいと思います。前回の聖書を読む実行を30分、この祈りの実行を30分、一日に合計1時間の時間を主にささげるなら多くの収穫を得るでしょう。聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳第3版(2015)からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-03-20 | ウォッチマン・ニー
ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)は、中国において神に大きく用いられた主のしもべであり、多くの霊的著作を通して世界中のクリスチャンに深い影響を与えました。彼の生涯は神の召しに忠実に応答し続け、真理の啓示と実践において大胆かつ誠実でありました。彼の働きと召会(教会)の回復のための務めは、今なお多くの人々の信仰の土台となっています。
以下はウォッチマン・ニーの生涯年表です。
Ⅰ. ウォッチマン・ニー(倪柝聲)の生涯年表
第一期:初期の召命と真理の発見(1903-1927年)
- 1903年: 中国福建省福州にて敬虔なクリスチャン家庭に生まれる。
- 1920年4月:17歳で救われ、主に仕えるよう召される。
- 1921年:バプテスマの真理を知り、マーガレット・バーバーと母と共にバプテスマを受ける。
- 1922年:パンさき(主の食卓)に関する真理を知り、福州でパンさき集会を始める。また、宗派から離れ、地方召会を設立。
- 1923年:『現在の証し』雑誌を創刊。
- 1924年:杭州を訪問し、各地で福音を宣べ伝える。
- 1925年10月:母とマレーシアのシティアワンを訪問。『クリスチャン』雑誌を出版開始。東南アジア最初の召会を設立。
- 1926年:廈門、同安、南京などで召会を設立、南京の大学で働く。『霊の人』執筆開始。
- 1927年:上海の召会を設立、上海福音書房を成立。
第二期:国際的な務めの拡大と真理の出版(1928-1939年)
- 1928年:上海で第一回勝利の特別集会を導く(主題:「神の永遠のご計画とキリストの勝利」)。
- 1929年:『霊の人』完成・出版。『聖書についてのメッセージ記録』『小さな群れの詩歌』発行。
- 1931年10月:上海で第二回勝利の特別集会(主題:「新契約と神の知恵」)。
- 1932年6月:煙台(チーフー)で召会設立。
- 1933年:ヨーロッパ(フランス、英国)、カナダ、米国を訪問し、各地で語る。年末に『ニューズレターの収集』を発行。
- 1934年:第三回特別集会(主題:「キリストは神の中心性と普遍性である」「神の勝利者」)と第四回特別集会(杭州、主題:「どのようにして勝利者となるか」「霊的戦い」)。
- 1936年:上海郊外の真姑に訓練センター建設。
- 1937年:上海で『正常なキリスト者の召会生活』のメッセージを解き放つ。マニラ、シンガポール、マレーシア訪問。『開かれた門』出版。
- 1938年:英国訪問、T・オースチン・スパークスと会う。
- 1939年:上海の友華村で訓練を実施。
第三期:訓練と迫害の中での忠実さ(1948-1972年)
- 1948年:上海の召会を復興させる。鼓嶺で第一回訓練指導。
- 1949年:鼓嶺で第二回訓練指導。
- 1950年:香港、廈門、チーフーの召会を訪問。
- 1952年:共産主義政権により主のために投獄。
- 1972年:獄中にて主に召される。享年70歳。
ウォッチマン・ニーの働きは、中国国内外の教会に大きな影響を与え、今もその霊的遺産が世界中のクリスチャンに継承されています。
参考書籍
今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房
2025-03-19 | ウォッチマン・ニー
ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)彼は、20世紀の中国において神に大きく用いられた主のしもべです。彼は中国大陸において1920年の17歳でクリスチャンになり、執筆を始めました。彼は約30年間の務めを通して、この時代における主の動きのために、主から彼のからだへ与えられたユニークな賜物であることが明らかされました。1952年に彼は共産主義政権によって投獄され、1972年の死まで監獄に入れられたままでした。彼の言葉は、世界中のクリスチャンたちへの霊的な啓示と豊富な供給の源となっています。
Ⅰ. ウオッチマン・ニー (1903-1972)
ウォッチマン・ニーは1903年、中国・福州で敬虔なクリスチャンの家庭に生まれました。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は福州のアメリカ会衆派の大学で学び、福州北部の会衆派の中国人の初代牧師になりました。祖母や両親も熱心なクリスチャンとして教育を受け、キリスト教に深く根ざした家庭環境の中で育ちました。彼自身も福州の聖公会三一学院という、英語と中国語の教育水準が非常に高い教育機関で学び、両言語に熟達しました。
1920年代になると、中国全土で福音宣教が活発になり、多くの学生たちが福音を受け入れ、霊的な覚醒が広まりました。そのような霊的高揚の中で彼もまた17歳の時に劇的な回心を経験し、自らの人生をキリストに完全に委ねました。回心後、彼は新たに英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)、中国語名を倪柝聲(ニー・トゥォーシェン)に改名しました。「ウォッチマン」とは「見張り人」を意味し、夜の暗闇の中で時を告げ、人々を真理へと目覚めさせる役割を表しています。
A. ウォッチマン・ニーの務め
彼の働きは、当時の中国における形式的で伝統的なキリスト教のあり方に疑問を投げかけ、単に宗教的知識を持つことではなく、「キリストを命として内側で実際的に経験すること」を中心テーマとしました。彼はまた、教派や宗派を超えてキリストのからだである召会(教会)の真理を追求し、『正常なキリスト者の生活』『霊の人』『キリスト者の標準』をはじめ、多くの深遠な著作を通じて、真の霊的な生活の道を示しました。
しかし1952年、中国共産党による宗教弾圧のために逮捕され、約20年間にわたり投獄されました。獄中で多くの苦難を経験しながらも、彼は信仰を守り通し、1972年に殉教しました。ウォッチマン・ニーの肉体は滅ぼされましたが、彼が残した霊的遺産や著作は、中国国内のみならず世界中のクリスチャンに影響を与え続けています。
彼の人生と働きは、主の地上における回復の働きを進めるための特別な賜物であり、中国だけでなく、全世界の教会に霊的な覚醒をもたらす礎となりました。今日でもウォッチマン・ニーの著作や思想は、多くのクリスチャンが真の霊的経験を深めるための貴重な導きとなっています。
さらに詳しく知りたい方は、『キリスト者の標準』『神の福音』『勝利を得る命』『霊の解放』『歌の中の歌』などの著作を手に取ることで、ウォッチマン・ニーの教えや霊的洞察に触れることができます。また、ウォッチマン・ニーの伝記『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー』なども、彼の人生と働きをさらに深く理解するための良書です。
Ⅱ. ウォッチマン・ニーの書籍
A. 神の福音
B. 勝利を得る命
C. 霊の解放
D. 歌の中の歌
E. キリストの奥義
F. 神聖な啓示の先見者
これらの書物は日本福音書房にてお買い求めいただけます。
出版元:日本福音書房
参考書籍
今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房