【各種の集会4】 メッセージを聞く集会 – 初信者シリーズ17

【各種の集会4】 メッセージを聞く集会 – 初信者シリーズ17

第四の集会は、他のどの集会ほどには重要ではありませんが、神はこれを用いてわたしたちに言葉の供給を得させられます。もし使徒がわたしたちのところを通過するとか、あるいは使徒、教える者、預言者、御言葉の奉仕者がわたしたちの間にいる時、わたしたちはメッセージを聞く集会を持ちます。

Ⅰ. メッセージを聞く集会

この集会は重要でないと言っているのではありません。この集会は最も単純であると言っているのです。多くの集会の中で、メッセージを聞く集会は最も単純な集会です。しかし、他の集会と同様に、多くのことを学ばなければなりません。集会に遅れて、他の人たちを待たせてはいけません。接待の人にしたがって、案配された場所に座ります。聖書と詩歌を持参します。

霊的な面では、この集会に参加する際、まず心が必ず開かれていなければなりません。先入観を抱いている人は、メッセージを聞く必要はありません。聞いても役に立たないからです。もし心を閉ざしているなら、神の御前で恵みにあずかることはできません。これは、メッセージを聞く人それぞれが注意しなければならないことです。メッセージをする人がうまく語れるかどうかは、半分は語る人に責任があり、後の半分は聞く人に責任があります。もしメッセージする人が、閉ざされた心に出会うなら、構えて受け入れない態度に出会ったなら、メッセージをすることはできません。

心が開かれているだけでなく、霊も開かれているべきです。この集会で霊が開かれていることは、とても重要です。真の言葉の奉仕者がメッセージをする時、彼の霊は開かれています。彼が集会の中で開かれた霊に触れるなら、彼の霊は出てくる時、さらに力が増します。もし集会の霊が開かれていなければ、あるいはどうでもいいという霊であれば、または閉じた霊であれば、彼の霊はちょうど箱舟のハトと同様に、飛んで行ってもまた戻ってきます。ですから、集会の霊が開かれている必要がありますし、奉仕者の霊も出てくる必要があります。もし集会の霊が多く開かれているなら、預言者の霊も多く出てきます。

わたしたちは柔らかい人となって、霊を開くことを学ばなければなりません。聖霊に出てきてもらいましょう!冷ややかでかたくなな意見に満ちてはいけません。集会を助ける人となりましょう。集会の霊を妨げる人になってはいけません。あなたの霊は、メッセージをする人の霊が出てくるのを助けなければなりません。あなたの霊がメッセージをする人の霊が出てくるのを妨げてはいけません。もし兄弟姉妹がこの学課を学ぶなら、集会はますます強くなっていくでしょう。

これまでに交わった四つの集会、

  1. 福音を伝える集会
  2. パンさきの集会
  3. 祈りの集会
  4. メッセージを聞く集会

が聖書の中でわたしたちに見せている各種の集会の模範です。

わたしたちはこれら五種類の異なる集会を一つ一つよくよく学ぶ必要があります。わたしたちはいい加減であってはいけません。どうか神がわたしたちをあわれんでくださいますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【各種の集会3】 祈りの集会 – 初信者シリーズ17

【各種の集会3】 祈りの集会 – 初信者シリーズ17

福音集会とパンさき集会はどちらも重要ですが、祈りの集会もまた重要です。各種の集会には、それぞれ特有の性質と地位があります。祈りの集会は易しいと言えば易しいのですが、難しいと言えば確かに難しいのです。初信者の兄弟姉妹にはやはり多少の学びが必要です。

Ⅰ. 祈りの集会

祈りの集会において知るべきことは、大きく五つあります。第一に、一つ心で祈ること。第二に、祈りが専一であること。第三に、祈りが真実であること。第四に、短く祈ること。第五に、個人の祈りを越える祈りをしないことです。ひとつひとつ見ていきましょう。

A. 一つ心で祈る

兄弟姉妹が一緒に集まって祈るには、一つの基本的な要求があります。それは一つ心でなければならないということです。マタイによる福音書第18章で主はわたしたちに、調和一致するようにと、すなわち、一つ心であるようにと言われました。使徒行伝第1章の祈りも、一つ心の祈りでした。ですから、祈りの集会の第一の条件は、一つ心であることです。各自が異なった思いで祈りの集会に来ることはできません。祈りの集会に来るなら、一つ心で求めなければなりません。

次の一句はとても重要です。「あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される」(マタイ18:19)。「調和一致する」のギリシャ語の意味は、音楽の和音を指しているものです。例えば、三人いて、一人はピアノを弾き、一人はバイオリンを弾き、一人が笛を吹くとします。この三人が合奏する時、もし一人が調和しない音を出したら、聴いている人はうるさく感じます。主はわたしたちに、異なる音色をもってではなく、調和して祈ってほしいのです。もし調和することができたなら、何を求めようとも神はわたしたちのために成就してくださいます。地上で縛るものはすべて天で縛られていたものであり、地上で解くものはすべて天で解かれていたものです。基本的な条件は調和にあります。ですから、神の御前で調和することを学ばなければなりません。各自がそれぞれの思いを持って、求めるのではありません。

B. 専一である

どのようにすれば祈りは調和するのでしょうか?祈りの集会における最大の問題は、おそらく項目が多すぎることでしょう。祈りの集会で項目が多くなると、調和することができません。ある祈りの集会の項目は多くて、すべてを含む集会になってしまいます。しかし、聖書の中にこのような集会を見いだすことはできません。聖書の中に見るのは、もっぱら一つの事のために祈るものです。ペテロが獄中に監禁されていた時、教会は熱心に祈りました(使徒12:5)。彼らは多くの事柄を祈ったのではなく、ただ一つの事のために祈っていました。項目が特定していれば、祈りは調和しやすいのです。

毎回の祈りの集会で最も良いのは、一つの事のために祈ることです。一人の兄弟または姉妹のためにもっぱら祈るのです。あるいは、兄弟姉妹の病のために祈るのです。わたしたちは一人の兄弟の病のために祈り、あるいは一人の姉妹の病のために祈り、兄弟姉妹の病のためだけに祈るほうがよいのです。病以外の主題を持ち出さないほうがよいのです。別の時には、欠乏している兄弟姉妹のためにもっぱら祈るのです。あるいは、霊的に弱っている兄弟姉妹のためにもっぱら祈るのです。項目を一つにしたほうが、心を合わせやすいでしょう。

一つの項目を祈り通した後に、なお時間があるなら、別の一つの事を取り出して祈ってもよいでしょう。しかし、祈り始める否や、いくつかの項目を取り出してはいけません。項目が多くなると混乱します。責任の兄弟は、一つの時に一つの事を取り出せばよいのです。後で時間があったら、別の事を取り出します。一つの時間に一つの事を祈るのです。項目が簡単であることが、祈りの集会の最大の必要です。

使徒行伝第1章と第2章で見るように、祈りに力があったのでペンテコステが生み出されたのです。十字架は神の御子が成し遂げられたみわざであり、ペンテコステは神の子たちの祈りが成就した働きでした。これほど大きな事がどのようにして成ったのでしょう?それは一つ心の祈りを通してやって来ました。ですから、わたしたちは専一な項目で祈ることを学びましょう。

専一であるためには、祈りの集会に行く人は各自相当の準備をしなければなりません。祈りの項目は早く兄弟姉妹に知らせる必要があります。できる限り早く知らせて、彼らに先に負担を持ってもらい、その後、全員が一緒に集まって祈るのです。まず感覚と負担を持ち、それから集まって祈るのです。

C. 真実である

もう一つの基本的な必要は、祈りは真実でなければならないことです。祈りの集会での祈りは、おそらく少なからぬ言葉が虚偽です。多くの人は、祈りの言葉が体裁がよいか悪いかを重視して、神が聞かれるか聞かれないかを重視しません。それはまるで神が聞かれなくてもかまわないとしているかのようです。その結果、祈りの集会の祈りは、しばしばとりつくろったものとなっており、空虚な言葉になっています。

真の祈りは、心の中から出て来た切なる願いであり、わたしたちの全存在の深みから流れ出たものです。真の祈りは、軽々しく、耳障りの良い言葉にすぎない祈りではありません。心の深みから流れ出た真実の言葉だけが、真の祈りです。わたしたちの祈りは、神が聞かれるか聞かれないかに注意すべきであって、兄弟姉妹の前に聞こえが良いかどうかに注意すべきではありません。

もしわたしたちが祈りにおいて十分に真実でないなら、教会が強くなることは望めません。教会が強くなるためには、祈りの集会が強められる必要があります。祈りの集会が強くなるためには、すべての祈りが真実であるべきであり、虚偽であってはなりません。虚偽であれば、わたしたちは神の御前で何も得ることはできません。

祈りはメッセージではありません。祈りは演説ではありません。祈りはわたしたちが神の御前に行って求めることです。ですから、祈りの集会においてわたしたちは、神の御前で、まるで神がそのことをご存知でないかのように、詳しく説明したり、報告したり、長たらしい言葉を並べ立てる必要はありません。祈りは、わたしたち自身に必要があり、わたしたち自身に弱さがあるので、祈りによって霊的な供給を得、霊的な力を得ることです。ですから、あなたの内側で必要をどれだけ感じているかが、真実な祈りをどれだけすることができるかになります。もしあなたが必要を感じていないのでしたら、あなたの祈りは偽りの祈りになってしまいます。

偽りの祈りを生む基本的な原因は、祈る人が祈りの集会の中で他の人を忘れることができないことにあります。他の人に注意すると、彼の祈りは偽りのものになってしまいやすいのです。祈りの集会では、一面あなたの祈りは集会の祈りを代表しますが、もう一面であなたは神の御前に単独でいるかのように、あなたの必要にしたがって真実に神の御前で祈り求めなければなりません。

D. 短く祈る

祈りは真実であるだけでなく、短くなければなりません。聖書の中の祈りはたいてい短いです。マタイによる福音書第6章で主が教えられた祈りは、かなり短いです。ヨハネによる福音書第17章で主が世を去る前にされた祈りは相当長いものですが、今日のある神の子たちの祈りに比べればずっと短いです。使徒行伝第4章の祈りは全教会が祈っているものですが、それも相当短いです。エペソ人への手紙第1章の祈りは、とても重要な祈りですが、それもかなり短く、おそらく三分足らずで祈り終えるでしょう。

祈りの集会で多くの祈りがむなしく虚偽なものとなるのは、あまりに長すぎるためです。二、三句だけが神に聞いていただくものであり、残りの全部は兄弟姉妹に聞かせるために言葉を引き延ばしているのです。初信者の兄弟姉妹は、もし主を信じて長年経っている兄弟姉妹の祈りが長ければ、長いままにしておきなさい。しかし、あなたは短く祈らなければなりません。すべての兄弟姉妹が長い祈りをすることができるわけではありません。祈りが長いと、いつも教会にとても大きな損失を被らせます。

E. あなたの個人の祈りを越える祈りをしない

集会での祈りにもう一つの原則があります。それはあなたの個人の祈りを越える祈りを絶対にしてはならないということです。これはとても良い原則です。あなたが個人で祈るのと同じように、集会でもそのように祈ります。もちろん集会での祈りには少し変化があり、個人での祈りと全く同じではないでしょう。しかし、あなた個人の祈りを超えてはいけません。個人の祈りの言葉と集会での祈りの言葉は、ほぼ同じでなければなりません。集会に行って祈る時、もし個人の祈りでは言わない言葉を用いるのなら、それは偽りの祈りになってしまいます。

何かを成就することについて言えば、集会での祈りは個人の祈りより強いものです。神は個人の祈りに答えられるよりも、集会の祈りに答えられます。しかし今日、個人の祈りに対する答えが集会の祈りに対する答えより多いのは、集会の祈りの中には多くの偽りがあって、多くの空虚な言葉がその中にあるからです。実は、集会の祈りの答えは、個人の祈りの答えよりも多くなるはずです。もし神の子たちが一緒に集まって、全員が簡単で、専一で、真実で、一つ心で神の御前に求めるなら、もっと多くの答えを得るでしょう。

これらの5つの点が、祈りの集会で特に心に留めておくべきことです。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【各種の集会2】 パンさきの集会 – 初信者シリーズ17

【各種の集会2】 パンさきの集会 – 初信者シリーズ17

パンさきの集会についてはパンをさくことの霊的意義 – 主の晩餐と主の食卓 – 初信者シリーズ10 で詳しく交わりました。ここでは、重要な点だけを見ていきたいと思います。パウロはコリント人への第一の手紙第10章26節で言いました、「ですから、あなたがたがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。パウロはここでパンさきの集会は、「主が来られるまで」行うと言っています。わたしたちは証しすることができますが、わたしたちが主日ごとにパンをさくたびに、新たな啓示を受けます。パンをさくたびに、パンさき集会の奥深さを知ります。ですから、初信者の兄弟姉妹はよくよく学ぶ必要があります。

Ⅰ. パンさきの集会の意義

パンさきの集会の意義について、聖書は二方面から述べています。それはコリント人への第一の手紙第10章と第11章です。第11章の示すパンは、主の肉の体であり、この基本的な思想は主を記念することにあります。第10章の示すパンは、キリストのからだであるわたしたちであり、この基本的な思想は神の子供たちの間の交わりにあります。

コリント人への第一の手紙第11章
パン:主の肉の体
意義:主を記念する

コリント人への第一の手紙第10章
パン:キリストのからだであるわたしたち
意義:神の子供たちの間の交わり

ですから、パンさきの集会には二つの意味があります。一つは天に向かっていくものであり、わたしたちが主を記念します。もう一つは、テーブルの上に置かれているこの一つパンを中心とするものであり、わたしたちはみなこの一つパンの中の人であるということを表しています。これによってわたしたちには主の中で交わりがあるのです。ですから、パンさきは、主の御前に来て主と交わりを持つと同時に、神の子供たちとも互いに交わりを持つことです。

Ⅱ. パンさきの集会の区分

毎回のパンさきの集会には、二区分あれば最も好ましいです。それは救いが二区分あるからです。救いの一区分は、あなたが自分は罪人、裁きを受けるべき人、死ぬべき人であったことを見いだすことです。しかし、主はあなたを十字架により贖い、救い、罪を赦してくださいました。これが救いの第一区分です。

しかし、救いはここで終わりではありません。あなたは救われ、主イエスを得て、彼のものとなりました。そこで主イエスはあなたを神の御前に連れていき、彼の父をあなたの父と呼ばせ、聖霊はあなたの中で「アバ、父よ!」と呼ぶように教えます(ローマ8:14-16)。これは救いの第二区分です。ですから、第一区分は主の段階であり、第二区分は御父の段階です。

第一区分:御子(主)
第二区分:御父(神)

救いには御子(主)の面と御父(神)の面があります。だれも御子を離れて御父の前に行くことはできません。わたしたちはまず主のところに至り、十字架に出会い、赦しを得て、義なる方に不義な者の立場を取っていただかなければなりません。そうしてはじめて主はわたしたちを、御父の御前に連れて行くことができます。ですから、わたしたちは御父の御前に来て救いを得るのではなく、まず御子のところに来て救いを得、その後はじめて御父の御前へと至るのです。

Ⅲ. パンさきの集会の手順

パンさきの集会の特徴は賛美と感謝です。第一区分でわたしたちは主の御前に来て、感謝し、賛美します。感謝と賛美以外にできることはありません。この集会の中で祈り求めることは、ふさわしくありません。主はすべてのみわざを終えられました。ですから、わたしたちはただ感謝し賛美すればよいのです。感謝は彼が成してくださった事によるのであり、賛美は彼がどういう御方であるかによるのです。始まりにおいては、感謝が比較的多いでしょうが、徐々に賛美へと至ります。賛美が最も高まった時が、パンをさく時です。

パンをさいた後、第二区分が始まります。人が主の御前に来て、そこでとどまっているのを、主は願われません。わたしたちが主を受け入れると、御父もまたわたしたちを受け入れてくださいます。このことをはっきり認識しなければなりません。福音では、わたしたちは主を受け入れるのであって、御父を受け入れるのではありません。しかし、わたしたち自身は御父によって受け入れられるのです。わたしたちが御子を受け入れることは救いの前半であり、御父がわたしたちを受け入れることで、救いは完全なものとなります。ですから、パンをさいた後、御父の御前に行くことができます。わたしたちはすでに主を受け入れ、主にまみえたので、主はわたしたちを御父の御前へともたらしてくださいます。これがパンさきの第二区分です。

Ⅳ. パンさきの集会は長子が多くの子たちを導く

ヘブル人への手紙第2章は、主イエスが多くの子たちを栄光へと導きいれられることを見せています。主イエスは地上におられた時は、神のひとり子であり、ただひとりの方でした。しかし、彼はすでに死なれ、復活されました。今やわたしたちは彼を得て、神の子とされました。主イエスは長子であり、わたしたちは多くの子たちです。12節は言います、「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し、教会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」。ここで言っている教会の集会は、長子が多くの子たちを導いて、御父に賛美の歌を歌う集会です。パンさきの第二区分も、長子が多くの子たちを引き連れていく集会ですから、わたしたちは最高点に触れなければなりません。パンさきの第二区分は、わたしたちが地上で御父を賛美する絶好の時ですから、この時間にわたしたちの霊を高めるように学ばなければなりません。

神は、「イスラエルの賛美」(詩22:3)の上に座しておられる方です。神の教会は、賛美に触れれば触れるほど、御座に触れます。人は、賛美に触れれば触れるほど、御座を認識します。次の詩歌の一節を読んでみましょう・・・

父よ、われらかしこみて、礼拝す。 なが子ら和合してつどいて、賛美ささぐ。 なが家にわれら帰りきて、 御子と共にアバ!と叫ぶ   (詩歌49番)

この詩はとても良い詩歌であり、御子が多くの子らを導いて父を賛美しに行く感覚に触れています。これはとても貴重な詩歌です。

ヘブル人への手紙第2章で語られている集会は、最も良い集会です。わたしたちは今日ここで少し学び得るだけですが、ある日、天に行ってそのような集会をするでしょう。わたしたちは栄光に入る前に、長子が多くの子たちを導いて御父をほめたたえるとはどういうことか、教会の中で御父を賛美するとはどういうことかを、経験すべきなのです。これは、教会の集会が到達することのできる最高点であり、とても栄光あることです。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

【各種の集会1】 福音を伝える集会 – 初信者シリーズ17

【各種の集会1】 福音を伝える集会 – 初信者シリーズ17

前回のメッセージでは集会の原則を述べました。集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16  この記事では、集会の実行について交わります。わたしたちが見たところによれば、聖書にはおよそ四種類の異なった集会があります。

  1. 福音を伝える集会
  2. パンさきの集会
  3. 祈りの集会
  4. メッセージを聞く集会

聖書から、当初の使徒の時代にはだいたい四種類の異なる集会があったことを知ることができます。今日、教会が強くなるためには、これらの集会の実行が必要です。それぞれの集会でわたしたちはみなどのように集まればよいかを学ぶ必要があります。

※ これらの4つの集会をひとつひとつ記事にしていきます。

Ⅰ. 福音を伝える集会

福音書においても使徒行伝においても、教会の当初の歴史の中でも、福音を伝える集会はとても重要な集会でした。第三世紀、第四世紀になって、教会が堕落した後、福音を伝える集会は徐々にその地位を失っていき、メッセージを聞く集会がそれに取って代わるようになりました。教会が強くなるためには、やはり福音を伝える集会の地位が回復されなければなりません。

教会が地上に存在するのは、それ自身を建て上げるためだけではなく、人にキリストを認識させるためでもあります。ですから、教会が内側で成就されることについて言えば、福音を伝える賜物は最後に置かれてもいいかのようです。しかし、教会が外に向かって発展するときには、福音を伝える賜物は第一に使われる賜物です。使徒行伝第8章でピリポがサマリヤに行ったのが、一つの根拠です。神はまず福音を伝える人を遣わして出て行かせ、彼らの賜物を活用させて、人を得、主に帰させました。ですから、わたしたちはいつもメッセージを聞くばかりという習慣を改めて、福音を伝える集会を重く見なければなりません。

もし兄弟姉妹が主を信じ、すぐに福音を伝えることを学ぶなら、いつもメッセージを聞くばかりで福音を伝える習慣がないということにはならないでしょう。福音を伝える集会では、わたしたちは自発的に活動する必要があり、他の人が救われても救われなくてもかまわずに座って聞くだけであってはなりません。

この福音を伝える集会は、全教会が働く集会であり、兄弟姉妹全員に責任があります。みなが前もって多くの祈りをし、比較的成長した、比較的賜物のある兄弟たちが立ち上がって福音の語り手となり、その他の兄弟姉妹は心を合わせて、語る兄弟たちのために祈り、彼らが力強く福音を述べ伝えることができるようにします。福音の語り手となる兄弟は二人あるいは三人でもいいでしょうが、三人以上になると多すぎて混乱しやすいでしょう。

Ⅱ. どのように実行するか

兄弟姉妹一人一人は、どのように福音を伝える集会に集まればよいでしょうか?

第一に、福音はあなたが聞くために伝えられるのではなく、信じていない人が聞くためであることをはっきりと認識しなければなりません。あなたは絶対に、傍観的で、冷淡な、非協力的な態度で集会に来てはいけません。話がうまいとか下手とかにこだわってはいけません。あなたの態度は、人を救うために協力するものでなければなりません。

第二に、すべての兄弟姉妹が出席するのが最も好ましいです。自分はもう救われているから福音集会に行く必要はないなどとは、決して考えてはいけません。集会には、福音を聞きに行くのではなく、何かをなしに行くのです。

第三に、福音集会のたびごとに、必ず人を連れて行かなければなりません。集会の前に、友人や親戚の所に行って彼らを誘っておきます。数日前、あるいは一週間、二週間前にあらかじめ行って、約束します。

第四に、人を連れて行ったら、必ずその人を集会の中で顧みなければなりません。

A. 彼の隣に座る

未信者が集会所に着いたら、その人はどこに座ったらいいのかわかりません。ですから、彼に教えてあげます。一人を連れて来たなら、あなたは彼の隣に座ります。二人を連れて来たなら、あなたは彼らの間に座ります。三、四人連れて来たなら、右に一人、左に一人か二人座ってもらいます。四人より多く顧みてはいけません。その時は、他の兄弟姉妹に顧みてもらいます。

B. 聖書の節や詩歌を探し、用語を解釈する

あなたは福音を聞く人と一緒に座っている時、多くの事柄をなすべきです。壇上で聖書が読まれている時、彼に代わって聖書の節を探してあげるべきです。福音を語る人が特別な名詞や言葉を語って解釈しない時、あなたはそれがどういう意味かを小声で彼に教えてあげなければなりません。あなたは隣にいて、福音の及ばないところを補う必要があります。

ある時、一人の兄弟が福音を伝える際、聴衆はとても多かったのですが、彼は「イスラエル人が出エジプトした事をみなさんはご存じでしょう」と話し出しました。別の兄弟がそばに行って彼に、この人たちはイスラエル人もエジプトも知らないことを告げました。この事は、壇上の兄弟は、未信者が聞いてわからないような話はしないのが一番良いということを見せています。それと同時に、座っている兄弟姉妹も、もしこのような状況に出くわしたなら、福音を聞きに来た人にごく簡単に解釈を付け加えて助けてあげなければなりません。「イスラエル人とはユダヤ人のことであり、エジプトは一つの国で、彼らはエジプトで奴隷になっていて、後になって出てきたのですよ」。

あなたはまた彼に詩歌を開いてあげます。多くの詩歌には、折り返しがあって、繰り返し歌うようになっていますから、それを導いてあげます。

C. 彼の反応に注意して彼のために祈る

さらに、主の御前での彼の反応がどうであるかに注意しなければなりません。壇上の兄弟が福音を伝えている際、もし隣に座っている人の反応が悪ければ、「主よ、彼の心を柔らかくしてください」とひそかに祈ったらよいでしょう。あるいは、この人は高ぶっていると感じたなら、「主よ、彼の高ぶりを打ち破ってください」と祈ればよいでしょう。教会が福音をうまく伝えられるかどうかは、すべての兄弟姉妹の状況にかかっています。もし兄弟姉妹が全員参加し、全員が動くなら、福音には道があります。

あなたは連れてきた人の状態についてはっきりするために、目を注いで注意し、彼のために祈りましょう、「主よ、彼の心を動かしてください。主よ、彼が理解できるようにしてください。主よ、彼を感動させてください。主よ、彼の高ぶりを取り除いて、聞けるようにしてください」。時にはあなたは、メッセージをする兄弟がこのような話をしてくれたらよいのにとか、あのようなことを言ってくれたらよいのにと感じるでしょう。その時には次のように祈ればよいでしょう、「主よ、壇上の兄弟がこの人の必要のためにこのような言葉を語れますように」。あなたは祈りによって隣の人を顧み、集会を支えます。これは重要なことです。

D. 彼が主を受け入れるのを助ける

あなたは彼が感動していると感じた時、彼が主を受け入れるように助けなければなりません。祈りをもって主の言葉を彼の心の中に送り込み、祈りをもって主の言葉を送り込んで彼の心を捕らえるのです、「主よ、この言葉を彼に聞き取らせてください。主よ、この言葉が強く彼の内側に入りますように。主よ、この言葉が光を発して、彼が見えるようにしてください」。

福音を語る兄弟がメッセージを締めくくっている時、彼を励まして言います、「この機会を逃さないでください。あなたが主を受け入れることを望みます」。彼はすでに感動しているのに、依然としてためらって決めかねている時、あなたは彼を少し助けてあげる必要があります。時にはわたしたちは人に勧めようとせず、サタンが妨げるに任せてしまいますが、それは駄目です。サタンは人の心の中で主を受け入れるのを邪魔しますが、わたしたちは人が心から主を信じるように押し出す必要があります。わたしたちは集会において、彼が救われるように助けなければなりません。壇上にいる兄弟が人に主を受け入れるように勧め励ましている時、この人の状況を見て、少しでも感動しているようなら、あなたは彼に働きかけて言います、「あなたは今、主を信じ受け入れるべきです。今、受け入れないなら永遠に苦しみますよ」。話す時、態度は厳粛で丁寧であってこそ、効果があります。

どうか一つの原則を覚えておいてください。わたしたちは人を救おうとする時、この人は救われるかどうかとか、この人は神が救いにあらかじめ定められた人かどうかなどと分析してはいけません。わたしたちはひたすら彼が救われることを願うのです。わたしたちは彼を主の御前にもたらさなければなりません。彼が救われなくても、決して手を放してはなりません。

E. 彼を導いて一緒に祈る

ここまできても、することはまだ全部終わっていません。さらに彼を導いて、一緒に祈る必要があります。あなた一人では力が足りないなら、別の兄弟か姉妹に手伝ってもらって祈ります。決していい加減に事を済ませてはいけません。平安を感じるところまで共に祈ってから、彼を見送ります。

F. 彼が救われるまで兄弟姉妹と共に訪問する

彼が家に帰った後、一回目に兄弟姉妹と共に彼を訪問するのはあなたの役目です。教会が人に訪問をお願いする時、あなたは組み合わされて、兄弟あるいは姉妹を連れて彼と話しをしに行きます。ある人は一回福音を聞いただけでは不十分であって、二回、三回と勧めなければなりません。この人が救われるまでずっと続けるのです。

わたしたちが回復に道を歩み、福音集会を一つの重要な集会とするよう、神が導いてくださいますように。この集会の中で、すべての兄弟姉妹になすべきことがあり、一人一人が生きており、各自がでたらめでなく、それぞれが自発的でなければなりません。このような状況になったら、ある日、教会の状態は大いに好転し、福音集会は全教会の働きの集会となります。

もしある地方の教会の人数があまり多くなければ、集会の状況はもっと簡単ですから、必ずしも前述のような細則にしたがう必要はありません。しかし、原則的には、各兄弟姉妹が福音集会を重んじて、この集会の中で一人一人が責任を担い、各自が自発的であり、心を合わせて福音を盛り上げ、人が救われるように導かなければなりません。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16

集会とは何か? – 聖書が示す集会の原則 – 初信者シリーズ16

教会には集まる会、すなわち集会があります。パンさき集会や祈りの集会、預言集会や子供集会などさまざまです。なぜ、わたしたちクリスチャンは集まるのでしょうか?集会について聖書はどのように言っているのでしょうか?この記事では、「集会」について交わりたいと思います。

Ⅰ. 団体の恵みは集会の中にある

ヘブル人への手紙第10章25節は言います、「わたしたち自身の集会をやめることなく」。なぜわたしたちは集まることをやめてはいけないのでしょうか?それは神が集会の中で特別な恵みを与えられるからです。神が人に与えられる恵みは、二種類に分けられます。一種類は個人的なものであり、一種類は団体的なものです。神はわたしたちに個人的に恵みを与えられるだけでなく、団体的な恵みも与えられます。この団体的な恵みは、集会においてのみ得られるものです。

以前の記事で、祈りの問題を取り上げました。あなたが一人、家の中でよくよく祈りを学ぶ時、神はその祈りを聞かれます。これには疑いの余地はありません。しかし、もう一種類の祈りについては、もし神の答えを得ようとするなら、集会において祈らない限り、また、二、三人で共に主の御前で求めない限り、効果がありません。大きな事に関するものについては、集会で共に祈らなければ答えを得ることはできません。このように神が与えられる団体の恵みは、集会があってはじめて与えられるものです。

聖書を読むことについても以前の記事で述べました。確かにあなたは聖書を読む時、神は個人的な恵みを与えられるでしょう。しかし、聖書のある個所は、一人で読んでもわかりません。集会に来て、みなで共に集まっている時、あるいはある兄弟が立ち上がってその聖書の個所について語る時、神はその時、あなたに光を与えられます。これが神が与えられる団体の恵みです。

Ⅱ. 教会と集会

教会にはとても大きな一つの特徴があります。それは集会です。クリスチャンは、個人で「自己修行」することを集会と置き換えることはできません。なぜなら、神は集会の時にだけ与えられる恵みを持っておられるからです。あなたが集会しないなら、この団体の恵みを得ることはできません。

旧約において神がユダヤ人たちについて定められたことは、集まらなければならないということでした。ですから、聖書はしばしば彼らのことを「会衆」と呼んでいます。新約に至るともっとはっきりしています。「わたしたち自身の集会をやめることなく」(ヘブル10:25)とは聖書の命令です。

集会については聖書には、明白な命令があるだけでなく、多くの模範があります。主イエスは地上におられた時、何度も彼の弟子たちと共に集まっておられました。山の上で集まり(マタイ5:1)、荒野で集まり(マルコ6:32-34)、家で集まり(マルコ2:1-2)、海辺で集まりました(マルコ4:1)。最後の夜、十字架につけられる前、彼は広間を借りて、彼らと集まりました(マルコ14:15-17)。復活の後、彼はやはり弟子たちが集まっている所に現れました(ヨハネ20:19,26、使徒1:4)。ペンテコステの日の前、弟子たちは一つ心で、一緒に集まって祈っていました(使徒1:14)。ペンテコステの日にも、彼らは共に集まっていました(使徒2:1)。引き続き、彼らは使徒たちの教えと交わりとの中に、パンをさくことと祈りの中に余念なく居続けました。ペテロは釈放されて家に帰った時、彼らはやはり集まっていました(使徒12:12)。コリント人への第一の手紙第14章では、教会全体が一つ所に集まっていたことをとてもはっきりと告げています(Ⅰコリント14:23)。教会全体が一つ所に集まっていたのです。クリスチャンはだれでも、教会の集会で兄弟姉妹と共に集まる必要があります。

「教会」という言葉の意味は何でしょうか?教会とはギリシャ語で「エクレシア」といいます。「エクレシア(ἐκκλησία, ekklēsia)」は、「召し出された者たちの集まり」 を意味します。 このギリシャ語は「〜から」を意味する ἐκ (ek) と「呼び出す、召す」を意味する καλέω (kaleō) という二つの語が合わさり、「呼び出された者たち」「召し集められた者たちの集まり」という意味になります。

神は、召された人を必要とされるだけでなく、召された人が集まることをも必要とされます。もし召された人が一人一人ばらばらであれば、教会はなく、教会は生み出されません。ですから、主を信じた後、一つの基本的な必要は、神の子たちと共に集まることです。

Ⅲ. 集会はからだの機能を表現する

コリント人への第一の手紙第12章はからだについて述べ、第14章は集会について述べています。第12章は聖書の賜物について語り、第14章も聖霊の賜物について語っています。第12章はからだにおける賜物について語り、第14章は教会における賜物について語っています。この二つの章の御言葉にしたがって見ると、からだの各肢体が互いに機能する活動は、集会の中で表現されるようです。なぜなら、第12章と第14章を連ねて読むと、第12章のからだが第14章になって機能を生じているのをはっきりと見るからです。一方ではからだを言い、他方では集会を言っています。一方ではからだにおける賜物を言い、他方では集会における賜物を言っています。からだの機能は、特に集会の中で発揮されます。肢体は互いに働き、目は足を助け、耳は手を助け、手は口を助けて、互いに影響し合い、互いに支え合うのですが、それは特に集会の中で機能を生じます。ですから、もしあなたが神の子たちと集会しないなら、何がからだの機能であるかを知ることのできる機会を持たないことになります。

教会はキリストのからだです。教会はまた神の住まいです。旧約で見ますと、神の光は至聖所の中にありました。外には太陽の光があり、聖所には垂れ幕の前にオリブ油のともし火がありました。しかし、至聖所には天然の光はなく、また人工的な光もなく、ただ神の光だけがありました。至聖所は神の住まわれる所です。神の住まわれる所に神の光もあります。今日、教会が共に集まっている時、教会が神の住まいとなっている時、神の光があります。教会の集会は、神が光を現し出される時です。なぜそうなのかはわかりません。わたしたちが言うことのできるのはただ、これは各肢体が互いに機能し、神の光をからだにおいて現し出した結果の一つであるということだけです。

神の子たちが集まって互いに機能を果たすことは、とても自然なことです。からだが互いに機能を果たすことが、集会によってどのようにして生み出されるかはわかりませんが、互いに機能を果たすことが事実であることだけはわかっています。ある兄弟が立ち上がると、あなたは光を受けます。ある兄弟が立ち上がると、あなたは主の同在を感じます。ある兄弟が口を開いて祈ると、あなたは神に触れたと感じます。ある兄弟が数句語っただけで、あなたは命の供給を感じます。このようなことは、解釈することができませんし、解釈するという領域を超えていることです。キリストのからだがどのようにして互いに機能を果たすのかは、将来、主の御前に行ってはじめて知ることができるでしょう。今日わたしたちは、主が定められたところにしたがって行うだけです。

Ⅳ. 集会の原則

では、わたしたちはどのように集会すべきでしょうか?第一の原則は、主の御名の中へと集められることです。第二の原則は、人を建造することです。

A. 主の名の中へと

集会に関して聖書が述べている第一の原則は、すべての集会が主の御名の中へと集められていなければならないことです。マタイによる福音書第18章20節では、「わたしの名の中へと集められる」とあります。「主の名の中へ」とはどういうことでしょうか?その意味は、「主の権威の下へ」ということです。主は中心であり、すべての人はみな主の御名へと吸い寄せられて来ます。わたしたちが集会に行くのは、某兄弟、某姉妹に会いに行くのでも、某兄弟、某姉妹がわたしたちを集会に引き寄せるのでもありません。わたしたちが集会に行くのは、多くの兄弟姉妹と共に主の名の中へと来ることであり、その中心は主です。わたしたちが集会に行くのは、人のメッセージを聞くためではなく、主にお会いするためです。もし、あなたが誰かのメッセージを聞くために集会するのであれば、あなたはその人の名の中へと集められており、主の名の中へと集められてはいないでしょう。

なぜ「主の名の中へ」と言うのでしょうか?それは、物質の体をもっては(ルカ24:29-30)、主はここにおられないからです。主がおられない場所でこそ、名が必要です。名があるのは、主がおられないからです。物質の体をもって言えば、主は今日、天上におられ、この地上には一つの名をわたしたちに残し、与えてくださいました。主の名の中へ集められているなら、主の霊がわたしたちの間にあります、今日、主は天上に座しておられますが、主の名はわたしたちの間にあり、主の霊もまたわたしたちの間にあります。ですから、人が集まるためには必ず「主の名の中へ」と集められなければなりません。

B. 人を建造すること

集会における第二の原則は、人を建造することです。パウロはコリント人への第一の手紙第14章で言っていますが、集会の基本原則は人を建造することであり、自分自身を建て上げるのではありません。異言を語る者は、自分自身を建て上げます(Ⅰコリント14:4)。異言を解釈する者は、他の人に建造を得させます(Ⅰコリント14:27)。言い換えると、ただ自分自身と建て上げることができるだけで、他の人に建造を得させないなら、これは「異言を語る」原則です。異言を解釈する原則は、わたしが自分自身の得たものを他の人に分け与えて、他の人をも建造することです。ですから、もし集会で異言を解釈する者がいないなら、異言を語るべきではありません。その意味は、自分自身を建て上げるだけで、みな建造を得させることができないなら、集会で語るべきではないこということです。

ですから、集会では何といっても他の人のことを考えなければなりません。言葉が多い少ないを問うのではありません。他の人が建造を得るかどうかを問うのです。姉妹たちが質問するのも同じ原則です。集会において一つの質問をすることは、あなた自身の益のためだけであってはならず、あなたによってその集会が駄目にされるかどうかを顧慮しなければならないのです。あなたの個人主義が対処されているかどうかは、あなたが集会の中でどうであるかを見れば、最も明らかにされます。

ある人は長く祈ることを好みます。彼が祈り始めると、多くの人は疲れてしまいます。一人の人が集会の原則を守らないと、教会全体を困らせてしまいます。聖霊は集会の中におられ、逆らってはならないのです。聖霊に逆らうなら、祝福はありません。集会でわたしたちが他の人を顧み、他の人の建造を顧みるなら、聖霊は尊ばれ、建造のみわざをなし、わたしたち自身も建造されます。あなたが口を開けば、他の人の益になると感じるなら、口を開けばいいのです。黙っていた方が他の人の益になると感じるなら、黙っていればいいのです。集会は他の人のためです。これが集会の基本的な原則です。

これは決して、集会では全員が口を開いてはならないということではありません。多くの時、語ることが他の人に損失を被らせますが、黙っていることも他の人に損失を被らせます。どうであろうとも他の人の建造のためでなければなりません。口を開くべき時に口を開きます。覚えておいてください。集会では「すべての事を、建造のために行いなさい」(Ⅰコリント14:26)。

自分の言葉が人を建造するかどうかわからない場合、一番いいのは、学びがあり経験がある兄弟に尋ねてみることです、「わたしは集会でもっと語るべきでしょうか、語るのをもっと少なくすべきでしょうか?」。初めからへりくだった人にならなければなりません。自分が何者かであると思ってはなりません。みながへりくだって学ぶなら、集会を強めることができるでしょう。

Ⅴ. キリストの中で

最後に、もう一つ交わるべきことがあります。わたしたちが集会する時はいつでも、わたしたち信者は「キリストの中で一つである」ということを覚えておかなければなりません。いくつかの聖書の個所を読んでみましょう。

コリント人への第一の手紙第12章13節は言います、「なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。「・・・も・・・も」の意味は、区別がないということです。キリストのからだの中では、この世的な区別はありません。わたしたちはみな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされました。

ガラテヤ人への手紙第3章27節から28節は言います、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを来たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません。奴隷も自由人もあり得ません。男も女もあり得ません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一つだからです」。ここでは、キリストの中へとバプテスマされた者はみなキリストを着たことを見ることができます。わたしたちは国籍や文化が違っても、キリストの中でみな一つなのです。

コロサイ人への手紙第3章10節から11節は言います、「新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。ガラテヤ人への手紙でもコロサイ人への手紙でも「あり得ません」と言っています。なぜなら、わたしたちが新しい人を着て、一人の新しい人に構成されたからです。この新しい人は神にしたがって創造されています(エペソ4:24)。新しい一人の人には、ただキリストしかありません。

この三箇所の聖書を読めば、わたしたち信者はキリストの中で一つであることを見ることができます。わたしたちは主の中では、以前の身分によっては分けられません。新しい人の中では区別はありません。キリストのからだの中では区別はありません。もし人為的な区別を教会に持ち込むなら、兄弟姉妹の間の関係は正当な立場に置かれなくなります。

A. キリストの中には存在しない5つの区別

ここで取り上げたものには、「ギリシャ人とユダヤ人」「自由人と奴隷」「男と女」「未開人とスクテヤ人」「割礼と無割礼」という、全部で五つの区別があります。

1. ギリシャ人とユダヤ人

ギリシャ人とユダヤ人の区別には二つの意味があります。第一は、ユダヤ人とギリシャ人は二つの異なる民族、国家であることです。この当時のユダヤ人は、自らアブラハムの子孫、神の選民として外国人を見下げていました。しかし、主の中ではみな兄弟であり、民族や国家によって神の子たちを分けることはできません。例えば、あなたが日本人としての文化、誇り、アイデンティティー、精神性を教会に持ち込むなら、あなたは何がキリストのからだなのか、教会なのか、新しい一人の人なのかを全然知らないのです。キリストがすべてであり、すべての中におられます。教会の中にはただキリストがあるだけです。

第二は、ユダヤ人は宗教に熱心な性格を表し、ギリシャ人は学問を好む性格を表します。歴史上、宗教を言う時はいつもユダヤ人が取り上げられます。哲学を言う時はいつもギリシャ人が取り上げられます。ですから、この区別は人の性格の相違を表しています。しかし、性格がいかに異なろうとも、ユダヤ人(宗教に熱心な人)もクリスチャンになれますし、ギリシャ人(学問を好む人)もクリスチャンになれます。一方は良心の感覚に注意を払い、もう一方は理性と推論に注意を払います。肉にしたがって言えば、この両者は確かに性格が異なっています。しかし、キリストの中ではこのような区別は存在しません。

多くの時、教会に問題が生じるのは、多くの人が自分の生まれつきの気質を持ち込むからであり、彼らが特有の性質を教会に持ち込むからです。他の人の性質とあなたの気質が同じでないからといって、彼は間違っていると言ってはいけません。あなた自身の性質も、他の人は好ましく思っていないということを知らなければなりません。ですから、あなたがせっかちであれ静かであれ、冷静であれ情熱的であれ、理性的であれ感覚的であれ、ひとたび入って来て兄弟となり姉妹となったなら、これらのものを門の外に置いてこなければなりません。そうせずに、これらの生まれつきの性質を教会に持ち込むなら、混乱と分裂をもたらす根拠になります。自分の基準に合う人を正しいとし、自分の基準に合わない人を良くないクリスチャンとしてはいけません。この種の区別は教会には存在しません。

2. 自由人と奴隷

第二の区別は自由人と奴隷です。パウロがコリント人への第一の手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙を書いたのは、奴隷制度のあったローマ時代です。そのころ、奴隷は家畜や労働工具と同様であって、主人の財産でした。もし父母が奴隷なら、生まれた子供たちも一生自由がありませんでした。自由人と奴隷の区別は本当に厳しかったのです。しかし、神は教会の中にこの区別があることを許しません。

3. 男と女

第三の区別は男と女です。キリストの中では、新しい人の中では、男と女の地位は同じであり、区別はありません。キリストがすべての中におられ、キリストがすべてですから、男と女に区別はありません。(「男と女の区別がないと言っているのに、なぜコリント人への第一の手紙第11章では、男と女について語っているのか?」と疑問に感じた方は、別の記事の『頭を覆う』を読んでください。)

4. 未開人とスクテヤ人

第四の区別は未開人とスクテヤ人です。これは文化の区別です。各自の文化程度には、高低があり、相違があり、区別があります。しかし、これらの区別はキリストの中には存在しません。

5. 割礼と無割礼

最後の区別は割礼と無割礼です。この区別は、肉に敬虔のしるしがあるかどうかにあります。ユダヤ人は肉に割礼を受け、彼らの肉にはしるしがあって、彼らは神のものであり、神を畏れ敬う者であり、肉を拒絶する者であることを表明しています。彼らは割礼をとても重んじています。

わたしたちクリスチャンにも、肉の上での敬虔のしるしがあります。例えば、バプテスマ、おおい、パンさき、按手などです。バプテスマ、おおい、パンさき、按手には霊的意義があり、また肉の上でのしるしもあります。これらすべてには霊的意義があってすべて霊的な事柄です。しかし、もう一面において、もしこれらをもって神の子たちを区別し、自分たちにはこれらのしるしがあるのに、他の人たちにはないとして互いに一つとならないなら、これらを霊的な意義から肉のしるしへと引きずり下ろすことになり、ユダヤ人が割礼を誇るのと同じ原則に陥ってしまいます。わたしたちのバプテスマ、おおい、パンさき、按手なども、わたしたちの「割礼」となり変わってしまいます。しかし、キリストの中では割礼と無割礼の区別はありません。肉のしるしをもって神の子たちを区別することはできません。キリストの中ではわたしたちは一とされています。キリストの中の命は一です。これらのものはすべてキリストの命の外側にあるものです。もし霊的な実際があって、そのうえ肉における表示があれば、もちろんそれは最上です。しかし、霊的な実際があっても肉における表示に欠ける場合、わたしたちは、この事でその人と区別することはできません。

まとめ

わたしたちはみな兄弟姉妹であり、わたしたちはみなキリストの中で新しい人となっています。わたしたちはみなからだの肢体であり、からだの一部です。わたしたちが教会の中にいるなら、もはやキリスト以外の区別があってはなりません。すべての人がみな新しい地位に立っており、みな主が創造された新しい人の中にあり、みな主が建てられたからだの中にあります。わたしたちは、あらゆる神の子たちがみな一であり、優越感も必要なければ、劣等感も必要ないことを見なければなりません。心の中から宗派の思いを除き去り、分派の思いを捨て去らなければなりません。そうであれば、神の教会において集会する時、兄弟姉妹が互いに交わる時、分裂分派には至りません。集会でこれらの事に注意するだけでなく、日常生活においてもこの種の生活をすべきです。どうか神がわたしたちを祝福してくださいますように。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十二編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」