ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウォッチマン・ニーが回復した聖書の53の啓示

ウオッチマン・ニー兄弟は、すべての真のクリスチャンが保っている聖書的、根本的信仰を完全に信じていました。彼は聖書が神の聖なる言であることを信じ、一字一句がみな神の啓示であることを信じました。

彼は神が三一、父、子、霊であり、三の区別はあるが、完全に一であり、永遠から永遠まで同時同存、相互内在しておられることを信じました。彼は、イエス・キリストが神の御子、神ご自身でさえあり、人として受肉して、人の命と神聖な命を兼ね備えられたこと、十字架につけられて死に、願いを達成されたこと、三日目に死人の中から体を伴って復活されたこと、天に昇って御座に着き、栄光を冠らせられ、万有の主とされたこと、再来して、彼に従う者たちを迎え、イスラエルを救い、地上に彼の千年王国を打ち建てられることを信じました。

彼は、イエス・キリストを信じるすべての者が神によって赦され、贖いの血で洗われ、信仰によって義とされ、聖霊によって再生され、恵みによって救われることを信じました。そのような信者は、神の子供であり、キリストのからだの肢体です。彼はまた、信者めいめいの定めが、召会(教会)、すなわちキリストのからだ、神の家を構成する一部分であることを信じました。 これらのクリスチャン信仰の基本的な面以外に、ニー兄弟はまたさらに光を得て、五十三項目の聖書の教えに関して、主からはっきりした啓示を受けました。これらは、クリスチャンの信仰を十分に理解し、実行するために極めて重要です。

Ⅰ. 一九二〇年から一九三二年まで

1. 救いの確信

主がまずニー兄弟に啓示された基本的項目の一つは、信者の救いの確信です。当時、全中国において、救いの確信の聖書的教えは、どのクリスチャン団体でもほとんど教えられていませんでした。しかしながら、ニー兄弟はこの事柄にとてもはっきりしたので、クリスチャンに福音を宣べ伝えて、彼らが救われたことを認識するのを助けました。彼は聖書のはっきりした御言を用いて、信者が自分の救いに対して、完全に確信できることを示すことができました。彼は疑問のある人たちを、聖書によって、例えばヨハネの福音書第三章十六節のような節を彼らが取り、 この節を消化して、これが確定的であり、決して滅びないと感じるまで助けました。彼はまた、神の霊が彼らの内に住んで、彼らの霊と共に、彼らが神の子供であると証しすることを指摘しました(ローマ八・十六)。二ー兄弟はさらに、ヨハネ第一の手紙第三章十四節から、救いの確信を挙げました、「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死から命へと移ってきたことを知っている」。

2. 恵みと律法の区別

当時の大多数のクリスチャンが救いの確信を持っていなかったのは、彼らが恵みと律法との区別を知らなかったからです。ニー兄弟は、救いはただ恵みによるのであって、律法のわざによるのではないという、主の明確な啓示を受けました。もし救いが律法の事であるなら、それはわたしたち自身の行ないによることになります。しかし救いは主の恵みによるのであって、彼が何であられるか、また彼がわたしたちのために何をされたかによります。

3. 救いと勝利との違い

あるクリスチャンは、救いと勝利との違いを知りません。これは、自分の救いが不確かであるもう一つの原因です。わたしたちが主イエス・キリストを信じた瞬間、わたしたちの救いは永遠に定まります。ところが勝利は、罪、 この世、肉、自己、日常生活のいっさいの消極的な事物に打ち勝つことです。わたしたち神の子供は、ただ主イエス・キリストを信じることによって、救いを得ます。わたしたちの永遠の運命は、永遠に堅固です。ところが勝利は、わたしたちの日常生活においてであり、経綸上の報酬と関係があります。

4. 救いと報酬との違い

クリスチャンがもし救いと報酬の区別について、はっきりしていないなら、自分の得た救いの確証に問題があるようになります。この区別は、ニー兄弟に対して完全に啓示されました。救いは恵みにより、信仰を通してですが(エペソニ・八)、報酬は主の御心に従って働いた結果です(マタイ十六・二七、1コリント三・十四)。

5. 天の王国と永遠の命との違い

あるクリスチャンは、自分が救われているとはあえて言いません。なぜなら彼らは、永遠の命を持つことと天の王国に入ることとの違いがはっきりしていないからです。人が主イエスを信じて救われる時、永遠の命を得ます。

ところが天の王国に入るには、必ず天的統治の下で日常生活を生きなければなりません。そのような生活は、現在の召全時代における一種の訓練であって、王国時代に主の千年王国の統治にあずかる資格をわたしたちに与えます。 このような分け前は、天の統治の下で生活した報酬であって、それは永遠の救いの事柄ではありません。この事で、 ニー兄弟は徹底的な、はっきりした啓示を受けました。

6. 王国の真理

ニー兄弟はまた、新約の中で王国の真理を完全に見ました。彼は新約の中に、天の王国と神の王国との区別を見ました。神の王国は、神のすべての支配を包含し、過去の永遠から将来の永遠にまで至ります。ところが天の王国は、神の王国の中の比較的小さい範囲です。それは現在の召会時代における信者の間での天的支配(マタイ五・三、 十)と、来たるべき王国時代での報酬です(マタイ五・二〇、七・二ー)。すべての再生された信者たちは、 王国にいます(ヨハネ三・五)。しかし天の統治の下に生活した者だけが、王国時代を報酬として受け継ぎます。 神の王国は救いと関係がありますが、天の王国は報酬と関係があります。

7. 携え上げられる

王国の啓示と共に、主はまたニー兄弟に携え上げの啓示を与えられました。今日の根本的神学は、クリスチャンは救われさえすれば、みな普遍的な携え上げにあずかり、主の再来の時、全召会と共に、大艱難の前に携え上げられる、と告げています。しかしニー兄弟は、すべてのクリスチャンが同時に携え上げられるわけではないことを見ました。ある信者たちは、大艱難の前に成熟した勝利者となります。ですから、彼らは先に構え上げられるでしょう。しかしながら、大多数の信者は後で成熟するので、遅れて携え上げられるでしょう。王国は報酬の事柄であり、 携え上げは成熟の事柄です。携え上げられることは収穫物に例えられます。農作物がまだ青いうちは、刈り取られて納屋に入れられることはありません。それは熟してはじめて、刈り取られます。すべてのクリスチャンも、命において成熟しなければなりません。彼らが成熟する時、主は彼らを刈り取り、彼らを天の納屋にもたらされるでしょう。次の二つの点を、しっかり心に留めなければなりません(1) 王国は勝利の信者たちに対する報酬である。(2) 携え上げには勝利者の成熟が要求される。

8. キリスト教の逸脱

ニー兄弟と年若い数名の信者たちは、救われるとすぐ、聖書を学ぶことによって、今日のキリスト教がいかに不正常であるかを認識し始めました。その当時、彼らはまだ学生でした。主は彼らに、今日、実行されているキリスト教は、神が聖なる言葉の中で定められた方法とは、ほとんどあらゆる点で逸脱していることを見せられました。

9. 教会、エクレシア、キリストのからだ

主はニー兄弟に、彼の教会について明らかな啓示を与えられました。ニー兄弟は、教会は建物ではなく、組織やキリスト教の団体でもないことを、宣べ伝え、教えました。召会は有機体であり、生けるからだです。別の面で、 教会はエクレシア、召された者たちの会衆です。

10. 教会の二つの面

二ー兄弟は、各会には宇宙的な面と地方的な面があることを見ました。全宇宙には、ただ一つの召会、神の召会があるだけです(1コリント十・三十二)。この唯一の召会は、地上の多くの地方において表現され、それぞれの地力には一つの地方召会があります。宇宙召会はすべての地方召会から成っており、地方召会は宇宙召会の実際的な表現です。マタイの福音書第十六章十八節で宇宙召会が啓示されており、マタイの福音書第十八章十七節で地方召会を見ます。地方召会がなければ、宇宙召会にあずかるすべはなく、実行上の地方召会を持つ方法もありません。

使徒行伝、書簡、啓示録において、召会は地方召会として表現されています。すなわち、エルサレムに在る召会、アンテオケに在る召会、エペソに在る召会などです。召会の行政は宇宙的ではなく、地方的です。

11. 宗派

ニー兄弟は、召会についての啓示と同時に、宗派の邪悪をも見ました。宗派はキリストのからだを、多くの組織に分けます。これは聖書で罪に定めていることです(1コリント一・十一-十三)。

12. 聖職者制度と宗教組織

ニー兄弟は光を得て、聖職者階級と平信徒制度が間違っていることを見ました。この制度は、キリスト教の組織の中の聖職者、階級、地位を含み、それは一種の人為的組織となりました。ローマ・カトリック教会には、神父、司教、大司教、枢機卿、法王がいます。英国国教会には、牧師、主教、大主教、その地を統治する元首がいます。

ブロテスタントには牧師がいます。このような聖職者階級制度は、明らかに新約の啓示に反するものであり、キリストのからだの肢体の機能をまっ殺します。宗派は、キリストのからだを粉々にし、聖職者制度は、キリストのからだのすべての肢体の機能を破壊します。

13. 普遍的な祭司職

普遍的な祭司は、ニー兄弟に啓示されたもう一つの真理です。彼は、新約の祭司職が旧約の祭司職と違うことを見ました。旧約の祭司職は、結局、アロンの子供たちに与えられ、一般の民と違った聖職者階級を生み出しました。 ところが新約の祭司職は、すべての信者に与えられています(啓一・六、1ペテロニ・五、九)。新約には聖職者も平信徒もなく、全員が祭司です。

14. 正当な長老職

二ー兄弟は聖書からはっきりした啓示を受けて、召会は一団の長老たちによって管理されるべきであることを見ました。すべての地方召会は、一団の老練な兄弟たちが、人を導き、監督して、召会のいっさいの活動を顧みる必要があります。聖書では、この人たちのことを長老、あるいは監督と呼んでいます。

15. 職務と賜物との違い

ニー兄弟は聖書から、教会の職務と賜物とが違うことを見ました。教会の職務は長老と執事を含み、それは地方的です(ピリビー・一賜物は預言者、伝道者、牧する者と教える者を含み、それは宇宙的です(エペソ四・十ー)

16. バプテスマとパンさき

主はニー兄弟に、正当なバプテスマの方式は水の中に浸すことを啓示されました。主はまた彼に、聖書に従ったバンききを実行する道を示されました。バプテスマは、信者の古い生活が終結し、この世から分離して、主と主のからだへと聖別されたという証しです。パンさきは主を記念することであり、彼のからだの合一と交わりを証しします。

17. 頭のおおいと按手

ニー兄弟はまた、頭のおおいと按手を正しく実行することの聖書的意義を見ました。頭のおおいは、召会において、キリストの頭首権に服従するという表現です。按手は連合の行為であって、からだの一の中で行なわれることが、からだの他の肢体への分与であることを示します。手を置くことによって、霊的賜物は肢体に分け与えられ、 キリストのからだの肢体の間で、交わりが実際化されます。

18. 神の信仰によって生きる

ニー兄弟は、真の神に仕える人は必ず神に信頼する生活をするべきであって、宗教組織に雇われてはならないことを見ました。ニー兄弟の務めを始めたころには、信仰による生活の実行は、中国では実際的に知られていませんでした。ブラザレンは彼らの間で主に仕える人を雇いませんでしたが、彼らが中国に来た時には、彼らも中国の信者たちに神に信頼する生活を教えるのは不可能である、と思っていました。信仰によって生活することは、根本的に中国のクリスチャンの観念にはありませんでした。しかしながら、ニー兄弟は、このことを教えただけでなく、 彼自らがこれを実行しました。

19. 神のいやし

ニー兄弟は、聖書から神のいやしを信じただけではなく、彼自らそれを経験しました。彼にとって、それは単に外側の奇跡的賜物ではなく、内側の経験であり、それは命における建造を生み出します。

20. キリストの死と復活

主はニー兄弟に、キリストの死と復活について特別な啓示を与えられました。彼は、キリストの死に二つの面があることを見ました。客観的な面は、わたしたちの罪、もろもろの罪、この世、サタン、暗やみの勢力を対処しました。主観的な面は、わたしたちの肉、自己、古い人を対処しました。彼はまた、キリストの死の中に、旧創造が終結させられていることを見ました。これは十字架の消極面です。積極面では、キリストの神聖な命が解き放たれて、新創造を発芽させました。わたしたちの主の復活において、彼の神聖な命は解き放たれて、信者を再生し、彼らをキリストのからだの肢体としました。彼の復活から、召会は出現し、また彼の復活において、キリストのからだは建造されつつあります。彼の復活の大能の中で、信者は十字架を担うことができ、またキリストの苦難の交わりの中で、彼の死に同形化されるのです(ピリピ三・十)。主の民は、キリストの復活の命を享受し、力を受けて、 地上を歩んではいても、聖なる、天的な生活を生きるのです。この復活は、復活のキリストご自身であり、キリストの霊は、復活の実際です。

21. キリストの昇天

ニー兄弟は、キリストはすでに昇天して、万有のはるか上におられることを見ました。地の引力、悪鬼、空中の権を持つ君、いっさいの暗やみの勢力も、彼を阻止し、彼をとどめておくことはできませんでした。これらは今、 すべて彼の足の下にあります。彼は昇天によって、万有の主となられ(使徒二・三六)、また昇天によって、すべて彼に従う者たちを、天的場所にもたらされました(エペソニ・六。)彼の地位、彼の務め、彼の命は今や、すべて天的です。彼は今、天の命と天そのものを彼の民へと供給して、彼らを天的民にし、地上で天の生活を生きさせる、という働きに就いておられます。

22. キリストの再来

ニー兄弟は、キリストの再来に関する明確で、透徹な展望を得ました。彼は主の来臨(ギリシャ語はparousia パルーシア)に、秘密の面と公の面があることを見ました。目を覚まして彼を追い求め、彼の再来を待ち望んできた人たちに対して、彼は大艱難の前に、天から空中へと、盗人のようにひそかにこられます(マタイ二四・四 啓示録[黙示録]三・三。)ところがこの世に占有された人々に対しては、彼は大観雅の後に、空中から地上へと、いなずまのひらめきのようにこられます(マタイ二四・二七、三〇。)彼のひそかな来臨において、信者たちは空中に携え上げられるでしょう。しかし彼の公の来臨は、地上のこの世に対する裁きをもたらします。

23. 聖霊の内住

十字架につけられ、復活し、昇天されたこのキリストは、今や命の霊として彼の民の霊に内住し、キリストを彼らにとって実際とならせます。このキリストの内住の霊は聖霊であり、神の霊でもあります。神聖な霊の主要な機能は、神聖な命を神の民へと分け与えて、彼らを再生し、彼らを油塗り、神の成分で彼らを浸透して、聖別し、造り変えることです。

24. 油塗りの教え

ニー兄弟は聖霊に関する啓示と共に、また油塗りの教えについて光を受けました。油塗りは、わたしたちの霊の中での聖霊の動きと働きです。油塗りは内側から、わたしたちにすべての事を教えます(1ヨハネニ・ニ七)命の法則は旧約の律法に置き換わり、油塗りの教えは旧約の預言者に置き換わります。わたしたちが主の中に住むのは、油塗りの教えによります。

25. 聖霊の注ぎ

ニー兄弟は、聖霊の二つの面を見ました。それは命のための聖霊の内住と、力のための聖霊の注ぎです。主は死人の中から復活した日、弟子たちの中に聖霊を息吹かれました(ヨハネ二〇・二二。)その時、聖霊は弟子たちに入り、彼らの内に住まわれました。それは、命を分け与えるためでした。ところがペンテコステの日、聖霊は弟子たちの上に注がれました(使徒二・四、三三)。この霊の注ぎは、弟子たちに力を与えるためでした。これは、その霊の第二の経験であって、聖書は聖霊のバプテスマと呼んでいます。大部分のクリスチャンは、その霊の二つの面の違いを見ていません。しかしながら、ニー兄弟はこの区別について、はっきりとした啓示を受けました。彼は異言で語ったことはありませんが、何度も聖霊の注ぎの経験を受けています。

26. 人の三部分

ニー兄弟は彼のクリスチャン生活の初期に、人には三部分、霊、魂、体があることを見ていました(1テサロニケ五・二三。)彼は、魂は人の人格であること、体は人の外側の部分であって、物質の世界に接触するためであること、霊は人の最も内なる部分であって、霊の世界に接触するためであることを見ました。神は霊ですから、必ずわたしたちの霊の中で、彼を礼拝し、彼に仕えなければなりません(ローマ一・九、ヨハネ四・二四)、信者は彼らの霊の中で、神の霊によって再生され、神の霊は彼らの霊と共に証しをし(ローマス・十六)、主イエスは彼らの霊と共におられ(Ⅱテモテ四・三)、彼らは主と一つ霊です(Ⅰコリント六・十七)、霊は魂と分離されなければなりません(ヘブル四・十二)。それは、信者が彼らの霊の中で歩み、生き、働いて(ガラテヤ五・十六、二五)、 霊の人となる(Ⅱコリント二・十四 〜十五)ためです。

27. 信仰による聖別

一九二五年より少し前に、ニー兄弟は、信仰による聖別を見るようになりました。彼はジョン・ウエスレーの聖別に関する教えから光を受けましたが、ウエスレーの教えは真の聖別でなく、罪なき完全である、と言いました。 彼は学びを通して、ブラザレンが聖別の幻で、ウエスレーよりも一歩前進していることを認識するに至りました。 ブラザレンの聖別の教えは正確であるとはいえ、あまりにも客観的で、地位上の変化にすぎないものでした。ブラザレンは、この世の金は俗であるが、宮に置かれた金は聖別されている、と教えました。もう一つの例証として、 ブラザレンは、羊、牛が群れの中にあるのは俗であるが、祭壇の上にささげられると聖別される、と教えました (マタイ二三・十七、十九)。ブラザレンはさらに例証を挙げて、市場の食物は俗なるものであるが、クリスチャンの食卓に置かれると、折りによって聖別される、と説明しました。ニー兄弟は、これらの例証はみな外側の地位上の変化のことで、どれも内側の性質上の変化を指すものはない、と指摘しました。彼は、聖別は単に地位上の変化ではなく、それはまた性質上の変化でなければならない、と教えました(ローマ六・十九、二二)。

28. 命としてのキリスト

キリストは、彼を信じる者たちにとって命です(コロサイ三・四)。この命は、彼らの霊の中の命の霊です(ロ―マ八・二)。信者が行なうことはすべて、この内なる命から行なわれなければなりません。すべての信者は、内なる神聖な命によって生きるべきです(ガラテヤニ۰二〇)

29. 命の霊の法則

信者が上から受けた神聖な命は、聖霊の中にあります。聖霊は命の霊と呼ばれます(ローマ八・二)。この神聖な命には、それ自身の法則と特徴があり、またその機能は神の成分をもって、わたしたちを規制し、供給します。

これは単なる外側の律法の文字ではなく、命の法則であり(ヘブル八・十)、それはわたしたちの内側の神の霊によって執行されます。ニー兄弟はこの内なる法則について、完全な啓示を受けました。この内なる法則、いわゆる命の法則によって、わたしたちは罪と死の律法から解放され、義なる、聖なる生活を生きることができます。

30. 罪と死の法則

ニー兄弟は聖書から、罪と死は一つの法則であることを見ました(ローマ八・二 )。この法則は、わたしたちの体の肢体の中にあり(ローマ七・二三)、それはサタンの邪悪な命から出てきます。すべての堕落した人は、その力の下にあります。しかし命の霊の法則は、罪と死の法則よりも力があり、それからわたしたちを解放することができます。

31. さらに優れた契約

主イエスが彼の血をもってわたしたちのために立てられた新契約は、旧契約よりも優れています(ヘブル七・二二、 八・六)。旧契約は旧約の律法に従っており、その祭司職は、肉につける戒めの律法によるものですが、新契約は命の法則に従っており、その祭司職は、朽ちることのない命の力によるものです(ヘブル八・十、七・十六)

32. キリストの勝利の命

キリストは、サタンと宇宙のいっさいの消極的な事物に勝利を得られたので、彼の命は勝利の命です。もしわたしたちがキリストによって生きるなら、彼の命はわたしたちのために、いっさいの消極的な事物に打ち勝ちます。

33. 勝利者の召し

ニー兄弟は、勝利者の召しについて啓示を受けました。全召会は失敗し、主の御心を満足させることができなくなったために、主は来て、ある者たちを信者のうちから勝利者として召されました。これは、啓示録(黙示録)第二章、第三章の七つの書簡に、はっきりと啓示されています。全召会は目標からそれてしまったので、主は彼を愛する者たちに彼の召しを呼びかけて、彼らが堕落した召会に打ち勝つようにされました。

34.  霊的戦争

一九二五年以前に、二ー兄弟は霊的戦争という事柄を見ませんでした。彼は、この宇宙における神の神聖な目的を達成するために、神と彼の敵、サタンとの間に生じる究極的戦争があることを見ました。この戦争は、すべての神の子供たちを巻き込みます。もし彼らがサタンの側につけば、神に反逆しているのです。もし神の側につけば、 彼らはサタンと戦っているのです。すべての勝利の信者たちは、自分たちが戦場にいて、神の神聖な御旨のために戦っていることを、認識しなければなりません。この霊的戦争で戦うために、信者は必ず天的地位を見る必要があります。エペソ人への手紙第二章は、わたしたちが天で座に着いていることを、はっきりと見せています。エペソ人への手紙第六章は、わたしたちが天にいる諸勢力と戦っていることを、示しています。信者は天の地位を守らなければなりません。そうしてこそ、天にいる神の敵を打ち敗ることができます。もし信者の地位が地上にあるなら、彼らは敵の下にいるのですから、勝利の地位を失っています。

Ⅱ. 一九三三年から一九三七年まで

35. 地方召会の境界

一九三三年と一九三四年に、二ー兄弟は、地方召会の境界が、召会が所在する都市を範囲とすることを見ました。 彼は、都市の境界内に一つ以上の召会があってはならない、と指摘しました。これは自然に分裂を除去します。

36. キリストの中心性と普遍性

一九三三年と一九三四年に、ニー兄弟は、神の永遠のご計画の中に、キリストの中心性と普遍性を見ました。彼は宇宙の中で、またクリスチャン生活の中で、キリストは第一位であるべきことを見ました(コロサイ一・十八)。 彼はまた新しい人、すなわち召会の中で、キリストはすべてであり、すべての中におられることを見ました(コロサイ三・十・十一)。

37. 地方召会の立場

 一九三七年に、ニー兄弟は地方召会の立場を見始めました。これは地方の境界をさらに進んだ一歩であり、信者たちが、いかなるものによっても分裂するべきでないことを示しています。召会の立場は一の立場です。わたしたちはどこへ行こうと、どこにいようと、その地の信者と一つであるべきです。一つの都市には一つの召会があるべきです。召会は、家庭に在る召会、工場に在る召会、大学に在る召会、ある通りに在る召会、その他、ある名称の召会はありません。地方召会は一つの都市に在る召会です。もし一地方に一つ以上の召会があるとしたら、その地の信者は分裂しています。

38. 移住

ニー兄弟は使徒行伝から、福音を広める二つの道があることをはっきりと見ました。一つは、使徒が遣わされることによって、もう一つは、信者たちの移住によってです(使徒八・四)。彼の務めの下で、この二つの方法が、 福音を広めるために用いられました。

Ⅲ. 一九三八年から一九四二年まで

39. 召会(教会)生活の実行

一九三九年に、二ー兄弟は召会について、さらに進んだ光を受けました。今回は、召会生活の実行についてです。 彼は、新約からはっきりした光を受けて、長老がどのように実際に長老職を遂行するべきか、執事、女執事がどのように聖徒たちと召会に仕えるべきかを見ました。彼はまた、召会のすべての肢体を助けて、召会の諸事にあずからせました。

40. 召会(教会)の実際

召会の実行面と共に、ニー兄弟は召会の実際を見ました。彼は、召会の内容はキリストがすべての肢体の中で生き、すべての肢体を通して生かし出されるべきである、と強調しました。キリストでないものは、召会ではありません。実際的に言って、召会はキリストです。ですから、キリストは召会の実際であり、召会はキリストの表現であるべきです。

41. 召会の一

召会の真の一は、その霊の一です(エペソ四・三)。真の一は教理、意見、ある実行の一ではありません。真の一はその霊ご自身です。教理において、あるいは物事を行なう方法で一つであったとしても、その霊の中にいなければ、真の一はありません。

42. からだを見る

 一九三九年から一九四二年に、ニー兄弟は、キリストのからだの幻について、絶えず負担がありました。彼は、 クリスチャンが教理的にではなく、実行的にからだを見るようにと、助ける負担を持ちました。彼は絶えず、からだを見ることが個人主義を不可能にする、と強調しました。人がいったんからだを見るなら、団体的に振る舞い、行動します。

43. からだの中での聖霊の権威

ニー兄弟は、キリストのからだが有機体である以上、聖霊はあらゆる面で、すべての事の上で、権威を持っておられるはずであることを見ました。からだの活動はすべて、聖霊の権威と指図の下になければなりません。

44. 聖霊の実際

聖霊はすべての霊的事物の実際です。「霊的事物」という言葉も、聖霊ご自身がすべての霊的事物の内容と実際でなければ、むなしく、空虚です。聖霊はクリスチャンの命の実際であり、クリスチャン生活の実際です。彼らが何であろうと、何をしようと、実際としての聖霊を持たなければなりません。

45. 召会(教会)の権威

実際的な召全生活の実行について、ニー兄弟は権威の必要性を見ました。かしらとしてのキリストが彼のからだの肢体に与える権威は、代表権威と呼ばれます。地方召会はこのような代表権威の下で、麗しい秩序の中になけれはなりません。この権威は、地方召会の建造のために極めて重要です。こうして、召会は一つの直立した器となります。このためには、服従が必要です。

46. 召会(教会)の建造

主がニー兄弟を通して啓示されたことですが、信者は必ず召会の権威の下に、地方召会の中で、他の人たちと実際的に建造されなければなりません。このような建造は、真に霊的であることのテストです。もし地方召会の中で他の人と建造されないなら、その人の霊的であることは疑問です。

47. 召会(教会)生活における組み合わせ

ニー兄弟が受けたもう一つの啓示は、権威と建造に密接に関係のあるもので、それは召会の組み合わせに関する啓示です。地方召会のすべての肢体は、他の人と建造されるだけでなく、他の人と組み合わされる必要があります。召会の奉仕は、個人的に遂行されることはあり得ません。すべての肢体は、取り組んで奉仕しなければなりません。

48. からだと霊的戦争

ニー兄弟の初期の務めにおいて、彼は霊的戦争を、個人的な面として見ていました。ところが、一九三九年から、 それは個人的な事ではなく、からだの事であるのを見ました。エペソ人への手紙第六章の戦士は単独の信者ではなく、キリストのからだです。ニー兄弟は、もし信者が個人主義であれば、天にいる諸勢力と戦うのは困難である、 と強く語りました。わたしたちが敵と戦うためには、からだが必要です。わたしたちは天にいる必要があるだけではなく、からだの中にもいる必要があります。

Ⅳ. 一九四二年から一九四八年まで

49. 聖霊の管理

一九四二年から一九四六年までの期間は、ニー兄弟にとって苦難の時でした。この期間に彼が学んだのは、聖霊の管理の必要を見ることでした。それは、わたしたちの存在の再構成のためであり、わたしたちの外なる人が砕かれるためです。彼は、神は主権をもってわたしたちの環境を校配し、聖霊の管理を通して、万事を益とならせるように開かれることを見ました。聖霊はわたしたちの環境を按配し、環境を通してわたしたちを管理されます。それは、神聖な成分をもって、わたしたちの内側を再構成するためです。

50. 外なる人が砕かれて、霊が解放される

一九四二年から一九四八年、ニー兄弟は長期の苦難を経過している間に、外なる人が砕かれて、霊が解放されることを見ました。キリストの霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられます。もしわたしたちの外なる人が砕かれていないと、キリストの霊を伴うわたしたちの霊は、わたしたちの外なる人の殻に制限されます。このゆえに、わたしたちの外なる人が砕かれることは極めて必要です。こうして、わたしたちの霊は、キリストの霊を伴って解放され、命を人に分け与えることができるのです。聖霊の管理は、わたしたちの天然の命のある面を破壊し、同時にわたしたちの外なる人を砕きます。

51. 霊を活用する

ニー兄弟は、霊の解放について光を受け、同時に信者がどのように人の霊を活用するかを、学ばなければならないことを見ました。御言を供給し、福音を宣べ伝え、人と接触する時、日常生活の事柄でさえ、信者はまず、自分の霊を活用しなければなりません。彼らは思い、感情、知識を活用するのではありません。これらすべてのことで、霊はいつも先立つ必要があります。わたしたちの霊によって、わたしたちは他の人の霊に触れることができます。 信者はただ霊によってのみ、命の霊を伝達し、命を他の人に分け与えることができるのです。 

Ⅴ. 一九四八年から一九五十年まで

52. 働きの区域

一九四八年、二ー兄弟は、召会は地方的であり、働きは区域的である、という啓示を受けました。召会は地方のことですが、働きは区域、あるいは地域のことです。ペテロの働きの下にあった諸召会は、それぞれの地方にありましたが、ペテロの働きは一つの地域にありました。その地域には、これらすべての地方が含まれていました。パウロの働きも同じであり、彼の働きを通して、諸召会が起こされました。

53. いっさいの物を明け渡す

ニー兄弟は、働きが目的を達成し、地方召会が実際に建造されるには、主の回復にあるすべての信者が、自分自身だけでなく、すべての持ち物を働きに明け渡す必要があることを見ました。このようにして、信者は、利己的であり、個人主義であることから解放されます。これはまた、信者たちが主の権威に服するのを助けます。それは、 主が信者たちの持ち物を主の目的のために用いて、彼らにさらに多くの物質の祝福を与える機会を提供します。 ニー兄弟が得た啓示は、これですべてではありません。彼は聖書から多くの光を受けて、さらに多くの事柄を見ています。それは、福音の真理や実行上の事柄、例えば、主日、結婚、衣服、金銭の取り扱いなどです。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

今の時代のおける神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー

按手とは何か? – 連合、祝福、そしてキリストのからだとの関係 – 初信者シリーズ6

按手とは何か? – 連合、祝福、そしてキリストのからだとの関係 – 初信者シリーズ6

聖書は、人の救いにはバプテスマが必要であることをはっきりと見せています(マルコ16:16)。バプテスマの真意と意義 – この世からの離脱 – 初信者シリーズ1 聖書はまた、人は按手を受けることが必要であることもはっきりと見せています。それは使徒行伝に二箇所、記されています。一箇所はサマリヤで(使徒8:14-17)、もう一箇所はエペソで(使徒19:5-6)、両方ともまずバプテスマがあり、引き続き按手があります。これは当時使徒たちが行なったことであり、聖書に記されているはっきりとした事実です。今日の神の子たちはバプテスマされるだけでなく、按手がなければ何かが欠けています。

按手とは何でしょう?まずはじめに結論を述べたいと思います。按手とは、わたしたちがキリストのからだと一となり、からだの肢体となり、かしらの下へ服すことによって塗り油を受けることです。按手には、連合(一つとなること)と祝福を与える(伝える)という二つの意義があります。ここから、このことについて詳しく見ていきましょう。

Ⅰ. 按手は真理の基礎である

ヘブル人への手紙第6章は、キリストの初歩的な言葉を後にして、円熟にもたらされようではありませんかと言っています(ヘブル6:1-2)。クリスチャン生活においては、いくつかの真理が基礎となっており、すべておろそかにしてはなりません。信者は重ねて基礎を打ち立てる必要はありませんが、基礎というものはなくてはならないものです。ヘブル人への手紙第6章の、キリストの初歩的な教えとは何でしょう?それは悔い改め、信じること、按手、復活、裁きです。聖書ははっきりとバプテスマ、按手がキリストの教えの基礎であることを見せています。ですから、もしわたしたちが、バプテスマされたのに按手されていないとすれば、主に従っていく上で一つの基礎を欠いていることになります。

このヘブル人への手紙第6章1節と2節を理解するために、今日の教会の状況とこの当時のヘブル人の状況の違いを見る必要があります。当時のヘブル人は基礎があるのに、さらにそれを立てようとして、ずっと基礎のことで何度も同じことをしていました。ですから、使徒はヘブル人に向かって、キリストの初歩的な言葉を後にして、円熟にもたらされようではありませんか、と言いました。しかし、今日の教会の状況、クリスチャンは、これらの基礎がよく立てられていないのに進もうとします。これは大きな誤りです。按手はキリストの教えの基礎の一つですから、すでに立てた人は進むべきであり、立てていない人は必ず立てなければなりません。これがヘブル人への手紙第6章1節と2節を解釈する上での背景です。

一軒の家を建てる時、六つの石を基礎とするとします。もし、一つの石を欠いてしまうなら、ある日、問題が起きます。バプテスマは基礎であり、按手も基礎です。わたしたちは真理の基礎をおろそかにすべきではありません。

Ⅱ. 按手の意義

💬 按手をする意味は何ですか?

按手の意義は大きく2つです。一つ目は、連合、合一、一つとすること、一つとなることです。二つ目は、祝福を与えること、伝えること、流し込むことです。一つ目の連合は、レビ記1章、3章、4章で述べられています。二つ目の祝福を与えることは、創世記でイサクが彼の二人の息子に按手し、ヤコブが彼の二人の孫、エフライムとマナセに按手することにおいて述べられています。これらの二つを詳しく見ていきましょう。

A. 連合(一つとなること)

レビ記第1章4節は、全焼のささげ物の頭の上に手を置かなければならないと言います。その理由は、その全焼のささげ物が手を置いた者に代わって受け入れられるようにするためです。これは手を置くこと(按手)によって、ささげ物がささげた人と一つになっていることを見ます。これがささげ物と連合する(一つとなる)という意味です。旧約時代、神はただ牛や羊をささげただけで満足されたのでしょうか?そうではありません。人が神の御前に来て、自分をささげない限り、神は満足されません。ですから、ささげ物をささげることは、自分をささげることであり、牛や羊をささげることではありません。では、実際に自分自身をささげ、祭壇で燃やされ、全焼のささげ物とするならどうでしょう?これは、旧約のモレクを拝した人たちと同じです。モレク崇拝は、古代中東で行われていた異教の儀式であり、その神「モレク」への奉納が行われていました。この崇拝における最も特徴的で忌まわしい行為は、子どもを火に通して生贄(いけにえ)としてささげることでした。神はこれを禁じています(レビ18:21)。

モレクを拝した人たちは、牛や羊でなく、自分の生んだ子をささげました。わたしたちの神が、わたしたち自身をささげるように要求なさるなら、わたしたちの神はモレクと大して変わりません。神はわたしたちに一つの方法を与え、わたしたちが生贄(いけにえ)となっても焼き捨てられないようにしてくださっています。それは、一頭の牛を引いてきて、その頭に自分の手を置くことです。この時、このように言うべきです。「本来わたし自身が、祭壇に上るべきであり、本来わたし自身が火で焼かれるべきでした。本来わたしが生贄(いけにえ)となり、自分の罪を贖って死ぬべきでした。しかし、主よ、わたしは今、一頭の牛を引いてきて、わたしの手をその頭に置きます。それがわたしです。それをほふることを祭司に委ねます。それはわたし自身がほふられることです。その血が流れることは、わたしの血が流れることです。」あなたがバプテスマされた時も、このようでした。バプテスマの浸水はキリストの死を適用し葬られることであり、水から出てきたのは、キリストの復活を適用し新しく生まれることでした。あなたは両手を牛の頭に置いています。それはこの一頭の牛をあなた自身とすることです。この一頭の牛を神にささげることは、自分をささげることです。ですから、按手の意味は連合(一つとすること)です。

B. 祝福を与える(流し込むこと)

旧約では、按手にもう一つの意味があります。創世記では、イサクが彼の二人の息子に按手し、ヤコブが彼の二人の孫、エフライムとマナセに按手しています。ヤコブが二人の孫に按手した時、それぞれ一方の手を一人の孫の頭に置き、彼らを祝福しました。これが与えること、受け継がせることとなり、祝福を彼ら二人に授けました。

以上のことから、按手の意義は、一つは合一であり、もう一つは伝えることです、一つは連合であり、一つは祝福を与えることです。

Ⅲ. キリストのからだと油塗り

💬 なぜ按手をしなければならないのですか?

これは按手がキリストのからだと油塗りに直接関係があるからです。

A. 神は油をキリストのからだ全体に注がれる

ここでまず「キリストのからだ」とは何か?「油」とは何か?を考えましょう。詩篇133篇はこのように言います。

見よ、何とすばらしく、何と喜ばしいことであろう。兄弟たちが和合して住んでいる! それは、頭に注がれた尊い油が髭に、アロンの髭に流れ下り、彼の衣のすそに流れ下るようだ。 詩篇 133篇1-2節

神は今日、ナザレ人イエスの上にご自身の霊を注がれました。これが塗り油です。神がご自身の霊を彼の上に注がれ、彼に聖霊を得させられた時、神は聖霊を彼個人の上に注がれたのではなく、神は彼の聖霊を彼のからだのかしらに注がれたのです(使徒10:38、コロサイ1:18)。詩篇133篇にあるように、神は油をかしら(頭)の上に注がれました。主イエスは彼個人の資格をもって神の油を得られたのではありません。主イエスが神から聖霊をその頭に注がれたことは、かしらとしての地位に立っておられたということです。言い換えれば、彼はからだのために、神によって油塗られたのです。こういうわけで、彼の名は「油塗られた者」であり、クリストス(Christos)です。またわたしたちの名も「油塗られた者たち」(Ⅰヨハネ2:20)であり、クリスチャンです。彼はかしらであり、教会はからだです。

神は地上で、一人の人を造り出したいのではなく、神は地上で一人の団体の人、すなわち教会を建て上げたいのです。神の塗り油は一つの肢体の上に塗られるのではなく、すべての肢体の上に塗られるのでもなく、かしらの上に塗られるのです。わたしたちが聖霊についてはっきりしたければ、からだについてはっきりしなければなりません。聖霊はからだに与えられたのではなく、聖霊はかしらに与えられたのです。神が塗り油をかしらの上に注がれたので、からだ全身に塗り油があるのです。

B. わたしたちがからだの地位に立てば塗り油を得る

それでは、わたしたちはどのようにすれば塗り油を得られるのでしょうか?それは、必ずからだの地位に立たなければなりません。もし、わたしたちがからだの地位に立っているなら、自然にかしらから油が流れてきます。多くの人が神の御前で祝福されない理由はここにあります。つまり、個人が神の御前で聖霊を得ようと、塗り油を得ようとするからです。塗り油はアロンの頭に注がれました(詩篇133:2)。そして、髭に流れ、衣のすそにまで流れ下りました。かしらに注がれることによって、からだ全体がこの油塗りにあずかるのです。ですから、人が油塗り(聖霊)を享受することは、個人が懇願する問題ではなく、祈る問題でもなく、わたしとからだが正当な関係を持つ問題です。

C. 按手する人はキリストのからだの代表(使徒)である

神の言葉は、人がバプテスマされ、キリストに帰された後、神の建てられた権威、すなわち使徒のように、かしらを代表し、からだを代表する人によって按手されるようにと言っています(使徒8:18、19:6)。これが按手の意義です。按手されるとあなたの頭は低くなります。その意味は、「わたしは今日から頭を出しません。わたしの頭は権威の下に服します」ということです。わたしの頭はでしゃばらず、わたしの頭は権威の下にあります。

使徒がからだを代表し、わたしたちに按手する時、彼とわたしたちは交わりのある者であり、彼とわたしたちは一である、と告げていることになります。使徒はからだを代表します。なぜなら、神が教会の中で立てられたのが第一に使徒ですので(エペソ4:11)、彼は教会を代表することができるからです。ですから、教会を代表する使徒が按手する時、「兄弟よ、あなたはキリストのからだと一ですから、塗り油がかしらからあなたに下ってきます」と言っているのです。これが按手する理由です。使徒は教会を代表するだけでなく、キリストをも代表します。神が教会の中で第一に立てられたのが使徒です。第一にとは、権威です。言い換えれば、ここに代表の権威があるということです。ですから、使徒の手がわたしの頭にある時、教会がわたしに按手しているだけでなく、キリストもわたしに按手しているのです。

Ⅳ. どのように按手を受けるか

💬 按手を受ける時の注意点はありますか?

これはどのように按手を受けるかという問題です。以下に詳しく説明したいと思います。

A. からだ全体によって生きていることを見る必要がある

だれかがあなたに按手する時、無駄に按手するわけでも、でたらめに按手するわけでもありません。あなたは目を開いて、今日からわたしは多くの子たちの中の子となること、多くの細胞の中の細胞となること、多くの肢体の中の肢体となることを見なければなりません。わたしたちは一つの肢体ですから、わたしたちの命はからだ全体によって生きます。もしわたしたちが単独になるならおしまいです。これが按手があなたになすことです。

ですから按手の時、あなたは次のような認識を持たなければなりません。「主よ!わたしは自分自身によっては生きられません。今日わたしは、自分がからだの一肢体であること、かしらの権威の下にあること、からだがあってはじめて生きられること、からだがあってはじめて塗り油を得られることを認めます。」あなたは頭首権(かしらの権威)に服さなければなりません。そしてからだ全体と連合されなければなりません。そうすれば、塗り油はあなたに下ってくるでしょう。

Ⅴ. 聖書の中の一つの例外

聖書の中で一個所だけ按手においての例外があります。それはコルネリオの家での事です。コルネリオの家では、パプテスマもなければ、按手もないのに、聖霊が先に下りました(使徒10:44)。 コルネリオの家が例外である理由は、ペンテコステ以来、すべての使徒たちが依然として、主の恵みはユダヤ人だけに与えられるとしていたからです。使徒たちはユダヤ人でしたし、主イエスもユダヤ人でした。ペンテコステの時、聖霊もやはりユダヤ人の上に下りました。あの時に救われた三千人はみなユダヤ人でした。彼らはそれぞれの国に散らばって住んでいたユダヤ人であって、エルサレムに帰って来て主の恵みを得ました。その時に至るまでずっと、主の恵みはすべてユダヤ人によって得られていました。それでは、この恵みは外国人、異邦人には与えられないのでしょうか?彼らははっきりしていませんでした。

この当時のユダヤ人が異邦人に対する罵り(ののしり)方はひどいものがあります。彼らは外国人を動物や獣として見るのです。ペテロでさえ、頭を切り換えることができず、同じ見方をしていました。人の暗やみ、盲目を打ち破ることは容易ではありません。ですから、主がペテロをコルネリオの家に行かせて、異邦人が主を信じる門を開かせられたことは、一つの大いなる事でした。主はまずぺテロに幻を与えなければなりませんでした。天が開けて、大きなシーツのような入れ物が下ってきて、その中に何かが入っていました。主はペテロに、「殺して食べなさい」と言われました。ペテロはちょっと見「わたしはこれを食べたことがありません」(使徒10:14)と言いました。その意味は、「わたしは異邦人の一人にも触れたことがありません」ということです。この入れ物は一回、二回、三回と下ってきて、やっとペテロは明らかになりました。もしそのようにしなかったら、ペテロはなおも理解することができなかったでしょう。この幻が開かれるや、カイザリヤから人々がやって来ました。この時、ペテロはそれがどういう意味かを知りました。それは、異邦人も神の救いにあずかることができ、犬もテーブルの下のパンくずを食べることができる、ということでした(使徒10:34)。

そこでペテロは行きました。行った時、ペテロはまだ彼らにバプテスマを授けようとはしませんでした。確かにコルネリオの家の人たちはすでに信じていました。しかし、仮にペテロが彼らにバプテスマをしようとしたなら、ペテロと同行していた兄弟たちは必ずしも認めはしなかったでしょう。その時、ペテロはとても困難な立場にありました。彼自身ははっきりしていましたが、兄弟たちははっきりしていなかったからです。しかし、その時、主が異邦人の上に聖霊を下らせました。それは彼らがバプテスマしたり、按手を受ける前でした。そこでペテロは帰って来た時、大胆に次のように言うことができました、「わたしは数句語っただけでした。福音もまだよく伝えていませんでした。それにもかかわらず、聖霊が下ってきました。そういうわけで、わたしは彼らの足りない所を補って、彼らにバプテスマするほか仕方がなかったのです」。

バプテスマはこの世を離脱し、キリストに入り込むことであり、按手は塗り油を得るためです。コルネリオの全家族はすでに塗り油を得ていました。ですから、彼らが按手を受ける必要はもはやなかったのです。こういうわけで、ペテロは彼らにバプテスマしただけでした。

まとめ

按手は真理の基礎です。基礎であるからには、救いにおいてバプテスマが不可欠であるように、按手も不可欠です。按手の意義は、連合と祝福を与えることです。按手されることによって、わたしたちはキリストのからだと一となり、かしらの下へ服し、塗り油を受けることができます。按手される時、あなたは多くの子たちの中の子となること、多くの細胞の中の細胞となること、多くの肢体の中の肢体となることを見なければなりません。これが按手の意義です。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第七編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

どの教会に行くべきか? – 聖書が示す教会の真理 – 初信者シリーズ5

どの教会に行くべきか? – 聖書が示す教会の真理 – 初信者シリーズ5

人が主イエス・キリストを信じたら、教会に加わる、教会に通うという一つの問題が生じます。前回の記事では、この世から分離することについて学びました。この世から分離すればおしまいではなく、さらに進んで積極的に教会に加わるべきです。(教会に加わるという用語は最上ではありませんが、とりあえずこの語を用いることにします)。

今回の記事では、

  1. なぜ教会に行く必要があるのか
  2. どの教会に行くべきなのか
  3. 聖書に啓示されている教会とは
  4. どのようにして教会に加わるのか

大きくこの四点を述べていきたいと思います。

(教会に加わるという用語が最上でない理由は、第四の項目で明らかになります)

Ⅰ. 教会に加わる必要がある

わたしたちのクリスチャンの友人で教会に通っていない兄弟姉妹が少なからず存在します。彼らは、自分はクリスチャンになるだけで十分であり、どんな教会にも加わらないと言います。聖書の学びは、YouTubeにアップされている動画を拝聴し、仲の良い兄弟姉妹を集めて、オンラインで集まっていると言います。そのような人たちは、キリストは必要だが教会は必要ないと言います。

「わたしはキリストとは関係があるけれども、教会とは関係がない。わたしは一人で祈ることができるし、一人で聖書を読むことができる。知らない人と行き来するのは面倒だ。自分の好きな時に、好きな方法で、信仰を守っているだけで十分だ」。教会が必要でないと考えている人は、この種の考えを持っています。しかし、わたしたちにその気持ちがあろうとなかろうと、わたしたちは教会に加わらなければなりません。人は救われたなら、クリスチャン生活には個人的な面と団体的な面があることを、必ず見なければなりません。個人の面では、主の命を内側に受け入れることができ、一人で主と交わることも、一人で祈ることもできます。しかし、もう一つの面、団体の面があることを見なければなりません。聖書の中の団体的な面に従ってみれば、単独でクリスチャンになることはできません。

クリスチャンの団体的な面について聖書はこのように言います。第一に、神の言葉は、人が救われると、神の家族となり、神の子供たちとなると言っています(エペソ2:19)。第二に、救われた人はみな神の住まい、すなわち神の家であると言っています(エペソ2:22)。第三に、クリスチャンはすべての肢体が合わさってキリストのからだとなります。わたしたちは互いに肢体であり、共に集まるとキリストのからだとなります(ローマ12:5)。

A. 神の家の中では多くの人たちと共に神の子供となる

聖書は、わたしたちが神の子供たちであると告げています(第一ヨハネ5:2)。わたしたちは、一人っ子ではなく、幾千幾万の兄弟姉妹を持つ、神の子供たちです。家庭において、人が五人の兄弟姉妹を持っているのに、彼らと行き来しないことはあり得ません。両親が五人の兄弟姉妹を生んだのですから、必ずこの兄弟姉妹の間で交わりを持ちます。たとえ、何かの理由によって会えない状態であっても、内側に兄弟姉妹に会いたいという気持ちを抱くことは自然なことです。

今日、わたしたちは全世界で最も大きい家庭に生まれました。わたしたちには幾千幾万もの兄弟姉妹がいます。もしあなたのうちに兄弟姉妹に会いたいという思いが少しも無いのでしたら、あなたが兄弟姉妹であるかどうかを疑います。ですから、わたしたちは個人的に神の命を受け入れ、神の子となりました。しかし、わたしたちが得たこの命は幾千万の子たちの中の一つであり、わたしたちはその中の一人であることを覚えておかなければなりません。

B. 兄弟姉妹と組み合わされて神の住まいとなる

聖書はまた、教会が神の住まいであることを見せています(エペソ2:22)。神は地上で住まいを必要としておられることを知らなければなりません。聖書では、モーセが幕屋を建ててから、ソロモンが宮を建造し、また後になって修復し復興するまでずっと、この住まいの思想は一貫しています。ペンテコステから教会が始まると、神は人をもって神の宮を造られます(エペソ2:21-22)。今日、神は教会に住まわれ、教会も神の住まいとなっています。わたしたちという人が共に組み合わされて神の住まいとなるのです。

ペテロはわたしたちは生ける石として、霊の家に建造されつつあると言っています(第一ペテロ2:5)。この霊の家は生ける石によって造られます。生ける石とは、主を信じ、再生されたわたしたち一人一人のことです。わたしたちはキリストの霊の家の一つの材料です。あなたが離れることは、神が建造の材料を失うことを意味します。神は、神の家の建造のためにあなたを必要とします。

C. すべての肢体と組み合わされてキリストのからだとなる

第三にわたしたちはキリストのからだにあって一つであり、一つからだとなっています(第一コリント12:12-22)。これは家庭、家、住まいよりさらに進んでいます。自分の体を想像してみてください。そこには目があり、鼻があり、口があり、手があり、足があります。目が二階にあり、口が家の外にあったらどうでしょう?それは体ではありません。このことを考えるなら誰一人として、別の肢体から離れることはできません。

以上の三点から、クリスチャンは単独で生きていくことはできません。必ず、兄弟姉妹、他の肢体と交わり、組み合わされる必要があります。

Ⅱ. どの教会に加わるべきか

💬 この地上に数多くの教会がありすぎて、どこに行くべきかわかりません。

聖徒たちの間にこのような質問が多くあります。わたしたちはどこの教会に行くべきなのでしょうか?そのために、まず現在、地上に存在する教会の状況を見ていきましょう。

A. 教会には多くの異なる点がある

教会の歴史は2000年にも及びます。各時代においてさまざまな教会が興されました。これは時期に違いがある問題です。教会はまたさまざまな場所で興されました。これは場所に違いがある問題です。教会はまたさまざまなしもべたちを通して興されました。これは人に違いがある問題です。

ここに三つの異なるもの、時、場所、人の違いがあります。それだけでなく、聖書の真理がとても多いゆえに、人はある真理を重視して、一つの教会を設立しています。別の人はまた別の真理を重視するゆえ、別の教会を設立します。これらの異なる状況が、多くの異なる教会を生み出します。今日、全世界での教会の数は1500以上に及びます。これは教会の数ではなく、一つ一つの系統ごとに数えたものです。聖公会を一つの教会とし、長老派を一つの教会とし、○○教団を一つの教会として数えました。これらの1500以上の数ある教会の中から一つを選んで加わることは容易ではありません。

これほど多くの教会、これほど多くの混乱がある中で、神の御前に歩む道はあるのでしょうか?「はい。あります。」神の言葉がわたしたちの間に残されているゆえに、神の言葉を読み、神の言葉が何を言っているかを見ることができます。聖書の中に、わたしたちの加わるべき教会について導く道がすでに備えられています。神はわたしたちを暗やみの中にとどめてはおかれません。

B. 多くの異なる教会がある原因

1. 場所が異なる(発祥地・起源)

教会が分かれてきた状況を見てみましょう。あるものは場所に違いがあります。例えば、聖公会はその英語名は「Anglican Church」であり、その意味は英国教会です。ですから、聖公会の意味は、英国の国教会です。しかし不思議なことが起こります。英国から米国に伝わると、米国聖公会となり、米国の英国教会となります。同じように、日本にある聖公会は、日本の英国教会です。これはとても奇妙です。

カトリックを考えてみましょう。カトリックは事実上ローマ教会です。ここは日本です。しかし、日本のカトリック教会は、日本ローマ教会です。ローマ教会が別の場所に行っって教会を設立することは正しくありません。ですから、すべて場所を起源とする教会は混乱です。

2. 時が異なる

次に、時によって分かれた多くの教会を見てみましょう。始まった時が異なるために、異なった教会が設立されました。カトリック教会は、1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、布教を始めたことで日本に伝わりました。明治時代になると、プロテスタント教会が日本に伝わりました。1859年にアメリカの長老派、聖公会、オランダ改革派の宣教師たちが来日し、布教活動を始めたのが最初です。以降、多くのプロテスタント諸教派が日本に入り、現在も様々な教派が存在しています。

正教会(東方正教会)は、ロシアからの宣教師であるニコライ・カサートキン(日本正教会の聖ニコライ)が1861年に来日し、布教を開始したことで日本に伝わりました。近現代には、ペンテコステ派やバプテスト、ルーテル教会、メソジスト、アドベンチスト教会など、多様なプロテスタント教派や独立系の教会も日本に入ってきています。また、20世紀以降には新興キリスト教系の教会も数多く設立されています。このように時間が異なるために教会を分けてしまいました。

3. 人が異なる

それにとどまらず、教会歴史において人の違いを見ることができます。ウェスレーが設立した教会は、ウェスレー教会となりました。ルーテルが設立した教会は、ルーテル教会になりました。人が同じでないために、教会が人のゆえに分かれました。

4. 真理に対する解釈、重要視する教えが異なる

さらに、真理に対する解釈、重要視する教えが異なるために教会が分かれました。「人は信じることによって救われる」という信仰による義認の真理を重要視するものをルーテル教会と言います。この世から分離されること、聖なる生活、聖潔を重要視するものはホーリネス派です。聖霊の働きを重視するものはペンテコステ派と呼ばれます。長老が教会を管理することを重んじ、使徒の権威は長老に委ねられていることを認めるものを長老派と称します。監督が使徒を受け継ぐことを認めるものは監督派。バプテスマを重んじ、全身を水に浸さなければならないとするのがバプテスト派になりました。

全世界の教会には各種各様の区別があり、各教会にはそれ自身の歴史と教義があります。これは聖書に啓示された真理に対する解釈、重要視する教えが異なることによっての分裂です。このような混乱した状況の中で、あなたはどのように歩むのでしょうか?

Ⅲ. 聖書に啓示されている教会

聖書は、教会の真理に関しては、最も単純であり、少しも乱れておらず、とてもはっきりしています。何節かの聖書を読むことで明らかになります。書簡の最初の数節、また使徒行伝と啓示録(ヨハネによる黙示録)の第一章を読んでみてください。その聖書の言葉の中に見る教会は、エルサレムに在る教会、コリントに在る教会、ピリピに在る教会、エペソに在る教会、コロサイに在る教会などです。使徒行伝にはアンテオケに在る教会があります。啓示録(ヨハネによる黙示録)には七つの教会があります。

確かに聖書の中の教会には区別があります。しかし、聖書にはただ一つの区別があるだけで、二つの区別はありません。この一つの区別とは何でしょう?これはとてもはっきりしています。聖書に啓示されている教会の道はただ一つです。コリントは一つの地方(都市)であり、エペソは一つの地方であり、コロサイは一つの地方であり、ピリピも一つの地方です。すべて地方(都市)です。言い換えれば、教会はただ地方をもって分けることができるだけです。ですから、教会の範囲は一つの都市であり、一つの地方をその単位としています。これが聖書に掲示されている教会の真理です。

この地方(都市)とは、「行政の最小単位」を指します。行政の最小単位とは、政府や自治体の管理やサービスが提供される、最も小さな地域の区分をです。日本においては通常、市(し)・町(まち)・村(むら)がこの行政の最小単位です。調布市を例にとって考えてみましょう。調布市は行政の最小単位です。調布市は東京都下の市ですが、行政は調布市で行われます。市役所は、その市に住む人々のために行政サービスを提供するための施設です。この市役所は行政の最小単位に一つのみ存在します。例えば、調布市に複数の市役所が独立して存在していたらどうでしょう?そのような状態であれば、市民はどちらに行くべきか迷い、サービスや方針に混乱が生まれます。このように、同じ市に複数の市役所がある状態は、秩序を欠き、住民に混乱をもたらすでしょう。そのため、基本的に一つの市には一つの市役所があるべきです。

教会も同じ原則に基づいています。教会は地上で神の行政を行います。その行政の範囲は行政の最小単位であり、一つの地方(都市)には一つの教会があります。調布市に住んでいる市民が調布市のサービスを受けるように、調布市に住んでいる信徒は調布に在る教会へと通います。このことについてさらに詳しくみてみましょう。

A. 地方(行政の最小単位)より小さいものは教会ではない

教会がどれほど大きくても、それは地方(行政の最小単位)の範囲を超えることはできません。同時に教会がどれほど小さくても、地方より小さいものとすることはできません。地方より小さいとは、コリントに在る教会にあった問題です。コリントに在る教会では、ある一組の人たちが、わたしはケパにつく、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはキリストにつく、と言っています(第一コリント1:12)。彼らはコリントに在る教会を四分しました。このようにして教会を分けるなら、それは争いであり分派です。

B. 教会の範囲は地方より大きくすることはできない

教会がもし地方より大きいなら、それもいけません。聖書を読むと、ガラテヤに在る諸教会、アジアに在る諸教会、ユダヤに在る諸教会があります。ガラテヤに在る諸教会は、ガラテヤの手紙にあります(ガラテヤ1:2)。アジアに在る諸教会は、啓示録(ヨハネによる黙示録)にあります(啓示録1:4)。ガラテヤはローマ帝国の一つの州であり、一つの地方ではありません。ですから、ガラテヤに在る教会とは言わず、ガラテヤに在る諸教会と言っています。

原文で調べてみましょう。「コリントに在る教会」のギリシャ語原文は τῇ ἐκκλησίᾳ τοῦ Θεοῦ τῇ οὔσῃ ἐν Κορίνθῳ(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、「教会」という単語が **ἐκκλησίᾳ** (エクレシア、ekklēsia) で単数形になっています。「ガラテヤに在る教会」のギリシャ語原文は ταῖς ἐκκλησίαις τῆς Γαλατίας(tais ekklēsiais tēs Galatias)で、ἐκκλησίαις (エクレシアス、ekklēsiais) は複数形で、「教会たち」または「諸教会」という意味です。ですから、神の定めは、調布市には調布に在る教会があり得るのであり、調布市のカトリック教会、プロテスタント教会はあってはいけないのです。また、関東を一つの教会にしてしまうこともできません。関東に在る諸教会があるだけで、関東に在る教会はありません。

C. 教会にはその地方の名前があるだけである

教会には人の名前はありません。教理の名前もありません。制度の名前もありません。牧師が付けた名前もありません。その場所(地方)の地名があるだけです。ですから、聖書の中には、カトリック教会もありませんし、プロテスタント教会もありませんし、メソジスト派、ペンテコステ派、ルーテル派などもありません。これが聖書の中にある教会の真理の啓示です。

Ⅳ. どのようにして教会に加わるのか

最後に、どのようにして教会に加わったらよいのでしょうか?聖書には、教会に加わると言う言葉は存在しません。ですから、この質問自体がおかしいことになりますが、他にわかりやすい言葉がないので、この言葉を用います。

A. 教会には加わる必要もないし、加わることもできない

聖書には一箇所も「教会に加わらなければならない」と言っている所はありません。また「教会に加わろう」と思っても、加わることはできません。これはちょうど一つの耳が、わたしたちの体に加わると決めるようなものです。あなたがその中にいれば、もうそれでその中におり、その中にいなければその中にいないのです。ですので、教会に加わることによって教会の会員となり得るのではありません。人が神のあわれみを受けて、罪を見、血を見、贖われ、赦され、新しい命を得て、神によって、復活を通して再生されたのであれば、神はもうこの人を教会の中に加えておられ、彼はすでに教会の中にいます。

もし、あなたが教会に加わろうとするのであれば、その教会は偽物です。偽の教会にだけ加わることができます。すべての問題は、あなたが神から生まれたかどうかにかかっています。わたしたちが神から生まれたのであれば、みな教会の中の人であり、それに加わる必要などありません。

B. 教会の中での交わりを求める必要がある

あなたは神から生まれ、教会の中にいるので、それで十分でしょうか?いいえ、違います。あなたは兄弟姉妹との交わりを求めなければなりません。信じることは一つのことです。それは内側のことであって、他の人があなたがクリスチャンになったことを知るすべがありません。ですので、あなたは教会へ行き、「わたしはクリスチャンです。わたしをクリスチャンとして受け入れてください」と言う必要があります。

では、どこの教会に行くのでしょう?それはあなたが住んでいる地方の教会に行くのです。例えば、大阪市に住んでいるのであれば、大阪に在る教会に行きます。名古屋市に住んでいるのであれば、名古屋に在る教会にいきます。神戸市に住んでいるなら神戸に在る教会に行きます。調布市に住んでいるのであれば、調布に在る教会に行きます。

このようにネットで自分の地方にある教会を調べてみてください。もし、ヒットしなければ、住んでいる都道府県名で調べると良いでしょう。主が導いてくださいますように。

さらに詳しく知りたい方へ

「第二期 第三十巻 正常なキリスト者の召会生活」 ウォッチマン・ニー著

「教会の認識」 ウィットネス・リー著

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第六編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

クリスチャンがすべきでない事柄 – この世との付き合い方 – 初信者シリーズ4

クリスチャンがすべきでない事柄 – この世との付き合い方 – 初信者シリーズ4

クリスチャンがすべきでない事柄を知るためには「この世」を理解する必要があります。聖書にはこの世から分離することについての命令はかなり多く、旧約においての模範や教えも相当あります。なぜなら、「この世」は神に敵対するものであるからです(Ⅰヨハネ5:19)。「この世」について詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。バプテスマの真意と意義 – この世からの離脱 – 初信者シリーズ1

バビロンソドムカルデヤのウルエジプトなどは、すべてこの世の予表であって、この世の光景がどんなものかを見せています。エジプトはこの世の快楽を表し、カルデヤのウルはこの世の宗教を表します。バベルの塔はこの世の混乱を表し、ソドムはこの世の罪悪を表します。聖書はこの四つの異なる場所をもって「この世」を表し、同時に人はどのように「この世」と分離すべきかを神の子たちに見せています。わたしたちが分離されなければならない「この世」とは何でしょうか?

まず初めに、結論を述べたいと思います。わたしたちクリスチャンは必ず分離しなければいけない五つのこの世があります。それは、以下の五つです。

  1. この世の人がクリスチャンはやってはならないと見なす事柄
  2. 主との関係において一致しない事柄
  3. わたしたちの霊的命を消す事柄
  4. わたしたちがクリスチャンであることを表現させないすべての事柄
  5. 弱い信者がしてはならないと見なす事柄

ここからは、聖書におけるこの世との分離の事例、また上記五つの事柄について詳細に見ていきたいと思います。

Ⅰ. イスラエル人がこの世を出る予表(エジプト)

A. 贖いの結果は出ることである

神はイスラエル人を救うために、過越の小羊を用いられました。神の御使いが来てエジプトのすべての初子(ういご)を打った時、かもいに血があるのを見て、御使いは過ぎ越されました(出エジ12:21-32)。かもいに血がなければ、その家の初子は殺されました(出エジ12:29)。ですから、問題はかもいが良いとか悪いとか、初子が親孝行であるとかによりませんでした。問題は血があるかないかです。滅ぶか救われるかの区別は、家の暮らし向きがどうか、あるいは人となりがどうかによりません。それは、血を受けたかどうかによります。救いの基本的な要因は血であり、あなた個人とは基本的に関係はありません。

恵みを受けて救われた者たちは、みな血によって贖われました。しかし、覚えておかなければならないことは、血が贖ったらすぐに、身を起こして出発しなければならないということです。血によって贖われた人はみな、夜中前に小羊をほふり、ヒソプをもって血を塗り、急いで食事をして、すぐに出ていかなければなりませんでした(出エジ12:39)。贖いの第一の結果は分離であり、出て行くこと、離れ去ることです。ですから、血によって贖われたなら、その時にエジプトを出て、この世からすぐに分離されなければなりません。

B. パロは多方面で難題をもちかけて引き留める

イスラエル人がエジプトを出た時のことを見ると、彼らがエジプトを出ることがいかに困難であったかを見ることができます。なぜなら、エジプトがずっと彼らを引き留めていたからです(出エジ5〜11章)。サタンの企み(たくらみ)は、わたしたちとエジプト(この世)を徹底的に分離させないことです。モーセとパロのやりとりを見るなら、パロの方法は、エジプトで神に仕えなさいというものでした。これは、神のしもべをサタンのしもべとして働かせることを意味します。ですから、あなたは救われたらすぐにこの世から出て行き、荒野へと行く必要があります。神の命令は、わたしたち神に仕える者は必ず、この世と分離しなければならないというものです。

C. わたしたちの道は荒野の中にある

口でイエスが主であるとか、わたしは主を信じる者であるとか、そのようなこと告白する証しだけでは不十分です。わたしたちは彼らの間から出て、分離された証しを持つ人とならなければなりません。人はあなたのことをずいぶん愚かな者だと言うかもしれませんが、人に聞いてはいけません。わたしたちはクリスチャンになった後、道はエジプトにではなく、荒野の中にあります。

聖書には二種類の「この世」が出てきます。一つ目は、「エジプト」として表されるものです。エジプトは、世の中のさまざまな組織やシステム、例えば、世の成功や名誉、欲望を追い求めるような生き方を象徴しています。もう一つは、「荒野」として表されるものです。荒野は、私たちが実際に生活している物質的な場所や環境を指しています。私たちクリスチャンは、世の中のシステム(エジプト)からは離れているけれども、依然としてこの物質的な世界(荒野)に生きているということです。

クリスチャンは救われてバプテスマされると、モーセがエジプトで行わわれていることを「罪のはかない快楽」(ヘブル11:15)と感じたように、この世の与える享受に永続性が無く、深入りすれば不道徳に陥り、神と人の良心を悲しませるものであると目が開かれます。 救われる前は、多くの魅力的で偉大なものに満ちているように見えたこの世が、救われた後は荒野のように不毛で苦々しく映るのです。今日、クリスチャンがこの世を離脱したというのは、道徳のこの世(エジプト)を指しているのであって、物質的なこの世(荒野)を指しているのではありません。物質的なこの世からではなく、道徳のこの世を離れる必要があります。言い換えれば、わたしたちはやはりこの世にいます。しかし、この世はクリスチャンにとって荒野であり、もはや魅力的な場所では無いのです。

この世はわたしたちにとって何なのでしょうか?D・M・パントンは言いました。「わたしが生きている時は一本の道であり、死んだ時は一つの墓である」。つまり、クリスチャンにとってはこの世は、縦横無尽に歩き回り満喫する場所では無く、必要のための通過点に過ぎ無いのです。それはこの世の人に神の救いを伝え、教会を通して証する目的を達成するためです。したがって、「エジプト」は目に見える成功や楽しさを追い求める組織や価値観であり、「荒野」は私たちが日々直面する(必要とする)現実の生活環境であり、これが神の目から見たこの世の真相です。神は御言葉を伝える働きを御使いにではなく、人に託して下さいました。わたしたちは物質的な人として、必要のためにこの世を用いますが、乱用して不道徳に落ち込まず、神のみこころを成し遂げるための支え、機会とします。

D. クリスチャンはこの世の寄留者、旅人である

ヘブル人への手紙第11章13節では、「これらの者はみな・・・寄留者であることを告白しました。」とあります。ここの「これらの者」とは、この前の節で述べられている、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、サラです。そしてペテロは、わたしたちクリスチャンは旅人であり、寄留者であると告げています(Ⅰペテロ2:11)。ですから、血によって贖われたなら、この世に腰を据えて定住するべきではなく、この世から離れ、約束の地へといかなければなりません。

Ⅱ. どのようなことにおいてこの世と分離すべきか

💬 では、どのような事柄から分離されるべきなのですか?今の仕事を辞めるべきなのですか?

どのような事柄がこの世であり、どのような事柄において、わたしたちは分離するべきなのでしょうか?ある事柄では、わたしたちはこの世の人と区別があるべきです。ある事柄では、わたしはこの世の人と仲良くすべきです。故意に人と問題を引き起こすのではありません。家庭、職場、どのような場所であっても、わたしたちは他の人と揉め事のない人にならなければなりません。その上で、五つのことを取り上げます。

A. この世の人がクリスチャンはやってはならないと見なす事柄

まず第一に、この世の人がクリスチャンはやってはならないと見なしている事のすべてから、離れなければなりません。クリスチャンになる時、まずこの世の人の立場に立って物事を見てみます。この世の人はクリスチャンについて、決まってそれぞれある意向、ある水準を定めています。もし、わたしたちがこの水準に達していなければ、大変なことになります。一つの事をした時、未信者に「クリスチャンでもこんな事をするのですか?」と言わせてはなりません。これは恥です。クリスチャンは神の民ですから、この世よりも高い道徳基準を持っています(マタイ5:17-48)。ですから、この世の基準を満たすことは当然のことです。この世の人、未信者の人がクリスチャンはすべきではないと見なしている事をわたしたちはしてはいけません。

B. 主との関係において一致しない事柄

第二に、主との関係において一致しないものは、すべて除き去らなければなりません。主はこの世でそしりを受けられたのですから、わたしたちはこの世で栄光を受けるわけにはいきません。主が通られた道を、わたしたちも通る必要があります。主との関係が一致するとは、ナザレ人イエスについて行くことであり、主が地上で経験されたことを、今日のわたしたちの経験となるということです。ナザレ人イエスについて行くことは、そしりを受ける備えをすることです。それはまた、十字架を負う備えをすることです。主は、誰でもわたしについてきたいと思うなら、十字架を負い、わたしにしたがって来なさいと言われました(マタイ16:24)。主があなたに来られたのは、あなたに十字架を負わせるためです。わたしたちの歩む道はこの道です。この道を歩むことによって、主とこの世との関係が、あなたとこの世との関係となるでしょう。

パウロはガラテヤ人への手紙で、「主イエスを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまった。」(ガラテヤ6:13)と言いました。これは主とこの世との間に十字架があるということを意味します。あなたは主を信じる前、この世に属していました。しかし、主を信じた後、十字架を経過し、この世の反対側である主に属する者となりました。今や主とこの世との間には十字架があります。もし、この世に行きたければ、十字架を取り消す必要があります。しかし、十字架は事実であり、歴史です。取り消すことは不可能です。わたしたちはすでに十字架のこちら側にいます。ですから、わたしたちがこの世を見る時、十字架を通して見ることになります。十字架を通してこの世を見るならば、この世とは何の関係もないことを見ます。これがガラテヤ人への手紙第6章13節でパウロが言っていることです。わたしたちは、主の状況が自分の状況であることを見るほどまでに導かれなければなりません。主はこの世によって十字架に釘付けられました(第一コリント2:8)。わたしたちもキリストと共に十字架につけられました(ガラテヤ2:20)。ですから、主とこの世の関係は、わたしたちとこの世の関係です。

多くの人がこのような質問をします。「この事をすればこの世に触れるだろうか?」「あの事はやっていいのか?」「これはやってはいけないのか?」これらのこと一つ一つに答えることはできません。ただ一つの原則を与えることができるだけです。この世と十字架は相反するものです。この世とわたしたちの主とは相反するものです。ですから、もしあなたが開いており、神の御前で頑なでなければ、主の御前に来るとすぐにこの世と十字架の区別がはっきりします。

C. わたしたちの霊的命を消す事柄

第三に、主の御前での霊的命を消すものはすべてこの世です。ある事柄が神の御前で熱心に祈ることをさせないなら、それはこの世です。ある事柄が神の言葉への興味を失わせるなら、それはこの世です。人の前で口を開いて証しさせないようにする事柄は、この世です。ですから、わたしたちの神の御前での霊的な状態を消してしまうものはすべてこの世です。これは広い意味での原則として得ることができます。

例えば、ある事について、「この事は罪ではないのにこの世とみなすのですか?」と言うかも知れません。多くの事は人から見て良い事です。しかし、やりすぎると、わたしたちの内側の火は燃え上がらず、良心は神の御前で弱くなってしまいます。その事をした後、聖書を読んでも味わいがありません。その事をした後、内側が空っぽで証しがありません。ですから、罪であるかないかの問題ではなく、その事がわたしの霊的命を消すかどうかです。これらの事柄からは離れなければなりません。

D. わたしたちがクリスチャンであることを表現させないすべてのもの

第四は、他の人々との関係です。いかなる社交的なこと、宴会など、あかりを升の下に置くようにさせるものはこの世です。イエスは弟子たちにこのように言いました、「人はともし火をともして、それを升の下に置く事はしない」(マタイ5:15)。ともし火とはその光を輝かせ周囲を照らすためです。もし、このともし火を升の下に置くなら、その光を輝かすことはできません。具体的には、わたしたちが社交的な場や宴会などに参加する際に、自分がクリスチャンであることを隠してしまうような状況は、「この世」に引き込まれる一例です。イエスが「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」(マタイ5:16)と言われたように、クリスチャンは自分の信仰を隠すべきではなく、むしろあかりを升の上に置き、神の光を輝かせるべきです。

多くの場合、世間でのつきあいや社交の場は、わたしたちにクリスチャンとしての立場を曖昧にさせます。たとえば、友達と集まる飲み会で、周りの雰囲気に流されて信仰を明確に表現できないまま過ごしてしまうことがあるかもしれません。そういった状況で、自分がクリスチャンであることをあえて隠してしまうと、徐々に「この世」に引きずられてしまう危険があります。しかし、これは故意に人間関係を断ち切るという意味ではありません。わたしたちはバプテスマのヨハネのようではありません。食べない、飲まないといった宗教的な者たちではありません。イエスのように人と食べ、飲み、交わりを持ちます。しかし、その際にわたしたちがクリスチャンであることをはっきりと表明すべきです。要するに、社交や関係性を持つことは、この世界に生きる者として仕方がありませんが、その中でも常に自分がクリスチャンであることを忘れず、光を隠さないようにすることが必要です。クリスチャンとしての立場をしっかりと示すことで、真に「この世」と分離した生き方ができるのです。

E. 弱い信者がしてはならないと見なす事柄

最後に、わたしたちの行動が他の人、特に信仰がまだ成熟していないクリスチャンをつまずかせることも「この世」に含まれます。つまり、わたしたちが何かをして、それが他の人の信仰の成長を妨げたり、迷わせたりするなら、その行動は避けるべきだということです。

例えば、あるクリスチャンが食べ物に関する強い信念を持っているとします。コリント人への第一の手紙8章では、偶像にささげられた食べ物の話が出てきます。ある人はそれを食べても問題ないと感じていても、信仰がまだ弱いクリスチャンは、その食べ物を食べることで信仰が揺らぐかもしれません。そういった場合、自分自身はその食べ物を食べても問題がないと思っても、その行動によって他の人がつまずかないように気を付けるべきです。

他の例として、たとえばお酒を飲むことです。あるクリスチャンはお酒を飲んでも良心に問題を感じないかもしれませんが、別のクリスチャンはお酒を飲むことに抵抗を感じるかもしれません。もしその人が、他の人が飲むお酒を見て信仰に疑問を持ち、つまずいてしまうなら、愛のゆえにお酒を控えるべきです。聖書は、わたしたちが自由に何かを行っても、それが他の人に害を与えるなら、その自由を慎むよう教えています。具体的には、コリント人への第一の手紙第8章9節では「ただし、あなたがたのこの権利が、弱い人たちにとって、少しでもつまずきの意思とならないように気をつけなさい。」と警告しています。要するに、他のクリスチャンの信仰を守り、互いに助け合うことが大切だということです。

Ⅲ. この世から出て来ればすべてに十分な主によって受け入れられる

それゆえ、「主は言われる、彼らのただ中から出て、分離されよ.また汚れているものに触れてはならない.そうすれば、わたしはあなたがたを喜び迎えよう」 コリント人への第二の手紙 6章17節

主は彼らのただ中から出て、分離されることによって喜び迎えよう」と言われました。そして、次の節で「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となると全能の主は言われる」。(第二コリント6:17)と言われました。「全能の主」はヘブル語で אֵל שַׁדַּיEl Shaddai, エルシャダイ)です。「エル」は神であり、「シャ」は母親の乳であり、「シャダイ」はすべてに十分なという意味です。母親の乳は子供の必要です。母親の胸には乳があります。すべての供給は胸にあります。「シャダイ」の語根は「母親の胸」であり、その意味は、神にはすべてがあるということです。もしわたしたちが彼らのただ中から出て、汚れているものに触れなければ、神はわたしたちを喜び迎えてくださり、わたしたちの父となってくださると言っています。人がこの世のすべてのものを捨て去る時、「シャダイ」としての神、すなわち、すべてに十分な父を経験するでしょう。

まとめ

わたしたちがこの世から出てくる根拠は、主イエスの血によって贖われたからです。贖われた後、直ちに荒野へと出て、この世を旅人、寄留者として生きるべきです。それはさまようためではなく、約束の地へと入るためです。そして、具体的にわたしたちが分離すべきこの世は以下の五つです。

  1. この世の人がクリスチャンはやってはならないと見なす事柄
  2. 主との関係において一致しない事柄
  3. わたしたちの霊的命を消す事柄
  4. わたしたちがクリスチャンであることを表現させないすべてのもの
  5. 弱い信者がしてはならないと見なす事柄

もし、わたしたちがこの世から分離されるなら、神の息子、娘となり父なる全能の主を味わうことができるしょう。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第五編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」

主にささげるとは自分を犠牲にすることではない!? – 献身の道 – 初信者シリーズ3

主にささげるとは自分を犠牲にすることではない!? – 献身の道 – 初信者シリーズ3

この記事では、クリスチャンの献身について共に学んでいきたいと思います。献身とは何でしょう?まず最初に、献身とは何かの結論を述べたいと思います。献身とは、神のために働くことではありません。献身とは、神に仕えることです。献身とは特定の何かをすることではなく、神を優先順位第一位とし、神のそばで歩み続けることです。ですから、神のために働くこと、神のために自分を捨てて労すること=(イコール)献身であるという考えを捨ててください。このことを土台として、話を進めていきたいと思います。

まず、クリスチャンが自分自身を献身するかどうかは、その人が救いにどれほどあずかったかによります。もし人が、ただ天国に行きたいというだけで主を受け入れただけなら、主に献身することは難しいでしょう。また、親の顔を立てて義理で主イエスを信じたとかであれば、献身について話すことは不可能でしょう。ですから、わたしたちが覚えておかなければならないことは、わたしたちに恵みを賜ったのは主であり、わたしたちにあわれみを賜ったのは主です。わたしたちを愛し、わたしたちを救ってくださったのは主です。こういうわけで、わたしたちは主に献身するのです。

献身の教えは、新約にも旧約にもあります。新約ではローマ人への手紙第6章と第12章で献身について語られています。旧約では、特にアロンとその子たちを指して、献身について語っています。出エジプト記第28章、第29章、レビ記第8章はすべて、アロンとその子たちがいかにしてささげられたかを述べています。

Ⅰ. 献身の根拠

クリスチャンであるわたしたちの献身の根拠とは何でしょう?なぜ、わたしたちは主に自分自身をささげるのでしょうか?

A. 主の愛

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです.・・・生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。
コリント人への第二の手紙 5章14-15節より

この節では、キリストの愛が押し迫られるゆえに、彼らのために死なれ、復活させられた主に生きるのであることを、はっきりと見せています。人が主のために生きるのは(献身)、主の愛に押し迫られるからです。ここの「押し迫る」のギリシャ語は συνέχω(スネコー、synechō)で、この原文の意味は、「閉じ込める」「圧迫する」「支配する」であり、しかもこれは、かなりの制限を受けること意味しますですから、この原文の意味は、キリストの愛によってわたしたちを閉じ込め、逃げられない状態であること意味しています。

人が真にキリストの愛に触れる時、このような味わいを持ちます。愛に縛られ、もう方法がありません。主はわたしたちのために死なれました。この押し迫る愛のゆえにわたしたちは献身します。ですから愛が献身の根拠です。主の愛を感じないでささげることのできる人はいません。主の愛を見たなら、その自然な結果として献身がそれに続きます。

B. 主の権利

献身は主の愛を根拠とするだけでなく、主の権利も根拠とします。

それとも、あなたがたの体が、内にある聖霊の宮であることを知らないのですか?この聖霊は、あなたがたが神から受けたものであって、あなたがたは、自分自身のものではないのです。なぜなら、あなたがたは代価をもって買い取られたからです。ですから、あなたがたの体において、神の栄光を現しなさい。
コリント人への第一の手紙 6章19-20節

ここでは「あなたがたは、自分自身のものではないのです。なぜなら、あなたがたは代価をもって買い取られたからです。」と言っています。わたしたちの主は、わたしたちのために自分の命を捨て去り、代価をもってわたしたちを買い戻してくださいました。ですから、わたしたちは主に贖われたゆえに、主に対して自分の主権を捨て去ります。わたしたちはもはや自分自身のものではありません。わたしたちは主のものです。献身の根拠は権利であり、愛です。この二つのゆえに、わたしたちは主にささげるのです。

Ⅱ. 献身の意義

愛に押し迫られただけでは、まだささげたわけではありません。権利を認識しただけでもまだささげたわけではありません。献身とは、主の愛に押し迫られ、主の権利を見た後に、一つのことをなすことであり、それによってわたしたちを一つの新しい地位に置くことです。パウロはローマの信者に「あなたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた犠牲としてささげなさい。」(ローマ12:1)と言いました。この意味は、自分をすべてのものから聖別し、主に帰し、主のためのものとするということです。

「聖別」のギリシャ語は ἁγιάζω(ハギアゾー、hagiazō)という動詞で表され、「聖なるものにする」「神聖にする」「聖なるものとして区別する」という意味を持っています。「聖別」とは、特別な目的のために何かを「分離して神聖なものとする」ということです。つまり、世俗的なものから「分離」して、神聖なものとして取り分けられるという意味を持っています。

聖別に関するある人の証しがあります。その人は、神にすべてを献げていた人でした。福音伝道のために旅をしており、その日は列車に乗っていました。向かい合わせの四人席の一つの席に座り、三人組の男性たちがその人を取り囲むように座っていました。その三人組の一人が、四人でトランプをしようと持ちかけてきました。しかしその人は、このように言いました。「申し訳ありません。わたしは自分自身を神にささげています。わたしの手はわたしのものではありません。神の許しなしではわたしは何もすることはできません。ですから、わたしはトランプをすることはできません。」これが聖別です。自分のすべてを聖別し、主のためのものとすることが献身です。もし真に自分自身を聖別しているなら、自分の意志で何事をも行うことはできません。これは、主権がどこにあるかという問題です。主にささげ、自分自身を聖別するとは自分自身の主権を放棄し、すべてを神へと聖別することです。

Ⅲ. 献身した人

献身とは特別なことです。なぜなら、旧約時代のイスラエルのすべての者が神に仕えることができたのではないからです。全イスラエル人は、神によって選ばれた王国です(出エジ19:5-6)。しかし、それは献身した王国とはなりませんでした。イスラエル人には十二の部族がありましたが、そのすべての部族がみな「任職」、すなわち神に仕えられたのではありません(出エジ28:1、29:9)。十二部族の中で、レビ人だけが神の選ばれた部族でした(民3:11-13)。しかし、レビ人の部族さえも献身した部族ではありませんでした。レビ人の中で、ただアロンの家族だけが「任職」、神に仕えることができました。アロンの家に属する人だけが祭司となって、神に仕え、ささげることができました。ですから、神に献身しささげることのできるのは「祭司」だけです。イスラエル人であっても、レビの部族であってもささげることはできません。ただ一つの家、すなわちアロンの家だけが祭司となって、ささげることができたのです。

しかしわたしたちは、この時代に献身し、神にささげる権利を持っていることを知っているでしょうか?

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民、所有として獲得された民です.それは、あなたがたを暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の美徳を、あなたがたが告げ知らせるためです.
ペテロの第一の手紙 2章9節

わたしたちは「王なる祭司の体系」です。今日、神はわたしたちを祭司として選んでくださりました。ですから、わたしたちはささげることのできる人です。ここで、もう一点見る必要があります。それは、人が神を選んだから自分自身を献身するのではないということです。そうではなく、神が人を選び召してくださったからこそ、人は自分自身を献身するのです。何もかも捨てて神に仕えることが神のためであると思っている人は、真に自分自身を献身した人ではありません。神を尊重し、神に仕えるのではありません。神があなたに恵みを与えて、神の働きにあずかるようにしてくださったのです。神の働きにあずかれるとは、何という栄光なことでしょう!ですから、自分をささげることは、神があなたに栄光と美をもたせることであり、あなたを選ばれたのは神であり、あなたを神に仕えさせるのは神です。ささげることは、神がわたしたちに栄光を与えられることです。ですから、真にささげることを見たなら、このように祈るでしょう。

「神よ、わたしにも分を得させてくださったことを感謝します。神に仕えることにおいてわたしにも分があることを感謝します。ああ、この世にはどれほどの人がいることでしょうか?それなのに、こんなわたしに分を得させてくださったとは!」

献身とは、わたしたちの誉れであり、犠牲ではありません。献身に犠牲という感覚はありません。神の栄光の全き感覚があるのみです。

Ⅳ. 献身の道

ここでは、具体的に献身するとは、どういうことなのかを見ていきます。レビ記第8章14節から28節は一頭の雄牛、二頭の雄羊、一かごの菓子について語っています。雄牛は「罪のためのささげ物」のためであり、一頭目の雄羊は「全焼のささげ物」のため、二頭目の雄羊とかごの中の菓子は「任職のささげ物」のためです。

A. 罪のためのささげ物(レビ記8:14-17)

人がもし、神に献身したいと願う時、第一の問題は罪のなだめです。これは当然のことです。人は救われてこそ、主のものとなってこそ、自分をささげることができます。主イエスは十字架上で、わたしたちに代わって罪をになってくださいました。これは、主イエスの罪のためのささげ物としての贖いのみわざです。これは献身の土台です。

B. 全焼のささげ物(レビ記8:18-20)

続いて、二頭の雄羊が出てきます。レビ記第8章18節から28節を読んでみてください。二頭の雄羊のうち、一頭は全焼のささげ物として焼かれ、他の一頭は、アロンが神に仕えることができるようにするための任職の雄羊でした。全焼のささげ物とは何でしょう?全焼のささげ物は、完全に焼き尽くされるささげ物です。この全焼のささげ物はわたしたちを神の御前に受け入れられるようにします。主イエスは十字架上で幕を上から下まで裂き、わたしたちを至聖所へともたらしてくださいました(マタイ27:51)。これが全焼のささげ物のみわざです。全焼のささげ物は、主イエスの神の御前での香ばしい香りであり、彼の香りを神が受け入れられたことを言っています。今日、わたしたちは、神がわたしを受け入れてくださるよう、彼(主イエスキリスト)を神にささげます。これが全焼のささげ物です。

C. 献身のささげ物(レビ記8:21-29)

1. 血を注ぐ

モーセはそれをほふり、その血から取って、アロンの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に付けた。
レビ記 8章23節

二頭目の雄羊が殺された後、この血はアロンと彼の子たちの右耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付けられました。この意味は、神がキリストの中でわたしを受け入れられたのですから、今やわたしは、血がすでにわたしの耳、手、足を聖別し、神に完全に帰せられたことを認めます。わたしの耳は神のために聞くべきであり、手は神のために事を行うべきであり、足は神のために歩くべきです。これは、わたしの耳、手、足がすべて主によって買い取られたことを意味します。これが血が注がれた意味です。

2. 揺り動かすささげ物

彼はこれらをみな、アロンの手のひらとその子たちの手のひらに置き、それらを揺り動かすささげ物として、エホバの御前で揺り動かした。
レビ記 8章27節

この二頭目の雄羊が殺され、血が塗られた後、雄羊の右肩(右もも)と脂肪が取られ、かごから種入れぬ菓子一つと、油を入れた菓子一つと、せんべい一つが取られました。これをアロンの手に渡され、アロンは神の御前に挙げて揺り動かしました。これが献身でした。

もう少し解釈を付け加えます。この揺り動かすささげ者は「任職の雄羊」と言われました(レビ記8:29)。この「任職」というヘブル語は מִלֻּא(ミルー、millu)で、「満たすこと」「充満」や「奉職」といった意味を持っています。この言葉は、 מָלֵא(マレー、male)という動詞から派生しており、「満たす」「充足させる」という意味を持つ動詞に由来しています。したがって、מִלֻּא(マレー)は、何かを充満させる、あるいは役割や務めを果たすために「満たされた状態」や「任職された状態」を指します。これはアロンの手が満たされた時に献身があるようになったことを示します。これは、手がキリストで満たされる時に献身があることを意味します。

献身とは何でしょう?献身とは、主の愛に触れ、主の権利を見る事によって、神の御前に来て仕えたいと願うことです。そして、キリストを罪のささげ物としてささげ、キリストを全焼のささげ物としてささげ、耳、手、足、自分自身の存在すべてを聖別し、キリストで手を満たすことです。

兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あなたがたに勧めます.あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた犠牲としてささげなさい.それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。
ローマ人への手紙 12章1節

このようにして、自分自身を完全に主にささげるのです。これが献身の道です。

Ⅴ. 献身の目的

献身の目的は、神のために伝道することではありません。献身の目的は、神のために働くことではありません。献身の目的は、神に仕えることです。「仕える」という言葉のヘブル語は שָׁרַת(シャラト、sharat)であり、その意味は「そばで奉仕する」というものです。献身の目的は「そばで奉仕すること」です。これはとても重要です。なぜなら、そばで奉仕することは、必ずしも労して働くことではないからです。

そばで奉仕するとは、主があなたにじっとしてほしい時、じっとしていることであり、主があなたに傍らに立ってほしいと願われる時、その傍らに立つことであり、主があなたに走ってほしい時、走ることです。これが「そばで奉仕する」ことです。ですから、献身とは「何かをする」ということではありません。献身は、自分自身をささげるのですが、それは神のそばで奉仕するためです。すべての時間は神のためですが、どんな働きをするかは定まっていません。すべての人はそばで奉仕をするのですが、何をするのかは定まっていません。

Ⅵ. 献身の結果

献身した結果とは何でしょう?それは、パウロの言葉に見られます。

そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。
ピリピ人への手紙 1章20-21節

ここに献身した人の言葉を見ます。「わたしの切なる期待と希望は…生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリスト」。献身の結果は、前途を捨てることです。献身の結果は、自分の望みを捨てることです。自分のやりたいこと、自分の夢を捨てることです。そして、完全に神に属する者となり、キリストを望みとし、キリストを生きることです。

参考書籍

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第三編
出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」