クリスチャンと結婚 – 聖書が教える結婚と性 – 初信者シリーズ24

クリスチャンと結婚 – 聖書が教える結婚と性 – 初信者シリーズ24

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わたしたちが正常なクリスチャンとなるためには、あらゆる基本的な問題を正確に対処しなければなりません。家庭であれ、職業であれ、対処されていない基本的な問題が一つでもあれば、後になって多くの問題が生じてきます。

今回の記事では「結婚」について交わりたいと思います。初信者の兄弟たちは、結婚について主の御言葉がどのように語っているのかを知る必要があります。「結婚」について各方面から見ていきましょう。

Ⅰ. 結婚は聖なるものである

結婚について解決すべき第一の問題は、性の感覚です。人には空腹の感覚があるのと同じく、性の感覚もあるということを、はっきりさせる必要があります。空腹が体の自然な要求であるなら、性の感覚も体の自然の要求です。人に空腹感があるのは、自然なことであり、罪ではありません。しかし、人が物を盗んで食べるのは、罪であって、自然なことではありません。同じように、人に性の感覚があるのは、自然なことであって、罪ではありません。しかし、人が不当な手段をもって自分の要求を満たそうとする時、罪に陥るのです。

人が結婚することは神が定められたことであり、神が始められたことであることを、わたしたちは見る必要があります。ですから性の感覚も神が人に与えられたものです。結婚が定められたのは、人が罪を犯した後ではなく、罪を犯す前です。結婚は創世記第2章で定められたのであり、罪は創世記第3章によって入り込みました。ですから、性の感覚には罪の成分はありません。そればかりか、この感覚は神ご自身が創造されたものなのです。

多くの若い兄弟姉妹が結婚の問題で煩わされています。それは彼らが神の定めを知らず、神の御言葉について明らかでないため、理由もなく良心の訴えを受け入れてしまうのです。彼らは性の感覚があると罪だと思い、この欲求が起こると罪だと思ってしまうのです。

ヘブル人への手紙第13章4節では、「すべての人の間で結婚が尊ばれるようにしなさい」と言っています。結婚は尊ばれるべきものであり、また聖なるものです。ですから、わたしたちは神が性を自然なものと見なしておられるばかりか、性を聖なるものと見なしておられるということをも見なければなりません。

パウロはテモテへの第一の手紙第4章3節において、終わりの時には悪鬼の教えが出てきて、これらの悪鬼の教えは結婚を禁じたりすると言っています。G・H・ペンバーの書物の中では、将来のある人は、結婚さえしなければ清い人になることができると思い、聖を追い求めるあまりに結婚を禁じたりするであろうということを、はっきりと指摘しています。しかし、パウロはテモテへの第一の手紙の中で、結婚を禁じるのは悪鬼の教えであるとはっきり言っています。ですから、神は結婚を禁じていないことをあなたがたは知るべきです。

Ⅱ. 結婚の基本的な性質

A. 互いを助け合うため

結婚は神が定められたものです。創世記の中で神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と語られました。神は創造のみわざを成された時、すべての造られたものを見て、良しとされました。第二日目を除いて、彼は造られたものを良しとされました。第二日目の大空は、サタンのいる場所であるため、神はよしとされませんでした。その他の日に神が成されたみわざはどれも良かったのです。けれども、第六日目に、神が一人の人を造られた時には、神は良しとされないばかりか、良くないと言われました。神は「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われました。それは人の創造がうまくいかなかったというのではなく、人をひとりだけ、すなわち、半分しか造らなかったのが良くないという意味です。

神は六日目にエバを作り、アダムの所に連れて来られました。ですからエバが生み出されたのは結婚のためでした。「配偶者」という言葉は「妻として添わせ、彼を助ける」ことを意味します。この言葉は、ヘブル語では「彼に似合った者、彼の助けとなる者」という意味です。

神が人を造られた時、神は男に女が加えられる必要を覚えておられました。しかし聖書は、神は人を造られたと言っています。ですから神が人を造られたというのは、**男と女を造ることによって、はじめて一人の人を造り上げることです。**それはちょうど、神は初めに半分の人を造り、後で人が半分であるのを見て、さらにもう一人の人を創造されたかのようです。半分を二つ合わせてはじめて一つになります。半分を二つ合わせて、はじめて完全な人になるのです。こういうわけで、エバが造られて、はじめて神はそのみわざを良しとされたのです。これはわたしたちに、結婚は人が始めたものではなく、神が始めたものであることを見せています。

ここで、わたしたちは神の御前における結婚の地位を見ます。神の目的は、一人の夫と一人の妻を得て、互いに助け合うことです。それゆえに彼の妻は配偶者と呼ばれるのです。人が共に生活をして、互いに交わりを持ち、互いに助け合うことを神が求めておられるのを見ます。これが神の目的です。

B. 罪を防ぐため

旧約において、まだこの世に罪が入り込む前に、神はすでに結婚を定められました。新約においては、コリント人への第一の手紙第7章でパウロは、罪が入ってきたために結婚を禁じるのではなく、かえって結婚の必要が増し加わったことをわたしたちに見せています。

結婚によって罪を防止することができます。ですからパウロは、淫行から逃れるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい(2節)と語っているのです。コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは性の感覚があるからといって、それを罪に定めるのではなく、罪を防止するために男女とも結婚すべきであることを見せています。

パウロは、わたしたちが肉の情欲を満たす備えをしないように(ローマ13:14)と言いました。例えば、ある人は高ぶりの罪を犯しやすいとします。パウロは彼に対して「あなたは高ぶりやすいので、どこでも高ぶることがないように家の中で高ぶりなさい。ここで高ぶるなら、他では高ぶらないだろうから」と言うことはできません。もしこのようにするなら、肉の情欲を満たす備えをすることになります。

結婚は肉の情欲を満たす備えをすることではありません。結婚は聖なるものであり、神が定められたものです。わたしたちは結婚することによって罪を防止することができるのです。

コリント人への第一の手紙第7章で、パウロは結婚の問題を語っています。パウロは初めに「妻は自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは夫が持っているのです。同じように、夫も自分の体に対して権利を持っているのではなく、それは妻が持っているのです」と言っています(Ⅰコリント7:4)。ここでパウロは、夫婦が不品行に陥ることがないために、主に奉仕するということ以外の理由では決して別れるべきではないということを教えています(Ⅰコリント7:5)。

またパウロはかなり強い言葉を用いて、性の欲求の強い人のことを取り上げています。性の欲求があまり強いなら、情に燃えるよりは結婚する方が良い(Ⅰコリント7:9)と言っています。パウロはこのような人を責めていません。パウロは「あなたに強い欲求があるのは間違いである。それは罪であるから、肉の情欲を満たすために備えをしなさい」とは言いません。「あなたに強い欲求があるなら、結婚しなさい。強い欲求があるよりは結婚するほうがよい」と言っているのです。

このようにして結婚の定めには、旧約と新約に異なった面が存在するようになりました。旧約では、わたしたちに助けを与える配偶者を見せています。新約では、罪を防止することができることを言っています。

C. 共に恵みを受け継ぐため

第三に、ペテロはペテロの第一の手紙第3章7節で、妻は「命の恵みの共同の相続人」であると言っています。言い換えれば、神は夫婦が共に神に仕えることを喜んでおられるということです。

ですから、クリスチャンの結婚には三つの基本的性質があります。第一は互いに助け合うこと、第二は罪を防止すること、第三は二人が神の御前で共に恵みを受け継ぐことです。

Ⅲ. 純潔の問題

もう一面、聖書はわたしたちに、性の感覚はあっても、その感覚があまり強くないために、その要求を満たす必要がない人について見せています。聖書は、このような人に純潔を守るようにと勧めています。

A. 純潔を守ることの利点

処女であることが結婚よりも霊的に聖であるとは言えませんが、処女は全存在と体力のすべてをささげて主の働きに専念することができます。このこともコリント人への第一の手紙7章で取り上げられています。

パウロは、結婚した人に三つの苦難があることを示しています。第一に、結婚は束縛するものです。多くの場合、人は結婚すると自由がなくなります。結婚すると、なすべき多くの事が生じてくるからです。第二に、結婚した人には苦痛があります。パウロは「そのような人たちは、肉体に苦しみを受けるでしょう」(28節)と言っています。人が結婚すると、おのずとその身に苦難が増し加わって、主に奉仕することに専念できなくなります。第三に、結婚した人には世の事に心を配ることがあります(32節-34節)。要するに、結婚には家庭的な事柄の上で苦難と束縛、苦労、心遣いがあるのです。

パウロの言葉は働き人に対して語っているだけでなく、すべての兄弟姉妹に対しても語っているのです。純潔を守るなら、人は多くの苦難を免れることができます。パウロは純潔を守るように命じているのではありませんが、彼の言葉を読むと、彼の心は純潔を守るほうに傾いています。パウロはそこにおいて、とりわけ自己主張するのでなく、ただ事実を兄弟たちに語り、「もしあなたがたが結婚するなら、それによって罪を犯す危険性を免れることができるので、それは良いことです。しかし、結婚はあなたがたに多くの束縛と苦難とより多くの世の心遣いとを与えるでしょう」と言いました。

B. どのような人が純潔を守ることができるか

パウロは引き続いて、どのような人が純潔を守るのかをわたしたちに見せています。そのような賜物を神から受けている人は、純潔を守ってもよいと言っています。純潔も神からの賜物です。結婚も神からの賜物です。それゆえパウロは「ただし、各自は神から自分自身の賜物を受けていて、ある人はこのようにしており、他の人はあのようにしています」(Ⅰコリント7:7)と言っているのです。

純潔を守る第一条件は、性の感覚があるだけで性の強制がないことです。性の力が強制する人もあれば、性の感覚があるだけで性の強制がない人もあります。およそ性の強制のない人は純潔を守ってもよいのです。

第二に、純潔を守る志があり、しかも心が堅固であることです。36節から37節では「もしある人が、自分の処女の娘が青春の盛りを過ぎていて、彼女に対してふさわしく対応していないと思い、そうせざるを得ないなら、彼の望むことを行なわせなさい。彼は罪を犯すのではありません。彼らを結婚させなさい。しかし、彼が心の中で堅く立ち、無理することもなく、自分の意志を制することができ、自分の処女の娘をそのままにしておこうと、心の中で決めたのであれば、彼は良いことを行なうのです」と言っています。パウロはわたしたちに、純潔を守るのはその人自身に志があり、その人自身が要求していることであると示しています。

第三に、環境に困難が決してないことです。37節では「無理することもなく」と言っています。ある人は純潔を守ろうとしても、家庭の中で強制されたりして、純潔を守れなくなるような困難があるかもしれません。それゆえ環境の上での按配があってこそ、純潔を守ることができるのです。

パウロはここで純潔を守る上での三つの基本的な条件を示しています。第一に感覚の上で強制がないこと。第二に、そうすることを心の中で堅く決心していること。第三に、環境の上で困難がないことです。

C. 純潔を守ることは、天の王国と携え上げられることと関係がある

純潔を守ることができる人は、確かに神の御前で多くを得ることのできる人です。マタイによる福音書第19章12節では「天の王国のために自ら結婚しない者もいるからである」と言っています。わたしたちは純潔を守ることが天の王国とどんな関係にあるか言うことはできませんが、純潔を守る人は確かに天の王国に入る上で有利な点があると言えます。

それだけでなく、啓示録第14章において、あの初穂(十四万四千人)はみな純潔な者であり、小羊の行く所へはどこへでも従って行くのを見ます。この十四万四千人は、特に早く携え上げられる人たちです。このように、わたしたちは純潔であることが携え上げられることと確かに関連があることを見ます。

わたしたちは、このことをただ兄弟姉妹の前に置くことができるだけです。

Ⅳ. 結婚の対象

結婚に関して、神は人がだれと結婚できるか、だれと結婚できないかという条件を定められました。神は、神の民の結婚は神の民の間だけに限られるべきであることを、聖書の中ではっきりと見せています。言い換えれば、もし結婚するなら、相手は必ず神の民の中から捜さなければなりません。神の民以外の者と結婚してはならないのです。

A. 旧約の命令

旧約の中には、神の民以外の者と結婚してはならないという命令が多くあります。申命記第7章3節では、「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない」と言っています。これは周辺諸国の民に対してどのようにすべきかが書かれており、神はイスラエルの民に、結婚の対象が主にある者であることをはっきり示されました。

ネヘミヤの時代に、イスラエル人が捕囚の地からユダヤの地に戻った後、多くの者が異邦の女を妻としてめとっていたため、ユダヤの言葉を語ることすらできないものが多くいる状態になりました。それゆえに、ネヘミヤ記第13章23節から27節では、彼らに異邦の女との関係を完全に断ち切るように、また異邦の女と行き来しないようにと要求しています。異邦の女と結婚したら、遅かれ早かれ、あなたの子供たちが彼女について行き、あなたと一緒に神に仕えることができなくなるという問題を見る必要があります。これは厳粛なことです。

マラキ書第2章11節では、イスラエル人に多くの邪悪な罪があり、彼らが異邦の女をめとって神の聖所を汚したことを見せています。神の目からみれば、異邦の女をめとることは神の神聖に対する冒涜です。それゆえにクリスチャンの結婚には制限があり、結婚の対象は信者たちの間だけに限られなければならないのです。

わたしたちはソロモンの失敗からも警告を得ることができます。ソロモンは最も知恵に満ちた王でした。けれども異邦の女をめとったために偶像礼拝に陥りました。

B. 新約の場合

コリント人への第一の手紙第7章39節でパウロは、やもめが結婚するのは、ただ主にある者に限ると言っています。コリント人への第二の手紙第6章14節は信者は未信者とくびきを共にしてはならないと言っています。これは結婚だけを指しているのではありませんが、結婚も含まれます。信者と未信者とは、二頭の動物が一つのくびきを付けて畑を耕すように、同じ目的のために同じ仕事はできません。これは神が禁じられていることです。

信者と未信者とがくびきを共にしてはならないという事の上で、結婚より重大なことはありません。資金を出し合って商売をするとか、何かに加入するとか多くのくびきがありますが、最も重いくびきは結婚です。ですから、最も理想的な結婚の対象は、必ず兄弟姉妹でなければなりません。

Ⅴ. 未信者と結婚している場合にはどうするか

ここで一つの問題が起きてきます。ある兄弟が未信者の妻と結婚していたり、ある姉妹が未信者の夫と結婚している場合はどうしたら良いのでしょうか?

A. 彼が去るなら、去らせなさい

ことのことはコリント人への第一の手紙第7章に記載されています。12節、13節、15節では、もし夫婦の一人が主を信じたために家庭内に問題が起きた場合、どうすべきかという問題に答えています。今日、多くの人はそれほど徹底的に主を信じているとは言えないため、家庭内の問題も多くはありません。主イエスは福音書の中で、家庭内に多くの問題が起こることを予測しておられます。もし徹底的に主を信じたら、家庭には争いが起こるでしょう。

それでは、もし今日、妻が主を信じたために「あなたは主を信じた。だからもうあなたと一緒にいたくない」と言って夫が去ってしまったなら、この時、この妻はどうすべきでしょうか?主はコリント人への第一の手紙第7章15節において、とてもはっきりと語っておられます。それは、彼を離れさせなさいということです。このように妻が主を信じたために夫が離れるなら、また夫が主を信じたために妻が離れるなら、離れさせたらよいのです。

ところが、一つの事をはっきりさせる必要があります。離れるのは、わたしたちの方からではなく彼でなければなりません。つまり、あなたが主を信じたために、彼が不満を抱いて離れるということです。

B. 彼が構わずにいるなら、主は彼を救ってくださる

もし彼が構わずにいるなら、別れてはいけないと、パウロは言っています(Ⅰコリント7:12-13)。なぜなら、主があなたによって彼を救い得るかどうか、どうしてあなたにわかるか、また彼が構わずにおり、一緒に住み続けるのであれば、わたしたちは人と平和に暮らすべきであるから別れてはならないと、パウロは言っています。彼はまた未信者も信者によって聖別されていると言っています(Ⅰコリント7:14)。主が他の人を救われるのは必ずしも容易でないかもしれませんが、この人はあなたのものですから、主が彼を救われるのは特別容易です。わたしたちは、この立場に立ってこの事を取り扱う必要があります。

Ⅵ. 未信者と婚約している場合にはどうするか

今度は、未信者と婚約してしまった場合はどうすればよいのでしょうか?

A. 一番良いのは、未信者の側から解消を申し出ること

主は、わたしたちが未信者と結婚することを望まれません。これは非常にはっきりしています。ですから、もしだれかが未信者と結婚してしまった場合、一番良いのは未信者である婚約者の側から解消を申し出てくることです。なぜなら、まだ結婚しておらず、婚約しているだけなのですから、主が道を開いてくださり、あなたが主を信じたために未信者の側から解消を願い出て来るなら、それで良いのです。

B. 勝手に解消してはならない

しかし、多くの場合、この事は不可能です。なぜなら、婚約してしまった以上、あなたが主を信じたからと言って相手がそんなに簡単に手離すわけはないからです。この時は、わたしが人と婚約したことは、人と契約を立てたことであり、その契約は、わたしが神の御前で人に与えた約束であることを覚える必要があります。クリスチャンは、自分が主を信じたからといって勝手に契約を破棄してはなりません。なぜなら、神の御前において、契約はみな聖であるからです。

しかし、別れることを相手に提案しても構いません。相手が提案してもよいし、あなたが提案してもよいのです。この提案については、相手のほうが主体的でなければならないとは限りません。この点が今までとは違います。すでに結婚している場合には、相手の方が主体的です。しかし、婚約している場合には、自分の方から積極的に一番良いのは別れることだと言ってもいいのです。もし相手は必ず婚約を履行するよう要求するなら、必ずそうしなければなりません。なぜなら、クリスチャンがいったん言葉を口にしたなら、必ず実行しなければならず、それを破棄してはならないからです。ですから、わたしたちは相手とよくよく話し合い、もし相手が別れることを願わないなら、どうしてもその人と結婚しなければなりません。

C. あらかじめ条件を話しておくべきである

あなたが誰かと婚約しており、今あなたはクリスチャンになりました。あなたが主を信じたにもかかわらず、相手がどうしてもあなたと結婚したいと言うなら、どうすべきでしょうか?あなたの側でしてもよい一つの事がここにあります。それは相手とあらかじめ取り決めしておくことです。

あなたは次のように言います、「わたしは必ずあなたと結婚します。でも結婚する前に言っておきたいことがいくつかあります。その条件は次のとおりです。第一に、あなたは必ずわたしが主に仕えることができるようにしなければなりません。わたしは自分を隠してあなたの家に来るのではなく、旗をかかげて来るのです。わたしはクリスチャンですから、あなたに嫁ごうが、あなたはどうしても主に仕える自由をわたしに与えなければならず、わたしが主に仕えることに干渉してはなりません。第二に、将来子供が生まれたら、必ず主の教えにしたがって彼らを養育しなければなりません。主を信じる信じないは、あなたの事です。しかし、わたしたちの子供は必ず主の教えどおりに養育しなければなりません」。

これらの言葉は前もって語られるべきです。これらの事は絶対に結婚前に約束しておく必要があるものであり、前もって話しておかなければならないことです。前もって話し合っておかないと、後でいざこざが起こります。未信者に嫁ぐことは損失であり、未信者をめとることも損失です。損失を少なくし、問題を少なくしたいと思うなら、わたしたちは前もって話し合っておかなければなりません。

Ⅶ. 離婚

聖書には離婚に関する規定があります。聖書の中のただ一つの条件に基づいてのみ、離婚が許されます。その唯一の条件とは姦淫です。精神病になろうと、長年、失踪して行方不明であろうと、それらは離婚の条件になりません。そうではなく、他の人との間に性的行為があったということが唯一の条件なのです。マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節にはっきりと書かれています。

A. 離婚は一を破壊する

なぜ姦淫の場合だけ、離婚が許されるのでしょう?それは神がくびきを共にさせたものを人が離してはならないからです。言い換えるなら、神から見て、夫婦は一体であり、あらゆる離婚はこの”一”を破壊するものであるからです。では姦淫を行なうとは、どういうことなのでしょうか?それは一を破壊するということです。あなたが自分の夫、あるいは自分の妻以外の人と性的行為を持つなら、それは姦淫を行ない、一を破壊したことになります。

B. 一が失われたらなら離婚してもよい

なぜ姦淫を行なったなら、離婚することができるのでしょうか?それはすでに一が破壊されたからです。もともとあなたとあなたの夫は一でした。しかし、あなたの夫が姦淫を行なうやいなや、あなたは自由になることができます。もともと一であるので、あなたはそれを守らなければなりませんでした。しかし今、その一を失ったのですから、あなたは自由になることができます。それゆえ姦淫が行なわれることが離婚の唯一の条件です。

マタイによる福音書第19章9節とルカによる福音書第16章18節の二つは、とてもはっきりしている個所ですから、わたしたちは十分に注意する必要があります。離婚の根拠は姦淫です。姦淫によって、以前の一が破壊され、もはや夫婦が一でなくなったので、離婚してもよいのです。今日のいわゆる離婚は単なる手続きにすぎません。結婚の存在は、その一の存在を宣言し、離婚は一がもはや存在しないことを宣言しています。それゆえ姦淫を行なったなら、離婚してもよいのです。

それゆえに、わたしたちは結婚とは何かを認識する必要があります。結婚とは一です。二人は、もはや二人でなく一体となることです。姦淫は一を破壊し、離婚は一が破壊されたことを宣言するのです。わたしたちは神がくびきを共にさせたものを引き離してはなりません。しかし、姦淫によって一が破壊されたのであれば、離婚が許されます。

Ⅷ. やもめの問題(配偶者を亡くした者、未亡人)

聖書はまた、妻か夫をなくした者は再婚してもよいと言っています。結婚は死ぬまでのことであり、復活の時には結婚の関係は存在しません。めとったり嫁いだりするのは、この世の事です。配偶者が死んだ後、あなたは過去の愛情のゆえに再婚せずにいても構いませんが、もしあなたが再婚するなら、聖書もこの事を許しています。

パウロはテモテに、若いやもめは結婚するのが望ましいと言っています(Ⅰテモテ5:14)。一人の兄弟が再婚するのも同様です。今日の問題は、あなたにその必要があるかどうかということです。ある人は生理的にその必要があり、ある人は孤独を感じるため心理的に必要があります。また、ある人は家庭環境の上でその必要があります。もしある兄弟が妻を亡くした時、彼が結婚するのは正しいことです。もしある姉妹が夫を亡くした時、彼女が結婚するのも正しいのです。クリスチャンはこの事について批判してはなりません。

Ⅸ. 罪の問題

神は聖書の中で、性の感覚の正しさ、性行為の正しさを認めておられます。性の感覚は罪ではないばかりか、聖なるものでさえあります、しかし、それは結婚という枠内に限定されています。結婚という枠内でのみ、それは正しく聖なるものであるのです。結婚の一の外では、いかなる性の感覚や性行為もみな罪なのです。あなたは見たでしょうか?結婚の枠外であるものは罪です。それは結婚という枠の外でその一を破壊するものだからです。ですから、罪の存在は、性そのものにはよらず、一を破壊することによるのです。

例えば、主イエスはマタイによる福音書第5章28節で、「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言われました。ここの「見る」の原文の意味は、意志を持って見る(look at)のであり、単に見えること(see)ではありません。見るという言葉には、意志の働きが含まれています。すなわち、ここでは女性を意図的に見るのであり、単に見えることではありません。もう一つは、「情欲を抱いて」(in order to lust after her)です。これは女を見たので情欲が生じたのではなく、情欲を抱いているので見たのです。情欲が先にあって、見るのが先ではありません。

わたしたちが路上でたまたま一人の女性を見たとします。サタンが情欲を注入したとしても、わたしたちが拒絶するなら、それでおしまいです。ところが、振り返って彼女を見るなら、罪です。どうか性的感覚が罪なのではなく、意志の同意こそが罪であることを覚えておいてください。なぜなら、この意志の同意は結婚の外にあるからです。同意することによって、あなたはすでに意志のうえで一を破壊しているのです。行為のうえで一を破壊するならもちろん罪ですが、意志のうえで一を破壊しても、それは神の御前で罪なのです。

姦淫とは何でしょうか?配偶者のある者が罪を犯すことが姦淫です。それでは、何を淫行というのでしょうか?配偶者のない者が罪を犯すのが淫行です。行為は同じでも、罪は同じではありません。

わたしたちは必ず、姦淫が罪であり、淫行が罪であることを認識しなければなりません。配偶者のある人が一を破壊するのが罪であるだけでなく、配偶者がなく、一がない人の淫行もまた罪なのです。クリスチャンは姦淫も淫行も行なってはなりません。もしあなたがすでに結婚しているのに結婚の外で性行為を行なうなら、これは姦淫です。もしあなたがまだ結婚していないのに性行為を行なうなら、これは淫行です。クリスチャンは神の御前で、姦淫も淫行も行なってはなりません。

参考資料

ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十九巻 初信者を成就するメッセージ(二)第三十編

出版元:日本福音書房

※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していない場合はすべて回復訳2015からの引用です。

「オンライン聖書 回復訳」

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニーとは?神聖な啓示の先見者

ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)彼は、20世紀の中国において神に大きく用いられた主のしもべです。彼は中国大陸において1920年の17歳でクリスチャンになり、執筆を始めました。彼は約30年間の務めを通して、この時代における主の動きのために、主から彼のからだへ与えられたユニークな賜物であることが明らかされました。1952年に彼は共産主義政権によって投獄され、1972年の死まで監獄に入れられたままでした。彼の言葉は、世界中のクリスチャンたちへの霊的な啓示と豊富な供給の源となっています。

Ⅰ. ウオッチマン・ニー (1903-1972)

ウォッチマン・ニーは1903年、中国・福州で敬虔なクリスチャンの家庭に生まれました。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は福州のアメリカ会衆派の大学で学び、福州北部の会衆派の中国人の初代牧師になりました。祖母や両親も熱心なクリスチャンとして教育を受け、キリスト教に深く根ざした家庭環境の中で育ちました。彼自身も福州の聖公会三一学院という、英語と中国語の教育水準が非常に高い教育機関で学び、両言語に熟達しました。

1920年代になると、中国全土で福音宣教が活発になり、多くの学生たちが福音を受け入れ、霊的な覚醒が広まりました。そのような霊的高揚の中で彼もまた17歳の時に劇的な回心を経験し、自らの人生をキリストに完全に委ねました。回心後、彼は新たに英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)、中国語名を倪柝聲(ニー・トゥォーシェン)に改名しました。「ウォッチマン」とは「見張り人」を意味し、夜の暗闇の中で時を告げ、人々を真理へと目覚めさせる役割を表しています。

A. ウォッチマン・ニーの務め

彼の働きは、当時の中国における形式的で伝統的なキリスト教のあり方に疑問を投げかけ、単に宗教的知識を持つことではなく、「キリストを命として内側で実際的に経験すること」を中心テーマとしました。彼はまた、教派や宗派を超えてキリストのからだである召会(教会)の真理を追求し、『正常なキリスト者の生活』『霊の人』『キリスト者の標準』をはじめ、多くの深遠な著作を通じて、真の霊的な生活の道を示しました。

しかし1952年、中国共産党による宗教弾圧のために逮捕され、約20年間にわたり投獄されました。獄中で多くの苦難を経験しながらも、彼は信仰を守り通し、1972年に殉教しました。ウォッチマン・ニーの肉体は滅ぼされましたが、彼が残した霊的遺産や著作は、中国国内のみならず世界中のクリスチャンに影響を与え続けています。

彼の人生と働きは、主の地上における回復の働きを進めるための特別な賜物であり、中国だけでなく、全世界の教会に霊的な覚醒をもたらす礎となりました。今日でもウォッチマン・ニーの著作や思想は、多くのクリスチャンが真の霊的経験を深めるための貴重な導きとなっています。

さらに詳しく知りたい方は、『キリスト者の標準』『神の福音』『勝利を得る命』『霊の解放』『歌の中の歌』などの著作を手に取ることで、ウォッチマン・ニーの教えや霊的洞察に触れることができます。また、ウォッチマン・ニーの伝記『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー』なども、彼の人生と働きをさらに深く理解するための良書です。

Ⅱ. ウォッチマン・ニーの書籍

A. 神の福音

B. 勝利を得る命

C. 霊の解放

D. 歌の中の歌

E. キリストの奥義

F. 神聖な啓示の先見者

これらの書物は日本福音書房にてお買い求めいただけます。

出版元:日本福音書房

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?

第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?

これまでの記事では、大きく三つのことを見てきました。

それは

「人は神を受け入れる器であり、神を受け入れることで満たされる」(人生の目的)
「しかし、人は罪のために神を受け入れられなくなった」(人の堕落)
「キリストが罪を取り除き、人を神のもとに戻す道を開かれた」(キリストの贖い)

では、具体的にどうすればキリストを受け入れられるのでしょうか?

Ⅰ. キリストを受け入れるために必要なこと

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キリストは、すでに十字架であなたの罪の問題を解決し、復活によってあなたに 「神の命」 を与える道を開かれました。

📖 そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。 コリント人への第一の手紙 15章45節

人と成った主イエスは、十字架の死と復活を経過して、「命を与える霊」と成られました。霊であるキリストは、時間と空間に縛られていません。今や、命を与えるために、あなたの中に入る準備が出来ています。

つまり、あなたの罪の問題は解決され、神の命はすでに用意されており、あとはあなたがそれを受け取るだけ です。

📖 わたしはまた、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたの内に置く。わたしは石の心をあなたがたの肉から取り去り、あなたがたに肉の心を与える。 エゼキエル書 36章26節

では、キリストを受け入れるために 必要な4つのステップ を見ていきましょう。

A. キリストを受け入れる4つのステップ

① 悔い改める ― 神のもとに立ち返る

📖 この時からイエスは宣べ伝え始めて言われた、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」。マタイによる福音書 4章17節

「悔い改め」と聞くと、「過去の過ちを後悔すること」や、「もう二度と悪いことをしないと決心すること」と考えるかもしれません。しかし、聖書の「悔い改め」 は単に反省することではありません。

🔹 悔い改めとは、「思いの向きを変えること」 です。

今まであなたは、自分の考えや願望に従って生きていたかもしれません。神を無視し、自分中心の人生を歩んでいたかもしれません。しかし、聖書は 「あなたが神に立ち返ることが必要」 だと教えています。

🔹 これまで:神なしで生き、自分中心の人生を歩んでいた。
🔹 これから:神に向き直り、神と共に生きる道を選ぶ。

例えば、もしあなたが違う道を進んでいたなら、最初にすべきことは 進行方向を変えること です。同じように、人生の進む方向を 神に向き直すこと こそが、真の「悔い改め」です

② キリストを信じる ― 彼の死と復活を受け入れる

📖 「それは、彼の中へと信じる者がすべて、永遠の命を持つためである」。 ヨハネによる福音書 3章15節

「信じる」とはどういうことでしょうか? 多くの人は「信じる」という言葉を 「知識として理解すること」や、「正しいと認めること」 だと思っています。しかし、聖書が言う「信じる」 とは、もっと実際的なものです。

🔹 信じることは、「受け入れること」 です。

例えば、誰かがあなたに腕時計をプレゼントするとします。あなたが「素敵ですね!」と言っただけでは、その腕時計はあなたのものにはなりません。あなたは 実際に受け取らなければならない のです。

同じように、イエス・キリストも あなたのために救いを備えてくださいました。しかし、それを自分のものとして 受け取る ことが必要です。神との関係を回復し、神の子供になるためには、キリストをただ「すごい人だな」と思うだけではなく、あなたの心の中に迎え入れることが必要 なのです。

キリストは、あなたの罪をすべて背負い、十字架で死なれました。そして、罪と死の力を打ち破り、復活されました。これを 「自分のためのもの」 として受け入れる必要があります。このためには、あなたはまず自分自身が罪人であることを認めなければなりません。

③ 呼び求める ― 口で告白する

📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。ローマ人への手紙 10章9節

あなたは、ステップ2で心で「神は死人の中からキリストを復活させた」と信じたなら、口で告白する必要があります。神は 「主の御名を呼び求めること」 を求めておられます。これは単なる形式ではなく、実際に口に出してキリストを受け入れること です。

例えば、結婚も、「心の中で好き」と思っているだけでは成立しません。実際に 「結婚します」と言葉で告白すること によって、新しい関係が確定します。キリストとの関係も同じです。あなたが心で信じるだけでなく、「イエスを主と認める」ことを口で告白するなら、あなたは救われます(ローマ10:9)。

方法はとても簡単です。声に出して、「お〜主イエスよ!」 と呼んでみてください。

🔹 何度か「主イエスよ!」と呼ぶことで、あなたの心の奥深くに変化を感じるでしょう。

④ バプテスマされる ― 証しする

📖 信じてバプテスマされる者は救われる。しかし、信じない者は罪に定められる。マルコによる福音書 16章16節

バプテスマとは、「キリストを受け入れた」ことの公に証しすることです。バプテスマは、単なる儀式ではなく、神の王国に入るための重要なステップ です。

📖 イエスは答えられた「まことに、まことに、わたしはあなたに言う。人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。」ヨハネによる福音書 3章5節

バプテスマを受けることで、あなたはサタンの国から、神の王国へと移されます。バプテスマは自分一人では出来ませんので、あなたがキリストを受け入れたのであれば、クリスチャンにバプテスマしてほしいことを伝えれば良いでしょう。

Ⅱ. キリストを受け入れるための祈り

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もし、あなたがキリストを信じ、彼の救いを受け入れたいと願うなら、今、心を開いてこの祈りをしてみてください。

「主イエスよ!わたしは罪人です。わたしはあなたが必要です。わたしの罪のために死んでくださり、復活してくださって感謝します。今、わたしはあなたをわたしの救い主として受け入れます。わたしの霊の中に入ってきて、わたしを新しくしてください。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン!」

もしあなたがこの祈りを心から祈ったなら、キリストは確かにあなたの霊の中に入られました!そして、あなたは神の子供となりました!新しい人生の始まり です。

📖 しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた。ヨハネによる福音書 1章12節

Ⅲ. キリストを受け入れたら、次に何をすればいいのか?

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あなたがキリストを受け入れたなら、次の4つのことをすることで、神との関係がさらに深まります。

✅ 聖書を読む(神の言葉を知る)
✅ 祈る(神と交わる)
✅ クリスチャンと交わる(共に成長する)
✅ 集会に参加する(主を礼拝する)

わたしたちはあなたを神の家族として歓迎します。主があなたを導いてくださいますように。

人生の奥義シリーズ 全三部作(完)

人生の奥義シリーズ:全三部作

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?
第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?
第3部:キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?

第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?

第2部:人の堕落 ー なぜ人は神から離れてしまったのか?

前回の記事では、「人生の目的」について見ました。人は神のかたちに(創世記1:26)、また神を入れる器として創造されました。人は神を受け入れることによってのみ、真の満足を得ることができることも見ました。しかし、人は神を入れる器として創造されたのにも関わらず、多くの人は神を持たず、神とのつながりを持っていません。

その理由は「人の堕落」です。人は堕落したために、神とのつながりを失いました。この記事では、「人の堕落とは何か?」「どのように人は堕落したのか?」を詳しく見ていきたいと思います。

Ⅰ. 人の葛藤 ー 「良くなりたいのに、なれない」

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あなたはこんなことを感じたことはありませんか?

  • 良い人でいたいのに、つい人を傷つけてしまう。
  • 正しいことをしたいのに、誘惑に負けてしまう。
  • 親切にしたいのに、自己中心的な思いが消えない。
  • 人を赦したいのに、どうしても赦せない。

多くの人は、「良い人になりたい」「正しく生きたい」と願いながら、そのように生きようと努力するにも関わらず、それを行うことができずに内側でどうしようもない葛藤を抱えています。 その原因は、人の内側に存在する「善を行いたいという性質」と「悪を行ってしまうという性質」が心の中で戦っているからです。

では、なぜわたしたちはこのような葛藤を抱えるのでしょうか? 聖書は、この問題の根本的な原因を明確に語っています。

A. 人は神のかたちに造られたが…

前回の記事で見たように、聖書は人を神のかたちに、神の姿にしたがって創造したと語っています。(創世記1:26)

📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半

そして、神は唯一の善なる御方です。(マルコ10:18)

📖 イエスは彼に言われた、「なぜあなたはわたしを善いと言うのか?神おひとりのほかに、善い者はいない。」 マルコによる福音書 10章18節

ですから、神に似せて造られた人には、神のような「善の性質」「善を行いたいと欲する性質」を持っています。

例えば、

✔ 誠実さ → 人は嘘をつくことを良くないと感じる。
✔ 愛と優しさ → 人は他人を愛したいと願う。
✔ 正義感 → 悪を憎み、正しいことをしたいと願う。

これは確かに人の中に存在するものであって、これが人の良心です。良心が健全に機能しているのであれば、人は善を行うことを欲し、悪を行うことを憎みます。しかし、わたしたちの生活の中の経験と照らし合わせるなら、多くの場合、わたしたちは善を行うことに失敗し、悪を行ってしまいます。

なぜわたしたちは、善を行うことを欲するのに、それを行うことができないのでしょうか?

この原因が「人の堕落」です。

Ⅱ. 人の堕落 ― 罪が人の中に入った

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聖書によると、人間はもともと神と共に生きる存在でした。人が神を入れる器として造られたのは、神を内容とし神を表現するためです。神の願いは、神が人の中へと入り、人を通して神の性質である「愛」「光」「義」「聖」を地上で表現することでした。

しかし、人が神の命令を無視し、サタンの指示にしたがったことで、「罪」が人の中に入ったのです。ですから、罪の原因は神の言葉を無視したこと、神に背いたこと(反逆)にあります。

A. 神への反逆

神は最初の人、アダムとエバをエデンの園に住まわせ、彼らに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じられました(創世記2:16-17)。

📖 そして、エホバ・神はその人に命じて言われた、「あなたは、園のどの木からでも自由に食べてよい。ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない。それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。 創世記 2章16-17節

これは、人が神にしたがい、神を命の源として生きるための定めでした。しかし、サタンは蛇の姿をとり、エバを誘惑しました。

蛇はエバに、「あなたがたがそれを食べると、目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになる」とそそのかしました(創世記3:5)。

📖 さて、蛇は、エホバ・神が造られた野のあらゆる動物の中で、最もこうかつであった。蛇は女に言った、「『あなたがたは園の木のどの木からも食べてはならない』と、神はほんとうに言われたのですか?」。 創世記 3章1節

📖 すると、蛇は女に言った、「あなたがたは必ずしも死ぬことはありません!それは、あなたがたがそれから食べる日に、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のようになり、善と悪を知るようになることを、神は知っておられるからです」。 創世記 3章4節

エバは神の言葉にしたがわず、蛇であるサタンの言葉を受け入れ、木の実を取って食べ、アダムにも与えました。彼らがそれを食べた瞬間、罪が人の中に入りました(創世記3:6)。

📖 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良く、目に喜ばしく、その木は賢くなるのに好ましかったので、彼女はその実を摘み取って食べた。彼女はまた一緒にいた夫に与えたので、夫も食べた。 創世記 3章6節

罪とは単なる悪い行為ではなく、神から独立し、自分を中心に生きようとする性質です。アダムとエバは、神に信頼するのではなく、自ら善悪を判断し、自分の意志で生きる道を選びました。その結果、彼らの内側には神の命ではなく罪が入り込み、人類全体に及ぶ堕落が始まりました。

B. 罪とは「的外れ」である

多くの人が「罪」とは悪い行いであると考えます。しかし、聖書が啓示する「罪」の意味は全く異なります。

「罪」という言葉は、新約聖書では主にギリシャ語で「ハマルティア(ἁμαρτία)」と記されています。この言葉の根本的な意味は 「的外れ」 です。「ハマルティア(ἁμαρτία)」は、もともと弓を射るときに 的を外すこと を指す言葉でした。つまり、聖書で「罪」とされるものは、単なる道徳的な悪や法律違反ではなく、 神が人に定められた目的(的)から外れること を意味します。

聖書でいう『罪』とは、単に悪い行いではなく、本来の目的(神と共に生きること)から外れている状態のことです。これが「罪」、つまり「的外れ」です。

あなたは神から的を外していないでしょうか?

C. 罪の結果は「死」である

罪は人類最初の人アダムに入り込みました。その結果、アダムから生まれるすべての子孫である全人類にその影響が及ぼされました。そして、この罪は「死」という結果をもたらしたのです(ローマ5:12)。

📖 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました。 ローマ人への手紙 5章12節

この「罪」は単なる悪い行いではなく、人の内側に入り込んだ「悪の力」です。 それが、人を神から遠ざけ、善を行おうとする心と戦うようになった原因なのです。

例えば、わたしたち人は毒を食べるなら死にます。それと同じように、善悪知識の木を食べることは、サタンの性質(悪の性質)を取り入れることであり、その結果は「死」です。人類最初の人が罪を犯したために、全人類は死ぬ運命となりました。

C. 人の中にある「二つの性質」 ― 善と悪の戦い

人は神のかたちに造られたため、善を行いたい欲する性質を持って生まれました。しかし、「善悪知識の木からは食べてはならない」という神の言葉にしたがわず、サタンの言葉にしたがったために、人の中に本来存在しなかった罪が入りました。この罪は「悪の力」そのものです。これは神に背いた結果であり、神から離れたことを意味します。

人は神から離れましたが、善を行いたいと欲する性質は依然と残っていました。ですから、わたしたち人は善を行おうと努力するのです。しかし、罪人が善を行おうと努力し続けた場合の叫びは以下のようになります。

📖 わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはないからです。 ローマ人への手紙 7章18節

これは、人がどんなに努力しても、「善」を完全に行うことができず、「悪」に引きずられてしまうという現実を表しています。

例えば、

✔ 「正しく生きよう!」と決意しても、失敗してしまう。
✔ 「怒らないようにしよう!」と思っても、イライラしてしまう。
✔ 「赦そう!」と思っても、恨みの心が残る。

これは、わたしたちが「罪の力」に縛られている証拠です。あなたがどれだけ善を行おうとしても完全に行うことができないのは、あなたの努力が足りないからでも、あなたの意志が弱いからでもありません。あなたの中に「罪」があり、あなたが罪人であるからです。

まとめると、罪とは、「的外れ」であり、神中心ではなく、自分中心で生きることです。また、罪は「悪の力」であり、この悪の力によってあなたは完全に善を行うことはできず、葛藤と苦しみの中で生きていくしかないのです。

では、この葛藤から解放される道はあるのでしょうか?

Ⅲ. 解決の道 ― キリストの身代わりの死

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人がどんなに努力しても、「罪の力」から自分自身を解放することはできません。例えば、あなたが誤って毒を飲んでしまったら、自分自身でどれだけ努力しても、そこから救われることはできません。あなたは毒を取り出してもらうために病院に行って、医者に診てもらう必要があります。

では、わたしたちはこの罪と死の問題を解決するために、どうすればいいのでしょうか?

イエスは、わたしたちの罪という霊的な病を癒すために医者として地上に来られました(マルコ2:17)。

📖 イエスはこれを聞いて、彼らに言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 マルコによる福音書 2章17節

「病んでいる人」とは、罪を持つすべての人、つまりわたしたちのことです。そして、イエスは、「義人ではなく、罪人を招くために来られた」と言われました。これは、イエスがわたしたちを救うために来られたことを意味します。

A. キリストの十字架 ― 罪の身代わり

人は罪により、神との関係を失い、死に支配されています(ローマ6:23)。しかし、神はわたしたちを愛し、救うために イエス・キリストを遣わされました。

キリストは 罪を持たない唯一の方でした。しかし、彼はわたしたちの身代わりとして十字架で死なれた のです。

📖 神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わってに罪とされました。それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。 コリント人への第二の手紙 5章21節

これは、ちょうど誰かがわたしたちの借金を代わりに払うようなものです。わたしたちは自分で罪を取り除くことができませんが、イエスがその罪の代価を十字架で支払われました。

B. キリストの復活 ― 新しいいのち

しかし、十字架はイエスの死で終わりではありませんでした。 三日後に彼は復活されました!

📖 そして彼が葬られたこと、そして彼が聖書にしたがって三日目に復活させられたこと、 コリント人への第一の手紙 15章4節

キリストの復活は、死に勝利したことを意味します。そして、彼は今も生きておられ、わたしたちが新しいいのちを受けることができるようになりました。

人の最大の問題は「死」です。「死」から誰も逃れることはできません。しかし、ここに「死」を乗り越えた方がおられます。主イエスが十字架で死と復活を成し遂げられたのは大きく二つのためです。それは第一に、罪の問題を解決するため。第二に、死を乗り越えた復活の命をわたしたちに与えるためです。

C. キリストが新たな道を開かれた

すべての問題は、わたしたちの中に罪が入り、神との関係が断絶されたことにあります。その結果、人は生きる目的を失い、何をしても真の満足を得ることができなくなりました。

しかし、主イエス・キリストは十字架によって、わたしたちの身代わりの死を成し遂げ、復活されました。これは、神とわたしたちとの関係を回復する道を開かれたことを意味します。

Ⅳ. どうすれば、神との関係が回復されるのか?

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救われるとは、神との関係が回復することです。では、どうすればわたしたちは、この罪による「悪の力」から解放され、「死」を乗り越える復活の命を受けることができ、神との関係が回復されるのでしょうか?

聖書は言います。それはただ「信じるだけ」です。

📖 すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます。 ローマ人への手紙 10章9節

では、どうすれば神との関係を回復できるのでしょうか? 次の記事では、『キリストの救い』について詳しく見ていきます!

▶ 次の記事:「キリストの救い ー どうすれば神を受け入れられるのか?」

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?

第1部:人生の目的 ー 何のために生きているのか?

Ⅰ. 人は何のために生きているのか?

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あなたはこれまでに、「何のために生きているのか?」と考えたことがありますか?

  • 仕事を頑張っているけれど、何のためにやっているのかわからなくなるときがある。
  • 夢や目標を達成したのに、「次はどうすればいい?」とむなしさを感じる。
  • 幸せになるために努力しているのに、「本当にこれが幸せなのか?」と疑問が生まれる。

こうした疑問を持つのは、あなただけではありません。これは、人間が本質的に抱えている問いなのです。

A. お金や成功では満たされない理由

多くの人が「お金」「成功」「知識」「楽しみ」こそが人生の目的だと考えます。

  • 「もっとお金を稼げば、満たされるはず」
  • 「成功すれば、人生に意味が見いだせるはず」
  • 「好きなことを楽しめば、満足できるはず」

しかし、実際にそれらを手に入れた人たちはどうでしょうか?

  • 大富豪の中には、人生にむなしさを感じている人がいる。
  • 成功した経営者やスポーツ選手が、「達成感よりも空虚感の方が強かった」と語ることがある。
  • 快楽を追い求めても、一時的な満足しか得られない。

なぜでしょうか? それは、お金や成功、楽しみが「人生の目的」ではないからです。それらは確かに「必要なもの」かもしれませんが、人生の最終的な目的にはなり得ません。

では、人間は何のために生きているのでしょうか?

Ⅱ. 聖書が語る「人生の目的」

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人間が「人生の目的は何か?」と問い続ける理由は、神が人間を特別な目的をもって造られたからです。聖書にはこう書かれています。

📖 神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう』創世記 1:26 前半

この言葉が示しているのは、人間は偶然に生まれた存在ではなく、神が意図をもって造られたということです。神は人間を、ただ生まれて死ぬために造ったのではありません。人間が本当に満たされる唯一の道は、「神の目的」に沿って生きることです。

では、神の目的とは何でしょうか?

A. 「神のご計画」 ― 神の壮大な計画

聖書は、神には壮大な計画があると語っています。聖書は、宗教書、哲学書、道徳書ではなく、神のご計画が書かれた書物です。この計画の中で、神は天、地、人を創造されました(創世記1:1、26)。ですから、「なぜ天が造られたのか?」「なぜ地が造られたのか?」「なぜ人が造られたのか?」これらの問いに対する答えは、聖書に記されています。

📖 わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない大いなる隠された事をあなたに告げよう。エレミヤ書 33章3節

では、神が人を造った意図はなんだったのでしょう?

1. 人間は「神のいのち」を受けるために造られた

神のご計画の中で最も重要なポイントは、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。大切なのでもう一度いいます。、「人は神を受け入れるために造られた」ということです。

聖書は、人間の構造についてこう語ります。

📖 あなたがたの霊と魂と体とを守って… テサロニケ人への第一の手紙 5章23節

この聖書の言葉から、人間は 「体」「魂」「霊」 の3つの部分で構成されていることがわかります。

1. 体(からだ)

「体」は、私たちの物理的な部分、つまり目に見える肉体のことです。日常生活で使う手足や目、耳などがこれに当たります。体を通して、私たちは周囲の世界と接触し、感じ、行動します。

2. 魂(たましい)

「魂」は、私たちの内面的な部分を指します。具体的には、思考、感情、意志などが含まれます。例えば、喜びや悲しみを感じる心、何かを決断する力、物事を考える知性などが魂の働きです。魂は、私たちの個性や人格を形成し、自己意識や他者との関係性にも関与しています。

3. 霊(れい)

「霊」は、私たちの最も深い部分であり、神や霊的な世界とつながる部分とされています。霊を通して、私たちは神との交わりや祈り、礼拝など、霊的な活動を行います。霊は、私たちが神の存在を感じたり、霊的な真理を理解したりする際に働くと考えられています。

このように、聖書では人間を「体」「魂」「霊」の3つの要素からなる存在として描いています。それぞれが独自の役割を持ちながらも、互いに深く結びついており、私たちの全体的な存在を構成しています。

  • → 物理的な世界を感じる
  • → 思考や感情を持つ
  • → 神と交わるための器

「霊」という言葉は宗教的に聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば、人間が目に見えないもの(愛や希望、真理)を求める心の深い部分を指します。この部分こそが、神とつながるための器として造られました。

2. 人は神を入れる器

人間は単なる生き物ではなく、神を受け入れるために造られた器(うつわ) です。聖書は、人間の本質を「器」として説明しています。

📖 しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか?ローマ人への手紙 9章23節

例えば、わたしたちが普段使うコップやペットボトルは、水や飲み物を入れるために作られています。器自体は空っぽで、その目的は中身を受け入れ、保持し、必要に応じて提供することです。同じように、聖書では人間を「器」として描いています。これは、人間が神を内に受け入れるためにデザインされた存在であることを示しています。つまり、器が水を受け入れるように、人は神を内に入れるために造られたのです。このように、人間は単なる生き物ではなく、神との深いつながりを持つための特別な「器」として造られた存在なのです。

3. しかし、なぜ人は神を持っていないのか?

あなたが生きる目的を知らず、心の中に満たされない思いを抱えているのは、神とのつながりを持っていないからです。世の中には、神とのつながりを持つ人と持たない人の二種類がいます。一般的に、神とのつながりを持つ人をクリスチャン(キリスト者)と呼びます。

では、なぜ人は神を受け入れる存在として造られたのに、神とのつながりを持たない人がいるのでしょうか?それは、人が罪を犯し、その結果、神との関係が損なわれてしまったからです。この状態を聖書では「人の堕落」と表現します。人は自分中心の生き方を選んだ結果、心の中に空虚感やむなしさを感じるようになりました。

📖 空の空、すべては空である。伝道者の書 1章2節

多くの人は「わたしは罪を犯していない」と言います。しかし、わたしたちが認識している罪と聖書が啓示している罪の意味は大きくことなります。次の記事では、「人の堕落」というテーマで、聖書が啓示している罪とは何なのかを明らかにしていきます。

次の記事:「人の堕落 ― なぜ人は神から離れたのか?」