権威によって確証され、長い間保たれてきた、「聖書的でない実行」、それは二千年のキリスト教の歴史のうねりの中で、人の堕落した性質と弱さを浮き彫りにする悲しき痕跡です。その中のひとつにパンさきの実行があります。ウオッチマン・ニーとその仲間たちは聖書と現状を綿密に比較してギャップを見出し、人の誤りを曖昧にせず、聖書通り試すことを通して大いに祝福され、神のみこころを確信するに至りました。

(以下の内容は『今の時代における神聖な啓示の先見者ウオッチマン・ニー』という書籍に記載されているウォッチマン・ニー自叙の証しを引用しています。)

Ⅰ . パンさきの証 ウオッチマンニーの証し

A . 聖書的実行と現状とのギャップ

…一九二三年の前半になって、ある午後、わたしはバンさきの事で非常に悩まされました。聖書は、信者がパンをさくために集会して、常に主を記念するべきである、と言っています。それではなぜ今日の教会で、パンさきが行なわれるのは一年に数回だけなのでしょうか? 

B . パンをさいてもよいのは誰か

…このバンさきの問題で、長い間、わたしは聖書を調べました。牧師がこれを執り行なう必要があるのでしょうか? 按手礼を受けた者しかバンをさくことができないのでしょうか、それとも受けない者もさくことができるのでしょうか? わたしは多くの時間を費やして聖書を調べましたが、このようなことを見いだすことはできませんでした。牧師がバンさきを執り行なう事も、聖書にありませんでした。このこの時点で、わたしは非常に 戸惑いました。聖書は、わたしたちが常にパンをさいて主を記念するべきである、と言いますし、わたしもそれを望みましたが、そのようにバンさきをする所はありませんでした。

C . 主の導きのしるし

木曜日の午後の聖書研究会が終わって、わたしは友人の王兄弟に少し話し合いを求めました。わたしは、聖書によれば、常にパンをさいて主を記念するべきであるのに、救われてから一度もやったことがない、と言いました。また宗派には、明らかに神の子供でない人がおり、彼らとパンをさくことはできない、それにもう一つ問題がある、それは牧師以外の者がだれもパンをさくことができないことである、と言いました。わたしは彼に言いました、「あなたもわたしも牧師ではありません。だから真の信者が一緒に集まっても、わたしたちにはバンをさく資格がない、と彼らは言うでしょう。これはどんなものでしょう?」。この時、王兄弟はわたしの手を取って言いました、「神はわたしを導いてくださったのも、ちょうどこれと同じです。昨夜、わたしは眠れませんでした。実は、まさにこの問題で、信者がパンをさいてもよいのかどうか、牧師が必ず執り行なわなければならないのかどうかについて、わたしは祈り続け、主に尋ねたのです。わたしが祈って調べた結果、按手札を受けた聖職者だけがバンをさくことができる、と言っている箇所は、どこにもありませんでした」。これを聞いた時、わたしは本当に主に感謝しました。主はわたしたちを同じように導いてこられたからです。わたしたちは聖書に集会の原則をはっきり見たので、わたしはこう言いました、「今日始めるのが一番よいですね。この主日にパンさきを始めましょう」。

D . 人目に隠れた神の御前での決行

開始する時については定まりましたので、わたしたちは場所について話し合いました。わたしたちの家は比較的大きかったのですが、この事柄についてわたしがどう感じているか、まだ母に告げていませんでした。それは、わたしたち若い者が造反している、と思われないためでした。王兄弟は、女子校から家を借りて住んでいて、すぐに引っ越すので、あまり適当ではない、と言いました。わたしは、構わない、あなたの家で集会しよう、と言いました。その決定をした後、いよいよやってくる幸いな日を思うと、金曜日、土曜日には非常にうれしくなりました。主日の夜が来た時、わたしは母に、これから王兄弟の家に行くと知らせました。彼女は「何のために?」と尋ねたので、わたしは「あるとても重要な事をしに行きます」と答えました。その夜、わたしたち三人(王兄労、彼の妻、わたし)は、彼の小さな家で共にパンをさき、共に杯を飲みました。わたしは生きている限り、永遠に至るまでも、あの経験を忘れることはないでしょう。あの夜ほど、天が近かったことはありません! あの夜、天は地と離れていませんでした! わたしたち三人はみな、涙をこらえることができませんでした! あの日、わたしたちは、バンをさいて主を記念するとはどのような意味なのか、初めて知ったのです。幼いころは、 滴水礼を受けてから聖餐式にあずかっていました。その感想は、「パンは酸っぱい味がし、ぶどう液は少し甘い」 というぐらいでした。パンさきの意義など、何も理解していませんでした。わたしの知っていることは、パンは酸っぱく、ぶどう液は甘い、ただそれだけでした。しかしあの夜、王兄弟の家でわたしたち三人がパンをさいた時、これは神に対して最も尊いことであると知ったのです。この最初の時に、主を礼拝するとはどういうことか、 主を記念するとはどういうことかを知りました。わたしたちは、別の話をすることなく、ただ主を賛美し、ただ主に感謝するだけでした!

Ⅱ . パンをさく聖書的な日

A . 聖書を調べて

その最初の集会の後、次の集会をどうするか、ということになりました。ある宗派では、パンさきを三か月に一度しますが、わたしたちはどうしましょうか? 聖書は、常に主を記念するように言っています。使徒行伝第二章を見ると、パンをさくのは当時、毎日のことであったでしょう。使徒行伝第二〇章七節は、「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時」と言います。これはとてもはっきりしています。ですから、聖書の言葉を根拠に、わたしたちは毎主日にパンさきをすることに決めました。その日から、病気の時、旅行に出た時、思いがけない出来事で妨げられた時以外は、いつも主日ごとにパンをさきました。しばらくして、わたしたちがしていることを母親が知りました。彼女はただ、あなたがたは大胆すぎる、と言っただけで、反対はしませんでした。数か月して、彼女もわたしたちのバンさきに加わりました。

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

この本について 今の時代のおける神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー

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