「神の導きと計画を受け入れる勇気」

誰もが自分の人生において、何かしらの選択を迫られた瞬間があるでしょう。その選択は、時に希望に満ちていたり、時に恐れを伴ったりします。しかし、その選択が神の導きのもとで行われたとき、私たちはどんな道を歩んでも、最も確かな平安を得ることができるのです。

ウオッチマン・ニーの証しは、そのような神の力強い手がどれほど私たちの人生に深く関わり、私たちを形作っているのかを教えてくれます。彼が経験した救いと、主に仕える召しは、一般的なクリスチャンの生涯の開始ではありません。それは、命をかけた選択であり、神が与える真の自由と平安を知ることで生まれた新しい人生の始まりでした。

この証しを通して、私たちは彼の歩みの中に、どのようにして主が彼を導き、どれほど深く彼の心に触れてきたのかを知ることができます。それは私たち自身の信仰の歩みにも光を当て、神の呼びかけに応答する勇気を与えてくれるのです。

(以下の内容は『今の時代における神聖な啓示の先見者ウオッチマン・ニー』という書籍に記載されているウォッチマン・ニー自叙の証しを引用しています。)

Ⅰ. 出生の秘密ーハンナのような祈りに主が答える

わたしはクリスチャンの家庭に生まれました。わたしの上には二人の姉がいます。わたしの母が二人の女の子を生んだ時、父方の叔母は、うれしくありませんでした。なぜなら、わたしの叔母が、六人も続けて女の子を生んだからです。当時の中国の風習は、男子を重んじて、女子を軽んじました。ですから、母が二人の女の子を生んだ時、人々は、きっと叔母のように、男の子を生む前に女の子ばかりを生む、とうわさしました。その当時、 母親はまだはっきり救われていたわけではありませんが、どのように祈るかを知っていました。彼女は主に言いました、「もしあなたが男の子を与えてくださるなら、その子をあなたにささげます」。主はその祈りを聞かれ、 わたしが生まれました。後になって父は、「おまえが生まれる前に、お母さんは主におまえをささげると約束したんだよ」と話してくれました。

Ⅱ . 信じ召される二重の救い

わたしは一九二〇年、十七歳の時に救われました。わたしは救われる前、主イエスを自分の救い主として受け入れるかどうか、主のしもべとなるかどうか、心の中にかっとうがありました。多くの人が救われる時の問題は、 どのように罪から解放されるか、ということです。しかしわたしには、罪から救われることと生涯の事業とが、 一緒になっていました。もし主イエスをわたしの救い主として受け入れるなら、同時に必ず彼をわたしの主としなければなりません。彼はわたしを罪から救うだけでなく、この世からも救われるのです。その時、わたしは救われることを恐れました。なぜならいったん救われたなら主に仕えなければならないことを、知っていたからです。ですから、わたしの救いは二重の救いでなければなりません。主の召しをほおっておき、救いだけを望むことはできませんでした。主を信じて二重の救いを得るか、それとも両方とも要らないか、いずれかを決定しなければなりませんでした。わたしにとって、主を受け入れるとは、両方の事が同時に起こることでした。

Ⅲ . 栄光ある救い

一九二〇年四月二十九日の夜、わたしは一人で自分の部屋にいました。座っても横になっても、平安がありません。というのは、主を信じるべきかどうかという問題が、内側にあったからです。最初は、主イエスを信じない、クリスチャンにならない、と思いました。ところが信じないでいると、内側が不安になり、じっとしておれ なくなりました。そこでひざまずいて祈り出しましたが、初めのうち、祈りの言葉がありません。しかしそのうちに、多くの罪がわたしの前に現れたので、自分は罪人であることを知りました。これまでわたしの生涯で、このような経験をしたことはありません。わたしは一面、自分が罪人であることを見ました。またもう一面で、救い主を見ました。わたしは一面で罪の汚れを見、もう一面で、主の尊い血がわたしを清め、わたしを雪のように白くしてくださるのを見ました。わたしは十字架に釘づけられた主の両手を見、同時に主が両手を伸ばしてわたしを迎え、「わたしはここであなたを受け入れようと待っている」と言っておられるのを見ました。そのような愛に征服されたわたしは、もう拒むことができなくなり、彼をわたしの救い主として受け入れようと決心しました。かつて、わたしは主を信じる者たちをあざ笑っていましたが、その夜、わたしは笑うことができませんでした。それどころか、わたしは涙を流して罪を告白し、主の赦しを求めました。罪を告白した後、罪の重荷は下ろされ、軽やかで、内側に喜びと平安が満ちるのを感じました。この時、生まれて初めて、自分が罪人であることを知りました。この時、初めてわたしは祈り、そして初めて喜びと平安を経験しました。それまでにも、ある種の喜びや平安はありました。ところが、救われた後の喜びと平安は本物です。その夜、ただ一人いる部屋には光が満ちて、自分がどこにいるかもわからなくなりました。わたしは主に向かって言いました。「主よ、あなたは真にわたしを恵んでくださいました」。

Ⅳ . 将来の有望な前途が消え失せる

今、ここに座っている人たちのうちに少なくとも三人は、以前のわたしの同級生です。特に魏光禧兄弟は、わたしが以前、どんなに悪い学生であったか、同時に学校では、どんなにすばらしい学生であったかを、話しすることができます。悪い面では、よく学校の規則を破っていました。良い面では、神がわたしに生まれつき才能を下さったので、わたしはいつもどの試験でも一番でした。論文はよく掲示板に手本として張り出されました。その時わたしは若く、多くの大きな夢と、前途に多くの計画を持っていました。そして、自分の判断は健全であると思っていました。へりくだって言いますが、努力しさえすれば、自分の達したい目標に到達できると思っていました。わたしの同級生たちも、このことを証ししてくださるでしょう。ところが救われた後、多くの新しい事がわたしに起こりました。これまでの計画していたことがみな泡と化し、終わってしまいました。わたしの前途も、ことごとく消え去りました。別の人には、これは容易であるかもしれませんが、多くの理想、夢、計画のあるわたしには、容易ではありませんでした。わたしは救われた夜から、新しい生活を開始しました。なぜなら、永遠の神の命がわたしの中に入ったからです。

わたしの救いと主に仕える召しは、同時でした。その夜から、わたしは一度も召されたことを、疑ったことはありません。あの時に、わたしの前途ははっきり定まりました。一面で、主はわたしをわたしのために救われました。しかしもう一面で、主はご自身のために救われました。主は、わたしに彼の永遠の命を得させるだけでなく、彼に仕え、彼と同労することも願われたのです。わたしは幼いころ、何が伝道かを知りませんでした。成長するにつれて、自分の目には、それが世の中で一番くだらない、卑しい職業であると思うようになりました。そのころの伝道者は、ほとんどがヨーロッパやアメリカの牧師に雇われていました。彼らは牧師たちの言うままに従う低級な人たちで、月にわずか八、九ドルもらうだけでした。わたしは伝道者になるつもりは根本的になく、クリスチャンになるつもりさえありませんでした。わたしが以前には、卑しめた、くだらない、低級と思っていた伝道という職業に携わるようになろうとは、全く想像さえしなかったことです。…                           

参考書籍

今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房

この本について 今の時代のおける神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー

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