ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は、どちらも「律法」を扱いながら、まったく異なる角度から語っています。ローマ書は福音の大きな土台として律法を明らかにし、ガラテヤ書は律法主義に傾いた人々を立ち返らせるため、力強く論じています。私たちは知らないうちに律法を「正しい生き方の基準」として受け入れ、そこに安心を求めがちです。しかし、その固定された基準こそが、かえって人を縛る原因となります。この点に気づくとき、キリストにある真の自由の価値が見えてきます。

Ⅰ. ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙の中の律法

新約聖書の中の二つの書は、特に律法という題目を取り扱っています。それはローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙です。ローマ人への手紙は宣言が中心となっており、ガラテヤ人への手紙は議論が中心となっています。ローマ人への手紙の中で、パウロ自身が主題を紹介し、また幾つかの積極的な宣言をします。ガラテヤ人への手紙の中では、パウロはすでに紹介された主題を取り扱います(ガラテヤ人たちは、 ユダヤ宣教者たちの影響をすでに受けていました)。パウロは、現存する状態を正すために、律法という題目を議論を交えて取り扱います。

Ⅱ . クリスチャンが陥りやすい律法主義

A . 律法の束縛を見る

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロは律法の下に来る重大さに関して強い声明をしています。例えば、 彼はこのように言います、「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離され、無にもたらされています」(5・4)。ガラテヤ人たちは、簡単に律法主義のえじきになってしまいましたが、 わたしたちも彼らと同様、そのようになりがちです。律法に対する自分の束縛を見ることができないクリスチャンが大勢います。彼らは、律法を生活の基準として見ているにすぎないからです。もし彼らが律法の束縛を一度も見なければ、彼らはキリストの中にある自由を決して見ることはないでしょう。

B . 固定された基準

律法は単に基準であるだけではありません。それは固定された基準です。わたしたちが若かったころ、 わたしたちの年齢や能力にしたがって、体育の先生が高飛び用の棒の位置を上げたり下げたりしました。基準は固定されておりませんでした。それは調整できるものでした。成長の余地があり、成長が欠けているためゆとりが加えられました。しかしながら、律法の基準は固定されています。一方では、成長が欠けていても譲歩はありません。他方では、一定の点に達すると、それ以上の発展の余地はありません。旧約の時代に、律法によって決められた基準にだれかが到達しようとしても、そのような基準には到達することができませんでした。なぜなら、固定された律法は、ある点を超えて進む可能性をすべて排除するからです。律法の基準は設定されているため、律法の順守は結果的には束縛になってしまいます。クリスチャン生活の初期の段階においては、わたしたちは律法の基準はあまりにも高いと感じるかもしれませんが、後になると、あまりにも低すぎると感じるようになります。

わたしたちの主は次のように言われました、「昔の人たちに・・・・・・と言われたことを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う・・・・・・」(マタイ5・21-22)。

律法とは何でしょうか? それは、主が過去に話されたものです。
命とは何でしょうか? それは、主が今日話されるものです。

C. 過去の基準

律法への束縛とは何でしょうか? それは、過去の基準に固執することです。律法からの自由とは何でしょうか? 消極的な観点からは、それは主が過去に話されたものによって設定された固定したすべての基準から解放されることです。積極的な観点からは、主の現在の語りかけに従う自由です。聖霊の導きは、キリストの中のわたしたちの自由です。主の過去の命令に従ってわたしたちが生活の基準を固定するやいなや、わたしたちは律法の束縛の下に置かれてしまいます。聖霊の導きは、全く最新です。それはいつも生きておりいつも新しいものです。主の現在の命令でない命令はどんなものでも、命の中にありません。主が昨日語られたものを今日の基準にしようとすると、それは束縛と死になってしまいます。わたしたちが命の基準を固定したり、規則や規定を設定するやいなや、聖霊の自由はなくなります。固定されている律法は、ある一定の点を超える成長のための備えをすることができません。わたしたちが主の命令を、それが与えられた時とは別のどんな時にも当てはまる基準として受け入れると、わたしたちは成長を制限することになります。キリストの中の命は、律法の基準のようにではなく、永遠に前進するものです。命の基準は、いつでも変更や調整がされてもよいものです。

D . 過去に語られた言葉

律法とは何でしょうか? それは昔の人たちに対して言われたものです。昔の人たちとは、わたしたちが聖書の中で読む人たちだけではありません。ある人が、このような言葉を聞いたことがあります、「その問題は、ダービーの時代に解決されました」。ジョン・ネルソン・ダービーは「昔」の人です。過去の「あなた」と「わたし」は 「昔の人たち」です。主がわたしを導いて今日それを行なうようにされるので、わたしが一か月前に行なったことを今日行なうのであれば、これは命です。しかし、主がわたしを一か月前に導いてそれを行なうようにされたので、わたしが一か月前に行なったことを今日行なうのであれば、これは律法です。律法は一日古い場合もあり、一週間、一か月、何世紀も古い場合さえあります。しかし、聖霊の導きは、二十四時間古いことは決してあり得ません。もしわたしたちが、昨日正しいと証明されたことにしたがって行動するなら、わたしたちは律法に束縛されています。わたしたちは、聖霊の自由を失っています。

多くのクリスチャンは、キリストの中の自由は行動する自由であると考えます。
それは違います! それは成長する自由です。

わたしたちが律法の固定した基準から解放されると、わたしたちは自由に成長でき、わたしたちの成長は遮られることはなくなります。

Ⅲ . 聖霊に導かれる自由

A . 過去の基準と言葉からの解放

「昔の人たちに・・・・・・と言われたことを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う」

(マタイ5・21-22)。これらの言葉は、山上の説教の聞き手に適用されるだけでなく、わたしたちにも同様に適用できます。それは、メッセージの最中になされた単なる声明ではありません。それは、いつも適用できる一つの原則です。「昔の人たちに・・・・・と言われたことを」は律法です。「しかし、わたしはあなたがたに言う」は命です。キリストの中の自由とは、主が自由にどんな時でも生活の新しい基準を設定できて、わたしたちは自由にどんな時でも新しい基準に順応することができることです。霊的な自由とは、 わたしたちが好きなことを何でも行なう自由ではありません。それは、たとえ現在の戒めが過去の戒めと矛盾するように思えても、主の過去の戒めから解放され主の現在の戒めに従う自由です。キリストの中の自由は、わたしたちが聖霊の導きに従う能力において束縛されないために、正否についての承認された規則から解放されることです。わたしたちが、生活のための一つの許容規則を決めるやいなや、わたしたちは律法の束縛の下に置かれてしまい、働きの原則によって自分の生活を送ってしまいます。過去の基準を維持することは、極めて容易なことです。しかしながら、主はわたしたちが自由に主ご自身に従っていき、 過去のものより高いものを確立するようにされました。主は、わたしたちの命の度量にしたがい、日ごとに基準を調整しておられます。そういうわけで、わたしたちは毎日、聖霊の新鮮さの中で生きなければなりません。神の子たちはだれでしょうか? 彼らは、神の霊に導かれている者たちです(ローマ8・14)。

聖霊の導きは自由です。律法の束縛の下には導きはありません。

B . 現在の新鮮な言葉を求める

神の子供たちの間に盲目が多くあります。それは、彼らが生活のはっきり定義された基準を持っているからです。彼らは、主の言葉によって自分の生活を形づくっていますが、その言葉は主が昔語られたものであり、主が今日語っておられるものではありません。彼らは自分の過去のビジョンによって、目が見えなくされています。彼らが過去に見たものが、主が今日彼らに見せたいと思っておられるものを見ることを妨げています。例えば、この国に宣教師たちがいます。彼らは十年前に中国へ行く召しを受けました。 彼らはその古い召しに基づいて、今日中国で働いています。彼らは、古いビジョンに従っています。彼らは、「昔の人たち」になっており、律法の束縛の下に置かれています。何年も前に彼らに向けて語られた言葉は死んでおり、その基準に従うことは死です。彼らは、聖霊の中の今日の命の新鮮さに欠けています。 キリスト教は、非常に新しく実に生き生きしているものです。悲しいかな、わたしたちは自分が知っているよりもはるかに律法に近づいて生活しています。わたしたちの主は、律法の固定された基準を満足させるために十字架上で死んでくださいました。その結果、もはやわたしたちは律法の要求を満たす責任はなくなりました。今日もしわたしたちが律法の新しい基準を立てるなら、わたしたちは十字架のみわざを無効にしているのであり、わたしたちはのろわれてしまいます。

C . 主が喜ばれるものなら何でも自由に行なう

キリストの中の命の潜在力は無限ですから、わたしたちは正否のどんな基準もあえて立てることはしません。そうでないと、わたしたちは自分の進歩を制限してしまうことになります。わたしたちの未来はあまりにもすばらしいので、命のためのどんな固定された規則も設けることはできません。しかし、律法から自由にされることは、わたしたちが自分の好きなように何でも行なうことではなく、わたしたちは主が喜ばれるものなら何でも自由に行なうことであることを、はっきり理解しなければなりません。主が今日言われることを自由に行ない、主が昨日言われたことを自由に行なわないことです。律法の束縛から救い出されるということは、文章化された律法への義務から解放されることです。それはわたしたちが、「キリスト・イエスの中の命の霊の法則」(ローマ8・2)である内住の法則に従うことができるようになるためです。「・・・・・・と言われた。しかし、わたしはあなたがたに言う」。わたしたちが自分の好きなことを行なうために、主はわたしたちに自由を与えられません。しかし、主は現在の語りかけの生きた言葉によって、 わたしたちを過去の語りかけの死んだ文字から解放してくださいます。今日、主の語りかけがあるに違いありません。

まとめ

律法からの自由とは、単に規則から解放されて好きに生きることではありません。それは神の過去の言葉に固執せず、今語られる生きた導きに従うことです。聖霊の導きは常に新しく、人を成長へと導きます。固定された基準に頼ると命の成長は止まってしまいますが、主の現在の語りに応答する時、いのちは豊かに前進します。このようにして人は、真の自由の中で神のいのちを経験し続けることができます。

参考書籍

「特別集会、メッセージ、談話の記録(六)」ウオッチマンニー全集 第二期 第四十六巻
出版元:日本福音書房

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