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この記事の出典:台湾福音書房出版の『唱詩人』(中国語)第一巻第一期のコラムPP4-5。
元記事:『初信者を成就するメッセージ(一)』第15編。『ウオッチマン・ニー全集』の第三期第四八巻にも収録されています。

詩の感覚

一人の人が神の器で学べば学ぶほど、その人の感覚はますます細やかに、柔らかに、詩のようになります。

聖書:詩104:33、エペソ5:19、マタイ26:30、使徒16:25

詩篇104:33
わたしは生きている限り、エホバに歌い、
なおも長らえる限り、わたしの神に詩篇を歌います。

エペソ5:19
詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい.

マタイ26:30
そして彼らは詩歌を歌ってから、オリブ山へ出かけた。

使徒行伝16:25
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りながら、神に賛美の詩歌を歌っていた.囚人たちは彼らに聞き入っていた。

聖句の出典:日本福音書房『回復訳聖書』2015年9月版

 人は主を信じたなら、必ずどのように詩歌を歌うかを学ばなければなりません。クリスチャンが集会に来て、もしどのように詩歌を歌うかを知らないとしたら、それはとても大きな問題です。集会において、祈りはいつもおろそかにされがちですが、おそらく詩歌を歌うことはもっとおろそかにされがちでしょう。ですから、わたしたちは詩歌を歌うことを学ばなければなりません。わたしたちは音楽家になる必要はありませんが、詩歌を認識することができるようになることを望みます。これは重要なことです。

 聖書の中には、預言があり、歴史があり、教理があり、教えがあり、命令がありますが、聖書の中には詩歌もあります。詩歌は、人の最も細やかな感覚が流れ出たものです。人が神の御前で祈る感覚も、人が神の御前で詩歌を歌う感覚の細やかさと柔らかさには及びません。神はわたしたちに細やかで柔らかな感覚を持ってほしいため、聖書の中でわたしたちに各種の詩、多くの詩を与えておられます。詩篇、雅歌、哀歌があるだけでなく、歴史や戒めの中でさえも、時には少し詩が加えられています(出15:1-18、申32:1-43)。パウロの書簡でさえ、その多くの教えの中に幾つかの詩がはさみ込まれています(ローマ11:33-361テモテ3:16など)。これが示していることは、神の目的は、神の民の感覚が細やかで柔らかになることであるということです。

 わたしたちの主の感覚は、細やかで柔らかです。しかし、わたしたち人の感覚は、細やかでもあり、また雑でもあります。怒ったり腹を立てたりするのは、粗雑な感覚です。ある人は怒らないとはいってもその感覚が細やかであるとは限りません。神はわたしたちに愛、慈しみ、あわれみ、同情を求められます。なぜなら、そのような感覚は細やかであるからです。神は、わたしたちが困難の中にあって詩歌を歌うことができるようにと、痛みの中にあって賛美し、神の御名をほめたたえることができるようにと求められます。それは、これらがみな細やかで柔らかい感覚の表示であるからです。人が人を愛する時、その感覚は柔らかいです。人が人を赦す時、その感覚は柔らかいです。人が人をあわれむ時、その感覚は柔らかいです。

 神がご自身の子たちの歩む道を導かれる時、彼らの感覚がますます細やかに、ますます柔らかに、ますます詩のようになってほしいのです。一人の人が神の器で学べば学ぶほど、その人の感覚はますます細やかに、柔らかに、詩のようになります。一人の人の神の御前での学びが少なければ少ないほど、その人の感覚は粗雑になり、詩のようではなくなります。一人のクリスチャンが集会に来て、もし大きな足音をたてて歩き他の人の感覚など少しも顧みないなら、その人は学んでいるクリスチャンのようではありません。彼はそこで詩歌を歌っているかもしれませんが、それは詩のようではありません。もし一人の人が集会の中に入ってきて、ここでちょっとぶつかり、あそこでちょっとぶつかって、あげくの果てはいすにぶつかって倒してしまうなら、彼は詩歌を歌う人のようではありません。わたしたちが救われて以来、神はわたしたちの感覚を日一日と訓練し、細やかで柔らかにしたいのであるということを、わたしたちは知らなければなりません。良いクリスチャンになるためには、細やかで柔らかい感覚がなければなりません。神の御前の最も深い所から流れ出てくる感覚こそ、その人の詩の感覚です。神はご自身の子たちに、細やかで柔らかい感覚を要求されます。わたしたちに荒っぽい感覚があってはなりません。荒っぽい感覚は詩ではありません。荒っぽい感覚はクリスチャンのものではありません。

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 クリスチャンの詩は、わたしたちに霊的で繊細な感覚を持たせます。わたしたちが神の御前で少し学ぶことができますように。もしわたしたちが細やかに神の御前に行くなら、わたしたちは神とさらに親密に交わることができます。神に感謝します。永遠の世においては、すべての感覚はみな細やかで優しいものでしょう。天上の賛美は地上の祈りよりもっと多いことを、わたしたちは知っています。祈りは過ぎ去ります。しかし、永遠の世では賛美が満ちるでしょう。その日すべての感覚はみな細やかで優しくなっているでしよう。その日は最も甘く、最も楽しい日でしょう。

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