【公開の手紙】裁きの座の前の光の下での再評価|アンドリュー・ユー兄弟

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【公開の手紙】裁きの座の前の光の下での再評価

親愛なる兄弟姉妹たち、

「主イエスが再臨される日が近づいているため、わたしたちは多くの事を裁きの座の光の中で再評価する必要があります」

上の言葉はニー兄弟が1928年1月の復興新聞の第一期に掲載した『公開の手紙』で書かれた冒頭の言葉でした。この言葉から92年が経過した今、主イエスの再臨の日はますます近づいています。今日、わたしたちの周りで起きていることから、主の再臨はどの時代よりも近いことを感じます。

1. すべての事を「裁きの座の前の光の下で再評価する」

世界情勢の不安定、世界的な疫病の蔓延、人々は恐れ慌てており、環境は制御不能になり、経済は危機に陥りました。すべてのことから、この世代はある転換点に差しかかっていることがわかります。このような厳粛な状況で、わたしたちは「再評価」すべきです。過去の評価基準はもう使用することはできません。かつて良いと思っていたようにそのまま生活を続けてはなりません。かつての人生の目標も現在の目標となってはなりません。かつての計算方式も今日の計算方式として使用することはできません。すべてのすべては「改めて裁きの座の前の光を通して評価される必要があります」。すなわち、すべてにおいて主の再臨とこの世代の終結の観点から評価する必要があります。かつての召会生活、かつての奉仕、かつての生活スタイルをすべて見直し、再評価する必要があります。

2. わたしたちは自分の生活を再評価する必要があります

わたしたちは生活を再評価する必要があります。主は「思い煩ってはならない」、「まず神の王国と神の義を求めなさい」と言われました(マタイ6:33-34)。わたしたちはすべてのことにおいて神に信頼し、地上で天幕の生活をし、地上に根を張らず、天に宝を蓄えているでしょうか? それとも、明日のことを思い煩っているでしょうか? 青年は卒業、就職、結婚、家庭のために思い煩い、中年はキャリア昇進、来年度の業績などを思い煩います。壮年の方は健康、貯蓄、そして子供と孫との関係に思い煩うでしょう。わたしたちは再評価する必要があります。

パウロは人々に罪から離れて主に向くように呼びかけましたが、主は人々に金銭から離れて主に従うように呼びかけました(マタイ6:24)。多くの人は富を得る福音を伝えますが、主は富を失う福音を宣べ伝えました。この世代は末期に来ています。主が再臨される一つのしるしは、この世の人が富を蓄えることです(ヤコブ5:3)。十人のおとめは「この世から出て行き」花婿を迎えます(マタイ25:1、フットノート5)。収穫物が、「地に属す水分が干され」、熟して刈り取られます(啓14:15、フットノート2)。

3. しかし、「金銀はわたしにはない」と言えることだけ効力があります!

リー兄弟は1942年12月23日、煙台での大復興の前日に彼の日記に書きました、「今日のように生活が困難な時こそ、わたしたちは何を食べるべきか、何を飲むべきか、何を着るべきかと思い煩ってはなりません。なぜなら、これらのことはこの世の人が切に求めていることだからです。わたしたちは神の王国、神の義のみを顧みる必要があります。この世の人が今日、着るものと食べるものに欠けているのは、自分の生活しか顧みず、神の王国と神の義を少しも顧みていないからです」。「今日の地上は何とみじめなことでしょう! 人々の内側はさらにみじめな状態となります! 多くの魂が滅びていきます(毎日のことです)! 多くの魂は極みまで苦しんでいます! しかし、教会は果たすべき機能を失っています……このような状況になったのは、これまでの献身が徹底的ではなかったからです」。「わたしたちが静かにしており、主の王国を開展する志もないため、主の福音を押し広める大胆さと能力もなくしています。活発な信仰がなく、恐れているのは、徹底的な献身に欠けているからであり、完全に主のために生きていないからです! わたしたちは完全に主のために生きているなら、ペテロがペンテコステで行なったのと同じように、ペテロのようにこのように、「イエス・キリストの御名の中で立ち上がり、歩きなさい」と言うことができるでしょう。しかし、このように言うためには、「金銀はわたしにはない」(6節)と言うこともできなければなりません。

4. わたしたちの存在は主の御前において時代の意義を持っているでしょうか?

わたしたちはわたしたちの今日の生活を再評価する必要があります。時代の価値はあるでしょうか? 主の御前で時代の意義を持っているでしょうか?

このような生活を保つためには、日々霊によって満たされる必要があります。風船は満たされなければ、浮かぶことができません。なぜわたしたちには多くの徹底的な祈りが必要なのでしょうか? わたしたちを内側から外側まで満たされるためです。なぜわたしたちは罪を告白し悔い改める必要があるのでしょうか? なぜならそれは霊によって満たされる条件であるからです。日々、霊に充満され充溢する生活がなければ、時代の価値のある生活を持つことはできません。おとめが花婿を迎える条件は器が満たされていることです。わたしたちは時をとらえるためには、霊で満たされなければなりません

5. 実際的に天幕の生活をし、王国の福音を人が住む全地に宣べ伝え広める

最近、外側の状況はますます厳しくなり、内側ではますます感覚が沸いてきます。神の子供たちはこのような時期にこそ、この世から根を抜き、天幕の生活を送る必要があります。移民のメリットは過去の背景と切り離すことができることです。ただ神の信仰を仰ぎ見て生活をすることを学びます。王国の宣べ伝えはこの世から切断することから切り離すことができません。使徒行伝第8章の迫害によって、すべての使徒は根っこから抜かれ、各地へと散らされ、主が第1章の委託を行動に移しました。王国の福音が人の住む全地に宣べ伝えられるには、まず王国の生活をする必要があります。主の再臨が具体的に表されるためには、マタイによる福音書第25章のおとめたちのように「この世から出ていく」必要があります。150年前に恵みの福音は中国に伝えられたのは、その世代で主はもうすぐ再臨されることが見い出されたからでした。福音はその世代に全世界に宣べ伝えられました。今日、王国の福音は人が住む全地に宣べ伝えられる必要があります。なぜなら、主の再臨の日が近いからです。このような瀬戸際であるからこそ、わたしたちは残りの日々をどのように過ごすかを再評価する必要があるのではないでしょうか? 古い関係を断ち切り、実際に天幕の生活をし、福音のために生き、主のために行動すべきではないでしょうか?

6. わたしたちは召会生活も再評価する必要があります、バイタルグループのメッセージは28年前に解き放たれました

このような時だからこそ、わたしたちは召会生活も再評価する必要があります。主がわたしたちの召会生活に対して満足しているかどうかを問わず、まずわたしたちは自分自身が自分の今の召会生活に対して満足しているかどうかを自問する必要があります。そうです、わたしたちには素晴らしい真理があります、長年慣れてきた召会生活もあります。しかしわたしたちはこのような召会生活は神の必要に満たしているかどうか、主の再臨を迎えることができるかどうかを再評価する必要があります。わたしたちがいる召会の人数は増えているのでしょうか? 活力はあるでしょうか? 

リー兄弟は1992-93年に当時の召会生活に対して大きな不満があったため、バイタルグループのメッセージを語られました。それは、当時の召会生活の枠組み以外から勝利者を生み出し、死、なまぬるさ、実を結ばないという三つの敵から抜け出すためでした。しかし、メッセージは語られましたが、実行はありませんでした。あれから28年経ち、各地の召会生活は緩やかに前進してきましたが、なおも「集会」を基本とし、人を集会に連れてくることを道とし、人が多く集められることを重じています。主の再臨の光の中で、このような生活は再評価される必要はあるのかどうかを考えて見てください。

7. さらに多く「集会」から「人」へ、「来る」から「行く」へ、「大」から「小」へと転向すべきではないでしょうか?

疫病が蔓延して以来、兄弟姉妹たちの行動が不自由になり、集会が中止となって、インターネットを通して交わるしかありませんでした。しかし、このような過程の中で、兄弟姉妹たちはこのような新しい形式の召会生活を好んでいることが気づきました。インターネットを通してとりなし、交わり、新人を顧みるなど、すべての人が機能を果たすことができ、有機的な生養教建を実行しました。実はこれこそリー兄弟が言っていたバイタルグループです。すなわち、すべての人が機能し、祭司となることです。多くの新人が救われ、集会をしていなかった人を再び接触することができました。多くの地方で人数が増え、肢体が活かされている状況が現れました。これはキリストのからだが建造される本来の道です。もちろん、疫病が終息したら集会をやめると言っているのではありません。しかし、疫病によってもたらされた新しい状況はわたしたちにとってこれまでの召会生活を再評価するに値するではないでしょうか? さらに多く「集会」から「人」へ、「来る」から「行く」へ、「大」から「小」へと転向すべきではないでしょうか?

8. わたしたちの奉仕を再評価し、すべての一タラントを地から掘り出す必要があります

主の再臨の光の中で、わたしたちの奉仕も再評価する必要があります。奉仕の最終の目的は、人を成就することです。務めの働きは聖徒を成就することです。務めを果たしキリストのからだを建造します。今日のわたしたちの働きは、働きを起こすことではなく、人を作り出すためでなければなりません。今日の働きの成果はどれほど働きを行ったのではなく、どれほど人を作り出したのかを見るのです。厳密に言うと、今日のわたしたちの働きは働くことではなく、分業をするのです。わたしたちがどれほど働いたのではなく、他の人がどれほど働いたことが重要です。マタイ第25章の奴隷の例えは、わたしたちにどれほど守ったかではなく、どれほど複製できたかに注意するように促しています。五タラントは五タラントを成就し、二タラントは二タラントを成就することができました。ですから、彼らは評価されました。そして一タラントの人は人を成就することができず、暗やみに放り出されました。主が再臨される時はわたしたちと清算します。

今日、主の再臨の光の中で、わたしたちの奉仕を再評価する必要があります。裁きの座の光の中で、わたしたちの奉仕は認められるでしょうか? 良い忠信な奴隷は自分の分を固守するのではなく、複製する人です。邪悪で怠惰な奴隷は自分の奉仕を放棄した人ではなく、複製することができなかった人です。召会、バイタルグループにおいても、わたしたちの責任は人を成就し、それぞれの機能を果たさせ、キリストのからだを建造することです。わたしたちはすべての知恵を尽くして人を成就する必要があります。すべての使えないと思う人を使う必要があります。すべての一タラントを地から掘り出す必要があります。彼らの財物をこの世に埋めることがありませんように。命の成長は徐々に進みますが、財物の運用はすぐにできます。主の再臨の光の中で、わたしたちはわたしたちの奉仕を測定し、それは主の基準に満たしているかどうかを考える必要があります。

9. わたしたちの働きを再評価する必要があります。維持的か開拓的であるか、静止的か動態的であるか?

最後に、主の再臨の光の中で、わたしたちは働きを再評価する必要があります。ここには二つの基本的な問題があります:「わたしたちの働きは維持的か開拓的であるか? 静止的か動態的であるか?」です。前面の兄弟たちはわたしたちに模範を残してくださいました。つまり絶えず動くことであり、前に向かって進み続けることです。日中戦争が始まった時、ニー兄弟は「開かれた門」とういう雑誌を創刊しました。彼は同労者たちに「今は環境を対処するのではなく、各地に行って福音を宣べ伝え、主の証を開展する必要があります」と言われました。同労者たちは一つの場所にとどまるべきではなく、全地に行くべきです。今日の東南アジアの主の証も実はこの時によって興されたのでした。

主の証しは台湾で70年以上経ちました。リー兄弟は当初から、台湾から始め、全地へ拡散されることを願っていました。今日のような非常な時期において、わたしたちはわたしたちの働きの方向を再評価すべきではないでしょうか? 実は、台湾だけでも、また召会のない町が多くあり、開展される必要があります。海外の必要はいうまでもないでしょう。わたしたちが自分の国を固守する時ではありません。全地という視点を持って王国の福音を述べ伝える必要があります。主が再臨されるまで、あなたは自分の国を固守するつもりですか? アブラハムは故郷から離れなければ、神の地上においての行動も始まることができませんでした。聖書がわたしたちに与えたのは使徒本伝ではなく、使徒行伝です。最近は、三回の24時間の祈りと30日間の全世界の祈りの実行の後、中国のある兄弟は祈りの中で雷と稲妻を経験し、直ちに献身をし、工場ごとを東南アジアの召会のないところに移民をしました。これは主の働きの前兆ではないでしょうか?

主よ、わたしたちに今という時を見極めて、主の行動に協力できるようにさせてください。全地が未曾有の課題に直面している時、わたしたちの生活、集会、奉仕、働きにおいて、主の来臨の光の中で、すべての事を再評価することができますように。

アンドリューユー兄弟
2020年5月29日